秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

藤田覚

2103/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11②。

  藤田覚・江戸時代の天皇/天皇の歴史06(講談社,2011)、p.280-1によると、少なくとも江戸時代、生前に譲位して(つまり前天皇であって)生存中の天皇は「太上天皇」と号され、死亡すると「~院」と称された。おそらく、死亡による譲位・退位の場合も、崩御した天皇はほとんどすみやかに「~院」と称されたのだろう
 したがって、<日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08>(№2098・2019/12/11)が、光格天皇は父の閑院宮典仁について<「太上天皇」の尊号付与>を願い出たと記述したのは誤ってはいないと思われる。しかし、その直後に、<「天皇」ではなく、「太上天皇」=「院」号付与に関する2例を先例として挙げた>と記述しているのは、典仁親王はまだ存命だったので誤りになる。
 この誤解は、太上天皇=上皇=「~院」という等式や、上皇による「院政」という言葉に影響を受けていたのだろう。
 現在での歴史記述や一般的論議では「天皇」や太上天皇の簡略形としての上皇、そしてときには後者の意味での「~院」という語を使って、多くの場合は問題がないのだろう。
 しかし、当時の言葉遣いは、以下のとおりで、この時期に「天皇」号の使用も改められた(再興された)、とされる。上掲書、p.281等。
 在位中の天皇が「~天皇」と呼ばれることはないし、「天皇」とすら称されない。
 光格天皇在位の時代を基準にすると、村上天皇についてその死後の967年に「村上天皇」と追号されたのは、天皇が死後に「~天皇」と追号された最後だった。そして、円融天皇の死(991年)以降はずっと、「~院」、つまり例えば「円融院」と追号されてきた。この場合の「院」は、上皇・太上天皇の就位とは関係がない。
 これを変えたのは光格天皇(119代)で、光格天皇は死後に「光格天皇」という諡号を付与され(翌年の1842年)、天皇が死後に「~天皇」と追号されたのは、じつに874年ぶりだった(!)、とされる。「天皇」号の<再興>もまた光格天皇についてであり、次代の仁孝(120代)の時代になる。
 なお、追号ではなく厳密な意味での諡号は、887年に崩御した「光孝天皇」以来、何と954年ぶりだった(!)とされる。上掲書、p.281。
  知識がかつてなかった上のことを前提として、<尊号一件>にかかわる「太上天皇」や「院」号の問題に触れる。
 光格天皇(119代)は即位後に、実父・閑院宮典仁について、「太上天皇」尊号の付与を幕府に願い出た。幕府側は最終的にも拒否したのだったが、光格が先例として挙げたのは、つぎの2件だった、とされる。その時点では死亡しているので、天皇在位者ではなかったにもかかわらず生前は「太上天皇」尊号がおくられ、死後は「院」号が付与された例となる。
 1/守貞親王=後高倉院。1221年即位の後堀河天皇(86代)の父。高倉(80代)の子、後鳥羽(92代)の実兄。承久の乱を契機とする後鳥羽の系統ではない後堀河の即位にもとづき、「太上天皇」の尊号を送られて実質的に朝政に関与し、死後は「後高倉院」とされた。
 2/伏見宮貞成親王=後崇光院。1428年践祚の後花園天皇(102代)の父。北朝3代・崇光天皇の孫、伏見宮家初代の栄仁親王の子。存命中は「太上天皇」の尊号がおくられ、死後は「後崇光院」と称された。
 なお、この伏見宮貞成親王(後崇光院)の父・栄仁親王が伏見宮家第1代で、戦後に「皇籍」を離れた男子とその後裔男子たちは、男系でのみたどると、この伏見宮栄仁親王(1351-~1416。室町・南北朝時代)に行き着く。
 これら2例では、後高倉院、後崇光院はともに「天皇」ではなかったが上の2天皇との関係では「院政」を敷いた、あるいは実質的に政治(主として朝政)に関与した、とされる。但し、代数をもつ歴代天皇には加えられない。
 以上の2例につき、藤田覚・幕末の天皇(講談社学術文庫、2013/原著1994)、p.112も参照。
 ところで、上掲書二つには言及がないが、つぎの例も加えてよいのではないかとも思われる。
 3/誠仁親王=陽光院。1586年に即位した後陽成天皇(107代)の父。正親町天皇(106代)の子。
 しかし、誠仁親王=陽光院は正親町が30余年在位したためか天皇に就位せず、誠仁親王の死後にその子の後陽成が天皇となった。したがって、「太上天皇」と尊号されたことはなく、この点で、「院」号を受けたにもかかわらず、上の後高倉院・後崇光院の例とは異なるようだ。
  朝廷・幕府関係一般の問題に発展しそうであるため、<尊号一件>問題の経緯の詳細は省く。しかし、ともあれ、朝廷側が幕府に要請すること自体、あるいは尊号付与をいったんは天皇・朝廷の独断で決定したこと自体が、それまでと比べて異様だつたと、とされる。この光格の幕府に対する姿勢をふまえて、のちの孝明天皇も存在する。あるいは、幕府側が天皇・朝廷の意見を「聴取」したり「勅許」を求めたりする実例の発端が(後水尾と比べても強い)光格の姿勢・見解にあった、とも言われる。しかし、光格や孝明が江戸幕府の打倒や「徳川」家の廃絶を考えていたわけでは、むろんない。
 幕府側(11代将軍・德川家斉、老中・松平定信)は承久の乱・応仁の乱いう混乱期の「悪しき事例」だったとして、拒否した(上の2は応仁の乱と厳密には関係がないともされる)。また、子が天皇になっても生前に「太上天皇」と尊号されなかった天皇の父親の方がむしろ多いともされる。
 しかし、光格天皇がこだわったのは、御所でまたは朝議の際に典仁は「天皇の実父とはいえ親王であるため、関白はおろか三公(太政大臣・左大臣・右大臣)より下に座らなければなら」ないこと-これは幕府側の諸<法度>を根拠とするとされる-を嘆いたためだという(藤田覚・江戸時代の天皇(2011)、p.259)。親への「孝行」が強い理由の一つだ。
 なるほどと思わせる理由だが、幕府側にはそんな心情を慮る気持ちがなかったようでもある。
 この事件の決着後に、朝廷側の「議奏」だった中山愛親は、上官の「武家伝奏」だった正親町公明とともに幕府側から「閉門・逼塞」を命じられ、朝廷側にそれぞれの役職を解任することが要求された(藤田・上掲書p.261-2)。
 この中山愛親とは、前回に記述のとおり、明治天皇の実母・中山慶子の父親の中山忠能(1809-88)の、実の曾祖父だ(~1814)。「墓」は廬山寺内にある。
 とりあえず推測として書いておくが、中山愛親等々の、この事件で幕府に<苦渋を舐めさせられた>一部の公家たち・朝廷官僚たちの後裔たちの間に、幕府に対する何らかの<心のしこり>ができた、そのような意識・精神の伝達が各家で行われた、後の時期での幕府や「徳川家」に対する厳しい姿勢にもつながった、と想像することは全く不可能ではないだろう。
 さて、江戸幕府の介在なく、典仁親王に「慶光〔きょうこう〕天皇」と追諡され、かつさかのぼって太上天皇とも尊号されたのは、時代が変わった、明治17年(1884年)のことだった。1794年の典仁没後、90年後のことになる。「皇威」を高める光格天皇の努力に、その子孫の明治天皇が遅れて応えたことになる。但し、慶光天皇は歴代の天皇の1代には数えられない。しかし、「天皇」であるがゆえの「陵」は、その後に整備された。
  今回に記したようなことも、<いわゆる保守系>月刊雑誌である月刊正論(産経)・月刊WiLL(ワック)、月刊Hanada(飛鳥新社)の三誌をいくら毎号読んでも出てこず、「知識」にならないだろう。

2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。

 <日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07①>(№2082・2019/11/22)で、光格天皇と京都・廬山寺の間の関係に触れ、<同07②>(№2096・12/08)で、「慶光天皇廬山寺陵」に言及して写真も紹介した。
 廬山寺の実質的には境内に「慶光天皇陵」があることを述べている一般的文献を、のちに見つけた。
 藤田覚・幕末の天皇(講談社学術文庫、2013/原著1994)。p.108-9に、こうある。
 「…京都御苑の清和院御門を出て、三条実方、実美親子を祀る梨木神社を過ぎると右手に廬山寺(<略>)がある。紫式部の邸宅址とされる庭園があり、現在の本堂…。その門に『慶光天皇御陵』と書いた看板が立てられている。
 本堂の右手の道を進むと墓域となるが、その奥に『慶光天皇御陵』がある。
 陵内へは柵で周囲を囲まれているので入れないが、正面奥、前面の両側に石灯籠があり、石の柵に囲まれた、台座の上に二重の塔(多宝塔)のような墓石がある。これが慶光天皇の墓である。」
 以上について、<同07②>(12/08)で紹介した写真のうちの一つをそのまま下の一段めの左に再掲する。
 上掲著は、さらにこう書く。p.109。
 「ちなみに、泉涌寺(<略>)の月輪陵にある江戸時代の歴代天皇の墓石は、慶光天皇の石塔と同じような造りであるが、二重の石塔ではなく九重の塔の形をしているという。」
 「さらにそのすぐ奥、やや左手に小さな円墳が見える。…大正天皇や昭和天皇と同じ円墳である。」
 これらの叙述またはコメントはなかなか興味深く、考えさせられもする。
 著者・藤田覚が実見したのは原著1994年の刊行前だったのだろうから、2019年はそれから25年以上も経っている。私は、本堂の建物近くの「門」の掲示には気づかなかった。また、中央奥の墓基が慶光天皇の陵墓だろうとは推測したが、注意を惹いたのは、台座の上の「二重の塔(多宝塔)のような墓石」のさらに上の九重の円形石部分だった。
 また、上のBはおそらく実見はしないままで月輪陵の墓石は「二重の石塔ではなく九重の塔の形をしているという」と書くが、前者では墓基の上に九重の円形石があるのに対して、ネット上にあった(この欄ですでに紹介した)写真からすると、後者では墓基の脇に正方形の石の九重の石塔が立っているように見える。
 これらは、墓碑・墓基の直前までは一般人は立ち入れないことからする不明瞭さかもしれない(廬山寺でも鉄柵の手前から撮影している。なお、孝明天皇陵の円墳の前に一般人は行けない)。仏教様式における石塔等の位置づけや意味に関する知識が当方に欠けているからでもあるが。
 さらに、上掲書のCには「円墳」の所在に言及がある。気がついていなかったが、確かに、撮った写真には「円墳」らしきものがある。下の一段めの右に拡大して紹介する。但し、上の著者もこれと慶光天皇の墓との関係には少なくとも明示的には言及していない。また、円墳が一つだけしかないようであるのも不思議なような気がする。
 なお、<同07②>(12/08)で廬山寺のすぐ北に隣接する清浄華院にあった(墓石ではない)九重石塔の写真を紹介しているが、「慶光天皇廬山寺陵」の区画内にもこれとほぼ同じの石塔が写真に写っていた。こちらは明らかに慶光天皇以外の皇族についての墓石だ。
 下の二段目に、前者を少し修正したものと後者の写真を紹介する。
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 ところで、藤田・上掲書は、つぎのようにさらに書いている。p.109。
 「慶光天皇御陵」の右手の「白壁の塀で区切られ」た「墓域」には、「江戸時代の公家が多数葬られている」。
 「その中にある中山家の墓所の一角に、ひときわ大きな石塔がある。
 …、正面に『正二位藤原朝臣愛親』、横に文化十一年〔1814年-秋月〕八月一八日と刻まれている」。
 この区画は、この覧で「一般の墓地」の区画と記した部分だと見られるが、私は長方形の区画の奥の方までは入り込まなかった。
 上の「愛親」=「中山愛親」は、光格天皇の実父への「尊号」付与にかかわる<尊号一件>のときの、朝廷側の「議奏」だった
 しかも興味深いことに、藤田の実見にもとづく叙述のとおりだとすると、つぎのことが分かる。
 すなわち、明治天皇の父方の祖父(仁孝天皇)の、そのまた祖父の典仁親王(のちに「慶光天皇」と追号)と、明治天皇の母方の祖父(中山忠能)の、そのまた曾祖父の中山愛親とは、いずれも実質的に特定の廬山寺という仏教寺院に葬られている、ということだ。
 典仁親王-光格天皇-仁孝-孝明-明治天皇。
 中山愛親-忠尹-忠頼-忠能-中山慶子-明治天皇。
 明治天皇は現在の皇統につながる。もっとも、現在の廬山寺(ろざんじ)は、紫式部・源氏物語に関する由緒を優先して強調しているようではある。
 <尊号一件>に関係する「太上天皇」追号の先例等には、さらに別に触れることとする。
 少なくとも江戸時代には「太上天皇」=「院」ではなかったこと、その点で誤解があった。その機会に記すが、この点は、藤田覚・江戸時代の天皇/天皇の歴史06(講談社、2011)、p.281、を参照。

2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。

  今上天皇は<神武天皇を初代として126代>と皇統譜上はなっているようだが、この<126代>にはいかほどの意味と信憑性があるのだろうか。
 神武天皇やのちの天皇の実在性を疑えば、126代も簡単に虚構になってしまう。しかし、神武やその後の8代を実在とし、かつ王朝交替も否定して<一系>性を肯定したとしても、126代ということの<根拠>はけっこういいかげんだと思われる。
 ふと思うのだが、例えば光格天皇は、あるいは後醍醐天皇は、あるいは天武天皇、持統天皇は、即位する際に自分は神武以降の何代めの天皇にあたるということを明確に意識していたのだろうか。日本書記の記述をほぼ絶対のものとして、自らの代数を数えていたのだろうか? 種々の歴史関係書を見ていると、即位当時の文献に<~代めとして即位する>と宣明したとある、といった記述は全くかほとんどないようだ。
 「天皇」という漢風称号自体も天智または天武あたりの時代から使われ出したらしいのだが、この「天皇」という言葉の発生・成立については詮索せず、大和朝廷の長または「大王」位も含める。
  光格天皇の実父の閑院宮典仁のように、実際には天皇に在位したことがないにもかかわらず、のちに「天皇」(慶光天皇)と称され、かつ「~天皇陵」(慶光天皇陵)まで存在する皇族は、他にもあるようだ。
 以下、代数は明治期以降の皇統譜のもの。
 1/「岡宮天皇」=草壁皇子。
 草壁皇子は天武(40代)・持統(41代)の子で、文武(42代)・元正(44代)の父。妃は元明(43代)=持統の妹。 
 続日本紀の巻第一の分注に、758年に「勅があって、天皇の号を追贈し、岡宮御宇天皇と称した」とある。
 宇治谷孟・全現代語訳/続日本紀・上(講談社学術文庫、1992)、p.13。
 陵は「岡宮天皇真弓丘陵」と呼ばれ(宮内庁の掲示と石碑がある)、現在の奈良県、橿原市南の高取町内にある(但し、場所の治定の正確さには争いがあるようだ)。
 2/「春日宮天皇」=志貴皇子。
 志貴皇子は天智(38代)の子で、光仁(49代)の実父。草壁・大津・高市・川島・刑部各皇子とともに、いわゆる「吉野の盟約」をした6皇子の一人。持統(41代)・元明(43代)と同父だが、天武・持統の血統ではない。光仁即位後に、「春日宮御宇天皇」と追尊された。
 陵は「春日宮天皇田原西陵」と呼ばれ(宮内庁の掲示と石碑がある)、奈良市矢田原町にある(光仁陵が東にあって、「-田原東陵」とされる)。
 3/「崇道天皇」=早良皇子。
 桓武天皇(50代)と同父母(光仁・高野新笠)の弟。桓武在位中に「崇道天皇」と追号された。
 陵は「崇道天皇八嶋陵」と呼ばれ、奈良市八島町にある。但し、文久・明治期の治定で、正確さには疑問があるという。
 この陵付近にも小さな崇道天皇社がいくつかあるようだが、著名なのは、京都市上高野の<崇道神社>で、この神社の唯一の祭神が、崇道天皇=早良親王。御所の東北にあるのは、比叡山延暦寺とともに、<怨霊封じ>のためともいわれる。
 この神社の頒布による小冊子p.4によると、ほぼ同じ場所に出雲高野神社と伊多太神社があり、崇道天皇を祀ることとなって前者が崇道神社と改称された。現在でも本殿すぐ近くに摂社のごとく伊多太神社が別にある。
 崇道天皇=早良皇子は神泉苑での最初の御霊会(863年)で祀られた第一の人物で、上御霊神社や下御霊神社でも代表的な「御霊」とされている。
 4/「飯豊天皇」=飯豊皇女(・飯豊女王)。
 日本書記によると、履中天皇(17代)の孫で、同じく孫である仁賢天皇(24代)・顕宗天皇(23代)の姉。
 清寧天皇(22代)崩御後の(仁賢・顕宗による譲り合いでの)天皇不在中に「姉の飯豊青皇女が、忍海の角刺宮で、仮に朝政をご覧になった」。崩御後、「葛城の埴口丘陵」に葬られた。
 以上、宇治谷孟・全現代語訳/日本書記・上(講談社学術文庫、1988)、p.324。
 陵は「飯豊天皇埴口丘陵」と呼ばれ(宮内庁の掲示と石碑がある)、奈良県葛城市新庄町北花内にある。
 上の1と2は実の子が天皇に就位したことにより、天皇号が付与されたとみられる。
 はおそらく、いったん皇太子とされたが死亡により天皇になれになかったことが直接の理由ではなく、しばしば指摘されているように、その死亡にかかわる経緯からする<鎮魂>のためだろう。
 は、短期間にせよ、実質的に天皇と同じ役割を果たした(とされている)ことによるのだろう。なお、日本書記や古事記ではなく<扶桑略記>では「24代」と明記されているらしい(皇統譜上は23代・顕宗、24代・仁賢)。とすると、日本で最初の「女帝」=「女性天皇」だったことになる。
 なお同じく<扶桑略記>では神功皇后は「15代」とされているらしい(皇統譜上は14代・仲哀、15代・応神)。しかし、神功皇后は、日本書記での記載ぶりを別とすれば、「天皇」と追号されておらず、「~天皇陵」と称されるものも存在しない(この点で4=飯豊天皇と違う)。陵は奈良市内にあるが、あくまで「神功皇后~陵」だ。
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 さて、光格天皇の父・閑院宮典仁がのちに「慶光天皇」と称されたのは、光格が天皇になったためで、上の1や2と同じまたは同類で、「先例」があったと見られるかもしれない。
 しかし、事情は異なる。
 江戸時代には天皇・皇室に天皇就位や継承を決定する自由または自立性はなく、全て幕府の「許可」が必要だった。いったん天皇になった者の父親についての「天皇」または「太上天皇」号の付与についても同じ。
 光格天皇が幕府に願い出たのは実父・典仁についての「太上天皇」尊号の付与で、幕府側はこれを拒否した(いわゆる「尊号一件」という事件)。
 光格天皇が先例として挙げたのは上の1・2ではなかった。この二つは「天皇」号の例だ。
 そして、光格が挙げた先例は「天皇」ではなく、「太上天皇」=「院」号に関する2例だった、とされる(別に書く)。
 藤田覚・江戸時代の天皇/天皇の歴史06(講談社、2011)参照。p.259。
 では誰によっていつ閑院宮典仁に「慶光天皇」号が付与されたかというと、明治維新後に明治天皇(・明治新政府)によってだった。旧幕府と違って、光格天皇による「皇室の権威」を高める努力に応えた、ということかもしれない。
 しかし、「慶光天皇」が歴代の、皇統譜上の天皇の一人とされたわけではない。
 もともと明治期以降の皇統譜では、日本書記等が明らかに無視して天皇在位を否定している大友皇子に「弘文天皇」という諡号を与えて代数をもつ天皇に数えているのだから、明治新政権は、日本書記等をその点では少なくとも全く信用していないことになる。水戸光圀編纂・大日本史等々による歴史「解釈」の影響があったのかもしれないが、現在で「126代」というのも、その意味するところは相当に曖昧であることになるだろう。
 天皇であるための「要件」は何か。あるいは、日本史全体を通して、何だったのか?
 三種の神器の継承のなかった天皇もいた。即位礼や大嘗祭の挙行をしなかった(できなかった)天皇もいた。かりに神武等々を含めて古代の天皇は全て実在だったとしても、「天皇」たることの本質や要件はやはり曖昧なのではないか。
 126代の全天皇が三種の神器の継承をしたわけでも、即位礼や大嘗祭を挙行したわけでもない。といったことも、廬山寺・「慶光天皇」に関連して考える。
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 以下、各段が、岡宮天皇・草壁皇子陵、春日宮天皇・志貴皇子陵、飯豊天皇陵。いずれも、ネット上より。


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1484/日本の保守-櫻井よしこという「ジャーナリスト」①。

 ○ 櫻井よしこは「ジャーナリスト」を自分の肩書きにしているようだ。
 たしかに、歴史家でも思想家でもない(社会思想、経済思想、政治思想、法思想等々のいずれの意味でも思想家ではない)。
 また、学者・研究者だとも言えないだろう。少なくとも、そのような<世俗>の資格を持ってはいなさそうだ。
 もちろん、歴史家、思想家(・哲学者)、研究者などは自称すれば誰でもなりうるのだが、「ジャーナリスト」というのは謙虚であるかもしれない。
 いや、ジャーナリストの何らかの積極的な意味に、誇りを持っているのかもしれない。
 ジャーナリストにもいい意味はあるだろう。
 しかし、ジャーナリストは、多数の情報を入手し、整理し、要領よくまとめて、多くの又は一定範囲の人々に伝搬する者たち、という印象もある。
 櫻井よしこはまさにその印象どおりの人で、例えば週刊新潮の連載でも、「評論家屋山太郎氏によれば…」とか「百地章教授によれば…」とかのインタビー記事か問い合わせへの回答(又は親しい会話)で1/4ほどを埋めたり、何らかの雑誌・新聞記事の紹介で半分ほどを埋めたり、光格天皇や孝明天皇について特定の書物から長々と引用・紹介したりしたうえで、自分の感想・コメントを最後のあたりで(又は冒頭あたりで結論提示しつつ)ごく少なく述べる、ということをしてきている。きっと、週刊ダイアモンドでも同様なのだろう。
 もっとも、その引用・紹介やまとめ方が一見は要領よさそうでも奇妙なこともあるのは、例えば、光格天皇・孝明天皇についても見られる。
 のちに福地重孝・孝明天皇(秋田書店、1974)も入手して見てみたが、この本は「最後の闘いの武器は譲位」という趣旨を第一の主眼点にしているわけではない。また、当時に攘夷(・反幕府)を孝明天皇にも熱心に迫って動いた公家たちの中に岩倉具視がいたこと(福地は明記し、藤田覚は不確実だが推定されるとする)には、櫻井よしこは何ら触れていない。
 紙数、頁数に限りがある、という釈明はできない。限りあるなかで、なぜ一定の、限られた情報しか選択しなかったのか、と問われれば、答えに窮するのではないか。
 ○ 「国家」の「基本問題」を「研究」する国家基本問題研究所という(任意・私的)団体の理事長は、櫻井よしこだ。
 「ジャーナリスト」にすぎない、あるいは思想家・歴史家でも研究者でもない、あるいは常識的意味では「政治家」でもない櫻井よしこを、なぜ役員の方々は理事長に戴いているのだろうか。
 あるいはその人々はなぜ、櫻井よしこが呼びかけた団体に喜んで?加入して、役員として名を連ねているのだろうか。
 二つめの○の第一文の内容はすでに、日本の「保守」の現況がいかに悲惨なものであるかを、かつまた日本国民に、決して良い影響を(少なくとも長期的には)与えないだろうことを、十分に示唆している。
 さすがに、敬愛する?西尾幹二や中西輝政は、この団体と少なくとも形式上の関係はなさそうだ。
 しかし、役員の方々の名前を見ていると、じつに興味深いことも分かる。

1465/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」つづき②のD。

○ 櫻井よしこ・週刊新潮2/16号の見出しは、「4代前の孝明天皇、闘いの武器は譲位」だ。
 そして櫻井は、光格天皇の「社会的遺産」を継承した「孫帝の孝明天皇」との言い方もし、強い意思の天皇だった旨も書いている。
 しかし、光格天皇のようには称えず、福地重孝・孝明天皇(秋田書店)によりつつ、孝明天皇が「天皇の幕府に対する最大最後の抵抗である」「退位」を示唆したとし、「このような歴史もまた、振りかえらざるを得ないのではないだろうか」、とまとめている。
 櫻井よしこは、これでいったい何を言いたいのだろうか。のんびりと、歴史を振り返る必要を指摘することくらいは、誰でもできる。。
 あるいは、天皇の「譲位」・退位の意思表示は世の中を混乱させる大変なことだ、と示唆したいのだろうか。
 ○ 櫻井よしこの記述の仕方には、奇妙なあるいは面白い側面がある。つまり、自分の強い意思をもち、能動的に行動するだけでは、天皇を肯定的には評価しないのだ。
 孝明天皇については、「開国反対の余り、天皇は幕府の考えに一切、耳を貸そうとしなかった」と断定し、「開国こそ生きる道だと説く堀田の主張は正論」だと、(後から見ての)価値評価を下している。そして、たんに<譲位は最後の抵抗手段>だという、この稿のまとめへと進んでいる。
 このような歴史理解は、櫻井よしこらしく、単純すぎる。つまり、孝明天皇は最後まで<開国反対=攘夷>に執着していたのではない。
 また、<開国>が進歩的で、<攘夷>は遅れていたという、のちの<薩長史観>に嵌まったままであることも、櫻井は吐露している。
 孝明天皇にはのちには、すでに記したα・攘夷とβ・開国という政策判断よりもむしろ、C・幕府中心体制でもA・天皇中心体制でもなく、両者が意思疎通しながらB・天皇・幕府協力体制を築いていくことを志向していた、と思われる。軍事力の差が歴然となってからは、開国せざるをえないという判断に至ったものと思われる(長州派も、いつのまにか?、開国派へと変身している)。
 それが長州・薩摩派や「過激」公家たちの路線と違ったのはなぜか。
 それは、彼らは、のちに王政復古維新をした明治新政府から旧幕府側人材(当面は)、とりわけ徳川家を除外する、という強い意思をもっていたからだ(ex.倒幕の密勅、対幕府戦争)。
 この点にこそ、のちの新政府側と孝明天皇側の、決定的な違いがあった。幕府排除・解体しての天皇中心体制か、「公武合体」体制か。孝明天皇がもっと存命であれば、歴史の展開は相当に変わっていただろうことは、しばしば指摘されている。
 以上は簡単な叙述で意を尽くした十分なものではないが、少なくとも、<開国・正、開国反対・邪>、孝明天皇は後者という、櫻井よしこのより単純な理解よりは、より適確だと思われる(櫻井よしこはもっと関係文献を読む必要がある)。
 ○ 櫻井よしこは、後から見ての特定の<勝利者史観>にもとづいて、孝明天皇を高くは評価できないと考えていることが明らかだろう。
 では、櫻井が中心に置いている<闘いの最後の武器は譲位>というのは、孝徳天皇について語るときに、適切な取り上げ方なのだろうか。いや、違う。
 レーニンは、反対者が自分に賛成してくれない場合に賛成を余儀なくさせる最後の手段として、しばしば<オレは辞めるぞ>と言ったと、R・パイプスは書いていた。
 相手を屈服させる、あるいは自分に不本意ながらも同意させるために、そんなことを言うならば、俺は辞めるぞ、それでよいのか、というのは、時代や国を問わずして、今日の日本でも十分にありうる。櫻井よしこは、人間の心理・感情・精神状態というものに知悉した人物なのだろうか。
 櫻井が用いてるのと同じ筆者の書物、藤田覚・江戸時代の天皇(天皇の歴史06、講談社、2011)には、ずばり、つぎの文章がある。1858年、井伊直弼大老就任のあと、「安政の大獄」の直前のことだ。通商条約調印強行の「報告」だけ受けての、孝明天皇。
 6月28日、朝廷公家に対して<退位とのちの明治天皇への譲位>の意思表示をした。幕府の措置に怒り「抗議のために譲位」表明するのは後水尾天皇(1600年代前半在位、幕府による禁中・公家諸法度制定などがあった)以来のこと。
 「天皇は、難局から判断不能に陥り、天皇位を投げ出したともとれるが、譲位の意思表示によって決意のほどを示そうとしたのだろう。/
 ここで重要なことは、孝明天皇は、逆鱗したとはいえ、あくまでも幕府への政務委任と朝幕融和(公武合体)という原則、江戸時代の朝廷の幕府の枠組みを大事にしていることである」。p.315。
 どういう研究者かの詳細を知らない藤田覚の言述をすべて信頼しているわけでは全くない。しかし、櫻井よしこのように単純に歴史や歴史的人物を理解して評価してはいけないこと、<譲位表明は最後の武器>という認識自体が誤っていること、を示しているだろう。
 ○ このような、何かに<取り憑かれた>ような、歴史については中学生少女レベルの人物が、日本や天皇の歴史について何を書いても、言っても、信用することはできない。その天皇譲位問題についての見解の基礎にある歴史観もまた、単純で、「観念論」的な、誤ったものである可能性がすこぶる高いわけだ。

1454/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」のつづき②のC。

 ○ 司馬遼太郎は、もともとは観念的思考、イデオロギーといったものを忌避するタイプの人物だっただろう。産経新聞社で最初に赴任した京都で、担当範囲にあった当時の大学の「左翼」的雰囲気に<染まる>ことがなかったのは、そういう<気質>があったからだと思われる。
 彼は、のちにたしか「純度の高い」概念・観念という言い方をしていた。ともあれ、抽象化又は単純化の程度の高い思考にはついていけない旨も書いていた。
 三島由紀夫の自裁に際して、司馬がかなり冷静な又は冷淡な感想を寄せたのは、そのような<気質>によるものだっただろう。司馬は、「狂信」というものが好みではなかった。
 三島は一方、明らかに「観念」で生きていた、あるいは、ついには「観念」に生命を捧げてしまった。守るべきは日本だ、というとき、当然に「天皇」も含んでいたに違いないが、その「天皇」は日本国憲法下での「象徴天皇」ではなく、彼が思い描き、観念した「天皇」だっただろう。
 しかし一方で、三島が憲法・法制に関するきちんとした知識をもっていたことも間違いない。「継受法」という概念も知っていた。また、その見識によってもいるのだろうが、彼の日本の現状認識、将来予測は、じつに鋭く、適確なものだった。この点には、この欄でいく度か触れた。
 元に戻ると司馬遼太郎は、京都での担当範囲の中に寺社廻りもあったために関心を持ち始めたのか、『空海の風景』(1975)では抽象的な仏教思想・仏教教義にも踏み込み、晩年とものちには言える時期には、土地の価格の高騰の時代を背景にして、かなり観念的で単純な世相批判も行っていた(土地問題について)。また、彼の日本軍国主義批判は、皮膚感覚的体験にも由来する一面的でかつ観念的なものだった可能性もある。
 とりとめなく書いていて、三島や司馬について何らかの結論的示唆を述べようとするものではない。
 「右」の全体主義は、伝統を「純化」しようとする、とか仲正昌樹は述べていたが、「純化」の程度が高いということは、「純度が高い」ということだ。
 「純度が高い」思考者を一概に非難することはできない。三島由紀夫もまた、その思考・「観念」が現実の世界では採用されないことを知った上で、つまりその「観念」あるいは「理念」・「理想」が<現実化>することはないという確実なまたは決定的な見通しをもって、1970年11月の行動に出たのだろう。そのような残酷な予測と自らの生命はいずれ不可避的に消滅せざるをえないという個体としての人間の限界の意識、この二つが、狂気ともされた行動への衝動になったかと思われる。
 そして、そのような三島をとくに批判しようとは思わない。いろいろな人間がある。仲間の数人以外には三島は誰も殺さなかった。三島由紀夫は、テロリストではない。そして、「美しい観念」を抱いて、それに殉じることができた。なかなか幸福な人物だった、とすら思える。
 ○ このような三島の「観念」世界に比べると、最近の日本の「観念保守」には、日本を貫き通すような強度や凄みはなさそうだ。
 櫻井よしこの、昨年11月の「専門家」ヒアリングでの発言内容を、遅まきながら、読んだ。
 やはり、この人は(も)、アホだ。というよりも、日本の「保守」というものの、きわめて深刻な精神的頽廃を感じる。
 この点にさっそく入っていきたいが、予定どおり、週刊新潮誌上の、櫻井記述に、あらためて以下に、言及する。
 櫻井よしこ・週刊新潮2/9号を見てみると、つぎの一文が印象的だ。書いていないことに注目すべきとか前回に書いたが、はっきりと書いていることにも明らかな誤り・問題点がある。
 光格天皇の具体的な言動を肯定的に紹介するのはよいとしても、以下のような櫻井よしこのまとめには、反対せざるをえない。
 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」
 第一に、明治維新等に関する叙述を、こんな二文ほどで終えてしまっていることに唖然とする。以下で指摘することも含めてだが、櫻井よしこは、日本の中学生レベルの日本史知識・明治維新に関する知識しかない、と思われる。
 くり返すが、本当に唖然とする。このレベルの人が、「保守」論壇のリーダー ?、情けなくて、涙が出そうだ。
 第二に、天皇の権威のもとで団結して「明治維新の危機を乗り越え」、「列強の植民地」化を防げた、というのは、それが天皇・皇室の権威-明治維新-植民地化阻止、という趣旨であるなら、それは前回にも述べた<明治維新よかった>史観だ、あるいは<薩長・勝利者史観>だ。あるいはそこに天皇・皇室の権威を媒介させているので、明治維新の源に「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識」があったと明言しているように、<天皇のおかげ史観>だ。櫻井が明治天皇を高く評価するのも分かる。
 家近良樹・江戸幕府崩壊-孝明天皇と「一会桑」(講談社学術文庫、2014、原著2002)は、最初の方(第2章の冒頭あたり)で、櫻井よしこのような史観を、同じ趣旨で、「王政復古史観」、「西南諸藩倒幕派史観」、「天皇制維新史観」と呼んでいる。
 また、戦前におけるこの史観の誕生と国民的確定 ?には、明治政府が「王政復古(戊辰戦争)の意義を確定」すべく1889年に刊行した、<復古記>という書物・全15冊や、戦前昭和の政府が1939-41年に「官製維新史の集大成」として刊行した<維新史>があった、としている。
 子細には立ち入らない。櫻井よしこの明治維新史イメージは、この、明治期や戦前期に当時の、「西南雄藩倒幕派」(とくに薩長両藩)やその後裔者たちが中心の政府によって作られたものと同じだ、とほぼ断定できるだろう。
 ○ 学者・研究者になれ、とは言わない。しかし、素人の秋月ですら、櫻井よしこが抱く明治維新、そして当時の天皇に関するイメージには疑問をもつ。少なくとも、そんなに簡単には言えない、と批判することができる。
 素人の見方を、少し提示してみよう。
 認識・理解そして議論の対象は、大きく、体制・政治の基本的仕組みと、政策目標とに分けることができる。
 前者には、大きく、A・天皇(・皇室)中心体制、B・天皇/幕府協力体制、C・幕府(・将軍)中心体制の三つがある。
 後者には、大きく、α・攘夷=鎖国と、β・開国(・開港)とがある。
 江戸時代は長らく、Cかつαだった。
 光格天皇の力もあったのだろうか、孝明天皇の時代に、幕府は対米通商条約について「勅許」を求める(1856年、前回に天皇側が主張したとしたのは正確でない)。幕府はβへと政策変更し、かつ部分的にはBに近づいた。天皇の力=権威 ?を借りて政策変更を諸大名にも認めさせようとした。条約の法的実施が天皇の判断に依存しているとすると、この時点で、天皇は「権力」の一部をもつに至った。画期的なことだ。
 しかし、孝明天皇は1857年2月の時点で、「勅許」を出さない。許可・認可の申請を拒否したか、又は「お預かり」にしたようなものだ。天皇・朝廷の一存で、条約の現実化ができない事態となる。この時点で、天皇・皇室はれっきとした「権力」機構の一部になっている。たんなる「権威」ではない。
 以上は、A~Cやα・βの区別はむろん私の思いつきだが、櫻井よしこも引用していたのと同じ著者の、藤田覚・江戸時代の天皇(天皇の歴史06、講談社、2011)を見ながら書いた。
 とりあえずここで区切る。大切なのは、この時点で、あるいは1866年、1867年の途中までですら、旧幕府を除外した新政権、つまりAの天皇中心体制ができるとは、ほとんど誰も予想していなかったことだ。いくつかの時点で、この当時、さまざまな歴史の選択がありえた。B(いわば公武合体路線)による、緩やかな開国と変革(と「富国強兵」 ?)および植民地化阻止もありえた、と考えている。
 薩長両藩等が新天皇(明治天皇)を中心にしてまとまり勝利した、明治維新がなされた、頑迷・旧態依然たる幕府時代と訣別して新しくよき明治時代になったという、後から見ての評価を、櫻井よしこのように簡単に下してはならない。
 ○ 櫻井よしこのような、<明治はよかった>史観は、明治時代である1889年の旧皇室典範の内容、終身在位制は素晴らしかった、という単純な理解と主張につながっている可能性がすこぶる高い。だからこそ、孝明天皇、明治維新、明治国家等の検討を私なりに試みている。

1452/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」のつづき②のB。

 ○広く日本史について素人としての関心はある。明治維新とか明治憲法とか明治の「元勲」たちということになると、かつて、ソウル・南山の西側中腹あたりにあった、安重根記念館を訪れたことを思い出す(タクシーで一人で行き、帰りはソウル駅近くまで歩いて降りた)。
 安重根は伊藤博文射殺犯で(1909年)、若き「愛国」テロリストふうかと想像していたが、記念館での展示物を見ていて、教育者であり知識人の一人だったと知った(筆字も達筆だ)。
 おそらくそのときか、日本への帰国直後だが、安重根は伊藤に対する「斬奸状」(にあたるもの)を書いていて、その中に、日本の天皇を弑虐した「罪」を挙げていたことも知った。それは、伊藤が、当時の天皇(明治天皇)の「ご父君」、つまり孝明天皇を殺害した、というものだった。
 朝鮮の人からすれば伊藤という「元勲」と日本の天皇・皇室との関係など本来は関心はないはずだが(日本の天皇のことを気にかける必要はないはずだが)、と思ったりしたが、それ以上の追究は当時はしなかった。しかし、伊藤博文と天皇殺害という関連だけでも、印象に残りつづけたのは確かだ。
 ○あらためて近年に読書渉猟をしていると、孝明天皇は皇女和宮の兄で明治天皇の父親・先代(これらはかつての知識の中にあったと思う)、そしてその当時は傍流だった光格天皇の孫。幕末の天皇で、明治改元直前に死亡していることが確認できる。
 そして、これが上の安重根にも関連するが、孝明天皇の(突然の発症による)死には、徳川幕府に対抗する薩長一派側の意向が働いており、孝明天皇の(その時点で)対幕府融和的な姿勢(「公武合体」方針)を「邪魔」・「有害」だと判断した者たちが、最終的には(直接に手をかけた訳ではむろんないが)朝廷内に関係者がいた岩倉具視が、天皇殺害を命令した、という<噂>があったらしい。
 <噂>がそれらしく思われていたらしいことは、上の安重根の記憶又は認識でも明らかだろう。岩倉具視であれば、まだ若い伊藤(周旋屋だともされた)は明治維新前はさほどの接触はなかっおたかもしれないが、のちに何かを知った可能性はないではない。伊藤から見ればとんだヌレギヌかもしれないのだが、朝鮮半島の人までその少なくとも<噂>を知っていたというのは、驚きの事実だろう。
 一番最近に見たからこそ記せるが、歴史小説を三つ集めた松浦行真・激流百年(サンケイ新聞社、1969)の中の一篇「洛北の虹・岩倉具視」の最後・末尾には、あくまで歴史小説だが、つぎの趣旨の文章がある。
 明治天皇が危篤の岩倉具視を慌てて見舞った、その岩倉の国葬への参列公家衆の一部から、「お上(明治帝)は親のかたきの死に目を見にゆかれた」という「ささやきが聞かれた」。「あの孝明帝の死にまつわるくらい風貌…」。
p.174。
 他にも、歴史小説家・中村彰彦の、学者を超えるかもしれない<推理>(岩倉による暗殺の肯定の方向。小説ではない)を読み終えている。
 ○ところで、光格天皇は(本流の皇嗣ではなかったためもあってか)天皇・皇室・朝廷の「権威」の回復に努めた江戸期には珍しい人物であるらしい。
 櫻井よしこもまた、立派な天皇(の一人)だった旨を、とくに記している。すなわち、同・週刊新潮2017年2/9号のコラム欄は、全体を光格天皇を讃える内容で埋めている。引用はしない。今のところ生前譲位の最後の天皇らしいことと関連させて、皇室改革をし、天皇の権威=「皇威」を高めようとする「強い皇統意識」のもち主だった、という。
 ここでただちに疑問が生じる。孝明天皇は光格天皇の直系の孫で、櫻井よしこが<明治天皇を「中心にして」近代明治日本を建国した>、と褒め称える明治天皇の実の父親だ。
 なお、この「明治天皇を中心にして」という部分は、櫻井よしこ・日本の息吹2017年2月号(日本会議)の文章の中で使われているはずだ。
 そしてまた、孝明天皇は、天皇にしてはきわめて珍しく、武家政権(徳川・江戸幕府)に対してモノを言い、反抗もしている。
 条約(対米通商条約)締結には「勅許」が必要だと、主張したのだ。外交権の行使に天皇の同意がいるとすれば(形式的・儀礼的ならばともかく)、これは立派な「権力」(の一部)に他ならない。もはや「権威」なるものを超えすらしている。
 いや、これ自体が当時の朝廷内の<反幕府>一派が誘導した可能性はあるが、しかし、孝明天皇はどうやら個人としても<攘夷>を(少なくとも当初は)貫きたかったかに見える。
 変節が著しいともいえる薩長一派は、最初は<尊皇攘夷>を掲げて、<開国>方針の徳川・江戸幕府側(例えば井伊直弼)をイジメていたのだ。その返礼として、吉田松陰はタイミングが悪くて刑死になってもいる。この当時は、孝明天皇も<邪魔>ではなかったに違いない。
 孝明天皇とは、じつに、天皇の「権威」を体現しようとした人物だったのではないか。践祚の際に16歳だった明治天皇よりもはるかに、またその後の明治天皇と比べても、<意思>・<肉声>らしきものが感じられる。
 しかるに、櫻井よしこが、光格天皇と明治天皇に皇室の権威という観点から肯定的に言及はしても、孝明天皇に同様の趣旨で触れないのはなぜか。同様の趣旨で肯定的に評価しようとしないのはなぜか。
 櫻井よしこは、藤田覚・幕末の天皇(講談社学術文庫、2013/原著1994)に依拠して、上の週刊新潮で多くのことを引用、紹介している。
 藤田覚の上の著は、しかし、孝明天皇についても多く触れている。半分ほどは孝明についての書物だ。
 そして藤田は冒頭で、つぎのようにも述べて導入している。
 「なかでも孝明天皇は、…国家の岐路に立ったとき、頑固なまでに通商条約に反対し、尊皇攘夷を主張しつづけた。それにより、尊皇攘夷、民族意識の膨大なエネルギー、を吸収し、政治的カリスマとなった」。p.9。
 櫻井よしこがとくに取り上げた光格天皇との関係についても、冒頭部で、つぎのように書く。
 光格天皇の「皇統意識、君主意識は、孫の孝明天皇に引きつがれ、それをバックボーンとして開国・開港という未曾有の危機にあたり、頑固なまでに…鎖国攘夷を主張した」。p.11。
 ちなみに、藤田作だという冒頭の川柳は、ゴロがよいように秋月が少し変えると、以下のようになる。
 <光格がこね、孝明がつきし王政餅、食らうは明治大天皇>。p.9参照。
 かくのごとく、櫻井が依拠し引用している藤田覚著には、たっぷりと孝明天皇も登場するのだ。
 そして、櫻井は、同・週刊新潮の2/16号では、藤田著等によりつつ、孝明天皇に論及している。
 しかし、その扱いは、光格の場合とまるで異なる。<皇威>という観点から孝明天皇を肯定的に紹介する論調では全くない。
 もう一度書こう。櫻井よしこが、光格天皇や明治天皇に皇室の権威を高めたという観点から肯定的に言及しながら、孝明天皇についてはその点はいっさい無視して、称賛していないのはなぜか。孝明天皇も、まさに<皇威>を実際に高めた立派な人物だったとなぜ肯定的に評価しないのか。
 結論は、はっきりしている。
 <薩長史観>を前提とした、戦前に主流の<史観>を持っているからだろう。
 光格はともかく、孝明天皇は、明治新政府登場までに亡くなった、薩長側に対する<敗者>の側の天皇だったのだ。
 歴史は勝者が作る、あるいは描く、ともいう。現在の日本で主流の<史観>も、戦争勝利者であるアメリカらの「連合国」が形成した、とおそらく言えるだろう(「東京裁判史観」という、渡部昇一が好んで用いているらしき概念は、狭すぎる)。
 戦後主流の<史観>を持ちたくないからといって、-「皇国史観」と言ってしまうのは語弊があるかもしれないが、-戦前の日本にあった<薩長中心史観>、つまり明治維新・開国・近代日本の建設をほとんど全面的に<良かった>ものと理解する史観に立つのは、既述のように、たんなる<裏返し>にすぎず、歴史を冷静には見ていない、と考えられる。
 要するに、櫻井よしこの歴史観・歴史認識も、最近の文章ではかなりの程度、「観念」論であり、「政治的」色彩を帯びているのだ。そしてまた、櫻井よしこの天皇譲位反対論も、この「政治的」・「観念的」歴史観に多分に依拠している、と言えるだろう。
 櫻井よしこのような歴史家・歴史研究者ではない者が(私・秋月ごときがこうした欄で何を書いても許されるかもしれないが)、活字となって広く読まれる可能性がある文章の中で、単純すぎる「政治的」・「観念」論を表明しないでいただきたい。読者は、櫻井よしこらが書いていないこと、言及していないことに、むしろ注目する必要がある。
 週刊新潮での櫻井よしこには、同じ趣旨でたぶんもう一回触れる。
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