朝日新聞6/08付社説は、大阪府の日の丸・君が代起立斉唱条例の成立に関連させて、次のように締めくくる。
「橋下知事は、自ら設立した政党で議会の過半数を押さえ、首長と第1党が一体となって物事を決めていこうとしている。/だが多数派の首長政党が少数意見に耳を貸さなければ、議会は形骸化する。/多数決主義は民主主義の基本である。一方で、多数を握る側が少数派の声をくみあげ、多くの人が納得できる結論に収斂させていく作業を怠れば、議会制民主主義は成り立たない」。
「議会制民主主義」のはずの国政については、朝日新聞はこう主張すべきであることになろう。
<菅直人首相は、自ら設立した政党で議会(衆議院)の過半数を押さえ、首相と第1党が一体となって物事を決めていこうとしている。/だが多数派の民主党が少数意見に耳を貸さなければ、議会は形骸化する。/多数決主義は民主主義の基本である。一方で、多数を握る側が少数派の声をくみあげ、多くの人が納得できる結論に収斂させていく作業を怠れば、議会制民主主義は成り立たない。>
このような主張を、朝日新聞は国政について行なってきたか?
相変わらず嗤わせる。
なお、朝日の上の社説は「地方自治は、予算案の提出や執行権をもつ首長と、チェック機能や議決権をもつ議会がそれぞれの立場で責任を果たす二元代表制をとっている」と書いている。
「二元代表制」と「議会制民主主義」は矛盾しないかの書きぶりだが、この二つはそうではあるまい。はしなくも、この点でも、朝日新聞社説執筆者の見識の甘さ・いいかげんさを露呈しているようだ。
議会制民主主義
「行政刷新会議」なるものによる「事業仕分け」なるものには、よく解らないことが多すぎる。
一 まず、「行政刷新会議」とはいかなる行政機関なのか?
憲法上、「予算を作成して国会に提出すること」は内閣の職務とされている(73条五号)。その内閣の職務を内閣総理大臣が代表?して行い、その手伝いをしているのが、従来は主として財務省(財務大臣)だったところ、現政権においては「行政刷新会議」なのだろう。
それはそれでよいとして、では、「行政刷新会議」なるものの設置根拠はどこにあるのか?
国家行政組織法によると、国の「行政機関」である「省、委員会及び庁」の設立には法律の定めが必要だが(3条)、この「会議」にはそのような法的根拠はないと見られる。
国の組織・機構に関して国のHPを見てみても、「行政刷新会議」は正確には位置づけられていない。官邸HPのトップに突如として「行政刷新会議」なるものが現れる。そしてどうやら、つぎの<閣議決定>に設置根拠はあるようだ。
「行政刷新会議の設置について 平成21年9月18日閣議決定
1 国民的な観点から、国の予算、制度その他国の行政全般の在り方を刷新するとともに、国、地方公共団体及び民間の役割の在り方の見直しを行うため、内閣府に行政刷新会議(以下「会議」という。)を設置する。
2 会議の構成員は、以下のとおりとする。ただし、議長は、必要があると認めるときは、構成員を追加し、又は関係者に出席を求めることができる。
議長 内閣総理大臣
副議長 内閣府特命担当大臣(行政刷新)
構成員 内閣総理大臣が指名する者及び有識者
3 関係府省は、会議に対し、関係資料の提出等必要な協力を行うものとする。
4 会議の事務は、内閣府設置法第4条第2項の規定に基づき、内閣府が行うこととし、内閣府に事務局を設置する。
5 会議は、必要に応じ、分科会を置くことができる。
6 前各項に定めるもののほか、会議の運営に関する事項その他必要な事項は、議長が定める。」
閣議決定は法律でも政令でもない(省令でもない)。「国民の皆さま」を代表する議員によって構成される国会によって承認されてはおらず、行政権かぎりでの事実上の決定にすぎない。これによる機関・「会議」の設置が違法とまでは言えないだろうが、そのような機関・「会議」がそのような位置づけにふさわしい仕事だけをしているかが問題になりうる。
だが、担当大臣(仙石某)まで置かれ、事実上であれ、予算案編成作業に関して重要な役割を果たしているようだ。むろん法的には、そこでの作業は内閣総理大臣や内閣を法的に拘束しない、たんなる<たたき台>にすぎない、と説明されるのだろう。
だが、たかがそんな組織にしては、(とくにその<仕分け作業>に)マスコミは注目しすぎているのではないか。また、民主党や政府の側も、たかが一つの準備作業を<オープン>にすることによって<ショー>・<パフォーマンス>化して、政治的には自らに有利な方向に利用しようしているのではないか。それに引っ掛かっているマスメディアも見識が不足しているというべきだ。
二 ますます不思議なのは、<仕分け人>の位置づけだ。
上の設置要綱(閣議決定)によると、「議長〔内閣総理大臣〕は、必要があると認めるときは、構成員を追加」することができ、また、「構成員」は「内閣総理大臣が指名する者及び有識者」とされている。
気になるのは、第一に、国会議員、すなわち枝野某や蓮某らが、<仕分け人>として仕事をしており、どうやら少なくとも「分科会」の構成員であることだ。
内閣によって提出された予算案を議決して正式の予算とするのは国会の仕事だ。
ということは、彼ら国会議員は(上の二人に限らない)、予算案の作成の準備作業に参画し、かつ最終的には国会議員として、予算に関する議決にも関与することになる。この後者の権限・任務は当然だが、そのような権限・任務・職責を持つ者が、そもそも同時に前者、つまり事前の作成作業にまでかかわってよいのか??
たとえば、事前の段階で<仕分け人>として持って(<仕分け>会議で)公にした見解(特定の事業補助費等の予算配分への賛否等々)と矛盾する案が最終的には内閣によって決定され、国会に提出された場合、彼らはどういう態度をとるべきか?、という問題が生じうる、と考えられる。
むろん、見解・意見は変わりうるものだとして、かつては反対した予算配分を含む予算案全体に賛成することは法的に禁じられるわけでもあるまい。
だが、そもそも、このような問題を生じさせるようなことをすること、つまり副大臣でも政務官でもない国会議員を、「行政刷新会議」(の分科会?)の構成員とすること自体が適切とはいえないのではないか??
屋山太郎は、これまた政治家による行政官僚統制だとして肯定的・好意的に評価するのかもしれないが、ここで生じているのは、立法府(法律制定者・予算決定者)の一員と、行政府(予算案作成・「行政刷新会議」)の一員との兼職であり、国会と行政権との間の混淆あるいは区分の崩壊であるように思われる。
これは議会制民主主義の範疇を超えている、というのが私の直感的感想だ。
第二に、<仕分け人>の中には、民間人も入っている。「有識者」とされているのだろう。この民間人の「参加」はどのように考えられるべきものだろうか。
審議会類に民間人が学識経験者として入ることはよくあることだが、その場合、非常勤の「公務員」として扱われる。そして、「行政刷新会議」の<仕分け人>もそのように位置づけられるのだろう。
だが、マスコミによって大きくとり挙げられるわりには、いかなる基準・資格認定によって、一定の民間人が<仕分け人>として採用されているのかは、さっぱり分からない。議長=内閣総理大臣(鳩山)も副議長(担当大臣=仙石)も、この点を何ら明らかにしていないように見える。
こんな曖昧な選任方法によって仕分け人とされた者に、華々しく話題にされるような仕事をさせてよいのか?
あるいは、これは予算編成作業の過程への<市民参加>なのだろうか。だが、予算編成作業編成過程の透明化や何らかの「国民」参加がかりに必要であり、少なくとも違法ではないとしても、現在行われている専門家?民間人の「参加」が、そのための十分に必要な条件を満たしているとは思えない。
何ゆえに、いかなる理由でもって、特定の民間人(専門家?)が仕分け人に選任されているのか、その基準がさっぱり分からず、公にされていない、と思われるからだ。
第三に、ますます訳が分からないことがあることがある。仕分け人の中には碧眼の欧米人も入っている。きちんと確認していないが、その人物は日本人、すなわち日本国籍をもつ者なのか??
かりに外国籍の者だとするとそのような者に、日本国の予算案作成(編成)過程に関与させてよいのか?? これに関与して意見を言う資格(・権利)は国政参加権にもとづく一票(投票権)の行使よりも大きいというべきだ。
この疑問はすこぶる大きい。いかに「友愛」だとて、「地球市民」感覚だとて、外国人には日本の予算案策定事務に「参加」する<資格>も<権利>もなく、これらを与えてはならないだろう。
三 以上のような種々の疑問をもつが、大(?)新聞である産経新聞を含めたマスメディアがこのような問題について説明したり解説したりしているのを読んだり見たりしたことはない。
野党・自民党もまた、このような観点からの批判はまるでしていないようだ。ただ<ショー的>だ、と指摘しているだけで、重要な政治的・法的問題がある、という問題意識はないように見える。
重要な政治的・法的問題がある可能性がある、という問題意識が全く希薄であるようなのは、大(?)新聞である産経新聞を含めたマスメディアも同じ。評論家たちの意見はよく知らない。
国会(立法府)と行政権(府)の議会制民主主義における適切な協働と緊張関係を超えた融合は、むしろ危険視すへきだ。
国会(議会)・行政権の一体化と、それらを背後で実質的に制御する政党(共産党)、というのが、今もかつても、<社会主義>国の実態だった。
そこまで大げさな話にしなくてもよいが、<行政刷新会議>とそこでの<事業仕分け>なるものには、何やら怪しさ・奇妙さと覚束なさがつきまとう。
大マスコミも、多数いるはずの政治・行政評論家も(憲法研究者を含む学者はもちろん)、以上のような疑問に答えてくれていないようであることこそ、まさに異常なことではないか。成りゆき、ムードに任せてはいけない。
一 屋山太郎の発言を記録に残しておく。
8/30総選挙の投票日前、産経新聞8/27付「正論」で次のように書いた。
①「今回の総選挙の意義は官僚が政治を主導してきた『官僚内閣制』から、政治家が政治を主導する『議会制民主主義』に変われるかどうかに尽きる」。「…より熱心に脱官僚政治、天下りの根絶を主張している民主党が政権をとったときの方が期待できる、と私は考えていた」。「民主党の掲げる政策をあげつらえば、外交・安保も含めて内政面でも多々ある。しかし肝要なことは日本が先ず議会制民主主義の本道に立つことである」。
同じく投票日直前発行の月刊WiLL10月号(ワック)p.24-25でこう書いた。
②「今回の選挙の最大のテーマはこれまでの官僚内閣制をやめて、正真正銘の議院内閣制を確立できるかどうかである。重ねていうが、官僚内閣制の存続を許すかどうか、議院内閣制を選ぶかの『体制選挙』なのである」。「『体制選択』のバロメーターは『天下り』『渡り』禁止にどれくらい熱心かである」。
民主党政権成立後の産経新聞9/17付「正論」欄でこう書いた。
③「民主党政権誕生によって、明治以来続いてきた『官僚内閣制』がいよいよ終わろうとしている。官僚内閣制は官僚が良かれと思う政治が行われることで、民意を反映した民主主義とは根本的に異なる。民意を汲み上げることを日本ではポピュリズムと非難する。しかし民意とほとんど無関係に政治が行われていることを国民が実感したからこそ、自民大敗、民主圧勝の答えを出したのではないか」。「民主党の『官僚内閣制』から『議会制民主主義』へ脱却するための仕掛けは実によく考えられている」。「日本の民主主義は官僚にスポイルされていたのだ」。
同じく、月刊WiLL12月号(ワック)p.22-23でこう書く。
④「鳩山政権誕生とともに…事務次官等会議が廃廃止された」。「明治の『官僚内閣制』を象徴するシステム」の存続は「日本は純然たる民主主義国ではなかったこと」を意味する。「自民党支持者のほとんどはそもそも国家経営の基本が間違っているという自覚がなかった。大衆は賢明だったというべきだ」。
二 屋山は、総選挙の最大争点は(平たくは)「『天下り』『渡り』禁止にどれくらい熱心か」だと書き、あるいは「官僚内閣制」か「議会制民主主義」かだ、と主張してきた。そして、民主党勝利・民主党政権誕生を歓迎し又は当然視し、「大衆は賢明だったというべきだ」とする。
この近視眼的な争点設定・評価に対する批判はすでに書いた。
あらためて別の書き方をすると、第一に、この人は、「政治」の一端には詳しくても<政治思想・哲学>・<社会・経済思想>に関する教養・知識は乏しいのではないか。第二に、そもそも、コミュニズム(共産主義・社会主義)あるいは中国・北朝鮮(の存在)をどう評価しているのか、不明だ。そして、第三に、この人が現在目指す最大の価値は「民主主義」になっていると見られる。それでよいのか。
屋山において、価値序列、重要性の度合いの判断に誤りがある、と感じる。
屋山は、だが、こう書いていた。-「民主党の掲げる政策をあげつらえば、外交・安保も含めて内政面でも多々ある。しかし肝要なことは日本が先ず議会制民主主義の本道に立つことである」。
民主党の政策には「外交・安保」等々多くの問題があるが、最優先されるべきは、「議会制民主主義」の確立だ、と言うのだ。
以下、この点に論及する。
三 民主党(政権)が自民党(政権)と異なり、「議会制民主主義」の確立に向かう、と観るのは、幻想だと思われる。
第一。この概念は議会(国会)と政治・行政の関係に関するものだ。したがって、<政治・行政>の内部でいかに「政治(家)主導=官僚排除」となっても、それは議会制民主主義の基本問題ではない。副大臣・政務官は、国会議員が同時に広義の<行政官僚>になった、と理解すべきものだ。
「政治(家)主導=官僚排除」と<議会制民主主義>の確立・充実は同義ではない。
第二。民主党政権下における<議会制民主主義>の軽視・無視の徴候はすでに見られる。
①「議員立法」を(民主党議員については)廃止するとか。これは、憲法に違反すると解される。
②衆議院では(参議院でも)民主党は政府に対する「代表質問」をしなかった(参議院では与党社民党の質問はあった)。これは、政治・行政(=広義の「行政)」の中に民主党議員(政治家)が入っているので無意味という趣旨なのだろうが、国会と政府(政治・行政)間の良好な緊張関係をなくすもので、国会軽視だと考えられる。
その他、<議会制民主主義>の問題ではなく、「政治(家)主導=官僚排除(脱官僚)」の問題だが、次の現象も―周知のとおり―生じている。
すなわち、屋山太郎は争点は「『天下り』『渡り』禁止にどれくらい熱心か」だと説いたが、日本郵政(株)の社長人事は、「天下り」した元(財務省)官僚の「渡り」そのものではないか?
屋山に問いたいものだ。
①「天下り」・「渡り」禁止は退官後いつまで通用するのか。まだ5年では禁止され、15年経っているともう適用されないのか?
②退官後の期間の長短にかかわらず「有能」で「適材適所」ならよいのか。客観的資料(報道)を引用できないが、鳩山由紀夫(首相)か平野博文(内閣官房長官)は「民主党の政策を支持する(=~に服従する)」元官僚ならばよい、とも述べていた。これでは、せっかくの<「天下り」・「渡り」禁止>も泣く。実質的な基本政策放棄だろう。
③日本郵政(株)はかつての公社・公団等、今日の独立行政法人等々に比べて<公的>性格の弱い会社だから、今回の人事は許されるのか? だが、民営化方針を見直し、今後は<公的>性格を高めるというのだから、この理由は成立し難いのではないか。
おそらくは、屋山太郎の期待・願望に反する事態がこれからも発生してくるだろう。
<「天下り」・「渡り」禁止>問題自体になお議論すべき余地があるが、この問題はいずれにせよ、まだマイナーな問題だ。
四 民主党政権下で生じそうなのは、<議会制民主主義>の確立・充実ではなく、国会と政府の一体化、つまりは、ますますの<行政国家>化ではないかと思われる。「行政国家」概念を屋山が知らなければ、政治学・行政学の辞典・教科書でも参照されたい。この現象は、(あいまいな言葉だが)民主党(小沢?)「独裁」につながっていく可能性がある。
あるいは、鳩山由紀夫(首相)は<市民参加>を肯定的に評価し、推進したい旨を喋っているが、これは議院内閣制=議会制民主主義=代表制民主主義とは矛盾しうる、<直接民主主義>の要素の拡大を肯定することでもある。
かりに<議会制民主主義>に論点を絞るとしてすら、屋山太郎は大局を観ていない。
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