リチャード・パイプス(Richard Pipes, 1923-2018)には、ロシア革命(さしあたり十月「革命」前後)に関する全般的かつ詳細な、つぎの二著がある。
A/The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
B/Russia under the Bolshevik Regime (1994).
この二つを併せたような簡潔版に以下のCがあり、これには邦訳書もある。但し、帝制期(旧体制)に関する叙述はほとんどなく、<三全体主義(①共産主義、②ドイツ・ナツィズム、③イタリア・ファシズム)の共通性と差異>に関する理論的?な叙述等も割愛されている。
C/A Concise History of the Russian Revolution (1996).
=西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000年)
上のAは、つぎの二部に分けられている。
第一部・旧体制の苦悶。
第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
この欄では、これまで、第一部(いわゆる二月革命を含む)の試訳は行ってきていない。
かつまた、第二部は計18の章を含むが、全ての試訳を了えているのは第9章(<レーニンとボルシェヴィキの起源>)、第10章(<ボルシェヴィキによる権力追求>だけで、かなりの部分を了えているのは、第11章<十月のクー>だ。
第11章・十月のクーは、全体の目次欄では、つぎの計14の節からなり、それぞれに見出しがついている。この見出し的言葉は本文中にはなく、14の各節の冒頭の文字が特大化されて、各節の切れ目が示されている。
第11章・十月のクー。原著、p.439~p.505。
各節の目次欄上の見出しはつぎのとおり。
第01節・コルニロフが最高司令官に任命される。
第02節・ケレンスキーが予期されるボルシェヴィキ・クーに対抗する助力をコルニロフに求める。
第03節・ケレンスキーとコルニロフの決裂。
第04節・ボルシェヴィキの将来の勃興。
第05節・隠亡中のレーニン。
第06節・ボルシェヴィキによる自己のためのソヴェト大会計画。
第07節・ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の乗っ取り。
第08節・党中央委員会10月10日の重大な決定。
第10節・ケレンスキーの反応。
第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言。
第12節・第2回ソヴェト大会が権力移行を裁可して講和と土地に関する布令を承認。
第13節・モスクワでのボルシェヴィキ・クー。
第14節・起きたことにほとんど誰も気づかない。
以上のうち、この欄で試訳の掲載を済ませているのは、第01節~第11節だけだ。
第12節以降へと、試訳掲載を再開する。
「憲法制定会議」と通常は訳されるConstituent Assembly は、「立憲会議」という訳語を用いている。
なお、ここで初めて記しておくと、R・パイプスが用いているレーニン全集は、日本で最も一般に流通している(していた)レーニン全集とは巻分けが明らかに異なる。これに対して、レシェク・コワコフスキが<マルクス主義の主要潮流>で参照している(していた)レーニン全集は、日本のそれと巻分けが同じで、彼の参照指示に従って対象演説文等を容易に発見できる(論考類の掲載順もほぼ同じ。頁数は異なる)。L・コワコフスキは日本語版のそれと同じソ連版(同マルクス=レーニン主義研究所編)のレーニン全集のポーランド語版を利用している(していた)と思われる。
***
リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
=Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
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第11章・十月のクー。
第12節・第二回ソヴェト大会が権力移行を裁可して講和と土地に関する布令を承認。
(1)3時間半前、ボルシェヴィキは、これ以上待ちきれなくて、スモルニュイ(Smolnyi)の1917年以前は演劇の上演や舞踏会に使われた柱廊付き大集会室で、第二回大会を開会した。
彼らは、テオドア・ダン(Theodore Dan)の虚栄心を賢くも利用して、メンシェヴィキのソヴィエト指導者たちも招待した。彼らとともに手続を執り行い、ソヴェトの正統性という香気を与える効果を得るためだった。
新しい幹部会が、選出された。それは14名のボルシェヴィキ、7名の左翼エスエル、3名のメンシェヴィキで構成されていた。
カーメネフが議長となった。
正統なイスパルコム(Ispolkom, ソヴェト中央執行委員会)はこの大会に限られた議題しか設定しなかったけれども(現在の情勢、立憲会議、イスパルコムの再選出)、カーメネフは、全体的に異なるものに変更した。すなわち、政府の権限、戦争と和平、および立憲会議。
(2)大会の構成は、国全体の政治的支持の状態とほとんど関係がなかった。
農民諸組織は出席するのを拒否して、大会には権威がないと宣言し、全国のソヴェトにボイコットすることを強く迫った(203)。
同じ理由で、軍事委員会は、代議員を派遣するのを拒んだ(204)。
トロツキーは、第二回大会は「世界史上の全ての議会の中で最も民主主義的」と描写すること以上に正確なことを知っていたはずだった(205)。
実際に、その目的のためにとくに設立された、ボルシェヴィキが支配する都市部の集会や軍事会議があった。
10月25日に発表された声明文で、イスパルコムはこう宣言した。
「中央執行委員会〔イスパルコム〕は、第二回大会は行われていないと考え、それをボルシェヴィキ代議員の私的な集会だと見なす。
この大会の諸決議は、正統性を欠いており、地方ソヴェトや全ての軍事委員会に対する拘束力を有しないと、中央執行委員会によって宣告される。
中央執行委員会は、ソヴェトと軍事諸組織に対して、革命を防衛するために結集することを呼びかける。
中央執行委員会は、適切に行うことのできる情勢になればすみやかに、ソヴェトの新しい大会を招集するであろう。」(206)
(3)この残留派(rump)議会への出席者の正確な数は、確定することができない。
最も信頼できる評価が示すのは、約650人で、そのうちボルシェヴィキが338名、左翼エスエルが98名だ。
この二つの連立党は、こうして、議席の3分の2を支配した。-3週間後の立憲会議選挙の結果から判断すると、それらに付与されたよりも2倍以上も多く代表していた。(207)
ボルシェヴィキは左翼エスエルを完全には信頼してはいなかったので、偶発的事態の余地を残さないために、自分たちに議席の54パーセントを割り当てた。
代表の仕方がいかに歪んでいたかを例証する事実は、70年後に利用できるに至った情報によれば、ボルシェヴィキの勢力の強いラトヴィア人(Latvian)は代議員総数の10パーセントで計算されていた、ということだ。(208)//
(4)最初の数時間は、騒がしい論議で費やされた。
閣僚たちが逮捕されたという報せを待っている間、ボルシェヴィキは、社会主義対抗派〔左翼エスエルとメンシェヴィキ〕に床を占めさせた。
喚きや野次が響いている真っ只中で、メンシェヴィキと左翼革命党は、ボルシェヴィキのクーを非難し、臨時政府との交渉を要求する、類似の宣言案を提案した。
メンシェヴィキの声明案は、こう宣言していた。
「軍事的陰謀が組織された。ソヴェトを代表する全ての別の党派に明らかにされないまま、ソヴェトの名前でボルシェヴィキ党が実行した。<中略>
ソヴェト大会の間際でのペトログラード・ソヴェトによる権力奪取は、全ソヴェト組織の解体と崩壊を意味する。」(209)
トロツキーは、「歴史のごみ屑の堆積」の上にある「惨めな組織」、「破産者」とこの反対者たちを描写した。
これに応じて、マルトフは、退場することを宣言した。(210)
(5)これが起こったのは、10月26日の午前1時頃だった。
午前3時10分、カーメネフは、冬宮が陥落し、閣僚たちは監視下にある、と発表した。
午前6時、彼は、大会を夕方まで休会にした。
(6)レーニンはこのとき、大会の裁可を受けるべき最重要の布令案を起草すべく、Bonch-Bruevich のアパートに向かっていた。
クーに対する兵士と農民の支持を獲得するとレーニンが想定した二つの主要な布令は、平和と土地に関するものだった。そして、その日ののちにボルシェヴィキ代議員の討議に付され、議論なくして是認された。
(7)大会は、午後10時40分に再開された。
レーニンは、激しい拍手で迎えられ、和平と土地に関する布令を提示した。
それら布令は、投票なしの発声票決によって採択された。
(8)講和に関する布令(211)は、名前が間違っている。なぜなら、立法行為ではなく、全ての民族の「自己決定権」を保障しつつ、併合や賦課なしの「民主主義的」講和に向かう交渉を即時に開始することを、全ての交戦諸国に呼びかけるものだったからだ。
秘密外交は廃止され、秘密の条約は公表されるものとされた。
ロシアは、講和交渉が開始されるまで、3カ月の休戦を提案した。
(9)土地に関する布令(212)は、内容的には社会革命党の政策方針から採用されたものだった。それは、2カ月前に<全ロシア農民代議員大会のイズヴェスチア>(213)に掲載された農民共同体の242の指令によって補充されていた。
ボルシェヴィキの綱領が要求した全ての土地の国有化-つまり所有権の国家への移転-を命じるのではなく、「社会化」-つまり商取引の禁止と農民共同体による使用への転換-を呼びかけるものだ。
大土地所有者、国家、教会その他の全ての土地資産は、農業用に供されていないかぎりは、損失補償金なしで没収されるものとされ、立憲議会が最終的な提案を決定するそのときまでは、Volost' 土地委員会に譲り渡された。
しかし、農民の私的な保有土地は、除外された。
これは、農民の要求に対する公然たる譲歩だった。ボルシェヴィキの土地政策と全く一致しておらず、立憲会議選挙での農民の支持を獲得するために考案されたものだ。
(10)代議員たちに提示された第三の最後の布令は、人民委員会議(ソヴナルコム, Sovnarkom)と称される新しい政府を設立した。
これは翌月に予定されている立憲会議の招集までのみ機能するとされたものだった。従って、その先行機関と同様に、「臨時政府」と名づけられた。(214)
レーニンは最初はトロツキーに議長職を提示したが、トロツキーは拒んだ。
レーニンは、内閣に加わろうという熱意を持っていなかった。舞台の背後で仕事をすることを好んだのだ。
ルナチャルスキーは、こう思い出す。
「レーニンは最初は政府に入ろうと望まなかった。
『自分は党の中央委員会で仕事をする』と彼は言った。
しかし、我々は拒否した。
我々の誰も、その点には同意しようとしなかった。
我々は、主要な責任を彼に負わせた。
誰も、批判者にだけなりたがるものだ。」(215)
そうして、同時並行的に、名前だけではなくて実際にも、ボルシェヴィキ中央委員会の議長としても仕事をしながら、レーニンはソヴナルコムの議長職を引き受けた。
新しい内閣は従前のそれと同じ骨格をもち、新しい職を付け足していた。つまり、(人民委員ではない)民族問題の議長職。
人民委員の全てがボルシェヴィキの党員であり、党の紀律に服従した。
左翼エスエルは参加を招聘されたが、拒否した。メンシェヴィキと社会革命党を含む、「全ての革命的民主主義勢力」を代表する内閣であるべきだ、と主張したのだ。(216)
ソヴナルコム〔人民委員会議〕の構成は、つぎのとおり。(*)
議長/ウラジミール・ユリアノフ(レーニン)。
内務/A・I・リュコフ。
農業/V・P・ミリューチン。
労働/A・G・シュリャプニコフ。
軍事/V・A・オフセーンコ(アントノフ)、N・V・クリュイレンコ、P・E・デュイベンコ。
通商産業/V・P・ノギン。
啓蒙(教育)/ルナチャルスキ。
財政/I・I・スクヴォルツォフ(ステファノフ)。
外務/L・D・ブロンスタイン(トロツキー)。
司法/G・I・オポコフ(ロモフ)。
逓信/N・P・アヴィロフ(グレボフ)。
民族問題議長/I・V・ジュガシュヴィリ(スターリン)。//
(11)現在のイスパルコム〔ソヴィエト中央執行委員会〕は、新しいそれによって廃され、置き換えられることが宣言された。新しいイスパルコムは101名で構成され、そのうちボルシェヴィキは62名、左翼エスエルは29名だった。
カーメネフがその議長に就いた。
レーニンが起草したソヴナルコムを設置する布令では、ソヴナルコムはイスパルコムに対して責任を負うものとされ、従ってイスパルコムは、立法に関する拒否権と内閣の指名の権限をもつ議会のようなものになった。//
(12)ボルシェヴィキの最高司令部は、この不確実な状態では最高の権力であるとは思われないことをきわめて懸念して、大会で裁可された諸布令は立憲会議による是認、訂正または拒否を条件として暫定的に制定されたものだ、と主張した。
共産主義に関する歴史研究者の言葉によると、つぎのとおりだ。
「十月革命の日々に、立憲会議の高い権威は<中略>全ての決議によって否定されてはいない。(第二回ソヴィエト大会は)立憲会議を考慮しており、「その招集までの」基本的な決定を採択したのだ」。(217)
講和に関する布令は立憲会議に言及していなかったが、レーニンはそれに関して第二回ソヴィエト大会での報告で、こう約束した。「我々は、全ての講和提案を立憲会議の決定に従わせるだろう」。(218)
土地に関する布令の諸条項も、同様に条件つきだった。「全国立憲会議のみが全ての範囲について土地問題を決定することができる」。(219)
新しい内閣のソヴナルコムに関しては、レーニンが起草して大会が裁可した決議は、こう述べた。
「国の行政部を形成するために、立憲会議の招集があるまで、臨時の労働者農民政府は、人民委員会議と呼ばれることとする」。(220)
このことからして、立憲会議選挙は予定通り11月12日に行われると、新しい政府がその職務に就いた最初の日に(10月27日)確認したのは、論理的なことだった。(221)
また、ボルシェヴィキ自体が明確にしたことによってすら、立法する機会をもつ前に、その最初の日に会議を解散することでボルシェヴィキが自らの正統性を失うことも、論理的なことだった。//
(13)ボルシェヴィキは、将来に何が起きるかを確実に判断することができないという理由だけで、その始めの時期に合法性に関する譲歩を行った。
彼らは、ケレンスキーがいつ何時にでも兵団を引き連れてペトログラードに到着する、その可能性を認めざるを得なかった。その場合には、ボルシェヴィキは全ソヴェトの支持を必要とするだろう。
ボルシェヴィキは、一週間かそこらののちに、敢えて法的規範を公然と侵害するに至った。そのときには、制裁を課す部隊がやって来るのが現実になるということはない、ということが明白になっていたのだった。//
(14)親ボルシェヴィキと親臨時政府の両兵団が首都の統制権をめぐって武装衝突をしたのは、10月30日、郊外丘陵地のプルコヴォでの1回だった。
クラスノフのコサック部隊は支援の少なさに士気を失い、ボルシェヴィキ煽動者たちによって混乱していたが、ツァールスコエ・セロでの貴重な3日間を無駄に費やしたあとで、ようやく進軍するよう説得された。
彼らはスラヴィンカ河沿いに作戦行動を開始した。そこで600人のコサック兵が、赤衛軍、海兵および兵士たちから成る、少なくとも10倍以上の実力部隊に立ち向かった。(222)
赤衛軍と兵士たちはすぐに逃げ去ったが、3000名の海兵たちは基地を守り、その日を耐えぬいた。
コサック兵団は、現地司令官を失って、ガチナ(Gatchina)へと撤退した。
こうして、臨時政府に味方した軍事介入が行われるという可能性がなくなった。
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(203)10月24日の全ロシア・ソヴェト農民代議員大会の決定、in: A. V. Shestakov, ed, Sovety krest'ianskikh deputatov i drugie krest'ianskie organizatsii, I, Pt. 1(Moscow, 1929), p.288.
(204)Revoliutsiia, V, p.182.
(205)L・トロツキー, Istoriia russkoi revoliusii, II, Pt. 2(Berlin, 1933), p.327.
(206)Revoliutsiia, V, p.284.
(207)Oskar Anweiler, The Soviets(New York, 1974), p.260-1.
(208)G. Rauzens in China(Riga), 1987年11月7日。この参照は、Andrew Ezergailis 教授のおかげだ。
(209)Kotelnikov, S"ezd Sovetev, p.37-38, p.41-42.
(210)Sukhanov, Zapinski, VII, p.203.
(211)Derekty, I, p.12-p.16.
(212)同上、p.17-20.
(213)同上、p.17-18.
(214)同上、p.20-21.
(215)Sukhanov, Zapinski, VII, p.266. レーニンのトロツキーへの提示につき、Isaac Deutscher, The Prophet Armed: トロツキー・1870-1921(New York & London, 1954), p.325.
(216)Revoliutsiia, VI, p.1.
(*)Derekty, I, p.20-21. W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.50. Lenin, PSS, XXXV, p.28-29. トロツキーは、ソヴナルコム内の唯一のユダヤ人だった。ボルシェヴィキは「ユダヤ」党だ、「国際ユダヤ人」の利益の仕える政府を設立している、という非難をボルシェヴィキは怖れているように見えた。
(217)E. Ignatov in: PR, No.4/75(1928), p.31.
(218)Lenin, PSS, XXXV, p.20.
(219)Derekty, I, p.18.
(220)同上、p.20.
(221)同上、p.25-26.
(222)Melgunov, Kak bol'shevili, p.209-210.
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第12節終わり。第13節<モスクワでのボルシェヴィキ・クー>等へと続く。
A/The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
B/Russia under the Bolshevik Regime (1994).
この二つを併せたような簡潔版に以下のCがあり、これには邦訳書もある。但し、帝制期(旧体制)に関する叙述はほとんどなく、<三全体主義(①共産主義、②ドイツ・ナツィズム、③イタリア・ファシズム)の共通性と差異>に関する理論的?な叙述等も割愛されている。
C/A Concise History of the Russian Revolution (1996).
=西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000年)
上のAは、つぎの二部に分けられている。
第一部・旧体制の苦悶。
第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
この欄では、これまで、第一部(いわゆる二月革命を含む)の試訳は行ってきていない。
かつまた、第二部は計18の章を含むが、全ての試訳を了えているのは第9章(<レーニンとボルシェヴィキの起源>)、第10章(<ボルシェヴィキによる権力追求>だけで、かなりの部分を了えているのは、第11章<十月のクー>だ。
第11章・十月のクーは、全体の目次欄では、つぎの計14の節からなり、それぞれに見出しがついている。この見出し的言葉は本文中にはなく、14の各節の冒頭の文字が特大化されて、各節の切れ目が示されている。
第11章・十月のクー。原著、p.439~p.505。
各節の目次欄上の見出しはつぎのとおり。
第01節・コルニロフが最高司令官に任命される。
第02節・ケレンスキーが予期されるボルシェヴィキ・クーに対抗する助力をコルニロフに求める。
第03節・ケレンスキーとコルニロフの決裂。
第04節・ボルシェヴィキの将来の勃興。
第05節・隠亡中のレーニン。
第06節・ボルシェヴィキによる自己のためのソヴェト大会計画。
第07節・ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の乗っ取り。
第08節・党中央委員会10月10日の重大な決定。
第10節・ケレンスキーの反応。
第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言。
第12節・第2回ソヴェト大会が権力移行を裁可して講和と土地に関する布令を承認。
第13節・モスクワでのボルシェヴィキ・クー。
第14節・起きたことにほとんど誰も気づかない。
以上のうち、この欄で試訳の掲載を済ませているのは、第01節~第11節だけだ。
第12節以降へと、試訳掲載を再開する。
「憲法制定会議」と通常は訳されるConstituent Assembly は、「立憲会議」という訳語を用いている。
なお、ここで初めて記しておくと、R・パイプスが用いているレーニン全集は、日本で最も一般に流通している(していた)レーニン全集とは巻分けが明らかに異なる。これに対して、レシェク・コワコフスキが<マルクス主義の主要潮流>で参照している(していた)レーニン全集は、日本のそれと巻分けが同じで、彼の参照指示に従って対象演説文等を容易に発見できる(論考類の掲載順もほぼ同じ。頁数は異なる)。L・コワコフスキは日本語版のそれと同じソ連版(同マルクス=レーニン主義研究所編)のレーニン全集のポーランド語版を利用している(していた)と思われる。
***
リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
=Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
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第11章・十月のクー。
第12節・第二回ソヴェト大会が権力移行を裁可して講和と土地に関する布令を承認。
(1)3時間半前、ボルシェヴィキは、これ以上待ちきれなくて、スモルニュイ(Smolnyi)の1917年以前は演劇の上演や舞踏会に使われた柱廊付き大集会室で、第二回大会を開会した。
彼らは、テオドア・ダン(Theodore Dan)の虚栄心を賢くも利用して、メンシェヴィキのソヴィエト指導者たちも招待した。彼らとともに手続を執り行い、ソヴェトの正統性という香気を与える効果を得るためだった。
新しい幹部会が、選出された。それは14名のボルシェヴィキ、7名の左翼エスエル、3名のメンシェヴィキで構成されていた。
カーメネフが議長となった。
正統なイスパルコム(Ispolkom, ソヴェト中央執行委員会)はこの大会に限られた議題しか設定しなかったけれども(現在の情勢、立憲会議、イスパルコムの再選出)、カーメネフは、全体的に異なるものに変更した。すなわち、政府の権限、戦争と和平、および立憲会議。
(2)大会の構成は、国全体の政治的支持の状態とほとんど関係がなかった。
農民諸組織は出席するのを拒否して、大会には権威がないと宣言し、全国のソヴェトにボイコットすることを強く迫った(203)。
同じ理由で、軍事委員会は、代議員を派遣するのを拒んだ(204)。
トロツキーは、第二回大会は「世界史上の全ての議会の中で最も民主主義的」と描写すること以上に正確なことを知っていたはずだった(205)。
実際に、その目的のためにとくに設立された、ボルシェヴィキが支配する都市部の集会や軍事会議があった。
10月25日に発表された声明文で、イスパルコムはこう宣言した。
「中央執行委員会〔イスパルコム〕は、第二回大会は行われていないと考え、それをボルシェヴィキ代議員の私的な集会だと見なす。
この大会の諸決議は、正統性を欠いており、地方ソヴェトや全ての軍事委員会に対する拘束力を有しないと、中央執行委員会によって宣告される。
中央執行委員会は、ソヴェトと軍事諸組織に対して、革命を防衛するために結集することを呼びかける。
中央執行委員会は、適切に行うことのできる情勢になればすみやかに、ソヴェトの新しい大会を招集するであろう。」(206)
(3)この残留派(rump)議会への出席者の正確な数は、確定することができない。
最も信頼できる評価が示すのは、約650人で、そのうちボルシェヴィキが338名、左翼エスエルが98名だ。
この二つの連立党は、こうして、議席の3分の2を支配した。-3週間後の立憲会議選挙の結果から判断すると、それらに付与されたよりも2倍以上も多く代表していた。(207)
ボルシェヴィキは左翼エスエルを完全には信頼してはいなかったので、偶発的事態の余地を残さないために、自分たちに議席の54パーセントを割り当てた。
代表の仕方がいかに歪んでいたかを例証する事実は、70年後に利用できるに至った情報によれば、ボルシェヴィキの勢力の強いラトヴィア人(Latvian)は代議員総数の10パーセントで計算されていた、ということだ。(208)//
(4)最初の数時間は、騒がしい論議で費やされた。
閣僚たちが逮捕されたという報せを待っている間、ボルシェヴィキは、社会主義対抗派〔左翼エスエルとメンシェヴィキ〕に床を占めさせた。
喚きや野次が響いている真っ只中で、メンシェヴィキと左翼革命党は、ボルシェヴィキのクーを非難し、臨時政府との交渉を要求する、類似の宣言案を提案した。
メンシェヴィキの声明案は、こう宣言していた。
「軍事的陰謀が組織された。ソヴェトを代表する全ての別の党派に明らかにされないまま、ソヴェトの名前でボルシェヴィキ党が実行した。<中略>
ソヴェト大会の間際でのペトログラード・ソヴェトによる権力奪取は、全ソヴェト組織の解体と崩壊を意味する。」(209)
トロツキーは、「歴史のごみ屑の堆積」の上にある「惨めな組織」、「破産者」とこの反対者たちを描写した。
これに応じて、マルトフは、退場することを宣言した。(210)
(5)これが起こったのは、10月26日の午前1時頃だった。
午前3時10分、カーメネフは、冬宮が陥落し、閣僚たちは監視下にある、と発表した。
午前6時、彼は、大会を夕方まで休会にした。
(6)レーニンはこのとき、大会の裁可を受けるべき最重要の布令案を起草すべく、Bonch-Bruevich のアパートに向かっていた。
クーに対する兵士と農民の支持を獲得するとレーニンが想定した二つの主要な布令は、平和と土地に関するものだった。そして、その日ののちにボルシェヴィキ代議員の討議に付され、議論なくして是認された。
(7)大会は、午後10時40分に再開された。
レーニンは、激しい拍手で迎えられ、和平と土地に関する布令を提示した。
それら布令は、投票なしの発声票決によって採択された。
(8)講和に関する布令(211)は、名前が間違っている。なぜなら、立法行為ではなく、全ての民族の「自己決定権」を保障しつつ、併合や賦課なしの「民主主義的」講和に向かう交渉を即時に開始することを、全ての交戦諸国に呼びかけるものだったからだ。
秘密外交は廃止され、秘密の条約は公表されるものとされた。
ロシアは、講和交渉が開始されるまで、3カ月の休戦を提案した。
(9)土地に関する布令(212)は、内容的には社会革命党の政策方針から採用されたものだった。それは、2カ月前に<全ロシア農民代議員大会のイズヴェスチア>(213)に掲載された農民共同体の242の指令によって補充されていた。
ボルシェヴィキの綱領が要求した全ての土地の国有化-つまり所有権の国家への移転-を命じるのではなく、「社会化」-つまり商取引の禁止と農民共同体による使用への転換-を呼びかけるものだ。
大土地所有者、国家、教会その他の全ての土地資産は、農業用に供されていないかぎりは、損失補償金なしで没収されるものとされ、立憲議会が最終的な提案を決定するそのときまでは、Volost' 土地委員会に譲り渡された。
しかし、農民の私的な保有土地は、除外された。
これは、農民の要求に対する公然たる譲歩だった。ボルシェヴィキの土地政策と全く一致しておらず、立憲会議選挙での農民の支持を獲得するために考案されたものだ。
(10)代議員たちに提示された第三の最後の布令は、人民委員会議(ソヴナルコム, Sovnarkom)と称される新しい政府を設立した。
これは翌月に予定されている立憲会議の招集までのみ機能するとされたものだった。従って、その先行機関と同様に、「臨時政府」と名づけられた。(214)
レーニンは最初はトロツキーに議長職を提示したが、トロツキーは拒んだ。
レーニンは、内閣に加わろうという熱意を持っていなかった。舞台の背後で仕事をすることを好んだのだ。
ルナチャルスキーは、こう思い出す。
「レーニンは最初は政府に入ろうと望まなかった。
『自分は党の中央委員会で仕事をする』と彼は言った。
しかし、我々は拒否した。
我々の誰も、その点には同意しようとしなかった。
我々は、主要な責任を彼に負わせた。
誰も、批判者にだけなりたがるものだ。」(215)
そうして、同時並行的に、名前だけではなくて実際にも、ボルシェヴィキ中央委員会の議長としても仕事をしながら、レーニンはソヴナルコムの議長職を引き受けた。
新しい内閣は従前のそれと同じ骨格をもち、新しい職を付け足していた。つまり、(人民委員ではない)民族問題の議長職。
人民委員の全てがボルシェヴィキの党員であり、党の紀律に服従した。
左翼エスエルは参加を招聘されたが、拒否した。メンシェヴィキと社会革命党を含む、「全ての革命的民主主義勢力」を代表する内閣であるべきだ、と主張したのだ。(216)
ソヴナルコム〔人民委員会議〕の構成は、つぎのとおり。(*)
議長/ウラジミール・ユリアノフ(レーニン)。
内務/A・I・リュコフ。
農業/V・P・ミリューチン。
労働/A・G・シュリャプニコフ。
軍事/V・A・オフセーンコ(アントノフ)、N・V・クリュイレンコ、P・E・デュイベンコ。
通商産業/V・P・ノギン。
啓蒙(教育)/ルナチャルスキ。
財政/I・I・スクヴォルツォフ(ステファノフ)。
外務/L・D・ブロンスタイン(トロツキー)。
司法/G・I・オポコフ(ロモフ)。
逓信/N・P・アヴィロフ(グレボフ)。
民族問題議長/I・V・ジュガシュヴィリ(スターリン)。//
(11)現在のイスパルコム〔ソヴィエト中央執行委員会〕は、新しいそれによって廃され、置き換えられることが宣言された。新しいイスパルコムは101名で構成され、そのうちボルシェヴィキは62名、左翼エスエルは29名だった。
カーメネフがその議長に就いた。
レーニンが起草したソヴナルコムを設置する布令では、ソヴナルコムはイスパルコムに対して責任を負うものとされ、従ってイスパルコムは、立法に関する拒否権と内閣の指名の権限をもつ議会のようなものになった。//
(12)ボルシェヴィキの最高司令部は、この不確実な状態では最高の権力であるとは思われないことをきわめて懸念して、大会で裁可された諸布令は立憲会議による是認、訂正または拒否を条件として暫定的に制定されたものだ、と主張した。
共産主義に関する歴史研究者の言葉によると、つぎのとおりだ。
「十月革命の日々に、立憲会議の高い権威は<中略>全ての決議によって否定されてはいない。(第二回ソヴィエト大会は)立憲会議を考慮しており、「その招集までの」基本的な決定を採択したのだ」。(217)
講和に関する布令は立憲会議に言及していなかったが、レーニンはそれに関して第二回ソヴィエト大会での報告で、こう約束した。「我々は、全ての講和提案を立憲会議の決定に従わせるだろう」。(218)
土地に関する布令の諸条項も、同様に条件つきだった。「全国立憲会議のみが全ての範囲について土地問題を決定することができる」。(219)
新しい内閣のソヴナルコムに関しては、レーニンが起草して大会が裁可した決議は、こう述べた。
「国の行政部を形成するために、立憲会議の招集があるまで、臨時の労働者農民政府は、人民委員会議と呼ばれることとする」。(220)
このことからして、立憲会議選挙は予定通り11月12日に行われると、新しい政府がその職務に就いた最初の日に(10月27日)確認したのは、論理的なことだった。(221)
また、ボルシェヴィキ自体が明確にしたことによってすら、立法する機会をもつ前に、その最初の日に会議を解散することでボルシェヴィキが自らの正統性を失うことも、論理的なことだった。//
(13)ボルシェヴィキは、将来に何が起きるかを確実に判断することができないという理由だけで、その始めの時期に合法性に関する譲歩を行った。
彼らは、ケレンスキーがいつ何時にでも兵団を引き連れてペトログラードに到着する、その可能性を認めざるを得なかった。その場合には、ボルシェヴィキは全ソヴェトの支持を必要とするだろう。
ボルシェヴィキは、一週間かそこらののちに、敢えて法的規範を公然と侵害するに至った。そのときには、制裁を課す部隊がやって来るのが現実になるということはない、ということが明白になっていたのだった。//
(14)親ボルシェヴィキと親臨時政府の両兵団が首都の統制権をめぐって武装衝突をしたのは、10月30日、郊外丘陵地のプルコヴォでの1回だった。
クラスノフのコサック部隊は支援の少なさに士気を失い、ボルシェヴィキ煽動者たちによって混乱していたが、ツァールスコエ・セロでの貴重な3日間を無駄に費やしたあとで、ようやく進軍するよう説得された。
彼らはスラヴィンカ河沿いに作戦行動を開始した。そこで600人のコサック兵が、赤衛軍、海兵および兵士たちから成る、少なくとも10倍以上の実力部隊に立ち向かった。(222)
赤衛軍と兵士たちはすぐに逃げ去ったが、3000名の海兵たちは基地を守り、その日を耐えぬいた。
コサック兵団は、現地司令官を失って、ガチナ(Gatchina)へと撤退した。
こうして、臨時政府に味方した軍事介入が行われるという可能性がなくなった。
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(203)10月24日の全ロシア・ソヴェト農民代議員大会の決定、in: A. V. Shestakov, ed, Sovety krest'ianskikh deputatov i drugie krest'ianskie organizatsii, I, Pt. 1(Moscow, 1929), p.288.
(204)Revoliutsiia, V, p.182.
(205)L・トロツキー, Istoriia russkoi revoliusii, II, Pt. 2(Berlin, 1933), p.327.
(206)Revoliutsiia, V, p.284.
(207)Oskar Anweiler, The Soviets(New York, 1974), p.260-1.
(208)G. Rauzens in China(Riga), 1987年11月7日。この参照は、Andrew Ezergailis 教授のおかげだ。
(209)Kotelnikov, S"ezd Sovetev, p.37-38, p.41-42.
(210)Sukhanov, Zapinski, VII, p.203.
(211)Derekty, I, p.12-p.16.
(212)同上、p.17-20.
(213)同上、p.17-18.
(214)同上、p.20-21.
(215)Sukhanov, Zapinski, VII, p.266. レーニンのトロツキーへの提示につき、Isaac Deutscher, The Prophet Armed: トロツキー・1870-1921(New York & London, 1954), p.325.
(216)Revoliutsiia, VI, p.1.
(*)Derekty, I, p.20-21. W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.50. Lenin, PSS, XXXV, p.28-29. トロツキーは、ソヴナルコム内の唯一のユダヤ人だった。ボルシェヴィキは「ユダヤ」党だ、「国際ユダヤ人」の利益の仕える政府を設立している、という非難をボルシェヴィキは怖れているように見えた。
(217)E. Ignatov in: PR, No.4/75(1928), p.31.
(218)Lenin, PSS, XXXV, p.20.
(219)Derekty, I, p.18.
(220)同上、p.20.
(221)同上、p.25-26.
(222)Melgunov, Kak bol'shevili, p.209-210.
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第12節終わり。第13節<モスクワでのボルシェヴィキ・クー>等へと続く。