L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。分冊版、p.415-。
 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
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 第5節・論評(Commentary)① 。
 (1)マルクーゼの初期の著作は、一種のマルクス主義を表明するものと見なし得るかもしれない(ヘーゲルに関する青年ヘーゲル派的な誤った解釈にもとづく、というのは本当のことだ)。一方で後期の著作は、マルクス主義の伝統を頻繁に呼び起こしてはいるが、ほとんどマルクス主義と関係がない。
 彼が提示するのは、(福祉社会によって回復不能なほどに腐敗した)プロレタリアートなきマルクス主義だ。また、(歴史変化の研究にではなく真の人間の本性に関する直観に由来する未来の見方としての)歴史なきマルクス主義だ。さらに、科学崇拝のないマルクス主義だ。
 解放された社会の価値が創造的活動にではなく愉楽のうちにある、そのような一つのマルクス主義だ。
 これらは全て、本来のマルクスのメッセージに関する、曲解し、歪曲した影像だ。
 マルクーゼは実際に、最も非理性的な形態での、半ロマン派的アナキズムの予言者だ。 確かに、マルクス主義はロマン派的特質を含んではいる。-前産業社会の失われた価値への、人間と自然との間の統合への、そして人間相互間の直接的意思疎通への思慕や憧憬。また、人間の経験上の生活はそれの真の本質と合致することができるし、合致すべきだ、という信念。
 しかし、マルクス主義はこうした要素以外のもの、つまり階級闘争の理論やそれがもつ科学的かつ科学主義的側面、を剥ぎ取られてしまえば、マルクス主義ではない。//
 (2)しかしながら、マルクーゼの著作の主要点は、逆のことを示す明白な証拠があるにもかかわらずマルクス主義者だと自称することにあるのではなく、我々の文明に現在すでにある趨勢のための哲学上の根拠を与えようとすることにある。その目標は、事物の本性によって描写することはできない、そのような幸福の新世界(the New World of Happiness)の啓示のために、内部からその文明を破壊することだ。
 さらに悪いことに、マルクーゼの著作から推論することのできる千年王国(millennium)の特徴は、社会は啓蒙された者たちの集団によって僭政的に支配されなければならないということだけだ。その集団の主たる資格は、ロゴスとエロスの統合を自分のうちに実現し、論理、数学および経験科学の忌々しい権威との関係を断っていることだろう。
 こうした叙述はマルクーゼの教理を戯画化したもののように見えるかもしれない。しかし、彼の著作の分析からこれ以外の何かを抽出することができる、というのは困難だ。//  
 (3)マルクーゼの思考は、技術、正確な科学および民主政体に対する封建主義的侮蔑意識に積極的内容のない漠然たる革命主義を加えた、奇妙な混合物だ。
 彼は、つぎのような文明の存在を嘆き悲しむ。
 (1) 倫理から科学を、価値から経験的数学的知識を、規範から事実を、規範的本質の洞察から普遍世界を、切り離す社会。
 (2) 「不毛な」論理と数学を生み出した社会。
 (3) エロスとロゴスの統合を破壊し、現実はそれ自体の感知されない「規準」を有することを理解しないために我々が直観でもって客観的規範それ自体と比較することができない、そのような社会。
 (4) 全てを技術的進歩に賭けてきた社会。
 こうした歪んだ社会は、知識と価値の「統合」を保持し、規範的本質を喚起することで現実を超越する弁証法によって、対抗されなければならない。
 論理や経験主義の困苦に染まっていない、この高次の知見を獲得した者たちは、この理由によって、共同社会の残余を形成する多数派に対して、暴力、非寛容および抑圧的手段を行使する資格がある。
 該当するエリートたちは、革命的学生たち、経済的後進国の識字能力のない農民層、およびアメリカ合衆国のルンペン・プロレタリアートによって構成される。//
 (4)根本的諸問題について、マルクーゼは、自分がいったい何を主張しているのかを示していない。
 例えば、人間性の真の本質は特定の直観によって明らかになる、そうではない直観によってではない、と我々はどのようにして語るのか?
 あるいは、どのモデルや規範的観念が正しい(right)ものだと、我々はどのようにして知るのか?
 これらの疑問については、答えがないし、かつあり得ない。つまりは、我々はマルクーゼとその支持者たちの恣意的な決定に、思うがままにされるのだ。
 同様に、解放された世界はどのようなものになるのか、我々には分からない。そして、マルクーゼは、あらかじめこれを描写することはできない、と明白に語る。
 我々が語られるのはのはただ、現存社会を完全に「超越」しなければならない、「グローバルな革命」を実行しなければならない、「質的に新しい」社会条件を生み出さなければならない、等々だけだ。
 抽出され得る唯一の積極的結論は、現存文明を破壊する傾向があるものは何でも全て、肯定的評価に値する、ということだ。
 例えば、つぎのように考えるべきいかなる根拠もない。アメリカ合衆国の多数の大学の中心で起こっている書籍の焼却は、プラトンやヘーゲルふうの高次の理性の名において腐敗した資本主義世界を「超越」する、そのような革命的過程を開始する良い方法ではない。//
 (5-1)科学と論理に対するマルクーゼの攻撃は、民主主義的諸制度と「抑圧的寛容」(「真の」寛容、すなわち、抑圧的非寛容の反対物)に対する攻撃と相携えて行われている。
 規範的行為や価値判断を論理的思考や経験的方法から明瞭に切り離す現代科学の基本的考え方は、実際には、寛容や自由な言論と密接に結びついたものだ。
 形式的であれ経験的であれ、科学的規準は、知識の領域を明確に画するのであり、その範囲内で、論争者は共有する諸原理を主張し、その自然の結果として、いずれの理論または仮説が受け入れられ得るものであるかの基礎について、同意することができる。
 言い換えれば、科学は思考のコード(code)を進化させ、演繹的および確率論的論理を構成してきた。そうした論理は、人間の精神に強制的に課され、承認し合う心づもりのある全ての者の間に、相互理解の領域を生み出している。
 この領域を超えたところにあるのは、価値の分野だ。そして、科学的思考の法則によっては証明不可能な一定の特有の価値が関与者たちの間で承認されているかぎりで、ここでも議論は可能だ。
 だが、科学的思考を支配する規準によっては、基本的な諸価値を有効なものにすることができない。
 こうした単純な基本的考え方をすることで、我々は、法則の適用が強いられる分野とそのような法則と相互寛容は存在しないために必要な分野を区別することができる。
 しかし、我々の思考が規範的「本質」に関する直観に従うということがかりに要求されるとすれば、そして、この条件のもとでのみ本当の思考だと称することができると宣告され、またそれが高次の理性の要求に適合するとされるだとすれば、非寛容と思考統制を宣言することに等しいことになる。特定の思想の唱道者たちは、論理的および経験的な規準についての共通する蓄積物を呼び起こせば、彼らの見解を防衛する必要がなくなるのだから。
 「不毛な」形式論理を痛罵すること(論理に関してマルクーゼの語るのはただ、不毛だということだけだ)、そして量的志向の自然科学を罵倒することは(科学についてマルクーゼは、経済学や技術について知っている以上には確実に何も知らない)、単直に無知を称揚することを意味する。
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 段落の途中だが、ここで区切る。