秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

西尾幹二

2802/西尾幹二批判081—「保守」時代。

 <文春オンライン>上に2019年1月に掲載された辻田真佐憲によるインタビューに西尾幹二が答える発言録は、「著者が初対面の近現代研究者・辻田真佐憲氏と対談する」と題して、全集第22巻A(2024年10月刊)に収載された。この全集版の一部に2024年時点での「加筆修正」がこっそりと行われていることは、前回に指摘した。もう繰り返さない。
 このインタビューまたは対談の記事は、西尾幹二が執筆したものではない、あるいは西尾が事前に用意した文章原稿をそのまま基礎にしていないと見られるため、西尾幹二の「本音」および「本性」が表現されているところがある。
 一つは、西尾幹二は自分自身の経歴または「歴史」をどう振り返っているかだ。これをもっと正確に言えば、西尾幹二は「保守」(主義)の評論家・「もの書き」だという自己規定、あるいはそのように(「保守」派だと)外部・世間からは受けとめられているという「自覚」を、いつ頃からもつに至ったのか、という問題だ。
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 聞き手の辻田真佐憲はまだ若いためか、西尾の作業、その「歴史」を正確には知っていないようだ。
 引用は省略するが、①西尾の大学院修士課程後のドイツ「留学」からの帰国後に(たぶん1962年—秋月)「現在に続く論壇でのお仕事をされるようになったのか」と質問している(全集22A、p.478)。
 また、②1964年の雑誌「自由」懸賞論文や1969年年の数冊の書物刊行に西尾が触れたあとで、辻田は「保守言論人としてそこからスタートをされるわけですね」とも(確認的に)質問している(同頁)。
 別に触れるが、西尾の回答はいずれについても<違う>だ。
 むろん「保守」(主義)の意味にかかわってはいるが、上の問題に秋月が関心をもつのは、この辻田の浅い理解に加えて、つぎのような<評価>が、西尾幹二について行われているからだ。
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 a真の保守思想家」(の集大成的論考)—西尾・歴史の真贋(2020、新潮社)のオビ。
 b 「確乎不抜の保守主義者だった」—吉田信行・月刊Hanada2025年1月号の追悼論稿の表題。
 c保守論壇『最後の大物』といえる人物だった」—月刊正論2025年1月号追悼特集の前書き(編集部)。
 これらの「保守」とは何だろうか。
 a で意味の説明がないのは当然として、b、cでの「保守」も、産経新聞「正論」欄担当者(論説委員長)や月刊正論編集部が用いる「保守」(論壇)なのだから、西尾はそれらの雑誌等における「保守」の人物だったと位置付けられているにすぎない。
 そして、産経新聞(「正論」欄)や月刊正論は自らを「保守」だと、あるいは「保守」派の新聞・雑誌だと自称または自己評価してきたはずだ。
 そうすると、西尾幹二が「保守」の人物だと言うのは、その「保守」に<反共産主義>、<反左翼>程度の意味はあるとしても、産経新聞「正論」欄や月刊正論が原稿執筆を(文章執筆請負業者に)依頼してきた、つまり「起用」してきた人物の一人だった、というのとほとんど同じことだろう。つまりは、ほとんど何を意味しているかが不明の循環論法的言明で、産経新聞・月刊正論等が「保守」系メディアだと言う場合の「保守」とは何かがさらに問題にされなければならないわけだ。
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 もう少しは立ち入って、西尾幹二における「保守」を話題にしてみたい。その際、西尾幹二自身による「保守(主義)」に関する議論には重きを置かない。
 そうではなく、 <日本会議>との関係に注目したい。1960〜1980年代、西尾幹二は、生長の家・日本青年協議会(→日本会議)と何の関係もなかった。次回に移す。
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 ところで、上のb は、関係「評論家」らの没年をかなりまとめて列挙してくれている。c で西尾が「最後の」と形容されていることとの関連でも興味深くはある。以下に紹介しておく。(櫻井よしこ、平川祐弘、加地伸行らは「大物」と見なされていないようであることも面白くはある。年齢で八木秀次、「起用」回数で佐伯啓思は、きっと論外なのだろう)
 1994年11月、福田恆存。
 1996年02月、司馬遼太郎。
 1997年09月、会田雄次。
 1999年07月、江藤淳。
 2012年・猪木正道、2017年・渡辺昇一、2018年・西部邁、2019年・堺屋太一、2022年・石原慎太郎。
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2796/西尾幹二批判080—欺瞞の人。

 辻田真佐憲によるインタビューに西尾幹二が答える発言録が、2019年1月26日から<文春オンライン>上に掲載された。
 その中で、辻田はこう質問した。
 「今、期待している論者はどんな人ですか」。
 西尾幹二は、こう答えている。2024年12月15日時点で、ネット上でそのまま読める。
 「政治学者の岩田温、青山学院の国際マネジメント研究科にいる福井義高、カナダ在住の渡辺惣樹、それから江崎道朗、潮匡人、藤井厳喜、加藤康男。女性では宮脇淳子、福島香織、河添恵子、川口マーン恵美。最後の川口さんは…」。
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 この辻田真佐憲との対談記録は、全集第22巻A(2024年10月刊)に、「著者が初対面の近現代研究者・辻田真佐憲氏と対談する」と題して収載されている。
 ところが、何と、上の部分はこう<書き換え>られている(p.491-2)。
 「今、期待している論者はどんな人ですか」。
 「青山学院の国際マネジメント研究科にいる福井義高、カナダ在住の渡辺惣樹、筑波大学の古田博司、それから江崎道朗、潮匡人、藤井厳喜、加藤康男。女性では加藤康子、宮脇淳子、福島香織、河添恵子、川口マーン恵美。最後の川口さんは…」。
 「期待している論者」から除外されたのは、「政治学者の岩田温」。 
 「期待している論者」に追加されたのは、「筑波大学の古田博司」と、女性の「加藤康子」。
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 2019年の対談時点と2024年の全集収載時点で、「期待している」かどうかの評価・判断が異なることはあり得ることだろう。
 しかし、そのような差異・変化があったとすれば、明記して行なわれるべきだ。
 にもかかわらず、2024年の全集刊行時点で一部にせよ差異・変化があること、つまり<書き換え>=<加筆修正>が行われていることは、全集22巻Aの目次欄にも、辻田との対談録中にも、西尾による「後記」にも、いっさい言及されていない。
 辻田との対談録の表題は「著者が初対面の…辻田真佐憲氏と対談する—(「文春オンライン」2019年1月26日)」となっているので、記録された西尾幹二の発言はこの時点でのものがそのまま記載されている、と読者は理解するだろう。
 にもかかわらず上のような<書き換え>=<加筆修正>を加えたものを収載するのは読者を騙していることになる。とんでもないマヤカシ、欺瞞だ。
 2024年には2019年時点の評価・判断と異なるに至っていたとしても、2019年1月時点の発言だと明記されているのだから、西尾幹二はそれをそのまま認めて全集にも登載すればよいだろう。
 西尾幹二は、その当然と思われることができない人物なのだ。
 どこにも注記することなく、むろん理由を記すこともなく、平気で、後になって一部にせよ<書き換え>=<加筆修正>をすることができる。西尾幹二とは、そういう人物だ。
 あるいは、時間または時期に関する感覚に、常人にはない異常さがある、のかもしれない。
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 このような、全集編集時点での<書き換え>=<加筆修正>があることは、この欄ですでにいくつか触れたことがある。
 また、全集22巻Aでは例えば、第一部の「第四章は『正論』2014年2-4月号に連載したものを加筆修正した」と明記されている(p.261)。この注記は誰が記したのか(本人か出版元編集部か「三人委員会」か)は不明だが、このように、全集収載時点での「加筆修正」を堂々と認めている場合もある。
 ともあれ、上に記したような「加筆修正」=「書き換え」が(こっそり)平然と行なわれているのだから、西尾幹二「全集」なるものは、全巻の全章・全節を通じて、その元となっている文章と同一のものなのか否かが、きちんと点検されるべきだ。そして、「校訂・加筆修正表一覧」が作成されるべきだ。
 「保守」(主義)うんぬん以前の、西尾幹二の、論者かつ人間としての<誠実さ>の問題だ。
 SNSとかYouTube 等の多数の閲覧者がいる世界だと、こうした<誠実さ>の欠如(=ウソつき)は、瞬時に暴露される。
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2786/西尾幹二批判079—全集未完結。

   西尾幹二全集第22巻A(2024.10)を一瞥して驚いたのは、「後記」の短さだ。他の巻では「後記」で長々と、すでに収載されている文章の一部を反復したりして、その巻の自分の文章・主張の「意義」を強調したりしていた。
 この第22巻Aの「後記」はたった5頁で、この巻には何を収めているかについての言及すらない。
  この巻は全体として〈運命と自由〉と題され、「後記」も「運命」に論及している。
 しかし、「要するに『運命』とは個人の情熱の外にない」という(相変わらず?)訳の分からない言辞があり、「個人」だけかと思えば「個人の『運命』」と「日本の『運命』」があるようであり、最末尾の文章は、こうなっている。
 「今こそ『運命』の声に静かに耳を傾けようではないか」。
 何のことか、何を言いたいのか、さっぱり分からない。
 これはひょっとして、西尾幹二の生前最後の文章なのだろうか。
 見苦しく、悲惨なものだ。「運命」という言葉・概念も、一種のイメージとして使われていて、当然ながら、きちんとした定義はない。西尾幹二における「自由」概念と同じく、何らかの「ひらめき」と「思い込み」によって、言葉・概念が使われ、文章ができあがっている。
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  全集22巻Aということは同22巻Bもあり得るはずだ。
 しかし、この22Bはまだ刊行されていないようだ。
 とすると、西尾幹二は「本人編集」であるので、結局は全巻の刊行はないまま終わったことになる。
 もともと「本人編集」で、各巻の編集時点での西尾の〈気分〉で、その内容、収録する本や文章は決められていたと見られる。そして、少なくとも実質的には、編集時点での「書き直し」、「書き換え」を疑い得た部分もあった。
 そうであるとは言え、形式上「22B」が欠落するので、西尾幹二が最初に意図したようには全集は完結しなかったことになる。
 異様な「本人編集の全集」だったとは言え、気の毒なことだ。
 現時点での国書刊行会(出版元)のウェブサイトには載っていないが、つい昨年まで、この欄で紹介した<西尾幹二は太陽だ>との加地伸行の文章とともに、「第22巻」の「A」と「B」のかなり細かな(刊行予定の)内容も掲載されていた。
 現時点ではそのサイトの頁は存在しないので、結局は何が収載されないままになったかは、分からない。
 だが、ずっと興味だけはもっていたのは、つぎの二つの西尾著がどういうふうに収載され、「後記」で西尾はどう位置づけるのだろうか、ということだった。
 ①西尾・国家と謝罪(徳間書店、2007)。
 ②西尾・皇太子さまへの御忠言(ワック、2008)。
 一つの書物でも西尾幹二全集は分断し、それらの一部を別々の巻に収録するということをしていたので、これらの一部がすでにどこかに収録されている可能性はある。だが、中心部分の収載は行われていないはずだ。
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 「22A」の45%ほどは、西尾・あなたは自由か(ちくま新書、2018)が占めている。
 ついでながら、元の新書とは違って「章」別の構成になっている。それは別としても、「第四章は『正論』2014年2-4月号に連載したものを加筆修正した」と注記されているので(p.261)、その「加筆修正」は、最初の発表文章を全集収載時点で「書き換え」したものになっている可能性が高いことに注意しておくべきだろう。
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 国書刊行会の全集刊行開始時点(2011年)でのウェブサイトでは、〈皇太子さまへの〜〉は「22B」の一部の「天皇・皇室」関係論稿として位置づけられていた記憶がある(上の①については記憶がない)。
 「22B」では、上の二つはきちんと収録され、めでたく?完結する予定になっていたのだろうか。
 どうも、怪しい。
 というのは、「22A」にはまだ半分以上の余裕があり、早めに収録することを意図すれば、上のいずれかのかなりの部分を収録できたはずだ。そしてまた、「22A」には、書物・雑誌上の文章ではない、「西尾幹二のインターネット日録」に掲載された「電子的」文章までが収載されている(全部ではない)。
 西尾幹二は最後には、上の二つ、①と②の収録を避けた、少なくとも収載に積極的ではなかった、のではないか。
 ①は、〈新しい歴史教科書をつくる会〉の「分裂」過程と八木秀次等や〈日本会議〉批判を内容としている。そして、「歴史教科書問題」と題した全集 17巻(2018)には収載されていないものだ。
 そうすると、あくまで推測だが、現在の天皇・皇后両陛下は「離婚すべきだ」旨を皇太子・同妃殿下時代に書いていた②とともに、全集の中に入れて歴史的記録にすることに少なくとも積極的ではなかったのではないか。
 こんなところにも、〈本人編集〉の影響または「影」が表れているように、秋月には思われる。
 そうだとすると、全集が「未完結」で終わったのは、何ら気の毒なことではない。
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  全集「22A」を見ていて、さらに不思議なことをようやく発見した。
 全集のこの巻の表紙のすぐつぎの写真の裏側の写真。
 こう注記されている。
 「いよいよ全集は完結が近づいた。大型の議論をしている余裕はもうなく、手早く仕事を処理してくれる人材を著者が選んで『三人委員会』に委嘱した。2023年4月1日撮影」。
 ①これはいったい誰が書いた文章なのだろうか。内容からして、国書刊行会の中の誰かとしか考えられないが、こう「表に出る」のは権限を超えるのではないか。奇妙で、不思議だ。この全集には最初から、著者と出版社の間の「全集刊行委員会」というものはなかったのだ。
 ②この「三人委員会」は、「22A」の編集に関与したのかどうか。時期的にはそう思われるが、西尾は「後記」で「三人委員会」に全く触れておらず、明確ではない。
 ③撮影されている西尾以外の三人が「三人委員会」のメンバーだろう。しかし、最も不思議で奇妙だが、その氏名が何ら記載されていない。秋月も、立ち姿と顔だけでは分からない(関係者には、写真で見て分かる人もいるのだろう)。
 この写真はこのような意味でじつに奇妙なもので、全集自体の「いい加減さ」を明瞭に示していると思われる。
 国書刊行会のこの全集担当者は気の毒だとずっと思ってきたが、その担当者でも回避できないミスがあったと思われる。
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 なお、まさかとは思うが、この「22A」で明らかにされた「三人委員会」(誰々かは現在不明なまま)が編集して、「第22巻B」が刊行されるのだろうか。
 どうなろうと勝手で、お好きなようにという感じだが、そうなれば、「西尾幹二全集」は、(少なくとも最後は「本人編集」ではない、という一貫しない)ますます奇妙奇天烈なものになるだろう。そして、恥ずかしい印象だけ残して、内容はあっという間に忘れられるだろう。西尾幹二という名前も。
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  西尾幹二について、「自我自尊」・「唯我独尊」、「時代錯誤」・「古色蒼然」等々と全体的印象を語ったことがある。
 この巻を一瞥しても、その印象は変わらない。西尾幹二については、まだ書けることが「山ほど」残っている。それを書くことをもう諦めているのではない。
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2756/読書メモ—2024年7月上旬。

 読書メモ、2024年2月以降の読書の一部。
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 1 高橋祥子・ゲノム解析は「私」の世界をどう変えるか—生命科学のテクノロジーによって生まれうる未来(ディスカヴァー21、2017)。
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 2 辻田真佐憲・ふしぎな君が代(幻冬社新書、2015)。
 記憶に頼る。この書によると、歌詞は別として、旋律は明治新政府のもとで作られた。陸軍音楽隊(外国々賓の国歌演奏担当)、文部省、外務省のいずれか(の誰か)が伝統的音階で作曲したものを、日本にいたドイツ人音楽家が「採譜」=楽譜化した(きっと〈十二平均律〉による)。「日本古謡」というのは厳密には正確でない。
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 3 仁藤敦史・女帝の世紀—皇位継承と政争(角川選書、2006)。
 「本書の目的の一つは、明治以来、女帝否認論の主要な根拠とされているこうした『男系主義は日本古来の伝統』あるいは『日本における女帝の即位は特殊』という通説的見解を、古代史の立場から再検討することにある」。
 この書のユニークさは、天智以降の皇位継承について、即位時の宣命の字句をふまえて、<男性天皇の妻=女性天皇の男子への皇位継承>という視点を提示していることだろう。前者には「見なし」又は「擬制」も含まれる。
 以下は秋月において修正を加えたもので、原著どおりではない。*は女性。女性を挟むという点では(現実化しなかったが)、光仁を「入り婿」としての、聖武—井上内親王—他戸皇子もこれに該当する。
 天武—持統*—草壁皇子—元明*—文武—「元正」*—聖武—「光明子」*—「淳仁」—称徳*。
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 つぎはまだ一部のみ。
 4 斎藤成也・日本人の源流—核DNA解析でたどる(河出書房新社、2018)。
 西尾幹二・国民の歴史(1999)の第三章「世界最古の縄文土器文明」の特徴は、単純に<現代日本人の祖先(原日本人)は縄文時代の日本列島人(縄文人)だ>という前提に立つことにある。
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2753/西尾幹二批判078—「量の概念でも質の概念でもなく」。

 西尾幹二・自由とは何か(ちくま新書、2018)には、<古代ギリシャの奴隷制度>に言及する長い章がある。
 とても要約できないが、「古代ギリシャ」の自由・芸術・スポーツ等々が「奴隷」制を前提とすることをしきりに指摘していて、ひょっとして「奴隷」制の肯定にまで進んでしまうのではないかとすら思ったものだった(だいぶ前のこと)。
 さすがにそうは明記していなかった。だが、この人の<本音>、<本性>は、「食って生きて」いくための瑣末なことを自分でするのを拒み(つまり他の人々=ニーチェにおける「愚衆」に任せて)、自分は「高尚な、精神的」作業をしたい、というものだっただろう。
 そうでなければ、西尾幹二が「つくる会」の会長等の要職にあったときに、会の理事や事務局長が次第に〈日本会議〉に「乗っ取られて」いることに気づかず、「分裂」後になってあれこれと八木秀次や〈日本会議〉を非難するに至る、というふうにはならなかった、と感じられる。
 仔細は知らないので推測がかなり占めるが、この人は、会の中で自分は「貴族」で、「ほとんどお飾りのごとく君臨しておれる」、と勘違いしていたのではなかろうか。
 但し、〈つくる会〉にやや遅れてすぐにあとに結成された〈日本会議〉が支援・友好団体であることを知って、急いで〈日本会議〉の主張を学習して、きわめて大まかには、仏教ではなく神道、という旨の講演を〈日本会議〉の母体団体主催の会合で講演したことは、事実として指摘しておく必要がある。
 参照→①2491/批判051—神話と日本青年協議会①。 
 参照→②2492/批判052—神話と日本青年協議会②。
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 「自由」を表題とする書物を西尾は何冊も執筆・刊行してきた。
 上掲書のほか、自由の悲劇(講談社現代新書、1990)、自由の恐怖(文藝春秋、1995)、自由と宿命(洋泉社新書、2001)、等々。
 その西尾幹二の「自由」概念と「自由」論がどの程度のものであるかを、2018年の上掲書からいくつかを再び引用して、示しておこう。とりわけ②は、大笑いだ。
 ①「今、私たちは自由と平等のパラドックスの矛盾の矛盾たるゆえんを、二人の正反対の大統領、背中を向け合うオバマとトランプの出現によって、ありありと劇的に目撃するに至りました。
 オバマは『平等』にこだわりつづけるでしょう。
 トランプはその偽善を突き、強い者が勝つのは当然とする『自由』の自己主張の復権を唱えつづけるでしょう。
 二人の見せつけるページェントがこれから先、何処に赴くかは今のところ誰にも分かりません。」p.154、第三章の最後の文章。
 ②「『自由』は存在しない、そこからすべてが始まることだけは確かだ、と私は先に申しました。
 おそらく、想像するに、『自由』は持続形態ではなく、量の概念でも質の概念でもなく、人間が四方八方において不自由な存在でありながらそのことをすら超えた境地にあるという認識の大悟徹底の只中から、わずかに瞬間的に発現する何ものかでありましょう。」p.118、第二章の最後に近い文章。
 2018年にこんなことしか書けない人物がなぜ、多数の書物を出版でき、本人編集とはいえ、<全集>まで刊行できるのか。日本の出版界の恥であり、悲劇だ。そして、戦後日本の恥であり、悲劇だ。大笑いして済ませることはできない。
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2745/西尾幹二批判077—「時代錯誤」。

 谷沢永一・人間通になるための読書術(PHP新書、1996/電子化2013)は、数十の書物の「要点」を記して、一気に相当に読ませる。
 各書物に関する表題も簡潔で面白いが、その中に、つぎがある。P. Johnson, Intellectuals (共同通信社の邦訳書)についてのもの。
 「思想も文藝も自己顕示である」。
 谷沢は自分の文章としてこう書く。「思想」や「文藝」の制作者たちは、「人びとに自らを知らしめる為に…苦労を敢えてする」。キレイ事では「自らが生きた証しを打ち立てたい」、つまりは「認知して貰いたい」、「賞賛が欲しい」、「長く後世に伝えられたい」、「広く仰ぎ見られたい」。
 「思想家」の二種の一つは「世の人を居丈高に見くだして、人びとを駆り立てようとする煽動型」で、「思い上がった指導者意識が認められる」。等々。
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 西尾幹二は一時期に「文芸」評論者だったが、のちには「思想家」と自称するようになった。
 だから、西尾幹二を特徴づける四文字熟語を思い浮かべていて、谷沢の文章に示唆を得て「自己顕示」も挙げたくなった。しかし、これは西尾にはあまりにも当然の欲求で、インパクトに乏しい。
 それに、思い上がっていようがいまいが、西尾には厳密な意味での「指導者意識」はない。後半生は、注文を待つ<文章執筆請負>業者だった。産経新聞にときどき定期的に執筆した「正論」欄は、「自己顕示」もできる貴重なものだった。
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 すでにこの欄で記述した西尾幹二の特質は、つぎのいくつかの四文字熟語で言い表せるだろう。
 誇大妄想傲岸不遜厚顔無恥
 説明を必要としないだろう。
 これらで表現できない特質が、これまで十分には指摘してこなかったが、あった。四文字熟語をやはり用いると、つぎだ。
 時代錯誤古色蒼然
 OpenAI とか、ChatGPT4o とかが今日では話題になっている。こうした「知的道具」によって、昔ふうの<文章執筆>業はほとんど成立し難くなるのではないか。
 ともあれ、西尾幹二は、藤田東湖らを継承して明治初年に「日本」主義を掲げ続け、岩倉らの欧米視察団や欧米に追いつこうとする<文明開化>に反対しておれば相応しかったような、時代状況感覚がきわめて奇妙な人物だろう。
 その<文明開化>のもとで「先進国」と見なされた(オランダ、スペイン・ポルトガルではない)英・米・独・仏の四ヶ国の一つの「ドイツ」を若き西尾幹二は選択した。そのことに深い後悔はないのだろうか。ないに違いない。「ニーチェ研究者」と誤解させることで(<つくる会>関係者に対しても含む)、この人は世渡りをしてきたのだから。
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2737/西尾幹二批判076—「ひらめき」。

 「生命・細胞・遺伝—01」(2024/04/04)の最後にこう書いた。
 「文筆家、評論家、あるいは『もの書き』にそれぞれ独特に生じるのだろう、文章執筆の際の<ひらめき>は、多数のニューロン間の『つながり方』またはその変化によって生じている」。
 このときに思い浮かべていた「もの書き」の文章はつぎだった。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。p.37。
 (その問題は)「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことのできない領域に入ります。それは各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定という問題です」。
 西尾におけるアダム·スミスの「自由」概念の理解は、既述のように、間違っている。それはともかく、西尾幹二は、生活条件の整備等の物質的・経済的問題ではなく各自の「ひとつひとつの瞬間の心の決定」の<自由>の問題が重要だ旨を力説する。
 「ひとつひとつの瞬間の心の決定」は、脳内の、神経細胞(ニューロン)の働き、多数のそれの複雑なつながり方によって生じる。
 そして、西尾は「各自における」と書いて「各個人」のそれの重要性を面向きは強調しているようだが、じつは、西尾幹二という「自分」の<自由>こそが重要であり、保護され、尊重されるべきものだと考えていることは明らかだ。
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 西尾幹二にとって、文章作成の際に言葉や語句が「ひらめき」出てきて、それを選定する場合の「ひとつひとつの瞬間の心の決定」がきわめて重要で、そこにこそ、<西尾幹二らしさ>、自分が高く評価されるべき根拠があるのだろう。
 物質的・経済的問題ではない、それと峻別されるべき<精神>の領域に属する問題なのだ。
 この部分にも、幼稚で単純な「物心(心身)二元論」が見え隠れしている。
 「物」よりも「精神」が大切、「精神」・「心」を表現する言葉・文章が大切。—さすがに「文学部的」または「文芸評論家的」なモノ書きの文章だ。
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 もっとも、西尾が語る趣旨を全く理解できないのではない。、またむしろ、陳腐な物言いでもある。
 西尾幹二がいっさい参照していないと間違いなく見られるのが「法学」または「憲法学」上の<自由>論なのだが、憲法(学)上は「経済的自由」よりも「精神的自由」が優先されるべきとされ、後者の中核は「内心の自由」にあるとされる。
 西尾は知らない単語・概念だろうが、この人が語っているのは要するに「内心の自由」の重要性に他ならない。特段に新しい深遠な考え方が示されているのでは全くない。
 (但し、「内心」の形成は<本当に自由に>行われているのか、という問題はある。この問題は「意識」・「こころ」の本質や<自由な意思>の存否という「ハードな」問題にかかわる)。
 上の()部分をあえて注記しておくが、「ひとつひとつの瞬間の心の決定」が重要だなどという言辞は、ある意味ではほとんど自明のことを、何やら勿体をつけて、長々と書いているものに過ぎない。
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 だがしかし、「生活条件の整備」等の個々の人間が生きていく上で重要な課題と仕事を、西尾幹二は一貫して<馬鹿にしてきた>、という面が、一方にはあると考えられる。
 旅行中にふと思ったことだが、急傾斜の地域に鉄道を通すために、またその鉄道の速度を早めて人や物質を運送・運搬する時間を短くするために、日本で100年以上のあいだ、多数の人々が努力し、また工事等を行なってきた。そんな、無名だろう人々を含む多数の人々の、「便利さ」を追求する懸命の努力など、西尾幹二の意識には、ほとんど昇ってきたことがないに違いない。
 「生活条件の整備」は「精神的自由」と比べて価値あるものではないとしつつも、前者が獲得された以上は、西尾はその利便性を平然と利用してきたのだろう。
 西尾幹二が住んだ住宅にも、電気・上水道等々の種々の利便性が及んでいただろう。西尾が杉並区から中央線・市谷駅に着くまでのあいだ、あるいはその反対の帰路のあいだ、間違いなく西尾も、都市の交通施設・制度の恩恵を享受してきたわけだ。
 にもかかわらず、「ひとつひとつの瞬間の心の決定」の問題が重要だ、その<自由>にこそ価値がある、とぬけぬけと書けるのは何故だろう。かつまたその<自由>は、西尾幹二という「自分」のそれで十分であって、この人は、日本国民一般、世界の人々のことなど全く考慮していない。
 いびつな、「観念」好きの、自分が良ければよい、と考えるもの書きの姿が、ここにはある。
 「科学は敵だ」とか、「神話は無条件に信じるべきものだ」とか等々の狂信じみた物言いが西尾幹二にはあることは、すでにこの欄で記した。
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2728/生命・細胞・遺伝—04。

 ①宇宙一②地球—③生物(生命体)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子。
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 生物を植物と動物に二分するのは相当に古い分類で、現在では5界説のほか6界説もあるようだ。
 いずれの場合でも植物・動物等は「真核生物」で、生命が地球上(内)で誕生したときの単細胞生物は「真核生物」ではない。
 その最初の生命(単細胞生物)の誕生の時期について、01では「約35〜40億年前に生まれた、とされている」と記して、この点に関してのみ推定年代に触れた。
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 出口治明・0から学ぶ「日本史」講義/古代篇(文藝春秋、2018)の凄まじく、唖然とさせられるところは、<日本史・古代>と謳いつつ、宇宙・太陽系宇宙・地球の誕生、そして生命体(生物)の誕生に関する叙述から始めていることだ。
 この点で、<(文学的)文科系・モノ書き>による西尾幹二・国民の歴史(1999、2009、2017)が「歴史とは何か」に次いで「一文明圏としての日本列島」から書き起こしているのと、大きく異なる。
 西尾幹二は、さらに、「北京原人」等の「『原人』の足跡が日本列島に刻まれていてもいなくても、正直、私の人生観にはほとんど関係がない」と明言した。たんなる<(文学的)文科系・モノ書き>と出口治明の違いは完璧に顕著だ。
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 最初の生命(単細胞生物)の誕生の時期以外のおおよその時期を記しておこう。
 種々の説があるのだろうが、キリがないので、上記の出口治明・0から学ぶ「日本史」講義/古代篇による。
 約138億万年前、宇宙の歴史の開始。
 約46億万年前、太陽系宇宙誕生。
 約45.5億万年前、地球誕生。
 約40億万年前〜38億万年前。地球上に「海」発生=最初の生命体(生物)の発生。
 約19億万年前、「真核生物」誕生。
 約700万年前。「チンパンジーとの共通祖先」からヒトが分かれる。
 約25万年前〜20万年前。東アフリカで<ホモサピエンス>が出現。
 約10万年〜7万年前、<ホモサピエンス>=人類が「言語」を獲得。
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 上のような時期に加えて、関心を惹いたのは、ヒトの「脳」の成熟時期だ。以下で、似たようなことが、書かれている。
 ①出口治明・哲学と宗教全史(ダイヤモンド社、2019)
 「人間が定住生活をし始めたドメスティケーションのときに、人間の脳みそは最後の進化が終わり、それから今日まで進化していないといわれています」。
 ②小林朋道・利己的遺伝子から見た人間—愉快な進化論の授業(PHP、2014)
 「(われわれの遺伝子がつくった)脳は、ホモ・サピエンスの歴史の99パーセントの狩猟採集生活において、遺伝子の増殖に都合よくつくられている」。
 「狩猟採集生活」のあとの「定住生活」開始時点で人間の「脳」は進化し切っていた、という点で、これら①と②は矛盾していないだろう。
 ③養老孟司・唯脳論(筑摩書房、1998)
 「ヒト、現代人つまりホモ・サピエンスは、ここ数万年ほど、解剖学的、すなわち身体的には変化していない」。「ヒトの脳の機能もまた、数万年このかた変化していないはずだ」。「書かれた歴史はたかだか数千年である。その間に、ヒトはまったく変化していないと言ってよいでろう」。
 定住=ドメスティケーションの開始の時期・地域について論議があるのだろうが、上の①は、「今から1万2000年前にメソポタミア地方で起きたと推測されて」いる、としている。
 なお、池田信夫の文章によると、「人類の脳は200万年前から大きくなり始め、ホモ・サピエンスが出てくる30万年前には現在の大きさになっていた」(同・ブログマガジン2023年11月23日号)。後の時期が少し早そうでもあるが、概略では間違いでないかもしれない。
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 以上のことは、つぎを推測させる。
 第一に、最も複雑で高度の機能をもつ「脳」が数万年前から今日まで基本的に変わっていないとすると、心臓・肝臓等々の器官の「機能」もまた、その当時にすでに現代と同様の進化を遂げていただろう。各器官の構造・機能について当時のヒトは知っておらず、「細胞」の知識も全く持っていなかっただろうが、「脳」等の<身体>は今日と同様に「働いて」いたのだ。
 第二に、脳の機能としての「感情」・「意識」・「記憶」等々も、ヒトは数万年前に身につけていただろう。平安時代の紫式部や清少納言がわれわれと基本的に同様の「美的」感覚を持っていたとしても不思議ではない。また、人種の差異を超えて、日本に来る外国人観光者の子どもたちが愉しいときはにこにこしているのも、何ら不思議ではない。
 この欄の2024/03/12で引用した、科学雑誌NEWTON-2016年6月号のつぎの文章の意味も、おおよそ納得できることになる。
 「いとおしさや、嫉妬、うらみ」といった「社会的感情」を含む「現代の人間の感情を生むしくみは、農耕時代以前の300万年前〜3万年前の生活や環境のもとで発達したと考えられている。/とくに社会的感情の多くは、特定の仲間たちと長く関係をともにするようになったことでつくられてきたと考えられているという」。
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 一方で、そのような「脳」と「人体」を古くから持ちながら、生物学・生命科学上や医学上の発見・開発、あるいは医療技術・医薬品等の発見・開発は(分野により種々だが)相当に遅れて、早くても17世紀以降のことだ。分野・知識・技術・薬剤によっては、100年前、50年前以降のものもある(例、心筋梗塞にかかるカテーテル検査・ステント留置術は約50年前に始まった)。
 つぎの著によると、「抗うつ剤」の研究・開発、脳内の「神経細胞」を覆って守るだけとほぼ考えられてきた「グリア細胞」に関する研究は、まだ途上にある。
 S·ムカジー=田中文訳・細胞—生命と医療の本質を探る/下(早川書房、2024)
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2708/池田信夫のブログ035。

 池田信夫のブログ035。
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 一 池田信夫ブログマガジンのうち前回(No.2706)に取り上げたもののさらに一つ前の号と新たに読んだ最近の号から、興味深く感じた小文章のタイトルは、以下のとおり。なお、前回もそうだが、これら以外はつまらない、あるいは全く理解できない、という趣旨ではない。
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 12月18日号
 ①「ブッダという男」。
 ②「名著再読: (A·ディートン)大脱出」。
 02月05日号
 ③「宇宙はなぜ人間のために『微調整』されているのか」。
 ④「イノベーションに必要なのは『否定的知識』」。
 ⑤「名著再読: (クーン)科学革命の構造」。
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  とくに意図せず、思いつくままの感想等。
 ④によると、古代ギリシャの自然哲学・古代ギリシャの都市国家→ローマ帝国のあいだには断絶があり、ギリシャ自然哲学はローマ帝国に継承されなかった。それはとくに、後者により「キリスト教が国教」とされたことによる。「ギリシャ文化は『異教』として排除され、イスラム圏に追いやられた。ヨーロッパが「自然哲学」を必要としたのは、「…などの実用的な科学」が必要になった、「植民地支配」を始めた「16世紀」以降だ。
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 ギリシャの哲学者と言えば、ピタゴラスを想起する。そして、この人物は<ピタゴラス音律>の創始者とされるのだが、1オクターブを12の異なる音で構成する(現在でもこの点は同じまま)ということの背景には、「神」は全てを美しく、体系的に全てを創作したはずだ(12という数字は「美しい」)という考えも少しは影響したのではないか旨、この欄に書いたことがあった。
 しかし、よく考えれば(よく考えなくとも)、ピタゴラスの時代にはまだ<キリスト教>は成立していなかったようで、「神」の理解にもよるが、上の推測は間違い。
 但し、<ピタゴラス音律>を用いた音楽の発展にはキリスト教の教会、そこでの「教会音楽」が相当に寄与したはずだ。ドイツ(と日本)では「音楽の父」とされるJ·S·バッハは、ドイツ・ライプツィヒの教会でも働いた鍵盤楽器演奏者(オルガニスト)・作曲家だったが、当時はまだ<十二平均律>は全く一般的ではなく<ピタゴラス音律>がかなり使われていただろう。
 なお、<十二平均律>が欧州で支配的になったとされるのは、—日本はその圧倒的な影響を受けるのだが—19世紀だ(こんなこともM·ヴェーバー『音楽社会楽』は書いている。日本のことは別)。
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  上の①によるとこうだ。「ブッダ(集合名詞)の思想的コア」は、「無我」(=「所有の放棄とか我執からの解放といった意味」)だろう。但し、「高度な教理」はなく、「大乗仏教になってから」、「複雑な仏教哲学」ができた。この時期の仏教が日本にも輸入されて、「既存の民俗信仰と習合した」。「それは東洋的な『無』をコアにする点」で、「それほど異質な宗教ではなかった。
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 東アフリカで生まれたヒト・人間(ホモ·サピエンス)は今のシリア・イラン(その隣国が今はイスラエル)あたりで東西に分かれて、西へはヨーロッパに、東はインド、東アジア(今の中国、日本等)へと(途方もない年月とともに)分かれていった、という。
 今でも西欧または欧米と東アジアは異質だと語られることが多い。
 どちらもホモ·サピエンスとしての基礎的な遺伝子(あるいはDNA配列)を有するだろう点では全く共通しているはずだ。しかし、外形や容貌を別としても、言語のみならず、文化や「思考方法」の点で異なることが多いとされていると思われる。
 西と東、とくに西欧(今のドイツも含める)と日本は、どういう点で異なり、それはいったいなぜそうなったのか?
 多く語られて論じられてきた主題に、秋月もまた最近は大きな関心を持っている。
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 池田の上の文章では日本を含む東アジアの「無我」あるいは「無」の哲学または宗教が語られている。
 だが、ヨーロッパには、あるいはキリスト教には、そのような意識・考え方はないのか。本当にそうならば、なぜそうなのか。
 批判をしているのではない。自問のようなものだ。
 一神教ではなく多神教だから、日本は優れているのだ、とかの日本会議系または櫻井よしこ流の幼稚な思いつき的発想では、何の回答にもならない。
 「かみ」を信仰・崇敬の対象としている点で「神道」は一神教だとも言えるし、仏教上も、釈迦に近い順らしいが、如来・菩薩・明王・天という順での、かつそれぞれの中でも多様な信仰または崇拝の対象がある。キリスト教の場合も、「聖〜」とかの複数の聖人も崇拝・拝礼の対象になっている。
 日本の「宗教」とは、日本人の「信仰」とは。この問題には当今、大きな興味を持っている。
 池田の上の文章の中には、大乗仏教と「習合」した「既存の民俗信仰」という言葉が出ている。
 仏教と「習合」したこれを「神道」だとは、池田信夫も考えていないだろう。
 「神道」という言葉・概念がない時期だったのだから、8世紀前半の日本書記や古事記から「既存の民俗信仰」の確かで明確な姿や内容を語ることはできないだろうと思われる。
 ここで何かを論じる能力・資格は、秋月にはない。
 ただ素人的にでも興味深く思うのは、日本にあった(今でもある)山岳信仰、一般的にはこれと少しは違うだろうが、<修験道>という今でも完全には消失していない(今では仏教に分類される)「道」・宗教だ。さらに、これも今は仏教の一種とされているが、<役行者信仰>というものの存在とその実体だ。
 こうしたものは、日本人のいったいどのような根本的「哲学」または「宗教」を示して、あるいは示唆して、いるのか。
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  ところで、櫻井よしこや西尾幹二は、仏教伝来までに日本にはすでに確固たる「神道」があって、「寛容な」後者が前者を受け入れた、という旨を恥ずかしげもなく書いている。
 従前にあった「神道」なるものの実体を明確にできないかぎり、この主張は馬鹿げている。
 こんな主張よりも、仏教「公伝」以前に、ある程度は半島経由だろうが、大陸中国から重要な「知識」または「文化」をすでに受容していた、そうしたものの影響を受けていた、ということの方が重要だろう。
 「暦法」または基礎的な「天文学」はこれにあたる。確認しないが、古事記でも日本書記でも天皇即位年を基準とする年次表記、元号制定後の元号を利用した年次表記、の他に「干支」を使ったものがある。これは日本産ではなく、仏教「公伝」よりも早くから知られていて、すでに利用されていたのではないか。
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 こんなふうに雑文を綴っていくと、際限がなくなる。
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2703/池田信夫のブログ031—大学・リベラルアーツ。

 一 池田信夫の昨秋あたり以降のブログマガジンは、興味深いまたは刺激的な内容が多かった。
 逐一の言及はしていない。Richard Dawkins の書物を使った又は基礎にした<利己的遺伝子>や<文化的遺伝子>等を扱っていた頃に比べて、むしろinnovate され、verbessern されていると思われるので、感心している。
 大きな流れからすると些末な主題だが、つぎの論定はそのとおりだと感じた。
 「リベラルアーツは、インターネットでも学べる陳腐化した知識にすぎない。
 実験や研究設備の必要な理系の一部を別にすると、現在の多メディア環境で『大学』という入れ物でしかできないことはほとんどない。」
 池田信夫ブログマガジン/2023年12月11日号—「近代システムの中枢としての大学の終焉」
 「別にすると」をそのまま生かして、最後の「ほとんどない」は「ない」でもよいと思える。
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 だが、今の日本で「大学」信仰はまだ強く残っているようだ。
 なぜか。どうすれば、打開できるか。これが、問題だ。
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 残っている理由の大きな一つは、戦前・戦後と基本的には連続するところのある日本の「学校教育」制度、「大学」制度によってそこそこに、あるいはそれなりに「利益を受けてきた」と意識的・無意識的に感じている者たちが、今の日本の諸「改革」論議を支えているからだ、と考えられる。
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  さて、適菜収、早稲田大学第一文学部卒。この適菜収を月刊誌デビューさせたと見られる元月刊正論編集代表・桑原聡、早稲田大学第一文学部卒。この桑原聡は同編集代表としての最後の文章の中で、「天皇をいただく国のありようを何より尊い」と感じる旨書いた。だが、一貫しているのかどうか、産経新聞社退職後は母校・早稲田大学で非常勤として「村上春樹」について講じているらしい。
 そして、西尾幹二、東京大学文学部「ドイツ文学」科卒。「哲学」科卒ですらない。
 ほんの例示にすぎないが、この人たちが何となく?身につけた「リベラルアーツ」は日本にとって、日本社会と日本国民のために、必要だったのか。
 しかし、「実験や研究設備の必要」でない、文学部の中での「文学」や「哲学」の専攻者と彼らの前提として必要な肝心の「文学」・「哲学」の大学教員は、何も「研究」していなくとも、当面は存在し続けるのだろう。
 おかしい、とは思う。だが、「おかしい」ことでも「現実」であり続ける。
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2701/加地伸行の妄言と西尾幹二。

  「本人編集」の西尾幹二全集(国書刊行会)が刊行され始めたのは、2011年の秋だった。
 出版元は当時、宣伝用の冊子またはパンフを作成したのだろう。
 その内容を、現在でもネット上で読める。
 爆笑?気味にでも面白く読めるのは、加地伸行の「推薦の言葉」だ。加地のこのときの肩書は、「大阪大学名誉教授/立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所長」。
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  全文の引用も能がない?ので、一部は省略・要約して、加地伸行の西尾幹二全集への「推薦の言葉」を紹介する。ほんの少しは<歴史的>意味があるかもれない。一行ずつ改行する。
 「西尾幹二氏は多作である。
 全集全二十二巻もの刊行が可能な著述家は、現在、ほとんどいない。」
 多方面に常に発言する「コメンテイターなる評論家」はいる。/
 同じように見えても、西尾は「決定的に異なる」。
 コメンテイターは「依頼者の意向やその場の雰囲気に合わせ」るので、「以前の発言と矛盾した発言をしても平気だ。世に迎合する者の常」だ。/
 「西尾氏は異なる。
 すぐれた学問的業績があり、それに基づいた確乎とした保守思想を有し、その一定の立場から発言するので、いかなる方面に対しても的確な見解を出し得、かつその内容に矛盾がない。
 不動にして一貫した姿勢、これは思想家であればこそなしうることである。」/
 「言わば、西尾氏は太陽である。
 太陽として輝いている。

  〔以下、二文略〕
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  すさまじく面白いのは、反復になるが、こうだ。
 西尾幹二は、「すぐれた学問的業績があり、それに基づいた確乎とした保守思想を有し、その一定の立場から発言するので、いかなる方面に対しても的確な見解を出し得、かつその内容に矛盾がない」。
 加地伸行は、本当にこう考えていたのだろうか。いやきっと、そう思い込んでいたのだろう。
 だが、2011年時点にせよ、「すぐれた学問的業績」があったとは到底思えない。加地はいったい西尾のどの著作を思い描いていたのか。
 「確乎とした保守思想を有し、その一定の立場から発言するので、いかなる方面に対しても的確な見解を出し得、かつその内容に矛盾がない」。
 これは全く事実に反する。例えば日本会議・椛島有三に対する西尾幹二の態度は揺れ動いた。
 「的確な見解を出し得、かつその内容に矛盾がない」。
 こんなことはない。西尾幹二が平気で前言と矛盾することを書いてきたことは、この欄で再三触れた。政治に屈服することがあり得ることも、西尾は早い段階で自分自身で書いていた。
 「依頼者の意向やその場の雰囲気に合わせ」るので、「以前の発言と矛盾した発言をしても平気だ。世に迎合する者の常」だ。
 こういう世のコメンテイター類に対する加地伸行の批判は、そのまま西尾幹二に当てはまる、と言って間違いではない。
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  西尾幹二全集全22巻は、2024年当初の時点で未刊のようだと、最近に知った。
 それに加えて、加地伸行がどうやら今でも月刊誌の巻頭に毎号に短文を掲載しているらしいことも、興味深いことだ(最近号で確認してはいない)。
 加地伸行の「教養・知識」、そして人生は、いったい何のために役立ってきたのか。
 老齢の妄言家の文章をしきりと掲載する出版社・雑誌があるとは、日本はなんと<贅沢な>国のことだろう。苦しんでいる人、困っている人はいくらでもいるというのに。
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2682/西尾幹二批判075・トニー·ジャット。

  Tony Judt(トニー·ジャット)の文章を最初に読んだのは、つぎの著の、Leszek Kolakowski=レシェク・コワコフスキに関する章だった。
 Tony Judt, Reappraisals -Reflections on the forgotten 20th Century, 2008.
 L・コワコフスキの大著がアメリカで一冊となって再刊されることを知って、歓迎するために書いたものだった。L・コワコフスキに対する関心が、私をT・ジャットにつなげた。
 この著にはつぎの邦訳書があった。
 トニー·ジャット=河野真太郎ほか訳・失われた20世紀(NTT出版、2011)。
 原書も見たが、この訳書にほとんど依拠して、L・コワコフスキに関する章をこの欄に引用・紹介したこともあった。→No.1717/2018年1月18日·①、以下。
 T・ジャットの最後の著は、つぎだった。
 When the Facts Change -Essays 1995-2010, 2010.
 L・コワコフスキ逝去後の追悼文がこの中にあった。敬愛と追悼の念が込められたその文章には感心した。それで、この欄に原書から翻訳して、この欄に掲載した。→No.1834/2018年7月30日。
 のちに、つぎの邦訳書が刊行された。
 T・ジャット=河野真太郎ほか訳・真実が揺らぐ時(慶應大学出版会、2019)。
 この訳書にも書かれているように、上の2010年著は著者の死後に妻だったJennifer Homans(ジェニファー·ホーマンズ)により編纂されて出版されたもので、冒頭に‘Introduction :In Good Faith’ という題の彼女の「序」がある。
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  この「序」の文章を読んで、日本の西尾幹二のことを想起せざるを得なかった。
 私(秋月)はT・ジャットの本を十分には読んでおらず、L・コワコフスキについての他は、Eric Hobsbawm とFrancois Furet に関する文章の概略を読んだにすぎない(前者は2008年の著、後者は2010年の著にある)。
 したがって、J. Homans が書くT. Judt の評価が適切であるかどうかを判断する資格はない。
 だが、その問題は別としても、彼女の文章の中のつぎの二点は、日本の西尾幹二を思い出させるものだった。その二点を、以下に記そう。
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  第一。編者で元配偶者だったJ. Homans はまず冒頭で、T·ジャットの人物と「思想」(the ideas)は区別されなければならないとしつつ、彼の「思想」は「誠実さをもって」または「誠実に」書かれた、と指摘する。冒頭にこの点を指摘するのだから、よほど強く感じていたことに違いない(私にその適否を論じる資格はないが)。
 「誠実さをもって」、「誠実に」とは、原語では、「序」の副題にも用いられている、’In Good Faith’ だ。
 邦訳書にほとんど従うと、そして編者によると、これはT・ジャットの「お気に入り」の表現(favorite phrase)だった。そして、編者は、これをつぎのような意味だと理解している。
 「知的なものであろうとなかろうと、計算(caluculation)や戦略(maneuver)ぬきで書かれた著述」のことであり、「純粋(clean)で、清明で(clear)、正直な(honest)記述」だ。
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 秋月瑛二は、西尾幹二について、こう感じている。
 西尾自身は「書けることと書けないことがある」と明言し、「思想家」も「高度に政治的に」なる必要がある旨を明言したこともある。また、月刊正論では安倍内閣批判が許容されたとか語ったことがあるように、雑誌の性格によって執筆内容の範囲や限界を「忖度」していたことを認めている。
 西尾幹二の「評論家」生活、「売文」業=「自営文章執筆請負」業生活は、<計算>と<戦略>にたっぷりと満ち満ちていたのではないだろうか。
 当然ながら、「純粋」でも「清明」でもなく、重要なことだが、「正直」ではない。
 西尾幹二の<戦略>についてはほとんど触れたことがないが、この人は、とくに2000年頃以降、広い意味での<保守>派の中で、どのような立場を採れば、どのような主張をすれば、目立つか、際立つか、注目されるか、という「計算」を絶えず行なってきた、と思われる
 西尾の反安倍も、反原発も、その他も、このような観点からも見ておく必要がある。近年ではやや薄れてはきているが、少なくとも一定の時期は、<産経>または<月刊正論>グループの中でも、櫻井よしこ・渡部昇一ら(八木秀次はもちろん)とは異なる立場にいることを<戦略>として選んできた気配がある。
 J. Homans が書いているとおりだとすると、T. Judt は、西尾幹二とは真反対の著述家だったようだ。たしかに、この人のL・コワコフスキ追悼の文章は、「計算・戦略」など感じられない、一種胸を打つようなところがある。彼はあの文章を、自分自身の<ゲーリック病>による満62歳での死の10ヶ月前に書いたのだった(病気のことを全く感じさせない文章だった)。
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  第二。「序」の最後に編者、J.Homans が書いているところによると、T・ジャットは死の直前の1ヶ月に「来世」(the Afterlife)と題する小論を書き始めた。だが完成しなかったようで、2010年著にも含まれていないと見られる。
 編者に残された断片的原稿の中に、つぎの文章があった、という。ほぼ邦訳書による。
 「影響や反応(impact, response)に関する何らかの見込みをもって、ものを書いてはならない。
 そうすれば、影響や反応は歪められたものになってしまい、著作そのものの高潔さ(integrity)が汚されてしまう。」
 「無限の可能性が将来にある読者の動機(motives)が生じる文脈(context)も、予期することはできない。
 だから、それが何を意味していても、きることはただ、書くべきことを書くことだけだ。
 読者や出版社・編集者の「反応」、彼らへの「影響」を気にして文章を執筆してはならない。書くべき(should)ことを書くだけのことだ。
 西尾幹二は、かりに知ったとして、T・ジャットの死の直前に書かれたこの文章をどう読むだろうか。
 自分の文章の読み方、解釈の仕方は、読み手に任せる他はないのではないか。前回に記したようなこの人の<足掻き>、あるいは<妄執>は、いったい何に由来するのだろうか。
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 書きたいことを書くだけだ。影響などないに決まっているし、反応を気にしても仕様がない。—これは全く、この欄についての秋月瑛二の心境でもある。
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2681/西尾幹二批判074—第8巻③。

  西尾幹二全集(2011〜)の最も「グロテスク」なところは、各巻の「後記」にある。
 とりわけ、それぞれの巻にすでに収載している自らの文章の一部を、決して少なくない範囲で「後記」の中で再び引用し、掲載していることだ。
 この「くどさ」、「執拗さ」には、唖然としてしまう。
 顕著な例は、第8巻(2013年9月刊)の「後記」だ。
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  西尾は上の「後記」の最初の方で、こう書いている。
 「本巻は10年余に及ぶ体験的文章であり、一つの精神のドラマでもあるので、時間の流れに沿ってそのまま読んでいただければ有難く、余計な解説をあまり必要としないだろう。ひとつながりの長編物語になっている」。p.787。
 この点でもくどく、同じ趣旨の文章がもう一回出てくる。
 「前にも述べた通り、本巻は一冊まるごと長編物語であり、いわば10年間にわたる一つの精神のドラマでもあるので、ここからの展開は素直に順を追って読んでいただければそれで十分であり、本意である」。p.794。
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 しかし、「時間の流れに沿って」、「素直に」読んでもらえればよく、「余計な解説をあまり必要としないだろう」というのは、あくまで表面的な言辞(あえて言えば「ウソ」)で、執拗な「読み方ガイド」や「自らによる要点の指摘」をくどくどと行なっている。
 (1) 西尾は当時の臨時教育審議会の動向への批判等を「後記」で再びあれこれと書いたあと、その趣旨はこの巻(第8巻)には全体を収載していない別の書物に書いたとし、その著の「序にかえて」だけを収載したこの巻(第8巻)のその部分(293-299頁、ふつうの大きさの活字・二段組で計7頁)の、そのまたその一部(1985年)を、「後記」で、わざわざ二箇所に分けてそのまま引用している。第8巻「後記」、p.791-3。
 最初は、小活字で、13行。「本書293-294ページ」と最後にある。
 つぎは、小活字で、19行。「本書296-297ページ」と最後にある。
 「本書」293-299頁を、あるいは293-294頁と296-297頁を読めば済むことを、西尾は「後記」でもう一回記載しているわけだ。その再掲部分は、それが最初に書かれた1984年ではなく、最も重要な部分だと西尾が全集刊行の時点で判断した部分なのだろう。つまり、2013年の時点での「判断」が入っている。
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 (2) 西尾の「後記」は、編集上の注記なのではなく、主としては2013年時点での「回顧」論考になっている。
 そして、(1) と同様に、すでにこの巻に収載している1992年の著の一部を「後記」の中で長々と引用している。第8巻「後記」、p.796-7。
 小活字で、6段落、35行。「本書649-650ページ」と最後にある。
 なぜ、こんなことをするのか。西尾は、こう記載している。
 「論理的に…最も深く考えてもらいたいという箇所」を「あえて抜き出し、お示しする」。
 「大量のページ数の多さに紛れてどこが私の主張の重点ポイントかを読者が見失うのを恐れてのことである」。
 西尾幹二は、とても親切であり、あるいはとても心配症なのだ。
 しかし、同時に「グロテスク」でもある。
 別の巻に収載している文章の紹介・引用ならば、まだ理解できなくはない。だが、西尾は、この巻に収載の文章についても、読者の理解、解釈に委ねようとはしない。別言すれば、読者を信用していないのだ。「私の主張の重点ポイントかを読者が見失う」のを懸念している、と明記している。
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 (3) 以上にとどまらない。西尾はこの巻の「V」の一部(1992年)を、長々と「後記」中で再引用している。第8巻「後記」、p.798-800。
 小活字で、5段落、40行。「本書666-668ぺージ」と最後にある。
 これは、第8巻「後記」時点での西尾のコメントを挟んで、さらにつづく。第8巻「後記」、p.800-1。
 小活字で、1段落、5行。「本巻668ページ」と最後にある。
 小活字で、1段落、4行。「本巻669ページ」と最後にある。
 小活字で、1段落、3行。「本巻669ページ」と最後にある。
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  緒言または後記で全集各巻の編集者が記述すべきことは、その巻に収載している個々の論考類が最初にどこに発表され、のちにどのように単行本にまとめられたのち、その巻ではどのように配置されているか等を、一覧表的に正確に明らかにしておくことだろう、と思われる。
 しかし、編集者・西尾幹二は、この点で不十分で、不親切であることは、すでに書いた。→批判070—第8巻①。
 一方で、この人は冗舌にも、小活字の計約120行も費やして、同じ巻に収録した文章を「後記」で再び引用している。いささか<異様>ではなかろうか。最初に読んだときだろう、私が所持するこの巻の「後記」の余白には、「くどい」と書いたサインペンでの文字が二箇所にある。
 「時間の流れに沿って」、「素直に順を追って読んでいただければそれで十分であり、本意である」と言いつつ、読者が「大量のページ数の多さに紛れてどこが私の主張の重点ポイントかを読者が見失うのを恐れて」いるのが理由だ、というわけだ。だから、<くどくどと>何度も書きたくなっている。
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  こういう<グロテスクさ>は、たんに「饒舌すぎる」とか、「くどすぎる」とかの印象以上の重大な問題を胚胎している。
 すなわち、1980年代や1990年代にすでに発表した文章の一部だけを2013年にことさら再度引用することは、かつての文章の意味・趣旨を数十年後の2013年になって実質的には<改変>した、<修正>した、ということになっているのではないだろうか。
 なぜならば、1984-85年や1992年の最初の発表時にあえて選べば重要な箇所だと西尾自身は考えていた部分と、2013年に振り返って西尾がそう判断する部分は、同じではない可能性があるからだ。
 西尾は、2013年刊行のこの巻で、「私の主張の重点ポイント」とか、読者に「最も深く考えてもらいたいという箇所」とかと記している。
 その「箇所」や「ポイント」がかつての初出時での思いと全く同一でないとすれば、そうした「箇所」・「ポイント」だけを新たに指摘して引用することは、実質的には2013年時点で「加筆修正」の一種をすることに他ならないのではないか。
 西尾幹二は、なぜいけないのか、文章の書き手は同じ自分だ、と言い張るのかもしれない。
 しかし、1980年代半ばや1990年代初頭と2013年とは、時代が大きく異なる。そのあいだには、ソ連邦の解体、「新しい歴史教科書をつくる会」の発足と分裂、西尾『皇太子さまへの御忠言』の刊行等々があった。西尾幹二自身が、かつての『教育文明論』(全集第8巻のテーマ)の時期と同じ考えを持っているはずはない、と推察するのが、むしろ常識的ではないだろうか。「教育」をめぐる状況も、20年以上のあいだに変わらなかったはずはない。
 このように、西尾幹二は、全集の「後記」の執筆を通じて、かつての自分の論考類の意味・意義の修正・変更を図っている可能性がある。西尾幹二の自分編集による同・全集とはそのようなものだと(今回は各巻への主題の「作為的な」配分には触れていないが)、読者・利用者は注意しておかなければならない。
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2676/西尾幹二批判073—「歴史」と安倍晋三内閣。

 思想家か、「売文業者」か。
 こういう問題を設定すれば、西尾幹二が後者であることは、はっきりしている。「自営の文章執筆請負業者」なのだ。63歳までは国立大学教員の「安定した」地位と「電気通信大学教授」という肩書きだけでは西尾は満足せず、「売文」を通じて世間的に「有名に」なりたかった、強い「自尊心」を満足させたかったわけだ。
 だが、文章を執筆して原稿料や印税を得ることを主たる生業とする者は全て「売文業者」なのだから、問題は、西尾幹二は<どのような>文章執筆請負業者であるのか、だ。
 その文章が示す主張・見解に一貫性がないこと、しばしば「無知」であること、単純幼稚な「思いつき」をさも深遠な内容をもつかごとくに堂々と書ける「神経」をもつこと、これらは、西尾幹二の諸文献・文章を少しはまとめてきちんと読んでいると、容易に気づくことができる。
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  先日に2019年の<文春オンライン>上の西尾の発言に言及した。
 あらためて読んでみると、言及した以外にも興味深いことに気づく。
 幼稚な「歴史」観を、単純には論じきれない「歴史」叙述とは何かの問題を、つぎのように語って<得意になって>いるようであるのも面白い。内容にここで検討し、論議するつもりはない。インタビュアーは辻田真佐憲。一行ずつ改行する。「歴史と物語の関係」に入る前に、として、こう述べている。
 「さきに私の考える『歴史』の定義をお話しした方がよいでしょうね。
 私がまず申し上げたいのは『過去』と『歴史』を一緒に考えるのは根本的な間違いであるということです。
 過去というものはもはや動かないものですね、一度起こったことは不可逆。
 たとえば人生におけるなんらかの事故で失明という災いが生じれば、それはもう元には戻らない出来事ですね。」
 「しかし、人は動かしようのない過去に対しても心を動かします。
 人生の災いに対して自殺するほどの苦しみを感じるかもしれない、あるいは事故の責任を他に求めて社会的正義を訴えようとするかもしれない。
 あるいは時が経って事故を神が与えた試練ないしは慰めとさえ感じ、宗教的に浄化させるようになるかもしれない。
 ある出来事に対する人の心の動きは、その時その時によって違うわけです。その心の動きによって変わって見える過去が『歴史』です
 つまり『歴史』とは動くものなのです。」
 少しは具体的例への言及があるが、省略する。
 いずれにしても、「はぁ?」、「それで?」という感想が多くの人々に生じるだろう、あるいは、人の「心の動き」をえらく大切にする人なのだな、という感想も生じるかもしれない。
 2011年頃に遠藤浩一との対談で、これまでの自分の仕事は全て「私小説的自我」の表現でした、と語った人物だけのことはある。
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  安倍晋三首相(当時)について語っていることも、関心を惹く。インタビュアーの辻田真佐憲が「『保守の真贋』(2017年)で日本会議や国民文化研究会、日本政策研究センターといった安倍首相を運動的・思想的に支える組織を『保守系のカルト教団』と強い言葉で批判」、安倍首相自身についても「拉致に政権維持の役割の一端を担わせ、しかし実際にはやらないし、やる気もない」と「厳しく批判」と、さらなる発言を求めたのに対して、こう答えている。一行ずつ改行。
 「安倍さんについては、私にだけではなく多くの人の目に、その正体が現れたという思いが年々強くなっていますね。
 人たらしって言うのかな、威厳はないけれども敵は作らない絶妙さを持っている一方、旗だけ振って何もやらない無責任さがあります。
 憲法改正がいかに必要であるか、炉辺談話的に国民に腹を割って説明をしたことが一度でもありますか。
 中国の脅威について、世界地図を広げながら国民に説明したことはありますか。
 憲法改正についても安全保障についても、やるやるとぶち上げておきながら、はっきりしたことは示さないまま時間切れを迎える。
 私はかつて安倍さんに“言葉を持つ政治家として”大きな期待を持っていたんですが、今となってはあと10年経たないうちに歴史が『最悪の内閣』だったと証明するだろうと思っています。」
 ―それでも西尾さんの言う「安倍さん大好き人間」がいっぱいいる。
 「ええ、バカみたいにたくさん。
 何があの『大好き人間』の悪いところかというと、彼らの目的は政治ではなく安倍さんを頭目として首相の位置に置き続けること自体が、自己目的化していることです。
 もっぱらその目的のために彼らが言論を戦わせているところ。最近の保守系の雑誌をめくればすぐにわかりますよね。『月刊Hanada』にしろ『WiLL』にしろ『Voice』にしろ。」
 ―『正論』はいかがですか。
 「『正論』は辛うじて私の安倍批判を載せますから。
 もっと安倍批判を保守の立場から堂々と論じることのできる人が、僕以外にもたくさんいるはずなのに、メディア側が抑えている。」
 このように、安倍晋三に対しては批判ばかりをし、安倍支持者・同雑誌も弾劾している。
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  批判または擁護は、それはそれでよいとして、秋月にはきわめて不思議に感じることがある。
 西尾幹二は、上から約一年半後の月刊正論2020年7月号に「安倍晋三と国家の命運」と題する文章を寄せた。この主題で何を言いたいのか、よく分からないまま「たらたらと」、どちらかと言うと批判的に安倍首相の時代を追っているが(なお、直後に安倍内閣は退陣した)、最後の一文の一つ前の文はこうだった。
 「安倍政権は民主党政治の混乱から日本を救い出し、長期の安定をもたらしたが、今や現実が見えなくなり、変化をこわがっている」。
 たしかに批判的なトーンで終わってはいるが、上に見た2019年1月での発言とはまるで異なる。
 2019年1月には、安倍内閣について、「歴史が『最悪の内閣』だったと証明するだろう」とまで言っておきながら、この2020年7月号では、「民主党政治の混乱から日本を救い出し、長期の安定をもたらした」という積極的・肯定的側面を明記している。
 これでは、<矛盾>または<一貫性の欠如>と指摘されても仕方ないだろう。
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 しかし、西尾幹二においては、「一貫性」の維持など、大した問題ではない。見解や評価を何の理由を示すことなく変化させることくらいは、平気のことだ。
 2019年の初めには、<保守の立場からの安倍内閣批判>と銘打った自分の書物に言及されたために、あえて批判だけ述べたのかもしれない。2020年の夏には、月刊正論に掲載予定のの原稿であることを意識して、「民主党政治の混乱から日本を救い出し、長期の安定をもたらした」という、同編集部や月刊正論の読者(の多数?)を意向を「忖度」した文章を挿入したのかもしれない。
 そのときごとに微妙に表現の仕方や内容それ自体を変えること、掲載予定の新聞や雑誌の<傾向>を考慮(・忖度)しつつ文章を書くこと、これは「自営の文章執筆請負業者」=「売文業者」である西尾幹二の本質に属する
 なぜ、それでよいのか。理由を示さないままでの趣旨の変更は、ときには「ニュアンス」の変更ですら、「良心のある」文章執筆者ならば、避けたいところだろう。
 そのような「良心」は、西尾幹二にはない。そう断言してよい。
 西尾にとっては、注文に即して、所定の枚数(・字数)の原稿を書いて編集者に渡し(メールを送信し?)、ともかくも雑誌や新聞に掲載されて、<自分の名前>が知られつづけることこそが重要なのだ。
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  上の2019年のインタビューへの回答の中に、西部邁・小林よしのり等々は「国民の歴史』がベストセラーになったことが口惜しかったのでしょう」(だから私と対立したのでしょう)、というのがあった。この書の売れ行きが良かったことを、この人は何度も述べている。
 しかし、購入者の全てが西尾著の内容を支持したわけではない。だいぶ昔に、当時に流行した羽仁五郎『都市の論理』(勁草書房、1968年12月)を私も購入したが、少しだけ捲って、あとは全く読まなかった記憶が私にはある。だから、購入されても(売れても)読まれなかった場合も少なからずあった、と推測される。
 しかし、西尾幹二にとって重要なのは、自分の書物がきちんと読まれること、さらにはその内容としての見解・主張が共感され、支持されることではない。
 そのようであるにこしたことはないだろう。しかし、この人にとって重要なのは、多数の購入者によって、著者である<自分の名前>が広く知られることだ。「西尾幹二」の名が「有名」になれば、それで十分に満足なのだろうと推察される。
 全集の「後記」でも含めて、この人はしばしば、<この本は〜部売れた>とか書いている。販売部数は、自分の見解・主張が支持された数量とは一致しない。だが、<名前が知られた>、「有名」になった、「えらい人」だと何となく思わせた、という数量とはかなり一致しているかもしれない。だからこそ、西尾幹二は、「売れ行き」・販売部数にひどく執着しているのだと考えられる。その<全集>がどの程度売れているのかは、私は全く知らないけれども。
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2674/西尾幹二批判072—小林よしのり論

  西尾幹二という人物、その人が書く文章を信用してはならない、ということは、諸々のかたちでこれまでこの欄で示してきた。
 再述だが、「真面目に受け取る」ことの危険性を示すものとしてとくにつぎの二つを取り上げたことがある。
 ①月刊正論2002年6月号=同・歴史と常識(扶桑社、2002)p.65-p.66。
 「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけない」。
 「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない。正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
 ②月刊諸君!2009年2月号、p.213。
 「思想家や言論人も百パーセントの真実を語れるものではありません。世には書けることと書けないことがあります。」
 「公論に携わる思想家や言論人も私的な心の暗部を抱えていて、それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされるでしょう」。
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 だいぶ昔の文章だと感じられるかもしれない。
 しかし、すでにかなり昔の文章ではあるが、これらを読んで、当時の西尾幹二の関係者、とくに出版社の編集担当者や表向きの「仲間たち」が、この人物の<本質>に気づかなかったようであることが、不思議でならない。
 上の②は、率直に公に書けば「狂人」と見なされるだろう「私的な心の暗部」を、西尾幹二もまたもっていることを告白?するものだ。当時の誰一人、このことを訝しく感じなかったのだろうか。例のごとく、<レトリック>だとして済ませたのだろうか。
 なお、「世には書けることと書けないことがあります」という明言も、さすがに「文章執筆請負」を業としてきた、<空気>を気にせざるを得ない者の言葉ではある。
 以下は、上の①についてに限る。
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  思想家が「正しい『思想』も、正しい『論理』も」「かなぐり捨てる」、「そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう」。等々。
 これは一般論としても興味深いが、西尾幹二が「つくる会」の会長をしていて、かつ西部邁と小林よしのりが同会を退会した直後に書かれたものだ。
 小林らはアメリカの対応に批判的だったが、西尾幹二はそうではなく、日本政府の対応も容認した。これを不満として小林は西尾幹二らを批判したが、西尾をはじめ月刊正論・産経新聞社グループは、小林よしのりへの全面的批判・攻撃をするに至った。
 ①の西尾の文章は、小林を批判し、自己の立場を正当化する文章の中で出現した。
 月刊正論2002年6月号での表題はこうだった。
 「臆病者の『思想』を排す—小林よしのりを論ず」
 なお、西尾は西部邁に対しては「保守派の反米主義に異議あり—おゝブルータスよお前もか!」(月刊正論2002年3月号)を書き、産経新聞2月19日付紙上には「嘆かわしい保守思想界の左翼返り」を書いた(上記の単行本所収に際して「保守思想界一部」に変更)。
 西尾幹二の、「思想家」は「高度に政治的」であるべきだ、日本が「国益」のために外国に「土下座」するのを「われわれ思想家が思想的に支持する」時期はくるだろうし、すでに来ているかもしれないとの論述は、こうした状況の中で書かれた。
 つまりは、自らの「容米」の立場を正当化し、当時の「反米」論を批判するために、当時「つくる会」会長だった西尾が書いた。
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 ここで、西尾幹二が「つくる会」について、のちに2017年にはこう語ったことを、想起せざるを得ない(全集第17巻/歴史教科書問題、p.712)。「つくる会」20周年集会での「挨拶」(代読)の中でだ。
 「つくる会」は、「反共だけでなく、反米の思想も『自己本位主義』のためには必要だと考え、初めてはっきり打ち出しました」。竹山道雄・福田恆存に「反米」の思想はなかった。三島由紀夫・江藤淳が先鞭をつけたが、「はっきりした自覚をもって反共と反米を一体化して新しい歴史観を打ち樹てようとしたのは『つくる会』です」。「反共だけでなく反米の思想も日本の自立のために必要だということを、われわれが初めて言い出した」。たんに「敗戦史観からの脱却だけが目的ではなく、これがわれわれの本来の理想の表われだったということを、今確認しておきたい」。
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  日本共産党やその幹部・不破哲三と同じく、<何とでも言える>ものだ。
 それはともかく、「反共だけでなく反米の思想も」初めて言い出したというのは、「つくる会」に関する歴史的事実だろうか。西尾は、「つくる会」の歴史も、自らの現在(この場合は2017年)に都合のよいように<捏造>しようとしている、と思われる。
 「つくる会」発足当時の諸文書の中に、<反共+反米>の思想を実証できるものはあるのだろうか。
 むしろ、「反米」姿勢の強かった西部邁や小林よしのりに対する西尾の厳しい批判は、上のような叙述と完全に矛盾しているのではないか。
 いや、「思想」と「政治」は別だ、だから上の①のように書いておいたのだ、と西尾は釈明するのかもしれない。
 だが、「正しい『思想』」を放擲して「高度に政治的に」、「政治」を優先する必要があり得ることを明言して承認する「思想」とは、あるいは「思想家」とは、そもそも「思想」や「思想家」の名に値するのだろうか。
 ともあれ、西尾幹二は、その程度の「思想家」なるものであることを、2002年の時点ですでに自ら認めていたことに注目しなければならない。
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 なお、小林よしのり・新ゴーマニズム宣言12/誰がためにポチは鳴く(小学館、2002)の第166章が、西尾の上の論考に対する反論になっている(初出はSAPIO(平凡社))。表題は、つぎのとおり。
 「小林を排除せよと叫ぶ西尾ポチ」。p.69。
 小林よしのりは、「今回、西尾の文章で、つくづくもう手の施しようがないなと思った部分を紹介しておく」として、最後に、上記の①の西尾の第二の文章を引用している。p.75。
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  2017年の時点で、西尾幹二は、「つくる会」会長だった2002年の頃に西部邁や小林よしのりと対立したことを、きちんと記憶していたのだろうか。自分は彼らに対する「容米」派だった時期のことだ。
 こんな疑問を抱くのも、内容的に矛盾していることのほか、つぎのような理由がある。
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 2019年1月に<文春オンライン>上で、西尾幹二は、インタビューへの回答・対談記事を載せた。
 その中で、2002年頃の小林よしのりの「つくる会」脱会に関して触れている部分を、全て以下に引用する。西部邁だけが関係する部分は省略する。
 「 ――1996年12月に『つくる会』は“日本に誇りが持てる教科書づくり”を目的として発足します。初期の主なメンバーには伊藤隆、藤岡信勝、小林よしのり、西部邁、坂本多加雄、高橋史朗などの各氏。会長は西尾さんでした。しかし、会はその後、幹部の対立と分裂を繰り返してしまいます。今、振り返ってどのようなことを思われますか。
 西尾 2002年に西部と小林が会を去った原因は、私たち幹部の対立に他なりません。もっと言えば、みんな『西尾憎し』だったのかもしれない。「国民の歴史」がベストセラーになったことが口惜しかったのでしょう。」 〈以下、中略〉
 「 ――同じく2002年に脱会する小林よしのりさんとはどんな関係だったのでしょう。
 西尾 彼とは今も付き合いがありますが、『つくる会』時代も仲が良かった。小林としては『俺は宣伝マンじゃない』という気持ちがあったのかもしれないが、協力者としては非常に便利でしたし、ありがたかった。叙述もうまいんだよ。だから私は歴史教科書の執筆の多くを彼に任せました。太平洋戦争開幕のところや、特攻隊について、それから日本神話の部分も小林のライティングです。
 ――西尾さんによるキャスティングだったんですね。
 西尾 そうです。彼の才能を買っていましたから。市販本の歴史教科書自体は40万部くらいのベストセラーになったと思いますが、これには小林に対する人気もあってのこと。だから、その頃までは蜜月だったの。
 ――西尾さんが『国民の歴史』を書かれるときにも、小林さんは後押しされたとか。
 西尾 そうですね、版元の扶桑社がああだこうだと私に要求ばかりしてきたときに、小林は『俺は西尾さんの仕事を待っている』『どれだけ遅れたって構いはしない』と、一貫して私の支持者でいてくれた。彼はね、物を作ることの困難をよく知っているんですよ。
 ――漫画家としての経験があるからですか。
 西尾 そう。自分で人を雇って、アシスタントをまとめる責任感を持っている。その苦しみも知っている。他のメンバーは学校の先生だから無責任で、外側からワイワイ言っているだけだったが、小林には男らしいところがあった。
 ――それほどの信頼関係がありながら、なぜ別れることになったのでしょうか。
 西尾 私にも明確にはわからない。ただ一つだけ、私も態度を硬くしてしまったと思うのが、小林に漫画を描かれたとき。小林は私の顔を犬にして『アメリカべったりのポチ保守』と描いたんだったかな。
 ――ありましたね。
 西尾 それで僕、怒ったんだよね。
 ――そりゃそうですよね。
 西尾 我慢すりゃいい話だったかもしれないが、そうもいかなかった。加えて2006年に八木が脱会した分裂紛争というのは、…〈以下、省略〉」。
 以上。
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 以上が、全て。
 西尾幹二は自分が月刊正論2002年6月号で「臆病者の『思想』を排す—小林よしのりを論ず」と題して書いたことを、すっかり忘れていると思われる。
 <思想家は「高度に政治的に」なければならない>等々と書いたことを明らかに忘れているようだ。
 また、小林よしのりと「別れ」た理由は「私にも明確にはわからない」とのうのうと語っている。
 西部邁との対立についてもそうなのだが、「『国民の歴史』がベストセラーになったことが悔しかったのでしょう」などと言いつつ、<対テロ戦争>の発生にも、西部邁と小林よしのりがこの点で「反米」派だったこと、自分はこの点で「容米」派だったことには全く触れていない。すっかり忘れてしまっていたのだろう。
 その代わりに、小林よしのりが自分の顔を漫画で戯画化した、それで怒った、ということだけはよく憶えている。
 こんな調子だから、西尾が2017年に「つくる会」は「反共+反米」を初めて明確に打ち出したと語ったとき、かつて2002年頃に「反米」派と対立したことを全くかほとんど忘却していたとしても、何ら不思議ではない。
 のちには、西尾幹二は、「高度の政治的」判断を忘れて?、<保守>派の中では際立って「反米」性の強い主張をするようになった。
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 政治的認識や見解の変化は、もちろんあり得る。しかし、とても容赦することができない、と感じるのは、かつて「会長」だった2002年頃の自分の主張・見解をすっかり忘れて、2017年になって、「会」は「反共+反米」を初めて明確に打ち出したと、ぬけぬけと語っていることだ。
 なぜ、こういうことが生じるのか。
 西尾幹二にとって、見解・主張の内容やその変化などは、本質的問題ではない、どうでもよいことなのだ。
 この人にとって重要なのは、自分が「有名」であること、「えらい人」だと感じさせること、自分が関係した「運動」の意義を自分が理解するように理解し解釈させること、自分の「面子(メンツ)」が維持されていること、なのだ。
 誰にもある程度はこういう面があるかもしれない。しかし、西尾幹二の場合は、異様に大きすぎる。
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2668/西尾幹二批判071—全集第8巻②。

 西尾幹二全集第8巻(2013)の「後記」の第一頁(p.787)には、前回に触れたいくつかの点以外に、注目を惹く文章がある。
 第一に、1980-90年の約10年、「思想家としても、行動家としても、限界までやったという思いももちろんないではない」、とある。
 これは2013年時点の感慨なのか、1990年初頭にすでに抱いたものなのかは明確ではない。
 しかし、少なくとも2013年の時点ですでに、自らのことを「思想家」かつ「行動家」だと書いている。
 秋月瑛二は、2019年1月の文春オンライン上で(私には)「『日本から見た世界史の中におかれた日本史』の記述を目指し、明治以来の日本史の革新を目ざす思想家」としての思いがある(だから椛島有三と妥協できなかった)と語った部分が、最初かと思っていた。
 2013年に、何の限定も付けずに、かつ自らの文章で「思想家」(かつ「行動家」)と称していたのだ。
 なお、いつの時点であれ、西尾を本当に「思想家」だと見なしている人は何人いるのだろうか。
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 第二に、「人生で一番よいものの書ける、体力もある充実した歳月に私は教育改革のテーマに集中していた」約10年が経った後について、こうある。一文ずつ改行する。
 「フッと憑きものが落ちたかのように、この世界から離れてしまった。
 そのあと二度とこの種の教育論は書いていない
 日本の教育の行方に絶望したからだともいえるし、教育を考えること自体に飽きたからともいえる。」
 これは、じつに驚くべき文章だ。1990年前半での述懐ならばまだ分かる。
 しかし、西尾幹二はその後、「教育学」研究者の藤岡信勝と出会い、1996-1997年に〈新しい歴史教科書をつくる会〉を設立し(記者会見は1996年12月)、自分が「初代会長」になったのではないか。
 この「つくる会」とその運動は、名称上も「歴史教科書」に関係するもので、日本の「歴史教育」を正面から問題にしていたのではないか。当然に、「教育改革」と関連する。
 それにもかかわらず、いかに「会」とは直接の関係がなくなっていたとは言え、2013年に、1990年初頭以降は「日本の教育の行方に絶望した」または「教育を考えること自体に飽きた」、という旨(こうとしか読めない)を書けるとは、いったいどういう<神経>のもち主なのだろうか。
 この人にとっては、「教科書」も「教育」も大した問題ではなく、これらとは別の次元の「思想」・「精神」または「歴史哲学」に、あるいは自分が「会長」として目立っていて〈有名〉であることに、最も大きな関心があったのかもしれない。
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 第三に、「人生の重要な時間を費やした貴重な体験からもパッと離れ、たちまち遠くなってしまう」ことについて、こうある。
 「ある意味で悪い癖で、私は感動だけを求めていて、これはその後の人生でも繰り返されたパターンである」。
 これは、西尾が「その後の人生」や自己の「癖」について語っていて、興味深い文章だ。
 そして、最も気になる重要な言葉は、「私は感動だけを求めてい」た、という部分だと思われる。
 西尾がそれだけを求めていた(その後でもそうだったとする)「感動」とは何か
 「真実」でも、「正義」でもない、「感動」だ。
 この「感動」は、教育改革に自分の見解が採用された、それに影響を与えた、というものではないだろう。
 そして、教育改革(そのための「臨教審」・「中教審」答申等)をめぐって(当時は2013年時点よりも多様な全国紙を含む)諸情報媒体から、西尾幹二個人の発言または原稿執筆が求められ、西尾の名前が知られ、注目され、〈有名になった〉こと、これこそがこの人にとっての「感動」であったように思われる。
 すでにこの欄に書いたことだが、「真実」、「正義」、「合理」性は、西尾幹二が追求してきたものではない〈有名〉・〈高名〉な「えらい人」と多数の人々に認知されるという「陶酔感」、「感動」を得ることこそが、この人が追求してきた最大の価値だった、と考えられる。
 もちろん、そうした「願望」が実現されたかは、別の問題になる。
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 つづく。

2667/西尾幹二批判070—全集第8巻①。

 西尾幹二全集(国書刊行会)について、「グロテスク」とか「複雑怪奇」と評したことがある。以下の巻に即して、これを見てみよう。
 西尾幹二全集第8巻・教育文明論(国書刊行会、2013。全804頁)。
 ——
  目次を概観し、さっそくに「後記」を見てみる。
 冒頭に、こうある。p.787。
 「『教育文明論』という題で編成した本全集第8巻は、私の45歳から55歳にかけての10年間、…私が情熱を注いだ教育改革をめぐる論考の集大成である」。
 『教育文明論』という単著がすでにあるのではないことが、分かる。
 しかし、上の文章にはすでに、「大間違い」または「ウソ」がある。
 西尾は1935年生まれなので、「私の45歳から55歳にかけての10年間」とは、ほぼ1980年から1990年の10年間を意味しているはずだ。
 しかし、この巻に収載された個々の論考類には、上の範囲を逸脱しているものがある。決して、ごく一部ではない。
 「I 」の中にまとめられている6つの小論考の発表年月は、順に、1974年3月、1976年8月、1978年4月、1978年6月、1979年3月、1979年5月。
 「VI」の中に収められている3つの論考の発表年月は、順に、1991年1月、1993年3月、1995年5月。
 全てが1980年〜1990年の範囲を超えている。なお、「I 」の表題が「…を書く前に…考えていたこと」であることでもって釈明することはできないだろう。「I 」もまた、この「巻」の一部だからだ。
 さらに、上の「後記」冒頭の文章には、驚くべき「大ウソ」がある。
 計16頁ある「後記」の最後の方の15頁めになってようやく、各個別論考、最初に収載した単行本、そしてこの全集との関係についての記述が出てくるのだが—後述のとおり、この点こそ「異様」なのだが—、そこで初めにこう書かれている。
 「…以外の文章を収録した単行本名と各作品名を記すと次の通りである」。
 「…」で記載された文章(単著)は、そのままこの巻に収載した、との趣旨なのだろう。
 「…」の部分に記された単著の名、本巻での符号、当初の発行年月は、つぎのとおりだ。発行年月は「後記」には記載がなく、この巻での最終頁に記されている。
 ①『日本の教育 ドイツの教育』、「II」、1982年3月。
 ②『教育と自由』、「V」、1992年3月
 何と、かつての単行本を単独の「II」・「V」との数字番号を当ててそのまま収録したらしき二つの単行本のうち一つは、「私の45歳から55歳にかけての10年間」に刊行されたものではない。
 また、以下で「C」と略記するものについて、上二つに似た紹介をすれば、こうなる。
 C=『教育を掴む』、「III」の一部と「IV」、1995年9月
 この1995年9月は刊行年でそれに収録した個別論考類の発表年ではない。しかし、これに収録されたと各論考類の末尾に記載された①〜⑤のうち、②〜⑤の発表年は、それぞれ1991年1月、1991年4月、1991年4月、1991年5月だ。
 いずれにせよ、これらも1990年よりも後に書かれている。
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 西尾は、かつての自分自身の書物や文章がいつ書かれて発表されたかをきちんと確認しないままで、「後記」を書いているのだ。「大まかには」、「おおよそ」といった副詞を付けることもなく。
 以上は、西尾幹二の文章は「信頼することができない」ことの、まだ些少な一例だ。
 ——
  西尾は「後記」で、こう書いている。
 「本巻は10年余に及ぶ体験的文章であり、一つの精神のドラマでもあるので、時間の流れに沿ってそのまま読んでいただければ有難く、余計な解説をあまり必要としないだろう。ひとつながりの長編物語になっている」。p.787。
 くどくも、同じ趣旨の文章がもう一回出てくる。
 「前にも述べた通り、本巻は一冊まるごと長編物語であり、いわば10年間にわたる一つの精神のドラマでもあるので、ここからの展開は素直に順を追って読んでいただければそれで十分であり、本意である」。p.794。
 しかし、第一に、こうした趣旨を西尾自身が破っており、「余計な解説」以上のことを彼自身が「後記」で書いている。この点は、別の回で扱う。
 第二に、「そのまま」「素直に」読んで、とか、「いわば10年間にわたる一つの精神のドラマ」だといった文章自体が、2013年時点での、自分のかつての書物や論考についての読者に対する「読み方ガイド」であり、2013年時点での「誘導」になっている。
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  上のことも西尾の自己「全集」観を示していて、重要だろう。 
 だが、全集の読者・利用者が「編集者」に期待するのは、上のような<贅言>をくどくどと記すことではなく、最初に発表した論考、それらを収載してまとめたかつての単行本、この全集の巻での掲載の仕方の関係を、きちんと、丁寧に明らかにしておくことだろう、と思われる。全集の「緒言」・「まえがき」または「後記」・「あとがき」類は、そのためにこそあるべきだろう。
 だが、西尾の「全集」観は、自分の「全集」については、明らかにそうではない。
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 計16頁の「後記」の15頁めを見てようやく分かるのは、この巻に収められている主要部分は上記の二つの単行本であることのほか、ほとんどの文章(「作品」)は三つの単行本にかつて収録されていた、3つだけはこの全集が初めて収録した、ということだ。
 しかし、第一に、これら三著(上記の二著以外)に収録されていたものは全てこの巻にあるのか、それとも別の巻に入っているものもあるのかは、明記されていない。
 かつまた、第二に、これら三著に収録されていたものが、全集のこの巻でどのように配置されているのかは、「後記」のこの箇所では全く記されていない。
 したがって、この巻の読者は、目次と「後記」のこの箇所(p.803-4)を自ら照合させて、かつての収録関係を理解するしかない。
 ①最初に発表した雑誌や新聞等々の特定、②それらをかつて刊行したどの単行本にすでに収録したのかの特定は、一覧表的に明らかにされておくべきだと思うが(それが「全集」の第一の役割だと思うが)、西尾「全集」のこの巻では、なされていない。かつての一冊の著書をそのまま全集の一巻とした例外的場合を除いて、その他の各巻と同様に、<複雑怪奇>な「構造」になっている。この巻での個々の論考等の末尾には、①しか記載されていないのだ。
 ——
 秋月において、この「複雑さ」を解消する作業を行なってみよう。一部についてに限られる。
 「I」、「III」、「IV」はこの巻での番号、「A」、「B」、「C」はかつての単行本(各々、1981年、1985年、1995年刊)、①・②・…はこの巻の「I」等の中の順の番号(この巻にはこれらの数字は目次にもない)。この巻に「初出」のものもある。
 「I 」①〜③→全集に初出。④・⑤→「A」、⑥→「B」。
 「III」①〜⑯→「B」。⑰〜⑳→「C」。
 「IV」①〜⑤→「C」
 以上。
 なお、つぎのコメントが「後記」に付されているものがある。
 「III」③—「(『…』に改題して収録)」。
 これはどういう意味だろうか。「…」の部分はこの巻にはないからだ。
 おそらく、この巻では元に戻したが、「B」に収録したときは「…」と改題した、という意味なのだろう。表題自体が、最初の発表時、過去の単行本時、全集収録時で異なり、「B」でだけ異なる、というわけだ。
 一方、個々の論考類の出典について、全集のこの巻に、それらを掲載した末尾に「改題」と明記しているものがある。
 例、「III」④、同⑤、同⑥、同⑨、同⑬、同⑰。
 これらはおそらく、全集収録時ではなく、上の④〜⑬はかつての単著「B」に収録する際に、上の⑰はかつての単著「C」に収録する際に、「改題」した、という意味なのだろう。
 「改筆」と明記されている場合もある。「III」⑮。
 おや?と感じさせるが、おそらく、全集収録時ではなく、かつての単著「B」に収録する際に「改筆」した、という意味なのだろう。
 全集に収載するときに、かつての「B」で示した出典や「改筆」の旨を、全集時点でも何ら変更なく<そのまま>使って示しているわけだ。
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  以上は、読者・利用者に対する「編集者」としての「親切さ」または「丁寧さ」の欠如だ、と論評できるだろう。「複雑」であり、「紛らわしい」ことの原因になっている。
 しかし、それ以上に<いいかげんさ>を感じさせるところが、「後記」にはある。
 第一に、上に言及した、各論考等とかつての単行本との収録関係に関する箇所(p.803-4)には、<「IV」①〜⑤→「C」>という旨の記載が、いっさい存在しない。
 第二に、この巻の「III」の内容の紹介の一部として、「後記」に、「臨教審の答申が出るたびに『毎日新聞』がそのつどつききりで私の批判的所見を掲載した。四度に及ぶ同紙の答申直後の私の記事を全部収めて、記録としておく」と書いている。p.791。
 これは相当に恣意的だ。なぜなら、まず、「III」の中にはもう一つ(5つめ)の「毎日新聞」寄稿文がある(⑳)。ついで、「III」の中には、「日本経済新聞」と「サンケイ新聞」への寄稿文も一つずつある。さらに、「IV」のなかには、「産経新聞」、「読売新聞」、「朝日新聞」への寄稿文が一つずつある(「IV」③〜⑤)。
 西尾はおそらく、当時に「毎日新聞」に多数寄稿したことを、2013年に振り返って思い出したのだろう。その結果として、他の新聞については「後記」に書かなかったわけだ。
 また、「文藝春秋」と「月刊正論」の名だけ出しているようだが(p.791)、実際には「諸君!」、「中央公論」、「週刊文春」等もあるので、決して網羅的に言及してはいない(言及するか否かは読者・利用者には分からない「恣意」によるのだろう)。
 ——
 ところで、ここでの主題から逸脱することを承知のうえで書くが、この当時に西尾幹二が寄稿した(執筆を依頼された)新聞や雑誌等の名を見ていると、興味深いことに気づく。
 すなわち、政府関係の「臨教審」や「中教審」の答申に批判的だった西尾幹二は、幅広く、多様な情報媒体に登場していた。「毎日新聞」や「朝日新聞」は当時にどういう基本的性格の新聞だったかを詳しく正確には知らないけれども、やはりどちらかと言えば「左翼的」だっただろう。
 このような状況は、1996-97年のいわゆる「つくる会」設立と西尾の初代会長就任後から全集のこの巻発行の2013年頃のあいだにこの人が寄稿した新聞や雑誌等とは、大きく異なっていた、と思われる。
 言い換えると、およそ1980年前後から1990年代の初頭まで、西尾幹二は決して「保守」を謳う評論家ではなかったように推察される。
 「反共産主義」者またはマルクス主義に無知でそれに影響を受けなかった「非共産主義」者だったかもしれないが、この時期の西尾はまだ今日的に言う「保守」を標榜していなかった、と思われる。
 のちの2020年刊の同・歴史の真贋(新潮社)のオビに言う「真の保守思想家」というものとは大きくかけ離れていた、と言ってよいだろう。
 1990年代後半には「保守」の立場を明確にし、「つくる会」会長として協力団体の「日本会議」ともいっときは良好な関係を築いた。
 「私の45歳から55歳にかけての10年間」(「後記」冒頭)を2013年に振り返って、西尾幹二は以上のようなことを全く想起しなかったようであることも、じつに興味深い。
 ——
 つづく。

2665/西尾幹二批判069。

 全集刊行の時点での〈加筆修正〉の例は、一見明白ではないものの、つぎに見られるだろう。唯一ではないと見られる。
 西尾幹二全集第17巻/歴史教科書問題(国書刊行会。2018)には、目次上で「二大講演・新しい歴史教育の夜明け」と題された項がある。この巻の第三部・IIの第三の項として位置づけられている。
 一見「二大」の講演録が収載されていると思いきや、目次上ですでに上の題の下に「(一本化)」と記載されている。
 「二つの」講演内容を収載しているのではない。
 実際の掲載箇所の末尾には、つぎのように書かれている。
 「講演『新しい歴史教育の夜明け』(2000年8月21日、狭山市市民会館)と広島原爆慰霊祭記念講演『教科書問題の本質』(2000年7月30日、広島法念寺)を再編集した。」—第17巻p.507。
 これは何を意味するのか。
 表題からすると二つの講演の趣旨・内容は全く同じだとは思えないが、好意」的に解釈すれば相当によく似たものだったのだろう。そして、二つを別々に全集に掲載する必要はない、と判断したのだろう。
 しかし、その場合、上の「二つ」のうち一つだけをそのまま収載し、類似または同趣旨の講演を他に〜でも行なった、と残りのもう一つに関して注記して触れておけば十分だろう。
 しかるに、なぜ「一本化」したのか。
 それは、全集刊行の時点で、つまり講演時から8年後に、二本を併せて「加筆修正」したかったからだ、と考えられる。
 西尾幹二はこれを「再編集」と称することによって、「編集」レベルでの変更にすぎないと理解させたいようだ。これは、相当に愚劣、あるいは些細であれ「卑劣」だ。
 確実に、全集刊行の時点での「加筆修正」が行なわれている。しかも、どのように加筆修正されたかは、読者にはいっさい分からない。
 西尾幹二全集の読者・利用者は、こういうこともあるので、注意しなければならない。
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2661/西尾幹二批判068—四つの特質。

 西尾幹二について、掲載し忘れのないように、いつか総括的な論評をしておこうと思っていた。私の長期的な生存自体の可能性が曖昧なので、書き忘れたままになるのは避けたい。もう一つ、<日本共産党の大ウソ>シリーズも完了していない。こちらの方も、別に急ぐことにしたい。
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 西尾幹二とは何か。この人が「やってきた作業」、「全仕事」の本質的性格は何か。総括的に論評すればどうなるか。
 2の2乗の4とか3乗の8という数字が好きだから(1000よりも1024の方を「美しく」感じるたぶん少数派の人間だから)、上の点を四つにまとめてみたい。
 第一は、すでに書いた。→「2646/批判66」
 多数の人々に「えらい」、「すごい」と認めさせ、自分に屈服させること。これがこの人の作業の、最大かつ最終の目的だったと思われる。
 単純に「えらい」、「すごい」ではなく、西尾幹二がとくに意識した「ライバル」たちがあって、その者たちよりも「優れている」とできるだけ多数の人々に承認されたい、というのが正確かもしれない。
 この点には立ち入らず、つぎの点に進む。
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 誰でも、自分自身についての何らかの自己イメージ、自己評価、自画像を描いているだろう。そのイメージが他者による自己の評価または「客観的」評価と一致しないことは、よくあることだろう。
 だが、西尾幹二の場合、第二に、<西尾自身による自己イメージと第三者多数によるまたは「客観的な」評価との乖離がきわめて大きい>、と考えられる。これが、西尾幹二の全作業の評価にかかわる基本的特質だ。西尾は「客観的」評価などは存在せず本人の強い主張によって「評価」自体が変動するのだ、と考えているのかもしれないが、この問題にはここでは触れない。
 詳細は省くが、この人は自分は「思想家」だと明言している(正確には対象の一定の限定が付く「思想家」)。西尾幹二本人と、「思想家」だと宣伝して西尾本を売りたい出版社、その編集担当者を除いて、<表向きであっても>西尾幹二は「思想家」だと評価している者は皆無だと思われる。
 むろん「思想家」なる言葉の意味、外延にもかかわる。しかし、西尾幹二自身は、相当に限定された、「優れた」人間にのみ与えられる呼称だと思っているはずだ。
 また、例えばつぎの、この人が書いた2018年の次の文章を引用するだけでも、西尾幹二が関係した「運動」や書物についての自己イメージ・自己評価が、<誇大妄想>という以上の「異様」なイメージであることは明らかだと思われる。なお、以下での「つくる会」運動は、西尾が会長であった時期のものに限られている。そして、①はその時期の著作物は「歴史哲学」上の成果物だと主張しているとみられる。②は、まさに自分の著作『国民の歴史』に関するものだ。
 ①・②ともに、全集第17巻・歴史教科書問題(2018年)「後記」所収751頁。秋月による下傍線の意味については後述。
 ①『国民の歴史』等の「著作群は、同運動の継承者を末長く動かす唯一の成果であろう。はっきり言ってこの観点〔おそらく「日本人の歴史意識を覚醒させる」こと—秋月〕を措いて『つくる会』運動の意義は他に存在しなかった、と言ったら運動の具体的関与者は大いに不満だろうが、歴史哲学の存在感覚は大きい」。
 ②古代から江戸時代まで「中国を先進文明と見なす指標で歴史を組み立てる」という観念をもつ歴史学の「病理」を「克服しようとしている『国民の歴史』はグローバルな文明史的視野を備えていて、…、これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担っている」。
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 第三に、<意味不明・無知>と表現しておく。この人の作業あるいは仕事は、要するにほとんどは「文章書き」だ。その「文章」はいったい何をしようとしていたのか、じつははなはだ不明だ。また、幼稚な「誤り」も、しばしば看取される。
 性格について言うと、小説や詩等の「創作物」・「フィクション」ではない。では、何かを解明しようとする「学問研究」なのかと問うと、ほとんどが学問研究ではないと考えられる。
 「評論」という名のもとで行なってきたこの人のほとんどの作業の性格は、いったい何だったのだろう。
 別により具体的には言及したい。
 一例だけ上げると、安倍晋三首相退陣直前の西尾「安倍晋三と国家の命運」月刊正論2020年7月号37頁以下は、いったい何を目的とし、何を論じているのだろうか。また、西尾幹二は<保守の立場から安倍政権を批判する」と表紙に明記する書物を刊行したことがあるが(『保守の真贋』2017年)、この2020年7月号の文章では、最後にやや唐突に「安倍政権は民主党政治の混乱から日本を救い出し、長期の安定をもたらしたが」という、そのかぎりでは好意的に評価する言葉が出てくる。そもそもの「一貫性」自体が、この人には脆いのだ。安倍政権について、民主党政権から日本を救い、「長期の安定」をもたらしたとの趣旨は、2017年著のどこに出てくるのか。
 「無知」は、すでに「根本的間違い」と題するなどをしてこの欄で何回も取り上げた、西尾幹二の「国際情勢」の認識・判断において顕著だ。再度は立ち入らないが、アメリカより中国はまだましだ、アメリカは中国・韓国の支持を得て日本を攻めてくるだろう旨を、何回も述べていた。<反米>を強調するあまり、アメリカが第一の<敵」であるかのごとき主張を繰り返していた。なお、憲法改正を含む日本の対米自立、自衛・自存を説きながら、<日米安保の解消>をひとことも主張しないという、大きな矛盾すら抱えていた。
 <哲学・歴史・文学>を統一すること、いずれにも偏らないことを理想としてきたと、西尾は述懐したことがある(全集「後記」。—正しくは、同・歴史の真贋(2020、新潮社)「あとがき」後日に訂正した)。これは、いずれも専門にすることができないという「性格」の不明さとともに、いずれの観点からも「無知」であり得ることを、自己告白しているようなものだ。
 以上のことは、西尾幹二がすでに50歳になる頃には、<アカデミズム>の中で生きていくことを諦めたことと、密接な関係があるだろう。
 なお、<意味不明・無知>は迷った末の表現だ。
 <たんなるヒラメキ・思いつきを堂々と活字にしていること>も、第二点とも関連するが、「意味不明」の原因になっていること(実証・論証がなされていないこと)として、ここに含めておきたい。
 また、西尾幹二には「言葉」・「観念」と「現実」の関係について、私から観るとやや<倒錯>している考え方があるように見える。哲学的・認識論的問題に立ち入ることを得ないが、「言葉」・「観念」が生み出されて存在すれば、「現実」自体も変動する、というような考え方だ。「客観」性・「真実」性・「合理」性の存否ではなく、ともかくも「言葉」で強く主張する者が「力」をもつ、といった考え方に傾斜しやすい人ではないか、と思われる。
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 第四は、<大衆蔑視>意識、「ふつうの人々を馬鹿にする心情」を基礎にしていることだ。
 西尾幹二がどれほど十分かつ正確にF・ニーチェの文献を読んでいるかは、疑わしい。
 しかし、「大衆」=「愚民」=「愚衆」と区別される<エリート>、たぶん「超人」あるいは「力への意思」をもつ者、の一人だと、西尾幹二が自分のことを強烈に意識していた(いる)ことは疑いないだろう。
 「この観点を措いて『つくる会』運動の意義は他に存在しなかった、と言ったら運動の具体的関与者は大いに不満だろうが、歴史哲学の存在感覚は大きい」との文章は不思議な文章だ。
 まるで「運動の具体的関与者」は「歴史哲学」とは関係がないかのごとくだ。「歴史哲学」という高尚な?価値とは無関係な「運動の具体的関与者」とは会議資料をコピ—して用意したり、理事等に諸連絡を行ったりする「会」の事務職員を含んでいるだろう。
 そして、西尾幹二は、そのような事務職員を「蔑視」または「見下して」いることを、上の文章の中で思わず吐露してしまった、と読めなくはない。
 こういう「大衆蔑視」意識・心情を形成した一つは、東京大学文学部独文学科出身(かつ大学院修士課程修了)という「学歴」にあるのだろう。だが、戦後日本の「教育」や「学歴主義」の問題点が西尾幹二にも現れているようだ。
 たしかに、西尾の世代からするとかなり少数の「高学歴」のもち主かもしれない。しかし、そのことは、自分はきわめて「えらい」、「すごい」<人間>だと認められる(はずだ、べきだ)ということの何も根拠にもならない。
 また、この人は、文章執筆請負を長らく業とした(しかし、国立大学教員という「職」・「地位」を「定年」まで放棄しなかったことも西尾幹二を観察する際に無視できない)。そういう西尾幹二にとって、「先生々々」と呼んで「持ち上げて」くれる戦後日本の出版業・その編集担当者の存在が身近にあったことも、意外に大きいかもしれない。
 この第四は第一の特質とかなり重なっている。また、第二のそれの背景になっている、と考えられる。
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 以上は、秋月瑛二が西尾幹二について描く総括的「イメージ」だ。相互に関連し合っており、今回に詳しく論じたわけでもない。とりあえず、こういう全体像を示しておくと、今回以降のより具体的な、「例証」にもなる文章を書きやすいだろう。
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2646/西尾幹二批判067。

  1965年に三国連太郎主演で映画化された『飢餓海峡』の原作者は、水上勉だ。この原作は、1962年に新聞で連載され、1963年に加筆されて単著化、1969年に文庫化されたようだ。だが水上勉はこの小説への「思い入れ」が深かったようで、のちに<改訂決定版>を書き、没後の2005年に刊行された。
 新聞または週刊誌に連載された当初の発表原稿が単著になったり文庫化されたりするときに加筆修正されることは、珍しくはないのだろう。 
 水上勉『飢餓海峡』の場合、単著になるときに加筆修正されていることは明記されていたはずだし、のちの<改訂決定版>も、このように明記されて出版された(所持している)。
 松本清張全集や司馬遼太郎全集(文藝春秋)に収録された諸小説類は、これらの全集は生前から逐次刊行されていたこともあって、新聞・週刊誌での発表原稿か、すみやかに単行本化された場合はその単著を「底本」としていたと思われる。三島由紀夫全集(新潮社)の場合は、全集刊行の事前に本人の「加筆修正」があったはずもない。
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  当初の発表原稿が単著化される、または単著の一部とされて出版される場合に「加筆修正」があるならば、その旨が明記されることが必要であって、通常の著者や出版社はそうしているだろう。
 さらに厳密に、「加筆修正」の箇所や内容もきちんと記載されることがあるかもしれない。
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 雑誌に発表した文章をその他の文章とともに単著化するに際して、<加筆修正した>旨を明記することなく、実際には「加筆修正」している例が、西尾幹二にはある。
 たまたま気づいたのだが、『保守の真贋—保守の立場から安倍政権を批判する』(徳間書店、2017)と、その一部として採用されている「安倍首相への直言—なぜ危機を隠すのか」(月刊WiLL2016号9月号)
 上の前者は6部に分けられて「書き下ろし」と既に発表したものの計18の文章で成っているようだ(18なのか、例えば20を18にまとめているのかをきちんと確認はしない)。
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 こういう場合、「初出一覧」を示す一つの頁を設けて、どの雑誌・新聞の何月(何日)号に当初の原稿は発表した旨を一覧的に示すものだが、西尾幹二『保守の真贋—保守の立場から安倍政権を批判する』には、そういう頁はない。
 そうではなく、本文と「あとがき」の間に小さい活字で、「オリジナル」以外の「初出雑誌、並びに収載本は各論考末にあります」とだけ書かれている。すでに別の単行本になっているものの一部も転載されているようだ。
 それはともあれ、「各論考」の末尾をいちいち見ないと、その文章が最初はいつどこに発表されたかが、分からないようになっている。
 少なくとも、親切な「編集」の仕方ではない。
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  「安倍首相への直言—なぜ危機を隠すのか」(月刊WiLL2016号9月号)は、は「II」の「五」に収録され、その末尾にカッコ書きで「(『WiLL』2016年9月号、ワック)」と記載されている(p.110)。
 但し、A・雑誌発表文章とB・上の単著収録文章には、若干の差異がある
 第一。タイトル・副題自体が同じでない。Aは「安倍首相への直言・なぜ危機を隠すのか—中国の脅威を説かずして何が憲法改正か、首相の気迫欠如が心配だ」。
 Bでは、「安倍首相、なぜ危機を隠すのか—中国軍機の挑発に対して」。
 第二。小見出しの使い方が同じではない。
 Aには「中国の非を訴えるべきだ」と「米中からの独立」が二つめと最後にあるが、Bにはこれら二つがない。
 第三。全文を丁寧に比較したのではないが(そこまでのヒマはない)、明らかに文章が変わっている。「修正」されている。
 「軍事的知能が落ちた」という小見出しの位置を変更した辺り、Aでは「…いかに現実のものとなっているかがお分かりいただけると思います」(雑誌p.60)、Bでは「今やいかに現実のものとなっているかは、考えるヒントになろうかと思います」(書籍p.108)。
 第三の二。全文を丁寧に比較したのではないが(そこまでのヒマはない)、単著化の際に明らかに付け加えられた文章がある。「加筆」だ。
 Aの「安倍首相への直言、…」は、「…。アメリカと中国の両国から独立しようとする日本の軍事的意志です」で終わっている(雑誌、p.61)。
 これに対してBの「安倍首相、なぜ…」は、上のあとで改行して、つぎの二段落を加えている。
 「中国軍機の挑発をいたずらにこと荒立てまいと隠し続ける日本政府の首脳は、国民啓発において立ち遅れてしまいました。…〔一文略—秋月〕。
 意識を変えなければなりません。やるべきことはそれだけで、ある意味で簡単なことなのです。」
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  このような不一致、および「加筆修正」を問題視しなくてよい、そうする必要はない、実質的に同じだ、趣旨を強化しているだけだ、と擁護する向きもあるだろう。
 しかし、決定的に問題なのは、上のようなことが(他にもあるかもしれないが)「ひとことの断わりもなく」、「加筆修正した」と明記することもなく、単著化の段階で行なわれている、ということだ。
 何の「断わり」も「注記」もないのだから、単著『保守の真贋』の読者は、各文章の末尾に付された雑誌類と同じそのままの文章が掲載されていると思って読むだろう。
 これは一種の「ウソ」で、「詐欺」だ。一部であっても全体の一部なのだから、ある文章の全体を単著化の時点で黙ったままで「書き直した」に等しい。
 そして、このような「加筆修正」等が<全集>への収載の時点で行なわれていない、という保証は全くない。
 著者・編集者が、西尾幹二だからだ。
 元の文章を明示的に修正しなくても、西尾自身の「後記」によって後から趣旨の変更を図るくらいのことは、「知的に不誠実な」西尾幹二ならば行ないかねないし、行なっていると見られる。
 当初の(雑誌・新聞等への)発表文章、単著化したときの文章、全集に収録された文章、これらの「異同」等に、読者は、あるいは全く存在しないかもしれないが、西尾幹二文献に「書誌学」的関心をもつ者は、注意しなければならない。
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2644/西尾幹二批判066。

  西尾幹二全集は完結したのだろうか。最後の方は購入をしなくなったので知らない。また、全ての単著および発表論考を、そのまま、全集に収載したのだろうか。
 日本会議批判を含む『国家と謝罪』(2007)・『保守の怒り』(2009)等や『皇太子様への御忠言』(2008)は全集にそのまま忠実に収録されているのだろうか。
 いかほど売れているのだろうか。しばしば自著の販売部数に触れてきた西尾幹二は、<全集>の売れ行きも気になるに違いなく、概数を知っているだろう。人文社会系書籍でも大学等の研究機関や公立図書館が購入してくれるので最小限のある程度の部数は捌けると聞いたことがある。これ以外に、西尾幹二全集を「個人で」金を払って購入している人はいったい何人いるのだろうか。
 真剣に思うのだが、100人もいるのだろうか。
 多くの読者、いや所持者は、西尾幹二から「無償で」送付されているのではなかろうか(そして、ろくに読んではいない)。
 <西尾幹二批判>を書き続けつつ、こんな人物を論評しても意味がないという虚しさも感じる。本人が思っているのとは異なり(あるいは本人も深いところでは悟っているかもしれないように)、西尾幹二とは「まともに相手にする必要のない」、またはごく少数のマニアからを除いて、本当は「まともに相手にされていない」人物なのだ。
 だが、いっとき渡部昇一や八木秀次等々に比べて西尾幹二は「ましな保守」論客だと勘違いしていた「恥ずかしい」経験が私にはあるので、その「負い目」をなおも意識せざるを得ない。
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  より本格的な分析・検討は別に行ないたいが、<西尾幹二全集>は、日本の「全集」出版史上、稀に見るグロテスクなものになっていると思われる。実質的な編集者の西尾幹二本人のもとで小間使いをさせられている(いた)国書刊行会の「編集」担当者は気の毒だ。
 三島由紀夫全集(新潮社)には評論類や私的「手紙」まで収載され、じつに詳細な索引まで付いている。
 三島由紀夫全集と比較すること自体が無謀あるいは愚昧なのかもしれない。
 西尾幹二は、自らの詳細な「年譜」とともに、「公にした」文章(①新聞・雑誌論考、②それらを中心にまとめた単著、③収載した(はずの)<全集>)の「差異」を、自ら詳細かつ明確に記しておくことができているのだろうか。「索引」(可能ならば人名と事項の二種)を付す「誠実さ」はあるのだろうか。
 とりあえず分類した上の①・②・③は基本的には同じはずであり、少なくとも③の段階では「加筆修正」はもはや存在しないだろうと理解するのが常識的だと見られる。常識的な読者はそう理解して読むだろう。しかし、全集の各巻発行の時点で西尾は「加筆修正」しているのではないか、との疑いを拭うことができない。
 具体的指摘は別にするが、西尾は、かつての二つの文章(講演記録だったかもしれない)を、<全集>の段階で一つの文章に「合成」していたことがある。実質的には同じだという釈明をすることはできない。<全集>の段階で元の文章を書き直しているのと同じだ。
 個々の文章の「加筆修正」ならば全体には直接には波及しないかもしれない。
 しかし、編集者・西尾幹二にとって「好ましい」ように各巻が配置され、現在の西尾にとって「好ましい」ようにかつての文章が選ばれている。そして、かつては同じ一つの単著の中の文章だったものが、全集段階で別の巻に分散して収められていることもある。上の②の時点での「あとがき」やその当時の第三者による「書評」が収載されていることもある。したがって、いつ書かれたのかという基本的な点も含めて、きわめて分かりにくく、複雑怪奇なものになっている。なお、同じ文章が全集の別々の巻に収められていたことがあった(それを詫びていた記事があった)。
 これを解消するには、上に触れたように、諸文章、各著書、「全集」段階での収録の各関係等々を詳細かつ丁寧に説明する、全集段階での一覧表的記述をしておくことが必須だ。だが、西尾幹二にそのような「知的誠実さ」を求めること自体が無理なのかもしれない。
 西尾幹二全集の最大の特徴は、各巻末尾の西尾自身の「後記」の存在だろう。
 この「後記」の内容の異様さを見ると、全集「月報」上以外に、西尾幹二以外の第三者のかつてのまたは全集刊行時点での文章が(「追補」等として)堂々と掲載されていることの異様さもかすんでしまう。
 西尾幹二は「後記」で、自らのかつての文章を論評し(多くはその積極的意義を述べ)、かつまた読者に対して、かつての自らの文章の「読み方」をガイドまでしようとしている。その中には、かつてとは異なる、全集刊行時点での自分自身の評価(意義の理解の変更を含む)をも紛れ込ませている。
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  結局のところ、西尾幹二の文章執筆(そしてこの人の人生そのもの)の最大の目的は、西尾幹二の「偉さ」を多数の人々に認めさせること、多くの人々に「えらい」、「すごい」と称賛されることにあった。この人にとって、「自分の存在意義」こそが全てだ。
 全てはそのための「手段」にすぎない。自分の文章作りとともに、ときには他人の存在までもが。
 真実、良心、誠実、…。こうした「美徳」は、西尾自身の「顕名」に比べれば、何の価値もない。。
 現天皇即位の際に月刊正論に寄稿した文章を冒頭に置く西尾『日本の希望』(徳間書店、2021)の表紙にこうある。
 「私は、日本のあり方をずっと考えてきた!」
 大笑いだ。そして、ウソをつくな、と言いたい。書いたものは全て「自己物語」で、「私が主題」だった、「私小説的自我のあり方で生きてきた」と、2011年の全集刊行開始頃に遠藤浩一との対談で語っていたではないか。
 「日本」もまた、この人にとっては「手段」だった。あるいは、ヒト・人間、人類、地球・世界ではなく、「日本」としか語れないところに、西尾幹二の本質と致命的な限界があるのかもしれない。
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  多くの人々が西尾幹二に「だまされてきた」。この人の文章をきちんと読み、きちんと分析・検討することなく、「だまされてきた」。
 なぜそうなったのか。例えば、なぜ、西尾幹二はいわゆる「つくる会」の初代会長に「まつり上げ」られたのか。日本の戦後の、少しは限定して言えば日本の戦後の<保守>界隈の、一つの興味深い現象だ。
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2637/月刊正論(産経新聞社)と皇室。

  月刊正論(産経新聞社)という雑誌のすごいところは、いや凄まじいところは、<祝・令和—改元特大号>と謳った同2019年6月号の<記念特集・新天皇陛下にお伝えしたいこと>に西尾幹二と加地伸行の文章を掲載していることだ。
 西尾幹二は2008年に〈皇太子さまへの御忠言〉(ワック)を出版し、2012年にそれに加筆して文庫(新書?)化して再刊した。また同年には別途『歴史通』に「『雅子妃問題』の核心」という文章を書いて、現在の天皇(当時の皇太子)は「…と言ってのけた」と表現するなどし、現在の皇后(当時の皇太子妃)を「地上に滅多に存在しない『自由』の実験劇場の舞台を浮遊するように、幻のように生きている不可解な存在」表現し、離婚せよの旨を明確に出張した。さらに、2008年8月のテレビ番組で西尾は、雅子妃は「仮病」だから「一年ぐらい以内にケロッと治る」だろう、雅子妃は「キャリアウーマンとしても能力の非常に低い人。低いのははっきりしている」、「実は大したことない女」と発言したらしい。
 加地伸行の当時の皇太子・同妃に対する主張も似たようなものだった。
 しかるに、二人のこうした主張・見解を知っていたはずだが、菅原慎一郎を編集代表とする月刊正論2019年6月号は、当時の皇太子・同妃が天皇・皇后に即位する時点で、「新しい天皇陛下にお伝えしたいこと」の原稿執筆を依頼した。そして、この二人は、文章執筆請負業の「本能」からか?、原稿を寄せた。
 西尾幹二、加地伸行は、かつてのそれぞれ自身の発言・文章に明確には言及しておらず、むろん取消しも撤回もせず、当然のこととして「詫び」もしていない。
 よくぞ、「新天皇陛下にお伝えしたいこと」と題して執筆できたものだ。
 二人の「神経」の正常さを疑うとともに、月刊正論(・菅原慎一郎)の編集方針(原稿執筆依頼者の選定を含む)もまた、「異常」だと感じられる。
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  月刊正論の元編集代表(2010年12月号〜2013年11月号)だった桑原聡は、「天皇陛下を戴く国のありようを何よりも尊い、と感じることに変わりはない」旨を編集代表としての最後の文章の中で書いた。
 これは、いわば<ビジネス保守>の言葉だけの表現ではないか、との疑問はある。
 上の点はともかく、月刊正論、そして産経新聞社、産経グループ全体が読売新聞社系メディアよりも<より親天皇(天皇制度)>的立場にあった(ある)、という印象はあるだろう。
 しかし、現在の天皇・皇后、上皇・上皇后各陛下等々の皇室の方々は、月刊正論・産経新聞社・産経グループを「最も支持し、最も後援してくれる」最大の味方だと感じておられるだろうか。
 すでに誰かが書いているだろうように、また書かずとも広く理解されてしているだろうように、桑原聡の上の言葉とは違って、月刊正論(・産経新聞社)は全体として皇室の「味方」だとは思えない。
 前天皇の「退位」に反対した(終身「天皇」でいるべきだと主張した)櫻井よしこ、平川祐弘、八木秀次、加地伸行らは月刊正論や産経新聞「正論」欄への主要な執筆者だった(秋月による「あほ」の人たち)。当時の天皇はこの議論に「不快」感をもったとも報道されたようだが、その真否を確言できないとしても、当時の天皇の意向とはまるで異なっていたことは明確だった。
 現在の皇后、雅子妃、前皇太子妃を最も厳しく攻撃し、批判したのは、西尾幹二だっただろう
 その西尾幹二はまた、月刊正論や産経新聞「正論」欄への継続的な執筆者だった(2023年時点でどうかは知らない)。
 現在の皇后、雅子妃も、現在の天皇、前皇太子も、西尾幹二が自分たちについてどのように書き、どのように主張していたかを、よくご存知だったと思われる。
 皇居内の「私的」空間にはおそらく主要な新聞紙が置かれ、それらのうちいくつかには西尾幹二のものも含む単行本の宣伝広告も掲載されていただろう。そして、皇族であっても「私的に」本や雑誌を購入することは可能だ。
 西尾幹二によって、小和田家まで持ち出されて攻撃された雅子妃は、ひどく傷つかれただろう。西尾幹二の言い分は、「病気」治癒を却って遅らせるものだった。前皇太子も、激しい怒りを感じられたに違いない。
 西尾幹二は前皇太子・同妃が2019年(5月)に新天皇・新皇后として即位するとは思いもしていなかっただろう。2016年に「意向」表面化、2017年にいわゆる退位特例法成立だったが、西尾は早くとも2012年まで、皇太子等を批判し続けた。「不確定の時代を切り拓く洞察と予言」の力(西尾・国家の行方(産経新聞出版、2020)のオビ)が、彼にはなかったのだ。
 西尾幹二は2008年に、自分の文章を「一番喜んでおられるのは皇太子殿下その方です。私は確信を持っています」と発言したようだが、いったいどういう「神経」があれば、こういう態度がとれたのだろう。
 現在の天皇・皇后にとって、西尾幹二は「最大の敵」ではなかったか、と思われる。
 その人物を、改元=新天皇・新皇后即位の記念号の執筆者の一人として起用した月刊正論(編集部)もまた、「異様」だ。
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 参考→Yoshiki, 即位10年奉祝曲・Piano Concerto "Anniversary"

2636/加地伸行・妄言録—月刊WiLL2016年6月号<再々掲>。

 加地伸行月刊WiLL2016年6月号(ワック)での発言と秋月瑛二のコメント(2017年07月16日No.1650)の再々掲。
 対談者で、相槌を打っているのは、西尾幹二
 最初に掲載したとき、冒頭に、つぎの言葉を引用した。
 「おかしな左翼が多いからおかしな右翼も増えるので、こんな悪循環は避けたい」。
 平川祐弘「『安倍談話』と昭和の時代」月刊WiLL2016年1月号(ワック)。
 2023年5月末の時点で書くが、平川祐弘はこのとき、自分自身が「おかしな右翼」と称され得ることを全く意識していなかったようで、可笑しい。
 なお、花田紀凱編集長の月刊Hanada(飛鳥新社)の創刊号は2016年6月号で、加地伸行の対談発言が巻頭に掲載されたのは、「分裂」後最初の月刊WiLLだった。おそらく、手っ取り早く紙面を埋めるために起用されたのが、加地伸行・西尾幹二の二人だったのだろう(対談だと録音して容易に原稿化できる)。
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 <あほの5人組>の一人、加地伸行。月刊WiLL2016年6月号p.38~より引用。
 「雅子妃は国民や皇室の祭祀よりもご自分のご家族に興味があるようです。公務よりも『わたくし』優先で、自分は病気なのだからそれを治すことのどこが悪い、という発想が感じられます。新しい打開案を採るべきでしょう。」p.38-39。
 *コメント-皇太子妃の「公務」とは何か。それは、どこに定められているのか。
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 「皇太子殿下は摂政におなりになって、国事行為の大半をなさればよい。ただし、皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよいと思います。摂政は事実上の天皇です。しかも仕事はご夫妻ではなく一人でなさるわけですから、雅子妃は病気治療に専念できる。秋篠宮殿下が皇太子になれば秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしいのでは。」p.39。
 *コメント-究極のアホ。この人は本当に「アホ」だろう。
 ①「皇太子殿下は摂政におなりにな」る-現皇室典範の「摂政」就任要件のいずれによるのか。
 ②「国事行為の大半をなさればよい」-国事行為をどのように<折半>するのか。そもそも「大半」とその余を区別すること自体が可能なのか。可能ならば、なぜ。
 ③ 「皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよい」-意味が完全に不明。摂政と皇太子位は両立しうる。なぜ、やめる? その根拠は? 皇太子とは直近の皇嗣を意味するはずだが、「皇太子には現秋篠宮殿下」となれば、次期天皇予定者は誰?
 ④「仕事はご夫妻ではなく一人でなさる」-摂政は一人で、皇太子はなぜ一人ではないのか?? 雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-治療専念、皇太子-治療専念不可>、何だ、これは?
 ⑤雅子妃は「秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしい」-意味不明。今上陛下・現皇太子のもとで秋篠宮殿下が皇太子にはなりえないが、かりになったとして「空く」とは何を妄想しているのか。「秋篠宮家」なるものがあったとして、弟宮・文仁親王と紀子妃の婚姻によるもの。埋まっていたり、ときには「空いたり」するものではない。
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 「雅子妃には皇太子妃という公人らしさがありません。ルールをわきまえているならば、あそこまで自己を突出できませんよ。」 p.41。
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 「雅子妃は外にお出ましになるのではなくて、皇居で一心に祭祀をなさっていただきたい。それが皇室の在りかたなのです。」p.42。
 *コメント-アホ。これが一人で行うものとして、皇太子妃が行う「祭祀」とは、「皇居」のどこで行う具体的にどのようなものか。天皇による「祭祀」があるとして、同席して又は近傍にいて見守ることも「祭祀」なのか。
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 「これだけ雅子妃の公務欠席が多いと、皇室行事や祭祀に雅子妃が出席したかどうかを問われない状況にすべきでしょう。そのためには、…皇太子殿下が摂政になることです。摂政は天皇の代理としての立場だから、お一人で一所懸命なさればいい。摂政ならば、そ夫人の出欠を問う必要はまったくありません。」
 *コメント-いやはや。雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-「お一人で一所懸命」、皇太子-「出欠を問う必要」がある>、何だ、これは? 出欠をやたらと問題視しているのは加地伸行らだろう。なお、たしかに「国事行為」は一人でできる。しかし、<公的・象徴的行為>も(憲法・法律が要求していなくとも)「摂政」が代理する場合は、ご夫婦二人でということは、現在そうであるように、十分にありうる。
 以下、p.47とp.49にもあるが、割愛。
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 この加地伸行とは、いったい何が専門なのか。素人が、アホなことを発言すると、ますます<保守はアホ>・<やはりアホ>と思われる。日本の<左翼>を喜ばせるだけだ。
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 以上。

2634/西尾幹二批判065-02。

 (つづき)
  思想の(専門的)研究者と「思想家」は同義ではない。
 外国「思想」をあれこれと紹介し、論じている諸著者に、<あなた自身の「思想」はどうなのか、披瀝してほしい>と感じるときもあるのだが、ともあれ、思想研究者と思想家は異なる。
 上のオビで西尾幹二が「真の保守思想家」とされていることを思い出したが、西尾幹二自身が、一定の「思想」の専門家ではなく、自分自身が「思想家」だと明言したことがある。
 大笑いだ。西尾幹二の「思想」とは何なのか。西尾幹二を現在日本にいる「思想家」の一人だと思っている日本人は何人いるだろうか(外国にはきっといないだろう)。
 <文春オンライン>2019年1月26日付のインタビュー記事で、西尾はこう語っている。発言内容と言葉は正確なものであるとする。
 2006-7年の「つくる会」<分裂騒動>に話題が移って、西尾はこう発言した。
 「日本会議の事務総長をしていた椛島(有三)さんとは何度か会ったこともあり、理解者でもあった。だから、この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして、『つくる会』事務局長更迭を撤回していれば、問題は回避できたかもしれない。それをしなかったのはもちろん私の失敗ですよ。」
 「しかしですね、私は『つくる会』に対して”日本人に誇りを”や“自虐史観に打ち勝つ”だけが目的の組織ではないという思い、もっと大きな課題、『日本から見た世界史の中におかれた日本史』の記述を目指し、明治以来の日本史の革新を目ざす思想家としての思いがある。だから、ずるく立ち回って妥協することができなかった。」
 すでにこの欄で言及したことがあるので、驚かされる部分を含む内容には立ち入らない。
 ここで重要なのは、「明治以来の日本史の革新を目ざす思想家としての思い」があるから、某と妥協できなかった、と明言していることだ。
 「明治以来の日本史の革新を目ざす」とは、質問者が「つくる会」会長だったことを主たる理由としてインタヴューを申し込んだらしいことによるだろう。
 重要なのは、西尾幹二は(少なくとも上の当時の2019年)、自分を「思想家」だとと自認した、ということだ。
 もう一度書く。大笑いだ。西尾幹二「思想」とは何なのか。西尾幹二を現在日本にいる「思想家」の一人だと思っている日本人は何人いるだろうか。
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  関心は、さらには、つぎの二つに絞られる。
 第一。西尾幹二という人物の「人格」、「神経」。
 第二。西尾幹二に執筆依頼等をし、まとめた著書を出版までする、日本の一部の出版・雑誌「産業」の頽廃。
 あるいは二つをまとめて、こういう人物、出版「業界」を生み出した、<戦後日本>というものの「影」の姿。
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2633/西尾幹二批判065-01—ドイツ思想の専門家?

  前回No.2631の最後に、西尾幹二に「ドイツ思想」または「歴史哲学」に関するどの専門書が「一冊でも」あるのだろうか旨を書いたが、さっそくに「専門的論文が一本でも」あるのか、に訂正しなければならないだろう。月刊正論(産経新聞)、月刊WiLL(ワック)等への寄稿文章は「(専門的)論文」ではない。
 書籍・単行本に限っても、西尾幹二は自分自身で「私の主著」は『国民の歴史』(1999、2009、2018)と『江戸のダイナミズム』(2007)のふたつであるを旨を2018年に明記している。つぎの、自己賛美が呆れ返るほどの一文の中でだが。
 「『国民の歴史』はグローバルな文明史的視野を備えて、もうひとつの私の主著『江戸のダイナイズム』と共に、これからの世紀に読み継がれ、受容される運命を担っている」(全集第17巻「後記」、p.751)。
 こらら二つに『ニーチェ』(1977)を加えて三著とするとしても、「ドイツ思想」に関する専門書ではないことは明瞭だ。また、いずれも何らかの意味で「歴史」を扱っているとしても、日本の歴史に関する断片的随筆・評論、ニーチェの一部の「文学的」歴史研究であって、「歴史哲学」書ではない。なお、西尾幹二にとっては「歴史」に関する何らかの一般的なあるいは抽象的な思考を表明すれば「歴史哲学」になるのかもしれないが、それならば秋月瑛二もまた「歴史哲学」者と自称し得る。「歴史哲学」と言いつつ西尾のそれはほとんどが「思いつき」、「ひらめき」から成るものだ。
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  西尾幹二が「ドイツ思想」の専門家とされることは、ドイツの思想に関係した仕事をしてきた日本の研究者は、たぶんそんなことは無視しているだろうが、知ったならば、論難、罵倒あるいは冷笑の対象にするに違いない。
 L・コワコフスキは「マルクスはドイツの哲学者だ」と叙述することの意味に大著のある章の冒頭で触れているが、マルクスもまた「ドイツ思想」の系譜上にあると言っても誤りではないだろう。そして、谷沢永一(1929-2011)はレーニン・国家と革命(1917年)を明らかに読んでいる叙述をかつてしていたが、西尾幹二は、「反共」を叫び「マルクス主義」という語も用いながら、マルクス、レーニン等の著作の内容に言及していたことは一度もない。
 仲正昌樹ほか・現代思想入門(PHP、2007)の最初の章の仲正「『現代思想』の変遷」はマルクス主義から論述を始めているのだが、その前のカント・ヘーゲルについて、西尾幹二が何か論及していとのを読んだことは一度もない。
 仲正昌樹・現代ドイツ思想講義(作品社、2012)は、ハイデガーから叙述を始めて、「フランクフルト学派」、その第二世代のハーバーマス、フランス・ポストモダン等のドイツへの影響で終えているのだが、これらのうち西尾幹二が記したことがあるのはハイデガーだけだ。しかもハイデガー研究ではなく、その「退屈」論を要約的に引用・紹介しただけだ(『国民の歴史』の最後の章、現代人は自由があり過ぎて「退屈」して「自由の悲劇」に立ち向かわざるを得なる、という秋月には理解不能の論脈の中でだ)。西尾の諸文章は、ニーチェとハイデガーの関係にもおそらく全く触れたことがない。
 仲正昌樹・上掲書のそのほぼ半分はアドルノ=ホルクマイヤー・啓蒙の弁証法を「読む」で占められているが、西尾幹二はそもそも「フランクフルト学派」に言及したことがないのだから、この著(1947年)に触れているはずもない。日本の<保守>派で、「フランクフルト学派」を戦後「左翼」の重要な源泉と位置づけていた者に、田中英道、八木秀次がいる。
 なお、L・コワコフスキの大著でマルクス主義の戦後の諸潮流の一つと位置づけられた「フランクフルト学派」の叙述を読んで、つぎの二点でこの「学派」は西尾幹二と共通性・類似性がある、と感じたことがある。
 ①反現代文明性(反科学技術性)、②大衆蔑視性。
 「フランクフルト学派」は単純な「左翼」ではなく、西尾幹二は単純な「反左翼」ではない。
 参照→近代啓蒙・西尾幹二/No.2130・池田信夫のブログ016(2021/01/24)、同→西尾幹二批判041/No.2465(2022/01/07)。
 「四人の偉大な思索者」を扱った現代思想の源流/シリーズ・現代思想の冒険者たち(講談社、2003)で「ニーチェ」を執筆していたのは三島憲一で、その内容の一部は西尾幹二とも関連させてこの欄で取り上げたことがある。
 三島憲一・戦後ドイツ(岩波新書、1991)は「思想」よりも広く副題にあるように(政治史と併行させて)戦後ドイツの「知的歴史」を論述対象としたものだ。
 この書では、ハイデガー、「フランクフルト学派」、ハーバーマス、マルクーゼらに関して多くの叙述がなされているようだ。そして最後に1986年からの<歴史家論争>にも論及がある。
 この書を概観しただけでも、西尾幹二がとても「ドイツ思想」の専門家と言えないことは明瞭だ。上のいずれについても、西尾幹二は論述の対象にしたことがないからだ(せいぜいハイデガーの「退屈」論のみの、かつ要約的紹介だ)。
 フランクフルト学派に何ら触れることができていないのでは「ドイツ思想」を知っているとすら言えないだろう。また、「歴史哲学」を含めても、主としてドイツ国内の<歴史家論争>をまるで知らないごとくであるのは、致命的だ。
 では「戦後」ではなく「戦前」ならば詳しく知った「専門家」なのかというと、そうでも全くないのは既述のとおり。
 いくつか上に挙げた「ドイツ思想」関係の書物はあくまで入手しやすい例示で、他に専門的研究書や論文はあり、かつ西尾幹二はその研究書等を読んですらいないだろう。
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  西尾幹二が自ら記した自分の活動史からしても、この人が「ドイツ思想」全体にはまるで関心のなかったこと、「専門」を「ドイツ思想と歴史哲学」にしようとは考えていなかったことが明らかだ。
 西尾幹二・日本の根本問題(新潮社、2003)所収の2000年の論考でこう書いている。
 私は1970年の三島事件のあと、「三島について論じることをやめ、政治論からも離れました。そして、 ニーチェとショーペンハウアーの研究に打ち込むことになります」。このとき、35歳。
 そして1977年(42歳)に前述の『ニーチェ』出版、1979年に博士号を得る。その頃、「文学者」として(日本文芸家協会の当時のソ連との交流の一つとして)ソ連への「遊覧視察旅行」(足・アゴつき大名旅行)、文芸雑誌で「文芸評論」・「書評」をしたりしたあと、1990年を迎える(1990年は45歳の年)。
 とても「ドイツ思想」の研究者ではない。そして、1996年12月-1997年1月に<新しい歴史教科書をつくる会>の初代会長就任(満61歳)
 その後を見ても「ドイツ思想」の専門的研究を行う隙間はなく、むろん(当時の「皇太子さまにご忠言」する書籍を2006年に刊行しても)その分野の専門的研究論文や研究書はない。
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  それにもかかわらず、「専門はドイツ思想、歴史哲学」と紹介され、それに抵抗する特段の意思を表明していないのは、「ふつうの神経」をもつ常識的人間には考えられないことだろう。また、そのように紹介する出版社、雑誌、雑誌編集者も「異常」なのだ。
 雑誌への執筆者のいわば「品質」表示が読者・消費者に対する雑誌編集部の「執筆者紹介」だ。その紹介を見て雑誌を購入したり、個別論考を閲読する読者もいるはずだ。
 そうだとすれば、刑事告発等をする気はないが、原産国・原産府県、成分表示、JISやJASとの適合等について厳格な「正しい」表示義務のある生活用品や食品の場合と同様に、少なくとも倫理的に、「正しい」表記・成分表示、「不当表示の排除」が求められるべきだ。
 全てではないにせよ、雑誌の一部には、西尾幹二の例に見られるような「不当表示」、間違った「執筆者紹介」がある。
 もっとも、「執筆者紹介」の具体的内容は、執筆者自身が申告して、雑誌編集部が原則としてそのまま掲載するのかもしれない。
 というようなことを思い巡らせると、書籍のオビの惹句は書籍編集担当者がきっと苦労して考えるのだろうと推測していたが、じつは西尾幹二本人が原案を書いたのではないか、と感じてきた。 
 西尾幹二・国家の行方(産経新聞出版、2019)のオビの一部。
(表)「日本はどう生きるのか。/民族の哲学・決定版。
 不確定の時代を切り拓く洞察と予言、西尾評論の集大成。」
(裏)「自由、平等、平和、民主主義の正義の仮面を剥ぐ。
 今も力を失わない警句。」
 西尾幹二ならば、編集者を助けて?、「不確定の時代を切り拓く洞察と予言」、「今も力を失わない警句」と自ら書いても不思議ではないような気がする。
 なお、西尾幹二・歴史の真贋(新潮社、2020)のオビの一部。
 (表)「崖っぷちの日本に必要なものは何かを今こそ問う。
 真の保守思想家の集大成的論考」。
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 最後の五へとつづく。

2631/西尾幹二批判064。

  西尾幹二の雑誌論考での肩書は「評論家」が最も多いだろう。現在に所属する大学の教授や「〜名誉教授」を肩書とする人も少なくないが、西尾幹二は「電気通信大学教授」または「電気通信大学名誉教授」とはあまり名乗りたくなかったようだ。 
 「評論家」というのもじつは曖昧で、西尾幹二はいったい何に関する評論家だったのだろうか。
 政治、国際政治、文学といったものが想定されるが、「歴史」に関する文章も少なくない(一時期に月刊正論に連載されていて未完だと思われる「戦争史観の転換」は「評論家」の肩書で書かれている)。
 その他に、皇室、原発を問題にすることがあり、かつては一夜漬けで?証券取引法を「調べた」ような文章を書いたこともあった(堀江貴文の逮捕の頃)。
 正しくは「時事評論家」だろうか。いやそれでは狭すぎ、本人は「何でも屋」の「総合評論家」だと自称したいかもしれない。
 だが、このような曖昧さ、良く言えば「広さ」は、同時に、例えば各事象、各問題に関する<専門家>や、「学界」でも第一人者と評価される「アカデミカー(学問研究者)とは比肩できない、「浅さ」・「浅薄さ」の別表現でもある。
 西尾幹二は、同・歴史の真贋(新潮社、2020)の「あとがき」で、「『哲・史・文』という全体」で外の世界を見るのが「若い日以来の私の理想」だった旨記している(p.359)。これは、反面では、ある時期以降のこの人の作業は「哲・史・文」のいずれとも理解し難い、これら三分野を折衷・混合した「ごった煮」に、いずれの分野でも先端をいくことのない、専門家を超えることのできない「浅薄な」ものにならざるを得なかったことを、自認しているように考えられる。
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  西尾幹二の雑誌論考の中途または末尾に、執筆者紹介として「東京大学文学部独文学科卒業。文学博士。ニーチェ、ショーペンハウアーを研究。…」と記されていることがある(例、月刊正論2014年5月号、p,147)。
 これは誤解を招く、読者を誤導する紹介の仕方だ。これではまるで、西尾幹二は「ニーチェ、ショーペンハウアー」の哲学または思想を研究したことがあるかのごときだ。この二人は通常、哲学者(・思想家)だと理解されているだろうからだ。
 上の紹介は全く誤っている。すでにこの欄で言及したように(→西尾幹二批判042、2022/01/08、No.2466)、第一に、西尾『ニーチェ』(中央公論社、1977。二巻本)を対象とする文学博士号授与の審査委員の専門分野はドイツ文学3名、フランス文学1名、哲学1名の計5名で(西尾幹二全集第4巻「後記」p.770)であり、もともとニーチェの哲学・思想を研究したものとは考えられていなかった。
 第二に、上の著は「未完の作品」(上掲p.763)と自ら明記しているもので、ニーチェの『悲劇の誕生』(1872)の成立までを扱った(一種の「文献学」・「書誌学」的)研究書であって、ニーチェを包括的に研究したものではない。
 第三に、西尾幹二は同・上掲書への斎藤忍隋による「オビ」上の推薦の言葉を自ら引用しているが(全集4巻、p.778。西尾幹二の全集に頻繁に見られる「自己讃美」の仕方だ)、これをさらに抜粋すると、以下のようだ。
 「評伝文学の魅力/…ニーチェがギリシア古典の研究者としてスタートを切った事実は…完全に無視されてきた。…西尾氏の文章は、初めてこの事実を解明を試みた綿密な研究であるとともに、『評伝文学』の魅力に溢れており、…傑作である。」
 ここに示されているように、西尾・上掲書はニーチェの初期の「文献学」・「書誌学」的研究書であり、ニーチェの「伝記」の一部であり、「評伝文学」と位置づけられ得るものだ。到底、ニーチェの哲学(・思想)を、一部であれ、研究したものではない。
 なお、西尾幹二は上の書以外にもニーチェに論及する文章を書いており(同全集第5巻を参照)、ニーチェ著の一部の「翻訳」をしているが、ニーチェの、とくにその哲学・思想全体の「本格的」な研究者では少なくともない。ショーペンハウアーに至っては、翻訳の文章があるほかは、ニーチェとの関連で言及するだけで、まともに「研究」していたとは思えない。
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  西尾幹二の雑誌論考の中途または末尾に、こう書いてあるものまで出現している。
 「東京大学文学部独文学科卒。専門はドイツ思想と歴史哲学。近著に…」(月刊正論2020年6月号、p.25)。
 何と、西尾幹二の「専門はドイツ思想と歴史哲学」だと明記されている。
 大笑いだ。「歴史哲学」に「ドイツ」が係るのか不明だが、いずれにしても。
 西尾幹二に「ドイツ思想」または「歴史哲学」に関するどのような専門書があるのだろうか。一冊でもあるのか?。

2629/西尾幹二批判063—雅子妃問題②。

 以下は、西尾幹二の言説(妄言)の「歴史的記録」として。あるいは、その「人格」を例証する一つとして。このとき、満76歳。
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 西尾幹二「『雅子妃問題』の核心」歴史通2012年5月号(ワック)
 一部(当時の皇太子妃批判・攻撃)を引用する。以下での「皇后陛下」は現在の上皇后陛下、「皇太子妃殿下」・「雅子妃」は現在の皇后陛下、「皇太子殿下」は現在の天皇陛下—以上、引用者。一文ずつで改行した。/は本来の改行箇所。下線は引用者による。
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 ①「皇后陛下は…耐え、馴れて、ご自身の世界を切り拓いて新境地に達した。
 皇太子妃殿下はいまだその域に達していない。
 『適応障害』といわれて九年目になる。
 一般人の自由を奪われたことが病気の原因であることは間違いない。
 皇室という環境にあるかぎり病気は治らないと医師も証言している。
 であるなら、道は二つに一つしかない。
 皇室を離れて、一般人の自由を再び手に入れるか、それとも皇室の掟に従うことを覚悟して、わが身に自由は存在しないことを大悟徹底するか、の二つに一つである。/」p.36。
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 ②皇室問題に「独特の混乱」を招いているのは「女性宮家創設」問題ではなく、「男系か女系か」も「緊急のテーマ」ではない。
 「最重要の問題は、雅子妃が皇室に一般的人の自由を持ち込み始めていることである。
 そしてそれを次第に拡大し、傍目にも異常に見えるようになったのは、単に皇室の掟に従わないだけではなく、一般社会人も当然生活する上で日常のさまざまな掟に縛られているのであるが、彼女はそこからも解放され、自由であり、天皇に学び皇后に従い皇室の歴史における自分の立つ位置を定めるという義務を怠っているので、一般社会からも皇室からも解放され、ついに何者でもない宇宙人のような完璧に自由であるがゆえに、完璧に空虚な存在になりはじめていることである。」p.36〜p.37。
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 ③「皇太子殿下」は…と「発言されたのだ」。
 「病気治癒に役立つなら公務を私的に利用すると平然と言ってのけたのでる。
 つい口を滑らして本音が出てしまったのかもしれないが、一般人が享受する私的自由は皇室にはない、との覚悟を内心深く蔵していたなら、不用意であっても、こんな言葉が出てくる筈はない。
 一般人の自由を皇室に持ち込み、なにごとも "自分流" を通されようとする妻の影響下に置かれている有様が透けて見えるようで、悲しい。/」p.37。
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 ④佐藤あさ子『雅子さまと愛子さまはどうなるのか?』(草思社)の「以上の叙述と思想から浮かび上がってくるのは、一般社会からも皇族社会からも完全にフリーな、どちらにもコミットしていない真空地帯、稀にみる楽園のような、地上に滅多に存在しない『自由』の実験劇場の舞台を浮遊するそうに、幻のように生きている不可解な存在である。…
 天皇陛下皇后陛下には生活があり、佐藤さんはじめ働く一般庶民にも生活があるが雅子妃には『生活』がない。
 無限の自由の只中にあって、それゆえに自由を失っている。
 ご病気の正体はこれである。/
 『裸の王様』という言葉があるが、ご自分ではまったく気がついていないものの、外交官のライフスタイルを失ったという嘆きやぼやきが思うに唯一の生き甲斐となり、夫への怨みや脅迫となり、与えられた花園の中を好き勝手に踏み歩く権利意識になっていると思われる
 …、学歴も高く才能もあるといわれて久しいのにほとんど目ぼしい活動もなく、子供の付き添い登校にひどくこだわって顰蹙を買ったのも、理由ははっきりしている。
 『生活』のないところにどんなライフワークも生まれようがないからである。/」p.41〜p.42。
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 ⑤「妃殿下に皇族として生きる覚悟が生じたときにはじめて彼女の『生活』が開始する。
 あるいは、ご離婚あそばされ、一般民間人になられたなら、そこでも『生活』が始まることは間違いない。
 その中間はない。
 どっちつかずの真中はない。
 あれかこれかの二つに一つで、選択への決断だけが彼女に自由を与える。/
 これがどうしてもお分かりならないでいる。
 そのために現代社会では起こり得ない次のような奇怪な絵図が展開されている。/
 「雅子妃の愛子さま付き添い登校」等…。
 「…、つい先頃まで毎日のように学習院初等科の校門前で行われた…珍妙な儀式は、封建時代の悪大名の門前を思わせる、たしかに ”異様” の一言でしか言い表せない光景である。
 こんな出来事がわれわれの現代社会に立ち現れていたことはまことに嘆かわしいし、恥しい。/」
 ——
 参考。→即位祝賀奉祝曲・嵐「Ray of Water」(作曲・菅野よう子)、2019年11月9日

2528/池田信夫ブログ026—馬渕睦夫著。

 池田信夫ブログマガジン2022年4月25日号「なぜ反ワクチンが反ウクライナになるのか」=同・Agora 2022.04.19。
  これは、馬渕睦夫の2021年秋の書物に対する批判だ。
 馬淵の本はいくつか所持しているが、まともに読んだことはない。
 こんな奇妙なこと(オカルト的なこと)を書く人なのだと間接的に知った。
 馬渕によると(その紹介をする池田によると)、「世界の悪い出来事」は全てDS=Deep State の陰謀で、このDS の正体は「国際共産主義運動とユダヤ金融資本とグローバル企業の連合体」らしい。
 表題によると、馬渕は「反ウクライナ」のようだが、だとすると「親ロシア」で、ロシアへの厳しい対応をしていないので「親中国」でもあるのだろうか。とすると、「国際共産主義運動」への敵意らしきものとの関係はどうなるのだろう。
 残念ながら、池田信夫の言及だけでは分からない。と言っても、馬淵のこの書物を購入して読む気もない。
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  池田信夫は、元ウクライナ大使の馬淵が「B級出版社」(池田は「ワック」をこう称する)から本を出す「ネトウヨ」となった背景をこう推測する。
 「精神疾患にかかった」とは考え難い。「右翼メディアも売れっ子になって、彼の右翼的信念がだんだんと強まった」のだろう。徐々に「過激」になるのは「よくあること」。「特にネトウヨ界隈では、穏健な右翼は目立たないので、だんだん過激にな」り、「まともなメディアには出られなくなるので、…ますます過激になる」という「悪循環」に入る。
 これは、相当に考えられ得る想定だ。「売れっ子」だとは感じていなかったけれども。 
 「ネトウヨ界隈」の雑誌類等の中で何とか「角を付けて」、だが「右翼」たる基本は失わないで泳いできた一人は、西尾幹二だろう。
 但し、池田信夫の「ネトウヨ」概念は少し単色すぎるきらいはある。
 池田によると、櫻井よしこも西尾幹二も、そして佐伯啓思も、きっと「ネトウヨ」に入るのだろう。正確な叙述を知らないが、近年に懸命に日本人・ユダヤ人同祖論を展開しているらしき「つくる会」第二代会長・田中英道もいる。
 だが、それぞれに、たぶん馬渕も含めて、違いはある。〈日本会議〉との距離も異なるし、「皇国史観」で一致しているかも疑わしいし、一致していてもその「皇国史観」の中身は同じでないだろう。
 もう一人、遅れてきた「ネトウヨ」の名を思い出した。Agora で表向きは池田と親しいのかもしれない、八幡和郎
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2525/西尾幹二批判062。

 (つづき)
  西尾幹二は上記の引用文の中で、「人間の認識力には限界があって、我々が事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」と書いた。
 こう2020年に書いたことと、「明白に」矛盾することを、西尾幹二は主張していたことがある。
 すなわち、西尾自身が「あれほど明白になっている」「現実」に、「新しい時代の自由」をいう「平和主義的、現状維持的イデオロギー」と「旧習墨守」をいう「古風な、がちがちに硬直した、皇室至上主義的なイデオロギー」に立つ論者は、いずれも「目を閉ざして」いる、と厳しく非難したことがある。
 月刊諸君!2008年12月号、p.36-37。
 西尾幹二は「あれほど明白になっている東宮家の危機」を上の両派ともに「いっさい考慮にいれ」ず、「目を閉ざして」いると論じる。
 そして、こうも書く。
 「現実はいっさい見ない、現実はどうでもいいのです。
 自分たちの観念や信条の方が大切なのです。」
 そして上の危機、「東宮家の異常事態」、の中心にある「現実」だと西尾が「認識」しているらしきものは、つぎだ。
 「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくない」、「明瞭に拒否されて、すでに五年がたっている」。
 この危機・異常事態を西尾は「日本に迫る最大の危機」とも表現するのだが、その点はともかく、「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくない」、「明瞭に拒否されて」いるという「事実」は、どうやって認定、あるいは認識されたのだろうか。 
 テレビ番組での西尾発言を加えると、<病気ではないのにそれを装って(「仮病」を使って)>雅子妃は宮中祭祀を「明確に拒否」している、との「現実」認識を、西尾はどうして「あれほど明白になっている」とする危機の根拠にすることができたのだろうか。
 こういう「認識」の仕方は、西尾自身が2008年に非難していた、「現実はいっさい見ない、現実はどうでもいいのです。自分たちの観念や信条の方が大切なのです」とか、「イデオロギーに頼って…日本に迫る最大の危機すら曖昧にしてしまう」とかにむしろ該当するのではないか。
 さらに西尾が2020年著で批判する、「…をつい疎かにして、ひとつの情報を『事実』として観念的に決めてしまうというようなこと」を自分自身が行っていたことになるのではないか。
 首尾一貫性がない、と評すれば、それまでだ。西尾幹二という人物は、いいかげんだ、で済ませてもよい。 
 「事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」と言いつつ、これと矛盾して、「あれほど明白になっている」現実を無視していると、多くの論者を糾弾することのできる<神経>が、この人にはあるのだ。
 なお、「過去の事実」と「現実」(=「現在の事実」?)は異なる、と言うことはできない。西尾は「五年」前からの「現実」を問題視しているのであり、一般論としても、「現在の事実」は瞬時に、あっという間に「過去の事実」(=「歴史」?)になってしまうからだ。「事実」という点において、本質は異ならない。
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 2020年著の冒頭頁の「事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」という表現は、<事実それ自体は存在しない>というF・ニーチェの有名な一節を想起させる。そして、西尾は、単純に、アフォリズム的に、これの影響を受けているのではないか、とも推察することができる。
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 その部分は、現在は実妹のElisabeth が編集した「偽書」 の一部だとされていると思われる、『権力への意志(意思)』の一部だった。だが、この書自体は存在していなくとも、上の旨を含む一節・短文は現実に存在した、と一般に考えられていると思われる。 
 M・ガブリエル(Markus Gabriel)は、そのいう「構築主義」を批判する中で、ニーチェのつぎの文章を引用している。
 Markus Gabriel, Warum es die Welt nicht gibt (Taschenbuch), S.186,
 =清水一浩訳/なぜ世界は存在しないのか(講談社、2018年)p.61。
 (0) 「いや、まさに事実は存在せず、解釈だけが存在するのだ。
 我々は事実『それ自体』を確認することができない
 そのようなことを望むのは、おそらく無意味である。
 『そのような意見はどれも主観的だ』と君たちは言うだろう。
 しかし、それがすでに解釈なのだ。
 『主観』は所与のものではなく、捏造して付け加えられたもの、背後に挿し込まれたものである。」
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 上の前後を含む短文全体の邦訳を、以下に二つ示しておく。この欄でのみ便宜的に前者にだけ、対応する原語・ドイツ語を付す。//は本来の改行箇所。
 (1) 三島憲一訳/ニーチェ全集第九巻(第II期)・遺された断想(白水社、1984年)、397頁。
 「『存在するのは事実(Tatsachen)だけだ』として現象(Phänomenen)のところで立ちどまってしまう実証主義(Positivismus)に対してわたしは言いたい。
 違う、まさにこの事実なるものこそ存在しないのであり、存在するのは解釈(Interpretation)だけなのだ、と。
 われわれは事実(Faktum)『それ自体』は認識(feststellen)できないのだ。
 おそらくは、そんなことを望むのは、愚行であろう。
 『すべては主観的(subjektiv)だ』とお前たちは言う。
 だがすでにそれからして解釈(Auslegung)なのだ。
 『主観』(Subjekt)ははじめから与えられているものではない。
 捏造して添加されたもの、裏側に入れ込まれたものなのだ。
 とどのつまりは、解釈(Interpretation)の裏に解釈者を設定して考える必要があるのだろうか?
 すでにこれからして虚構(Dichtung)であり、仮説(Hypothese)である。//
 『認識』(Erkenntniß)という言葉に意味がある程度に応じて、世界は認識しうる(erkennbar)ものとなる。
 だが世界は他にも解釈しうる(anders deutbar)のだ。
 世界は背後にひとつの意味(Sinn)を携えているのではなく、無数の意味を従えているのだ。
 『遠近法主義』(Perspektivismus)。//
 世界を解釈(die Welt auslegen)するのは、われわれの持っているもろもろの欲求(Bedürfnisse)なのである。
 われわれの衝動(Triebe)と、それによる肯定と否定なのである。
 いっさいの衝動はそのどれもが一種の支配欲であり、それぞれの遠近法を持っていて、他のすべての衝動にそれを押しつけようとしているのだ。」
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 (2) 原佑訳/ニーチェ・権力への意志(下)(ちくま学芸文庫・ニーチェ全集13、1993年)、27頁。
 「現象に立ちどまって『あるのはただ事実のみ』と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、
 否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。
 私たちはいかなる事実『自体』をも確かめることはできない
 おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。//
 『すべてのものは主観的である』と君たちは言う。
 しかし、このことがすでに解釈なのである。
 『主観』は、なんらあたえられたものではなく、何か仮構し加えられたもの、背後へと挿入されたものである。
 —解釈の背後になお解釈者を立てることが、結局は必要なのであろうか?
 すでにこのことが、仮構であり、仮説である。//
 総じて『認識』という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。
 しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももっておらず、かえって無数の意味をもっている
 —『遠近法主義』。//
 世界を解釈するもの、それは私たちの欲求である、私たちの衝動とこのものの賛否である。
 いずれの衝動も一種の支配欲であり、いずれもがその遠近法をもっており、このおのれの遠近法を規範としてその他すべての衝動に強制したがっているのである。」
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 注記—上に出てくる「遠近法主義」とは、M・ガブリエル=清水一浩によると、「現実(Wirklichkeit)についてはさまざまな見方(Perspektiven)があるというテーゼ」とされ〔一部修正した〕、邦訳者・清水は「遠近法主義」ではなく、そのまま「パースペクティヴィズム」としている。
 このような言葉・概念の意味は、Nietzscheにおけるそれでもある(少なくとも、大きく異なるものではない)と見られる。
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2524/西尾幹二批判061。

  さて、No.2523で引用した西尾幹二の文章は、いったい何を、あるいは何について叙述して、あるいは論じて、いるのだろうか。
 このように課題設定する前に、西尾幹二の<真意>を探ろうとする前に、そもそもこの人はつねに真面目にその「真意」を表現しようとしているのか、という問題があることを指摘しておかなければならない。
 ①「事実」または「真実」を明らかにする。②付与された紙数の範囲内で「作品」(文芸評論的、政治評論的な、等々)を仕上げて提出する。③世間的「知名」度を維持または形成する。④その他。
 付加すると、こうした西尾の<動機>自体の問題もある。西尾自身が、自分が書いてきたものは全て「私小説的自我」の表現だったと明言したことがあることも、想起されてよい。
 元に戻ると、西尾幹二は、明らかに自分自身を含むものについて、こう叙述したことがある。
 (1) 月刊正論2002年6月号=同・歴史と常識(扶桑社、2002)p.65-p.66。
 「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけない」。
 「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない。正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
 (2) 月刊諸君!2009年2月号、p.213。
 「思想家や言論人も百パーセントの真実を語れるものではありません。世には書けることと書けないことがあります。」
 「公論に携わる思想家や言論人も私的な心の暗部を抱えていて、それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされるでしょう」。
 以上。
 このように書いたことがある西尾幹二の文章ついては、上の(1)に該当していないのか、上の(2)が述べるように100パーセント「全部ぶちまけている」のか否か、をつねに問題にしなければならない。
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  上は気にしなくてよいという仮の前提つきで、あらためて真面目に問題にしよう。
 No.2522で引用した西尾幹二の文章は、いったい何を、あるいは何について、叙述しあるいは論じているのか。
 「歴史」に関するもののようだ。次のように言う。
 「歴史」は、「過去の事実を知ること」ではなく、「事実について、過去の人がどう考えていたかを知ること」だ。
 「歴史」とは「『事実について、過去の人がどう考えていたかを知ること』」であって、かつまた「『異なる過去の時代の人がそれぞれどう感じ、どう信じ、どう伝えたかの総和』」なのではないか。
 歴史学者ではなく、一冊の歴史叙述書も執筆したことがない西尾の「歴史」論議を真面目に相手にする必要はない、と書けば、それで済む。
 秋月瑛二という素人でも、おそらく上の文章の100倍の長さを超える文章で、疑問を提起することができる。
 ここでの「歴史」はかなり限られた意味だ、そして「歴史」との区別も不明瞭だが「歴史」書も古事記、神皇正統記、大日本史、本居・古事記伝といった次元のものに限られている気配がある、過去の人が「考えていた」ものだけでなく遺跡・遺構・遺物や公家等の日常的な日記類(広く古文書類)も歴史の重要・貴重な「史料」だ、一時間前も一日前も一年前も10年前も「過去」であって「歴史」に属する、例えば秋月瑛二にも<個人史>または<自分史>があって、それも「歴史」の一つだ。
 『異なる過去の時代の人がそれぞれどう感じ、どう信じ、どう伝えたかの総和』が「歴史」だとも書くが、過去の人々が「どう信じ」たかも含めているのは気にならなくもないし、「総和」と言っても、過去の人々が「どう感じ、どう信じ、どう伝えたか」は各人によって相違する、矛盾することがあるのであり、「総和」などど簡単に語ることはできない。等々、等々。
 要するに、真剣な検討に値しない。「歴史」概念自体がすでに不明瞭だ。
 何を、どういうレベル、どういう単位で叙述する、または論じるのか。
 西尾は、上の文章に限られないが、おそらく、きちんと叙述しておくべき、自らだけは分かっているつもりなのかもしれない<暗黙の前提>を明記することを怠っている。
 ところで、「対象」とは日本語文でよく使われる言葉だが、哲学者のマルクス・ガブリエル(Markus Gabriel)は、「対象」(Gegenstnd)を<「真偽に関わり得る思考」(wahrheitfähige Gedanken)によって「考える」(nachdenken)ことのできるもの>と定義し、対象の全てが「時間的・空間的拡がりをもつ物」(raumzeitliche Dinge)であるとは限らない、「夢」の中の事象や「数字」も「形式的意味」での「対象」だ、とコメントする。また、「対象領域」(Gegenstandsberich)という造語?も使い、これを「特定の種類の諸対象を包摂する領域」と定義し、それら諸対象を「関係づける」「規則」(Regeln)が必要だとコメントする。
 M,Gabriel, Warum es die Welt nichi gibt (Taschenbuch/2015, S.264. 清水一浩の邦訳を参照した)。
 西尾においては、論述「対象」が何か自体が明瞭ではなく、「対象領域」を構成する別の対象との「関係づけ」も曖昧なままだ、と考えられる。「歴史」に関係する諸対象を「関係づける」「規則」を「歴史」(・「哲学」)の専門家ではない素人の西尾が知っているはずもない。
 よくぞ、『歴史の真贋』と題する書物を刊行できるものだと、(編集者の冨澤祥郎も含めて)つくづく感心してしまう。もっとも、「歴史」を表題の一部とする西尾の書は多い。
 専門の歴史家、歴史研究者、井沢元彦や中村彰彦のような歴史叙述者(後者は小説の方が多いが)は、かりに西尾の論述を知ったとして、どういう感想を持ち、どう評価するだろうか。
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  ついで、「事実」の把握または認識に関する叙述であるようだ。
 そして、以下のように語られている。「過去の事実」=「歴史」だとすると(こう理解させる文がある)、「歴史」と無関係ではない。
 「歴史」は、「過去の事実」について「過去の人がどう考えていたかを知ること」だ。「過去の事実を直(じか)に知ることはできない」。
 「人間の認識力には限界があって、我々が事実を知ることは不可能であり、過去の人が事実をどう考え、どう信じ、そしてどう伝えていたかをわれわれは確かめ、手に入れようと努力し得るのみである」。
 「なぜなら、事実そのものは、把握できないからです。
 事実に関する数多くの言葉や思想が残っているだけなのです。」
 以上。
 この辺りに、西尾幹二に独特の(そう言ってよければ)「哲学」または<認識論・存在論>が示されていそうだ。
 「人間の認識力には限界があ」るのはそのとおりかもしれないが、そのことから、「事実を知ることは不可能」だとか、「事実そのものは、把握できない」ことになるのか?
 きっと、「事実」という言葉の意味の問題なのなのだろう。全知全能では全くない秋月瑛二でも、つぎのような「事実」を「認識」している。
 ・いま、体内で私の心臓が拍動している。・「呼吸」というものをしている。・ヘッドフォンから美麗な音楽が流れている。
 これらは、私の感覚器官・知覚器官、広くは「認識器官」を通じて「私」が「認識」していることだ。最後の点を含めて、近年の「私」に関する「過去の事実」でもある。
 「私」が介在していなくともよい。「私」が存在した一定の年月日に日本で〜大地震や〜事件、等々が起きたことは、「私」の感覚器官が直に(じかに)認知していなくとも、「過去の事実」として把握または認識することができる。
 私の生前に、一定の戦争に日本が勝利したり、敗北した(降伏文書の署名をし、外国によって「占領」された)ことも、「過去の事実」のようだ。
 そんなことを言いたいのではない、と西尾幹二は反応するかもしれないが、西尾の上の文章は、以上のようなことも否定することになる。そうでないとすれば、文章内容の十分な限定、条件づけを西尾という人は、行うことのできない人物なのだ。
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 (つづく)

2523/西尾幹二批判060。

  西尾幹二の近年、2020年の著に、つぎがある。編集担当は、冨澤祥郎。
 西尾幹二・歴史の真贋(新潮社、2020)。85歳になる年の著。
 第一部冒頭の章の表題は「神の視座と歴史—『神話』か『科学』の問いかけでいいのか」で、2019年5月の研修会での報告文(?)だとされる。
 『歴史の真贋』と題する著の冒頭に置くのだから、それなりに重要視しているのだろう。
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  その冒頭の章のさらに冒頭で引用しているのは、つぎの1997年著の「あとがき」の冒頭だ。
 西尾幹二・歴史を裁く愚かさ(PHP研究所、1997)。62歳のとき、編集担当者は当時PHP研究所出版部の真部栄一。
 引用される文章は、以下。「(中略)」も2020年著の原文どおり。
 「歴史は、過去の事実を知ることではない。
 事実について、過去の人がどう考えていたかを知ることである。
 過去の事実を直(じか)に知ることはできない。
 われわれは、過去に関して間接的情報以外のいかなる知識も得られない。(中略)//
 ところが、どういうわけか、現代の知識人は過去の事実を正確に把握できると信じている。
 事実が歴史だと思いこんでいる。
 そして、その事実について過去の人がどう考えていたかは捨象して、自分が事実ときめこんだ事実を以て、現在の自らの必要な欲求を満たす。//
 それは事実の架空化による事実への侵害である。」//
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  この引用のあとに続けて、西尾は2020年に(正確には2019年。但し、例のごとく単行本に収載するに際しての「大幅な改稿、加筆」がある、という(p.360))、趣旨・意図をこう説明する。
 「人間の認識力には限界があって、我々が事実を知ることは不可能であり、過去の人が事実をどう考え、どう信じ、そしてどう伝えていたかをわれわれは確かめ、手に入れようと努力し得るのみである、ということが言いたかったのです。
 それも現在の制限された条件の下で、最大の知力と想像をもってもわずかに推察し得るのみであります。
 もう一度言います。
 『事実について、過去の人がどう考えていたかを知ること』が歴史であって、しかも『異なる過去の時代の人がそれぞれどう感じ、どう信じ、どう伝えたかの総和』が歴史なのではないか。
 それは事実を確かめる手段であるだけではなく、時には目的そのものですらあります。
 なぜなら、事実そのものは、把握できないからです。
 事実に関する数多くの言葉や残っているだけなのです。
 ところが実際には、手続や手段として情報を精査することなく、それをつい疎かにして、結果として知られたひとつの情報を『事実』として観念的に決めてしまうことが、まま行われてはいないでしょうか。」
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  歴史学者ではない西尾が、よくぞ「歴史」を表題の一部とする書物を多数執筆できたものだ、という気が、ふつうは生じるだろう。
 これも、<新しい歴史をつくる会>という(政治)運動団体の初代会長になってしまったという何らかの偶然によることなのか。自分には「歴史」または「歴史学」について語り論じる資格があり、かつ初代会長として語り、論じなければならない(上の1997年著は会長時代のもの)と「思い込んだ」からなのだろうか。
 こんなことは些細なことだ。ただし、25年近く前の文章をそのまま引用するとは、よほど自信があるか、よほど進歩・変化していないのだろう、という感想は記しておいてよいかもしれない。
 上にこの欄で引用した文章には、「歴史」のみならず、「事実」、「過去」、「把握」・「認識」等(・「言葉」等)に関する西尾幹二の基本<哲学>のようなものが表現されている、と考えられる。
 そこで、2020年という近年の著の冒頭に置かれてもいるので、かなり拘泥して、以下に取り上げてみる。
 (つづく)

2522/西尾幹二批判059。

 櫻井よしこや江崎道朗は、本当に気の毒だと思う。
 毎週のように、またはしばしば、取るに足らない、ならよいが、陳腐で、かつ悪いことに、間違いを含む、あるいはかつての自分の主張や事実の叙述と異なる文章を平然と書いて、それぞれの「個人名」で執筆して、将来に、半永久的に残しているからだ。
 恥ずかしい文章・書物が、執筆者「個人名」付きで、将来に半永久的に残る。これはとても「恥ずかしい」ことで、そういうことになるのは、本当に気の毒だと思う。
 西尾幹二も、多数の著者があり、個人全集まで刊行して(完了した?)、「どうだ、すごいだろ」と得意がっているかもしれないが、櫻井よしこや江崎道朗と比べて覆い隠す文章技巧に長けているためにすぐには暴露されないかもしれないが、本質的にはこれら二人と変わらないだろう。
 種々の意味や次元での「間違い」、自己矛盾に、西尾幹二の文章・書物も充ちている。
 気の毒だと思う。櫻井よしこと江崎道朗の二人に比べればという限定付きで、この時代に西尾幹二は目立っているので、または「よりましな」著述者だと見られていると思われるので、それだけ将来に「恥ずかしい」文章が「西尾幹二」という個人名付きで残るのは「恥ずかしい」ことに違いなく、本当に気の毒なことだ。
 1935年に生まれて、85歳以上まで生きた「真の保守思想家」(新潮社・2020年著のオビ)とも言われた人物の本質は、少し立ち入れば容易に暴露される。ああ、恥ずかしい。気の毒だ。1990年前後以降の実際には書いた文章を、この人は書かなかった方が良かった、幸せだった、と秋月瑛二は思う。

2506/西尾幹二批判058—「自由」論②。

 (つづき)
  「自由」というものは、それ自体は「善」でも「正」でも「美」でもない、つまり<良いもの>という価値判断を伴ってはいないものだ、と秋月は理解している。
 さしあたり、全面的に支持しているわけでは全くないが、前回に触れたL・コワコフスキの「自由」論を参照すると、そこでは一定の<選択可能性>や一定の<力(能力)>が、「自由」概念のもとで意味されている。
 彼における「自由」の問題領域の一つは、「自由な意思」形成の範囲・能力の問題は別として、<人間>として(厳密にはおそらく「神経系」または「精神」の完全な障害者や乳幼児を含む「未成年者」を別として)元来はもつ、または原理的にもち得る「人間としての自由」だ。この範囲では「良い・悪い」等の価値判断は付着していないと思われる。
 もう一つは「社会の一構成員としての人の自由」を対象とする「社会的な行動の自由(freedom)」だ。ここでは、どのような「社会」の構成員であるかによって「自由」の範囲・内容・強度等は異なってくるが、原理的に「社会の一構成員としての人の自由」と言う場合、それ自体に「良い・悪い」等の価値判断は付着していないと見られる。
 しかるに、西尾幹二の場合はどうか
 西尾幹二の「自由」論の特徴は、第二に、「自由」の観念にすでに一定の、つまり<良いもの>という価値判断を付着させていることがある、ということだ。
 これは、西尾における「自由」の意味の不明瞭さの現れでもあり、同じ一つの書物の中ですら、「自由」の意味がブレていることをも示している。
 すなわち、西尾・あなたは自由か(ちくま新書、2018)の中のつぎの文章に出てくる「自由」は、いったい何を意味しているのだろうか。だが、少なくとも、何か<良いもの>・<素晴らしいもの>を意味させていることは明らかだろう。
 ①「幼くして親元を離れて上野駅に集まった『金の卵』の労働者たち」は、「一人前の大人」・「社会人」となるよう徹底的に叩き込まれた。「生きて、働いて、成功しなければならなかった」。
 「彼らこそほかでもない、最も自由な人たちでした。」—p.81。
 ②「藤田幽谷は天皇を背にして幕府と戦いました。
 あの時代にして最大級の『自由』の発現でした。」
 「私たちもまた天皇を背にして、…グローバリズムに、怯むことなく立ち向かうことが『自由』の発現であるように生きることをためらう理由があるでしょうか。」—p.205。
 これらの「自由」の意味は何か、「『自由』は存在しない、そこからすべてが始まる」等々の同じ書物の中の<思弁的な>叙述とどういう関係にあるのか、西尾に問うてみたいものだ。
 もっとも、その箇所ごとで懸命に書いた表現・レトリックなのだから意味不明等があって当然だ、「矛盾」・「辻褄」を問題にされること自体が本意に反する、という反駁?を受けるかもしれない。
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 岩田温は西尾・あなたは自由か(2018)で「最も感銘を受けた」のは藤田幽谷に関する逸話であり、上の②の前半の叙述は「日本人であることを強烈に意識し、自らの宿命に生きた幽谷こそが最も自由だったのではないか」という指摘だ、という印象をとくに語っている。
 西尾=岩田温(対談)・月刊WiLL2019年4月号、対談再末尾のp.235。
 岩田温も西尾と同様の「感受性」をもつようだ。
 だが、藤田幽谷に関して、突如として「あの時代にして、最大級の『自由』の発現」だったという表現が出てきたので驚き、新鮮に感じた、というだけのことではないだろうか。
 岩田は、ここでの「自由」の意味を説明できるだろうか? まんまと西尾幹二のレトリックあるいはトリックに引っ掛かっただけのようにも思える。
 もちろん、藤田幽谷が「最大級の自由の発現」者だったかは、その意味も含めて問題になり得る。一部の「勤皇」志士たちを通じて明治維新に一定の影響を与えたとかりにしても、その後の明治の日本は彼の思いとは相当に異なる方向に進んだと考えられる。
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   西尾幹二・あなたは自由か(2018)の第一章に叙述されているFreedom とLiberty の区別に関する論述は、A. Smith の「自由」はLiberty だという認識も含めて間違っている、ということは、すでに何度も触れた。
 したがって、エピクテトスの「自由」は「アダム・スミスのような経済学者がまったく予想もしていない自由」だといった得意げな叙述も(p.43-)、まったく予想できないほどに奇妙だ。
 じつは秋月は、上の書の後半は全く読んでいない。途中で読むのが馬鹿々々しくなったからだ。
 だが、同書「あとがき」によると、出版・編集担当者の湯原法史(当時、筑摩書房)は、原稿一読後にこんな私信を西尾に寄せたらしい(以下は記載されているものの一部)。
 「思いもしない章別構成であるうえに、論旨の展開が寄せては返す波のようで、そこに目を奪われるような解釈と発見が相次いで現われ、…」。
 自ら執筆・出版を依頼した編集担当者だけに、気苦労は大変だったのだろう。自らが責任を持った書物の出版は、会社内ではもちろん「業績」の一つになる。
 ともあれ、「論旨の展開が寄せては返す波のようで」とは、論旨の一貫性のなさ、「自由」という観念が不明瞭なままだらだらと続いていること、を示していると「解釈」することもできる。
 出版社・新聞社の編集者たちはどのような「素養」・「教養」・「(潜在)意識」を持っているのかは、近年の関心の対象の一つだ。
 湯原法史、1951年?生、1974年3月、早稲田大学第一文学部卒業
 ついでながら、つぎの二人も、同じ大学、同じ学部(早稲田大学第一文学部)の出身者のようだ。適菜については少なくとも「早稲田大学」で「西洋文学」を学んだことは確からしい。
 桑原聡(1957年〜、元月刊正論編集代表)、適菜収(1975年〜、かつての月刊正論に「哲学者」だけの肩書きで執筆。藤井聡(京都大学)との対談書あり)。
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  西尾幹二・自由の悲劇(講談社現代新書、1990)での「自由」概念も、一貫して不明瞭だ。
 この書物では、時期・時代の影響があったのは間違いなく、「自由主義(・資本主義)」対「社会主義・共産主義」という構図の中で(曖昧に)「自由」が把握されている。
 そして、近年まで一貫しているわけでは全くないことも興味深いが、つぎのような認識・把握・主張がなされているようだ。この当時の他の書物の一部でのそれらも加える。
 ①社会主義に欠けた「古典的自由」とそれが充たされたうえでのいわば新しい「自由」。
 ②「自由主義(・資本主義)」諸国での「充たされた自由」(または「自由」を獲得した旧社会主義諸国)に潜む「自由」の「悲劇」という深淵(西尾のかつてのお得意のテーゼ・命題?、決まりフレーズだ)。
 ③(スターリンやヒトラーによる)「前期全体主義」ではない言わば新型・後期の「全体主義」が、新しい「自由」から出現する、という予感。
 上の①は別として、それ以外は、<思いつき>、<ひらめき>あるいは<レトリック的妄想>の類で、意味内容やその論拠・徴候が詳細に論述されているわけではない。
 また、どうやら近年では、上のようなことを書かなくなったようだ。
 だが、「自由」に関係して興味深くはあるので、別の機会に言及するかもしれない。
 ——

2505/西尾幹二批判057—「自由」論①。

  「自由」は、西尾幹二にとっての「生涯」の主題のようだ。
 同・あなたは自由か(ちくま新書、2018)で、こう書いている。p.205。
 「完全な自由などというものは空虚で危険な概念です。素っ裸の自由はあり得ない。私は生涯かけてそう言いつづけてきました。」
 また、『自由の悲劇』と題する新書(講談社現代新書、1990)もあり、それを収めた同じ表題の巻が全集の中にある。
 しかし、西尾の<自由論>の最大の特徴は、第一に、上に引用の文も含めて、そもそも「自由」の意味・意義が明瞭ではなく、法学・政治学・経済学等の社会系はもちろん「哲学」系でもなく、ほとんど「文学」的にまたは「文芸評論」的にこの語・概念が把握されていて、おそらくその結果だろう、暫定的、仮定的にすら何の「定義」も示されていないことだ。
 他の多くの言葉と同様に、西尾にとっては、極論すれば、言葉やその集合の文章は「味合う」もの、「感動を与える(べき)」ものであって、厳密に分析したり、正確な意味内容を追求すべきものではないのだ。ここにすでに、少なくとも秋月が不思議さ、大きな違和感を覚える点がある。
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 西尾もまた叙述しながら自分で戸惑うことがあるようで、例えば、同・あなたは自由か(2018)第二章3「自由は量の概念ではなく、量と質の問題でもない」では、こんなことを呟いている。p.115〜p.117。
 「自由」概念をあれこれ語ったが、「その概念にふさわしいものの言い方」をしてきたか、「疑問もあります」。自由の「過剰」を語ったりその「収縮」を語ったりしたが、「自由」は「量的概念として扱われるには決してふさわしい概念ではありません」。「さりとて質的概念」だとして「正反対の概念を持ち出しても」、自由の「説明には役に立ちそうもない」。「質の上下の問題は、結局のところ量的な価値判断に再び還元されてしまうのです」。「こうした場合、本当に自分の自由が増大したのかどうかは誰にも分からないのが常です」。
 人間には「『自由』は存在しない、という明白な認識にあえて踏み込むべきだ」と言っていいいかもしれないが、この当否は「今しばらく不問にしておきたい」
 「不自由」が宿命であるのは「自明の理」だが「生への情念」を抱える以上、その「不自由」を「必然であり、かつ運命であると…説教師ふうに断案することに私はためらいがあります」。
 「さりとて、『自由』は可能であり、どういう瞬間にどういう形態で人間は真の『自由』に襲われるものであるかを、具体的に明らかにすることは私には不可能でもあります」。「考えれば、私は何も分かっていないのです」。
 ここで区切る。以上は新書の二頁ぶんの抜粋引用。こんな文章を読まされる読者は気の毒だし、書き写すのもアホらしいのだが。
 そうなっている根源は、西尾幹二における「自由」という観念が全く明晰ではなく、いわば<情緒>的言葉として使われているにすぎないことにあるだろう。
 同じ表題での最後のまとめ的な部分には。つぎの文章がある。p.118。
 「『自由』は存在しない、そこからすべてが始まることだけは確かだ、と私は先に申しました。
 おそらく、想像するに、『自由』は持続形態ではなく、量の概念でも質の概念でもなく、人間が四方八方において不自由な存在でありながらそのことをすら超えた境地にあるという認識の大悟徹底の只中から、わずかに瞬間的に発現する何ものかでありましょう。
 はて、西尾が「想像」するという「自由」は「…何ものか」を、読者は理解することができるだろうか。
 あえて言って、文章書きとして<悲惨>だ。むろん「思想家」ではない。
 読んだときの感想として、手元にある現書のp.115-p.119の余白部分には、違う二箇所にいずれも、「笑」・「わけがわからない」という、たぶん数年前の私の手書き文字が記入されている。
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  この欄に昨年、L・コワコフスキのつぎの著作の一部の試訳を掲載した。邦訳書はない。 
 Leszek Kolakowski, Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 =レシェク.コワコフスキ・自由,名声, 嘘つき,背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 その中に「自由について」(On Freedom)と題する章があった(第13章。第18章まである)。
 小ぶりの書物で、一頁あたり(横書き)26行で、この章はわずか9頁余りあるにすぎない(2回に分けての掲載で済んでいる)。→No.2374〜5/2021.05.25〜05.26.
 大きな期待もせず、所持しているL. Kolakowski の書物だからというだけで試訳してみたのだったが、「自由について」の部分だけで、上の西尾幹二・あなたは自由か(2018年)よりもはるかに分かりやすい。また、再言及はしないが、内容的にも教示的で刺激的だ。
 その根本的理由は、概念や論述対象の明瞭さだ。
 冒頭の、決して長くはない計二段落の文章を、さらに抜粋的に要約してみる。
 ①自由の問題に関する思想領域には、つぎの大きな二つがある。
 第一、太古からある、人間(human being)としての自由(freedom)という問題。「人はその人間性(humanity)だけの理由で自由(free)なのか、換言すると、自由な意思と選択の自由をもつから自由なのか、という問題」。
 第二、「社会の一構成員としての人の自由」を対象とする「社会的な行動の自由(freedom)」の問題。この場合の「自由」は、「Liberty」と称することもある
 ②意味について言うと、第一に、「人間性の本性からして自由だ」と言うことがとくに意味するのは、「人は選択することができる、その選択は、人の良心の及ばない力(forces)に全体として依存しているのではなく、かつまたそれによって不可避的に生じたのでもない、ということ」だ。
 第二に、「しかし、自由とは、現存のいくつかの可能性の中から選択する力(capacity)」だけを意味しはしない。「自由とは、全く新しい、全く予見できない状況を作り出す力でもある」。
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 西尾幹二が、あくまで例えばだが、「『自由』は持続形態ではなく、量の概念でも質の概念でもなく、人間が四方八方において不自由な存在でありながらそのことをすら超えた境地にあるという認識の大悟徹底の只中から、わずかに瞬間的に発現する何ものかでありましょう」、などと叙述しているのと比べて、何と明晰な概念の意味の明確化(と問題・対象の設定)だろう。
 これを前提として、残りの9頁足らずが「エッセイ(小論)」として論述されているので、外国語ながら、日本語での西尾の長々しい文章よりも理解しやすい。
 若いときに<思想史>の講義を担当していた「思想家」または「哲学者」か、ニーチェのドイツ語文の日本語翻訳とドイツ文学的研究から出発した、たんなる「もの書き」または「文筆業者」か、の違いだ、と言ってよいだろう。 
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 (つづく)

2504/西尾幹二批判056—電気通信大学。

 西尾幹二から2017年刊の『保守の真贋』(徳間書店)を贈呈配布してもらったことがあった。礼状は出さなかった。
 さすがに今年2022年の年賀状は来なかったが、2021年の年賀状は来た。それにはハガキにしては長い文章が活字印刷されていて、<「バイデン」によってアメリカは<「法治国家」でなくなった>旨が書いてあった。情報源はどこに?、と感じたものだ。
 さらに数年前の年賀状には<「歴史教科書」が変われば日本も変わると思っていた>と書いてあった。本当にそう思っていたとすれば、幼稚さが甚だしいと感じたものだ。上のいずれの年も、当方からは新年挨拶状を出してはいない。
 というわけで(というほどに単純ではないかもしれないが)、西尾幹二は「秋月瑛二」の本名やどういう人物であるか(あったか)を知っている。
 したがって、〈ハンドル・ネーム〉で批判するのは卑怯だ、少なくとも好ましくない、という秋月に対する批判は、西尾幹二との関係では的確ではない。
 それに、10年以上使っているこの欄用の名前を変えるのは忍び難いが、少なくともこの数年間は、本名または「正体」が誰に分かってもかまわない、というつもりで書いている。
 それより前に書いていたことだが、秋月瑛二はいかなる組織にも個人にも、政治的にも私的にも、従属していない。 
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  西尾幹二は2006年1月に、「つくる会」名誉会長辞任の挨拶文を会員あてに送った(ようだ)。「名実ともに同会から離れ…」とあるから会員でもなくなる、ということだろうか。
 その文章の中で、こう書いている。同全集第17巻・歴史教科書問題(2018年)、p.709。
 「私は研究上の場所とした日本独文学会を六十歳で退会した。
 私は『個人』として生まれたのだから『個人』として死ぬ。
 どんな学会にも属する必要はないと思ったからである。
 これに続けて、「つくる会」に参加したのも離脱するのも「個人」としてであって、それだけのことだ、と書いて、名誉会長辞任(かつ退会?)の理由としている。
 この文章は、奇妙だ。
 西尾幹二がどの学会に加入しようと退会しようと、自由勝手だ。
 しかし「個人」として生まれて死ぬということは、「どんな学会にも属する必要はない」ということの論理的な理由にはならない。
 かりにこれを一貫させるつもりならば、遅くとも「六十歳で」、つまりは1995年の翌年1996年3月までには、「全ての」組織・団体への加入・帰属をやめなければならない
 西尾幹二は、自分のうちにある「矛盾」に気づいていなかったのだろうか。
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  西尾幹二の詳細な「経歴」・「年譜」を本人自身が明確にしてほしいものだが、「帰属」団体・組織に着目すると、おおよそつぎのことが分かる。
 1958年03月、満22歳、東京大学文学部独文学科卒。
 1961年03月、満25歳、同大学院修士課程修了。
 同年04月、同、(国立)静岡大学人文学部講師。
 ここで区切ると、修士課程の標準は二年だが三年を要したことの理由は、もちろん知らないし、当面の問題とは関係がない。
 後期(博士)課程に進学せずして就職先を得ているのは、のちに現天皇と雅子皇后(当時、皇太子・同妃)の結婚自体について、西尾幹二が<「天皇家」と「学歴主義」の結合>とわざわざ指摘する、その「学歴」または「学歴主義」が背景にあることは明らかだろう。
 西尾個人は当然と思っていたかもしれないし、東京大学の教員・研究者として残れなかったことが不満だったかもしれない。だが、のちには「教育制度改革」問題で批判的に書きもする「学歴主義」の恩恵を、この人自身が相当に享受している。
 また、余計ながら、当時の大学では複数の外国語履修が要求され、第二外国語としてドイツ語かフランス語が選択されやすく(「ドイツ文学」というより)「ドイツ語」の教師の需要が近年よりも高かったことも、背景にあっただろう。
 1964年04月、満28歳、(国立)電気通信大学助教授。のち教授となる。
 1999年03月、満63歳、同大学退職。同時期か不明ながら、「名誉教授」に。
 さて、先に記したことを、もう一度書こう。
 「個人」だから「どんな学会にも属する必要はない」と言うのならば、西尾幹二は、遅くともその学会の退会と同時かそれ以前に、すなわち「六十歳」までには=1995年の翌年1996年3月までには、「全ての」組織・団体への加入・帰属をやめなければならなかったはずだ。
 しかるに、1998年度まで、特定の国立大学の教員だった。これは、当時の国立大学の定年だった満63歳(但し医学部と東京大学の少なくとも法学部は違っていた)と符号している。その年度まで(国立)電気通信大学に帰属し、何らかの職務と多額の?俸給があったはずだ。
 その権利・義務は、特定の学会の会員であるのか否かとは質的に異なっている。学会員には大会・集会出席義務すらなく、所属の意思と会費の納入さえあれば会員であり続ける。
 ともあれ、西尾幹二は60歳以降は「個人」にすぎないのではなかったか?
 なぜ、「学会」はやめても、大学教員ではあり続けたのか?
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  西尾幹二は1996年12月か1997年1月の「つくる会」の設立の重要メンバーで、初代会長にもあった。「日本独文学会を六十歳で〔1995年度中に〕退会した」したというのは、これと関係があると推察される。
 しかるに、1997年度と1998年度は、「つくる会」会長と電気通信大学教授を「兼ねて」いたわけだ。
 後者だけですでに、たんなる「個人」ではない。
 したがって、私は「日本独文学会を六十歳で退会した」、「個人」だから「どんな学会にも属する必要はないと思ったからである」という文章はきわめて奇妙なのだ。
 瑣末な問題かもしれないが、西尾幹二という人物とその文章は信用し難い例として、書いている。
 その場、その場で適当に書いている例が少なくない。いつまで自分が大学教員であったかをうっかりと?失念していたか、あるいは失念するほどに電気通信大学での義務・負担が軽かったかのどちらかだろう。
 電気通信大学等の国立大学は当時は、現行法(国家行政組織法)で言うと「施設等機関」の一つで、国立病院等とともに国家行政組織機構の中にあり、当然にその教職員の法的地位は国家公務員そのものだった(広義の独立行政法人・国立大学法人となっている現在と異なる)。西尾が文部省関連の中央教育審議会の委員として一時期に任用されていたのも、国立大学教員だったことも大きな理由だっただろう。
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  ドイツ文学で出発した「文科系」の西尾がなぜ、「理科系」の単科大学に35年ほども在職し続けたのか。
 いまただちに参照できないが、たしか同全集のいずれかの巻の「後記」の中で、具体的な大学名を明記して、誘われたけれども、世俗的な有名さよりも電気通信大学の「自由」を採ったとか長々と書いていた。西尾幹二という人の「心理」にも関係するので、手元で参照し得たときに再び言及しよう。
 関連して不思議に思うのは、西尾は電気通信大学で学生に対して、いったい何を教えていたのか、だ。「名誉教授」には勤続年数さえあれば誰でも?なれるとはいえ、1964年度〜1998年度の35年というのは、おそらくは基準年数を超えて、じつに長い。
 古田博司は、筑波大学の大学院の某専攻長になって…とか、所属大学の職務に関係することもけっこう書いていた。だが、西尾幹二は、電気通信大学での職務等について、些細なことも含めてきわめて冗舌な人であるにもかかわらず!、全くといいほど触れていない(皆無ではない)。学生に対する「教育」内容については、おそらく一切触れたことがない。
 天下に著名な西尾幹二がニーチェでもShopenhauer でもなく、ドイツ文学でもドイツ哲学でも、ましてや日本史についての「権力・権威二分論」でもなく、まさか35年間以上も初学の学生たちに、ドイツ語の発音や文法の基礎から教えていたとは、想像したくないことだが。
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2503/平野丈夫・何のための脳?-AI時代の行動選択と神経科学(2019年)より。

   <身分か才能か>、、<家柄(一族・世襲)か個人か>、<生まれか育ちか>、<遺伝か生育環境か>という興味深い重要な基本問題がある。
 平野丈夫・何のための脳?—AI時代の行動選択と神経科学(京都大学学術出版会、2019)。
 この中に、「生まれと育ち、経験による脳のプログラムの書き換え」という見出し(表題)の項がある。p.59〜。関心を惹いた部分を抜粋的に引用する。
 ・「外部からの刺激に応じて適切な行動選択を行う脳・神経系はどのように形成される」のかについて、「遺伝的に決定される過程と、動物が育つ時の外部からの刺激または経験に依存した過程の両者が関与することがわかっている」。
 ・「網膜の神経細胞が視床へ軸索を伸ばす過程は、遺伝的要因により定まっている」。
 ・「一方で、大脳皮質のニューロンの各種の刺激に対する応答性は、幼児期の体験によって変わる」。
 ・「このように、神経回路形成において感覚入力が重要な役割を担う時期は幼弱期に限定され、この時期は臨界期と呼ばれる。臨界期の存在は視覚情報処理に限られない。言語習得等にも臨界期がある」。
 「神経回路の形成には、遺伝的にプログラム化された過程と、外部からの刺激または入力に応じた神経回路の自己組織化過程が関与する。
 神経回路の自己組織化は入力に応じた神経機能調節であるが、情報処理過程が刺激依存的に持続的に変化する現象であり、学習の一タイプと見なせる。」
 以上、至極あたり前のことが叙述されているようでもある。遺伝的に定まった過程と「幼児期」にすでに臨界を迎える過程とがある。
 前者は生命の端緒のときか出生以前の間かという疑問も出てくるが、たぶん前者なのだろう(但し、その場合でも一定の時間的経過を要するのだろうと素人は考える)。
 また、個々人にとって後発的に出現する視覚神経系等の「個性」が「遺伝」によるのか「幼児期」の体験等によるのかは、実際には判別できないだろう。もっとも、いろいろな点で「親に似る」(あるいは祖父母に似る)ことがある、つまり「遺伝」している、ということを、我々は<経験的に>知ってはいる。もちろん。「全て」ではない。子どもは両親の(半分ずつの?)「コピー」ではない。
 なお、上の叙述の実例として「鳥類」と「ネコ」が使われている。上のことはヒトまたはホモ・サピエンスだけの特質では全くない(魚類・両生類・爬虫類・鳥類・哺乳類は全て、大脳・間脳・中脳・小脳・延髄を有する。神経系もだろう。平野丈夫・自己とは何なのか? 2021年、p.31参照)。
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  西尾幹二は「自然科学の力とどう戦うか」が「現代の最大の問題で、根本的にあるテーマ」だと発言し、対談者の岩田温も「無味乾燥な『科学』」という表現を用いている。月刊WiLL2019年4月号。p,223, p225。
 こんな<ねごと>を言っていたのでは、現代における「思想家」にも「哲学者」にも、全くなれないだろう。
 ヒト・人間も(当然に「日本人」も)また生物であり、それとしての「本性」を持つということから出発することのできない者は、今日では、「思想」や「哲学」を語る資格は完全にないと考えられる。
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  上に最初に引用した平野丈夫の一文は「外部からの刺激に応じて適切な行動選択を行う…」と始まる。
 問題は「<適切な>行動選択」とは何か、どうやって決めるのか、だ。
 むろん平野も、困難さを承認し、それを前提としている。
 だが、上の著の「はじめに」にあるつぎのような文章を読むと、ヒト・人間を含む生物科学は(脳科学も脳神経科学も)、人間に関する、そして人間が形成する社会(・国家)に関する「思想」や「哲学」の基礎に置かれるべきものであるように感じられる。
 「動物の系統発生を考慮すると、脳・神経系のはたらきは動物が最適な行動をとるための情報伝達・処理・統合にあると考えられる。
 それでは、最適な行動とはどのようなものであろうか?
 それは個体の生存状況改善と子孫の繁栄に最も寄与する行動だと思う。
 なぜなら、現存動物種は進化過程における自然選択に耐えて生き残ってきたからである。
 しかし、ある生物個体が良好な状態であることと、その子孫・集団または種が繁栄することとは必ずしも両立しない。
 また、どのくらいの時間単位での利得と損失を考慮するかによっても、最適な行動は異なる。
 個体、グループまたは種にとって何が最適かは、実は正解のない難問である。
 ヒトを含む動物は各々の脳を使い、様々な戦略と行動の選択を行うことによって、個体の生存と血族または種の繁栄を図ってきた。」
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  緒言中の一般論的叙述だが、含蓄はかなり深い。
 「最適な行動」=「個体の生存状況改善と子孫の繁栄に最も寄与する行動」と言い換えても、後者が何かは「正解のない難問」だ。
 第一に、各個体と「子孫・集団または種」、あるいは「個体、グループまたは種」のいずれについて考えるかによって異なり、第二に、どのくらいの時間単位での「最適」性を想定するかによっても異なる。
 個体の「生存状況改善」と子孫の「繁栄」と言っても、具体的状況での判断はきわめて困難だ。
 それでも、大まかで基本的な思考・考察の出発点、視点または道筋は提示されているだろう。
 何のために生活しているのか? 何のために学問・研究をするのか?、何のために文筆活動をするのか?、何のために種々の仕事をするのか?。
 最低限または基礎的には<個体の生存>(食って生きていくこと)だったとして、それ以外に優先されるのはどのような集団の利益か。家族か一族か、帰属する団体・個別組織か、その団体・組織が属する「業界」か、それとも(アホだと思うが)「出身大学・学部」の利益・名誉か、あるいは「日本」・「国益」か、ヒトという「種」か、等々。
 生命・生存の他に、いかなる経済的または(名誉感覚を含む)精神的利益に「価値」を認めるのか。複数の「価値」が衝突する場合にはいずれを最優先にするのか。
 せいぜい1-2年先までを想定するのか、20年、50年、100年先までを時間の射程に含めるのか。
 自分自身(個体)の生存と自分自身の世俗的「名誉」にだけ関心を持つ者には、このような複雑で高次の問題は生じない。
 なお、上での表現を使うと、「最適な行動」の「選択」をする、複数の「選択可能性」の中から一つを選ぶ、これが可能である状態または力が「自由」であり、その基礎にあるのが「意思の自由」または「自由意思」だと考えられる。そのさらに基底には、脳内の「情報伝達・処理・統合」の過程があるのだけれども。

2495/西尾幹二批判055—思想家?③。

 つづき
 三 1 西尾幹二は、2009年に、「思想家や言論人」について、こう告白?している。政治家の言葉には、誰もが知るように嘘がある、としたあと、こう書く。
 「同じように言葉の仕事をする思想家や言論人も百パーセントの真実を語れるものではありません。
 世には書けることと書けないことがあります。
 制約は社会生活の条件です。
 公論に携わる思想家や言論人も私的な心の暗部を抱えていて、それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされるでしょう。」
 月刊諸君!2009年2月号、p.213。
 相当に興味深い文章だ。
 「公論に携わる思想家や言論人」の一人だと西尾が自分を見ていることは間違いなく、その点ですでに関心は惹く(ただの「文筆業者」ではないのか?)。
  それはともかくとしても、上が一般論というより、確実に自分自身についての、少なくとも自分を含めての叙述であることが注目される。
 ・「百パーセントの真実を語れる」わけではない。
 ・「書けることと書けないことがあ」る。
 これらですでに、西尾幹二が書いたこと、書いていることの「真実」性、「信憑性」、「誠実さ」を疑問視することができる。
 さらに、つぎもなかなか新鮮で刺激的な?叙述だ。
 ・「私的な心の暗部を抱えてい」る。
 ・「それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされる」だろう。
 これが書かれた2009年2月、「つくる会」は2006年に分裂して、西尾は名誉会長でもなくなっていた。従来の「つくる会」教科書出版会社だった扶桑社(産経新聞社関連会社)は八木秀次らの分かれたグループ作成の教科書を発行しつづけることになった。
 種々の思いがあったに違いないが、2006-7年に西尾は、「つくる会」分裂の経緯・関係人物に対する鬱憤を吐き出すかのごとく、分裂の経緯や関係人物批判等を相当に詳しく、かつ頻繁に書いた。
 それらを含めてまとめたのが西尾・国家と謝罪(徳間書店、2007)で、後記の表題は「あとがき—保守論壇は二つに割れた」。その中で、こう書きもした。
 「保守への期待が保守を殺す。
 私は自分の身が経験したこの逆説のドラマを包み隠さず正直に叙述した。
 なかに個人攻撃の文章があるなどと志の低いことを言わないでいただきたい。個人の名を挙げて厳しく批判している例は一人や二人ではない
 そういう『事件』が起こったのである。
 歴史の曲り角には必ずユダが登場する。」
  首相は、安倍晋三に代わっていた。安倍は、産経新聞・扶桑社とともに<非・西尾幹二派>を支持したとされる。
 西尾は「保守への期待が保守を殺す」と書き、「保守論壇は二つに割れた」という重要な認識を示した。
 かつ同時に、多数の(氏名だけは私も知る)論者たちを「ユダ」として名前を出して批判・攻撃した。10名を超えており、皮肉の対象も含めると、旧「生長の家」活動家とされた者たちのほか、八木秀次はもちろん、岡崎久彦・中西輝政・櫻井よしこ・伊藤隆、小田村四郎等々の多岐にわたる。「産経新聞の渡辺記者」というのも出てくる。
 この「事件」を振り返るのが目的ではない。
 西尾は2009年に、「書けることと書けないことがあ」ると言ったが、2006-7年頃には十分に書いていただろう、書きたいが書くのを躊躇してやめたという部分があるのだろうか、という疑問をここでは書いている。
 西尾・国家と謝罪(徳間書店、2007)の中ではとくにつぎの表題の項が、分裂の経緯(あくまで西尾から見た)や関係の多数の個人名を知るうえで、資料・史料的価値があるだろう。p.77〜p.173。
 「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」、「小さな意見の違いは決定的違い」、「何者かにコントロールされだした愛国心」、「言論人は政治評論家になるな」。
  2009年の前年の2008年は、西尾幹二が当時の皇太子妃批判を月刊WiLL上で継続し、西尾『皇太子さまへの御忠言』(ワック、2008)で単行本化した年だった。
 不確実な情報ならば「書けない」だろうが、西尾は「おそらく」という言葉を使っての推測の連鎖も含めて、相当に「書きすぎた」のではないだろうか。
 2006年に西尾は「保守論壇は二つに割れた」と認識したのだったが、「つくる会」の分裂以降、八木秀次は月刊正論(産経)上の重要な執筆者の位置を獲得する。八木は冒頭の随筆欄に、明らかに西尾幹二に対する<皮肉・当てこすり>を書いたりしていた。
 西尾が月刊正論から一切排除はされなかったようだ。それまでの実績と「誌面を埋める文章力」は評価されていたのだろう。それに、西尾自身が月刊正論では安倍内閣批判も許容してくれた、と何かに書いていた。
 それはともかく、2008年の西尾幹二による当時の皇太子妃批判は、ある程度は月刊WiLL編集部の花田紀凱との共同作業のようだが、2006年以降の西尾幹二の心理的「鬱屈」状態も背景にあったのではなかろうか。つまり、継続的に(従来どおりに?、その言う「保守論壇」の中で)「目立ち」たかった、というのが、重要な心理的背景の一つだったのではないか。 
 そして、2009年時点での「百パーセントの真実を語れる」わけではなく、「書けることと書けないことがあ」る、という言い分と、この人が2008年に実際にしたことの間には、大きな齟齬がある、と考えられる。 
 『皇太子さまへの御忠言』(ワック、2008)の刊行自体もまた、「思想家」のすることではなかっただろう。個人全集になぜ収載しないのだろう。自信がないのか、西尾でも恥ずかしく感じているのか。
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   2009年に「書けない」ことがある、と西尾が言った、その「書けない」こととは、いったい何だったのだろうか。
 むろん、文章執筆の「注文主」(雑誌編集者等)の意向とは正反対の、あるいはそれと大きく矛盾する文章を書けはしないだろう。
 西尾は上に引用した部分のあとで、書けなくする「最大の制約」は「自分の心」だなどという綺麗ごと?を書いているが、それは現実には、文章執筆「注文主」の意向を<忖度>する西尾の「心」ではないかと思われる。
 そして、そのような100パーセント「自由に」執筆することができない者を、おそらく「思想家」とは呼ばない。
  さらに、西尾幹二によると、西尾自身を少なくとも含むことが明瞭な「思想家や言論人」は、「私的な心の暗部を抱えてい」て、「それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされる」だろう。
 あきらさまに書いてしまえば「狂人と見なされる」だろうような、「私的な心の暗部」—。
 これが西尾幹二においてはどういうものか、きわめて興味深い。
 そして、この「心の暗部」、あるいは偏執症的な、独特の「優越感と劣等感」(後者は<ルサンチマン>と言えるだろう)をも見出して、指摘しておくことは、この西尾幹二批判連載の目的の中に入っている。
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2494/西尾幹二批判054—思想家?②。

 (つづき)
  西尾幹二の個々の論述は信用できないこと、それを信頼してはいけないことは、「思想家」という語を用いるつぎの文章からも、明瞭だ。
 2002年、アメリカの具体的政策方針を批判しないという論脈だが、一般論ふうに、西尾はこう書いた。
 ①「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけないというのが私の考えです」。
 ②「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない。/正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
 西尾幹二・歴史と常識(扶桑社、2002年5月)、p.65-p.66(原文は月刊正論2002年6月号)。
 これは、すさまじい言葉だ
 思想家は「最高度に政治的でなくてはいけない」
 どういう場合にかというと、「日本の運命に関わる政治の重大な局面」でだ。
 思想家は日本が「外国の前で土下座」するのを「思想的に支持しなければならない」ときもあり得る。
 どういう場合にかというと、「いよいよの場面で、国益のために」だ。
 まず第一に、結論自体に驚かされる。
 本来の「思想」を「政治」に屈従させることを正面から肯定し、「思想的に支持」すべき可能性も肯定する。
 思想家が「正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる」、そういうときがある、または既にあったかもしれないと、公言しているのだ。
 第二に、どういう例外的な?場合にかの要件は、きわめて抽象的で、曖昧なままだ。 
 「日本の運命に関わる政治の重大な局面」で、「いよいよの場面で、国益のために」。
 「国益」も含めて、こういう場合に該当するか否かを、誰が判断するのか。
 もちろん、西尾幹二自身だろう。
 「政治」を優先することを一定の場合には正面から肯定する、こういう「思想家」の言明、発言を、われわれは「信用」、「信頼」することができるだろうか?
 この人は、自分の生命はもちろん、自分の「名誉」あるいは「世俗的顕名」を守るためには、容易に「政治」権力に譲歩し、屈従するのではないか、と感じられる。このような「政治」権力は今の日本にはないだろうが、かつての日本や外国にはあった。西尾幹二にとって、「安全」と「世俗的体裁」だけは、絶対に守らなければならないのであり、「正しい『思想』も、正しい『論理』もそのときにはかなぐり捨てる」心づもりがあると感じられる。
 そのような人物は「思想家」か?
 上の文章は、昨年末か、今年2022年に入って、小林よしのりの本を通じて知り、所在を西尾幹二の書物の現物で確認した。
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 つづく。

2493/西尾幹二批判053—思想家?①。

  そもそも現在、2022年の時点で、「思想家」とは何か、は問題にはりうる。
 英語でthinker、独語でDenker というらしいから、think、denken すれば誰でも「思想家」になれそうだが、きっと両語でも、独特な意味合いがあるのだろう。
 ともあれ、今日では「思想家」と自称する人はほとんどいないに違いない。
 西尾幹二は、その稀有な人物だ。
 <文春オンライン>2019年1月26日付のインタビュー記事で、西尾は冒頭では殊勝にこう語る。
 「私はドイツ文学者を名乗り、文芸評論家でもあって、『歴史家』と言われると少し困るのですが、…」。
 しかし、2006-7年の「つくる会」<分裂騒動>に話題が移って、まず、こう言う。 
 「日本会議の事務総長をしていた椛島(有三)さんとは何度か会ったこともあり、理解者でもあった。だから、この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして、「つくる会」事務局長更迭を撤回していれば、問題は回避できたかもしれない。それをしなかったのはもちろん私の失敗ですよ。」
 そして、こう続ける。
 「しかしですね、私は『つくる会』に対して日本人に誇りを”や“自虐史観に打ち勝つ”だけが目的の組織ではないという思い、もっと大きな課題、『日本から見た世界史の中におかれた日本史』の記述を目指し、明治以来の日本史の革新を目ざす思想家としての思いがある。だから、ずるく立ち回って妥協することができなかった。」
 「思想家」としての思いがあるから、椛島有三と「握手」して譲歩するような「ずるく立ち回って妥協すること」できなかった、というわけだ。
 この辺りの述懐はきわめて興味深いが、そもそもの関心を惹くのはのは、西尾は(少なくとも当時の2019年)自分を「思想家」と自認していた、ということだ。
 はて、<西尾幹二思想>とはいったい何だろう。ある書物はこう終わっているのだが、いかなる「思想」が表明されているのか。西尾幹二は「思想家」なのか?
 西尾・自由の悲劇(講談社現代新書、1990)、最も末尾の一段落。
 「光はいま私自身をも包んでいる。なぜなら、私は自由だからである。しかし、光の先には何もなく、光さえないことが私には見える。なぜなら、自由というだけでは、人間は自由になれない存在だからである。
 もう一度書く。上の文章は、いかなる「思想」を表現しているのか?
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 つづく。

2492/西尾幹二批判052—神話と日本青年協議会②。

 (つづき)
  西尾幹二「神話の危機」2000年10月は日本青年協議会等の会員むけの「講演」内容だから、その点には留意しておく必要がある。
 日本青年協議会の上部団体とされる〈日本会議〉は「つくる会」を追いかけるように1997年に設立され、西尾が「撹乱」や「乗っ取り」を感じるまでは、〈新しい歴史教科書をつくる会〉と〈日本会議〉は友好関係にあり、またそれ以上に、「つくる会」の運動を支え、助ける有力な団体だった、と思われる。
 西尾幹二会長にとっては、自分自身への「力強い味方」だった。
 西尾が、日本の神話の具体的内容、古事記や日本書紀の「神代」の叙述、神道や広く日本の宗教について、1996年の「つくる会」設立段階でどの程度の知識・素養があったかは疑わしい。
 同・国民の歴史(1999)でも、日本の「神話」に言及しつつ、なぜか「日本書紀」や「古事記」という言葉を用いていないし、「神話」につながる日本の王権、といった論述もしていない。
 また、日本人の「顔」を示すという仏像等の写真を多数掲載しながら、「仏教」と「神道」の違い等には何ら触れていない。
 おそらくは1999年著の上の点を意識して、再度少し広げて引用すると、2000年講演では、こう言った。論評すると長くなるので、内容に介入しない。
 「日本人にとって仏教というものは、難しい宗教哲学というよりも、美を味わう存在だと言えるでしょう。仏教は金色の美しい彫刻を通して、美という感性的なものとして百済からこの国に入ってきた。だから、素晴らしい仏教彫刻を残すことが出来た。それは日本人のアニミズム的な自然崇拝とつながっており、だから日本の神話と仏教信仰とは初めから何らの矛盾なく整合したのだと思います」。
 きっと、だから1999年著では「難しい宗教哲学というよりも、美を味わう存在」として仏教彫刻の写真を多数掲載した、と釈明?しているのだろう(なお、それら仏教彫刻の選定は実質的には田中英道(第二代会長)の助言が大きかったことを、田中がのちに明らかにしている。全集第18巻・国民の歴史「追補」、p.734(2017))。
 ともあれしかし、1999年著と比較すると、「神話」、天皇、「神道」に関する明瞭な論述には驚かされる。
 西尾はこう断定的に語る。自分自身が、こう「信じて」いるのだ。
 ・「日本の天皇の場合は神話の世界とも、自然とも全部つながっている。これは世界に類例がありません」。
 ・「神話」は「まっすぐ天皇制度につながっている」。「もし王権につながってこないのなら日本の神話はほとんど意味がない」。
 ・「神話が王権の根拠になっていることが、世界史の中で日本民族が自己を保っている唯一のよりどころ」だ。
 1999年から一年間の間に、「つくる会」運動の有力な支持者である〈日本会議〉・日本青年協議会の歴史観・天皇観、宗教観を、相当に要領よく「学習」したのだろう。
 西尾はのちの2009年には、日本青年協議会は「西洋の思想家の名前」を出すと叱り、「天皇国、日本の再建を目指しますということを宣明させ」るような、「目を覆うばかり」の「おかしい」団体だと明言したのだったが。
 やや離れるが、西尾幹二は、読者(+書物や雑誌の編集者)や聴衆の気分・意向を考慮し、「忖度」することを絶えず(気づかれにくいように)行っている「もの書き」だと考えられる。誰しも、文筆業者はある程度はそうかもしれないが。
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  西尾幹二と〈日本会議〉または日本青年協議会との関係の変化は、つぎのようなものだろう。なお、私が初めて西尾の文章を読んだのは、下の③の時期だ。
 ①無関係—②親〈日本会議〉—③反〈日本会議〉(・反八木秀次)—④宥和的?
 ③の時期には「西洋の思想家」を排除するのは「おかしい」とし、八木秀次批判文(国家と謝罪(徳間書店、2007年)p.80)では八木は「近代西洋思想に心を開いた人で、いわゆる国粋派ではないと思っていた」と書いていた。まるで自分は「西洋」派であって「国粋」派ではないかのごとくだ
 池田信夫の2014.09.07の「冷戦という物語の終わり」と題するブログは、有力メンバーの一人として坂本多加雄が参加した「つくる会」運動は「時代錯誤の皇国史観に回収されてしまった」、と書いていた。
 それぞれの言葉の意味は問題になるが、しかし、西尾幹二は実際にはまさに「国粋」派で「皇国史観」の持ち主だとの印象を与え続けている。
 すなわち、神話=王権の根拠(かつまた「神話」にもとづく天皇位はずっと男系男子だった)という理解と主張を変えていないことは、既述の月刊WiLL2019年4月号での発言からも分かる。
 また、「つくる会」分裂後・反〈日本会議〉の時期である2009年にも、同様のことを述べている。『国体の本義』(1937年)に論及する中で、明確にこう書く。
 ・「日本のように地上の存在である天皇が神に繋がるということを王権の根拠としている国は例外的であり、唯一無比であるかもしれません」。
 ・「天照大神の御子孫がそのまま天皇の系図につながるというのは、他にかけがえのない唯一の王権の根拠なのです」。
 西尾「日本的王権の由来と『和』と『まこと』」激論ムック2009年7月発行、同・日本をここまで壊したのは誰か(草思社、2010)所収、p.188-9。
 1999年頃に日本青年協議会と〈日本会議〉の史観から影響を受けたことは、その後の西尾をかなり大きく変えたのかもしれない。
 もっとも、そうなったからこそ(かつ男系男子論を固持しているからこそ)、産経新聞出版から2020年にかつての産経新聞「正論」欄寄稿文をまとめた書物(編集担当・瀬尾友子)を刊行してもらえる<産経文化人>であり続けることができているのだろう。
 一人の個人でいることはできず、既述のように、「最後の身の拠き所」をそこに求めているのだ。
 上の④「宥和的?」とみなす根拠はあるが(この欄ですでに少しは触れてはいるが)、今回は省略する。
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2490/西尾幹二批判050—古事記には男性天皇だけ?

 「彼らには学問上の知識はあるが、判断力はなく、知能は高いが、知性のない人たちなのだ。
 彼らの呪いのヴェールを破り、裸形の現実をありのままに見るようにならない限り、これからの日本も世界も浮かばれないだろう。
 以上、西尾幹二・全集第11巻「後記」の実質的に最後の文章。2015年。
 特定の者たちへの罵倒の言葉は相変わらずだ。だが、西尾は上の「彼ら」の中に、なぜ自分を含めていないのか。
 F. Turner やR. Pipes の本を「試訳」しつつ、西尾幹二の書や文章も見ている。
 とりわけ、全集の「自己編集」ぶりと長い「後記」での自己賛美ぶりは、ひどい。
 と感じつつ、予定の草稿を掲載していこう。
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  「山ほど」ある中から、便宜的に、手元に資料があるものから再開する。  
 月刊諸君!2006年4月号、p.50以下。
 皇位継承につき、男系男子限定論に立って女系天皇容認論とその論者を批判するものだ。
 もともとはと言えば、西尾幹二にとって男系でも女系でも本質的な問題ではなく、ただ<産経文化人>の一人たる位置を占めたいがための主張であるような気もする。
 女系天皇容認論者として田中卓・所功・高森明勅の三人を挙げているが(小林よしのりの名はない)、この三人はいっとき以降、産経新聞や少なくとも月刊正論(産経)には寄稿者として登場しなくなった。西尾幹二は、「ごほうび」ではないだろうが(いや、そうであるかのごとく)、「正論メンバー」にとどまり続け、2020年には国家の行方(産経新聞出版、編集担当・瀬尾友子)を出版してもらっている。
 また、上が「邪推」だったとかりにしても、西尾幹二における独特の歴史観・宗教観・現実感覚がこの問題についても背景にあると考えられるが、今回では立ち入らない。
 簡単に記せば、神道や仏教への自分の「信仰」を何ら語らないにもかかわらず、(西尾が男系男子限定を語るとじつは「解釈」する)<日本の神話>への「信仰」だけは、なぜ語るのか?、なぜこの人には「神話信仰」だけはあるのか?、だ。不思議な思考過程・思考方法がこの人物にはある。
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  上の文章に内在的な論点に限る。容易に気づいた点だ。
 第一に、西尾はこう田中卓を批判する。p.57。
 「田中卓氏は前掲論文で皇室には『氏』がないという特色を理解せよ、というが、それはダメである。
 『氏』がなくても系図が意識されている。
 現代は古代社会ではない。
 西尾は得意げに書いているようだ。
 『氏』うんぬんの論争の意味を秋月は知らない。しかし、上のような「反駁」の<方法>はおかしい。
 なぜなら、西尾は「現代は古代社会ではない」とするその「現代」の日本人であるにもかかわらず、「古代社会」に作られた(8世紀)または生まれた(史実を反映しているとすると内容はもっと前にさかのぼる)「神話」の内容を根拠にして、男系男子限定論を主張しているではないか。
 一方では「古代社会」でないのだからと主張し、一方では西尾が想念する「古代社会」にズッポりとはまっている。思考「方法」、評価の「基準」に一貫性がない。
 ついでに言えば、「神代」-「人代」の区別はなく、神代の「神」につながることこそ天皇家の世界に唯一の特質だと西尾は語るが、この辺りでは、この人は、上に少し触れたが、「神話」と史実、「信仰」と現実を完全に相対化している、または区別していない。「認識論」上の問題を胚胎している。
 そんな「哲学」的問題をこの人は無視するのだろうが、指摘されるべきは、西尾のような「神話信仰」が「現代」の日本人にいかほど理解されるかどうかだ。単純な理性・非理性、科学・非科学の問題に持ち込んではならない。
 なお、別の2019年の発言によると、神話信仰または神話それ自体が「日本的な科学」らしい(月刊WiLL2019年4月号)。こんな言葉の悪用、言葉「遊び」をしてはならない。
 また、水戸光圀・大日本史は「記紀神話」を歴史とせず、そこでの「神代」は除外された、と西尾幹二自身が上の中で書いている(p.54、「日本的な科学」の精神を持っていなかったわけだ)。
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  第二に、決定的間違いがある。西尾幹二は古事記も日本書紀もきちんと読んでいないと何回か書いてきたが、ここでもそれが暴露されている。
 天照大御神が女性神だったとしても、このことは女系天皇容認論の直接的論拠にはなり得ないだろう。
 この点はよいのだが、西尾は、女系天皇の実例があるのなら、それを「明証」せよ、との論脈で、つぎのように諭すように?明記した。p.56。
 「『古事記』に出てくる天皇はすべて男性ではないか」。
 ああ、恥ずかしい。
 日本書紀(720年)より先に成立し献上されたらしい古事記は(だが8世紀)、前者より前の時代までしか対象としていないが、最後に言及されている天皇は、推古天皇だ(明治に作られた皇統譜では第33代とされる)。
 西尾は、推古天皇も(じつは)男性だったと「明証」できるのだろうか。本居宣長がそう書いていたのだろうか。
 『古事記』の最後の部分を捲らないで上のように執筆して、活字にすることのできる人物に、「神話」信仰を説き、皇位継承者論議に加わる資格はないだろう。
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  ついでに。 
 第一。女系天皇容認論者(田中卓・所功・高森明勅)に対する一般的言葉は「迂闊」というだけだ(p.55)。
 2002年の小林よしのり批判、2006-7年の八木秀次批判に比べると、はるかに優しい。小林、八木への批判の仕方は(ニーチェにも似た?)西尾の精神・「人格」を示していると思うので、「人格」なる抽象的なものが全てまたはほとんどを決めるとは全く考えていないが、別に触れる(対八木についてはすでに紹介しているが反復する)。
 第二。いわゆる奈良時代の天皇は、天武と淡路廃帝(淳仁天皇)を除いて、元明は持統の実妹、その他は持統天皇の血を引く、その意味では女系天皇だ(元正は女性天皇・元明の娘なのでまさに女系だと表現してよいだろう。但し、これら2名は草壁皇子・文武・聖武への「中継ぎ」だと<解釈>されもする)。
 天武の血を引く男子だが母親は持統とその子孫ではなかった者は少なくなく、上の淳仁のほかにも、例えば、大津皇子(大伯皇女の弟)、長屋王がいた。大津(二上山に墓)は持統により殺されたともいう。
 抽象論・観念論好きの西尾幹二は、こんな瑣末な?ことにはきっと興味すらないのだろう。
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2489/西尾幹二批判049—根本的間違い(4-3)。

 六 3 00 <反共よりもむしろ反米を>という、政治状況または国際情勢についての西尾幹二の「根本的間違い」の原因・背景を述べてきている。
 この人の、より本質的な部分には論及していない。先走りはするが、この人にとって、「反米」でも「親米」でも、本質的にはどうでもよかったのではないか。
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 01 とは言え、叙述の流れというものがある。
 既述の誤りの指摘の追記でもあるが、西尾幹二の政治状況・国際情勢にかかる認識の間違いは、つぎの文章でも明瞭だ。
 2005年/月刊諸君!2月号、p.222。
 「米ソの対立が激化していた時代はある意味で安定し、日本の国家権力は堅実で、戦前からの伝統的な生活意識も社会の中に守られつづけました。
 おかしくなったのは、西側諸国で革命の恐怖が去って、余裕が生じたからで、さらに一段とおかしくなったのは西側が最終的に勝利を収め、反共ではもう国家目標を維持できなくなって以来です。
 日本が壊れ始めたのは冷戦の終結以降です。」
 西尾が1999年『国民の歴史』で、私たちは「共産主義体制と張り合っていた時代を、なつかしく思い出すときが来るかもしれない」、「否定すべきいかなる対象さえもはや持たない」と書いた線上に、上の文章もある。そして、現在まで、この基本的認識・主張は継続しているようだ。
 これは、グローバリズムからナショナリズムへという、〈日本会議〉公認の、日本の「保守」(の主流派:多数派)を覆った考え方でもあった。
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 02 その点はここではもう論及しないこととして、上の文章には若干の基本的な疑問がある。
 第一に、西尾のいう「冷戦の終結」以前の日本の「国家目標」は「反共」だったのか?
 「全面講和」ではなく単独(または多数)講和を選択してアメリカ・西欧陣営に入った(1951年)こと自体が「反共」だった、とは言える。継続的な「国家目標」性はうたがわしいとしても。
 かりにそうだとしても、関連して第二に、つぎの認識は適確か?
 「米ソの対立が激化していた時代はある意味で安定し、日本の国家権力は堅実で、戦前からの伝統的な生活意識も社会の中に守られつづけました」。
 「反共」という国家目標のもとで、日本は「ある意味で安定し」、「国家権力は堅実」だったのか。
 秋月瑛二は、全くそう思わない。
 例えば、ベトナム戦争があり沖縄の基地から米軍機は飛び立っていった。カンボジアに中国に援助された数年間の「共産主義」的支配があった(ポル・ポト、赤いクメール)。後年に明らかになったが、1977年に「めぐみ」ちゃんは北朝鮮の国家的「人さらい」の犠牲者となった(他にも多数いる)。国内では社会党・共産党が「統一」して推す候補が京都に続いて東京や大阪でも知事になった(横浜市でも。その他省略)。また、日本共産党も国会での議席を増やして<70年代の遅くないうちに民主連合政府を!>とか呼号していた。田中角栄元首相の収賄事件もあった。ソ連空軍兵士が函館空港に着陸して亡命したのは、1976年だった。ソ連軍機による「大韓航空機撃墜事件」が日本近海で起きたのは、1983年だった。小中学校での<学級崩壊>は1980年頃には語られ始めていた。以上は、例。
 いったいどこに、日本は「ある意味で安定し」ていたとする根拠があるのか。
 じつは西尾幹二の「主観的」状況は「安定」していたのかもしれない。西尾は2000年にこう言っている。
 1970年の<三島事件>の後、私は「三島について論じることをやめ、政治論からも離れました。そして、 ニーチェとショーペンハウアーの研究に打ち込むことになります」。
 三島没後30周年記念講演、西尾・日本の根本問題(新潮社(編集担当は冨澤祥郎)、2003)、p.285。
 根拠文献をいちいち記さないが、以下も参照。
 1966年、ニーチェ『悲劇の誕生』翻訳書(中央公論社)。
 1969年、「文芸評論」を書き始める。
 1977年、ニーチェの(よく言って前半期だけの「評伝文学」の)『ニーチェ』(第一部・第二部)刊行。北朝鮮による「拉致」が始まった年。
 1979年、上記書により文学博士号(審査委員の一人は、同学年で当時は東京大学助教授だった柴田翔)。
 1987年、ニーチェ『この人を見よ』・『偶像の黄昏』・『反キリスト』翻訳書(白水社)。
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 03 1990年近くまでこんな調子だと、文芸評論や、政治評論家ではない「文芸評論家」としての遊覧視察旅行にもとづくソ連関係本や「古巣」の感覚に依拠したドイツ関係本の刊行をしていても、日本の政治状況や国際情勢、日米関係に強い関心が向かわなかったとしても、やむをえないだろう。
 主観的・心理的・精神的に、西尾幹二個人は1989-91年以降よりも「安定」していたのだ。
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 04 「安定」したままでなく、状況が変化した(と西尾は感じた)のは、1996.12/1997.01の〈新しい歴史教科書をつくる会〉発足と会長就任だっただろう。それまでよりも「著名人」となり、社会・政治に関する発言も求められるようになった。
 そして、橋本龍太郎(1996-98)、小渕恵三(1998-2000)、森喜郎(2000)の各首相時代には特段の政治的発言をしていないようだが(自社さ連立での村山富市首相と同内閣(1994-96)・戦後50年談話についても同じ)、小泉純一郎内閣が誕生して(2001年)以降、突如として?<政治評論家>をも兼ねるようになる。小泉を「狂人」、「左翼ファシスト」と称し、いわゆる郵政解散選挙では反対(元)自民党候補を応援するという「政治的実践活動」まで行なった
 政治状況、国際情勢の把握も必要だから、大急ぎで、付け焼き刃的に?「勉強」したのだろう。ニーチェやドイツに関する素養、観念的「自由の悲劇」論では足りない。
 そして、今回の冒頭で言及したのは、1999年と2005年の文章だ(「つくる会」設立後、分裂前)。
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 05 さて、日本の政治状況、国際的状況を把握しようとした際、容易に参照し得たのは、〈日本会議〉史観だっただろう。つまり、グローバリズムからナショナリズムへ、「反共」だけでなく「日本」重視と「反米」がむしろ重要だ、という時代感覚だ。
 その際に、どの程度強くかは不明だが、西尾幹二が潜在的に意識したのは、ニーチェが生きた時代、そして従来の価値観はもはや通じず、「新しい」価値・哲学等が必要だ、というニーチェの基本的主張だったと思われる。
 西尾幹二は、自分をある程度は、ニーチェに擬(なぞら)えていたのだ。
 ニーチェの一部しか知らないままで、ニーチェを「ドイツ文学」的にではなく、構造的・歴史的・「哲学」的に理解することのないままで。
 誰でも、あるいは多くのとくに政治活動家や政治評論家たちは、自分の生きている時代は将来にとってきわめて重要な、分岐点にある時代だ、と思いたがるものだ。
 ニーチェにもおそらく、そういう意識・感覚があっただろう。
 西尾幹二にとっても、1989-1991年の前と後は、質的に異ならなければならなかった。「新しい」時代なのだ、「反共」だけを唱えてはいけないのだ。
 2010年に、こう書いた。
 1990年頃の「冷戦の終焉」までの「日本の保守の概念」は日本の「歴史や伝統に根差したものではなく、『共産主義の防波堤』にすぎなかった」
 月刊正論2010年10月号「左翼ファシズムに奪われた日本」、p.45。
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 06 これで、政治・国際情勢に関する西尾幹二の「根本的間違い」の原因・背景の叙述を終える。今回書いたのが、その第三点だ。
 その他、西尾幹二に関して指摘ておきたいことは、ニーチェに関係することも含めて、「山ほど」ある。
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2482/石原慎太郎—1932〜2022・享年91。

  東京都内杉並区に大宮八幡宮という神社があって、京王井の頭線の永福駅から北方へと歩いて参拝し、御朱印をもらったことがあった。2011〜13年の頃だ。
 八幡宮と称しつつ傍らには天満宮(天神さん)の社もあったのが印象に残った。
 記憶に残ったもう一つは、御朱印所から休憩・待合室まで行く通路の壁に、石原慎太郎らの写真が額付きで数枚掲示されていたことだ。
 それは長男・伸晃、同夫人の間の子(慎太郎の初孫?)の「初宮参り」ののときに撮られた写真だったようで、誰か単独のものはなく、石原慎太郎・同夫人と合わせて5人が写っていた。石原慎太郎と伸晃の二人は明らかに微笑んでいた(女性二人は男たちと比べるとふつうだったような気がする)。
 石原慎太郎一家がこの神社と関係が深いのだろう感じたことの他、関連して明瞭に思ったのは、石原慎太郎・伸晃とつづく衆議院議員選挙での選挙区内なのだろう、ということだった。
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  一昨年の後半か昨年に、つぎの対談書をたぶん全部読んだ。
 石原慎太郎=曽野綾子・死という最後の未来(幻冬舎、2020)。
 全体としては、まだしたいことがあると「生」への執着を語る石原と、夫をすでに失ったクリスチャンの(これらがどう関係するのか全く不明だが)曽野の、その点についての無関心さ、恬淡さが対照的で印象に残った。
 もう少し具体的に興味深かった点はこうだ。
 石原は亡くなった友人・知人がその死亡の日の直前に石原本人か別の知人の睡眠中の「夢」の中に出てきて<最後の挨拶>をしていった、というようなことを、何かの因果関係があるに違いない、と本気で語っていた、つまり非合理的かもしれないが「霊」はある、と主張するかのごとく熱く発言していた。だがしかし、自分自身の「霊」が死後も残るとはつゆも思っていない(つまり、自分の全ては消滅すると思っている)ふうだった。
 この〈矛盾〉が興味深くて、記憶に残った。曽野はというと、大した関心がないようで、石原の議論にまともに絡んではいなかった(以上、全て記憶による)。
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   政治家・作家としての石原慎太郎については、つぎの書が印象に残る。
 石原慎太郎=盛田昭夫・「N O」と言える日本—新日米関係の方策(光文社、1989)。
 と書きつつ、所持はしているが、まともには読んでいない。
 だが、日米関係の現状を(冷静に)憂慮しつつ、〈反米〉的主張もしたのだろう。もちろん、石原には全体として、反中国的姿勢の方が強かった。
 その反米論も、少なくとも、祖国・日本を敗戦に追い込み、占領し、ずっと従属させ続けやがって、というふうの「感情」・「鬱憤」がベースにあったのではない、と思われる。
 もっとも、1999年に都知事となって「つくる会」の分裂には関係していないと思われるが、ずっと〈日本会議〉の役員に名を連ねていたようだ。そして、決して名前だけ出していたのでもなさそうだが。
  上の最後の点と、秋月的には関連することがある。
 石原慎太郎は関西・大阪が地盤の橋下徹ら維新の会と合流して、2012年末に「日本維新の会」を立ち上げた。だが2014年に早くもこれは分裂した。
 東西にまたがる「保守」政党に期待もしていたので、背景不詳ながら残念に感じたものだった。
 見解・政策方針の差異が大きかったのが理由だとされるが、ほんの少しはつぎも背景にあるのではないか、というのが拙い推理?だ。
 橋下徹に対して、なぜか月刊正論(産経)は厳しかった。しつこく橋下批判を続けることになる適菜収に「哲学者」との肩書きで誌面を与え、さらには適菜収の橋下批判論を巻頭に掲載し、編集代表・桑原聡もまた同じ号の末尾で橋下徹は「きわめて危険な政治家」だと明記した。 
 橋下徹とニーチェ「研究者」の適菜収のいったいどちらが「正常」でまともな人物なのか、その後の二人の文章等を見ても歴然としていると思われる。詳論はここではしない。
 その月刊正論(産経)の基本的論調は、(近年では皇位継承者に関する主張を含めて)〈日本会議〉と共通していると見られる。
 そこで思うのだが、産経新聞主流派または月刊正論編集部としては、石原慎太郎と橋下徹の連合は<まずいことになった>というものだっただろう(桑原聡に尋ねてみたいものだ)。そして、少なくとも表向きは〈日本会議〉に石原は関係していたので、月刊正論編集部などより影響力のある〈日本会議〉関係者が石原に対して<橋下徹と手を切る>よう強く勧めたのでなないか。あくまで憶測だ。
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   三島由紀夫と石原慎太郎はともに法学部出身者だ。そして、社会と人間の現実あるいは国家の機構・構造について、西尾幹二や平川祐弘という文学部文学科出身者と比べて、格段によく知っていたと思われる。
 三島由紀夫はいっときは行政官僚だったが、石原慎太郎は、政治と行政に(そして法制に、例えば財政諸法、国・地方関係諸法に)三島以上に相当に通暁していただろう。いわゆる行政官僚・公務員の行動心理についても、よく知っていたに違いない。
 しかもまた、上の二人は小説家、作家でもあり、多数の「創作作品」を発表した、要するに多数の「小説」を書いた。三島は戯曲も書いたが。
 西尾幹二や平川祐弘は「小説」を書いて発表したことがあるのか。そういう創作活動を直接にしたことがあるのか。
 この二人は「文学部」出身であることにこだわる文章を書き、「言葉」の重要性を強調したりしているが、少なくとも文学部、とくにその独文学科・仏文学科出身者だけが「文学家」になれるのではない。
  研究や論評の対象にもっとされてよいのは存命者では石原慎太郎だ、という旨をこの欄にかつて書いたことがあった。
 その際も触れたように思うが、石原慎太郎は宗教にも、正確には法華経にも造詣が深かった。つぎの書をだいぶ前に、たぶん全部読んだ。
 石原慎太郎・法華経を生きる(幻冬舎、文庫版・2000)。
 ついでながら、評論全集的なもの(石原慎太郎の思想と行為・全8巻(産経新聞出版、2012〜13))は全てを所持しているが、きちんと読むに至っていないままだ。但し、つぎは読み終えている。
 石原慎太郎・弟(幻冬舎、文庫版・1999)。
 一個体としての人間には、当然に、することのできる限界がある。その範囲内で、石原慎太郎という一個人は、多様な才能を発揮したものだと思う。
 そしてまた、推察されるその人柄にも魅力的なところがある。それは、嫌悪する人がいるだろうほどの率直さ、正直さにあるだろう。
 それに、自信が本当にある人だからこそだと思うのだが、虚栄的な自己主張、「衒い」というものをほとんど感じさせない(小説の中にある人物像を対象にしてはいない)。
 要するに、<オレは偉いんだぞ>というふうの空疎で無駄な言葉がない。大学生時代にすでに世間にかなり知られていて、その必要性、つまり自分で懸命に強弁し、自己宣伝をする必要性がなかったからだろうか。
 政治家=国会議員・大臣、政治家兼行政実務者=東京都知事、「法華経」に関する書物(現代語訳を含む)もある文学家・小説家(芥川賞選考委員の時代もあった)。きっと「左翼」には嫌われていたのだろうが、これだけ多彩な能力を示して生きる人が、2022年以降に出現するのかどうか、つまりは現在にすでに存在しているかどうか。
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2479/高森明勅のブログ②—2021年11月12日。

  内親王だった女性と某民間人の結婚をめぐるマスコミの報道姿勢についてこう書く(もともとはテレビ放送予定の発言内容だったようだ)。
 ①「その人物は早い段階で弁護士に相談したが、法的に勝ち目がないと言われていたことを、自ら語っている。にも拘らず、…ご婚約が内定した後に、にわかに“金銭トラブル”として週刊誌で取り沙汰されるようになった。この間の経緯は、不明朗な印象を拭えない」。
 ②「一次情報にアクセスできず、又しようともせずに、真偽不明のまま無責任なコメントを垂れ流して来たメディアの責任は大きい」。
 ③「『週刊現代』の記者が当該人物の代理人めいた役割を果たしていたことは、ジャーナリズムにとってスキャンダルと言ってよい事実だが、その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」。
 ④「上皇后陛下の半年間に及ぶ失声症、皇后陛下の今もご療養が続く適応障害に続いて、眞子さまも複雑性PTSDという診断結果が公表された。名誉毀損罪、侮辱罪で相手を訴えることも事実上できず、言論による反論の自由すらない皇室の方々に対して、いつまで一方的な誹謗中傷を続けるのか」。
 上のうちほとんど無条件で共感するのは、③だ。
 この『週刊現代』の人物は、母親の元婚約者とかに「食い込んで」いたようで、要所要所で感想を聞いたりして、『週刊現代』(講談社)に掲載したようだ。但し、法職資格はなく、「法的」解決のために動いた様子はない。
 この記者(講談社の社員?)の氏名を同業者たち、つまりいくつかの週刊誌関係者、同発行会社、そしてテレビ局や新聞社は知っていたか、容易に知り得る立場にあったと思われる。
 一方の側の弁護士は氏名も明らかにしていたように思うが、この記者の個人名を出さなかったのは、本人が「困る」とそれを固辞したことの他、広い意味での同業者をマスメディア関係者は「守った」のではないか
 そう感じているので、「その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」(上記)との疑問につながるのはよく分かる。
 (『週刊現代』の記事は個人名のあるいわゆる署名記事だったとすると上の多くは適切ではなくなるかもしれないが、その他のメディアがその氏名情報を一般的視聴者・読者に提供しなかったことの不思議さ、「その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」という疑問の正当性に変わりはないだろう。)
 マスメディアは一般に、大臣等の政治家の名前を出しても、各省庁の幹部の名を出さない(情報公開法の運用では、たしか本省「課長」級以上の職員の氏名は「個人情報」であっても隠してはならないはずだが。公開することの「公益」性を優先するのだ)。
 個人情報の極め付けかもしれない氏名を掲載または公表すべきか、掲載・公表してよいか否かの基準は、今の日本のマスメディアにおいて曖昧だ、またはきわめていいかげんだ、と思っている。
 立ち入らないが、例えば災害や刑事事件での「死者」の氏名も個人情報であり、警察等の姿勢どおりに安直に掲載・公表したりしなかったりでは、いけないはずなのだが。
 災害や刑事事件には関係のない『週刊現代』の記者の氏名の場合も、その掲載・公表には<本人の同意>が必要だ、という単純なものではない筈だ。
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  高森の上の④も気になる。「誉毀損罪、侮辱罪で相手を訴えることも事実上できず、言論による反論の自由すらない皇室の方々…」というあたりだ。
 天皇は民事裁判権に服さない(被告にも原告にもなれない)という最高裁判決はあったと思う。但し、皇族についてはどうかとなると、どいう議論になっているかをよく知らない。
 しかし、かりに告発する権利が認められても、いわゆる親告罪である名誉毀損罪や侮辱罪について告訴することは「事実上できず」、反論したくとも、執筆すれば掲載してくれる、または反論文執筆を依頼するマスメディアは今の日本には「事実上」存在しないだろう。
 そういう実態を背景として、相当にヒドい言論活動があるのは確かだ。
  「上皇后陛下の半年間に及ぶ失声症」の原因(の一つ)は、高森によると、花田紀凱だ。
 「皇后陛下の…適応障害」が少なくとも継続している原因の一つは、おそらく間違いなく西尾幹二だ。
 「仮病」ではないのに「仮病」の旨を公的なテレビ番組で発言して、「仮病」なのに病気を理由として「宮中祭祀」を拒否している、または消極的だとするのは、立派に「名誉毀損罪」、「侮辱罪」の構成要件を充たしている。
 告訴がないために免れているだけで、西尾幹二は客観的にはかなり悪質な「犯罪者」だ(これが名誉毀損だと思えば秋月を告訴するとよい)。
 『皇太子さまへの御忠言』刊行とテレビ発言は2008年だった。その後10年以上、西尾幹二が大きな顔をして「評論家」を名乗る文章書きでおれるのだから、日本の出版業界の少なくとも一部は、相当におかしい。この中には、西尾の書物刊行の編集担当者である、湯原法史(筑摩書房)、冨澤祥郎(新潮社)、瀬尾友子(産経新聞出版)らも含まれている。
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2477/西尾幹二批判048—根本的間違い(4-2-2)。

 西尾幹二の思考はじつは単純なので、思い込みまたは「固定観念」がある。
 その大きな一つは「共産主義=グローバリズム」で<悪>、というものだ。
 典型的には、まだ比較的近年の以下。この書の書き下ろし部分だ。引用等はしない。
 西尾・保守の真贋(徳間書店、2017)、p.16。
 そして、その反対の「ナショナリズム」は<善>ということになる。日本会議(1997年設立)と根本的には差異はないことになる。
 この点を重視すると、西尾の「反米」主張も当然の帰結だ(「反中国」主張とも矛盾しない)。
 さらに、EU(欧州同盟)も「グローバリズム」の一種とされ、批判の対象となる(英国の離脱は単純に正当視される)。
 ①2010年/月刊正論4月号。同・日本をここまで壊したのは誰か(草思社、2010年)所収。
 項の見出しは「EUとアメリカとソ連が手を結んだ『歴史の終わり』の祝祭劇」。
 「フクヤマの『歴史の終わり』…。これをそのままそっくり受けてEUの理念が生まれ、1992年に…EUが発足します」。
 ②2017年/月刊Hanada2月号。同・保守の真贋(上掲)、所収。
 「EUは失敗でした。
 共産主義の代替わり、コミンテルン主導のインターナショナリズムが名前を変えてグローバリズムとなりました。
 それがEUで、国家や国境の観念を薄くし、ナショナリズムを敵視することでした。」
 何と、西尾幹二によると(ほとんど)、「コミンテルン主導のインターナショナリズム」=「グローバリズム」=「EU」なのだ。
 それに、1992年のEU発足以前に、EEC(欧州経済共同体)とかEC(欧州共同体)とか称されたものが既にあったことを、西尾は知って上のように書いているのだろうか。
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 前回にいう後者Bについて。
 さて、「反共」とともに、またはそれ以上に、「反米」を主張すべきだ、という西尾幹二の基本的論調の間違いの原因・背景の第二の二つ目(B)と考えられるのは、こうだ。
 独特な、または奇抜な主張をして、または論調を張って、「保守」の評論者世界の中での<差別化>を図っていた(いる)と見られる、ということ。
 既出の言葉を使うと、文章執筆請負業の個人経営者として、「目立つ」・「特徴」を出す・「角を立てる」必要があった、ということだ。
 ソ連圏の崩壊は「第三次世界大戦」の終結だったとか、EUの理念はコミンテルン以来のものだ旨(今回の上記)の叙述とか、すでに「特色のある」、あるいは「奇抜な」叙述に何度か触れてきている。
 西尾幹二は<保守派内部での野党>的な立場を採りたかった、あるいはそれを「売り」=セールスポイントにしたかったようで、古くは小泉純一郎首相を「狂気の首相」、「左翼ファシスト」と称した。
 前者は書名にも使われた。2005年/西尾・狂気の首相で日本は大丈夫か(PHP研究所)。
 後者は、以下に出てくる。個別の表題(タイトル)は、その下。
 2010年/月刊正論4月号。同・日本をここまで壊したのは誰か(上掲)、所収。
 「左翼ファシスト小泉純一郎と小沢一郎による日本政治の終わり」。
 また、安倍晋三首相に対しても厳しい立場をとった。
 同・保守の真贋(2017年)の表紙にある、これの副題はこうだ。書物全体で安倍晋三批判を意図している、と評してもよいだろう。
 『保守の立場から安倍政権を批判する』
 さらに、つぎの点でも多くの、または普通の「保守」とは一線を画していた。<反原発>。この点では、竹田恒泰と一致したようだ。
 (もっとも、ついでながら、天皇位の男系男子限定継承論だけは、頑固に守ろうとしている。
 何度かこの欄で言及した岩田温との対談で、西尾はこう発言している。月刊WiLL2019年4月号=歴史通同年11月号。
 「びっくりしたのは、長谷川三千子さんがあなたとの対談で女系を容認するような発言をしたことです。あんなことを、長谷川さんが言うべきではない。」)
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 上のような調子だから、西尾の「反米」論が多くのまたは普通の「保守」派と異なる、「奇抜」なものになるのもやむを得ないかもしれない。
 既に引用・紹介したうち、「奇抜」・「珍妙」ではないかと秋月は思う部分は、例えば、つぎのとおり。
 ①2008年12月/日本が「一つだけナショナリズムの本気で目覚める契機」になるのは、「アメリカが、尖閣諸島や竹島、北方領土などをめぐって、中国、韓国そしてロシアの味方」をして「日本を押さえ込もうとしたとき」だ。
 ②2009年6月/「中国の経済的協力を得るためには、日本の安全でも何でも見境なく売り渡すのが今のアメリカ」だ。中国が「米国の最大の同盟国になっている」。アメリカは韓国・台湾・日本から「手を引くでしょう」が、「その前に静かにゆっくりと敵になるのです」。
 ③同/「日米安保は、北朝鮮や中国やアセアン諸国の対して日本に勝手な行動をさせないための拘束の罠になりつつあ」る。「ある段階から北朝鮮を泳がせ、日本へのその脅威を、日本を封じ込むための道具として利用するようにさえなってきている」。
 ④2009年8月/安倍首相がかつて村山・河野両談話を認めたのは「敗戦国」だと言い続けないと国が持たないと「勝手に怯えたから」で、「そういう轍のような構造に、おそらく中国とアメリカの話し合いで押し込められたのだろう」。
 ⑤2013年/やがてアメリカが「牙を剥き、従属国の国民を襲撃する事態に直面し、後悔してももう間に合うまい。わが国の十年後の悲劇的破局の光景である。」
 以上、かなり、ふつうではない、のではなかろうか。上の⑤によると、今年か来年あたりにはアメリカが「襲撃」してきて、日本には「悲劇的破局の光景」がある
 どれほど「正気」なのか、レトリックなのか、極端なことを言って「特色」を出したいという気分だけなのか、不思議ではある。
 しかし、2020年のつぎの書物のオビには、こうある。
 西尾・国家の行方(産経新聞出版、編集責任者は瀬尾友子)
 「不確定の時代を切り拓く洞察と予言、西尾評論の集大成」。
 上に一部示したような「洞察」が適正で、「予言」が的中するとなると(皮肉だが)大変なことだ。
 上の2020年書の緒言は、国家「意志」を固めないとして日本および日本人を散々に罵倒し、最後にこう言う。どこまで「正気」で、レトリックで、どこまでが<文筆業者>としての商売の文章なのだろうか
 「一番恐れているのは…」だ。「加えて、米中露に囲まれた朝鮮半島と日本列島が一括して『非核地帯』と決せられ」、「敗北平和主義に侵されている日本の保守政権が批准し、調印の上、国会で承認してしまうこと」だ。
 「しかし、事はそれだけでは決して終わるまい。そのうえ万が一半島に核が残れば、日本だけが永遠の無力国家になる」。「いったん決まれば国際社会の見方は固定化し、民族国家としての日本はどんなに努力しても消滅と衰亡への道をひた走ることになる」だろう。
 「憲法九条にこだわったたった一つの日本人の認識上の誤ち、国際社会を感傷的に美化することを道徳の一種と見なした余りにも愚かで閉ざされた日本型平和主義の行き着くところは、生きんとする意志を捨てた単純な自殺行為にすぎなかったことをついに証拠立てている」。
 以上。
 「生きる意志」を持ち出したり「感傷」的美化を嫌悪している点は、今回の最初の方にある「祝祭劇」という語とともに、ニーチェ的だ。これは第三点に関係するのでさて措く。
 さて、西尾の「洞察と予言」が適切だとすると、将来の日本は真っ暗だ。というよりも、「民族国家」としては存在していないことになりそうだ。
 どんなに努力しても「消滅と衰亡への道をひた走る」のであり、「余りにも愚かで閉ざされた日本型平和主義」は「単純な自殺行為」に行き着くのだ。
 日本が「消滅と衰亡への道」を進んで「自殺」をすれば、さすがに西尾幹二は「洞察と予言」がスゴい人物だったと、将来の日本人(いるのかな?)は振り返ることになるのだろう。これはむろん皮肉だ、念のため。
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 第三点へとつづける。

2474/西尾幹二批判047—根本的間違い(続4-2)。

 (つづき)
 六 2 ソ連崩壊=「冷戦終了」により時代状況は変化したのであって、「反共」とともに、またはそれ以上に、「反米」を主張すべきだ、という西尾幹二の基本的論調の間違いの原因・背景の第二と考えられるものは、こうだ。
 西尾がA「文芸評論家」あがりで国際情勢や国際政治にまで「口を出す」評論者となったこと自体、そしてBいわゆる<保守論壇>の中で何らかの意味で「目立つ」、すなわち「特徴のある」・「角の立つ」文章執筆者であろうとしたこと。
 前者Aについて
 2017年の「つくる会」20周年会合への挨拶文にある<「反共」だけでなく最初に「反米」も掲げた>という部分に着目して叙述してきてはいるが、既述のように2002年頃の西部邁や小林よしのりとの関係では「反米」という<思想>自体の真摯さは疑わしい。
 だが、その後、引用はしないが自ら「親米でも反米でもない」と一方では明記しつつも、「反米」的主張を強く述べ続けているのも確かであり、その反面で「反共」性は弱くなっている。
 また、国際政治や中国に対する見方も、もともとは一介の「素人」だったらしく、懸命に「学習」したのかもしれないが、ブレがある。あるいは一貫していないところがある。
 例えば、2007年のつぎの文章は、どう理解されるべきなのだろうか。
 「ソ連の崩壊は第三次世界大戦の終焉であり、本来なら国際軍事法廷が開かれ、ソ連や中国の首脳の絞首刑が判決されるべき事件であった。…。
 かくて、ソ連と中国は『全体戦争』の敗北国家でありながら、ドイツや日本のような扱いを受けないで無罪放免となり、大きな顔をしてのうのうとしている。」
 月刊諸君!2007年7月号。
 明らかに、ソ連と中国を「敗北国家」として一括している。
 ソ連が崩壊し諸国に分解して、東欧諸国とともに「社会主義」国でなくなったとして、中国も「敗北」して「社会主義」でなくなったのか??
 日本共産党は<後出しジャンケン>をして1994年にスターリン施政下(たぶん1931-32年頃)以降のソ連は(じつは)<社会主義国でなかった>と認識を変更したが(何とソ連の期間全体の9/10!)、中国もそうだったとは言わなかった。1990年代末には友好関係を回復して「市場経済をつうじて社会主義へ」進んでいると認定した(現在では、「社会主義を目ざす国」性自体を否定している)。
 おそらく西尾幹二は、当時は「文学」・「文芸」か別のことに熱中していて、つぎのことにも無知なのだろう。上記と同様に時期等を確認しないままで書く。
 ソ連と中国は国境で「戦闘」をするなど、対立していた。米ソではなく米ソ中の三角関係があった時期があった(日本の対中外交にも当然に影響を与えた)。中国はソ連を「社会帝国主義国」と称し、「社会主義」国ではないと非難していた(日本共産党が間に入って宥めていた)。中国の首脳が、日米安保条約を容認すると明言したこともあった(対ソ連を考えてのことだ)。
 もっとも、同じ2007年に、つぎのようにも書いた。
 「今後日本人はアメリカに依頼心をもたないだけでなく、共産主義の枠組みの中にある中国に対してはより自由で、…一段と大きい距離を持っていなければならない。」
 月刊諸君!2007年11月号
 ここでは、「共産主義の枠組み」はなおも存在しており、中国はその中にある、とされている。
 また例えば、近年の2020年の書物の緒言の中に、一読しただけでは理解することのできない、つぎの一文がある(実際の執筆は2019年11月のようだ)。
 西尾・国家の行方(産経新聞出版、2020)、p.21-22。
 「1989年の『ベルリンの壁』の崩壊以来、なぜ東アジアに共産主義の清算というこの同じドラマが起こらないのか、アジアには主義思想の『壁』は存在しないせいなのか、と世界中の人が疑問の声を挙げてきたが、共産主義と資本主義を合体させて能率の良さを発揮した中国という国家資本主義政体の出現そのものが『ベルリンの壁』のアジア版だった、と、今にしてようやく得心の行く回答が得られた思いがする」。
 よく読むと、1989年の『ベルリンの壁』崩壊=「中国という国家資本主義政体の出現そのもの」と、ようやく納得した、ということのようだ。
 そもそも欧州とアジアは同じではないのだから、前者と「同じドラマ」が後者で起きると考えること自体が、西尾の本来の「思想」と矛盾しているだろう(「世界中の人が疑問の声を挙げてきた」かは全く疑わしい)。秋月はまだ「起きて」いない、と思っているけれども。 
 問題は「共産主義と資本主義を合体させて能率の良さを発揮した国家資本主義政体」(の出現)という理解の仕方だ。
 この部分の参照または依拠文献は何なのだろうか。
 中華人民共和国という国家の性格または本質について疑問が生じ、議論があることは分かる。だが、こんなふうに単純化し、かつそれで「得心」してもらっては困る。
 上の「出現」の時期について西尾がもう少し具体的にどこかで書いていたが、所在を失念した。
 だが、いずれにせよ特定のある年とすることはできないだろう。「社会主義(的)市場経済」の出現時期も私には特定できないが、鄧小平がいた1992-3年頃だろうか。そうだとすると、2019-20年になってようやく納得した、というのはあまりに遅すぎる。それとも、GDPが日本を追い抜いた頃なのか。しかし、そうなる前に、「政体」自体は出現しているはずだろう。
 西尾幹二の中国を含む国際政治・国際情勢に関する「評論家」としてのいいかげんさ・幼稚さを指摘している文脈なので、上の議論には立ち入らない。
 但し、つぎの諸点を簡単に記しておく。
 ①「国家資本主義」というタームの意味に、どれほどの一致があるのだろうか。
 レーニンのNEP政策のことを「国家資本主義」と称した時期や人物もあった。1949年の建国時にすでに「国家資本主義」という規定の仕方も中国自体にあった。そうであるとすると、今にしてようやく気づくことではない。
 ②西尾幹二によると、現在の中国は資本主義国でも社会主義国でもない、両者を「合体させて能率の良さを発揮した」国家らしいが、これは現在の中国を美化しすぎているだろう。
 ③上のような国家「政体」の出現が、なぜ「ベルリンの壁」崩壊と同じドラマであるのか、さっぱり分からない。「ベルリンの壁」崩壊→旧ソ連圏での「社会主義」諸国の消失だとすると、西尾によっても中国の半分は今でも「社会主義」国なのであって「同じ」ではない。
 ④1921年に中国共産党は設立されたとされ、昨2021年、現在もある中国共産党は創立100周年記念祝典を行った。
 ⑤結党の指導者で、かつ1949年に中華人民共和国を建国し国家主席となった毛沢東は現在もなお、「否定」されていない。
 共産党の歴史、戦後の中国の歴史は現在まで(法的にも)連続して続いている(この点、人々の感情や意識の次元は別として、旧ソ連を「否定」して現在のロシアは成立しており、両者の間に全体的な法的連続性はない)。
 ⑥テレビで見聞きした記憶によると、昨年の中国共産党100年記念式典で「共産主義実現に邁進する」旨が宣言され、同日に共産党に加入した一青年は「人生を共産主義に捧げる」、インタビューに答えて語った。
 以上。西尾幹二に見られる旧ソ連または「共産主義」に対する<甘さ>には、別に言及するだろう。
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 後者Bから次回はつづける。

2473/西尾幹二批判046—根本的間違い(続4-1)。

 (つづき)
 六 1 ソ連崩壊により時代は新しくなり、「反共」とともに、またはそれ以上に、「反米」を主張すべきだ(但し、既述の2002年時点での重要な例外がある)、という西尾幹二の間違いの原因・背景の第一は、<日本会議>とその基本的見解だ、と考えられる。第一という順番に大した意味はない。
 「新しい歴史教科書をつくる会」が1996年末に発足したのを追いかけるように、翌1997年5月日本会議が設立された。
 「つくる会」と日本会議は、したがって前者の会長の西尾幹二は、椛島有三を事務局長(現在は事務総長)とする日本会議と、2006年に「つくる会」が(当時の西尾によると)同会に潜入していた日本会議グループによって実質的にに分裂する直前までは、友好関係にあった。
 その日本会議は設立宣言の一部でこう謳った(今でも同サイト上に掲載されている)。 
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露されたが、その一方で、世界は各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時 代に突入している」。
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」という一文によって明記されているわけではないが、<マルクス主義の誤りは「余すところなく」暴露された>とあるのだから、「マルクス主義」についてもはや研究・分析する必要はない、という意味も込められている、と見られる。
 そして、日本会議の運動は実際に、「反共」ではなく「日本」・「民族」を正面に掲げるものだった。すなわち、資本主義と社会主義(・共産主義)の対立から<諸国・諸民族>の対立へ、という基本的図式で時代の変化を理解する、というものだ。
 この点が、1990年代半ば以降の(<日本文化会議>が存在した時期とは異質な)日本の「保守」派の少なくとも主流派の主張または基調となる。産経新聞や月刊正論の基調も、今日までそうだと感じられる。反中国ではあっても、「反共」の観点からするのと、「中華文明」に対する<日本民族>の立場からするのとでは大きく異なる。なお、余計ながら、月刊正論(産経)の近年の結集軸はさらに狭まって、<天皇・男系男子限定継承>論(への固執?)だろう。
 「反共」意識が強くて<親英米派>の中川八洋は少数派だったと見られる。というよりも、「保守」の人々の多くが大組織と感じられた?日本会議に結集した、または少なくとも<反・日本会議>の立場をとらなかったために、中川八洋は少数派に見えた(見えている)のかもしれない。
 西尾幹二もまた主流派の輪の中にいたのであり、既述のように、西尾会長時代の「つくる会」と日本会議は友好・提携関係にあった。
 「つくる会」の分裂後の2009年の対談書で西尾は、「残された人生の時間に彼ら(=日本会議)とはいっさい関わりを持たないでいきたいと思います」とまで発言した。
 しかし、世界情勢の理解という点では、日本会議(派)と基本的には何ら変わらなかった。
 例えば、月刊正論2009年6月号。
 1991年のソ連崩壊により「世界中に…民族主義の炎が燃え広がったわけですから、日本の保守政権も…軍事的、政治的、外交的に自立への道を歩みだすチャンスであったのに、実際にはまるで逆の方向、隷属の方向に進んでしまいました」。
 また、例えば、月刊正論2018年10月号
 「共産主義が潰れて『諸君!』の役割が終わっても、対立軸は決してなくなっておらず、東京裁判史観にどう立ち向かうという課題は依然として残って」いる、という点で渡部昇一と一致しました。
 このような状況・時代の認識において、西尾幹二は基本的なところで日本会議(派)と共通したままだ。
 西尾が「産経文化人」としてとどまっておれるのも、日本会議と共通するこうした基本的な理解+<天皇・男系男子継承>論の明確な支持、による、と考えられる。
 ついでながら、西尾の日本会議に対する意識は、2009年段階での「残された人生の時間…いっさい関わりを持たないでいきたい」から、近年ではまた?変化しているようだ。
 2019年1月時点で公にされたインタビュー記事で、「つくる会」の分裂に関して、こう発言している。 
 2019年1月26日付、文春オンライン(今でもネット上で読める)。
 「日本会議の事務総長をしていた椛島(有三)さんとは何度か会ったこともあり、理解者でもあった。
 だから、この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして、『つくる会』事務局長更迭を撤回していれば、問題は回避できたかもしれない
 それをしなかったのはもちろん私の失敗ですよ。
 しかしですね、私は『つくる会』に対して…だけが目的の組織ではないという思い、もっと大きな課題、…を目ざす思想家としての思いがある。
 だから、ずるく立ち回って妥協することができなかった。そこが私の愚かなところ。」
 以上が、関係する全文の範囲。
 「この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして」おけばよかったかもしれない、と発言しているのは全くの驚きだ。
 かつまた、そうするのは「ずるく立ち回って妥協する」ことで、そうできなかったのは自分の「思想家としての思い」と合理化、自己正当化し、「愚かなところ」と卑下?しているのは、 じつに興味深い。
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 第二の原因・背景へとつづく。

2471/西尾幹二批判045—根本的間違い(続3)。

 (つづき)
  いくつか留保を付しておく必要がある。
 第一に、<根本的間違い>と言っても、それは西尾幹二における日米関係、外交、国際情勢の把握についての<根本的間違い>だ、ということだ。
 そして、西尾はこれらに関する専門家ではなく、おそらくは「頼まれ仕事」として、つまり依頼・発注・注文を受けて執筆した、「請負の」文章としてすでに引用した文章を書いたのだろうから、その点は割り引いた上で論評する必要がある。
 したがって、第二に、西尾が「商売」として執筆した文章に他ならないことに留意しておく必要があろう。
 第三に、西尾幹二について注意を要するのは、「事実」・「現実」や「歴史」についての把握の仕方には独特なものがあり、レトリックによって読者は気づかされずにいることがあっても、多くの(「文学」者以外の)健全な?読者の「事実」(・「現実」)・「歴史」に関する基本的な感覚・意識とは異なるところがある、ということだ。
 この点に関連して興味深いのは、個人全集刊行開始を記念した遠藤浩一との対談で、西尾自身がこれまでの自分の仕事は全て「私小説的自我の表現」だったと明言していることだ。
 月刊WiLL2011年12月号、p.242〜。(ワック)。目次上の表題は「私の書くものは全て自己物語」
 第四に、より本質的なこととして、西尾幹二は自らを「思想家」と主張し、またそう思われたいようで、また『国民の歴史』(1999)の前半は「歴史哲学」を示すものと2018年に自分で明記しているが(全集第17巻・後記)、そこでの「思想」・「哲学」は西尾においていかほど真摯なものかは、厳密には疑わしい、ということだ。
 西尾幹二における<反共・反米>性のうち、<反共>の他に<反米>性にも疑問符が付くことは、予定を変更して、別に扱う。
 但し、簡単にだけ触れると、西尾が「つくる会」会長時代に西部邁や小林よしのりが「つくる会」を退会したのは、西部・小林がより<反米>の立場を採ったのに対して、西尾幹二は明確に、より<親米>的立場を主張するという意見対立が生じたからだった(と思われる)
 その際に西尾は小林よしのりが「人格攻撃」と理解してやむを得ないと(秋月には)思われる文章を書いた。これには、今回は立ち入らない。
 興味深く、また注目されるのは、2001年9月11日事件後のアメリカの「対テロ戦争」を批判しない理由を、西尾がこう明記していることだ。
 以下は、すでにいくつか紹介・引用したように、さんざんにアメリカを歴史の悪役化し、その「陰謀」国家性を指摘している西尾幹二自身の、2002年時点での文章だ。全集に収載されているのか、その予定であるのかは分からない。西尾が会長時代の、かつ「つくる会」関連文章だが、少なくとも第17巻・歴史教科書問題(2018年)には収録されていない。
 ①「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけないというのが私の考えです」。
 ②「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない
 正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
 西尾幹二・歴史と常識(扶桑社、2002年5月)、p.65-p.66(原文は月刊正論2002年6月号)。
 (小林よしのり・新ゴーマニズム宣言12/誰がためにポチは鳴く(小学館、2002年12月)、p.75 参照)
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 さて、先に紹介引用したように、西尾幹二はアメリカや中国、日米安保条約についてこう書いた。
 ①2006年—アメリカが厄介で、「中国はそれほど大きな問題ではない」。「アメリカに依存する」ほかないが、「今度はアメリカの呑み込まれてしまうという新しい危機」があり、「これからはこっちの方が大きい」。
 ②2009年—「日米安保は、北朝鮮や中国やアセアン諸国に対して日本に勝手な行動をさせないための拘束の罠になりつつあります。加えて、ある段階から北朝鮮を泳がせ、日本へのその脅威を、日本を封じ込むための道具として利用するようにさえなってきているのです。
 ③2013年—「私たちは、アメリカにも中国にも、ともに警戒心と対決意識を等しく持たなくてはやっていけない時代に入った。どちらか片方に傾くことは、いまや危ない。」
 また、2013年に、10年後(2022-23年)の日本をこう「予測」した。
 ④「やがて権力〔アメリカ〕が牙を剥き、従属国の国民を襲撃する事態に直面し、後悔してももう間に合うまい。わが国の十年後の悲劇的破局の光景である。」
 上の④は確言的にせよ「予見」だろうから省くとして、例えば①〜③はどうか。
 論評は簡単だ。上掲の2002年の文章を知ると、萎縮してしまうけれども。
 間違いである。
 かつまた、西尾が2017年に放った(つくる会は)「反共に加えて反米も初めて明確に打ち出した」という豪語の関係では、こうだ。
 矛盾している。 どこに「反共」があるのか。
 したがって、問題は、こうした結論的論評ではなく、西尾幹二はなぜ間違った、あるいは矛盾する言辞を綴るのか、ということになる。
 自らの本来の「正しい」「思想」を例外的に放棄することを正面から肯定する2002年の文章を照合するとかなり虚しくなりもするが、それはさて措いて、以降でこの問題を続けよう。
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 五1を五に、五2を六に変更(1/16)。

2469/西尾幹二批判044—根本的間違い(続2)。

 (つづき)
 四 2 西尾幹二・国民の歴史(1999年)のあと、2001年に同が会長の「つくる会」教科書が検定に合格する(どの程度学校で使用されるかは別の問題)。
 この最初の版を現在見ることはできないが、当時に全体を読んで、大々的に批判した、<保守派>のつぎの書があった。
 谷沢永一・「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する(ビジネス社、2001年6月)。
 谷沢の批判は、「絶版を勧告する」ほどに多岐にわたる。
 そのうち、秋月瑛二が絶対に無視できないのは、谷沢が引用する、原教科書にあったつぎの叙述だ。
 ①これまでは資本主義・共産主義の時代だったが「21世紀を迎えた今、これらの対立もとりあえず終わった」。
 ②「ソ連が消滅したことで資本主義と共産主義の対決は清算された」。
 先には1999年と2006年以降の西尾幹二の<根本的間違い>部分を列挙したが、2001年時点での西尾が会長の「つくる会」自体の教科書も、根本的に間違っていた。
 谷沢永一(1929〜2011)は、上の①を、こう批判した。
 「間違いである。中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国など、れっきとした社会主義国はまだ残っていて、異常な軍拡を続ける中国、何をするかわからない北朝鮮は、日本にとっても大きな脅威になっている。
 また、上の②を引用したあと、こう書いた。
 「これも同じ理由で間違いである。間違いどころかデマである。
 以上、谷沢著の p.281-2、
 秋月瑛二は、谷沢の指摘は完全に正当だった、と考える。西尾幹二の基本的状況認識と比べて、谷沢は明らかに「正常」だ、と考える。
 谷沢は上のあと、中嶋嶺雄が「中国…に旧ソ連の共産党勢力、北朝鮮、ベトナムなどが連なりはじめ、ラオス、モンゴル、ビルマ、ミャンマーなどの旧社会主義圏も、その戦列に加わりはじめている」と指摘している、と追記している。
 さて、ソ連(および東欧社会主義諸国)の崩壊・解体で終わったのは<対ソ連(・東欧)との冷戦>であって、資本主義対共産主義(・社会主義)の対立はまだ終わっていない、国内でも、レーニン主義政党で「社会主義・共産主義」を目指すと綱領に明記する日本共産党はまだ国会に議席を持っているではないか、とこの欄でいく度か書いてきた。
 西尾幹二らと谷沢永一らと、どちらが「正常な状況認識」を示している(いた)のか。
 なぜ、西尾幹二らは「間違った」のか。むろん、一部は、本質は文章執筆請負業者にすぎないことに理由はあるが。
 —
 根本的間違いの原因、<物書き>としての西尾幹二の生き方とその限界、「反共」に加えた「反米」の意味合い、などに以降で言及する。
 最後の点では、2002年頃の小林よしのりにも登場していただかなければならない。
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2468/西尾幹二批判043—根本的間違い(続1)。

  狂人にも、器質的に異常な精神障害者=病者の他に、正常な=正気の人格障害者とがあると思われる。いずれでもないとして真面目に受け取るが、西尾幹二の述べる日本をめぐる国際的政治情勢の把握には、根本的間違いがある、と考える。
 この<根本的間違い>にはすでに何度か、触れてはいる。批判024、同031(No.2348、No.2417)など。より本格的に論及しよう。
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  西尾幹二・国民の歴史(1999年)は最後の章で、現代人は自由でありすぎる、という理解を示す。そして、「自由であるというだけでは、人間は自由になれない」等と述べ、空虚と退屈さに向かう、とする。
 それこそ空虚な物語的作文またはレトリックだとして一瞥しておけばよいのだが、「私たちは否定すべきいかなる対象さえもはや持たない」(全集第18巻、p.633)と断じられると、さすがに首を傾げたくなる。
 そして、その直前に、<根本的間違い>を示す一文がある。
 私たちは「共産主義体制と張り合っていた時代を、なつかしく思い出すときが来るかもしれない」。
 何と、西尾においては「共産主義体制と張り合っていた時代」は、もうとっくに終わっているのだ。この書物は当初は「新しい歴史教科書をつくる会」の編著でもあったが、のちの2017年に西尾幹二当人は、この会は「反共」のみならず初めて「反米」を明確に打ち出したと豪語?した。
 「反共」とはいったい何のことだったのか。
 ともあれ、アメリカに対して厳しく中国に対しては甘い、あるいはアメリカと中国が同盟してアメリカまたは中国が日本を襲ってきそうだ、という国際情勢の認識を示している。最初から、<根本的に間違って>いるのだ。
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  ①2006年12月、当時の安倍首相の変貌の背景を西尾はこう予想し、アメリカと中国にこう言及していた。 
 「第三が…アメリカの存在です。…これがもっとも厄介な問題になってくると考えています。
 中国はそれほど大きな問題ではない
 つまり、中国に対抗するためにはアメリカに依存するほかないけれど、あまりに依存を続けていくと今度はアメリカに呑み込まれてしまうという新しい危機。
 これからはこっちの方が大きい。」
 月刊諸君!2006年12月号、75頁。
 ちなみに西尾は、2007年8月に、既発表文章を集めた、同・日本人はアメリカを許していない(ワック)を刊行している。中国や北朝鮮ではなく、アメリカが「敵」として設定されている。さらに、個人全集第16巻(2016年)に収載。
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 ②2008年12月、『皇太子さまへの御忠言』を刊行した直後だが、西尾はこんなことを書いていた。
 「日本という平和ボケした国家」でも「一つだけナショナリズムの本気で目覚める契機があると思います。
 それは、…アメリカが、尖閣諸島や竹島、北方領土などをめぐって、中国、韓国そしてロシアの味方をする悪代官になって日本を押さえ込もうとしたときです。」
 しかし、アメリカの国力喪失、軍事的後退によって、その「暇もないうちに日本を置き去りにしてハワイ以東に勢力を急速に縮小するという事態が訪れるかもしれません。
 つまり、このまま放っておいても、日本はアメリカから解放されるのです。」
 撃論ムック2008年11月号西尾・日本をここまで壊したのは誰か(草思社、2010)所収、p.149-150。
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 ③2009年8月、麻生首相の時代に、こう回顧していた。
 安倍氏が村山・河野両談話を認めたのは「敗戦国」だと言い続けないと国が持たないと「勝手に怯えたからでしょう」。
 「そういう轍のような構造に、おそらく中国とアメリカの話し合いで押し込められたのだろうと思う」。
 中国訪問、八月以前の靖国参拝、「あれは話し合いが全部ついていたのだと思う」。
 「日本と中国のナショナリズムを鎮めたい日米中経済界の話し合いだと思います」。
 月刊正論2009年8月号、232頁。
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 上の直前の2009年6月には、こう予想していた。
 「中国の経済的協力を得るためには、日本の安全でも何でも見境なく売り渡すのが今のアメリカです」。
 「今は地域の覇権を脅かしている中国、かつての反米国家が米国の最大の同盟国になっているほどに権力構造に変化が生じていることを見落としてはなりません」。
 「中南米から手を引き始めたアメリカは、韓国、台湾、そして最後に日本からも手を引くでしょう
 しかし、その前に静かにゆっくりと敵になるのです。」
 また、つぎのように回顧し、かつ現状を認識していた。
 1991年のソ連崩壊により「世界中に…民族主義の炎が燃え広がったわけですから、日本の保守政権もこれからアメリカは当てにならないと考え、軍事的、政治的、外交的に自立への道を歩みだすチャンスであったのに、実際にはまるで逆の方向、隷属の方向に進んでしまいました」。
 「日米安保は、北朝鮮や中国やアセアン諸国に対して日本に勝手な行動をさせないための拘束の罠になりつつあります
 加えて、ある段階から北朝鮮を泳がせ、日本へのその脅威を、日本を封じ込むための道具として利用するようにさえなってきているのです。」
 以上、月刊正論2009年6月号、p.98、p.104-5。
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 ⑤2013年、すでに個人全集の刊行を始めていたが、つぎのように西尾は書いた。
 「時代は大きく変わった。『親米反共』が愛国に通じ、日本の国益を守ることと同じだった情勢はとうの昔に変質した。
 私たちは、アメリカにも中国にも、ともに警戒心と対決意識を等しく持たなくてはやっていけない時代に入った。
 どちらか片方に傾くことは、いまや危ない。

 「親米反共」論者は「政治権力の中枢がアメリカにある前提に甘えすぎているのであり、やがて権力が牙を剥き、従属国の国民を襲撃する事態に直面し、後悔してももう間に合うまい。
 わが国の十年後の悲劇的破局の光景である。」
 西尾・憂国のリアリズム(ビジネス社、2013年)同・保守の真贋(徳間書店、2017年9月)所収、p.164、p,166。
 ⑥2018年10月、その前に渡部昇一と対談していた西尾は、つぎの点で渡部と一致し、二人で強く訴えた、という。
 「共産主義が潰れて『諸君!』の役割が終わっても、対立軸は決してなくなっておらず、東京裁判史観にどう立ち向かうという課題は依然として残っている」。
 月刊正論2018年10月号(花田紀凱との対談)、p.271。渡部との対談書は所持していない。
 なお、ここでいう「共産主義が潰れた」の中には、少なくとも渡部昇一においては、中国も含められている。
 渡部は2016年の韓国との慰安婦「最終決着文書」を安倍内閣の見事な外交文書だとし、併せて、かつての「対立軸」は<共産主義か反共産主義か>だったが、1991年のソ連解体により対立軸が「鮮明ではなくなり」、中国も「改革開放」によって「共産主義の理想」体現者でなくなり、「共産主義の夢は瓦解した」と明記していたからだ。月刊WiLL2016年4月号(ワック)、p.32以下。No.1413で、既述。
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 四 1 以上は一部であり、探索すればもっと他にもあるだろう。また、個人全集収録の有無等も、一部を除き確認していない。
 それでも、以上のかぎりで、西尾幹二の<根本的間違い>は、私には明瞭だ。
 2006年—アメリカが厄介で、「中国はそれほど大きな問題ではない」。
 「アメリカに依存する」ほかないが、「今度はアメリカに呑み込まれてしまうという新しい危機」があり、「これからはこっちの方が大きい」。
 2013年—「私たちは、アメリカにも中国にも、ともに警戒心と対決意識を等しく持たなくてはやっていけない時代に入った。
 どちらか片方に傾くことは、いまや危ない。
 アメリカと中国を等距離に置く。これは、韓国大統領・文在寅の米中間の「バランサー」役の旨の発言すら思い出させる。
 上の前提になっているのは、<共産主義はすでに崩壊した(冷戦は共産主義の敗北で終焉した)>という理解だ。
 ここに<根本的間違い>とその原因がある。
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 ここで区切って、四の2から、次回につづける。
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ギャラリー
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