この表題でもともと書こうと思っていたことの一つを書く。
 覚書のようなもので、特段の思い入れはない。
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  「法」というものに関する概説書に初めて接したとき、そこに書かれていたのは、現在でもたいていそうだと思うが、「法」は「規範」の一つであり、かつ「法」を含む「規範」と「現実」とは峻別されなければならない、ということだった。
 まだドイツ語を知らない頃のことだが、前者はsollen の世界、後者はsein の世界、というようなことも書かれていた。
 以下、かなりの程度、「法」規範と「現実」または「事実」の区別、というふうに単純化する。
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  この区別は「法学」分野に限らない、人間の諸活動全般にとって必要な区別で、半ば以上に<常識的>なことだろう。
 人間の精神活動の一環として種々の「〜しなければならない、〜すべきだ」という<意識>が生じることがあるが、そう<意識>したからと言って、その内容が「現実」になる、「現実」だ、とは言えない。
 「規範」という語の厳密な意味に関係するので概念設定に関する議論の余地はあるが、「現実」ではないものとして他に、「計画」、「構想」、「目標」といったものがある。これらが「現実」と区別されるべきものであることは論じるまでもないだろう。個人でも団体でも、私企業でも公共的団体でも、「計画」、「構想」、「目標」等はそれらの「現実」化を目指して策定・設定されるが、むろん「現実」そのものではない。
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   上の区別をふと思い出す、あるいは「意識」することがある。それは、典型的に言ってしまえば例えば西尾幹二等の「文芸評論家」的著述者の文章について、これは「現実」に関する自分の「認識」を書いているのか、「現実」とは関係ない自分の「見方」・「見解」あるいは「主張」・「願望」を書いているのか、判別し難いときだ。
 日本に「言霊」という言葉がある。それは、「言葉」によって何かを表明すれば、それは「現実」になる、あるいは「現実」そのものに変わる、という意識ないし考え方だろう。
 むろん明確に表明されているわけではないが、極論すれば、強く、熱狂的に「主張」すれば、それは<正しい>「認識」を示していることになる、といった「ものの考え方」にある程度は嵌まってている、または嵌まることがある、そういう人々がいるのではなかろうか。
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  種々の「学問」分野あるいは「精神活動」の分野がある。上に言葉だけ出した「文芸評論」において、あるいは「学問」の一つとされているらしき(狭義の)「文学」において、研究または評論の対象は「現実」ではない「文芸」・「文学」作品だ。
 したがって、これらは、「現実」をそもそも対象としていない。作品の背景等として間接的に関心の対象になることがある(いかに重要であっても)、というにすぎないだろう。
 したがってまた、これらの作業を評価する規準は「現実」適合性ではなく、どれだけ「うまく」書けているか、どれだけ「感動を与える」か、といったものにならざるを得ない、と考えられる。
 西尾幹二は文章に「人格」が現われる、と言い、「文章にキレがある」とか「文章が光を放っている」とか等々の側面を重視しているようだ。
 ある「文章」が「現実」の正しい「認識」を示しているか、「現実」の改変という「実践」に寄与しているか、といったことに西尾幹二は少なくとも大きな関心を持たなかったに違いない。
 何と言っても、西尾幹二にとって重要なのは「自己」であって、「現実」の認識や改変ではなかったからだ(これらに触れることはあっても)。
 ところで、ここで記しておいてしまうと、上の「文章が光を放っている」というのは、つぎの中に引用されている、古田博司のある文章に対する西尾幹二の「絶賛」の言葉だ。
 古田博司「追悼・西尾幹二氏」月刊WiLL2025年1月号
 ついでに、上の古田の文章の中に、つぎがある。全く偶然にだが「言霊」が出てくるので、また西尾幹二論にも関係することもあり、引用しておく。
 「でも、実際に話をしてみると、どうも会話がかみ合わない。言葉が通じないのです。だから、西尾さんと会話をするときは言霊(精神レベルの非線形言語)でするような印象でした。
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  上述のようなことから、「歴史(学)」や「哲学」はまだよいのだが、「狭義の文学」の「学問」性とか、研究の評価の「客観」性の程度について、私はどうもよく分からない。
 「発想」方法あるいは「ものの考え方」自体が、私には馴染めない(小説を読むのが嫌いなわけではないが)。西尾幹二の「取り巻き」にいた出版社の編集者たちの「発想」・「視点」そのものは、私とは大きく違うようだ。
 ふと思い出したが、再論は省略して、大江健三郎は、沖縄に関する本来はノン・フィクションの文章(『沖縄ノート』)の中に、「文学」的作業という「創作」を紛れ込ませたのではなかったか。
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 「歴史(学)」におけるsollen とsein の区別の問題も、興味深い主題だ。
 とり急ぐ。「歴史(学)」は本来は、<人文・社会・自然>全体を対象とする「総合的」学問だろう。
 だいぶ違う面があるかもしれないが、「医学」も、似たところがあると思われる。例えば「社会倫理」を無視できないし、全体として<社会>に関連する。
 これらと比べると、「法学」のうち憲法を含む実定法(・制定法)に関する「法解釈学」は、<ちまちま>とした、<技術的>なものだ。
 「法解釈学」の「学問」性は別論として、しかし、それでも、「法規範」と「現実」・「事実」の違いくらいは、初心者でも自然に理解できるだろう。
  奇妙な「妄想」と「現実」の混淆など、絶対に生じ得ない、と考えられる。
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 ある程度は予期したように、一回では終わらない。つづける。  
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