秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

藤岡信勝

2668/西尾幹二批判071—全集第8巻②。

 西尾幹二全集第8巻(2013)の「後記」の第一頁(p.787)には、前回に触れたいくつかの点以外に、注目を惹く文章がある。
 第一に、1980-90年の約10年、「思想家としても、行動家としても、限界までやったという思いももちろんないではない」、とある。
 これは2013年時点の感慨なのか、1990年初頭にすでに抱いたものなのかは明確ではない。
 しかし、少なくとも2013年の時点ですでに、自らのことを「思想家」かつ「行動家」だと書いている。
 秋月瑛二は、2019年1月の文春オンライン上で(私には)「『日本から見た世界史の中におかれた日本史』の記述を目指し、明治以来の日本史の革新を目ざす思想家」としての思いがある(だから椛島有三と妥協できなかった)と語った部分が、最初かと思っていた。
 2013年に、何の限定も付けずに、かつ自らの文章で「思想家」(かつ「行動家」)と称していたのだ。
 なお、いつの時点であれ、西尾を本当に「思想家」だと見なしている人は何人いるのだろうか。
 ——
 第二に、「人生で一番よいものの書ける、体力もある充実した歳月に私は教育改革のテーマに集中していた」約10年が経った後について、こうある。一文ずつ改行する。
 「フッと憑きものが落ちたかのように、この世界から離れてしまった。
 そのあと二度とこの種の教育論は書いていない
 日本の教育の行方に絶望したからだともいえるし、教育を考えること自体に飽きたからともいえる。」
 これは、じつに驚くべき文章だ。1990年前半での述懐ならばまだ分かる。
 しかし、西尾幹二はその後、「教育学」研究者の藤岡信勝と出会い、1996-1997年に〈新しい歴史教科書をつくる会〉を設立し(記者会見は1996年12月)、自分が「初代会長」になったのではないか。
 この「つくる会」とその運動は、名称上も「歴史教科書」に関係するもので、日本の「歴史教育」を正面から問題にしていたのではないか。当然に、「教育改革」と関連する。
 それにもかかわらず、いかに「会」とは直接の関係がなくなっていたとは言え、2013年に、1990年初頭以降は「日本の教育の行方に絶望した」または「教育を考えること自体に飽きた」、という旨(こうとしか読めない)を書けるとは、いったいどういう<神経>のもち主なのだろうか。
 この人にとっては、「教科書」も「教育」も大した問題ではなく、これらとは別の次元の「思想」・「精神」または「歴史哲学」に、あるいは自分が「会長」として目立っていて〈有名〉であることに、最も大きな関心があったのかもしれない。
 ——
 第三に、「人生の重要な時間を費やした貴重な体験からもパッと離れ、たちまち遠くなってしまう」ことについて、こうある。
 「ある意味で悪い癖で、私は感動だけを求めていて、これはその後の人生でも繰り返されたパターンである」。
 これは、西尾が「その後の人生」や自己の「癖」について語っていて、興味深い文章だ。
 そして、最も気になる重要な言葉は、「私は感動だけを求めてい」た、という部分だと思われる。
 西尾がそれだけを求めていた(その後でもそうだったとする)「感動」とは何か
 「真実」でも、「正義」でもない、「感動」だ。
 この「感動」は、教育改革に自分の見解が採用された、それに影響を与えた、というものではないだろう。
 そして、教育改革(そのための「臨教審」・「中教審」答申等)をめぐって(当時は2013年時点よりも多様な全国紙を含む)諸情報媒体から、西尾幹二個人の発言または原稿執筆が求められ、西尾の名前が知られ、注目され、〈有名になった〉こと、これこそがこの人にとっての「感動」であったように思われる。
 すでにこの欄に書いたことだが、「真実」、「正義」、「合理」性は、西尾幹二が追求してきたものではない〈有名〉・〈高名〉な「えらい人」と多数の人々に認知されるという「陶酔感」、「感動」を得ることこそが、この人が追求してきた最大の価値だった、と考えられる。
 もちろん、そうした「願望」が実現されたかは、別の問題になる。
 ——
 つづく。

1994/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題④。

 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)所収の同「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」初出/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。
 西尾幹二、71歳の年。上掲書の一部。p.77~。いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>に関して。
 ③のつづき。直接の引用には、明確に「」を付す。原文とは異なり、読み易さを考慮して、ほぼ一文ごとに改行している。
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 2006年4月30日「理事会」での鈴木尚之「演説」の、西尾幹二による「一部」引用。これをさらに秋月によって「一部」引用する。
 ***
 ・「西尾先生宅に送られた4通の怪メール(FAX)」の「一通〔往復私信〕は私が八木さんに渡したものである。
 もう一通〔怪文書〕は、3月28日の理事会に出席していなければ絶対に書けない内容のものであり、4通はすべて関連している内容のものである。
 八木さんは<諸君!>で『私のあずかり知らないことである』ととぼけているが、そんなことで言い逃れできるはずがない。
 これもまた、八木さんの保守派言論人としての生命に関わることである。」
 ・2006年4月4日午後2時に「私と会った産経新聞の渡部記者は、『鈴木さん、申し訳ありません』と」「謝り、『とにかく謀略はいけません、謀略はいけません。八木・宮崎にもう謀略は止めようと言ったので、もう謀略はありませんから……〔……は西尾による引用原文ママ-秋月〕。私は、産経新聞を首になるかもしれない』と言ったのである」。
 ・この産経新聞の渡部記者は「同じことを藤岡さんにも言った」とのことがのちに明らかになり、「このことを知って私は、八木さんに『産経の記者があなたにどんな話をしているのかわからないが、藤岡さんに話したことと同じことを私にも言っているのだから、これはもう重大なことですよ。最悪のことを考えて対処しないと大変なことになりますよ。とにかく記者は顔色をなくして私にこう言ったのだから。謀略はいけない、謀略はいけないと』。
 そのとき八木さんは、『謀略文書をつくったのは産経の渡部君のくせに……〔……は西尾による引用原文ママ-秋月〕。彼は、1通、いや2通つくった。これは出来がいいとか言ってニヤニヤしていたんだから……〔……は西尾による引用原文ママ-秋月〕』とつぶやいたのである」。
 ・「以上のことは、4月30日の理事会で、特別の許可を得て私がした報告の内容である」。
 「八木さんを糾弾するために言ったのではない。
 八木さんが、このような『禁じ手』を使ってしまったことを反省し謝罪しないかぎり、八木さんに保守派言論人としての未来はないという危機感を持ったから」だった。
 「それでも八木さんは、謝罪することなく、『つくる会』を去って行った」。
 ***
 (以下は、西尾幹二自身の文章-秋月。)
 ・「この鈴木氏の手記から見ても、怪文書事件には八木、宮崎、渡部の三氏が関与していた疑いを拭い去ることができない(渡部記者は新田均氏のブログにこの証言への反論を載せている)」。
 「八木氏が、もしこれを『私はやっていない』『他の人がやったのだ』と言いつづけ、与り知らないことで嫌疑をかけられることには『憤りを覚える』などと言い募るとすれば」、…と同じ「盗人猛々しい破廉恥漢ということになる」。
 ・付言しておくと、「怪文書事件のほんとうの被害者は私ではなく、藤岡信勝氏である」。
 「公安調査庁の正式の文書を装って」、氏の経歴の偽造、日本共産党離党時期の10年遅らせ等の文書が「判別した限りで6種類も、各方面にファクス」で送られた。
 理事たちは「本人に聞き質すまで」混乱して疑心暗鬼に陥った。しかも氏の「義父を侮辱する新聞記事」まで登場して「私の家にも」送られた。「はなはだしい名誉毀損であり、攪乱工作である」。
 ・「現代は礼節ある紳士面の悖徳漢が罷り通る時代」だ。「高学歴でもあり、専門職において能力もある人々が」社会的善悪の「区別の基本」を知らない。
 「自分が自分でなくなるようなことをして、…その自覚がまるでない性格障害者がむしろ増えている」。
 「直観が言葉に乖離している」。「体験と表現が剥離している」。「直観、ものを正しく見ることと無関係に、言葉だけが勝手にふくれ上って増殖している」。「私が性格障害者と呼ぶのはこうした言葉に支配されて、言葉は達者だが、言葉を失っている人々」だ。
 ・「私は八木秀次氏にも一つの典型を見る。
 他人に対しまだ平生の挨拶がきちんと出来ない幼さ、カッコ良がっているだけで真の意味の『言論力の不在』、表現力は一見してあるように見えるが、心眼が欠けている。
 言葉の向こうから語り掛けてくるもの、言葉を超えて、そこにいる人間がしかと何かを伝えている確かな存在感、この人にはそれがまるでない。」
 ・「そういう人だから簡単に怪文書、怪メールに手を出す。
 今度の件で保守言論運動を薄汚くした彼の罪はきわめて大きい。
 言論思想界がこの儘彼を容認するとすれば、…を難詰する資格はない」。
 ・「それなのに八木氏らをかついで『日本再生機構』とやらを立ち上げる人々がいると聞いて、…ほどに閑と財を持て余している世の人々の度量の宏さには、ただ驚嘆措く能わざるものがある。」
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 見出しなしの最初の段落のあとの、<怪文書を送信したのは誰か>につづく<言葉を失った人々>という見出しのあとの段落が終わり。つづける。

1985/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題③。

 記録しておく価値があるだろう。
 西尾幹二「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)所収-初/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。
 西尾幹二、71歳の年。上掲書の一部。p.77~。
 いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>に関して。
 ②のつづき。直接の引用には、明確に「」を付す。原文とは異なり、読み易さを考慮して、ほぼ一文ごとに改行している。 
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 ・「謀略好きの人間と付き合っていると身に何が起こるか分らない薄気味悪い話である。」/この一文は前回②と重複。
 *以下の第三節に当たるものの見出しは「怪文書を送信したのは誰か」(秋月)。
 ・「まさか、と人は思うかもしれないが、恐るべき巧妙な仕掛けがもうひとつあった」。
 「怪文書中の『藤岡は<私は西尾から煽動メールを受け取ったが反論した>と証拠資料を配りました』における『証拠資料』は理事会には勿論配られなかったが、私の自宅には件の怪文書と同時に送られて来ていた」。
 ・「『証拠資料』とは私と藤岡氏との間に2月3日に交された『往復私信』である。
 私は会の事務局長代行の鈴木尚之氏のことを取り上げ、『鈴木氏はあなたの味方ではないですよ』『あなたは会長になるのをためらってはいけない』の主旨のファクスを送り、その紙の空白に藤岡氏が『鈴木氏は自分の味方である』『自分は会長になる意志はない』と簡単に反対意見を記した返信を再びファクスで送ってきた」。
 この『往復私信』は私と藤岡氏しか知らないはずである。
 ところが、怪文書の作成者はこれを知っているどころか所有している。
 しかも怪文書とともにこれを私に送りつけてきた。」
 ・「私はギョッと一瞬たじろぐほど驚いた。
 一体怪文書の作成者は何者で、藤岡氏からどうしてこの私信が渡ったのか。」
 ・「私は早速藤岡氏に問い質したところ、『鈴木氏は自分の味方である』という個所を読ませたくて、鈴木氏に渡したというのである。
 一方、鈴木氏は藤岡氏に会長を狙う意志がないことを示して安心させるために、ここだけのこととして八木氏に渡した。」
 ・「その際、誰にも渡らないように、ほかの人に渡すとすぐに八木氏からのだと分る印がつけてあるから、と注意して渡した。
 他への流出を恐れて渡されたこの『印がついた西尾藤岡往復私信』がなんと不用意にも、『証拠資料』として怪文書と一緒に、私の自宅に送られてきたのだ。
 とすれば、『福地はあなたにニセ情報を流しています。…、小泉も承知です。岡崎久彦も噛んでいます。CIAも動いています』の例の怪文書の送り主はほかでもない、八木氏その人だということになる。」
 ・「この間に起こった鈴木氏のあせりや問い合わせ、八木氏の電話のたじろぎ、沈黙などはいま全部省略する。
 印があることが確認された三度目の電話で八木氏はやっと認め、謝り、犯人は自分ではない、新田氏に転送したと逃げたのである。」
 ・「この間のいきさつは『SAPIO』(6月14日号)にも書いたが、ここでは新情報として4月30日の理事会で当の鈴木氏が行った長い演説を後日まとめた手記の一部を紹介する。鈴木氏は次のように語っている。」
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 さらにつづける。

1662/藤岡信勝・汚辱の近現代史(1996.10)。

 藤岡信勝・汚辱の近現代史(徳間書店、1996.10)。
 この本の一部、「自由主義史観とは何か-自虐的な歴史観の呪縛を解く」原/諸君!1996年4月号。
 この本自体は、<つくる会>発足直前に出版されている。この会とも関連してよく読まれたかもしれない(読んだ自信はないが、かつて読んだかもしれない)。
 計わずか11頁。半分ほどは、教科書を問題にする中で、明治維新、ロシア革命、「冷戦」に触れつつ日本共産党の歴史観・コミンテルンの歴史観を叙述する。そして言う。
 「アメリカの国家利益を反映する『東京裁判史観』と、ソ連の国家利益に由来する『コミンテルン史観』が『日本国家の否定』という共通項を媒介にして合体し、それが戦後歴史教育の原型を形づくった」。p.77。
 間違っているとは思えない。
 むしろ、つぎの点で優れている。
 戦後歴史教育の原型、つまり戦後の支配的歴史観を<東京裁判史観+コミンテルン史観>と明記していること、つまり、前者に限っていないことだ。
 「諸悪の根源は東京裁判史観だ」と何気なく、あるいは衒いもなく言ってのけた人もいた。
 慣れ親しんだかもしれないが、この欄で既述のとおり、こういう表現の仕方は、占領・東京裁判にのみ焦点を当て、実際上単独占領であったことからアメリカの戦後すぐの歴史観のみを悪玉に据える悪弊がある。
 つまりは、より遡って、少なくとも<連合国史観>とでも言うべきであり、ソ連・スターリン体制がもった歴史観も含めるべきなのだ。
 アメリカに対する<ルサンチマン>(・怨念)だけを基礎にしてはいけない。
 その観点からして、東京裁判史観とは別に<コミンテルン史観>を挙げているのは適確だと思える。
 <東京裁判史観+コミンテルン史観>とは何か。
 藤岡信勝から離れて言うが、先の大戦(第二次大戦)を、基本的には、<民主主義対ファシズム>の闘いとして捉える歴史観だ。
 そして、ここでの<民主主義>の側にソ連・共産主義もまた含めるところが、この考え方のミソだ。
 つまりは秋月瑛二のいう、諸相・諸層等の対立・矛盾の第一の段階の、克服されるべき<民主主義対ファシズム>という対立軸で世界・社会・国家を把握しようとする過った<歴史観>・<世界観>だ。
 これこそが、フランソワ・フュレやE・ノルテも指弾し続けた、<容コミュニズム>の歴史観だ。
 これの克服で終わり、というわけではないが、この次元・層でのみ思考している日本国民・論者等々は数多い。<民主主義>を謳う日本共産党も、巧妙にこれを利用している
 <東京裁判史観>とだけ称するのは、この点を隠蔽する弊害があるだろう。
 そのような<保守>論者は、民主主義に隠れた共産主義を助けている可能性がある。
 離れたが、つぎに、「自由主義史観」という概念について。
 いつかこれが「反共産主義」史観という意味なら結構なことだと書いたが、正確には同じではないようだ。しかし、大きく異なっているわけでもないだろう。藤岡信勝いわく。
 ①「健康なナショナリズム」、②「リアリズム」、③「イデオロギーからの自由」、④「官僚主義批判」。
 ④が出てくるのは、よく分からない。スターリン官僚主義、あるいは日本共産党官僚主義の批判なのか。
 しかし、残りは、とくに歴史教科書や歴史教育という観点からすると当然のことだ。当然ではないから困るのだが。 
 第一。①にかかわる明治維新の捉え方は種々でありうる。
 しかし、「江戸時代を暗黒・悲惨」ともっぱら否定的に見てはいけない、「一般化して言えば、歴史について発展段階説的な先験的立場をとらない」、と書くのは、至極まっとうだ。
 当然に、とくに後者は、マルクス主義史観あるいは「日本共産党」の基礎的歴史観の排除を意味する。
 第二。先の戦争の「原因」について、こう言い切っているのが注目される。
 「日本だけが悪かったという『東京裁判史観』も、日本は少しも悪くなかったという『大東亜戦争肯定論』もともに一面的である」。p.79。
 ここで「悪かった」か「悪くなかった」かという言葉遣いに、私はとくに最近は否定的だ。
 正邪・善悪の価値判断を持ち込んではいけない。
 しかし、趣旨は、理解できる。
戦争に「敗北」して、少しも問題はなかった、とは言い難いだろう。やはり「敗北」であり「失敗」したのだという現実は、そのまま受容する他はないのではないか。
 共産主義者が誘導したとか、F・ルーズベルトは「容共」で周辺にソ連のスパイや共産主義者がいた、という話も興味深いが、しかし、そのような<策略>に「敗北した」ことの釈明にはならないのではないか。「負けて」しまったのだ。
 いや「敗北」したのではない、アジア解放につながり、実質的には「勝利」した、とかの歴史観もあるのだろう。
 ここで「敗北」とか「勝利」自体の意味が問題になるのかもしれない。
 しかし、こういう主張をしている人たちがしばしば唾棄するようでもある「戦後」は、あるいは「日本国憲法」は、あるいは出発点かもしれない「東京裁判」そのものが、軍事的「敗北」と「軍事占領」(つまりは究極的には、実力・軍事力・暴力による支配だ)の結果として発生している。
 この<事実>は消去しようがない。
 こう大きく二点を挙げたが、すでにここに、藤岡信勝と今日の「日本会議」派または櫻井よしこらとの違いが明らかなようだ。
 つまり、「日本会議」派はおそらく、また櫻井よしこは確実に、明治維新を(そして天皇中心政治を)「素晴らしかった」として旧幕府に冷ややかであり、2007年の<大東亜戦争>をタイトルに掲げる椛島有三著にも見られるように、日本の先の大戦への関与について、可能なかぎり<釈明>し、日本を<悪く>は評価しないようにしている。
 少なくとも1996年著に限っての藤岡信勝「史観」と「日本会議・史観」は両立し得ないだろう。共産党所属の経歴の有無などは関係がない。
 しかし、歴史教育または歴史教科書レベルではなお融和できるのではないか、という問題は残る。「日本会議」派がコミンテルン史観・共産党史観を排除しているならば、いわゆる<自虐史観>反対のレベルでは一致できただろう。
 だからこそ、「日本会議」派は(あるいはごく限っても八木秀次は?)、たぶん2005年くらいまでは、「つくる会」騒動を起こすつもりはなかったかに見える。
 少し余計なことも書いた。もっと書きたくなるが、さて措く。

1660/「日本会議」と日本の保守と安倍一強政治・仮説。

 以下は、仮説だ。
 第一。のちに事務総長となる椛島有三等々は、日本の<保守>運動の主導権を握られるのを怖れて、<新しい歴史教科書をつくる会>設立後に追いかけるように(?)「日本会議」を発足させた。1997年のこと。歴史教科書問題に限らない、という自負が「日本会議」という名称にはあるのかもしれない。
 その当時に<保守>側の民間運動の中心または有力部隊とも見られたかもしれない<新しい歴史教科書をつくる会>に対するヤッカミ、自分たちのそれまでの運動に対するアセリがあった。
 第一の2。事務総長・椛島有三の「日本会議」は、それまでは表向きは併存しかつ協力とているように見えた<新しい歴史教科書をつくる会>を弱体化させることを、最終的に2006年頃には企んだ。
 その工作(?)の有力な対象になったのが、八木秀次だ。
 その際の口説き?文句は、藤岡信勝はニッキョー、つまり元共産党党員だぞ、という脅かし、又は警告だ。
 上の一文については、別途触れたい。
 これにより実際に、分裂した。
 この分裂に加担した「政治屋」の一人は、屋山太郎。平然と片方に同調したのが、渡部昇一。
 <採算>とかを理由にして、「日本会議」側を応援したのが、産経新聞社
 産経新聞-扶桑社、そして分裂した他方の側を出版しているその子会社の育鵬社
 産経新聞社は「商売」として、どちらを選ぶかを判断した。むろん、椛島有三らからの働きかけもあった。決して、<美しい>話ではないし、<単純な経営判断>ではない。
 この分裂頃を最終的な契機として、櫻井よしこは「日本会議」側に明確に立つ。そして、2000年頃のこの人の評論・論評とは異なるスタンスの文章がめっきりと増えるようになり、現在に至る。
 2007年12月、国家基本問題研究所設立、櫻井よしこが理事長
 なお、この直前、2007年秋に、安倍晋三第一次内閣が崩壊。
 中西輝政も、どちらかというと、「日本会議」の側に傾斜。いつか記したが、「日本会議」系の書物を出している。この点で、西尾幹二、藤岡信勝とまるで異なる
 2007年4月刊行の椛島有三の書の<主要参照文献>が、中西輝政、渡部昇一らの本を複数挙げつつ、西尾幹二、藤岡信勝の著を全て無視していることは、すでに記した。
 以上の経緯からしても、産経新聞、月刊正論(産経)がなぜ(たいしたことを書いていないのに)八木秀次を重用しているかも理解できる。
 月刊正論編集部には<八木秀次と○○は大切に>との旨の伝言文書があるのだろう。いや、そんなことは酒席でも引き継げるのかもしれない。
 しかし、ときどきは?、月刊正論に西尾幹二や藤岡信勝を登場させて、<単色ではない>旨を宣伝するために利用する。
 花田紀凱やワック社は、もちろん「商売」、雑誌販売のために櫻井よしこ、渡部昇一あるいは「日本会議」系の人々を利用してきた。いや、持ちつ、もたれつ。国家基本問題「研究所」の評議員とやらにも名を連ねる。
 レーニン関係英語書を見ているおかげで、disguise (偽装する)とか pretend (ふりをする)という言葉に慣れた。あるいは、propaganda (情報宣伝、虚偽情報宣伝、扇動)も。
 以上の「人間的な」ことよりも本来は大切なことだが、「日本会議」は決定的に<反共産主義>性が弱い、または薄い
 このことは大きく、かつ決定的に、日本の<保守>にとっての弊害になっている。
 この点は何度でも触れなければならない。じっくりと、渡部恒雄や水野成夫(二人とも日本共産党の党員経験あり)も含めて、日本の「左翼」をたどってみる必要もある。後者は、フジ・産経グループの祖。
 そして、西尾幹二や藤岡信勝の今日もまた、この「日本会議」史観?にある程度は(彼らの考える「保守」の範囲内で)ある程度は引き摺られている。
 なぜこう書くかというと、1990年代半ば、つまり「つくる会」設立前後あたりの方が、この二人の<反共産主義性>の論調は強かったように感じる。
 とはいえ、まだ櫻井よしこ、渡部昇一、平川祐弘らの<単純民族系>に比べると、はるかにマシなのだが。
 <愛国>は健全なナショナリズムの意味では、当たり前のことで、反・左翼というだけならば、ほとんど意味はない。天皇制度についてはこれまでも触れたし、また触れるだろう。貴重で偉大だったとかりにすれば、日本人が偉大だったのだ。かつ、<日本人は偉大だ>などと殊更に言い募る必要もない。
 この人たち、つまり椛島有三、伊藤哲夫、櫻井よしこらは、日本「民族」の誇り・矜恃を持ちたいだけで、「共産主義」などには理論的にも実践的にも関心が乏しいのではないか
 日ロ戦争後に「五大国と言われるまでになった」とか、戦後に「経済大国」と称されるようになった、というのは、殊の外、この人たちの自尊心?を満足させているように見える。
 しかし、「経済大国」にも俗にいう「光と影」があったのだ。もちろん戦前の「五大国」の一つにも。
 第二。安倍一強政権と言われるほどに(つい最近までは、だが)なって、「日本会議」派は、それを支えてるのはオレたちだ、と主張したくなったのではなかろうか。
 「日本会議」関係国会議員連盟とかがあるらしい。安倍内閣の閣僚のうち、我々と親しい関係のある大臣がこれだけいますと、誇りたくなったのではないか? むろん、稲田朋美もその一人。小池百合子はどうも違ったようだ。産経や月刊正論等の扱いで却って分かるのだが。
 もちろん、国会議員・政治家もまた(安倍晋三もだが)、「日本会議」をそれなりに利用している。その背景にある何百万?、何十万?世帯会員、あるいは産経新聞定期購読者は貴重でかつ固い「票」だ。「日本会議」と神道政治連盟はきっと深く関係がある。神社・神道は私の「心のふるさと」の一つなのに。
 急に「日本会議」批判本がたくさん出るようになったのは、2016年くらいからだろう。
 背景には、安倍一強政治の背景への関心もあっただろうし、安倍晋三に「ネオ・ナチ」とレッテルを貼り、「日本会議」にも系譜的に論及した不破哲三・月刊前衛掲載論考もあった。
 間違いなく、日本共産党の党員の評論家類(青木理、俵義文ら)はそれに沿って動いた。
 しかし、仮説として、また推測として言うのだが、「日本会議」の名前を、その事務総長の存在等々も、以前よりも広く知ってほしくになった者たちが、<左翼>系ジャーナリスト等に(日本共産党の党員であっても)情報を流したのではあるまいか。
 菅野完あたりは、手頃な対象者になりそうだ。菅野の本の出版元は、扶桑社。
 <油断>すると、あるいは<傲慢>になると、そんなことくらいはしそうな人々がいそうに思える
 表向きの新聞やテレビなどは産経新聞も含めて(朝日新聞らはむろんだが)それぞれに<角度が付いて>いる。
 当たり前のことだが、「日本会議」もまた、<謀略・策略>をする団体でもある。
 何らかの意図をもって(全て広義では「政治的意図」だ)働きかけたり、情報宣伝をしたり等をするのは、全て<謀略・策略>でもあると、純真すぎる傾向のあるやにも見える日本人は意識しておく必要がある。
 以上、すべて、仮説、推測。こんな投稿は、真面目に?これまでしたことがなく、きちんと根拠文献を挙げる、という姿勢でずっときたのだが、無名のこんなブログ欄に、この程度のことを記しても、きっと許されるだろう。

1637/「日本会議」事務総長・椛島有三著の研究③。

 椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
 一 この本の最終頁はp.219で、もともと長くはない。
 しかし、1頁に横14行、縦36字(14×36)の504文字しか詰まらない作り方をしているので(つまり一つの活字文字が大きいので)、1頁あたりの文字数だけ比ると同年7月刊行の西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店)の2/3以下程度しかない。
 したがって、かりにこれと同様の文字数を詰め込むと、最終頁のp.219というのは、じつはp.140からp.150になってしまう。厚さ・外観だけでいうと、かなりの<上げ底>だ。
 二 p.212以下にある、「主要参考資料」の数の多さも目を惹く。
 A<日本人著作関係>が85(冊)、B<外国人著作関係>が34(うち全て英語の原書が11)(冊)、C<論文関係ほか>が、14(件)。計、133件。かつまた、本文の内容との関係は不明なままだ。
 以上は、すでに書いたことの要旨。
 三 何と言っても際立つのが、ある意味では目を剥くのは、この「主要参考資料」に記載されている書物類の著者についての<差別>だ。もう少し各著者について調べてからと思っていたが、とりあえず分かることだけでも記しておこう。
 すでに別のテーマの際に簡単に記したが、①西尾幹二、藤岡信勝のものは、一つもない。一冊も「参考資料」とされていない。
 ②これに対して、中西輝政のものは、堂々とある。
 A/中西輝政・国民の文明史(2003)。
 B/中西輝政・日本文明の興廃(2006)。
 このうちAは、西尾幹二・国民の歴史(1999)のいわば姉妹書のようなものだ。ともに産経新聞社刊行であるとともに、末尾に「新しい歴史教科書をつくる会」の役員名簿が記載されているなど、個人著だが同時に1997年に正式発足の「つくる会」の企画?にもとづいてもいるようだ。
 要するに、この会の「運動」の一つとしても位置づけられるものだったのではないか。
 あらためて確認すると、「編・新しい教科書をつくる会」と、きちんと表紙に記載されていた。
 同じ性質の、同じく日本の歴史全体に関する書物だ。
 しかし、○中西輝政、×西尾幹二。これが歴然としている。なぜか?
 C/西尾幹二=中西輝政・日本文明の主張-『国民の歴史』の衝撃(PHP、2000)。
 これはどうか。西尾著の『国民の歴史』刊行の翌年の二人の対談本。内容は、中西輝政の上のA・Bに相当に重なる(主題がとの意味で、同じ文章があるとの趣旨でない)。
 だが、おそらくきっと、西尾幹二の名があるからだろう。これは×。
 本来のテーマから逸れるが、ここで以下を付記しておく。
 2007年以降にいずれかまで、「日本会議」・椛島有三と中西輝政と関係は良好?だったようで、つぎの二つの著を確認できる。
 D/小堀桂一郎=中西輝政・歴史の書換えが始まった!-コミンテルンと昭和期の真相(明成社、2007.10=<日本の息吹ブックレット>)。「日本の息吹」とは日本会議機関誌(月刊)。
 E/中西輝政・日本会議編・日本人として知っておきたい皇室のこと(PHP、2008.11)。
 2015年安倍内閣戦後70年談話への反応内容等、西尾幹二と中西輝政の二人は「かなり近い」と感じていたが、かつての、こうした<待遇?>の違いは、なぜ?
 なお、DもEも上記椛島有三著の刊行後のもので、当然に<参考資料>には入っていない。
 ③西尾幹二や藤岡信勝の書物がいっさいなくて、なぜこの人等のこの著は記載されるのか、と奇妙に感じるものがある。
 ・加藤陽子・戦争の日本近現代史(2002)。
 ・田原総一朗・日本の戦争(2000)
 その他、朝日新聞社刊のつぎの二つもある。
 ・草柳大蔵・実録満鉄調査部/上・下(1983、朝日新聞社)。
 ・日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編・太平洋戦争への道/1~7(1987、朝日新聞社)。
 自分の理解・主張を支えるものだけでなく、反対のものも挙げられて当然なのだが、そうすると、<日本帝国主義>、<日本の侵略>に関する膨大な日本の「左翼」の書物を挙げる必要がある。上の4つは、椛島有三において、どういう位置づけなのか?
 こんなのもある。
 ・佐藤優・日米開戦の真実(2006)。
 記載されているつぎの本は「大東亜戦争」に関係があったのか、確かめてみたい。
 ・百地章・政教分離とは何か(1997)。
 また、さすがに?、渡部昇一著3冊、渡部昇一編著1冊も堂々と?日本文献の最後にある。
 どう書いてもはっきりしているのは、つぎのことだ。
 西尾幹二、藤岡信勝の著がいっさいない。無視されている。排除されている。
 もともと、多数の「参考資料」をどのように生かしたのかは定かでない、とすでに書いた。したがって、ほとんど<推薦図書>なのではないか、とも書いた。
 そうすると、加藤陽子や田原総一朗の位置づけに読者としては迷うけれども。
 しかし、ともあれ、西尾幹二、藤岡信勝の著がいっさいない、排除されているのは、不思議だ。そして、奇妙だ。
 何らかの<意図>があるに違いない、と考えて当然だ。
 <公平さ>などよりも<政治的判断>を優先する。これ自体を批判するつもりはない。「日本会議」事務総長の本なのだから。
 「日本会議」事務総長の、2007年という時期の本。2007年に、何があったか?

1633/明治維新③-櫻井よしこと五箇条誓文・「日本会議」。

 「十七条の憲法、五か条の御誓文、明治憲法。そこに現されてきた価値観が国家なのです。」2007年5月。
 「十七条の憲法」は、「明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布した五箇条の御誓文の内容と重なっています。」2017年3月。
 以上、いずれも、櫻井よしこ
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 以下、①明治維新にも、②<日本会議>研究にも、③日本の「保守」の「2007年」(明記しないが西尾幹二・中西輝政らを含む)にも、全てかかわる。関心の基盤に、共通するところがあるからだ。
 櫻井よしこ・憲法とはなにか(小学館、2000.05)の「第7章」は「今こそ『十七条憲法』『明治憲法』の精神に学ぶ」と題しながらも、「五箇条誓文」への言及を、「明治憲法」の基礎的理念をすでに記していたとか書いてもよさそうなのに、一切していない、ということは先に記した。
 しかし、2007年前半、この年の末にこの人は国家基本問題研究所なる団体の理事長になるが、こう書いていた。
 櫻井よしこ「日本人の価値観/取り戻せ」/東京新聞2007年5月13日付。
 「私は、国家というのは日本人の価値観の塊だと思います。日本人の価値観が国の形となって現れたものがいくつかあります。十七条の憲法、五か条の御誓文、明治憲法。そこに現されてきた価値観が国家なのです」。 
 ここでは、日本国家という「価値観」を示す三つのうち一つとして、「五か条の御誓文」を理解している。
 そして、2017年に月刊正論3月号(産経)で、日本の「保守に求められること」を主題とする文章の中で、上の趣旨と異ならないで、櫻井よしこはこう書いた。
 「日本が自らの価値観を鮮やかに打ち出した十七条の憲法は、…明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布した五箇条の御誓文の内容と重なっています。」
 その直後にまた、こう続ける。
 「五箇条の御誓文は一人一人の国民への信頼を基本にして成り立っている点で、民主主義そのものです。」
 この後の文の「民主主義」理解は、<ああ恥ずかしい、こんなに簡単に書いてしまって後世に残るのにとても気の毒だ>という感想をもつ、日本の中学生レベルの文章だろう。
 井沢元彦が「十七条の憲法」第一条の「和を以て貴しとなす」にしばしば言及して、日本と日本人の特質に言及するが、ここでいう<和>と<民主主義>は同じ意味ではないと思われる。
 井沢が指摘するのは<話し合い尊重主義>、今日的にいうと<合議主義>あるいはさらに<議会主義>に連なるもので、<民主主義>そのものではない、と私は理解している。
 民主主義とは国家意思の形成の大元を意味するので(デモクラシー、民衆政体)、国家意思の形成の細かな過程までを問題にするのではないと思われる。国民にあるいは<民衆>や<人民>に結論・基本方向が支持されていれば、民主主義と矛盾しない(とされる。北朝鮮の国名、旧東独の国名など参照)。民主主義と議会主義は同義ではない。五箇条誓文は何を言いたかったのか ? 「公論に決すべし」とはいかなる趣旨か?
 こんな議論をしても、櫻井よしことの間に議論が成立するはずはない。
 櫻井よしこは、中学生レベルの感覚で「民主主義」という語を使っているからだ。
 再び、櫻井の月刊正論3月号の文章に戻る。そして、<五箇条誓文>がどういう脈絡で言及されているかを、確認する。
 上に引用部分のつづき。
 五箇条の御誓文は、①「広く世界に心を開くという点で国際主義です。守るべき価値観の基本は日本の国柄の中にあると強調している点で、この上なく立派な日本の国是です。…グローバル化した現代世界に住む私たちにとっての教訓でもある」。p.85。
 同四条〔旧来の陋習を破り天地の公道に基づけ〕は、②「機能しなくなった制度や価値観は捨て去り、『天地の公道』、つまり、国際社会にあまねく通用する普遍的価値観を取り入れ、その価値観に基づいて日本らしい力を発揮せよという教えです」。
 こう写していて、ああ恥ずかしいと感じてしまう。言葉・観念が、宗教言辞のごとく固まりつつ、どのようなものにも取り憑くことができるように泳いでいる。
 また、明治維新理解も、怪しい。
 上に引用のように五箇条誓文を「明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布」したものとするが、厳密にはいつの時点を「明治新政府樹立」と理解しているのかどうか。
 また、ここでは「機能しなくなった制度や価値観は捨て去り…」というが、「機能しなくなった制度や価値観」とはいったい何のことか。
 もちろん、櫻井よしこ大先生は、旧江戸(徳川)幕府の「旧来の陋習」を維持した「制度や価値観」のことを想定しているのだろう。
 しかし、こう単純には言えないことは、日本の少し真面目にこの時期を学習した日本の高校生でも知っているだろう。「機能しなくなった」単純攘夷主義に凝り固まっていたのが(ある時期・通商条約時からある時期・下関戦争頃までの)吉田松陰系の長州藩士たちだった。
 あるいは、こうも言える。「機能しなくなった」制度をやめて<大政奉還>し、新しい制度・国づくりを図ったのは徳川慶喜だった。
 ③「国民を信頼し、国民を尊重してきたのが日本の国柄であることは、五箇条の御誓文の…〔一条・二条〕にも明らかです」。p.87-88。
 これは、憲法改正に向けて国民との議論を展開すべしとの主張の中で語られている。
 それにしても、恥ずかしい。「国民を信頼し、国民を尊重してきたのが日本の国柄」だ、とそう思いたい、思い込みたい、というのはよろしい。しかし、「国民」とか「国家」とかをどういう意味で用い、また日本の歴史にいかほどに習熟したうえで語っているのだろうか。
 ④第五条の言うとおり、「日本だけに閉じこもってはなりません。世界には優れた考えや制度、価値観があります。大いに学びなさい。大いに受け入れなさい。常に柔軟に賢く対処しなさい。そして自身の鍛錬としなさいということでしょう。」p.88。
 まだ続くが、これとほぼ同じ文字数でもって、この第五条を「解釈」し、あるいはこれに基づいて、読者を(?)説教?している。
 このように④まで続けたが、最初の頁(p.84)に、十七条憲法と<五箇条誓文>の二つの「価値観」で支えられていることを認識するのが「保守の基本」だとの根本的テーゼ(?)があることもあらためて追記しておく。
 このような<五箇条誓文>観を、「日本会議」派だとされる伊藤哲夫も抱いていることはすでに記した。
 櫻井よしこも、伊藤哲夫も、明治憲法、そして明治維新(・五箇条誓文)を基本的には(櫻井にとっては全面的に?)素晴らしかった(素晴らしい)ものとして、肯定的に評価している。
 「日本会議」は、その設立文(1997年)で、次のように明確に語る。
 「明治維新に始まるアジアで最初の近代国家の建設は、この国風の輝かしい精華であった。
 明治維新以降の日本の「近代国家の建設」は「輝かしい精華」だった、と考えられている。このような基本的歴史観に立つのが、「日本会議」だ。
 (新撰組、土方歳三・沖田総司が、あるいは「偽官軍」=赤報隊等々は気の毒だなあ。中村半次郎や岡田以蔵らの「人斬り」は、いやきっと井伊直弼白昼殺戮等々も、きっと立派なことだったのだなあ。-とカゲ口も。こういう歴史観によると、孝明天皇の位置づけが困難になる、というカゲ口も。薩長史観=西南雄藩中心史観は<天皇制絶対主義>開始というマルクス主義・講座派史観や基本的に<ブルジョア革命>だったとするマルクス主義・労農派史観の裏返しのような気がするなあ、というカゲ口も。)
 上は、こう続けられる。
 「また、有史以来未曾有の敗戦に際会するも、天皇を国民統合の中心と仰ぐ国柄はいささかも揺らぐことなく、焦土と虚脱感の中から立ち上がった国民の営々たる努力によって、経済大国といわれるまでに発展した。」
 明治維新からは離れるが、「天皇を国民統合の中心と仰ぐ国柄はいささかも揺らぐことなく」、とされていること、そして、その「国柄」のもとで「経済大国といわれるまでに発展した」ことは基本的に肯定的に理解されていること、も確認しておきたい。
 これによると、<戦後レジーム>が全体として消極的・否定的に理解されていることにはならないだろう、ということを確認しておくことが重要かと思われる。
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 この「日本会議」の設立の1997年、いったい何があったか(設立総会は1997年5月)。
 その一年前以内に、「新しい歴史教科書をつくる会」が発足した(総会は1997年1月)
 なお、この欄のつい前回で言及した、西尾幹二=藤岡信勝の共著は1996年に、「つくる会」発足前に、刊行された。
 要するに、「つくる会」を追いかける?ように「日本会議」が設立された。
 2005年末から「内紛」?が始まった「つくる会」は、2007年のうちに「分裂」が決定的になった。そのことは、近接した、7月刊行の西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007)の中に書かれてある。
 この西尾著の刊行の直前に、椛島有三著が発行された。同じ年の、2007年4月
 そして、2007年12月、<国家基本問題研究所>が発足して、櫻井よしこが理事長になった(確認できないが、椛島有三が事務局長だったかと思われる)。
 この「研究」所とは、西尾幹二も藤岡信勝も関係がない。役員等をしていない。
 ついでに、椛島有三著研究③も少しだけ、以下にしておこう。
 既述のように、この本には末尾に多数の参考文献が、本の長さに比べれば不釣り合いなほどに、掲載されている。その中には、中西輝政・国民の文明史(産経、2003)等も記載されている。
 しかし、西尾幹二・国民の歴史(産経、1999)等を含む西尾幹二、および藤岡信勝の書物は、主題の<大東亜戦争>あるいは広く日本人の<歴史認識>・<歴史観>と関係があるものも多いにもかかわらず、この二人の書物は、いっさい排除されている
 1997年のこと、2007年のこと、そしてこの2007年刊行の椛島有三著の参考文献記載内容。
 これらは、偶然だとは決して思えない。どこかに、何らかの<意図>があった。
 ---より下は、今後に書きたいことの要旨または予告だ。今年は、2017年。

1632/西尾幹二=藤岡信勝・国民の油断(1996)②。

 西尾幹二=藤岡信勝・国民の油断-歴史教科書が危ない!(PHP文庫、2000.05/原書1996)。
 1995-96年の二人の対談を内容とするこの本で、西尾幹二は「全体主義」について-これは下記の頁ではスターリン、ヒトラー、中国を含むものとして用いられている)、とくに、「運動としての全体主義」、「きわめて能動的な運動としての全体主義」ということを指摘している。p.136。これに対比されるのは、「単なるイデオロギーではありません」ということのようだ。p.136。
 他の本にもあったような気がする。しかし、必ずしも理解しやすい指摘ではない。静態的・状態的にではなく、動態的・行動的に把握すべきとの趣旨だとは分かる。
 しかし、批判しているのでは勿論ないが、昨秋に以下のE・ノルテの本が早くにあることに気づいて、何やら納得した。
 Ernst Nolte, Die Faschistischen Bewegung (独語, 1966).
 これには、つぎの邦訳書がある。しかし、元々の書名は、<… Bewegung>、つまり、<…の運動>が正確だ。
 ドイツ現代史研究会訳・ファシズムの時代/上・下(植村出版、1972)。
 この研究会の代表格は、「訳者あとがき」によると山口定(欧州政治史、立命館大・大阪市立大)だと見られる。
 ともあれ、「ファシズム運動」よりも「ファシズムの時代」の方が、類似の「…時代」と訳せる表題のE・ノルテの書物が未邦訳であることもあり、選ばれたかに見える。
 E. Nolte, Der Faschismus in seiner Epoche(独語, 1963(Taschenbuch, 1984)). 〔ファシズムとその時代=ファシズムの時代(未邦訳)〕
 本体・内容に立ち入らないので、些細な、かつ推測しての、したがって何ら確実性のないことだが、E・ノルテの複数の書物をある程度は読んだ上で、西尾幹二はあえて上のように「運動としての…」ということを強調したかったのではないか。
 リチャード・パイプスはその1994年の著<ボルシェヴィキ体制下のロシア>=Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)でこう書いていた。試訳は、この欄の3/29付・№1473も参照。
 「1956年にカール・フリートリヒとズビグニュー・ブレジンスキーが発表した、左翼と右翼の独裁制の最初の体系的な比較もまた、歴史的分析というよりも静態的な分析を提示するものだった」。
 ソヴィエト(スターリン?)、ナチスおよびイタリア・ファシズムには共通性がある、つまり一括りできるとたぶん戦後早くに指摘したのだったが、上のごとく「静態的な分析」だとも見られた。
 読まないままで言うのだが、西尾幹二は上記のように、あえて「運動」性を強調している。おそらくは、リチャード・パイプスの上の書物を読んではいない(たぶん、E・ノルテのものは見ている)。
 些細かもしれない情報源探しを、もう一つする。
 西尾幹二は、上の本では(まだ)発見できなかったが、何度か、世界大戦、とりわけ第一次の世界大戦について、ヨーロッパ(欧州)の「内戦」だった、と指摘している。
 この点が重要な論点として選ばれて、指摘されているわけではない。しかし、複数回にわたると、読み手である私の印象に残った。
 たしかに、「世界」大戦を戦った諸国は、第二次とされるものを含めても、多くはヨーロッパ諸国だ。とくに第一次とされるそれは、最初はトルコが、遅れてアメリカと日本が関与しているものの、ほとんど欧州諸国がほとんど欧州の領域内で行った戦争だ。
 <ヨーロッパ内戦>という見方は、十分に首肯できる。また、こういう命名を勝手にして、日本の歴史学もそのまま受容して(させられて)いるのだから、欧州人の<ヨーロッパ=わが世界>という見方がよほど根強いものであるかを感じさせられる。
 今はかつてほどではなく、アジア・日本やイスラム世界への関心は強くはなっているかもしれないが、しかし、欧州又は欧米中心主義はなおも根強いだろう。
 知的世界、学問・研究の分野でも、英語を母国語とする英米(・カナダ)と、ドイツとフランス(・イタリア)およびその他の欧州といったあたりで、いちおうは<完結>しているような印象がある。日本の研究者・読者などは気にすることなく、母国である国の研究者・読者と上の広狭はあるが<欧米>の研究者・読者を意識しておけば足りる。
 日本の学界の閉鎖性・そして世界に(欧米に?)稀な<容共産主義>性は、日本語だけの世界で、日本だけでいちおう<完結>しているためではないか、と思っている。
 また、日本に独特の<特定保守>の存在も、日本語だけで通じさせるしかない、<島国>に特有なことだろう(一般に日本固有のことを否定はしない)。
 学界もメディアも「論壇」も、ある程度の人口と「市場」をもつ日本という国の中で、<閉鎖的に>、<自己完結して>、つまりは日本語の分からない欧米人の批判の目にほとんど全く晒されることなく、活動している。日本共産党なるものの存在もまた、その一つ。
 ソ連解体後に<ユーロ・コミュニズム>もまた解体したことの意味を、ほとんどの日本人は理解していないように思われる。消極的意味での、日本の<特殊性>だ。
 想定外に迂回した。
 世界大戦を「欧州の内戦」と捉えるのは、じつはE・ノルテがずばり行っていたことだった。
 Ernst Nolte, Der europaeische Buergerkrieg 1917 - 1945: Nationalsozialismus und Bolschewismus (独語, 2000). 〔1917年-1945年のヨーロッパ内戦-ナチスとボルシェヴィズム〕
 1917年・「ロシア革命」と1945年・二次大戦終焉=ヒトラー・ナチス崩壊の間の時期を、一つの時代、つまり<ヨーロッパの内戦>の時代と把握する。
 西尾幹二は、これをまた、参照しているのではないか。
 ついでに書くと、E・ノルテはドイツでの<歴史家論争>の一方当事者で、その<歴史観>(敢えて簡潔化すれば、レーニン→ヒトラ-)は、むしろ<多数派>だったのではないかと見られる<左派>のユルゲン・ハーバマス(Jurgen Habermath)らに批判された。
 日本では、ユルゲン・ハーバマスの書物は多数翻訳されていて、岩波書店はこの人の論考類をわざわざ日本で一つにまとめた一冊の書を刊行している。
 しかし、エルンスト・ノルテの上の本は、邦訳書がないまま、15年以上を経た。
 なぜか。ドイツの戦後の書籍の紹介や翻訳でも西尾幹二には奮闘してほしかったと思うのだが、無い物ねだりなのかもしれない。
 西尾幹二を批判しているのではない。立場の違いはあれ、欧州で広く読まれかつ意識されていると思われるE・ノルテ、さらにはフランスのフランソワ・フュレの扱いは、日本では奇妙だ。反共産主義へと進まないようにする、産経新聞社も含む日本のメディア・出版業界での<自主規制>があると考えられる。もちろん、「左翼」学者・研究者が加担しており、朝日新聞社や岩波書店は、それを当然だと思っている。
 <自主規制>。そう、まだ日本は「閉ざされた言語空間」の中にいる。占領が終わって全ての傾向の欧米世界の書籍・論考等が「自由」に流入していると思ったら、大間違いなのだ。
 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)。この人の「マルクス主義」に関する大著の邦訳書すらない。しかも英訳版発行の1978年から、もうほとんど40年になる。このことを知ったのが、今年になって最も衝撃的なことだった。かなり逸れてしまった。

1629/西尾幹二=藤岡信勝・国民の油断(PHP,1996年)。

 「許してくれるだろうか、僕の若いわがままを。
  解ってくれるだろうか、僕の遙かな彷徨いを。/
  僕の胸の中に語りきれない実りが、たとえ貴女に見えなくとも。」
  小椋佳・木戸をあけて(1971年)より。
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 西尾幹二=藤岡信勝・国民の油断-歴史教科書が危ない!(PHP文庫、2000.05/原書1996)。
一 この書の関連年表によると、前月に記者会見ののち、1997年1月、「新しい歴史教科書をつくる会」設立総会。初代会長は、西尾幹二。
 西尾幹二・国民の歴史(産経、1999/文春文庫、2009)等とともに、この「つくる会」に対する社会的反応はすごかった。当時に日本共産党および「左翼」系の、これに反発する書物は小さいのを含めると100冊を超えたのではないか。また、「新しい教科書」不採択運動も、日本共産党を中心に繰り広げられた。
 当時はまだ、<分裂>していなかった。産経新聞-扶桑社-育鵬社が、2007年以降に、「つくる会」とは別の教科書を発行するに至った。「つくる会」系二教科書とか、あいまいに言われる。
 ついでながら、菅野完・日本会議の研究(2016)は、なぜか<扶桑社新書>
 二 上の本を見てみると、計8章のうち共産主義・社会主義を扱うのは一つだけで、<第4章・ソ連崩壊にも懲りない社会主義幻想-時代遅れの学説で綴られる「独断」史観>だ。但し、他の章でもマルクス主義等に言及があることは、目次で分かる。
 <保守>論者の共産主義(・マルクス主義・社会主義)に関する本(!あるかどうか)や論考類・雑誌記事等をかなり見てきたが、この本程度でも、まだ優れている方だ。
 かつて戦後にも、林達夫(『共産主義的人間』)とか猪木正道(『共産主義の系譜』)とかの骨太反共産主義知識人・研究者はいたと思うが、かつ文芸評論家的<保守>はこんな仕事ができないと思うが、なぜかほとんど消えてしまった。
 中川八洋は<反共産主義>で優れていると思うが、欧米等の戦後から最近までの共産主義・「左翼」運動や議論について、詳細にフォローしていないし、たぶんL・コワコフスキ『マルクス主義の主要潮流』も(この人はたぶん英語を簡単に読めるが)知らないのではないかと思われる。
 また、日本の近年の<共産主義・社会主義陣営>の動きを精確に把握しているわけでもない。基礎にある理論的・理念的な知識・教養が、この人を支えているのだろう。
 三 さて、もう少し細かく、上の本(のとりあえず上の章)を見る。
 まず生じる感想は、スターリン批判が強いが、レーニンまで、あるいは<レーニン主義>まできちんと目が配られていない。当時の私自身の認識・理解ぶりはさて措く。
 例えば、西尾は語る。①「スターリンの犯罪を個人の犯罪と片付けて」いいのか。p.135。
 そのとおりだが、レーニンもまた、すでに「犯罪」者だった。
 ②「ナチス」国家と「スターリン型独裁体制との近似性・類似性…」、ハンナ・アレントはヒトラーのシステムは同じ1930年代に「スターリンの帝国にすっかり類似の形態をとって」具現化していたと指摘した。p.135-6。
 そのとおりだが、しかし、①と同旨だが、レーニン時代はよくて又はまだましでスターリン時代に「全体主義」国家になったのではない(そんなことはハンナ・アレントも言っていない)。
 ③「シュタージ(東独)」と「ゲシュタポ(ナチス)」は構造と様態がよく似ている。p.137。
 そのとおりだろうが、レーニン時代、すでに1918年早くには、ゲペウにつながるソ連の秘密政治警察が作られている(チェカ、初代長官・ジェルジンスキー)。
 東ドイツの類似のものは、スターリンそしてレーニンに行き着く。
 総じて、この時代の日本の知的雰囲気を考えると(悲しいことに現在もまだよく似ているが)、スターリンの批判はまだ許されても、レーニン批判までは進まないことが多い。
 なぜか。レーニン・ロシア革命を擁護する、そしてスターリンは厳しく批判する日本共産党とその周辺共産主義者と「左翼」がいた(いる)からだ。出版社、マスコミを含む。
 スターリンを厳しく批判してレーニンを美化する点では、<トロツキスト>も変わりはないし、日本共産党を離れたりあるいは同党から「除名」されたりした者も、共産主義者・容共産主義で残るかぎりは、日本の特定の共産党を批判しても、レーニンとロシア革命は「否定」しない。
 日本の<保守>派もまた影響を受けているか、そもそも、レーニンとスターリンの違いなどに全く興味を示さない、<そんなことはもう片が付いた、天皇・愛国・日本民族こそ大切>という者が多い。涙が出るが、いずれかがほとんどだ。
 日本でも、<スターリンとヒトラー>を比較した欧米の書物はたぶん複数邦訳書となって出版されている。
 最近に気づいたが、<レーニン、スターリンとヒトラー>と並べた欧米文献はあるが、全く日本では翻訳書が刊行されていない。これは、別にきちんと述べよう。
 四 誰についてもそうだが、西尾幹二は情報のソースまたは思考の方法の根源について、何によっているのだろうと、考えることがある。
 私自身がほんの少しは欧米文献や欧米歴史学界等の雰囲気を知って気づいたことがある。
 それは、西尾幹二は、ドイツのエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)の議論を知っている、ということだ。昨年あたりにようやく気づいたのだから、何の自慢にもならないが、西尾はとくに明記していないものの、1990年代までに、Ernst Nolte の書物を複数、何らかのかたちで参照している。
 長くなったので、もう1回書く。


1600/『自由と反共産主義』考⑦。

 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)。
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」。
 3) 反 Liberal Democracy-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。 
 ーーー
 反共産主義というだけでは~に反対しているというだけで、それに代わる内実または価値がない。
 そこで従来から、「自由」というものを考えてきた。
 社会主義経済に対する「自由主義」経済という言葉は、よく使われるのではないか。
 あるいは社会主義国に対する「自由主義」国。
 藤岡信勝が、かつて「自由主義史観研究会」とかを組織していた。これがマルクス主義(・共産主義)史観に対抗するものとしての表現だったとすれば、適切だったと思われる。
 かつて現実に影響を与えた(与えている)「思想」類のうちで最も非人間的で人を殺戮するのを正当化するそれは、マルクス主義・共産主義だった(である)。
 これに対抗する内実、価値というのは、むろん「自由」ということなのだが、これだけでは分かりにくい。
 人間の本性に即した、人間らしい<価値観>でなければならない。
 その際の人間の本性・本質とはいったい何だろうか。こうしたことから、そもそもは発想されなければならないのだと思われる。
 「これまでの人類の歴史は全て、階級闘争の歴史だった」などということから出発して発想したのでは、ろくなことにならない。
 人間の本性・本質とは、まずは当たり前だが、生まれて死ぬ、生物の個体だということだ。個々の人間は永遠には生きられない、存続できない、ということが前提になる。
 しかし人間は、生きているかぎりは、何とか生きていこうとする。
 個々の人間の生存本能、これはどの生物にもあるのだろうが、人間もまた同じだ。
 人間の個体というものは、その細胞も神経も、本能的に何とか「生きよう」としている。これはじつに不思議なことだ。
 高尚な?論壇者も評論家も、秋月瑛二のような凡人でも、変わりはない。
 意識しなくても、正常であれば、健康であれば、自然に呼吸し、自然に心臓は拍動していて、血液は流れている。空腹になれば、自然に食を欲する。
 この個々の人間が誰でももつ、最低限の生存本能を外部から意図的に剥奪することを許すような「思想」があってはならないし、そのような考え方は断固として排せられなければならない。
 人間には親があり、かなり多くの場合は子もいる。
 親と子、その子と孫、言うまでもなく生物・人間としての「血」の関係だ。
 これらの間に自然に何らかの内実ある関係がただちに生じるのではないかもしれない。
 だが、一時期であれ、また二世代なのか三世代なのかさまざまであれ、<ともに生活>することによって、何らかの<一体性>が生じるはずだ。
 生まれてからある程度大きくなるまで、子にとっての養育者の力は甚大だ。また、養育者は、自分たちを不可欠とする生き物としての子らを守ろうとする。養育者は「親」であることが多い。
 子の親に対する、親の子に対する心情というものが、どの程度自然で「本能的」であるかについて、詳細な研究結果については知らない。
 このあたりですでに社会制度や社会の設計論にかかわってくるのだろうが、父・母・子(兄弟姉妹)という「核」は、たいていの人間たちにとって、あるいはたいていの時代において、基礎的単位として措定してもよいように思える。
 まずは「自分」を中心とするのが生存本能だが、自分と自分以外の「家族」のどちらの「生存」を優先するかというギリギリの選択に迫られることもある。
 歴史上は、自分が「食」するための子棄て・親棄てもかなりあった。大飢饉になれば、自分だけでも生きたいとするのが本能で、子棄て・親棄てを<責める>ことのできない場合もありうる。
 そういう悲劇的な事態にならないかぎりはしかし、「家族」を核とする「自分たち」という観念は比較的自然に発生したものと思われる。それを広げれば、一族・血統という、より社会的広がりになってくる。さらには、居住地または耕作地・狩猟地の近さから、<村落>あるいはマチ・ムラの観念もかなり古くからできただろう。
 「自分」や「自分たち」は<食べて>いかないと生存できない、というのが根本の出発点だ。
 そのあたりの部分はどっぷりと現実の体制や政治世界あるいは経済システムの中でそれらを実にうまく利用していながら、頭・観念の中だけで<綺麗事>を述べている人は多い。いや、論壇者・評論家類の全員がそうかもしれない。
 さらには、小賢しく<綺麗事>を述べることを生業にして、それで金を得て<食べて生きて>いる人も多い。いや、論壇者・評論家類の全員がそうかもしれない。
 そしてまた、よりよく<食べて生きて>いくために、<綺麗事>の内容を需要者に合わせて、場合によっては巧妙に変遷させている、かつ自らはそれに気づいていないかもしれない者も多い。
 <綺麗事>の内容、つまりは精神世界のことと、そうではないドロドロとした<食べて生きて>いく世界のことと、いったいどちらを優先しているのか、と疑問に思う論壇者・評論家類もいる。
 ドロドロとした<食べて生きて>いく世界の方を優先するのが人間の本性なのかもしれない。それは、それでよい。そのことを自分で意識していれば、なおよい。
 しかし、そうであるならば当然に、<綺麗事>の内容だけでその人の主張・議論を評価しては決していけない、ということになるはずだ。
 ともあれ、人間の本性・本質から出発する。マルクス主義(・共産主義)は人間の本性・本質に即しておらず、そのゆえにこそ現実化すれば危険な「思想」なのだ、ということを見抜く必要がある。
 安本美典はたしか正当にも、<体系的なホラ話>という形容をマルクス主義(歴史観)に対して行っていた。
 見かけ上の<美麗さ・壮麗さ・論旨一貫性・簡素明快さ>などは、付随的な、第二次・第三次的な事柄だ。人間性と現実に即していなければ、何にもならない。宗教も含めて、<砂上の楼閣>はいっぱいある。
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 上の話はさらに別途続ける。
 反共産主義者は何を、どういう内実・価値を追求すべきか。
 レシェク・コワコフスキの考え方を、詳しく正確に知っているわけではない。
 ただこの人は、この欄ではあえて「左翼の君へ」と題して試訳を紹介した、実在の「新左翼」学者・評論家に対する批判的論評の中で、あっさりと、おそらくは以下の価値を維持すべき又は追求すべき価値だと語っていた。
 「平等、自由および効率性」、の三つだ。さらにこう続けている。
 これらの「諸価値は相互に制限し合い、それらは妥協を通じてのみ充たされうる」。
 「全ての諸制度の変更は、全体としてこれら三つの価値に奉仕する手段だと見なさなければならず、それら自体に目的があると考えてはいけない」。
 以上、この欄の今年の5/13付・№1540=「左翼の君へ⑧完」。原論考、1974年。
 Leszek Kolakowski, My Correct View on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
 もちろん、欧米系の学者・哲学者のいっていることだ。何と陳腐かとも思われるかもしれない。当然に、「平等」・「自由」・「効率性」の意味、相互関連は問題になる。
 だがしかし、ソヴィエト・スターリン時代をソ連とポーランドで実体験したうえでマルクス主義に関する長い研究書を書いた人物の発言として、何気なく書かれているが、注意されてよい。
 ろくに読んでいないが、リチャード・パイプスには、つぎの書物もある。
 Richard Pipes, Rroperty and Freedom (1999).〔私的所有(財産)と自由、およそ330頁〕
 断固たる反共産主義者だと知っているからこそ推測していうのだが、R・パイプスは「私的所有(財産)と自由」を、かけがえない価値だと、そして最大限にこれを侵犯するものが共産主義だと考えているのではないだろうか。
 L・コワコフスキもR・パイプスもじつは「自由」を重要な<価値>としている。
 この場合の自由は、Liberty ではなく Freedom だと見られる。
 そしてこの自由の根源は、自分を自分自身にしてもらう自由、自分の領域に介入されないという意味での自由、そしてまた<自分のもの>=私的所有・財産に対する(消極的・積極的の両義での)自由ではないか、と考えられる。
 自分(・自分たち)が「食べて」生きていくためには、最低限度、自分の肉体と肉体を支える「もの」、食べ物とそれを獲得するための手段(例えば、土地)を「自由」にしてもらえること、「自由」にできること、は不可欠だろう。
 <私的所有とその私的所有への自由>、これが断固として維持されるべきまたは追求されるべき価値だ。
 共産主義は、これを認めない「思想」だ。だからこそ、人間の本性に合致せず、つねに「失敗する」運命にある。
 日本共産党は最小限度の<私的財産権>は認めると言っているが、原理的には、マルクス主義・共産主義は全ての「私有財産」を廃止しようとする。また、<最小限度の(小さな)私的財産権>の範囲内か否かは、じつは理論上明確になるわけではない。個人所有の小さな土地の上での工場の経営(、販売・取引--)するという「私的財産」の「自由」の行使を想定しても分かる。かりに個人的居住だけに限られる土地所有なのだとすれば、それが土地所有の「権利」あるいは「自由」と言えるのかどうか、原理的に疑問だ。
 当たり前のことを述べているようでもある。
 当たり前のようなことを、つぎのように語る、日本の経済学者もいる。 
 猪木武徳・自由と秩序-競争社会の二つの顔(中央公論新社・中公文庫、2015。原書・中公叢書、2001)、p.269。
 「求められるのは、この市場や民主制のもつ欠陥や難点を補正したり、補強作業を行ったりすることによって、なんとか使いこなしていくこと」だ。
 この書の解説者・宇野重規は、「市場と民主主義を何とか使いこなす」という小見出しをつけている。p.288。
 市場とは当然に「自由」を前提にする。両者はほとんど同義で、「自由な経済(取引)」こそが「市場」だ。
 佐伯啓思の『さらば、民主主義』(朝日新書)でも、同『反民主主義論』(新潮新書)、同『自由と民主主義をもうやめる』(幻冬舎新書)でもない。
 「民主主義」の価値性については(上記の猪木とも違って)、疑問がある。これと「自由」をごった混ぜにしてはいけないだろう。
 反共産主義を鮮明にしないままで「自由と民主主義をもうやめる」と主張するのは、<ブルジョア>的「自由・民主主義」に対するマルクスやレーニンによる批判と、これらの欺瞞性・形式性を暴露しようとするマルクス主義・共産主義者による批判と、変わらない、と敢えて言うべきだ。
 市場(market)にも「自由」にも(あるいは「民主主義」にも)当然に問題はある。
 「民主主義」は左翼の標語だとこの欄に書いたこともある。
 これはあくまで<手段>の態様を示す概念で、追求すべき「価値」とは異なる次元の概念だと考えている。
 これはさしあたり措いても、近代的(欧米的)「自由」はなおも、日本でも、日本人にとっても、追求・維持すべき価値だろう。
 そこに「日本的自由」が加わると、なおよい。
 できるだけ自分の言葉で書く。重要なので、このテーマでさらに続ける。
 問題は、<私的所有・自由>と権力または「国家」との関係にこそある。
 共産主義者または「左翼」ではない者(=<保守>)こそが、こういう基本設定をしておくべきなのだ。
 こういう基本的な問題設定が曖昧な議論、文章というのは、どうも本質的に理解しづらい。

1550/「つくる会」は小池百合子、「日本会議」は増田寛也を支持した。

 ○ もう一年近く前になるが、桝添要一辞任後の東京都知事選挙で、「新しい歴史教科書をつくる会」は小池百合子を支持し、「日本会議」は増田寛也を支持した
 前者が印象に残り、こうして今まで憶えている。
 有力三候補のうち、政権与党および東京都の支部の支援を受けたのは増田寛也だった。有力政党で小池支持はなかったかと思われる。
 選挙の結果が「正しい」とは限らない。あるいは、「正しい」か「誤り」かという問題設定をすること自体に問題があると、最近は感じている。<現実>はそれなりの必然性あるいは「やむをえなさ」によって生じたと<合理的に>推認したい人たちも多いのかもしれないが、それは過ちだ。
 ともあれしかし、都知事となるという<現実>を手にしたのは小池百合子で、増田ではなかった。増田寛也には何の個人的な好悪の情はないし、小池についても全く同じ。
 しかし、やはり興味深いのは、自民党等が公式に(都連も含めて)支持・推薦した候補が圧倒的に敗れたことで、これは、好ましい<選択肢>が自民党等(の候補)以外にもう一つあれば有権者のかなりの部分が、 「自民党」の名前とか機関決定に関係なく、もう一つの「選択肢」に投票する可能性があることだ。立ち入らないが、似たことは最新の大阪府知事・大阪市長の選挙でも起きた(反自民・反民主の<維新の会>候補の圧勝だった)。
 自民党と安倍晋三内閣は、国政レベルでは「もう一つの選択肢」の欠如のゆえにこそ、支持率をまだ高く維持しているようであることを知らなければならないだろう。
 もう一つ興味深いのは、略称「つくる会」の、結果としては<現実>と同じになった小池支持の判断(役員決定だろう)だ。小池の方が増田よりも「歴史認識」が近い、または「つくる会」の活動に理解をより示してきた、というのが根拠だったかと思われる。
 これに対して、<現実>にはまたは結果としては無様(ぶざま)な判断だったことになったのは「日本会議」だ。おそらくこの団体・組織は、自民党が支持・推薦する候補を支持・推薦する、というほとんどルーティン的な思考と決定をしたものと思われる。
 そのかぎりでは、はるかに「つくる会」の方が<自由な>あるいは<柔軟な>思考ができていたわけだ。
 ○ 2007年3月に正規にこの欄を立ち上げたとき、「新しい歴史教科書をつくる会」という団体があるのを知っていたが、<分裂>等々に関する知識はほとんどなかった。
 但し、一度だけ、西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007)の中の、とくに手厳しい、全人格的な(または学者・研究者ないし<保守>活動家全面についての)八木秀次批判についてこの欄で言及したことはある。
 今では、例えば、以下の書物を持っているし、たぶんとっくに熟読し終わっている。
 したがって、種々の経緯については、その頃よりもはるかに詳しい。
 小林よしのり責任編集/新しい歴史教科書をつくる会編・新しい歴史教科書を「つくる会」という運動がある(扶桑社、1998)。
 鈴木敏明・保守知識人を断罪す-「つくる会」苦闘の歴史(総和社、2013)。
 小林よしのり・ゴーマニズム戦歴(ベスト新書、2016)の関係部分。
 西尾幹二・藤岡信勝らの書物等は除く。
 こうした「歴史」を知ると、いろいろなことが分かる。
 例えば、なぜ、八木秀次は、産経新聞または月刊正論で継続的に「重用」され続けているのか。
 10年ほど前に西尾幹二が感じていたことと、私は基本的に同感で、八木秀次は「信用できない」。
 また、ついでに記せば、天皇・皇室敬慕を謳っているにもかかわらず、譲位問題についての今上天皇に対する<きわめて個人的な嫌悪感>を示す、最近の文章部分に喫驚したこともある。
 また、渡部昇一がいわば初期または第一次の(西尾幹二理事長時代の)「つくる会」には何ら関与しておらず、西尾幹二の退任後に関係をもち始めたことも、私には興味深い。
 屋山太郎がどうやら反西尾・反藤岡側で、産経新聞社・扶桑社側に立って<政治的>活動をしたのも、なるほどと思わせる。この人は、八木秀次とともに「教育再生会議」に関与していたはずだ(屋山太郎批判はさんざんこの欄でした。国家基本問題研究所の立派な「理事」の一人だ)。
 櫻井よしこは、「つくる会」の運動とは関係がなかった。さらに言及したいが、2000年刊行の憲法とは何か(小学館)は自衛隊違憲論のほかにも「左翼的」議論がある(政教分離という基本問題への言及が全くないことには既に触れた)。
 この人は、今のごとき<保守派のラウド・スピーカー>(某左翼論者-名前を忘れた-)ではなかった。
 また、櫻井よしこが2015年夏の安倍内閣・戦後70年談話の評価を、のちにまとめた本の当該部分の「追記」で実質的に反対方向に変えるという<信じがたい荒業>をしていることをこの欄で指摘したが、その際に支持するとして明記したのは、「中西輝政、伊藤隆」の月刊正論上等の論考による安倍談話の「歴史認識」批判だった。
 それを記載しているときにも感じたのだが、中西輝政はともかく、安倍70年談話の「歴史認識」批判者としては、少なくともその次に「西尾幹二」の名を明記してよかっただろう。
 しかし、おそらくあえて、櫻井よしこは意識的に西尾幹二を除外している
 <保守>的論壇の人間関係など私が知る由もないが、おそらく、西尾幹二と櫻井よしこの間の人間関係は、良くはないようだ。
 もちろん、このように二者択一的に提示されれば、私は西尾幹二の側に立つし、西尾幹二により近い。
 しかし、西尾幹二には語ってみたいこともある。いや、もう少し、「つくる会」について書いてからにしよう。

1492/日本の保守-歴史認識の欺瞞・櫻井よしこ③。

 ○ 「歴史認識」という日本の保守にとって譲れないはずの基本的な問題領域で、日本の保守は、大きく崩れてしまっている。正確にいえば、読売新聞系ではない産経新聞系「保守」あるいは自国の歴史について鋭敏なはずの<ナショナル・保守>の保守「論壇」人についてだ。
 おそらく、「観念保守」の人々の歴史認識は、ほとんど全ての人々において、狂っているだろう。あるいはそもそも、きちんと正確に日本の歴史を見つめる勇気がない。あるいは語る勇気がない。あるいは、関心自体がない。
 以上のことを、2015年8月の安倍内閣・戦後70年談話に対する論評の仕方で、残酷にも知ってしまった。
 秋月瑛二自身も、これによって、産経新聞や一部の<保守>をきわめて強く疑うようになった。そして、「観念保守」という概念も見出した。
 ○ もちろん、正気の、まともな<保守>の人たちもいる。
 水島総が月刊正論(産経)誌上の連載を中止しているのは、産経新聞や月刊正論編集部の基本的な<歴史認識>(日韓慰安婦最終決着文書も含む)に従えないという理由でかは、私は知らない。
 だが、安倍晋三とその内閣の<歴史認識>の表明内容を、水島総はきちんと批判している。
 但し、この人の発言等を全部信頼しているのではもちろんない。この人の天皇・皇室への崇敬の情は、私には及びもつかない。
 中西輝政は、歴史通(ワック)2016年5月号で、上記談話への反応に関して、つぎのように書いた。
 「保身、迎合、付和雷同という現代日本を覆う心象風景は、保守陣営にも確実に及んでいる」。p.97。
 「この半年間、私が最も大きな衝撃を受けたのは、心ある日本の保守派とりわけ、そのオピニオン・リーダーたる人々」が「安倍政権の歴史認識をめぐる問題に対し、ひたすら沈黙を守るか、逆に称賛までして、全く意味のある批判や反論の挙に出ないことだった」。p.109。
 西尾幹二は、この欄に既に引用していることを上に続けてさらに掲載するが、月刊正論2016年3月号で、つぎのように書いた。
 「私は本誌『月刊正論』を含む日本の保守言論界は、安倍首相にさんざん利用されっぱなしできているのではないか、という認識を次第に強く持ち始めている。言論界内部においてそうした自己懐疑や自己批判がないのを非常に遺憾に思っている」。
 西尾幹二と中西輝政の二人が、今年に入ってから読んだ雑誌で対談していたが、すぐには見当たらないので、関係する部分があるかもしれないが、省く。
 記憶に頼れば、戦後70年安倍談話を正面から批判したのは、われわれ二人だけだった、という旨を西尾が語っていた。
 二人だけではない。雑誌上でも、伊藤隆は批判派だったし、藤岡信勝や江崎道朗もおそらくそうだろう。他にも、渡部昇一、櫻井よしこ、田久保忠衛らの迎合的反応を苦々しく感じている人々が多数いると思われる(国家基本問題研究所の役員の中にも。しかし、全てではない。「アホ」もいるからだ)。
 小川榮太郎の見解は、知らない。
 ○ ふと気づいたが、櫻井よしこは、週刊新潮2016年12/8号で、朝日新聞社説を批判して、つぎのように言った。
 「朝日社説子は歴史認識について」某を批判した。「噴飯物である。如何なる人も、朝日にだけは歴史認識批判はされたくないだろう。慰安婦問題で朝日がどれだけの許されざる過ちを犯したか。その結果、日本のみならず、韓国、中国の世論がどれだけ負の影響を受け、日韓、日中関係がどれだけ損われたか。事は慰安婦問題に限らない。歴史となればおよそ全て、日本を悪と位置づけるかのような報道姿勢を、朝日は未だに反省しているとは思えない。」
 櫻井よしこは、2015年末日韓慰安婦最終決着を、2015年夏の戦後70年安倍内閣談話を、どう論評したのか。「噴飯物である」。
 歴史認識について、朝日新聞を、上のように批判する資格が、この人にあるのだろうか。
 ひどいものだ。日本語の文章の趣旨を理解できない人物が、「研究」所理事長になっており、田久保忠衛という同じく日本語の文章を素直にではなく自分に?都合良く解釈できる人物が、その研究所の<副理事長>におさまっている。
 いずれこの「研究」所の役員たちには言及するとして、櫻井よしこが戦後70年安倍内閣談話をどう読んだか等について、さらに回を重ねる。
 ○ ついでに、先走るが、櫻井よしこによる米大統領・トランプ批判の底にある、単純な<観念>的なものにも気づいた。
 櫻井よしこは、天皇や日本の歴史にかかわってのみ「狂信者」になるのではない。いや、正確には、「狂信」とまではいかないが、この人は、詳しい知識があるような印象を与えつつ、じつは単純・素朴な<観念>に支えられた、要領よく情報を収集・整理して、まるで自分のうちから出てきたかのように語ることのできる、賢い(狡猾な)「ジャーナリスト」だ。
 心ある、冷静な判断のできる人々は、例えば「国家基本問題研究所」の役員であることを、恥ずかしく思う必要があるだろう。

1322/日本共産党こそ主敵-<悪魔の100年史>刊行を。

 月刊WiLL(ワック)は5月号で、日本共産党批判の特集を組んでいた。
 その他、雑誌Japanism等でも特集がある。
 しかし、一瞥のかぎりだが、私は不十分だと感じている。それについては近いうちに言及する。
 さて、月刊正論6月号(産経新聞社)の藤岡信勝論考の最後にこうある。正確には「若者」に対してだが。
 「日本共産党の歴史を、戦前は立花隆、戦後は兵本達吉の本を読んで知ってもらいたい」(p.135)。
 この二つを当然ながら秋月は読んでいるが、考えさせられることがある。
 それは、そう言えば、日本共産党の歴史(と現在)に関する詳細で学問的でもある(かつ分かりやすい)文献はなさそうであることだ。上の二つは、人文社会系の学者・研究者によるものではない。
 共産主義一般に関する(日本人による)批判的文献はないではない。また、ソ連や中国(・北朝鮮)の実態等に関する書物は多いとは言えないかもしれないが、まだある。
 しかし、日本の共産主義者たち、または肝心の日本共産党についての(むろんその歴史を含む)体系的・包括的な文献はひょっとすればまったく存在しないのではないか。
 研究者あるいは評論家と言われる人たちの中に、まともな(体系的・理論的も含む)日本共産党批判書を刊行している人はいるのだろうか。これは、日本の保守派=反共産主義派の大きな怠慢ではないか。
 人文社会系の学者たち、あるいはいわゆるアカデミズムが大きくコミュニズムに汚染されていて、現に日本にあったし、ある日本共産党の客観的分析、とりわけ批判的分析ができないだろうことは理解できる。だが、そのような実態こそ、いったい保守派は、とくに保守派とされる学者・研究者たちはいったい何をしてきたのかを疑問視させるものでもある。
 日本共産党自体の「社会科学的」研究こそが望まれる。処世・世渡りのために日本共産党自体の研究と公表をおろそかにしているとすれば(自民党についてはいくつかあるはずだ。55年体制とか「吉田ドクトリン」等々について)、本来は「社会科学」の精神・学問の自由の理念から離れている。
 日本共産党は2022年、6年後に創立100年になる。現在の状況では、大々的に<日本共産党の100年>とかの書物を「党史」として刊行する可能性が高いだろう。
 まだ6年ある。共同作業でもよいから、日本共産党自身が宣伝するような歴史と実態を同党はもつものではないことを、詳しく包括的に(かつできるだけ分かりやすく) 叙述する書物を保守派=反共産主義の学者あるいは論壇人たちは出版してほしいものだ。

1321/日本共産党こそ主敵-月刊Hanada6月創刊号を少し読む。

 月刊Hanada6月創刊号(飛鳥新社)を一読。
 すでにある月刊WiLL6月号(ワック)と比べてみると、月刊Hanadaの方がよい。背表紙に「本当は恐ろしい日本共産党」とある。
 月刊WiLLには、目次を見ても共産主義・日本共産党に関するものが一つもない。時期的・政治的センスが相当に欠ける、と感じる。但し、裏表紙裏に西尾幹二全集の広告があるのはよい。
 月刊Hanada6月創刊号の既読のものは以下、(順番どおり)。
 ・西尾幹二「現代世界史放談-ペリー来航からトランブまで」
 ・名越健郎「日本共産党に流れたソ連の『赤いカネ』」
 ・藤岡信勝「騙されるな!共産党の微笑戦術」 以上、3稿。
 かつてのようには?、細かく紹介・言及・論及しない。 
 共産主義・日本共産党に関する、手垢のついた?、これまでにもあったような批判や分析は秋月瑛二にはもう十分だ。
 むろん歴史と伝統?に由来することも少なくないが、日本共産党の現綱領のもとでの現在の活動・主張を現在または最新の同党の現実の文献・文書等を素材にして、批判・分析することが必要だ(これは名越論考の有益性の否定をまったく意味しない)。
 この点、産経新聞も月刊正論も含めて-月刊正論はようやく5月号で特集を組んでいるが-保守派の議論には大きな欠陥があったと秋月は感じている(これは日本共産党はもちろん「左翼」に対しても言えることで、だから、長谷部恭男を自民党推薦委員とするような有力?自民党国会議員も出てくる)。
 日本共産党の卑劣さ・いやらしさを具体的に感じることのない、日本共産党の議論など無視して構わないと考えている、極論すれば保守の論壇内でぬくぬくと生きていければよいというがごとき論者がいるようだからこそ、日本共産党の棲息をなおも許しているとすら思える。
 1991年のソ連崩壊によって、勝負はついたとでも思って安心してしまっているのではないか。
 日本と日本人にとっての主敵は、日本共産党と同党員にこそある。
 アジアでは、自由主義と共産主義の闘いはなおも続いたままだ。
 もっとも、上の西尾幹二の論稿は、「放談」とはいえない、自由主義対共産主義という観点すら小さく思えるような大きなスパンに立ったものだ。自由対コミュニズムという基本的観点が誤っているとは思わないものの。
 西尾は予測する-何十年先か、地球は「再び大破壊を被る」、または「地球はカオスに陥る」。いずれも、アメリカが今後どうなるかに強くかかわる。それに応じて、日本と日本人はどう考え、どう行動すべきなのか。
 追-<堤堯の今月この一冊>も月刊Hanadaに移ったようで、堤は、藤井=稲村=茂木・日米戦争を起こしたのは誰か(勉誠出版、2016)を取り上げている。秋月瑛二が長い眠りから目覚めようかという気になったのは、この本と別のもう一冊(そのうち論及する)だったので、見る人は見ているな、という感はある。

1268/先の戦争へのコミュニズムの影響ー藤岡信勝・中西輝政らによる。

 〇 栗田健男中将はなぜレイテ海戦の際に「反転」したのか、といった戦記ものあるいは個々の戦術ものには、ほとんど関心を持たないできた。それは戦後生まれのものにとって敗戦は既定の事実で今さら敗戦の戦術的・技術的原因を探ることがほとんど無意味と思われたことや、占領期についてでも複雑なのに、もっと複雑そうな戦時中の細かな歴史について勉強しておくことの時間的な余裕はないと感じられたことによる。
 但し、1930年代には日本共産党はとっくに壊滅していて一部の者が獄中で念仏のごとく「反戦」を唱えていたかもしれないこと程度で、戦争は日本共産党とは対極にある<右翼的・反共的>グループが継続したというイメージが強かったところ、日本国家あるいは日本の軍部・政治家等に対するコミュニズムやコミンテルンの影響やアメリカのルーズベルト政権自体の<容共左翼>性の指摘があることを知って、にわかに先の戦争と「共産主義(コミュニズム)」の関係についての関心が高まってきた、という経緯が私にはある。
 それは、アトランダムに言えば、先の戦争は<民主主義対全体主義・ファシズム>の戦争だったなどと単純には言えないだろうこと、ソ連や大戦の結果生まれた中国共産党主導の新中国は「民主主義」陣営であるはずはなく<左翼全体主義>の国家ではないか、なぜアメリカはそのようなソ連と手を組んだのか、アメリカは<共産中国>を新たに生み出す結果をもたらした(そしてそれは今日でも大きな悪い影響・問題を生じさせている)戦争をなぜしたのか、なぜアメリカは(中国ではなく)日本を執拗に敵視したのか、といった認識や疑問と関係してくる。
 〇 隔月刊・歴史通2015年1月号(ワック)のいくつかに少しばかり言及する。
 藤岡信勝「戦後レジームの自壊が始まった」の中で藤岡が1995年の「自由主義史観研究会」立ち上げの頃は「私も日本が満州から北支に進出したことは咎められるべきだと思っていました」と率直に「告白」しているのが興味深い(p.41)。その時期からまだ20年ほどしか経っていない。藤岡は、しかしもちろん?、「中国側の絶え間ない挑発に日本は対応していたに過ぎず、侵略行為とは言い難い」、「日本は挑発行為に乗せられて戦争の道に走っていったと見るべき」だ等の今日の認識を示している(同上)。
 「中国側の絶え間ない挑発」は日本の<南侵>を誘導する中国共産党、その背後のコミンテルンの戦略をおそらく意味しているのだろう。l
 岡部伸「近代日本を暗黒に染めた黒幕」はカナダ人のハーバート・ノーマンを扱うもので、「日本を貶めた最大の敵ではなかったか」との基本的主張・認識があり、戦前の日本を「封建的要素が残った、いびつな近代社会」と理解する、講座派的な日本「暗黒史観」の持ち主で、戦後当初には日本共産党を「民主主義」勢力とみなした、等々を叙述している(p.70-)。ハーバート・ノーマンを自殺に追い込んだ?アメリカの戦後のマッカーシズムの評価やノーマンと都留重人、尾崎秀実やゾルゲとの関係など、すでにある程度は知っているが、もっと詳細かつ明確な研究成果を読みたいものだ(この最後の部分は岡部の一文を批判するものではない)。
 中西輝政と北村稔の対談「日米・日中/戦争の真犯人」も興味深い(p.94-)。
 北村稔は彼の「学生時代、日本史研究と東洋史研究の分野ではマルクス主義の影響がものすごく強かった」と述べているが(p.103)、とくに日本近現代史の分野では、今日までその現象は続いているのではないだろうか(従って、私は、高校教育における「日本史」必修化には、教科書の書き手からするその内容と、教える教師の、推測される「左翼」=親マルクス主義的傾向のゆえに、現時点では簡単に賛成はできない)。
 中西輝政は例のごとく?、真珠湾攻撃に関するルーズヴェルト陰謀説に近い議論は「日本の国際政治や歴史の学会ではほとんど相手に」されなかったと、<左翼アカデミズム>の支配の一端を語っている(p.104)。
 中西はまた、今後の研究・検証が必要なテーマをいくつか挙げている。例えば、①永田鉄山らの「華北分離」・<南侵>路線の背景-背後にコミンテルンの工作か。②「国民政府を相手にせず」声明(第一次近衛声明)の背景-尾崎秀実が糸を引いていたか等。③海軍の戦争推進・拡大方針の批判的検証。④近衛の「東亜新秩序建設」声明(第二次声明)の背景。
 〇 上に最後に述べた諸点とコミンテルンまたはそのスパイ(・エージェント)の関係はまだ明確には分かっていない、ということなのだろう。
 もっとも、精読したわけではまだないが、すでにある程度の自信をもって確言している論者もいる。
 中川八洋・近衛文麿とルーズベルト―大東亜戦争の真実(PHP、1995)、同・近衛文麿の戦争責任―大東亜戦争のたった一つの真実(PHP、2010)だ。ハル・ノート(日本に開戦させるための強硬な最後通牒?)についても、<保守派>あるいは「自由主義史観」では通説的かもしれない理解とは異なる評価を下しているようだ。
 かなり飛躍するかもしれないが、憲法改正論の具体的内容と同様に、<保守派>あるいは<産経史観>?の論者においても、先の大戦の具体的な認識や評価は一様ではないと見られる。簡単には表現し難いが、欧米「帝国主義」からアジアを解放するための戦争だったという評価と、共産主義者・コミンテルンに誘引されてずるずると嵌まり、拡大してしまった戦争という評価では、大きく異なると感じざるをえない。
 西尾幹二が続けている、戦後にGHQにより「焚書」された戦前・戦中の日本人の諸文献の研究・解明によって、上のような論点はどの程度明らかになるのだろうか(すべて所持しているが、わずかしか熟読していない)。
 戦前・戦中に共産主義者・コミンテルン(・工作員等々)が日本に対してはたした役割、行った悪業にだけは関心をもって、諸文献・論考等を読んでいくことにする。 

1015/別冊正論Extra.15号「中国共産党」特集を読む。

 〇別冊正論Extra.15号(産経、2011.06)は「中国共産党―野望と謀略の90年」特集。来年は日本共産党の90年になるわけだ。
 まじめに順序を考えたわけではないが、読み終えた順番に、伊藤隆=竹内洋「なぜ共産主義という『戦犯』を忘れたのか」、筆坂秀世「日共も怒った! 国交正常化の裏で日本暴力革命を煽り続けた毛沢東」、中西輝政「日本を騙し、利用しつづけてきた『人類の悪夢』」、藤岡信勝「日中戦争を始めたのは中国共産党とスターリンだ」、西尾幹二「仲小路彰がみたスペイン内戦から支那事変への潮流」。まだ、半分に満たないが、中国共産党・日中戦争、そしてコミンテルン・共産主義に関する有益な文献だ。西部邁らの<表現者>グループは、おそらく誰も執筆していない。
 しばしば、メモしておきたい事項や表現にぶつかる。
 〇・筆坂秀世がより詳しく書いているが、伊藤=竹内の対談の中にも、1950年頃の日本共産党の<暴力>路線が朝鮮戦争時の後方(在日米軍側)の攪乱目的で、コミンフォルム(スターリン、毛沢東)の指示・要請により選択されたことが、指摘されている(p.193)。逮捕され、「青春を返せ」と叫んだり、長期にわたる法廷「闘争」を余儀なくされた当時の若い日本共産党員たちは(裁判にかかわった党員弁護士等も含めて)、その後の人生をどう生きたのか。一度しかない、かつ短い人生にとって、「共産主義」に強く囚われてしまうとそれこそ取り返しがつかない、ということがありうる。
 ・伊藤隆が「インテリ」の多くについて「反・反共」という表現を用いている(p.194)。これは非常によく分かる。日本共産党等の組織員にならなくとも、「反共」(=保守・反動)とだけは言われたくない、思われたくない、というのは、かつてのものではなく、今も強く残る、人文社会系の、党員以外の、大学教授たちの<意識>だろう。その意識は当然に<容共>となり、思想信条の「自由」(学問の「自由」)、価値相対主義あるいは多様な見解に寛大なという意味での「リベラル」意識がそれをさらに支えている。
 唐突に名前を出せば、東京大学の佐々木毅(元学長)も長谷部恭男(現、憲法学)も、いろいろなことを言い、書いているが、この<反・反共>主義者であることだけは間違いないと思われる。
 ・竹内洋は明確に「反共」の立場で発言しているが(それは月刊正論の連載でも示されていたが)、少しだけ気になるのは、京都大学(教育学部)の現役教授時代に早くから、そのような立場を明確にしていたのだろうか、ということだ。
 今なお日本史(学)のほかに「教育史学」もレフト(左翼)だという発言もあるが(p.192)、そのような「左翼」アカデミズムと明瞭に闘っていた、京都大学の助教授・教授だったのかどうか。
 現在でもそうだが、国立大学だから「政治」的発言をしにくいということはないはずだ。制限されているのは現在の特定の内閣・政党への支持・不支持のための特定の活動であって、それに直接関係のない歴史研究・教育学研究にもとづく「政治」的発言に(法律上の)制限があるはずもないのだが…。
 〇筆坂論考は、日本共産党の関係文献を渉猟していない者にとっては、資料的価値もある。
 〇中西輝政論考は、詳しく、何回かに分けて紹介したいくらいだ。既読の他の論考も含めて、漠然として不明だったところに、明確なピースがきちんと嵌め込まれたという感じで、結局のところ、共産主義、コミンテルン・コミンフォルムの方針と実践を考慮しないと、かつての「戦争」等については何も語れない、ということがよく分かる。

 すでに書いたことがあるように、敗戦から自分の時代の総括は出発せざるをえず、戦争中のことの細かな事実関係にはあえて関心を持たないようにしてきたのだが、西尾幹二が言及しているように、日本陸軍の大陸での戦闘史、海軍の太平洋海戦史、国内の政党政治史、対米外交交渉史(p.200)といったものに強い関心を持てないだけのことで、南京「大虐殺」あるいは<国共合作>あるいは張作霖爆殺事件とコミンテルンまたは中国共産党といったテーマだと、俄然興味を覚える。
 〇西尾幹二論考は、仲小路彰長野朗らの、GHQにより「焚書」された文献を主として簡単に紹介している。
 こうした人物の名前をすら知らなかったが、時代は違うものの丸山真男大江健三郎らなんぞよりも、こうした人物の方が立派な日本人だったとして、後世で評価されるようになりたいものだ。
 丸山真男や大江健三郎は無視されるか、日本にとって<悪い>影響を与えた、特定の時代の<進歩的文化人>なるものの代表として、歴史には名を残してもらいたい。
 中途半端だが、とりあえず。

0737/自由社・日本人の歴史教科書(2009)を一瞥-「市民革命」・「全体主義」。

 藤岡信勝編集代表・日本人の歴史教科書(自由社、2009.05)に収録されている最新版<新しい歴史教科書>(中学校用)の近現代部分を概読して、とりあえず印象に残ったことが二つあった。
 一つは、「市民革命」に関する叙述が、従来のもの、つまり私が学習した頃と何ら異ならないようであることだ。
 上の教科書では、17世紀後半から約100年間に欧州政治に新しい動きが起こったとし、イギリス、アメリカ、フランスについて述べたあとこう書く。「これら国々の政治の動きは、王や貴族の政治独占を認めず、人々が平等な市民(国民)として活動する社会をめざし、近代国家を生み出したので、市民革命とよばれている」(p.130、太字はママ。執筆者不明)。
 ここには「フランス革命」は「革命」ではなく支配層の中での権力の移動だった等々の<修正主義>の影響はない。のちのロシア革命(暴力革命)と共産党独裁につながるような「フランス革命」の一時期の<怖さ>、「フランス革命」の<影>の部分への言及又は示唆もない(のちのロシア革命についてはある)。
 アメリカの独立と合邦との間の理念の違いへの言及もなく、アメリカ「革命」とフランス「革命」が異なる性質のものだったとの言及・示唆もない。
 「市民革命」の「市民」の意味の詳しい説明はない。また、上の三国にのみ「市民革命」は起こったのか(そうだとすれば何故か)、他の国々も「市民革命」はあったのか=普遍的なのか(そうだとすれば、例えばドイツ・イタリア・日本はいつが「市民革命」だったのか)、といった疑問に答えてくれるところはなさそうだ。
 中学生用の簡潔な叙述なので、やむをえない、と言えるのだろうか。少なくとも、イギリス、アメリカ、フランスを例として「市民革命」を語るのは、何ら「新しい」ものではなく、かつ従来のマルクス主義的歴史学による理解・叙述と何ら矛盾していない。
 もう一つは、欧州で生まれた二つの政治思想が1920~30年代に台頭して世界に広まったとし、その二つとして①「共産主義」と②「ファシズム」を挙げて、「どちらも全体主義の一種」だと明記していることだ。その部分の項の見出しは「二つの全体主義」で、左欄には「20世紀の歴史を動かした共産主義とファシズムにはどのような特徴と共通点があったのだろうか」という文章もある(p.192)。
 このように①「共産主義」と②「ファシズム」が同種のものとして明記されていることに、よい意味で驚いた。かかる理解は、必ずしも日本人の「通念」になっているとは思えないからだ。
 かつて民社党は左翼全体主義(=共産主義)・右翼全体主義(=ファシズム)という言い方をしていたと思われる。だが、日本の戦後「思想」界・「歴史学」界等々で、かかる理解は少数派ではなかったかと思われる。
 外国では、ハイエクやハンナ・アレントなど、「共産主義」と「ファシズム(とくにナチズム)」を同列のものと扱う傾向が日本におけるよりも強かっただろう。
 日本では、例えば丸山真男は(あるいは「戦後民主主義」者のほとんど全てが)「民主主義」と「ファシズム(・日本軍国主義)」を対置させたが、その際、「民主主義」の中に、「人民民主主義」という言葉が今でも残るように、「民主主義」の徹底した形態又は発展形態としての「社会主義(・共産主義)」を含めていたように解される。
 そのような日本の戦後<進歩的文化人>にとって、「社会主義(・共産主義)」と「ファシズム(・日本軍国主義)」が「どちらも全体主義の一種」などという理解は耐えられるものではなく、「全体主義」という語を使うとしても、「ファシズム(・日本軍国主義)」のみを意味させたものと思われる。
 そして、彼らにとっては、「社会主義(・共産主義)」と「ファシズム(・日本軍国主義)」は両極にあって対立しているものであった。後者の<復活の阻止>こそが最大目標だった(そして「民主主義」の擁護・徹底による日本の「社会主義(・共産主義)」化こそが<隠された>目標だった)のだ。
 丸山真男に対して、「社会主義(・共産主義)」と「ファシズム(・日本軍国主義)」のどちらを選ぶかという<究極の>選択を要求すれば、丸山真男は間違いなく後者ではなく前者を選んだと思われる。丸山には、「社会主義(・共産主義)」も「ファシズム(・日本軍国主義)」も<同じ全体主義>などという考えは、露も浮かばなかったのではないか。
 「民主主義」対「ファシズム(・日本軍国主義)」というあの戦争の把握の仕方はアメリカ・GHQのものであり、丸山真男および戦後<進歩的文化人>は占領期当初のアメリカ・GHQの「歴史認識」あるいは<パラダイム>に少なくとも客観的には<迎合>していたと考えられるが、この点は別の回でもあらためて触れる。
 ともあれ、「二つの全体主義」とかつて学習した記憶はなく、「新し」さを感じさせた。これで教科書検定を合格するのだから、決して悪い方向にばかり動いてはいない、という感もする。
 ところで、上掲書には教科書部分のほか、寛仁親王殿下のほかに、櫻井よしこ・加瀬英明・高山正之・黄文雄・西尾幹二・中西輝政・石平等々の15名の2頁ずつの文章を収載している。
 <新しい教科書をつくる会>分裂騒ぎに関する知識も大きな関心もないが、「自由社」版の他に産経新聞社グループの「扶桑社」の子会社「育鵬社」版の、殆んどか全くか同じの教科書も刊行されているらしい。
 上の15名の名前を見ていると、八木秀次、渡部昇一、岡崎久彦あたりの名前がないことに気づく。西尾幹二と八木秀次の間に確執があるのは知っているので、どうやら八木秀次らが「育鵬社」グループらしい(屋山太郎は?)。
 だが、15名の名前の連なりはなかなか重厚だ。いわゆる<保守派>というのがあるとすれば、八木秀次らのグループはその中の少数派なのではないか。そうだとすると、八木秀次と渡部昇一の二人への信頼度は私には相対的には上の15名の平均よりずっと低いので、悪い印象ではない。些末なことながら。

0589/西尾幹二の2007年の本による八木秀次批判。ついでに新田均。

 一 憲法学者・樋口陽一はしばしば元ドイツ大統領のワ(ヴァ)イツゼッカーの<有名な>演説に言及している。ドイツはきちんと謝罪している、それに比べて日本は、という文脈で語られることが多い。これもまた<デマ>であることを確認的にいつかメモしておこうと思うが、西尾幹二・国家と謝罪-対日戦争の跫音が聞こえる(徳間書店、2007.07)を手にしたのも、題名からして<謝罪>問題をテーマとする本だろうと思ったからだった。
 実際に見てみると、全く無関係ではないが、発刊日近く(「あとがき」は2007年6月下旬)以前の西尾幹二の雑誌掲載諸論稿をまとめたものだった。
 二 新しい教科書をつくる会の組織問題については西尾のプログで何か読んだ記憶はあったが、安倍晋三内閣をめぐる動きの方に関心が強く、また同問題は自分とほとんど(あるいは全く)関係がないと思っていた。
 現在でもほとんど(あるいは全く)関係がないのだが、西尾幹二による、上掲本の中の八木秀次批判はスゴい。p.73~p.165は「つくる会」問題で八木秀次批判が中心になっている(他の箇所にも八木秀次(ら)批判の文章はある)。
 混乱を大きくする意図はないが(いや、一般論として、かりに意図はあったとしてもこんなブログメモにそんな実際の力はない)、若干の引用メモを残しておこう。
 ・(2005年)11月半ばからの八木秀次の「会長としての職務放棄、指導力不足は意識的なサボタージュで、彼によってすでに会は…分裂していた」。
 ・八木は自分で2副会長(工藤美代子、福田逸)を指名した。この二人と遠藤浩一(つまり5人中、西尾幹二と藤岡信勝以外)に「背中を向け、電話もしな」かった。5人の副会長の中で「孤立した」のではなく、「自らの意志で離れて」別のグループに擦り寄った。だが、何の説明もなかったので3副会長(遠藤、工藤、福田)は「怒って辞表を出した」。
 ・それでも八木は「蛙の面に水」。「都合が悪くなると情報を閉ざし、口を緘するのが彼の常」だ。
 ・「彼は黙っている。語りかける率直さと気魄がない」。
 ・「自分がしっかりしていないことを棚に上げて、誰かを抑圧者にするのはひ弱な人間のものの言い方の常である」。
 ・要するに八木は「思想的にはどっちつかずで、孤立を恐れずに断固自分を主張する強いものがそもそもない人」だ。(以上、p.79-p.80)
 ・八木秀次は某の日本共産党在籍歴というガセ情報を流して「反藤岡多数派工作と産経記者籠絡」に利用した。また、八木の周辺者(又は八木本人)から奇怪なファクスが送られてきた。
 ・八木の「藤岡排除」の「執念には驚くべきものがあった」。(以上、p.81-82、p.84)
 ・「他人に対しまだ平生の挨拶がきちんと出来ない幼さ、カッコ良がっているだけで真の意味の『言論力の不在』、表現力は一見してあるように見えるが、心眼が欠けている。/…言葉を超えて、そこにいるその人間がしかと何かを伝えている確かな存在感、この人にはそれがまるでない」。
 ・「そういう人だから簡単に怪文書、怪メールに手を出す。今度の件で保守言論運動を薄汚くした彼〔八木秀次〕の罪はきわめて大きい」。
 ・そうした八木をかついで「日本教育再生機構」を立ち上げる人々がいるらしいが、「世の人々の度量の宏さには、ただ感嘆措く能わざるものがある」。(以上、p.89-90)
 とりあえず今回はこの程度にしておく。八木秀次はこうした西尾による批判に対して反論又は釈明をきちんとしたのだろうか。こうまで書かれるとはタダゴトではない(と常識的には感じる)。
 西尾幹二をこの問題で全面的に支持するつもりはないし(判断材料が私にはたぶん欠けている)、西尾「思想」の全面的賛同者でもないのだが、西尾による八木秀次評、すなわち、「言葉を超えて、そこにいるその人間がしかと何かを伝えている確かな存在感、この人にはそれがまるでない」という文章には同感するところが大きい。
 八木秀次の本も文章もいくつかは読んでいるし、月刊正論中のコラムも読んでいるが、「確かな存在感」はない。また、ハッとするような論理の鋭さも、広くかつ深い思想的造詣も感じることはできない。
 すでに書いたことだが、その八木秀次が中西輝政との対談本『保守はいま何をなすべきか』(PHP、2008)で<保守の戦略>を語ろうとしたり、<保守思想の体系化>をしたい旨を語っているのを読んで、とてもこの人の力量でできることではないと思った(そして、内心では嗤ってしまった)。また、八木秀次の問題性にはこのブログで何回かつづけて触れた(「言挙げしたくはないが-八木秀次とは何者か」というタイトルだったと思う)。
 そのような意味との関係でも、上の西尾幹二の八木秀次に関する文章も興味深く読んだ。
 三 ところで、最近の月刊正論9月号(産経新聞社)誌上の論稿に言及した新田均に対しても、西尾幹二は上掲の本で批判している(p.89)。そして、「つくる会」問題にかかわっても、新田均はどうやら八木秀次を支持する、そして西尾幹二に反対する立場にあったようだ(p.86)。ということは、今回の皇室・皇太子妃問題よりも以前から、西尾幹二と新田均は対立していたようだ。 
 それはそれでもよいのだが、だとすると、新田均は、皇室・皇太子妃問題にかかわって西尾幹二のみを批判するのは公平ではない。大仰に言えば<党派>的だ。何回か言及したように、八木秀次も(中西輝政も)「君臣の分限」をわきまえないような、西尾幹二と類似の主張をしているのだから。

0421/「大江健三郎の言論責任―不誠実な詭弁を弄し続けるノーベル賞作家の惨憺」。

 月刊正論4月号(産経新聞社)では、徳永信一「改めて問う大江健三郎の言論責任―不誠実な詭弁を弄し続けるノーベル賞作家の惨憺」が(これだけでは勿論ないが)読まれるべきだ。
 あらためて大江健三郎という人物の<異様さ>を感じる。この人物がノーベル文学賞受賞とは、日本国民はむしろ嘆いてよいのではないか。
 徳永の文章の内容を要約的にも反復はしないし、大江の詭弁ぶりも書かないが、一点だけ。
 大江が昨年11/20に朝日新聞に掲載した文章に、法廷で証言者・大江に対して質問した代理人(弁護士)について被告側と原告側を誤って記している部分があり、朝日新聞は12/21に小さな「訂正記事」を掲載したらしい。
 大江の謝罪の言葉(質問したと虚偽を書かれた原告側の徳永に対する)はなかったとしても、あの朝日新聞が「訂正記事」を出したとは、全く明白な「ウソ」を朝日新聞紙上に大江が記したことを、朝日新聞が肯定したことを意味する。なかなか<愉快な>ことだ。徳永いわく-「この小さな訂正記事によって、…大江氏の事実認識の杜撰さと、その文章がいかに『欺瞞と瞞着』に満ちたものであるかを天下に知らしめ」た(p.214)。
 ところで、産経の上掲誌p.65によると。3月28日に予定されている対大江・岩波訴訟の判決が出た後の3/29(土)に、この判決の論理・「沖縄(集団自決)問題」をテーマとする<緊急シンポ>が開催されるらしい(杉並公会堂。櫻井よしこ、藤岡信勝等がパネラー)。私もこっそり?聴きに(+見に)いこうか。

0350/大江健三郎-「不誠実」・「破綻した論理」。

 以下、月刊Will1月号(ワック)の藤岡信勝の文章(「完全に破綻した大江健三郎の論理」)p.103による。
 故赤松大尉の弟(原告の一人)は大江の文章を知ってどう思ったかとの質問に、こう答えた。
 「大江さんは直接取材したこともなく、渡嘉敷島に行ったこともない。それなのに兄の心の中に入り込んだ記述をしていた。人の心に立ち入って、まるではらわたを火の棒でかき回すようだと憤りを感じた」。(太字は引用者)
 続けて藤岡は書く。
 「私はこの時、被告側の弁護士たちの後ろに座っていた大江氏の表情の変化を観察した。大江氏は微動だにせず、全く表情を変えなかった」。
 以上。
 こうした文章-同誌上の原告代理人弁護士の文章もそうだが-にはちゃんと大江「氏」と付けている。こうした最低限の人間・人格に対する<礼儀>も、大江は、沖縄の離島での<集団自決命令軍人>(と思い込んだ人間)に対して無視しているのだ。
 肉親の上のような言葉・裁判所での「証言」を<微動だにせず、全く表情を変え>ずに聴ける大江健三郎の神経というのは、精神医学、神経病理の興味深い対象になるのではないか。作家=創作者=創造者=捏造者には、もともと<夢かうつつ(現)か>の区別がつかなくなる性向、精神状態の(従って<正常>・<健常>者から観ると、多分にアブ・ノーマルな)者が多いとは思ってはいるが。
 同誌p.109以下には大江健三郎の証言内容が記載されていて参考資料として役立つが、「ポイントを選んで」の再現のようで、隔靴掻痒の感もある。細かい活字でよいから、どこか(の本、出版社)で、全文を登載して広く一般に読める記録にしていただきたい。
 同誌上の原告代理人弁護士・松本藤一の文章(「大江健三郎氏と岩波書店は不誠実だ」)p.99によれば、柳美里・名誉毀損訴訟の際に大江健三郎は次の文を含む陳述書を裁判所に提出したという。-「不愉快にさせたなら、書き直すべきであり、それで傷つき苦しめられる人間を作らず、そのかわりに文学的幸福をあじわう多くの読者とあなた自身を確保されることを心から期待します」。
 今回の、いや70年代以降ずっとの大江の沖縄ノートに対する態度は、松本も指摘のとおり上の大江自身の言葉と<矛盾>している。
 矛盾していないとすれば、<日本軍国主義>を担った軍人たち、<戦後民主主義の敵>、教科書問題等での(大江にとっての)<右派>の者たちは、批判・罵倒して「不愉快にさせ」てもよいし、「傷つき苦しめ」ても構わない、と大江健三郎が確固として<信じて>いる場合、または無意識的にそう<思い込んでいる>場合(この場合は、「不愉快にさせ」ている、「傷つき苦しめ」ているという自覚もない)だろう。
 大江健三郎、岩波書店、これらの欺瞞ぶりと正体を多くの心ある国民は知るべきだ。ついでに、大江健三郎のコラムや彼の動向に関する記事をしょっちゅう載せている朝日新聞についても。
 

0084/菅直人・安倍首相の4/20国会論戦を半分くらい観た。

 4/20の菅直人・安倍首相の論戦をテレビで途中から立ち見をした。「藤岡氏」などという名前を出して「知っているか」と菅氏が安倍首相に質問したところからだった、と思う。
 新聞では詳細には報じられていないが、どうやら安倍首相が「つくる会」の藤岡信勝と親しく、彼の助言・協力があって、安倍首相の関与のもとに、沖縄戦集団自決「命令」に関する歴史教科書の修正があったのでないか、と菅は疑っているふうだった。
 伊吹文明文科相は菅の挑発もあってボロを出しそうな懸念をもったが、安倍首相は、首相や文科相は個々の検定意見に無関係とだけ答えて突っぱねていた。
 菅は、慰安婦問題では「狭義の強制性はなかった」と自分の見解を述べたのにこの沖縄戦集団自決問題では答えないのは矛盾しており卑怯だとか言っていたが、安倍首相は、「狭義の強制性はなかった」というのは当時の政府の調査結果のことで、その旨の見解(たぶん石原信雄発言)を紹介しただけとかわしていた。
 安倍首相の「元気さ」ぶりも印象的だったが、菅直人の不勉強ぶりも目立つ。首相の指示で教科書書換えがなされる制度にはなっていない。宮沢首相時代に「近隣諸国条項」なるものができたらしいことの方が大問題なのだ。
 もう一点、菅は、米下院での慰安婦日本非難決議問題に関して、ずっと静かだったのに、安倍首相になってからこの問題が出てきた、首相発言が火をつけたのではないか、旨を質問していた。安倍首相は、関係ない、とかわしていた。
 この決議案は毎年のようにホンダ議員らによって提出されてきた筈だ。そして、下院で米民主党が多数派になったからこそ採択可能性が生じ、日本でも話題になり始めたのだ。
 意識的に曖昧にしていたのかもしれないが、菅は、安倍「戦後体制脱却=歴史認識是正」内閣の登場が、米下院に「火」をつけたかのようにも理解できる質問の仕方をしていた。
 菅直人はそれなりに能力のある政治家だとは思うが、前提としての事実認識が不正確又は曖昧であれば、適切な意見・主張になるはずがない。対立する政党の党首でもある安倍を困らせてやろうとの<政略的>意図があれば尚更だ。
 藤岡に関して「誰を知っているか私が答えることに何の意味があるのか」とか、沖縄戦集団自決問題に関して「首相としての私が認識を示すことに何の意味があるのか」旨等の安倍首相の答弁は、見方によれば「逃げ」・「ごまかし」にも見えるのだろうが、答弁内容自体が不適切なわけではない。
 菅の設定した土俵の上に簡単には乗らない強い自信と発言力をとっくに安倍首相は身につけている。結構なことだ。
 菅には<辛ガンス問題>という過去の弱点、いや「汚点」がある。また、それなりに能力はあっても、鳩山由紀夫と同様に、やはりまだ<戦後民主主義>教育の弊害から抜け出ていない。

0020/伊藤剛、本多知成、林潤の三裁判官は、良心に疾しくはないか-2。

 東京地裁平成11.09.22判決は、これまた不要で、かつよくもまた大胆にと思うのだが、次のようにも述べていた。―「本件当時我が国が中国においてした各種軍事行動は、以下で述べる昭和6年(…)の満州事変、昭和7年の第一次上海事変、同年の満州国の独立宣言、昭和8年の国際連盟脱退、昭和11年(…)の2.26事件等々を経て、我が国の軍部がその支配体制を確立し、昭和12年以降、しばしば交替する内閣の閣内不一致や、時に下克上的な軍部等に引き回されるまま、近代における欧米列強を模倣し、ないし欧米列強に対抗しつつ中国大陸における我が国の権益を確保拡大しようとして、中国内部の政治的軍事的極めて複雑な混乱に乗じて、その当時においてすら見るべき大義名分なく、かつ十分な将来的展望もないまま、独断的かつ場当たり的に展開拡大推進されたもので、中国及び中国国民に対する弁解の余地のない帝国主義的、植民地主義的意図に基づく侵略行為にほかならず、この「日中戦争」において、中国国民が大局的には一致して抗日戦線を敷き、戦争状態が膠着化し、我が国の占領侵略行為及びこれに派生する各種の非人道的な行為が長期間にわたって続くことになり、これによって多数の中国国民に甚大な戦争被害を及ぼしたことは、疑う余地がない歴史的事実というべきであり、この点について、我が国が真摯に中国国民に対して謝罪すべきであること、国家間ないし民族間における現在及び将来にわたる友好関係と平和を維持発展させるにつき、国民感情ないし民族感情の宥和が基本となることは明らかというべきであって、我が国と中国との場合においても、右日中戦争等の被害者というべき中国ないし中国国民のみならず、加害者というべき我が国ないし日本国民にとっても極めて不幸な歴史が存することからして、日中間の現在及び将来にわたる友好関係と平和を維持発展させるに際して、相互の国民感情ないし民族感情の宥和を図るべく、我が国が更に最大限の配慮をすべきことはいうまでもないところである」。のちにも「我が国が朝鮮半島、満州、中国に進出し、ついにはあからさまな侵略行為、侵略戦争にまで及んだ」、「期待と信頼を裏切り、中国に対して侵略行為を継続したことはおよそ正当化できない」という文もあり、「将来にわたる両国民間の友誼と国家間の平和と友好関係」の樹立の必要も説いている。
 この判決は「帝国主義的、植民地主義的意図に基づく侵略行為」と断言し、日本は「真摯に中国国民に対して謝罪すべきである」と贖罪意識も明言する。この判決が「政治的・外交的」性格をもつことは疑いえない。しかるに、判決を書く裁判官は政治家又は外交官になってよいのか
 以上までに引用したのは歴史学・政治学の概説書でもなければ一部は戦後50年村山富市社会党内閣の談話でもない。裁判にかかる判決理由中の文章だ。
 あえて原告にリップ・サービスをするつもりなら、原告らの被害が日本軍によることを認定するだけでもよかった。しかしこの判決は南京「虐殺」の事実まで認定した。これは前者にとって絶対不可欠でなかった。また、南京「虐殺」の事実のみならず、1931年以降の日本軍の行動を「帝国主義的、植民地主義的意図に基づく侵略行為」と言い切った。こう言う必要性は南京「虐殺」の事実認定にとっても絶対不可欠でなかった。何故ここまで立ち入ったのか。それは、裁判官が「我が国が真摯に中国国民に対して謝罪すべきである」との(認識というよりも)価値判断に立ち、「相互の国民感情ないし民族感情の宥和を図る」ために、自らが政治家・外交官のつもりで判決を書く必要があると「錯覚」した、又は「倒錯した感情」に陥っているためだと思われる。
 しかして、最後に、この判決の語る「認識」や「価値判断」は適切なものだろうか。これらを語る必要は全くないのに触れているのはこの判決の致命的欠陥だが、そこでの「認識」・「価値判断」が誤っているとすれば、少なくとも常識的な認識として誰もが一致していることでは決してないとすれば、その欠陥は犯罪的ですらあるだろう。そして、判決のいう「日中戦争」の認識にせよ南京「虐殺」の真偽にせよ、日本の誰もが一致する常識的なものとは全く言えない。判決はこれと矛盾する「認識」があることを恐らく知りつつ意識的に完全に排除している。その際、「『南京虐殺』自体がなかったかのようにいうのは…、断定し得る証明がない以上事実そのものがなかったというに等しく、正当でないというべき」との開き直りすら見せて、事実上「虐殺」がなかったことの証明を要求し、それができていないから「あった」のだとの強引な(裁判官と思えない)論法をとっているし、南京事件が「政治的意図をもって、…誇大に喧伝された」側面があったとしてもそれは「当時我が国は『世界の孤児』であり、真実の友邦はなく、ほとんどの国から警戒され、敵対されていた」からだと述べて、責任が日本にあるとすら示唆する。問題は日本が信頼されていたか否かではなく「当時から世界に喧伝されていた」内容が真実か否かの筈だ。
 この判決の裁判官はその贖罪意識・日中友好意識から、いちおうは「一般的な歴史図書」に依ってとしつつ(明記されているのは正村公宏・世界史の中の日本近代史中村隆英・昭和史I中央公論新社・世界の歴史30NHK・映像の世紀等) 、原告ら及び支援団体が「気に入る」ような歴史認識をあえて述べたのではなかろうか。
 かりにそうだとすれば、伊藤、本多、林の三裁判官は憲法が保障する裁判官の独立を自ら放棄している。あるいは憲法と法律にのみ拘束され良心に従う(憲法76条3項)という場合の「良心」を、失礼ながら自ら「歪めて」いる。
 所謂東京裁判のウェッブ判事は歴史に対して傲慢だったと思うが、所詮は連合国の官僚で実質的にはマッカーサーの部下だった。独立性が保障された彼らはなぜこれほどに歴史に対して傲慢なのか。「日中戦争」の性格を、南京「虐殺」の事実を何故あれほどに簡単に述べてしまえるのか
 もともと彼らが明記する参考文献は旧すぎる。彼らはこの判決前に出版されていた東中野修道・「南京虐殺」の徹底検証(展転社、1998)も、南京「虐殺」説批判に130頁以上を割いている小室直樹=渡部昇一・封印の昭和史(徳間書店、1995)も、判決直前の藤岡=東中野・「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究(祥伝社、99.09)も、読んでいないだろう。前者には和書だけで100以上の「参考文献」が列挙されているが、多様な歴史上の議論を知りうるほんの数冊でも、彼らは読んでいないに違いない。そして、大学生でも書けるような戦前・戦時史の「レポート」文を判決理由中に載せたのだ。
 既に書いたように、裁判官は戦後教育の最優等生たちだ。そして「歴史認識」もまた基本的には戦後教育のそれを受容している。「何となく左翼」は裁判所の中にも浸透している。ここでも鬱然たる想いを覚える。藤岡信勝・前掲書p.337-8によれば、この判決につき産経新聞論説委員石川水穂は的確に、「裁判官といえども、歴史を裁くことはできない。…軽率な事実認定を行った判決は必ずや、後世の裁きを受けるであろう」と書いた。
 彼らは上掲の本や判決後に出た北村稔・「南京事件」の探究(文春新書、2001)やマオ(上・下)(講談社、2005)、松尾一郎・プロパガンダ戦「南京事件」(光人社、2004)、東中野修道他・南京事件「証拠写真」を検証する(草思社、2005)、東中野修道・南京事件-国民党極秘文書から読み解く(草思社、2006)等々を読んで少しは恥ずかしくなっただろうか。少しは恥ずかしくなったとすれば、まだ少しは合理的な人間としての「良心」が残っている、と言えるのだが。
 くどいが、追記する。再引用すると、東京地裁判決は「南京虐殺は日本軍及び日本兵の残虐さを示す象徴として当時から世界に喧伝されていた(…政治的意図をもって、その当時及び我が国の敗戦直後誇大に喧伝されたという側面があるかもしれないが、そうであるからといって、『南京虐殺』自体がなかったかのようにいうのは、…結局、現時点において正確な調査や判定をすることが難しいことに乗じて、断定し得る証明がない以上事実そのものがなかったというに等しく、正当でないというべきであろう。)」と述べた。
 「当時から世界に喧伝」されていたことを事実認定の補強証拠として使い、かつその「喧伝」が「誇大」だったとしても事実を否定し得ない、と論じているのだ。だが、当時の「喧伝」が「誇大」どころか全くの虚偽だったら、中国国民党(及び同党に潜入の中国共産党)の工作員だった外国人が国民党の意を受け金も貰って世界に発した全くのガセだったらどうなるのか。伊藤剛、本多知成、林潤の三人は、その可能性を完全に否定するのか。(了)

0019/伊藤剛、本多知成、林潤の三裁判官は、良心に疾しくはないか-1。

 司法試験合格者は司法試験の受験科目のみ集中的に勉強したはずだ。とすれば、その他の一般的知識につき欠けることがあってもむしろ当然だ。このことは、法学部出身の(ふつうの)弁護士についても、さらに裁判官についても言えそうに思われる。つまり彼らは、司法試験科目を中心とした法律(・憲法)の専門家だが、例えば日本の歴史・伝統・文化について、「昭和戦争」について、無論総じての話だが、平均的な人以上には詳しくは知らない筈だ。しかし、彼らは日本の戦後教育の「優等生」ではある。そして、専門家の部分以外の分野については、高校・大学で又は社会一般・マスコミから「一般教養」を身につけている。その「一般教養」がじつはマルクス主義又は「左翼」思想から派生しているとすれば一体どうなるのか。これは現実的な問題だ、と思っている。
 南京事件・同「大虐殺」という語をタイトルに含まなくともこれに言及している本は多い。藤岡信勝・「自虐史観」の病理(文春文庫、2000。初出1997)もそうだが、その中に愕然とすることが書かれている。直接には事件の具体的内容に関係のない筈の、一判決についてだ。東京地裁平成11.09.22判決で、南京事件の被害者・遺族(と称する)中国人が日本(国・政府)を被告に国家賠償請求した事件にかかるものだが、個人が外国政府に対して直接に戦争被害にかかる損害賠償請求をする権利はない、とした。棄却の結論(判決主文)を導くためにはこれで十分と思われるが、何とこの判決は「南京「虐殺」はあった」旨をも述べている、という。ネット上で何とかこの判決を探してみた。確かに次のように「事実認定」している。長いが引用する。
 「日本軍の上海攻略は1937年11月05日の杭州湾上陸(…)によりようやく一段落し、同月中旬上海を制圧したが、日本軍及び日本兵はその戦闘により多大の損傷を受けた上で、心身ともに消耗、疲弊した兵士らの士気低下、軍紀弛緩等が問題となっていたまま、11月20日南京追撃が指令され、正式な命令のないまま強行された南京攻略は、日本国民の期待とあいまって、12月01日正式に決定された。南京の特別市の全面積は東京都、神奈川県及び埼玉県を併せた広さで、11月末から事実上開始された進軍から南京陥落後約6週間までの間に、数万人ないし30万人の中国国民が殺害された。いわゆる「南京虐殺」の内容(組織的なものか、上層部の関与の程度)、規模(「南京」という空間や、虐殺がされたという期間を何処までとするか、戦闘中の惨殺、戦闘過程における民家の焼き払い、民間人殺害の人数、便衣兵の人数、捕虜の人数、婦女に対する強姦虐殺の人数)等につき、厳密に確定することができないが、仮にその規模が10万人以下であり(あるいは、「虐殺」というべき事例が1万、2万であって)、組織的なものではなく「通例の戦争犯罪」の範囲内であり、例えばヒトラーないしナチスの組織的なユダヤ民族殲滅行為(ホロコースト)と対比すべきものではないとしても、「南京虐殺」というべき行為があったことはほぼ間違いのないところというべきであり、原告Aがその被害者であることも明らかである」。
 結論が如上のとおりである限り全く不要な叙述で、井上薫のいう「司法のしゃべりすぎ」(新潮新書、2005参照)の典型例だ。かつ「歴史認識」に関係するためにさらに悪質だ。「『南京虐殺』というべき行為があったことはほぼ間違いのないところというべきであり、原告Aがその被害者であることも明らかである」との判断まで示したこの判決を書いたのは、伊藤剛、本多知成、林潤の三裁判官だ(伊藤が裁判長)。
 この人たちは歴史家のつもりなのか。「『南京虐殺』というべき行為があったことはほぼ間違いのないところ」などと普通の人でも簡単には書けない。国家行為の一つの判決に書けるとはどういう神経・精神構造の持ち主だろう。
 上に引用の文章の直後にはこう続けている。「南京虐殺は日本軍及び日本兵の残虐さを示す象徴として当時から世界に喧伝されていた(…少なくともその当時我が国は「世界の孤児」であり、真実の友邦はなく、ほとんどの国から警戒され、敵対されていたものである。そのような状況からして、政治的意図をもって、その当時及び我が国の敗戦直後誇大に喧伝されたという側面があるかもしれないが、そうであるからといって、「南京虐殺」自体がなかったかのようにいうのは、正確な調査をしようとせず、「南京」の面積と当時の人口が小さいとし、結局、現時点において正確な調査や判定をすることが難しいことに乗じて、断定し得る証明がない以上事実そのものがなかったというに等しく、正当でないというべきであろう。)」。
 先に引用の部分と併せて、この長い叙述は一体何だろう。「原告Aがその被害者であることも明らかである」と書いた直後に「…当時から世界に喧伝されていた」と述べるが、この後者は被害=損害発生の事実認定のための理由づけのつもりなのだろうか。さらにその後の()内は一体何だろう。「断定し得る証明がない以上事実そのものがなかった」という主張を「正当でない」と非難しているが、これは裁判官が吐くべき言葉だろうか。不法行為・損害賠償請求訴訟において原告に加害行為の事実の立証責任があるのは常識的だが、あえて逆のことを述べている。この判決は「本件に関する基本的な事実関係」につき「認識するところ」を「当裁判所の限られた知見及び能力の範囲内」で「一般的な歴史書物」等に依って「最小限度で言及」すると前の方で述べているので、歴史の「基本的な事実関係」については法的な立証責任の問題と無関係に「認識」しているのだろう。だが、かかる方法は歴史認識について適切なのか。また、既述のように、そのような「認識」を「示す」必要性はそもそもなかったのだ。
 中国人は戦争(日本軍人による)被害につき日本国に対して損害賠償請求権を持たないと述べるだけで訴訟の処理としては十分だ。日本軍人による損害がかりにあってもとか、戦争損害の有無にかかわらずとかを付加し、その余の諸点を論じるまでもなく、と書けば十分だ。にもかかわらず、何故この判決は(引用しないが)14世紀からの!中国・日本の歴史を長々と書くのか。上海攻略後、「日本軍及び日本兵は、…心身ともに消耗、疲弊した兵士らの士気低下、軍紀弛緩等が問題となっていたまま」などとさも<見ていたかの如く>書けるのか、つまりは「認識」できるのか。この判決は、従って三裁判官の神経は、常軌を逸している、と思う。なぜこうなったのか。三裁判官の基本的な対中「戦争」観・贖罪意識によるのではないか。(つづく)

-0015/藤代孝七船橋市長は同市職員・土橋悦子を懲戒免職に。

 さっき夜とはいえ屋外の温風の中で憔悴した。
 温風といえば、船橋市役所の同市職員・土橋悦子に対する措置は「温風」すぎる。迂闊にも今年になって知ったのだが、船橋市職員(司書)で市立西図書館に勤務していた土橋悦子という女性が、(冊数が多い順に)西部邁、渡部昇一、福田和也、西尾幹二、長谷川慶太郎、小室直樹、谷沢永一、岡崎久彦、日下公人、坂本多加雄、井沢元彦、藤岡信勝、高橋史朗、福田恒存、一団体の、同図書館所蔵の著書計107冊を除籍・廃棄した(リストから外して捨てた)。うち個人8名等が慰藉料請求訴訟を提起し、第一審・控訴審ともに請求棄却だったが(但し、例えば1審判決は土橋は「原告…に対して否定的評価を抱いていた」、「他の職員に対して原告らの著書を書棚から抜いてくるよう指示して手元に集めた…」、「本件除籍等は、原告つくる会らを嫌悪していた被告A(土橋)が単独で行った」と認定し、市との関係では土橋の行為は「違法」と明言していた)、最高裁は昨年7月14日判決で「公立図書館の図書館職員が閲覧に供されている図書を著作者の思想や信条を理由とするなど不公正な取扱いによって廃棄することは、当該著作者が著作物によってその思想、意見等を公衆に伝達する利益を不当に損なう」、「公立図書館において、その著作物が閲覧に供されている著作者が有する上記利益は、法的保護に値する人格的利益である」として国家賠償法上も違法となるとし損害賠償請求が認容されるべきものとして破棄差戻した。これを受けて東京高裁は昨年11月24日に原告一人3000円+法定利息という少額ながら市への請求を認容した。
 土橋悦子は公務員である。が、人の「思想」・「主張」によって不利に「差別」的に取扱った。「嫌いな」主張者に市の施設(水道も公園も)の利用を拒み、極論すれば市立病院で意図的に不利に扱って死なせることに等しい。公務員に対する根本規範(職務の公正・中立性)を侵害することの明白な極めて重大で「深刻」な非違行為だ。船橋市長は懲戒減給処分しか土橋にしていないようだが、懲戒免職処分に値する。被害者が「特定」の方向の人々らしいから言うのではない。逆の方向?の人々でも問題の本質は同じ。右か左かの問題ではない。不正義か正義か、悪か善か、「歪んで」いるか「真っ当」かの問題だ。

ギャラリー
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