一 既述のように、渡部昇一は、月刊ボイス10月号・「東アジア共同体は永遠の幻」(PHP、2009)で「判決の受諾か、裁判の受諾か。これをどう考えるかで、じつは恐ろしい違いがある。『裁判を受諾する』といった場合には、東京裁判の誤った事実認定に基づく不正確な決め付け――南京大虐殺二十数万人や日本のソ連侵略というものまで――に日本が縛られつづけるということになるからだ」と書き、別冊正論エクストラ第10号・「東京裁判史観からの脱却なくして自立なし」では、「裁判の『内容』を受諾するか、『判決』を受諾するかは、絶対に混同してはいけない」と書く(p.5)。
はたして、<裁判>と<判決>の区別で、このような「おそろしい」違いが出てくるものなのか??
1951年9月締結(翌年4月発効)のいわゆるサンフランシスコ講和条約は日本国は「裁判(または諸判決)」を「遵守し、…」とする部分を含み、この「裁判(または諸判決)」の原語は<judgments>なのだが、これを「裁判」ではなく「(諸)判決」と訳しかつその意味で理解するとして、そもそも<judgment>とは何を意味するのか。渡部のいうような帰結を本当にもたらすのか?
二 A/高柳賢三=末延三次・英米法辞典(有斐閣、初版1952.10,16刷1978.07)、B/田中英夫編集代表・英米法辞典(初版1991.05、3刷1994.08)、C/田中英夫編集代表・BACIC英米法辞典(東京大学出版会、初版1993.09、5刷1997.07)のそれぞれにおいて、<judgment>がどう翻訳され、説明されているかを、以下にほとんどそのまま引用して記載する。
なお、第一に、時期的に東京「裁判」と講和条約(「日本国との平和条約」)に最も近いのはAだ。第二に、CはBの簡略版のようなもので(編者も同じ)、いずれも1990代以降のもの。二種あるからといって、多数決でB・Cの記述の方がAよりも信頼できる、という保障があるわけではない。
A・「判決」-「(イ)裁判所の判決。…〔略〕。(ロ)判決の理由。判決にあたつて述べた各裁判官の意見をjudgmentということもある」(p.251)。
B・「判決」-「当事者間の権利義務について判断し解決する裁判所の最終判断。…〔略〕。Judgmentとは、裁判所が事件の解決について出した結論のことで、例えばFederal Rules of Civil Procedure(連邦民事訴訟規則)Form31&32の示すように、日本の判決の主文にほぼ相当し、この結論に達するまでの根拠を述べた部分はopinion(意見)とよばれる。ただし、俗語的には、この意見の部分も含めてjudgmentということがある」(p.480)。
〔なお、Bは第一の訳語として上記の「判決」を挙げ、第二の訳語として「判断・評価」を示す。後者は日常的用語としてのjudgmentの意味だと思われ、特段の説明はない。〕
C・「判決」-上のBと(「略」部分の二文のうちの一文が削除されているが、その他は)まったく同じ。
三 AとB(・C)のいずれも「判決」と訳す点では共通している。「裁判」よりは適切な訳語であるわけだ。
だが、Aは「裁判所の判決」とは異なる第二の訳語・意味として「判決の理由」と記すのに対して、B(・C)は「日本の判決の主文にほぼ相当」する、と説明していて、この部分に関するかぎり、二種(・三種)の英米法辞典は異なる、矛盾する説明をしている。
四 渡部昇一の議論が成立しうるのは、1990代に入って以降のB(・C)に「ほぼ」従って、Judgmentを「判決の主文」と理解する場合に限られる。この場合であっても、まったく<理由>(による拘束?)から自由ではないことは、のちに述べる。
逆に、1952年初版のAの狭義の説明に従って「判決の理由」と理解するならば、渡部昇一の主張・理解はまったく見当はずれ、ということになるだろう。「判決の理由」の中にこそ、渡部のいう「東京裁判の誤った事実認定に基づく不正確な決め付け――南京大虐殺二十数万人や日本のソ連侵略というものまで――」が書かれていた(はずだ)からだ。
問題は、1951年9月の時点で条約締結国、とくにアメリカと日本の担当者たちが「judgment(s)」をどういう意味で用い、どういう意味だと理解したかだ。とりわけ、「判決の主文」のみか、むしろ「判決の理由」を含むかだ。しかし、参照した二種(・三種)の英米法辞典によっては、決定的な手がかりを得ることはできない。1951年に近いAが当時の一般的または相対的多数の理解だったと言えそうにも見える。しかし、B(・C)はその後の研究の成果をふまえて、より正確な叙述をしている、という評価が成り立たないわけでもなかろう。但し、1952年以降のアメリカ・連邦民事訴訟規則の上掲部分の制定または改正がB(・C)の叙述につながっているとすると、新しいからといって、1951年の条約中の文言の解釈の決め手には少なくともならない。
また、そもそも、いわゆる<東京裁判>にかかわって、通常の裁判・訴訟を念頭に置いた諸概念が条約中で用いられたのか、という基本的な問題もあると思われるのだ。
ともあれ、「judgment(s)」を「裁判」ではなく「(諸)判決」と訳さないと「東京裁判の誤った事実認定に基づく不正確な決め付け―南京大虐殺二十数万人や日本のソ連侵略というものまで―に日本が縛られつづけるということになるからだ」という渡部昇一の主張は、十分なまたは決定的な根拠はないと思われる。「裁判」と理解すれば上のように「縛られ」、「(諸)判決」と訳せば上のようには「縛られ」ない、というのは、何らかの誤解にもとづく、不適切な主張だと考えられる。
既に言及したことだが、渡部は「判決」とは「判決主文」のことだと単純に思い込んでいるのではないか? 「判決」の中には「主文」の他に「事実」と「理由」又は「事実及び理由」も含まれる。
英文学者の渡部昇一が書いているからといって、裁判(・法律)関係の英米語についてまで正確な知識が示されているとは限らない。
また、かりにB(・C)に従って「日本の判決の主文にほぼ相当」する、と理解するとしても、日本の<東京裁判>遵守義務を主張・強調したい者たちは、次のように主張するすることが可能だと思われる。
すなわち-「judgment(s)」とは厳密には(各)「判決主文」のことだとしても、結論たる「主文」にはそれなりの何らかの「理由(根拠)」(事実認定とその評価・法的判断)があるはずだ、従って、両者を無関係のものとして扱うことは不当で、「判決主文」を遵守するということは、当該(各)判決で書かれた「理由」をも実質的には尊重することにつながるはずだ…、と。
このように、「judgment(s)」をかりに厳密に(各)「判決主文」と理解するとしても、日本が「縛られ」ることを期待し、主張する者たちには「南京大虐殺二十数万人や日本のソ連侵略というものまで」等を<事実>の記載として尊重すべきだとする余地がなおも残されている、と見られる。
以上のことからすると、「裁判」と「(諸)判決」の区別論は、後者の方が適訳だとしても、渡部昇一が望むような効果を(残念ながら)もたらさない、と考えられる。
問題・課題は、「裁判(諸判決)を遵守」するという条約中の文章の意味を、それが置かれたテキスト・条文(関係他条項を含む)の中で的確に(関係的に)把握することであって、「judgment(s)」の訳語に渡部昇一のごとく拘泥することは、決して生産的・建設的意味をもたない、と思われる。
保守論者たちの中に渡部昇一の議論がどの程度の影響を与えているのかは知らないが、遵守の対象は「裁判」ではなく「(諸)判決」だと(条約中の「遵守」義務を持ち出す)<左翼>に対して反論(?)しても、決定的な力を持たないし、たいして有効なものにもならない、と思われる。これまた傍流的(?)な意見かもしれないとは思いつつ。
なお、このテーマをこれで終えておくが、12月以降の中断は、自分が想定していたことの誤謬等に気付いたためでは全くない。叙上のことはすでに12月の時点で分かっていたことだ。遅れは、東京裁判関係の本をいくつか捲って、<「裁判」・「(諸)判決」論争>はたいして重要な争点ではなく、他に考えるべきもっと重要な点がいくつもあると思い至ったこと、ついでに半分は冗句として書くと、多少は専門的な(ふつうの人々は見ないだろうような英米法辞典を使っての)叙述を、一円の利益を得ることもなく、かかるブログに書いてしまうことが多少は馬鹿馬鹿しくなった、ということによる。