秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

講和条約

2258/R・パイプス・ロシア革命第二部第14章第1節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第二部(第9章が最初)第9章〜第13章(<ブレスト=リトフスク>)の試訳が終わり、第14章へ。原書p.606〜。
 節の区切りは空行挿入と冒頭文字の太字化で示されているにすぎないし、本文には表題はなく、表題らしきものは全体目次(CONTENTS)の中に示されているにとどまる。したがって、「節」と称して「見出し」を掲げるのも原書そのままではない。
 一文ずつで改行し、本来の改行箇所には「//」を記入し、かつその間の段落ごとに本文・原書にはない番号を付す。
 ――――
 第14章 国際化する革命。
 休戦の達成は今や全世界を征覇することを意味する。
 ―レーニン、1917年9月。(1)//
 第一節・ロシア革命への西側の関心の小ささ。
 (1)やがてロシア革命はフランス革命以上にすら世界史に対して大きな影響を与えることになるけれども、それが最初に惹いた注目はフランス革命よりもはるかに小さいものだった。
 このことは、二つの要因によって説明することができる。一つはフランスが持っていた重要性、二つは二つの事件の時機の違いだ。//
 (2)一八世紀後半のフランスは、政治的かつ文化的にヨーロッパの指導的大国だった。ブルボン朝は大陸の最も古い王朝で、王政絶対主義の具現物であり、フランス語は洗練された文化的社会の言語だった。
 最初は、その強い権力はフランスを揺るがせた革命の態様を歓迎した。しかしすぐに、革命は自分たち自身の地位に対する脅威でもあることを悟った。
 国王の逮捕、1792年9月の虐殺、そして専政王制打倒という諸外国に対するジロンド派の訴えは、革命はたんなる統治形態の変更以上のことを意味することに疑問の余地を残さなかった。
 戦闘が繰り返され、ほとんど四半世紀つづき、ブルボン朝の復活で終わった。
 拘禁されたフランス国王の運命に対するヨーロッパの君主たちの関心は、彼らの権威が正統性原理に依拠しており、この原理が民衆(popular)の主権の名でいったん放棄されれば彼らの誰も安全ではおれないとすれば、よく理解することができる。
 確かにアメリカ植民地は早くに民主主義を宣言していたが、アメリカ合衆国は海外の領域にあり、大陸にある指導的大国ではなかった。//
 (3)ロシアはヨーロッパの周縁部に位置し、半分はアジアで、圧倒的に農業国だったので、ロシア国内の展開が自分たちの関心にとって重要だとはヨーロッパは決して考えなかつた。
 1917年の騒動は確立した秩序に対する脅威ではなく、むしろロシアが遅れて近代に入ることを画するものだと一般には解釈された。//
 (4)史上最大で最も破壊的な戦争の真只中で起きたロシア革命は自分たちに関係する事件ではなく戦争中の逸話にすぎないという印象をその時代のヨーロッパ人が持ったことによつて、このような無関心はさらに増大した。
 ロシア革命が西側に惹起させた興奮はこの程度のものにすぎなかったので、関心はほとんど軍事作戦に対するあり得る影響についてのみ生じた。
 連合諸国と中央諸国はともに、異なる理由によつてだったが、二月革命を歓迎した。前者は人気のない帝政が除去されたのはロシアの戦争意欲を活成化させるだろうと期待し、後者はロシアが戦争から退去することを望んだ。
 十月革命は、もちろんドイツには大喝采で迎えられた。
 連合諸国には入り混じった受け取り方があったが、間違いなく警戒していなかった。
 レーニンと彼の党は見知らぬもので、そのユートピア的構想と宣言は真面目には受け取られていなかった。
 趨勢、とくにブレスト=リトフスク以降のそれは、ボルシェヴィキはドイツが産み出したものであって対立が終わるとともに舞台から消えるだろうと見なすことだった。
 ヨーロッパ諸国の全ての政府は例外なく、ボルシェヴィキ体制の生存能力とそれがヨーロッパの秩序にもたらす脅威のいずれについても過小評価していた。//
 (5)こうした理由で、第一次大戦が終わる年にもそれに続く講和条約の後でも、ロシアからボルシェヴィキを除去する試みはなされなかった。
 1918年11月まで、諸大国は互いに戦い合っていて、離れたロシアでの展開に気を煩わせることができなかつた。
 ボルシェヴィズムは西側文明に対する致命的脅威だとの声は、あちこちで挙がっていた。とくにドイツ軍の中で強かったのは、ボルシェヴィキによる宣伝と煽動活動に最も直接に接する経験をしていたからだった。
 しかし、ドイツですら最終的には考えられ得る長期的脅威に対する関心を抑えて、直接的な利益を考慮するのを選んだ。
 レーニンは、講和後に交戦諸国は勢力を結集して自分の体制に対する国際的十字軍となって攻めてくるだろうと確信していた。
 彼の恐怖は根拠がなかったと判った。
 イギリスだけが反ボルシェヴィキ側に立って積極的に干渉したが、それは本気ではなく、一人の政治家、ウィンストン・チャーチルが主導したものだった。
 干渉の努力は真剣には追求されなかった。西側での和解に向かう力が、干渉を呼びかけるそれよりも強かったからだ。そうして、1920年代初めまでに、ヨーロッパ諸国は共産主義ロシアと講和を締結した。//
 (6)しかし、かりに西側がボルシェヴィズムに大きな関心を抱かなかったとしても、ボルシェヴィキは西側に熱い関心を持った。
 ロシア革命は、それが発生した元の国に限られつづけはしないことになる。ボルシェヴィキが権力を奪取した瞬間から、それは国際的な次元を獲得した。
 ロシアの地理的な位置によってこそ、ロシアは世界大戦から孤立していることができなくなった。
 ロシアの多くはドイツの占領下に置かれた。
 やがてイギリス、フランス、日本そしてアメリカが偶発的にロシアに上陸したが、極東地方で戦闘を起こそうという試みは虚しく終わった。
 より重要だったのは、革命はロシアに限定されてはならず、限定されることもできない、という、そして革命が西側の産業諸国に拡大しない限り破滅するという、ボルシェヴィキの確信だった。
 ペトログラードを支配したまさにその日に、ボルシェヴィキは平和布令を発した。それは、外国の労働者たちに、ソヴェト政権が「その決意を、―労働者、被搾取大衆をあらゆる隷従性とあらゆる搾取から解放するという任務を、首尾よく達成できるよう」、立ち上がって助けることを強く呼びかけるものだった。(2)//
 (7)これは、階級闘争という新しい言葉は用いられなかったが、全ての現存する政府に対する闘争の宣言であり、のちに頻繁に繰り返されることとなる主権国家の内政問題に対する介入だった。
 レーニンは、そのような趣旨が彼の意図であることを否定しなかつた。「我々は、全ての国の帝国主義的略奪への挑戦を却下してきた」(3)。
 全てのボルシェヴィキは外国での内乱を促進し―訴え、助言、破壊、および軍事的援助によって―、そしてロシア革命を国際化するよう努める。//
 (8)外国の政府によって市民を反乱や内戦へと誘発することは「帝国主義的略奪」に対して現物でもって報復する全ての権利を与えるものだった。
 ボルシェヴィキ政府は国際法を無視して国境の外から革命を促進することはできなかったし、同時に、同じ国際法に対して外国権力が自国の内政問題に介入しないよう訴えることもできなかった。
 しかしながら、実際には上述の理由で、諸大国はこの後者の権利を活用することをしなかった。どの西側の政府も、第一次大戦中もその後も、ロシアの民衆に対してその共産主義体制を打倒するよう訴えかけなかった。
 ボルシェヴィズムの最初の数年の間にこのように限られた干渉しか行われなかったのは、もっぱら彼らの個別の軍事的な利益のためにロシアを役立たせようとする願望を動機とするものだった。//
 --------
 (1) Lenin, PSS, XXXIV, p.245.
 (2) Dekrety, I, p.16.
 (3) Lenin, PSS, XXXVII, p.79.
 ―――
 第一節、終わり。第二節の目次上の表題は、<赤軍の設立>。

2253/R・パイプス・ロシア革命第二部第13章第15節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。原書、597頁~600頁。
 毎回行っているのではないコメント。1918年のムルマンスクへの連合国軍(とくにイギリス)の上陸はしばしば<ロシア革命に対する資本主義国の干渉>の例とされている。しかし、以下のR・パイプスの叙述によると、何のことはない、当時の種々の可能性をふまえてのトロツキーらボルシェヴィキの要請によるもので、間違いなくレーニンも是認している。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
 ---- 
 第15節・連合国軍がロシアに初上陸。
 (1)レーニンはドイツの諸条件に従ったが、ドイツをまだ信頼してはいなかった。
 彼はドイツ政府内部の対立に関する情報を十分に得ており、将軍たちが自分の排除を強く主張していることを知っていた。
 そのため、レーニンは、連合諸国との接触を維持し、ソヴィエトの外交政策を彼らのよいように急激に転換する用意があると約束するのが賢明だと考えた。//
 (2)ブレスト条約が調印されたが批准はまだのとき、トロツキーは、アメリカ合衆国政府への伝言を記したつぎの文書を、ロビンスに手渡した。
 「つぎのいくつかの場合が考えられる。a)全ロシア・ソヴェト大会がドイツとの講和条約を批准するのを拒む。b)ドイツ政府が講和条約を破って強盗的収奪を継続すべく攻撃を再開する。あるいは、c)ソヴィエト政府が講和条約を破棄するように-批准の前または後で-、そして敵対行動を再開するように、ドイツの行動によって余儀なくされる。
 これらのいずれの場合でも、ソヴィエト権力の軍事的および政治的方針にとってきわめて重要なのは、つぎの諸質問に対して回答が与えられることだ。
 1) ソヴィエト政府がドイツと戦闘する場合、アメリカ合衆国、大ブリテン(イギリス)、およびフランスの支援をあてにすることができるか?
 2) 最も近い将来に、いかなる種類の支援が、いかなる条件のもとで用意され得るだろうか?-軍事装備、輸送供給、生活必需品は?
 3) 個別にはとくにアメリカ合衆国によって、いかなる種類の支援がなされるだろうか?
 4) 公然たるまたは暗黙のドイツの了解のもとで、またはそのような了解なくして、日本がウラジオストークと東部シベリア鉄道を奪うとすれば、それはロシアを太平洋から切り離し、ソヴィエト兵団がウラル山脈あたりから東方へと戦力を集中させるのを大いに妨害することとなるだろう。この場合、連合諸国は、個別にはとくにアメリカ合衆国は、日本軍がわが極東の領土に上陸するのを阻止し、シベリア・ルートを通じてロシアとの安全な通信連絡を確保するために、どのような措置をとるつもりだろうか?//
 アメリカ合衆国政府の見解によれば、-上述のごとき情勢のもとで-イギリス政府はどの程度の範囲の援助を、ムルマンスクやアルハンゲルを通じて確実に与えてくれるだろうか?
 イギリス政府は、この援助を行い、それでもって近いうちにイギリス側はロシアに対して敵対的行動方針をとるという風聞の根拠を喪失させるために、いかなる措置をとることができるだろうか?//
 これらの質問の全ては、ソヴィエト政府の内政および外交の政策は国際社会主義の諸原理と合致すべく嚮導される、またソヴィエト政府は非社会主義諸政府の完全な自立性を護持する、ということを自明の前提条件としている。」(82)//
 この文書の最後の段落が意味したのは、ボルシェヴィキは、助けを乞い求めているまさにその諸政府を打倒する闘いをする権利を留保する、ということだった。//
 (3)トロツキーがこの文書をロビンスに渡した日、彼はB・ロックハートと会話した。(83)
 トロツキーはこのイギリス外交官に対して、近づいているソヴェト大会はおそらくブレスト条約の批准を拒否し、ドイツに対する戦争を宣言するだろう、と言った。
 しかし、この事態が起きるためには、連合諸国はソヴィエト・ロシアを支援しなければならなかった。
 日本の大量の遠征軍がドイツと交戦すべくシベリアに上陸する可能性を連合諸国政府に伝えるべきだと暗に示唆しつつ、トロツキーは、そのようなロシアの主権の侵害は連合諸国との全ての信頼関係を破壊するだろう、と語った。
 ロックハートはトロツキーの発言をロンドンに知らせつつ、こうした提案は東部前線での戦闘を活性化させるよい機会を与える、と述べた。
 アメリカ大使のフランシスは、同じ意見だった。彼はワシントンに電信を打って、連合諸国が日本に対してシベリア上陸計画をやめるよう説き伏せることができれば、ソヴェト大会はおそらくブレスト条約を拒否するだろう、と伝えた。(84)
 (4)もちろん、ソヴェト大会が条約の批准を拒否する可能性は、きわめて乏しかった。ボルシェヴィキが多数派を占めることが定着しているにもかかわらず、レーニンが苦労して獲得した勝利をあえて奪い去ることになるからだ。
 ボルシェヴィキは、本当に怖れていたことを阻止するために餌を用いた。-怖れたこととはすなわち、日本軍によるシベリア占領と、反ボルシェヴィキ勢力の側に立っての日本のロシア問題への干渉だ。
 フランス外交官のヌーランによると、ボルシェヴィキはロックハートを信頼していたので、ロックハートが暗号を使ってロンドンと連絡通信するのを許した。そうしたことは、公式の外国使節団ですら禁止されたことだった。(85)
 (5)連合諸国との友好関係によって生じた最初の具体的結果は、3月9日に連合諸国の少数の分遣隊がムルマンスクに上陸したことだった。
 1916年以降、約60万トンに上る軍需物資がロシア軍に対して送られ、その多くについては支払いがなかったのだが、その軍需物資は輸送手段が不足しているために内陸には送られず、そこに蓄積されていた。
 連合諸国は、この物資がブレスト=リトフスク条約の結果としてドイツ軍の手に入るか、ドイツ=フィンランド軍勢力によって分捕られることを、怖れた。
 連合諸国はまた、ペチェンガ(Pechenga, Petsamo)付近をドイツ軍が奪取して、そこに潜水艦基地を建設するのを懸念していた。//
 (6)連合諸国による保護を求める最初の要請はムルマンスクのソヴェトによるもので、3月5日に、ドイツ軍に援助されていると見られる「フィンランド白軍」がムルマンスクを攻撃しようとしている、とペトログラードに電報を打った。
 当地のソヴェトはイギリス海軍と接触し、同時に、ペトログラードに対して、連合諸国に介入を求めることの正当化を要請した。
 トロツキーはムルマンスク・ソヴェトに、連合諸国の軍事援助を受けるのは自由だ、と知らせた。(86)
 こうして、ロシア国土に対する西側の最初の干渉は、ムルマンスク・ソヴェトの要請とソヴィエト政府の是認によって行われた。
 レーニンは1918年5月14日の演説で、イギリスとフランスは「ムルマンスクの海岸を防衛するために」上陸した、と説明した。(87)
 (7)ムルマンスクに上陸した連合諸国の部隊は、数百名のチェコ兵のほか、150名のイギリス海兵たち、若干のフランス兵で構成されていた。(88)
 その後の数週間、イギリスはムルマンスクの件について、モスクワとの恒常的な連絡通信関係を維持した。不幸にも、その意思疎通の内容は、明らかにされてきていない。
 両当事者は、ドイツとフィンランドの両軍がこの重要な港湾を奪取するのを阻止すべく協力した。
 のちに、ドイツの圧力によって、モスクワはロシア国土に連合諸国軍が存在することに抗議した。しかし、トロツキーとの緊密な関係を保っていたフランス外交官のサドゥールは、自国政府に対して、心配する必要はない、とこう助言した。//
 「レーニン、トロツキーおよびチチェリンは、現在の情勢のもとで、連合諸国との同盟する希望をもって、イギリス・フランスのムルマンスク上陸を受容している。これはドイツに講和条約違反だと抗議する言い分を与えるのを阻止するために行われたと理解されていて、彼ら自身は連合諸国に対して純粋に形式的な抗議を表明するだろう。
 彼らは素晴らしいことに、北部の港湾とそこにつながる鉄道を、ドイツ・フィンランドの危険な企てから守ることが必要だと理解している。」(89)
 (8)第四回ソヴェト大会の前夜、ボルシェヴィキは第7回(臨時)党大会を開いた。
 緊急に招集された、46名の代議員が出席したこの大会の議題は、ブレスト=リトフスク条約に集中していた。
 口火を切った、とくにレーニンの不人気な立場を防衛する親密なグループの議論からは、国際法および他国との関係に関する共産主義者の態度について、きわめて稀な洞察を行うことができる。
 (9)レーニンは、左翼共産主義者に対して、力強く自分を擁護した。(90)
 彼が最近の事態を概述して聴衆に想起させようとしたのは、ロシアで権力を奪取するのがいかに容易だったか、そしてその権力を組織化して維持するのがいかに困難であるか、だった。
 権力を掌握する際に有効だと分かった方法を、それを管理するという骨の折れる任務に単純に移し替えることはできない。
 レーニンは、「資本主義」諸国との間の永続的な平和などあり得ないこと、革命を世界に拡大することが必須であること、を承認した。
 しかし、現実的でなければならない。西側の産業ストライキの全てが革命を意味するわけではない。
 全くの非マルクス主義者ではむろんないが、レーニンは、後進国であるロシアに比べて、民主主義的な資本主義諸国で革命を起こすのははるかに困難だ、と認めた。//
 (10)これらは全て、聞き慣れたことだった。
 目新しいのは、平和と戦争という主題に関する、レーニンのあけすけな考察だ。
 レーニンは、指導的な「帝国主義」権力との永遠の講和をしたのではないかと怖れる聴衆に対して、あらためて保証した。
 まず、ソヴィエト政府は、ブレスト条約の諸条項を破る意図をつねに持っている。実際に、すでに30回か40回かそうした(たった3日間で!)。
 中央諸国との講和は、階級闘争の廃止を意味していない。
 平和はその性質上つねに一時的なもので、「力を結集する機会」だ。「歴史が教えるのは、平和は戦争のための息抜きだ、ということだ」。
 別の言葉で言うと、戦争が正常な状態であり、平和は小休止だ。すなわち、非共産主義諸国との間の永続的な平和などあり得ず、敵対関係の一時的な停止、つまり停戦があるにすぎない。
 レーニンは、続けた。講和条約が発効している間ですら、ソヴィエト政府は-条約の諸条項を無視して-新しいかつ力強い軍隊を組織するだろう。
 彼はこのように述べて、是認することが求められている講和条約は世界的革命の途上にある迂回路にすぎないと、支持者たちを安心させた。//
 (11)左翼共産主義者たちは、反対論をあらためて述べた。しかし、十分な票数を掻き集めることはできなかった。
 条約を是認するとの提案は、賛成28、反対9、保留1で、通過した。
 レーニンはさらに、党大会に対して、秘密決議を採択するよう求めた。この秘密期間未定のままで公表されない決議は、中央委員会に、「帝国主義者やブルジョア政府との間の平和条約をいつでも無効に(annul)する権限、および同様に、それらに宣戦布告する権限」を、与えるものだった。(92)
 ただちに採択され、のちにも公式には撤回されなかったこの決議は、ボルシェヴィキ党中央委員会の一握りの者たちに、彼らの随意の判断でもって、ソヴィエト政府が加入した全ての国際的協定を破棄する権能、およびいずれかのまたは全ての外国に対して宣戦布告をする権能を与えた。
 -------------
 (82) J. Degras, Documents of Russian Foreign Policy, I(London, 1951), p.56-p.57. 文書の日付は、1918年3月5日。
 (83) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.82-4.
 (84) 同上, p.85-6.
 (85) J. Noulens, Mon Ambassade en Russie Sovietique, II(Paris, 1933), p.116.
 Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.161-2.を参照。
 (86) NZh, No.54/269(1918年3月16日/29日), p.4.; D Francis, Russia from the American Embassy(New York, 1922), p.264-5.
 Brian Pearce, How Haig Saved Lenin(London, 1988), p.15-p.16.
 (87) NS, No.23(1918年5月15日), p.2.
 (88) NZh, No.54/269(1918年3月16日/29日), p.4.
 (89) 1918年4月12日付手紙、in: Sadoul, Notes, p.305.
 ドイツによる圧力につき、Lenin, in: NS, No.23(1918年5月15日), p.2.
 (90) Lenin, PSS, XXXVI, p.3-p.26.
 (91) Lenin, Sochineniia, XXII, p.559-p.561, p.613.
 (92) KPSS v rezoliutsiiakh i resheniiakh s"ezdov, konferentsii iplenumov TsK, 1898-1953, 第7版, I(Moscow, 1953), p.405.; Lenin, PSS, XXXVI, p.37-8, p.40.を参照。
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 第15節、終わり。この章には、あと第16節・第17節がある。

0546/稲田朋美の二つの説に大賛成-同他・日本を弑する人びと(PHP)全読了。

 渡部昇一=稲田朋美=八木秀次・日本を弑する人びと(PHP、2008.06)を、全読了。中西輝政=八木秀次の対談本より面白い。
 何よりも、稲田朋美とはこんなに知識がありこんなに語れる人物なのか、と感心した。衆院福井一区の人たちは、この人をずっと当選させ続けなければならない。
 書いたことがあるように、司法試験合格者(従って弁護士・裁判官等の専門法曹)のたいていは日本の歴史、天皇制度の歴史、天皇・皇室の現況等などの知識をもっていない(軍事問題の知識も当然に、ない)。そんなことに関心をもっていれば、試験早期合格は覚束ないだろう、と思われる。にもかかわらず、稲田の知識・理解・見解はいったいいつ・どこから得たのか、不思議に思うほどだ。国会議員として現実感覚にも優れ、八木秀次よりも「上」の人だろう。
 必ずしも一般的ではないだろう私の見解と同じ理解を、稲田が示してくれている論点が少なくとも二つある。
 第一に、講和条約(1951。翌年4/28発効)11条の「-を受諾し…
」の「-」につき「(東京)裁判」ではなく「(諸)判決」の意味で、そう訳すべきという主張がかなり(<保守>派の中には)あるようだが、「裁判」でも「(諸)判決」でも本質的に変わりはない旨を書いたことがある。
 稲田朋美も、どちらに訳そうと「第11条の解釈に変わりはないと考えている」と明言している(p.140-1)。そして、なぜこの「受諾」条項が置かれたかというと、同条の全体から見て、戦犯とされ有罪(拘禁)判決を受けた者の現実の「拘禁」状態を維持することを(国際社会に復帰するために)対外的に<約束>しておくためだった、と理解しているが、稲田も殆ど同じことを述べている(p.141)。
 参考までに同条を掲げる。
 第11条「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷のjudgementsを受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。」
 そして、この条文にいう「…一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基」き、「拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる」ということが、1000名以上の「戦犯」について、後年に実際に行われたのだ。そしてその中から、のちに大臣になった者まで現れたのだ。
 上の「judgementsを受諾」は、基本的には上のような趣旨(=拘禁刑の執行の「約束」の論理的前提)しかない。諸判決の細かな事実認定・評価に日本国家が永久に拘束されるいわれは全くない。
 論じるとすれば、「judgements」とは判決主文だけなのか判決理由を含むのか、だと思うが、稲田によると、政府答弁(2005.6.02)は、判決理由も含むとしているようで(p.140)、かつ稲田もこれに異議を唱えてはない。判決主文だけなのか判決理由を含むのか、というのは論点ではないのかな、となお感じてはいるが。
 関連して思い出すのは、安倍内閣時代に、民主党の岡田克也が、条約の法的効力は(国内)法律に優先する、という学生時代か司法試験勉強中に憶えたのだろうことを持ち出して、だから(東京裁判遵守の)講和条約の方が国内法律による赦免や犯罪者扱いしない等の措置よりも重たい(優位に立つ)という旨を主張して安倍首相に対して質問していたことだ。一般論としての効力関係はそうだとしても、問題は、そもそもの講和条約11条の存在意義・意味の解釈に分かれがあることにあるのに、ズレた質問をしている、と感じたものだった(岡田は、当時の野党も含めて賛成した、東京裁判「戦犯」を犯罪者扱いしないことを前提とする法律制定・改廃は国際法違反で無効とでも主張するのか?)。
 第二は、これまで書いたことがなく、昨年に憲法九条が同条二項も含めて憲法改正権の限界の中に含まれるかにつき、常岡せつ子という憲法学者らしき者の「大ウソ」について何回か書いたあと、4月頃に天皇制度に関係のある書き込みをしていて考えたことだ。すなわち、日本(・天皇制度)の長い歴史から見て、<天皇制度>の廃止をするような憲法改正は許されない、つまり憲法改正権の限界を超えるのではないか。
 現憲法1条は「…この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と規定していて、立花隆をはじめとして、「日本国民の総意」でもって(憲法改正により)廃止(廃絶)できると解釈する者も多いようだ。憲法改正権の限界を論じる中で天皇条項におそらく全く言及していない憲法学説も、少なくとも通説又は圧倒的多数説は、そのように解釈しているのかもしれない。
 だが、稲田朋美は次のように明言している。-「憲法一条の象徴天皇を憲法改正の対象とすることは許されないと私は思っています」(p.207)。
 これには肯定的な意味で、驚いた。私もそのように主張したい。そして、憲法学界は、この論点もまともに論じるべきだ、と言いたい。
 「…この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という部分は、現憲法の制定者がそのように=日本国民の総意に基づくものだ、と理解して、天皇を国家と国民統合の「象徴」と位置づける、という意味だけのことで、「日本国民の総意」によって<どのようにでもなる>と解釈するのは、政治的に歪んだ、他国にはない日本国家の特性を完全に無視した議論(解釈)だ、と考えられる。
 稲田は上の見地から、自民党の憲法改正草案の「象徴天皇はこれを維持する」との文言も不適切だと指摘している(p.207-8)。その理由も含めて、尤もだと支持したい。
 だが、稲田朋美の発言のうち一つだけ違和感をもったのは、この人が「二千六百五十年以上」続く天皇制度・皇位継承等と、何度も強調していることだ(p.208-9)。
 中国の文献を信頼して日本の古代文献は信用しないというのでは全くないが、神武天皇即位が「二千六百五十年以上」前だったと<信じて>もよいが<事実>だったと認識はできないだろう、と思っている(但し、のちに神武天皇と称されたような人物の不存在までを主張するつもりはない)。この点はまた別の雑談の機会にでもさらに書くが、旧皇族の後裔・竹田恒泰も、同・旧皇族が語る天皇の日本史(PHP新書、2008)の例えばp.69-71で、神武天皇は「二千六百五十年以上」前に即位した、この頃に活躍した人物だった、とは一切書いておらず、むしろ三世紀前半(1750年余以前)説を有力な考え方の一つとして語っている、ということだけ記しておきたい。

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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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