菅直人が首相の頃、自民党の記者発表の場の背景にも「絆(きずな)」という言葉が書かれてあったのでこの欄に記す気を失ったのだったが、当時、菅直人は好きな、または大切な言葉として「絆」をよく口に出していたように思う。あるいはテレビ等でも、大震災の後でもあり、人間の「絆」ということの大切さがしばしば喧伝されていたように思う。
だが、少なくとも菅直人が使う「絆」については、次のような疑問を持っていた。すなわち、彼がいう「絆」とは主としては自らの意思で選びとった人間関係を指しており、市民団体やNPO内における人間関係や、これらと例えば被災者との間の「絆」のことを主としては意味させようとしているのではないか、と。
そして、「絆」とは異なる別の貴重な日本語があることも意識していた。それは、「縁」だ。「縁」とはおそらく(辞典類を参照したことはないが)、個人の「意思」とは無関係に、宿命的なまたは偶然に生じた人間関係のことで、例えば、<地縁>、<血縁>などという言葉になって使われる。これらは菅直人が好みそうな「絆」とは違うものではないか。「縁」による人間関係も広義には「絆」なのかもしれないが、後者を狭く、個人の意思による選択の要素が入るものとして用いれば、「絆」と「縁」は別のものなのではないか。
そして、かなり大胆に言えば、「左翼」はどちらかというと個人の意思の介在した「絆」を好み、血や居住地域による、非合理的な「縁」という人間関係は好まないのではないか、「保守」の人々ははむしろその逆に感じる傾向があるのではないか、と思ってきた。
さて、被災地において「地縁」関係が重要な意味を持ったし、今後も持つだろうということは明らかだが、戦後日本で一般に「血縁」というものが戦前ほどには重要視されなくなったことは明らかだろう。
戦前の「家族」制度に対する否定的評価は-それは「悪しき」戦前日本を生んだ温床の一つとされた-「個人の(尊厳の)尊重」と称揚と対比されるものとして幅広く浸透したし、現にしている、と思われる。
「個人の尊重」は書くが「家族」にはいっさい言及しない日本国憲法のもとで-樋口陽一は現憲法の中で最重要なのは13条の「個人の尊重」だとしばしば書いている-、「血縁」に重要な意味・位置を戦後日本と日本人は与えてこなかったのではないか、広義での「絆」の中に含まれる基礎的なものであるにもかかわらず。
もちろん、親(父または母)と子の間や「家族」の中の<美しい>人間関係に関する実話も物語も少なくなく紹介されたり、作られたりしている。
だが、本来、基本的な方向性として言えば、樋口陽一ら<左翼>が最重要視する「個人の(尊厳の)尊重」と「血縁」関係の重要性を説くことは矛盾するものだ。親子・家族の<美しい>人間関係を語ることには、どこかに上の前者と整合しない要素、または<きれいごと>も含まれているのではないか。こんな関心から、さらに何がしかを追記していこう。
菅首相
〇すでに批判的に言及した月刊正論9月号巻頭の櫻井よしこ論考(談)を、産経新聞8/21の「論壇時評」で、石井聡は、こう紹介している。
「『菅災』が大震災や原発事故対応にとどまらず、外交面でも国益を大きく損なったと批判するジャーナリストの櫻井よしこは『希望がないわけではありません』という〔出所略〕。民主、自民両党の保守系議員らが『衆参両院の各3分の2』という憲法改正の高いハードルを2分の1に下げることを目指す『憲法96条改正を目指す議員連盟』で既成政党の枠を超えた活動を始めており、これが日本再生への起爆剤となると期待しているからだ。/同時に櫻井は『不甲斐ないのは自民党現執行部』と、菅の延命を見過ごした野党第一党の責任を問うている。谷垣禎一総裁の下で『相も変わらず、元々の自民党の理念を掲げていない』と憲法改正に取り組む熱意の薄さを批判し、民主党政権と『大差のない政策しか提示し得ていない』と言い切る」。
以上が全文で、「時評」と掲げるわりには論評部分はない。
この石井聡や最近に吉田茂の「軍事参謀」だった辰巳栄一に関する著書(産経新聞連載がもと)を刊行した湯浅博等々のように、産経新聞社内には、屋山太郎や某、某等々の知名度はよりあると思われる者たち以上の知見と文章力を持った論客がいると、とくに最近感じているのだが、上の後半部分、とくに櫻井よしこが自民党は「民主党政権と『大差のない政策しか提示し得ていない』と言い切」ったことについて石井聡は、あるいは産経新聞編集委員たちは、どう評価しているのかを知りたいものだ。
産経新聞は民主党を厳しく批判してきたが、自民党を積極的に支持してきたわけでもなさそうだ。それは、産経新聞が自民党の機関紙のごとく世間的に印象づけられることが経営的にもマズいと判断しているからかもしれないが、よく分からない。
だが、もともと産経新聞は自民党よりも「右」だという印象を持つ者も少なくはないだろう。一方また、西部邁や西尾幹二のように、産経新聞に対する批判を明言する「保守」派論者もいる。
ともあれ、櫻井よしこに対する遠慮などをすることなく、個人名であるならば、自民党は民主党と「大差がない」という櫻井の理解が適切なものかどうかくらいにはもう少し立ち入ってみてもよかったのではないか。日本の今後にとっても基本的な論点の一つだろうから。
〇産経新聞の8/14社説は「非常時克服できる国家を」等と題うち、菅直人政権の非常時対応について、こう書いた。
「戦後民主主義者が集まる国家指導部は即、限界を露呈した。緊急事態に対処できる即効性ある既存の枠組みを動かそうとさえしなかったからだ。安全保障会議設置法には、首相が必要と認める『重大緊急事態』への対処が定められているが、菅直人首相は安保会議を開こうとしなかった。重大緊急事態が認められれば、官僚システムは作動し、国家は曲がりなりにも機能したはずである」。
菅政権を「戦後民主主義者が集まる…」と規定していることも興味深い(誤りではないだろう)。さらに、菅首相(当時)の「不作為」として、安全保障会議設置法にもとづく同会議の招集の不作為のみを挙げ、一部?に見られた、①災害対策基本法による<緊急政令>発布の不作為、②武力攻撃事態等国民保護法の震災・原発事故への適用の不作為、を挙げていないのは、私と同じ適切な法的理解に立っているように思われる。このような社説(産経の「主張」)の中でこれらの①②も問責していれば、おそらく産経新聞は大恥をかいていただろう。
さらに遡るが、但木敬一(元検事総長)は産経新聞7/27でこう論じていた(一部要約)。
・内閣法6条は「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する」と定めるが、同法5条の1999年改正により閣議を内閣総理大臣が主宰する旨の規定に、「この場合において、内閣総理大臣は、内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議することができる」という文言が追加された。
・菅直人首相が「特に7月13日、官邸に記者を集め、脱原発を提唱したのは、内閣法の精神にもとるように思われる。エネルギー政策の転換は、国民生活、経済活動に幅広く、かつ深刻な影響を与える。従来の内閣の方針に明示的に反する政策の大転換は、まさに『内閣の重要政策に関する基本的方針』そのものではないのか。各国務大臣がそれぞれの観点から複眼的に閣議で論議すべき典型的事例であり、閣議を経ずして総理が独断で口にすべきことではない」。
このように但木は、菅による「脱原発」との基本政策の表明を、内閣法(法律)違反ではないか旨を述べている。
首相のあらゆる言動が(浜岡原発稼働中止要請も含めて)閣議による了解(または閣議決定)を必要とするかは、上の内閣法6条「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する」の射程範囲の理解または解釈にかかわる議論が必要だし、すでにあるものと思われる。「内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議」する権限が、「重要政策に関する基本的な方針」の決定・表明に関する<義務>なのかどうかも議論する余地はなおあるだろう。
むろん政治的・政策的な検討や議論はなされてよいのだが、上で指摘しているのは「法的」検討の必要性であり、「法的」論点の所在だ。
菅直人による(閣議を経ない)浜岡原発稼働中止要請や(閣議を経ない)「脱原発」基本政策表明がはたして法的にあるいは法律上許容されるのか、という問題があるはずなのだが、産経新聞の阿比留瑠比も含めて、どの新聞社の政治部記者たちも、そうした法的問題があるという意識自体をほとんど欠落させたままで日々の記事を書いているのではないか。これはなかなか恐ろしい事態だ、というのが先日に書いたことでもある。
〇朝日新聞社の存在を意識すると、この国に住みたくなくなる気分が生じるほどだ。
こんな社の作る新聞が700万部も発行され、2000万人程度には読まれ、評論家類は必ず目を通し、マスコミ関係者も参照してテレビでもワイドショー類を通じて拡散されていく。恐ろしい現実だ。
その「左翼・売国」ぶりは相変わらずで、「野田佳彦財務相が、靖国神社に合祀されているA級戦犯について、戦争犯罪人ではないとの見解を示した」ことについて、8/18付朝日新聞社説はさっそくいちゃもんをつけている。そして、「首相になれば過去の歴史を背負い、日本国を代表して発言しなければならない。行動を慎み、言葉を選ぶのが当然だ」などと説教を垂れている。さすがに、「歴史認識」問題に関して、中国・韓国(政府・マスコミ)に対して「ご注進」してきた新聞社だ。
〇3.11あるいは6.02以降、「政治」的話題に事欠かなかった。
震災対応への不手際や内閣不信任頓挫等の事象・事件は、自民党(中心)内閣下のものであれば、朝日新聞はもっと大きくとり上げて騒いでいただろう。大震災への「政治」の誤った作為・不作為を問う姿勢に乏しく(むしろ原子力政策を推進したのは自民党内閣だったという自民党への批判が記事作りにも感じられた)、政府にむしろ暖かかったのではないか(他紙に比べて)。
また、民主党出身議長による菅直人首相への辞職要求発言は客観的には大きな話題とされてよいとてつもない「事件」の筈なのだが、朝日新聞は大きくとり上げた気配がない(他紙も問題の大きさのわりには、話題を大きくしなかった。菅直人の不人気ぶりが極まっていたので、それに埋没した感もある)。
震災への対応、不信任頓挫事件、参院議長発言等々、これが自民党(中心)内閣下のものであったなら、朝日新聞はまったく異なる報道ぶり・紙面づくりをしていたと思われる。なぜなら、この新聞社は「政治活動家」団体であり、自民党内閣打倒のためならば、いかなる誇張もデマ宣伝まがいのことも平気でしてきた新聞社だからだ。
〇安倍晋三内閣のもとでの2007年参議院選挙の前後の朝日新聞や「週刊朝日」の報道ぶり・誌面や記事作りは、産経新聞が「何たる選挙戦」との連載記事に含めたほどのヒドい、悪辣なものだった。
と思いつつ最近の「週刊朝日」の表紙のタイトルを見ていると、面白いことに気づく。3/11以降、一号(6/17号)だけを除き、08/19号の「菅直人が3.11以後のすべてを語る」まで、すべて「政治」性を直接には感じさせないテーマ・タイトルが選ばれている。以下のとおり。
110812 プロ13人が注目する31銘柄
110805 あの店の肉は大丈夫?
110729 社長の年収
110722 食品から解毒法まで・放射能の疑問に答える
110715 忍び寄る放射能から家族を守れ!
110708 放射能・震災からペットを守る!
110701 食べてはいけない!夏の食材・見分け方
110624 あなたの街の放射能汚染
110617 今度の総理はだ~あれ?
110610 放射能汚染・食べてはいけない見分け方
110603 放射能から身を守れ!
110527 浜岡原発停止はフクシマの「罪滅ぼし」
110520 ビンラディン射殺作戦の全貌
110506・13 東電が公表しない放射線量データ
110429 響け!負けないで
110422 復興への祈り(両陛下)
110415 福島原発のデス・ロード
110408 東北振興で始まるニッポン復活のへの道
110401 日本は必ず復興する!
110325 東北関東大震災・奇跡の生還
110318 元「暴」系タニマチが豪語・前原は総理になる<震災以前の発行と思われる>
2007年の安倍晋三内閣時代との違いは大きい。
本来は「政治」が好みの朝日新聞が、上のごとく「政治」的話題をできるだけ避けていることは明白だ。「政治」状況が、「歴史的な政権交代」をなしとげた民主党には不利で、それに輪をかけるような報道・記事作りをしたくなかった、というのが本音だろう。
さすがに、「政治活動家」組織の朝日新聞社だ。この新聞社が消滅するか大きく弱体化しないと、「戦後」は終わらないし、終わらせることもできないだろう。
〇「その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるとき」は免責する旨を定原子力損害賠償法〔原子力損害の賠償に関する法律〕3条第一項但書に関する政府の解釈もマスメディアの議論も不明瞭なままではないか旨を先日8/02に記した。
産経新聞の「主張」=社説をさかのぼって見ていると、「原子力賠償法案/『国の責任』はっきり示せ」と題する7/29付のそれで、次のように論及されていた。他紙は調べていない。
「損害賠償をめぐる議論には、最初からボタンの掛け違いがあった。原子力事故の際の補償を定めた原子力損害賠償法では、異常に巨大な『天災地変』の場合、電力会社は賠償を免責され、国が責任を負うと定めている。/しかし、菅直人政権は初めから、この条項の適用の可否を議論することなく、東電の『無限責任』を前提にしてきた。そこにそもそもの根本問題がある」。
菅内閣はやはり上の法律の解釈問題にほとんど立ち入らず、事業者の「無限責任」を前提にしているようだ。ここにも法律または法令の順守=誠実な執行ではなく「政治」・「政策」=国民の人気取りの方を優先しようとする菅直人内閣(・民主党内閣)の本質の一端が見られるように思われる。
〇さて、佐々淳行・ほんとに彼らが日本を滅ぼす(幻冬舎、2011)への言及をつづける。
一 第二章「危機管理の検証」の既読の最初あたりまでは、佐々は、安全保障会議設置法と国民保護法の適用を主張し、それをしなかった菅内閣を難詰している。
国民保護法の問題は別に扱うが、前者による安全保障会議の招集・開催については(その要件も充足しており)それをすべきだっただろう旨は私もこの欄で既に書いた。
興味深く、かつなるほどと思わせるのは、佐々淳行が推測する、菅直人が上の諸法律を適用しなかった理由だ。
佐々は次のように言っている。
・自衛隊・警察という「力のあるもの」には「生理的に体質的に拒否反応」があり、できるだけ「平和的に、事勿れの楽観論」をとるという「左翼特有の基本姿勢」があったからではないか(p.77)。
・「市民運動家の感覚で生理的に…実力部隊の国家的掌握を嫌い」、「地方分権、非権力主義的権力分散の発想」で今回の大震災に取り組んだ。都道府県・市町村を中心主体とする災害対策基本法を使い、「なるべく自衛隊や警察機動隊を使わないですまそうとしたにちがいない」(p.78)。
・上の二つの法律の適用を拒否したのは、これらの法制の淵源が「有事法制の研究」にあり、菅直人は昔から「有事法制」に反対だったからだ(p.82)。
安全保障会議についてこの指摘があたっているとすると、震災・原発事故後の政府の対応(不作為を含む)は人災・<政治災害>であり、「菅災」である可能性が高い。「左翼」政権であったがために、適切な対応ができなかったのだ。何という悲劇か。
二 一方、国民保護法(武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律)の適用可能性を前提とする、佐々淳行の主張については、にわかには賛成しかねる。
佐々は、次のように言う。-緊急的な「国民の保護のための措置」は「武力攻撃事態等」になされうるのであり、「災害」を含むとは明記されていなくとも、「武力攻撃事態等」の「等」に中に含めることができる(実質的にも東北被災地は武力攻撃を受けたに等しい惨状だ)。「列挙」には「限定列挙」と「例示列挙」があるが、国民保護法は「例示列挙」で、「必要に応じて同種同類のものは高度の政治行政の有権解釈で拡大解釈や準用が許される」(p.85-86)。
「列挙」に関する説明は一般論としてはその通りだろう。問題は、国民保護法についてそれがあてはまるかだ。
佐々淳行は立ち入っていないが、法律の名称にいう「武力攻撃事態等」とは何を意味するかを、当該法律自体がどう定義しているか等を明らかにすることを試みる(そのために条文を調べてみる)ことがまず必要かと思われる。
国民保護法(上記のとおりで略称)2条第一項は次のように規定する。
「この法律において『武力攻撃事態等』、『武力攻撃』、『武力攻撃事態』、『指定行政機関』、『指定地方行政機関』、『指定公共機関』、『対処基本方針』、『対策本部』及び『対策本部長』の意義は、それぞれ事態対処法第一条、第二条第一号から第六号まで(第三号を除く。)、第九条第一項、第十条第一項及び第十一条第一項に規定する当該用語の意義による。 」
ここにいう「事態対処法」という略称は、国民保護法1条の中で明記されてように、「武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律」を意味する(平15法律79)。この事態対処法(略称)で「武力攻撃事態等」等の意味は定められている、というわけだ。
従って、事態対処法(略称)をつぎに見てみる。
この法律の1条の冒頭にまずこうある-「この法律は、武力攻撃事態等(武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態をいう。以下同じ。)への対処について、基本理念、国、地方公共団体等の責務、国民の協力その他の基本となる事項を定めることにより、……」。
「武力攻撃事態」とは「武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態」のことをいうのであり、それは国民保護法(略称)についても同じなのだ。これらの中に地震・津波災害や原発災害は含まれるのか?
事態対処法(略称)2条は、「武力攻撃」・「武力攻撃事態」・「武力攻撃予測事態」を、さらに、次のように定義している。
いかに大規模で深刻なものであっても、地震・津波災害や原発災害は「武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態」の中には含まれないとするのがおそらくは適切な法解釈だろう。
なお、「武力攻撃事態等」=「武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態」なので、前者の「等」は、「武力攻撃予測事態」を意味することになるが、これは佐々の用語にいう「限定列挙」にあたる。「武力攻撃予測事態『等』」ではない。
というわけで、すでに<有事立法>に簡単に触れる中で自然災害・原発災害は含まない旨を記したことがあるが、それは正しく、いわゆる国民保護法を今時の大震災・原発災害に適用することは、いかに高度の政治的判断をもってしても、「法的には」無理ではないか、と思われる。
佐々淳行の本は最後まで読み続ける価値があると思っているが、全く瑕瑾のない書物だとは、残念ながら言えそうにないように見える。
佐々淳行・ほんとに彼らが日本を滅ぼす(幻冬舎、2011.07)を一気に1/3ほどまで読む(計245のところp.86まで)。以下、まずは順を追ってメモしておく。
・佐々によると、「菅氏は冥府魔界から人間界に這い出してきた魑魅魍魎の地底人の妖怪の類だ。ウソをいい、人を裏切り、人を欺し、自己愛と総理の椅子に一日でも長くしがみつくこと自体が(略)目的のエゴイストで、国家観も社会正義観もない。日本人の道徳律〔略〕のすべてを欠く。その人格は論評のしようもない程低劣、妖怪としかいいようのない恥知らずである」(序章p.11)。
こうまで罵倒される首相も珍しいだろう。8/10にようやく明確な近日中の辞任を表明した。かかる人物を首相にならしめた契機になった2009総選挙に際しての、民主党への投票者は、どの程度反省し、後悔しているだろうか。数千万分の一票にすぎず、何の反省も後悔もないのかもしれない。むろん第一の主犯は、そのような投票行動を誘発した朝日新聞等の「左翼」マスメディアにあると思われるが。
・日々の新聞・テレビ報道等は断片的で非本質的なものを多く含むため、佐々のこの著によるこの間の経緯の叙述は、資料的にも、わずか5カ月のことだが歴史回顧的にも、大いに役立つ。
例えば、原子力対策特別措置法にもとづく「原子力緊急事態宣言」は3/11の午後7時3分に発令された、とされる(p.27)。
政府(・枝野内閣官房長官)が当初、直接の危険はないが「万全を期すため」と称して規制・指導を行ったこと、最初の塔屋爆発後の政府・東電の混乱や情報提供の不備等々も、具体的に叙述されている。
・3/25の福島第一原発付近住民への<自主的な避難の要請>が、原子力災害対策特別措置法による正規の避難「指示」・「勧告」だと「放射性物質による汚染拡大を正式に認定することになり、周辺住民の不安に拍車をかけかねない」(下記新聞)という理由での、中途半端かつ人任せの無責任な措置だったことも、毎日新聞3/26記事を引用しながら指摘している(p.52-53)。
・他にも、「菅直人という人間の宿痾ともいうべき『責任逃れ』」、「専門家への丸投げ」、会議・本部の「二〇以上の組織」の乱造、「惨憺たる」東電・原子力安全保安院等の「広報体制」等が言及されている。
・佐々によると、原子力安全委員会委員長・斑目春樹は、3/12の首相現地視察に同行して(塔屋爆発前に)「原発は大丈夫です。構造上爆発しません」と進言したらしい(p.59)。
・ 4/04に東電は第一原発の汚染水の海中放出を始めた。これは原子炉等規制法64条による(緊急)措置らしい。このように、法学部出身警察・危機管理官僚だった人物らしく、根拠法令(・条項)やその有無にも配慮された叙述がなされているのが、一般新聞・テレビ報道などとは異なる。
もっとも、この緊急措置の実施は、関係自治体や諸外国への事前連絡・根回しがなかったために混乱や批判も生じた(p.63-64)。
・佐々は、5/06の、菅直人首相による浜岡電発運転停止要請に対しても批判的だ。
理由をあえて整理すれば一つは「法的根拠」のないこと、二つは「人気取り」の側面が大きく、「電力需要への責任など、菅総理は毛頭感じていない」のだろうということ、両者に関連して「政府での検討過程も明らかにされていない」こと、が挙げられている。
かつてこの欄で、法的根拠がなくとも行政指導ならばできるだろう旨を書いたことがある。厳密な法的理屈はそのとおりだと今でも思うが、重要な政策決定についてはいかに「要請」ではあっても、少なくとも「閣議決定(了解)」くらいは得ておくべきだ、内閣総理大臣かぎりでの行政指導・「要請」権限は濫用されてはならない、ということは今の時点で追記しておきたい。
・東電が第一原発一号機は津波襲来から16時間後に「メルトダウン」していたことを認めたのは、5/12だった(p.72)。確認まで二ヶ月以上も要する(p.72)ものなのか、東電は隠してはいなかったのか、疑問は残るだろう。
・「言った、言わない」の「水掛け論は、菅内閣の特徴にして看過できない悪弊」だとして具体例も挙げられている(p.73-74)。佐々は第一原発所長・吉田昌郎の継続注入の判断を「称賛に値する」としているが、海水注入延期問題も斑目春樹の「言った、言わない」水掛け論的だった(p.72-73参照)。
・第一章は、「菅内閣は危機管理以前に、組織としての体を成していない。/…この人は組織というものがわかっていない」、「保身に走り、言い訳を繰り返す姿は醜い」等と、まとめられている(p.74)。
本来書きたかったことは、次の国民保護法に関する叙述についてだ。次回以降にする。
産経新聞7/24の稲垣真澄「論壇時評」は、新潮45の2011年8月号の、片山杜秀「国の死に方2/ヒトラーの命がけの遊び」にほとんどを費やして注目し.要約的な紹介もしている。
この書評記事を読む前に上記の片山杜秀の新潮45論考を読んで感心していたので、あらためて印象に残った。
稲垣真澄の文章から離れて(それに依拠しないで)片山の文章の一部を紹介してみるが、菅直人・菅内閣という言葉はどこにもないにもかかわらず、つまりヒトラーに関する文章であるにもかかわらず、菅直人・菅内閣を強く想起させるものになっている。以下、一部の要約的紹介。
・ナチス時代のドイツは無統制的で責任の所在不明確で役割分担が曖昧だった。平時にも非常時にも徹しきれず、中途半端。ヒトラーは何か失敗したのか。いや、すべてが計算づくだった。「ヒトラーは意図的に国家を麻痺させていった」。ハンナ・アレントはこれを(のちに)「無秩序の計画的創出」と呼んだ(p.83-84)。
・なぜそんなことをしたのか。「ヒトラーは一日でも長くドイツ国家の頂点に居座りたかっただけ」だ。しかも、自らの権力を単なる調整ではない実のあるものにしておきたかった。それには、「ワイマール共和国の作り上げたいかにも近代国家らしい複雑精緻で能率的な機構」が邪魔だった。政治・経済・文化・科学の専門組織がきちんと機能すれば、各分野の専門家が実権を握る=「官僚等が幅を利かせる」。独裁者・権力者も調整役に甘んじ、専門家たちを統制できず、権力の上層は空洞化する(p.84)。
・いやならば専門組織を機能させなければよいが、「いきなり壊しては国家が即死する」だけなので、近代国家の「精密なメカニズムを怪奇なポンコツへとわざとゆっくり時間をかけて」変貌させる。党と政府の組織をすべて「二重化」し、党と政府の中に「似た役割の機関を増殖させる」(p.84)。
・その果ては「国家の死」だが、ヒトラーにはそれでよかったのだろう。彼は中下層の実務家に降りていた権力を上へと回収し、裁量権を拡大した。「法律の裏付けも実現可能な根拠もない思いつきの命令」を「唐突に」発しても、組織が多すぎて批判すべき部署が分からなくなり、「権力の暴走」を止められなくなった(p.84)。
・ここに「ヒトラーの政治の肝腎かなめ」がある。古代ローマの「一時的独裁」とはまるで異なる「ファシズム」なのだ。軍国主義・戦争を連想するように、平時にはファシズムは成立し難い。しかし、非常時は戦争に限らず、軍隊が登場しなくてもよい。「経済危機でも大災害でも電力不足」でもヒトラーの掲げた「共産主義の恐怖」でも何でもよい。そうした「非常事態に対処するためと称して、社会の見通しを悪くし、人々から合理的な判断の基盤を失わせ、世の中が刹那的な気分で運ばれてゆく」ようになれば、もう「立派なファシズム」だ(p.85)。
・ヒトラーは「命がけの遊び」を続けた。「日々に新しい組織を仕立て、次々と非常事態的新事態を引き起こした」。何が根本的問題でどう解決すべきなのか、彼はナチス党員にも国民にもゆっくり考える暇を与えなかった。そして、「目先の混乱状況をエスカレートさせては、それだけでいつも人々の頭を一杯にさせた。そうやって一日一日と綱渡りで延命した」(p.85)。
以上、どう考えても、どう読んでも、菅直人(・民主党内閣)が念頭に置かれていないはずはない文章だ。
例えば、大災害・原発不安等々の「非常事態に対処するためと称して、社会の見通しを悪くし、人々から合理的な判断の基盤を失わせ」ているのは菅直人そのものであり、ほとんどのマスメディアも本質的なことは報道しないで、ヒトラー、いや菅直人のお先棒を担いでいるだけではないのだろうか。
思えば、ナチス党の正式名称は「国家(民族)社会主義労働者党」なのだった。ナチスあるいはファシズム=「右翼」と多くの人々は理解している(感じている)のかもしれないが、「社会主義」・「労働者」を冠した、立派な<左翼>政党だったとも言える。
もともとハイエクやハンナ・アレントが指摘したように、あるいは旧民社党が「左右両極の全体主義を排し…」などと言っていたように、コミュニズム(共産主義)とナチズムは「全体主義」という点で共通性がある。
「左翼」・菅直人がヒトラーによる「ファシズム」的政治・行政手法を採っていても、何の不思議もない。
<法令による行政>を軽視している(そして<権威による行政>を行っているのではないか)という感想は、(前回からのつづきで)第二に、「ストレス・テスト」導入をめぐるいきさつからも生じる。
産経ニュースをたどれば、菅直人は7/07に参議院委員会で、民主党・大久保潔重の「首相自ら再稼働の条件について説明してほしい」との質問(・要求)に対して、次のように答えている。
「従来の法律でいえば点検中の原子炉の再開は(経済産業省)原子力安全・保安院のチェックで経産相が決められるが、それでは国民の理解を得るのは難しい。少なくとも原子力安全委員会に意見を聞き、ストレステストも含めて基準を設けてチェックすることで国民に理解を得られるか、海江田氏と細野豪志原発事故担当相に仕組みの検討を指示している」。
玄海原発再稼働にかかる地元町長と佐賀県知事の同意を得られそうになった時点で、菅直人が「ストレス・テスト」なるものの必要性を唐突に(?)かつ独断的に言い出して、<政治的>にも話題になった。また、上の発言に見られるように、「ストレス・テスト」の具体的内容・基準について細かな想定のない抽象的なイメージしか持っていないことも明らかだった。
ここで問題にしたいのは、あとで自民党・片山さつきがストレステスト(合格)は再稼働の要件かと質問しているが、海江田万里経産大臣が「今回、佐賀県玄海町の岸本英雄町長には(玄海原発の)安全性が確保されているとして(再稼働の同意を)お願いしたが、そういうわけにいかなくなった」等と述べているように、結果的にまたは実質的には、再稼働の要件を厳しくしていると見てよいことだ。
ここでも(より十分な)安全性の確保・確認が大義名分とされている。しかし、詳細は知らないが「法律」とはおそらく原子炉規制法〔略称〕およびそれの下位の法令(・運用基準?)を意味するのだろう、菅直人の言うように「従来の法律でいえば点検中の原子炉の再開は(経済産業省)原子力安全・保安院のチェックで経産相が決められる」のだとすれば、そのような法律(・法令)上の定め以上に厳しい基準を再稼働について課すことは、原発・電気事業者からすれば、法令で要求されていないことを内閣総理大臣の思いつき(?)的判断でもって実質的に要求されるに等しい。
これは関係法律の「誠実な執行」にあたるのだろうか? 「ストレステスト」なるものがかりに客観的にみて必要だとしても、内閣総理大臣の唐突な思いつきで事業者に対して実質的により大きな負担を課すことになるものだ。そうだとすれば、関係法律(または政令等)をきちんと改正して、あるいは関係法律の実施のために厖大な「通達」類があるのかもしれないがその場合は「通達」類をきちんと見直して改訂したうえで、「ストレステスト」なるものを導入すべきだろう。
菅直人のあまりにも<軽い>あるいは<思いつき>的発言は、個々の関係法律(上の言葉にいう「従来の法律」)をきちんと遵守する必要はない、それに問題があれば内閣総理大臣という地位の<権威>でもって法令以上のことを関係者に要求し実質的に服従させることができる、という思い込みまたは考え方を背景としているのではないか。
<軽い>・<思いつき>・<唐突>といった論評で済ますことのできない問題がここには含まれている、と思われる。既存の法令類に必ずしも従う必要はなく、それらの改廃をきちんと行っていく必要もない、そして首相の<権威>でもって「行政」は動かすことができる、と菅直人は考えているのではないか。<独裁者>は、法令との関係でも「独裁」するのだ。
その他の民主党閣僚等も自民党幹部も、このような菅直人の言動の本質的な部分にあるかもしれない問題を、どの程度意識しているだろうか。
瞥見するかぎりでは、かかる<法的>感覚または<法秩序>感覚にかかわる問題関心・問題意識は、一般全国紙等々のマスメディアにはない。阿比留瑠比(産経)は有能な記者だと思うが、法学部出身者らしいにもかかわらず、<法令と行政>の関係についての問題意識はおそらくほとんどない(少なくとも彼が執筆している文章の中には出てこない)。阿比留瑠比がそうなのだから、他の記者に期待しても無理、とでも言っておこうか。
まだ、続ける。
一 よく分からないことが多すぎる。菅直人は、あるいは民主党内閣そのものが、そもそも<法律にもとづく又は法律にしたがった>行政活動という考え方を理解していないか、無視する傾向にあるように感じる。法律(やそれ以下の政令等)の制定・改廃そのものが<政治>でもあるが、法律や政令等(以下、法令)があるかぎりは、それを内閣総理大臣をはじめとする行政部は遵守し、きちんと実施・執行すべきものだろう。また、既存の法令に不備・不都合があれば、淡々と改正や新法令の制定をすべきものだろう。
現憲法73条は、「内閣」の事務の一つとして「法律を誠実に執行」することを明記している(第一号)。
はたして菅内閣は「法律を誠実に執行」しているのだろうか、あるいはそもそも、そういう姿勢・感覚を身につけているのだろうか。菅直人にあるのは、<法的権限にもとづく政治・行政>よりも<権威による政治・行政>をより重視しようという感覚ではないかと思われる。法律は「国家」権力そのものなので、それをできるだけ忌避したいという<反国家>=<反法律>心情を有しているのではないかとすら疑いたくなる。あるいは、何となく国家中枢が溶融していて、シマリがないように感じてしまうのは、法令を遵守した行政とそうではない政治的に自由な(具体的な法令が存在しないために法令から自由な)行政との区別がきちんとついていない、ということにも原因があるのではないだろうか。
以下、専門的な議論に立ち入る能力はないが、いくつかの具体例を紹介し、またはそれらに言及する。こうした諸問題があるにもかかわらず、テレビの報道系番組はもちろんのこと、一般全国紙もまた、以下のような<法的>議論・問題についてほとんど論及することがないのは、いったい何故なのだろうか、というのも、最近感じる不思議なことでもある。
二 安倍晋三らもすでに批判的に指摘していることだが、今時の大震災・原発事故に関して、法律上の「安全保障会議」が召集・開催されなかった、という問題がある。
安全保障会議設置法(法律)によると、同会議は内閣に設置され、議長と議員で組織され、議長を内閣総理大臣、「議員」を総務・外務・財務・経済産業・国土交通大臣・防衛の各大臣、内閣官房長官、国家公安委員会委員長およびこれら以外に内閣総理大臣の臨時の職務代理者(内閣法10条)があるときはその者、が担当する(4条・5条)。
内閣総理大臣は、次に記す事項については、この会議に「諮らなければならない」と定められている(2条1項。 また、諮問なしにでも「意見を述べる」ことができる-2条2項)。
その法定の事項のすべてを列挙するのは省略して、今時の震災・事故が該当する(または、その可能性がきわめて高い)のは、9つの事項のうち最後に明記されている以下の事項だ。
「九 内閣総理大臣が必要と認める重大緊急事態(武力攻撃事態等、周辺事態及び前二号の規定によりこれらの規定に掲げる重要事項としてその対処措置につき諮るべき事態以外の緊急事態であつて、我が国の安全に重大な影響を及ぼすおそれがあるもののうち、通常の緊急事態対処体制によつては適切に対処することが困難な事態をいう。以下同じ。)への対処に関する重要事項 」。
一~八に列挙されているのは大雑把には国防(・防衛)の基本方針・大綱類あるいは「武力攻撃事態」・「武力攻撃予測事態」、「周辺事態」に関する重要事項であり、今時の大震災・原発事故に直接の関係はなさそうだ(但し、この災害を奇貨としてのテロ・内乱等が予想されれば、全くの無関係ともいえないことになろう)。
さて、今時の大震災・原発事故は、その地域的な広さおよび原発事故の深刻さの程度からみて、上にいう「我が国の安全に重大な影響を及ぼすおそれがあるもののうち、通常の緊急事態対処体制によつては適切に対処することが困難な事態」に該当するように考えられる。一~八号は別としても、今時のような災害発生が上の九号に該当しないとすれば、そもそもいかなる事態が九号に該当することになるのか(何のために九号があるのか)、きわめて疑わしいものと思われる。
たしかに上の事項には「内閣総理大臣が必要と認める~」という限定が付いており、内閣総理大臣の判断の<裁量>性が認められ、内閣総理大臣が「必要と認め」なければ安全保障会議に諮るべき事項ではないということに形式的にはなりそうだ。
しかし、今時の大震災・原発事故は、「我が国の安全に重大な影響を及ぼすおそれがあるもののうち、通常の緊急事態対処体制によつては適切に対処することが困難な事態」だと、内閣総理大臣が認めてしかるべき事態ではないかと思われる。すべてが内閣総理大臣の<政治的・政策的>な、自由な判断に委ねられている、とは考え難い。
そうだとすると、安全保障会議が招集・開催されず、「重要事項」についてその会議に諮ることなく震災や原発事故への対処がなされたことは、菅直人首相による「必要と認める」ことの懈怠を原因とする、安全保障会議設置法の基本的な趣旨に違反した違法な対応だったのではないか、と考えられる。
むろんその「違法」が法的にまたは裁判上どのように、またはどのような形で問題にされることになるのかはむつかしい問題があるだろう。だが、かりに訴訟・裁判上の問題に直結しなくとも、たんなる<政治>領域に押しやることができず、客観的には<違法=法律違反>を語ることができる場合のあることを承認しなければならないだろう。
まだあるが、長くなったので、第二点以降は、次回へと委ねる。
なお、上記法律7条には、「議長は、必要があると認めるときは、統合幕僚長その他の関係者を会議に出席させ、意見を述べさせることができる」とも定められている。
<保守>派に限られるわけでもないのだろうが、ときに奇妙な<法的>言説を読んでしまうことがある。
表現者37号(ジョルダン、2011年7月)の中の座談会で、柴山桂太(1974~、経済学部卒)は、こんな発言をしている(以下、p.46)。
「今回の大震災に関しても、…、復旧に関しては、ある程度超法規的措置をとらなければいけない。本来であれば国家が、非常事態で一時的に憲法を停止して…それで対応しなければいけないんだけれども、日本ではそれが出てこない。そもそも戦後憲法に『非常事態』というものに対する規定がないからです」。「日本は近代憲法を受け入れたんだけれども…、平時が崩れた時にどうするかという国家論の大事な部分を見落としてきたという問題も出てきている…」。
問題関心は分からなくはないが、俗受けしそうな謬論だ。この柴山という人物は憲法と法律を区別しているのか(その区別を理解しているのか)、「超法規的措置」という場合の「法規」に憲法は含まれるのか否か、といった疑問が直ちに生じる。
そして、「一時的に憲法を停止」しなければ非常事態に対処できないという趣旨が明らかに語られているが、これは誤りだ。
憲法に非常事態(あるいは「有事」)に関する規定がなくとも、あるいは憲法を一時的に「停止」しなくとも、憲法とは区別されるその下位法である法律のレベルで、<非常事態>に対処することはできる。
なるほど日本国憲法は「非常事態」に関する規定を持たないが、1947年時点の産物とあればやむをえないところだろうし、ドイツ(西)の憲法(基本法)もまた、当初から非常事態(Notstand)に関する規定を持ってはいなかった(彼我の現在の違いは改正の容易さ-いわゆる硬性憲法か否かによるところも大きいだろう)。
憲法が非常事態に対処するための法律を制定することを国会に禁止しているとは解せられないので(実際に、いくつかの「有事」立法=法律およびそれ以下の政令等が日本にも存在している。但し、いわゆる「有事立法」は自然災害を念頭には置いていない)、自然災害についても、現行法制に不備があれば法律を改正したり新法律を制定すれば済むことなのだ。
ともあれ、憲法に不備があるから非常事態に対応できない、というのは(不備は是正されるのが望ましいとは言えても)、真っ赤なウソだ。
JR系の薄い月刊誌であるウェッジ7月号(2011)の中西輝政「平時の論理で有事に対処/日本は破綻の回路へ」も、今回のような大災害に遭遇したとき、本来は「国家非常事態」を宣言して「平時の法体系とは別の体系」に移行すべきだったが、戦後日本の憲法には「そんな条項」はなく、「従って非常法体系も備わってはいなかった」と、柴山桂太と似たようなことを書いている(p.9)。
しかし、<憲法の一時停止>に(正しく)言及してはおらず、「平時の法体系とは別の体系」・「非常法体系」とは法律レベルのものを排除していない、と解される点で(日本国憲法に触れているために少し紛らわしくなってはいるが)、基本的には誤っていない。
上のことは、中西輝政が「現行法にもある災害対策基本法第105条」に(正しく)言及していることでも明らかだ。
次の機会に、「現行法」制度の若干を紹介し、それを菅直人内閣が適切に執行・運用しているかどうかという問題に言及する。これは、 阿比留瑠比も含む「政治部」記者が―法学部出身であっても―十分には意識していない(または十分な知識がない)問題・論点であり、震災に関するマス・メディアの報道に「法的」議論がほとんど登場してこない、という現代日本の異様な状態にも関係するだろう。
何ともヒドイものだ。これほどとは。
一 菅直人は7/13に、「脱原発」=「将来は原発がない社会を実現する」と記者会見で述べたが、閣僚等から疑問・批判が出ると、7/15に、「私の考え」、「個人的な考え方」だったと釈明?した。
内閣総理大臣たる者が、英語で「首相」と書かれ、桐の紋まで刻まれた台に自ら積極的に立って行った記者会見(記者発表)での発言を、わずか二日後に「私(個人)」の考えの表明だった(政府方針ではない)と後退させてしまうとは。
この人は自らの内閣総理大臣たる地位を何と理解しているのだろう。首相としての記者会見(発表)の場で、内閣総理大臣担当者たる立場を離れた「私(個人)」の考えを表明できるはずがないではないか。
かりにそれが閣内や民主党内で支持されていないこと(または唐突感も含めて疑問視されていること)が判明したとすれば、<私的>だったと逃げるのではなく、首相見解そのものを撤回・変更するというのが、スジというものだろう。
こんなことが罷り通るのならば、菅直人の中部電力への浜岡原発停止要請はいったい何だったのかと言いたくなる。
内閣総理大臣による行政指導だったのか、それとも、内閣総理大臣を担当している菅直人個人の<私的>要請(・願望)だったのか? 後者ならば、中部電力はまともに取り上げ、まともに検討する必要はなく、結果として従う必要もなかった。その後に今回のような閣内・民主党内での疑問・批判が出なかったから、たまたま(私的・個人的ではない)内閣総理大臣による要請(行政指導)になったのだとすれば、怖ろしい<政治・行政スタイル>だ。
思いつきで適当なことを(ウケが良さそうで支持率がアップしそうなことを?)発言しておいて、反対論・疑問論が大きいと見るや、「私(個人)」の考えでしたとして逃げることが可能だとすれば、ヒドい、とんでもない、呆れるほどの<政治・行政スタイル>だ。
この一点だけを取り上げても、菅直人首相とそれが率いる内閣の不信任に十分に値する。
産経新聞はほぼ同旨で、7/16社説の大文字の見出しを「首相の即時辞任を求める」と打った。首相が辞任すれば、当然に菅直人内閣は瓦解する。
産経とともに菅の7/13発言の内容にも疑問を呈していた読売新聞は、7/16社説で、<私的(個人的)>見解への転化をさほど大きくは問題視せず、その代わりに、主としてその発言内容自体をあらためて批判している。
いわく、「そもそも、退陣を前にした菅首相が、日本の行方を左右するエネルギー政策を、ほぼ独断で明らかにしたこと自体、問題である。閣僚や与党からさえ、反発の声が一斉に噴き出したのは、当然だ」。「その発言は、脱原発への具体的な方策や道筋を示さず、あまりに無責任だった」。「首相は、消費税率引き上げや、環太平洋経済連携協定(TPP)への参加などを掲げ、実現が危ぶまれると旗を降ろしてきた。同様の手法のようだが、今回は明らかに暴走している」。
二 何ともヒドイのは、菅直人だけではない。朝日新聞も、(やはり)ひどい。
菅首相の7/13記者会見の内容につき、「国策として進めてきた原発を計画的、段階的になくしていくという政策の大転換である」とし、「私たちは13日付の社説特集で、20~30年後をめどに「原発ゼロ社会」をつくろうと呼びかけた。…方向性は同じだ。首相の方針を歓迎し、支持する」と社説で明確に支持し、大歓迎した。
そして内閣や民主党の全体的支持を得られるかどうかに懸念を示しつつも、最後は「いまこそ、与野党を問わず、政治全体として脱原発という大目標を共有して、具体化へ走り出そう」と結んでいたのだ。
とあれば、7/15の<私的(個人的)見解>との釈明後に、この問題をあらためて社説で取り上げて不思議ではないし、むしろ取り上げるべきだろう。
しかし、朝日新聞は逃げた。トンズラを決め込んだ。7/17社説の見出しは、「福島の被災者―「原発難民」にはしない」と「レアアース―WTOを通じた解決を」の二つで、読売・産経が取り上げた重要な問題をスルーした。
「いまこそ、…政治全体として脱原発という大目標を共有して、具体化へ走り出そう」と大見得を切ったところが、わずか二日後での(閣内・民主党内事情による)挫折?に、さすがに恥ずかしくなったのだろうか。いやいやそんな純情な朝日新聞ではない。要するに、自分たちに都合の悪いことには触れない。それだけのことだ。
読売新聞6/23社説は、「最小不幸社会」を目指したのに<宰相不幸社会>になった、と面白いことを冒頭に書いている。
さて、菅直人が何を考えている、どういう神経の持ち主なのかはよく分からないが、良いように?解釈すれば、次のように思考しているのかもしれない。以下は、6/02午前中の、鳩山由紀夫との間の「確認書」からヒントを得た推測だ。
確認書の第二項には「自民党政権に逆戻りさせないこと」とあったはずだ。これは政権交代を否定するものだとしてすでに言及したが、あらためて表現を見ていると、「逆戻り」との言葉が使われているのに気づく。
これは、自民党政権に交代するのは「逆戻り」、すなわち、時代の進歩または発展の方向には向かわない、<反動的>な逆の方向だ、という認識を前提にしているものと思われる。
菅直人に限らず鳩山由紀夫もそうなのだろうが、そして民主党に投票した有権者の少なくない部分も、<自民党はもう古い・遅れている>、<民主党は新しい・進んでいる>というイメージを持っているように思われる。
このように単純には言えないはずだが、朝日新聞等々の有力マスメディアはこのようなイメージを、2009総選挙の前に撒き散らしたのだ。
菅直人自身、自民党政権に戻ることは時代・社会の進歩の方向とは逆の方向だ、自分は<時代の流れ>に添った、その方向上にある首相だ、という意識を強く持っているのではなかろうか。
むろん、上はたんなる幻想、誤った<左翼的>観念にすぎないのだが。
いま一つ、菅直人を支えているのではないかと思われる意識がある。それは、小沢一郎のように<きたなくはない>という自己認識だ。
菅直人は、良いように?理解すれば、自分は自民党とは違って<進歩>(歴史の発展方向?)の方向に添っており、かつ小沢一郎(・一派)とは違って<クリーン>だ、という意識に支えられて、なお<延命>しようとしているのではないか。
以上は、より良く解釈しすぎている可能性はある。たんなる権力亡者かもしれず、自分を客観的に観れないだけの人物なのかもしれない。だが、それらに加えて、上のような二種の意識も最低限度は混じっているようにも思えるのだが…。
一 不思議なことがあるものだ。
各新聞6/02夕刊によると、菅直人は6/02の民主党代議士会で「辞任」(朝日)、「退陣」(読売、日経、産経)の意向を表明したとされる。
ところが、夜の日本テレビ系番組に出てきた岡田民主党幹事長は、「退陣」表明とかの形容・表現は適切ではない、と言う。後に区切りがあることを述べたままでのことだとの旨まで言い、辞める時期ではなく菅首相にこれから何をやってもらうかが重要だなどとも言う。
菅直人も、なかなか巧妙な言い方をしている。
6/02の午後10時頃からの会見で(以下、産経ニュースによる)、「工程表で言いますと、ステップ2が完了して放射性物質の放出がほぼなくなり、冷温停止という状態になる。そのことが私はこの原子力事故のまさに一定のめどだ」と述べた。これが「メド」だとすると、冷温停止状態実現の目標は来年1月頃とされているらしいので、「退陣」時期は来年以降になるが、これは、鳩山由紀夫が6月末または7月初めという、あと1カ月くらいの時期を想定していると明言しているのと、まるで異なる。
当然に記者から質問が出ているが、鳩山との間の「確認書」の存在(鳩山側が作成したようだ)を否定せず、①<原発の収束>も含むのかとの問いに菅は「鳩山前首相が作られたあの確認書に書かれた通りであります」とだけ答える。
また、②「鳩山由紀夫前首相との合意の内容は、確認書にある通りだと。何を確認した文章なのか」との問いに、「鳩山前首相」との間では「あの合意事項という文書に書かれた」もの以外にない、「あそこに書かれた通り」だとだけ答える。
③さらに、「確認書」の三の①と②の時点で辞任していただくという鳩山の発言は間違いか、との問いに、「鳩山さんとの合意というのは、あの文書に書かれた通り」と再び繰り返している。そして、それ以上は「控えた方がいい」とも言う。
これらで記者たちは、丸めこまれてしまったのか? 情けないことだ。
菅直人が存在とともに内容も否定していない「確認書」の中に、<原発の冷温停止>などという文言はまったくなく、三には①と②(第2次補正予算の編成にめど)しかないのはなぜか、と何故執拗に突っ込まなかったのだろう。
菅直人や岡田克也が「確認書」の三の①・②は菅辞任(退陣)の時期を意味しない(退陣の「条件」ではない)と言い張り続けるとすれば、各紙夕刊も、民主党国会議員のほとんども、とりわけ不信任案に賛成しようとしていた鳩山由紀夫や小沢一郎も、菅直人に、見事に<騙された>ことになる。
鳩山由紀夫は、退陣の「条件」ではないと夕方に発言したらしい岡田克也について、「ウソをついてはいけない」旨を批判的に明言した。
菅直人・岡田克也か鳩山由紀夫のいずれかがウソをついていることになるが、前者の側だとすると(その可能性がむろん高いと思われる)、菅や岡田は公然とメディア・国民の前でウソをついているわけで、その強心臓ぶりには唖然とし、戦慄すら覚える。
菅直人は答えるべきだし、メディア・記者たちは質問すべきだ。これからでも遅くはない。
<確認書の三に①と②があり、かつこれらしかないのは、何故なのか?、そしてこのことは何を意味するのか??>
「文書のとおり」、「書いてあるとおり」では答えになっていない。<それでは答えにならない>と勇気を持って憤然と(?)反問できる記者は日本の政治記者の中にはいないのか。
それにしても、戦慄を覚えるし、恐怖すら覚える。旧ソ連や現在の中国・北朝鮮等では、政府当局あるいは共産党(労働党)幹部(書記長等)が公然・平然と<ウソ>をついていたし、ついているだろう。
現在の日本で、そのようなことが罷り通っていそうなのだ。
目的のためならば<ウソをつく>ことも許される。これは、レーニン、スターリンらの固い信条だっただろう。菅直人は、レーニンやスターリンに似ているのではないか。内閣総理大臣によって公然と「ウソ」がつかれ、あるいは「詭弁」が弄される事態は、まことに尋常ではない。<狂って>いる。
二 「詭弁」といえば、先日の、福島第一原発にかかる、菅直人首相の「私は(注水を)止めよとは言っていない」(その旨を命令も指示もしてはいない)との旨の言葉も、ほとんど詭弁に近かったように感じられる。
谷垣自民党総裁は、上の発言に対して、「わかった。では、東京電力がいったん止めないといけないと感じるような言葉をいっさい発しませんでしたか?(あるいは、そのように感じられる行動をいっさいしませんでしたか?)」とさらに質問し追及すべきだっただろう。
明確な「命令」・「指示」でなくとも、東京電力とすれば、首相の<気分・雰囲気>を何となくであれ気遣っているものだ、との推測くらいは、私にすらできる。そのような<気分・雰囲気>を感じて、東京電力は形式的には自発的にいったん停止を命じたのではなかったのだろうか(但し、現場の所長が本社側の指示に従わなかった)。
要するに、菅直人は、「命令・指示はしていない」という(形式的には誤りではない)表現を使うことによって、真の事態を曖昧にして<逃げた>のではないか、と思っている。
菅直人の言葉の魔術?は、6/02にも発揮されたように見える。
三 再び「確認書」なるものに戻ると、その「二」で(たしか)「自民党政権に逆戻りさせないこと」とあったのは、興味深いし、かつ怖ろしい。
つまり、彼ら民主党、とくに菅直人と鳩山由紀夫は、一般論として<政権交代>をもはや否定しようとしているのだ。
<政権交代>を主張してきたのは彼らだが、いったん政権を獲得すれば、二度と離さない、という強い意向・意思が感じられる。
だが、政権交代可能な二大政党制うんぬんという議論は、A→B→A(→B)…という交代を当然に予定し、ありうるものと想定しているのではないか。とすれば、自党の政策の失敗等々によって与党から再び野党になることも一般論としては、また可能性としては肯定しなければならないはずだ。
しかるに、「確認書」の「二」はこれを何としてでも拒否する想いを明らかにしている。
過去のそれを含む社会主義国は、いったん共産党(労働党)が権力(政権)を獲得すれば、それを他政党に譲ろうとはしなかった(ソ連末期を除く)。そもそもが他の政党の存在すら実質的には認めないという方向へと推移させた。
菅直人ら民主党の一部からは、そのようなコミュニスト・共産党的匂いすら感じる。
四 日本の政治・行政をぐちゃぐちゃ・ぐしゃぐしゃ・めちゃくちゃにしている民主党政権が続くかぎり、日本「国家」はますます壊れていく。民主党の一部には、意識的に<(日本)国家解体>を企図している者がいる、とすら感じてしまう。
2009年の夏・初秋に、そのような民主党政権の成立を許したのは、あるいはそれを歓迎したのは、いったいどのような人々だったのか?? 評論家、学者も含めて、あらためて指弾したい者(名のある者)がいるが、今回は立ち入らない。
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