秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

芦部信喜

0869/外国人参政権問題-あらためてその5・憲法学界④

 ⅠとⅡの二冊で憲法全体をかなり詳しく叙述する野中俊彦=中村睦男=高橋和之=高見勝利・憲法Ⅰ〔第四版〕(有斐閣、2006)の第5章「人権総論」は中村睦男が単独執筆している。

 中村睦男は刊行当時は北海道大学学長(!)。なお、高橋和之は刊行当時は明治大学教授とされているが、芦部信喜の指導を受けたと見られる、前東京大学法学部(法学研究科)教授。

 中村は上の章の「第三節・人権の享有主体」の「三・外国人」のうち、「(2)保障される人権の範囲」、そして②の「参政権」の項で、次のように叙述する(p.221-2)。

 ・「国政レベルでの参政権」につき、これは一定の外国人にも保障されるべきとする説(=浦部法穂)もあるが、日本国憲法の「国民主権原理は伝統的な国民主権原理を維持している」と解されるので、「日本国民に限られる」。

 ・「地方公共団体レベルの参政権」については、「禁止説」・「要請説」・「許容説」がある。

 ・上の「禁止説」は憲法93条2項の「住民」は同15条1項の「国民」を前提とすると理由づける。「しかしながら、外交、国防、幣制などを担当する国政と住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務を担当する地方公共団体の政治・行政とでは、国民主権の原理とのかかわりに程度に差異があること」を考えると、「選挙権を一定の居住要件の下で外国人に認めることは立法政策に委ねられているものと解される」。

 このあとで中村は、「最高裁も」として平成7年判決を挙げて、「許容説の立場に立っている」と書いている。

 平成7年最高裁判決や芦部信喜説の影響もあるかもしれないが、中村睦男は明確に外国人地方参政(選挙)権についての<許容説>だ。そして、最高裁平成7年判決の関係部分について、「傍論だが…」と書いていないし、ましてや<傍論だから無視してもよい>とは書いていない。最高裁判例としての意味があるものとして、所謂「傍論」部分を援用していると思われる。

 この中村の叙述内容は、中村が参照要求している浦部法穂や明示はないがこの欄ですでに言及した辻村みよ子の説に比べると、穏当なものだ。国政については明確に「禁止説」で、浦部法穂や辻村みよ子とは異なる。

 しかし、外国人地方選挙権については明瞭に「許容説」だ。したがって、外国人の範囲にもよるが、「一定の居住要件」を充たす外国人に地方選挙権を付与する法律案を支持する、少なくともそれを違憲視することはない、ということになるだろう。

 辻村みよ子が「禁止説」よりも「許容説」が「有力となった」と書いていることはすでに紹介した(同・憲法〔第三版〕p.148)。おそらくそのとおりで、上の中村睦男のような考え方が、芦部信喜のそれも含めて、近時の日本の憲法学界の<主流>ではないか、と思われる。

 <地方>にとりあえず限るが、日本の憲法学界は、外国人の選挙権に<優しい>のだ。こんなこともあらためて知っておいてよいだろう。

 ついでに、国の政治・行政も「住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務を担当」しているし、地方公共団体の政治・行政も例えば「国防」に関係する仕事を担当することがある、国と地方公共団体(の政治・行政)は中村が想定または想像している以上に複雑で複合的な関係にある、とだけ中村の叙述を批判しておこう。

0861/潮匡人が月刊正論5月号で外国人地方参政権問題に論及するが…。

 外国人(地方)参政権問題につき、最高裁平成7年2月28日判決の「傍論」が述べた、法律で付与することも<できる>(付与しても、しなくとも違憲ではない)という所謂<許容説>は、元東京大学法学部教授の芦部信喜(故人)の説の影響が大きいと言われることもある。

 一度は芦部信喜の本(教科書)を見て確認しておかねば、と思っていたら、月刊正論5月号(産経)の潮匡人の連載コラム(この号は「リベラル派の二枚舌」との題)が芦部信喜『憲法』(岩波書店)の関係部分をそのまま引用してくれていた(何版、何年刊かは不明)。2頁のコラム中に全文引用できるほどに短く、簡単だ。
 「参政権は、国民が自己の属する国の政治に参加する権利であり、その性質上、当該国家の国民にのみ認められる権利である。したがって、狭義の参政権は外国人には及ばない。しかし、地方自治体、とくに市町村という住民の生活に最も密着した地方自治体のレベルにおける選挙権は、永住資格を有する定住外国人に認めることもできる、と解すべきであろう」。
 このあと、「判例も」として、「傍論」と注記をすることなく、上記の最高裁判決の所謂「傍論」部分を紹介しているらしい。
 以上の紹介は有益だ。もっとも、芦部信喜の代表的教科書は有斐閣版だったかとも思うので、あらためて調べて(=探して)みよう。
 しかし、潮匡人が兼子仁・新地方自治法(岩波新書)を挙げて、同著が改正地方自治法(2000年施行)は国・自治体の「『対等』原則を定め、まさに地方自治法制を一新したと言える」等と書いているとし、芦部信喜と兼子仁の二つの著は同じ岩波書店刊なのに、両者の「リベラル」な部分だけを援用する学者らは「二枚舌」だと述べているのは、いかなる意味・趣旨なのか理解に苦しむ。
 両人ともにたしかに<リベラル>で、その「左翼」性は兼子仁の方が高いというイメージ・印象はある。だが、芦部信喜もまた、東京大学の憲法学教授として(?)、<左翼・リベラル>だったと思われるので、潮匡人は<日本を惑わすリベラル教徒たち>の続編には是非、芦部信喜も対象としていただきたいものだ。また、「経済的自由」と「精神的自由」の保障の所謂「二重の基準」に言及するなどして潮匡人は憲法学(理論)にも造詣が深いようだから、新憲法制定時に東京大学の憲法学教授だった宮沢俊義の<思想>もまた、「リベラル教徒」批判の観点からでも、分析・検討していただきたいものだ。
 脱線しかけたが、かつての地方自治法のもとでは、都道府県や市町村の機関(知事や市町村長など)は当該都道府県・市町村自体の仕事ではなく「国」の仕事もかなりしていた。都道府県(の機関)で半分以上、市町村(の機関)で1/3程度とも、言われてきた。これを「機関委任事務」と称した。
 この時代には、知事や市町村長を選挙することは、「国」の仕事も相当程度に任されていた、「国」の下級行政機関を選任することでもあった。したがって、地方参政権は(とくに知事・市町村長選挙の選挙権は)、「国政」と直接に関係する、と言い易かった。あるいは、そのように簡単に断定できた。
 しかし、兼子仁のいう「『対等』原則」を定めた新地方自治法によって、「機関委任事務」は廃止され、都道府県や市町村(の行政機関)の仕事には「国」のものはなくなった。それぞれの仕事は「自治事務」と「法定受託事務」に分けられ、後者は少数だが「国」(の行政部)の仕事ではなく、あくまで地方公共団体の事務であることに変わりはなくなった(以上、改正地方自治法2条参照)。
 それでもなお、地方公共団体の仕事と「国政」との密接な関係を語ることができる。別の機会にこの論考にはもっと言及するが、月刊正論5月号(産経)所載の長尾一紘「外国人参政権は『明らかに違憲』」のp.55-57はそのような例を示している。
 だが、「機関委任事務」を廃止した「新地方自治法」は法的タテマエとしては法律のもとでの国・地方自治体の「対等」を定め、従来の「機関委任事務」の実施に際してのように国の行政機関(要するに中央省庁)の指示・指揮に地方自治体の知事や市町村長等が<法的に>拘束されることはなくなったのは確かなので、兼子仁の叙述は客観性を欠く、<リベラルに偏向>したもの、では全くないと思われる。
 新地方自治法によって<地方分権>が従来よりも進められたのは確かな事実なので(これの評価は多様でありうるとしても)、岩波刊の芦部信喜著と並べて兼子仁の著(の潮匡人の引用部分)に論及する意味は全くわからない。
 潮匡人の文章をもう一度読み直すと、兼子仁著が述べるように新地方自治法による国・自治体の「『対等』原則」の定め、「地方自治法制」の「一新」があったので、「芦部の生きていた時代はともかく」、参政権付与が「自治体レベルなら許される」というのは、「現在では成り立たない見解」だ、ということのようだ(こうしか読めない)。

 しかして、上の叙述の趣旨はやはり???だ。どうしてこんな論理(?)になるのか? 何らかの勘違いがあるとしか思えない。あるいは、叙述ないし説明不足か?
 嫌いではない潮匡人のコラムなので、「程度の軽い瑕疵」(p.51末尾参照)だと見なしておくことにしようか。

 外国人地方参政権問題および関係最高裁判決について、より書きたかったことは別にある。別の機会にする。

0676/憲法九条第一項・第二項の「解釈」。坂元一哉のそれは大勢の反映か。

 先日、坂元一哉の憲法九条の解釈―正確には憲法九条に関する解釈論についての現況認識かもしれない―は怪しい旨を書いた。
 学説等の状況については比較的に客観的な叙述をしていると見られる、芦部信喜監修・注釈憲法(1)(有斐閣、2000)を参照して、簡単に整理しておこう。憲法九条部分の執筆者は高見勝利。
 九条解釈といっても、第一項につき例えば4つの論点と対立があり、第二項についても4つの論点の対立があるとすれば、論理的には16とおりの解釈に分岐する。仔細に立ち入る意味はさして大きくないので、坂元一哉の叙述を意識しつつ、とくに第一項の「国際紛争を解決する手段として」の(戦争等)、第二項の芦田修正(「前項の目的を達するため」)に留意して、以下要約的に紹介する。
 第一項中の「国際紛争を解決する手段として」の戦争・武力行使とは「侵略」戦争又は「侵略的な」武力行使を意味し、パリ不戦条約で違法とされた戦争・武力行使にあたる、従って、正当防衛行為とされる「自衛戦争ないし自衛行動」はこれに含まれない(また、「非当事国や国連などが」行う制裁戦争・制裁措置も含まれない)。「これが通説」である(p.400)。この欄で便宜的に「通説」又はA説と称しておく。
 一方、「侵略戦争」のみならず「自衛・制裁戦争」も「国際紛争」の「解決」のためのものとして、上に含める学説もある。B説と称しておく。。
 A説は「従来の国際法上の通常の用語例」に従うのに対して、B説は九条の「世界にさきがけ」た「画期的な意義」を強調する(p.401)。
 第二項の「前項の目的を達するため」の解釈いかんによって、九条全体の意味、とくに「すべての戦争ないし武力行使を放棄するものか否か」、の解釈も変わってくる。全体としていえば、<大別>して次の三説がある。a、b、cの呼称は原文のまま。
 a説=「限定放棄説」-第一項につきA説に立ち、第二項の「前項の目的を達するため」とは「侵略戦争」放棄という目的を意味し、そのための「戦力」や「交戦権」を第二項は否定していると解する。従って、この説によると、「自衛」等(+制裁)のための「戦力」保持・「自衛戦争」の際の国際法上の「交戦権」は、九条によって否定(放棄)されていない。百里基地訴訟第一審判決(水戸地裁1977.02.17判決)はこのa説を採った(p.402-3)。
 b説=「遂行不能説」-第一項につきA説に立ちつつ、第二項の「前項の目的」を第一項中の「国際平和を誠実に希求し」を指す、又は第一項全体の<国際平和の誠実な希求>目的だと解し(「達成するため」とは前項の定めの経緯・動機を意味すると解し)、第二項により「戦力」保持・「交戦権」は「無条件に」否定され、従って「自衛戦争」(+制裁戦争)を遂行することは結果として不可能となる、と解釈する。「事実上、すべての戦争が放棄されていると解するもの」で、「多数説を形成する」。長沼事件第一審判決(札幌地裁1973.09.07判決)がこの説を採った。
 c説=「峻別不能説」-第一項につきB説をとり、第二項をまつまでもなく第一項により「一切の戦争が放棄されているとする」。その主な論拠は、「国際紛争を解決する手段として」の戦争か否か、侵略戦争か自衛戦争かの区別の困難さにある(p.404)。
 著者の高見勝利は、「基本的にb説を妥当とし、b説的に理解してもc説との間にさほど径庭はないものと考える」とする(p.408)。
 高見説がどうであれ、日本政府の現在の解釈も(新憲法当初は第一項に関するB説的答弁もあったが)、上の三説の中ではb説だと思われる。自衛「戦争」はできないが「自衛権」行使まで憲法上は否定されておらず、「自衛権」行使のための自衛隊は第二項でいう「…軍その他の戦力」に該当しない、だから違憲の存在ではない、と「解釈」してきているのだ(今回扱っている論点に関する最高裁判決はない。今後も出ない可能性が高い)。
 すでに簡単には一部を紹介したが、坂元一哉は憲法九条につき、こう説明する。-「国際紛争を解決する手段としての武力の行使(又は威嚇)を永久に放棄し(第一項)、…戦力を保持しない(第二項)ことをうたっている。この第一項は…戦前の失敗を反省し、平和国家に生まれ変わることを誓った条項である。戦前の…失敗は…中国大陸における…国際紛争を解決するため、武力の行使に訴えたことに起因している。第一項は…そうしたことは二度としないという誓いである。/第二項は…『前項の目的を達するため』との文言が付いていることからも分かるように、第一項の規定をより確実なものにするための条項である」(月刊正論3月号(産経新聞社)p.216-7)。
 上の坂元において、「侵略」戦争か「自衛」戦争かという問題意識は見られない。また、「前項の目的」とは(パリ条約の文言とは別にほとんど日常用語として理解されている)<国際紛争解決のための>「武力の行使」等の放棄という目的だと無自覚的に理解されているようだ。上の学説分類に当てはめると、これはc説であって、決して「多数説」又は「通説」ではない。
 なぜ坂元がこのような杜撰と評してもよい叙述を何気なく行っているのかの理由はむろんよく分からない。だが、京都大学法学部出身の坂元が学習した可能性が高い、元京都大学憲法学教授による、佐藤幸治・憲法〔新版〕(青林書院、1990)の影響があるかにも思われる。というのは、佐藤は、この本で、通説又は多数説とは異なる九条の文言解釈を示しているからだ(とくにp.567-)。
 佐藤幸治によると、「戦争」と<武力威嚇・行使>は区別され、第一項の「国際紛争を解決する手段としては」は(「武力行使」等にはかかるが)「戦争」にはかからず、「戦争」に限定はつかない、従って上記のB説が結果として採られ、「自衛戦争を含めてすべての戦争が放棄されて」おり、「そのような戦争を遂行するための…『戦力』をもたないことを明らかにしたのが二項前段」だ、と述べられる(p.572)。
 この佐藤説は細かな分岐点を省略して大別すれば上のc説であり、かつ坂元一哉の叙述にも親和的だ。
 この佐藤説(的「読み方」)は「多数説」又は「通説」ではない。佐藤説との関係は別としても、坂元一哉は、自らの九条に関する叙述・説明が決して「多数説」・「通説」のそれではないことくらいは意識しておいてもよいだろう。
 些末な問題に触れたようでもある。だが、憲法九条・「戦争放棄」条項について坂元一哉的な単純素朴な読み方・理解をする人がけっこう多いようであるのは、困ったことだ。
 ついでに書くと、自民党の憲法改正案は現九条第一項はそのまま残し、第二項を全面削除して別の条項に改めるものだ(「九条の二」の新設)。かりに九条第一項が「すべての」戦争を、従って「自衛」戦争をも否認しているとすれば、自民党の改正案どおりに正規の「自衛軍」が設けられたとしても、その「自衛軍」は九条第一項〔改正後はたんに九条〕により「自衛戦争」を行うことができないことになる。九条第一項につき(資料で確認しないが)上のA説=「侵略」戦争限定放棄説に立っているがゆえにこそ、自民党改憲案は現九条第一項をそのまま維持しているのだ、と考えられる。このくらいのことは、国民一般の<常識>になっていた方がよいと思う。

0273/立花隆の「護憲論」(月刊現代)を嗤う-その4。

 立花隆月刊現代7月号上の「護憲論」批判を続ける。
 前回からの続きで第五に、立花は、1962年に南原繁が憲法制定過程への不信の発生を予言していた等と高く評価している(p.43)。
 具体的な問題はさておき、立花隆による南原繁の肯定的評価は、同じ彼による<戦後レジーム>の肯定的評価と両立できない、矛盾するものだ。
 南原繁は、1950年5月に吉田茂首相によって「曲学阿世の徒」と揶揄されたが、それは南原が所謂<全面講和>論を唱えた一人だったからだ。<全面講和>論とはソ連や中国との国交回復を伴う、これらの社会主義国をも含めて<講和>すべきとする論で、多数の自由主義国との<講和>による再独立を急いだ吉田茂内閣の方針に反対するものだった。
 しかして、<戦後レジーム>とは何か。立花隆はこの語について詳細な又は厳密な意味づけをしていないので分かりにくいが、日本の<戦後レジーム>の基礎にあるのは、あるいは日本の<戦後レジーム>の前提条件は、日本が自由主義諸国の一員となり、資本主義経済の国として生きていく、ということだろう。
 南原繁が真に日本が社会主義国になることを願っていたかどうかは分からない。しかし、彼を含む<左翼>的又は<進歩的>知識人は、<全面講和>論を主張して、客観的にはソ連や中国の利益になる、少なくともこれらの国に対して<媚び>を売ることをしたのだ。
 ということは、南原繁は、日本の再独立後のそもそもの<戦後>のスタートに際して、現実に築かれた<戦後レジーム>には反対していたのだ。
 一方で南原繁を高く評価し、他方で<戦後レジーム>も肯定的に評価する。これは、大いなる矛盾だ。論理的にも、決定的に破綻している。立花隆が<戦後レジーム>を肯定的に評価するのならば、少なくとも南原繁らの<全面講和>論を厳しく批判しておくべきだ。こうした批判の欠片も語らない立花隆が、知的に誠実な人物とは思えない。<戦後レジーム>を基本的な点で担ったのは、南原繁らとは異なる、別のグループの、現実的かつ良識的な人びとだったのだ。
 ちなみに、岡崎久彦・吉田茂とその時代(PHP文庫、2003。初出2002)p.366はこう書く-「日本のいわゆる進歩的文化人のあいだでは中ソを含む全面講和論が高まっていた。…振り返ってみると、やはりソ連共産党-日本共産党-共産党前衛組織-進歩的文化人というつながりによって、日米講和反対というクレムリンの政策が日本の言論に反映される仕組みになっていたのであろう。…当時の共産主義勢力としては当然やるべきことはやっていただろうことは推察にあまりある。…全面講和論というのは、日本を自由主義陣営の一員として安全に保つという吉田構想による平和条約をつぶすということである」。
 
第六に、これは批判ではなく検討課題として残したい点だが、立花隆は新憲法下の最初の国会開会直後にマッカーサー司令部は憲法「修正」の必要性を「日本政府側に確認して」いるが、「衆議院も参議院も再改正の必要はないとちゃんと回答しているんです」と記述している。
 いったん成立し施行された日本国憲法の改正をGHQも認めていたのに、従って、改正の機会はあったのに、日本側が放棄したのだ、と言いたいように読める。
 上の事実について立花が何を典拠にしているかは分からない。しかし、<再改正の必要なし>との回答は十分にありうるし、非難されるべきものではない。
 なぜなら、GHQの占領が継続している限りはその政策の範囲内でしか憲法改正ができなかっただろうことはほぼ明らかなことで、講和=主権回復を待ってから<自主>的に憲法を改正しようと政府あるいは両議院は考えていたとすれば、それは適切なものだったと思える(現に1955年結成の自由民主党は「自主」憲法制定を謳った)。
 なお、岡崎久彦の上の著p.218-9によると、日本国憲法公布後の1947年1月3日にマッカーサーは吉田茂宛書簡で「憲法施行後一、二年ののち、憲法は公式に再検討されるべきであると連合国は決定した」と通告した、という。また、芦部信喜・憲法第三版(東京大学出版会、2002)p.29にも「極東委員会からの指示で、憲法施行後一年後二年以内に改正の要否につき検討する機会が与えられながら、政府はまったく改正の要なしという態度をとった」との記述がある。
 立花隆が上に書く憲法施行後初の国会開会直後の話は、岡崎の著や芦部の著には出てこない。さらには、 芦部信喜・憲法学Ⅰ(有斐閣、1992)にも、大石眞・日本憲法史〔第二版〕(有斐閣、2005)にも、立花隆が上に書いたような新国会開会直後の話は記載されていない。
 いずれにせよ、1947年1月の段階で将来の憲法改正の可能性を語られても、その時に占領が解除されているかどうかが分からない状況では、岡崎も示唆しているように、吉田茂はいかんとも反応しようがなかっただろう。
 第七に、立花隆は南原繁が国民投票の提案をしていたとし、「そのとき国民投票を行って日本国民の意思を確認していたら、文句なしに、当時は新憲法支持者が圧倒的という結果が出たでしょう」と書いている。
 問題なのは「そのとき」とはいつか、だ。立花はその前に1962年の南原繁の論文から一部引用しているので1962年だとすると、上のように「文句なしに」という結果が出たとは全く考えられない。自主憲法制定(九条改正)を党是とする自民党が第一党だったのであり、国民投票は過半数で決するのだとすると、「確認」ではなく「否認」決定が出た可能性だって十分にある。
 国民投票については上に岡崎久彦著に関して触れた1947年1月3日のマッカーサー書簡も、連合国が必要と考えれば「国民投票の手続を要求するかもしれない」と書いていたようだが(岡崎p.219)、国民投票で「文句なしに」新憲法支持が「圧倒的」に示され得たのは、占領期間中か、法的な疑念を回避するためという目的をもって政府が主導した場合の主権回復直後すみやかな時期(1952年秋くらいまで)ではなかろうか
 その後はとくに鳩山一郎内閣成立以降、憲法改正をめぐっての対立が続き、改憲派が過半数ではなく発議に必要な2/3の議席を獲得できない状況が続いて数十年間は終熄したのだ。
 立花隆は「そのとき」がいつかを明確にしないまま、国民投票をすれば「新憲法支持者が圧倒的」だっただろう、などと書くべきではない。時期によれば、これはとんでもない誤りである可能性が十分にあるというべだ。

0260/自由と民主主義との関係をほんの少し考える。

 芦部信喜(高橋和之補訂)・憲法第三版(岩波、2002)p.17は、「立憲主義と民主主義」との見出しの下でこう書いている。
 「①国民が権力の支配から自由であるためには、国民自らが能動的に統治に参加する民主制度を必要とするから、自由の確保は、国民の国政への積極的参加が確立している体制においてはじめて現実のものとな」る。
 「②民主主義は、個人尊重の原理を基礎とするので、すべての国民の自由と平等が確保されてはじめて開花する、という関係にある。民主主義は、単に多数者支配の政治を意味せず、実をともなった立憲民主主義でなければならない」。
 以上には、「自由」・「民主制度」・「国民の国政への…参加」・「民主主義」・「個人尊重の原理」・「平等」等の基礎的タームが満載だ。そして、それらが全て対立しあうことなく有機的に関連し合って一つの理想形態を追求しているような書き方だ。
 阪本昌成の本の影響を受けて言えば、上の文は、諸概念の「いいとこ取り」であり、「美しいイデオロギー」であって、とりわけ「自由」・「平等」・「民主」それぞれが互いに本来内包している緊張関係を無視又は軽視してしまっているのではないか(ついでに、上にいう「立憲民主主義」とは一体どういう意味なのだろうか)。
 上の①は<権力からの自由>のためには<民主制度が必要>と言うが、<権力からの自由>のためには<民主制度のあることが望ましい>とは言えても、<必要>とまで断言できるのだろうか。
 上の②は<民主主義の開花>のためには<国民の自由と平等の確保>が前提条件であると言うが(「…されてはじめて開花する」)、国民に<自由と平等>のあることが<民主主義の「開花」のためには望ましい>と言えても、前者は後者の不可欠の条件だと断言できるのだろうか。
 <有機的な関連づけ合い>がなされているために、却って、それぞれの固有の意味が分からなくなっている、又は少なくとも曖昧になっているのではないか。
 それに次のような疑問が加わる。
 消滅した国家に、ドイツ「民主」共和国、ベトナム「民主」共和国、現存する国家(らしきもの)に朝鮮「民主主義」人民共和国というのがある。これらは国名に「民主(主義)」を書き込むほどだから、自国を「民主的」な又は「民主主義」の国家だと自認し、宣言している(いた)ことになる。
 しかるにこれらの国々において、上の②のいう「
すべての国民の自由と平等が確保されてはじめて…」という条件は充たされていた(いる)のだろうか。これらの国々の国民に「自由」がある(あった)とはとても思えない。
 とすると、これらの国々の資本主義諸国又は自由主義諸国に対抗するために本当は「民主主義」は存在しないことを知っていながら僭称していた(ウソで飾っていた)のだろうか。
 私はそうは考えていない。彼らには彼らなりの「民主主義」観があり、「民主主義」もあると考えていた、と思っている。
 唐突だが、日本共産党は、同党の運営は<民主主義的ではない>とはツユも考えてはいないと思われる。つまり、一般党員(支部所属)→党大会代議員選出→党大会・中央委員選出→中央委員会設立(議長選出)→幹部会委員選出→幹部会委員会設立(委員長等選出)→常任幹部会委員選出→常任幹部会設立という流れによって、究極的には一般党員の意思にもとづいて、中央委員会も幹部会委員会も(委員長も)常任幹部会も構成されており「民主(主義)」的に決定されていると説明又は主張しているだろう(地区・都道府県レベルの決定については省略した)。
 だが、上の過程に一般党員から始まる各級の構成員に、上級機関の担当者を選出する本当の「自由」などあるのだろうか。
 筆坂秀世・日本共産党(新潮新書、2006)p.84-によると、定数と同じ数の立候補者がいて中央委員の選出も「実態は、とても選挙などといえるものではない」。また、p.89-によると中央委員選出後の第一回中央委員会では、仮議長選出→正式議長選出→幹部会委員長・書記局長の推薦することの了承(拍手で確認)→同推薦(拍手で確認)→その他の幹部会員も同様という過程を経るらしい。
 ある大会(22回)のときの具体的イメージとしては、「大会前に…人事小委員会が設置され、大会前に…四役の人事案がすでに作成され、常任幹事会で確認されていた。/一中総では幹部会委員、第一回幹部会では常任幹部会員が選出される。このときの第一回幹部会などは、一中総の会場の地下通路に五五人の新幹部会委員が集まり、全員が立ったままで、不破氏が二〇人の常任幹部会員の名簿を読み上げ、拍手で確認して決まった」(p.90-91)。
 かかる過程のどこに「自由」はあるのだろう。だが、一般党員・一般中央委員等の意思に基づいているかぎりで「民主主義」は充たされている、とも言える。
 日本共産党の話をしたが、同じ事は、旧東独・旧ベトナムでも基本的には言えたのだろう(北朝鮮については現在は形式的にすら「民主主義」が履践されていない可能性がある)。
 言いたいのは、「民主主義」とは「自由」や「平等」の条件がなくても語りうるし、そのような意味での「民主主義」の用法も誤りではない(むしろ純化されていて解りやすい)ということだ。
 マルクス主義憲法学者の杉原泰雄・国民主権の研究(岩波、1971)は<ルソー→一七九三年憲法→パリ・コミューン→社会主義の政治体制>という歴史の潮流を語り、現に見られる「人民主権憲法への転化現象」についても語っていたのだが(p.182、6/21参照)、「人民主権憲法」とは「人民民主主義」憲法(=社会主義憲法)の意味ではないかと推察される。
 すなわち、民主主義にも、マルクス主義によれば、あるいは現実に社会主義国が使った語によれば、「ブルジョア民主主義」と「人民民主主義」とがある。旧東独等での「民主」とは日本共産党内部の「民主主義」と同様の「人民民主主義」又は「民主集中制」だったのだろう。
 こうしたマルクス主義的用語理解の採用を主張したいわけではない。ただ、現実には「自由」とは論理的関係なく「民主主義」という語は使われてきたことがあることを忘れてはならないだろう。
 「自由」と「民主」の双方を語るのは良いし、双方ともに追求するのも構わないだろう。だが、上の芦部信喜氏が説くようには、両者は決して相互依存関係にはない、と理解しておくべきだ、と考える。それぞれに固有の価値・意義が、区別して、より明瞭に語られるべきだ。
 以上、阪本昌成・リベラリズム/デモクラシー第二版(有信堂、2004)p.90のあたりに刺激を受けて書いた。阪本の主張を紹介したのでは全くない。但し、阪本は芦部信喜氏の上の②につき「若い憲法研究者がこの民主主義観にはもはや満足することはないものと、私は期待する」とコメントしている。

0242/「9条ネット」共同代表・北野弘久の憲法改正限界論は通説ではない。

 「9条ネット」のサイト内の資料を見ていると、面白いものに出くわした。共同代表の北野弘久の「日本国憲法9条2項と憲法改正の法的限界」という文章で、「共同代表の部屋」に今年の3月15日付で掲載されている。この文章の一部(しかし根幹)はこうだ。
 「①国民主権、②基本的人権の尊重、及び③9条2項に象徴される平和主義は、日本国憲法の根幹である。それは、国民主権の行使である憲法制定権力の表現である。96条(改正規定)の憲法改正権によって日本国憲法の根幹に関する原理を改正することは憲法学理論からはできない。何故なら、日本国憲法の根幹を改正することは、96条による憲法改正権の法的限界を越えるからである。/最重要の根幹である9条2項を改正することは、学問的には法的革命でありクーデターである。/日本国憲法の根幹の改正は憲法改正権の法的限界を越えることについては憲法学界の支配的見解といってよい。
 5/24に、常岡せつ子の、九条二項改正は改正の限界を越え許されない(クーデターだ)とするのが「通説」だ旨の朝日新聞への投書を「大ウソ」と断定し、その後もいくつか補強資料を追加した(常岡説と類似の説も見つけた)のだったが、常岡が直接に依拠したのは、上の北野弘久の文章ではなかろうか。「クーデター」という語を使っている点も同じだ。
 しかし、上の北野は「憲法学界の支配的見解」と言うが、「日本国憲法の根幹の改正」についてはかりにそうだとしても、その「根幹」の中に九条二項の規定内容までが含まれているかを、憲法学界の通説又は有力説は否定していることは、すでに紹介したとおりだ。芦部信喜、辻村みよ子、佐藤幸治各氏の教科書は九条二項は改正できないなどとは書いていない。むしろ前二者は、改正の限界の対象には含まれないのが「通説」と明記しているのだ。
 従って、北野の上の論述は、「
根幹の改正は憲法改正権の法的限界を越える」→「根幹」の中に「9条2項に象徴される平和主義」も入る、という単純な理解に立つもので、成り立つとしても「通説」とはとても言えない。それに北野弘久は、憲法とは無関係でないとしても憲法学者ではなく、税法(租税法)学者だ。かりに常岡がかなり年上の信頼できる先生というだけで、上の文章を信じて朝日新聞に投書したのだとすれば、気の毒にも、人生の大きな蹉跌と「恥かき」の原因になってしまった。
 ところで、天木直人は「九条ネット」のメンバーの筈だが、上の北野の文章を読んだ気配はない。というのは、常岡の投書が掲載されてのちに、<そうだ。これが通説なのだ>と感激して、安倍首相らが「クーデター」しようとするなら、それを拒否してわが国初の「民主革命」をしよう、などとの訳の分かりにくいことを喚いていた(5/27に紹介)。上の北野の文章を先に読んでいれば、常岡投書にあんなに感激し昂奮する必要もなかった筈だ。
 ということは、いつから「共同代表の部屋」に北野の3/15の文章が載ったのかは知らないが、天木は「九条ネット」のメンバーであるにもかかわらず、そのサイト上の「共同代表の部屋」を覗いていない、という可能性も高い。
 些細なことだが、ネットを散策しているとときどき面白いものに出逢う。

0200/岡崎久彦著等による現憲法制定過程と説得力なき古関彰一・九条護持論。

 主として岡崎久彦・吉田茂とその時代に依りつつ、他の文献にも言及しながら、憲法制定過程への論及を続ける。
 岡崎著p.151は1946年2月頃の幣原喜重郎について言う-「大筋として、今後必ず平和主義憲法をつくり、そしてそれは占領軍の強制ではなく、日本側の発意だったとすることを約束する以外になかったのである」。
 前回言及の古関彰一の冊子p.19以下は同年3/06の閣議後の新憲法案要綱発表に際しての天皇「勅語」にはGHQ作成の原文があった旨を示す点で新味があるが、幣原又は吉田茂は現九条の内容を発案してはいないとする点では岡崎等の研究と同じだ。
 孫引きだが、憲法学者・元北海道大学教授の深瀬忠一は「戦争放棄の発想の起源は幣原首相」だ、「幣原提言なくして、第九条が生まれたか疑問」としていた(古関・前掲書p.8参照)。九条は「押しつけられた」又は「与えられた」のではなく日本人の発案だと主張したいのだろう。
 古関も引用し、私も購入している元東京大学教授・芦部信喜(高橋和之補訂)・憲法第三版(岩波、2002)p.55は幣原首相の発案らしき事実を信頼して九条は「日米の合作とも言われる」等と書く。憲法学界ではかかる理解が有力であるかに見える。
 だが、再び孫引きをするが、五百旗頭真によれば、のちにマッカーサーが書いたように「幣原首相のほうから憲法に戦争放棄と戦力不保持の規定を入れることを提案したと信ずる研究者は皆無に等しい」(岡崎・前掲書p.136)。
 少なくとも古関の冊子は別のようだが、「皆無に等しい」はずの研究者が憲法学界には多数いるようであるのは、日本の憲法学界の「異様さ」を、先走って言えば「政治性」を示してはいないか。
 今回の冒頭に紹介した岡崎の文と類似のことを古関p.27-p.28もGHQと昭和天皇について言う-GHQの米政府宛報告書が天皇は「幣原に、最も徹底的な改革を…全面的に支持すると勧告された」と記したのは、「昭和天皇は、明治天皇下の昭和天皇とはまったく異なり、…平和と人権の擁護者として、日本国憲法の制定に積極的にかかわったことを米国はじめ連合国に示す必要があった」からだ。
 こうして見ると岡崎と古関は九条制定史につき同様の理解に立つといえる。しかし、古関が「岩波」の冊子に書いているように、彼は不思議なことに?九条改正反対論者だ。その論理を辿ってみると、結局は九条は日本国民に支持された、受け入れられた、ということを根拠にしているに過ぎず、かつ―立ち入らないが―相当に杜撰な論理展開だ。また、「九条は、単に日本が戦争をしないというだけではなく、…二度と戦争をしないということを連合国、あるいはアジアの戦争被害国にたいして誓った誓約書でもある」等としめ括るが(p.47)、九条はGHQ又はマッカーサーの「戦略」の所産だったという前半での叙述と整合しているのか、不思議極まりない
 古関・岩波冊子の九条改正反対論の根拠は何か。これを直接の主題にしていないため解りにくいが、結局はほぽ、日本国民に支持されたということを述べるにとどまる。世論調査を援用して1954年頃には護憲論が改憲論を上回り97年頃まで続いたとする(p.43-45)。世論調査結果をどの程度議論に援用できるかは慎重な考慮が必要と思うが、それは別としても、事実上改憲の是非が争点になったという1956年の総選挙で護憲政党が議席の1/3以上を獲得して改憲が阻止されたことを世論上護憲論が優勢だったとの流れの中に位置づけるのは(p.44)殆ど詭弁だろう。
 たしかに1/3以上の改憲反対勢力が国会を占有し続けたことは重要なことだが、あくまで1/3~1/2であり、旧社会党等の「革新」勢力が多数派を形勢したことは一度もない(90年代半ば以降の複雑な展開は捨象する)。1/3以上と過半数とを混同してはいけない。過半数で改正発議可能との憲法条項であったなら、自民党も改憲を諦念せず、既に「自主」憲法に変わっていた可能性の方が高い。
 国民世論を根拠にするならば、古関自身がいう97年以降は改憲やむなしという結論になるのが自然だが、その論法を彼は採らない。ということは、世論調査結果を援用したのも所謂「ご都合主義」、有利な材料は何でも使えの類の議論であり、九条は維持すべきとの彼自身の根拠が別にあることになる。
 その根拠を探ってみると、1.前回引用した九条は世界への「戦争しないとの誓約書」との理解、2.「刀狩り」以降の武力による紛争解決を好まない日本人の心性、3.「軍備を持ち、戦争のできる国になったら高枕で寝ていられる」のか、「むしろ、近隣諸国を刺激することによって、軍備競争を加速化する…」、をさしあたり挙げうる。
 これらのうち3.となると、もはや議論は噛み合わない。この古関某という人は九条さえあれば「戦争」に巻き込まれないと本当に考えているのだろうか。九条があっても「戦争」(他国からの他国領土内への武力攻撃と理解しておく)を仕掛けられれば、現状でも自衛隊等による自衛権の発動をせざるをえないのではないか(米軍の行動も加わるがとりあえず省略)。
 すでにいつか書いたが九条があれば戦争は起きない、九条がなくなれば戦争をする国になる、というのは大変なデマだ。九条と無関係に「戦争」は起こりうるし、九条のもとでも日本には自衛隊という九条二項の「戦力」ではないとされる「武力」はある。九条を変えて日本を「戦争のできる」国にしようとしているという護憲論者の主張(p.41も参照)は大ウソだ。
 丁寧な歴史分析の能力をある程度もつかに見える人でも現実問題となると「九条教」・「九条言霊主義」に陥るのは、日本にあるいくつかの不思議の最たるものの一つだろう。

0181/福島瑞穂の憲法学の先生?小林直樹も常岡説と異なる。

 社民党の福島瑞穂は、誰から、又は誰の本を読んで憲法を勉強したのだろうか。
 この人は1955年生れ、1974年東京大学入学、1980年同卒業、1984年に司法試験合格、1987年弁護士登録、という経歴のようだ。
 東京大学の当時の憲法学の教授は、まず、小林直樹(1921-)かと思われる。福島が大学入学した年は、小林氏が53歳になる年の筈で、現役バリバリだっただろう。そしてこの人は日本社会党のブレインで、マスコミや雑誌類への露出度は(次の芦部に比べて)はるかに高かった。
 もう一人は、故芦部信喜(1923-99)だ。福島が大学入学した年、芦部もまた51歳になる現役教授だった。
 他にも助教授も含めていたかもしれないが、主としてはこの二人の憲法学を中心にして憲法を学んだのだろうと推測される。
 そして、小林直樹は上記のとおりだが、芦部信喜もまた、その憲法教科書の九条や制定過程あたりを読むと、日本の憲法学者としては別に珍しくもないのだろうが、明瞭に「左翼」だ。
 福島は、こうした「先生」たちの本や講義で日本国憲法を学んだ優秀な学生だったのだろう。そして九条の意味も「しっかりと」伝授されたのだろう。もっとも、29歳の年の司法試験合格は決して早くないし、「優秀な学生」だったことと、「優秀な政治家」又は「優秀な人間」かどうかは全く別のことだが。
 話題を変える。古書のため1972年刊とやや古いが、小林直樹・憲法講義〔改定版〕(東京大学出版会)の憲法改正権の限界に関する部分を見てみた(この本は、福島が勉強に使った可能性もある)。p.864は、次のように叙述している。
 「前文および第9条の平和主義そのものは、憲法の基本原則として確定しているかぎり、その削除や否認は許されないであろう。しかし、…非武装規定(9条2項)も、同様に考えるべきかどうか、問題になる。「…永久にこれを放棄する」という規定から、…改正することは「憲法の同一性を失わせることになる」(鵜飼・憲法、25頁)、と解する見解にも十分な理由があろう。しかし、平和主義とそれを実現するための手段(軍備の放棄もしくは禁止)とは、法理論上はいちおう別個であり、平和主義の立場を守りながら一定限度の軍隊をもつために後者を改正(削除)しても、民主憲法の同一性は失われない、と解してよいだろう。したがって、具体的にいえば、対外侵略の意図も能力ももちえない限度での自衛の軍備のための改定は-…-その政策的是非をまつたく別にすれば、法的に不可能なこととはいいがたい」。
 小さい活字の次の注記のような文が続いている。
 「…。再軍備は、たしかに徹底した平和主義をとろうとした日本国憲法に、大きな変更を加えることになるけれども、それが直ちに根本的な「憲法破壊」を意味するものではなく、憲法の同一性は、それによって失われない…。それはあくまでも、高次の憲法政策の問題であり、そのようなものとして、政治の場で徹底的に是非論が闘わさるべきだ、と思う」。
 憲法学者として朝日新聞に最近投書した常岡せつ子には不利な文献をまた一つ見つけたことになるようだ。
 1971年といえば、日本社会党の影響力はまだ強く、九条二項の改定の現実的可能性などなかった頃だが、芦部信喜とは別の東京大学教授によっても、上のようにきちんと、九条二項の改正は「憲法的に不可能なこととはいいがたい」と明記されていたのだ。
 但し、常岡せつ子(?)と同じと思われる考え方を説く憲法教科書もついに?見つけた。浦部法穂(1946-)・憲法学教室Ⅰ(日本評論社、1988)だ。p.25は改正できない規定に関する叙述だが、本文の中のカッコ書きでこんなふうに書いている。
 「九条二項の非武装規定については、…説と…説とに分かれている。けれども、日本国憲法の掲げる平和主義の画期的な意味は、まさに非武装規定にあるから、改正限界説に立ちながら、これを改正できるとするのは、おかしい」。
 さすがに、日本評論社出版の本だという感じもある。また、この人は東京大学出身で、この本の時点では神戸大学教授だが、のちに名古屋大学教授になっている。
 こう見ると、上で小林直樹が言及している鵜飼信成(この人の本は所持せず)とこの浦部法穂の二人は、いわば<九条二項憲法改正範囲外説>に立っていることになる。だが、この説がとても「通説」とは言えないことは、何回も述べた。<ゼロ人説>ではなく「ごく少数説」と言ってよいが、「通説によれば」と表現することは絶対にできず「大ウソ」だ。常岡せつ子には、失礼乍ら、何らかの<錯覚>があるようだ。

0178/芦部信喜・憲法学Ⅰ憲法総論(有斐閣)も常岡せつ子を支持しない。

 現憲法九条二項は憲法改正の限界を超えるとするのが「通説」だという<大ウソ>を朝日新聞に投書した自称・憲法学者らしき人(常岡せつ子)がいたことは既に触れた。
 <大ウソ>であることの根拠はすでに十分に示し得ていると思うが、さらに追記しておこう。
 すでに名を出した故芦部信喜に、同・憲法学Ⅰ憲法総論(有斐閣、1992)という、先日言及したものよりも詳しい別の本がある。
 この本は、憲法改正の限界につき無限界説と限界説、限界説の場合のその具体的内容を殆どは客観的に坦々と叙述しているが、平和主義・九条二項については次のように自身の見解を明瞭に述べている。
 「国内の民主主義(人権と国民主権)と国際平和の原理は、不可分に結び合って近代公法の進化を支配してきたと解されるので、平和主義の原理もまた改正権の範囲外にあると考えなければならない。ただし、平和主義と軍隊の存在とは必ずしも矛盾するわけではないので、憲法九条二項の戦力放棄の条項は理論的には改正可能とみるべきである」(p.78。「人権と国民主権」を「国内の民主主義」という語で統合するのは解り難く、民主主義原理から「人権」が出てくるのではないと阪本昌成なら批判しそうだが、立ち入らない)。
 この本は現在も発売され、(私が確認したかぎりでは)少なくとも2005年までは増刷されている。
 上記の自称・憲法学者らしき人は、上の文を全く見ていないか、前半だけを見たのだろう。
 芦部信喜は「平和主義と軍隊の存在とは必ずしも矛盾するわけではない」と正しく明瞭に述べ、「憲法九条二項の戦力放棄の条項は理論的には改正可能とみるべきである」と自己の意見としてこれまた明瞭に述べていたのだ。
 憲法学界のことをむろん詳細には知らないが、この元東京大学教授の主張とは反対の意見が「通説」だとは、通常は考えられないのではないか。現に、芦部信喜氏が指導した世代の一人の辻村みよ子氏、その中間の佐藤幸治氏、という有力と見られる人の教科書が、上記の自称・憲法学者らしき人の言う「通説」とは異なることを叙述していることはすでに紹介したとおりだ。
 上記の自称・憲法学者らしき人は朝日新聞に訂正する投書をすべきではないか。または朝日新聞の「声」欄担当者は異なる意見の投書を掲載して実質的に修正しておくべきだはないか。そうしておかないと、これまた過日紹介した天木直人氏のブログのように、著名な(?)知識人(?)までが、「そうだ、これが通説なのだ」などと言って、誤った知識にもとづいてハシャぐことになる。
 ところで、読売新聞社は、1994年、2000年、2004年と憲法改正試案を発表してきている。読売新聞社編・憲法改正読売試案2004(中央公論新社、2004)の安全保障の部分を見てみたが、現憲法九条二項を全面改正(削除)して、1994年試案では「自衛のための組織を持つことができる」、2000年試案では「自衛のための組織」を「自衛のための軍隊」と改め、2004年試案もこれを維持している。
 かりに憲法九条二項が憲法改正の対象のならない(そもそも改正できない)とするのが憲法学界の「通説」ならば、そのことに何かの言及があっても不思議ではないが、上記の書物にはいっさいそうした部分はない。改正可能であることを前提として、新しい法文を試案的に提示しているのだ。
 (また、読売試案に対して、憲法改正の限界を超えるというという観点からの強い批判意見が出された、という記憶はない。)
 なお、のちに発表された自民党新憲法草案と比べると、第一に、自民党案は「自衛軍」とし、読売案は「自衛のための軍隊」と表現する、第二に自民党案は「自衛軍を保持する」とし、読売案は「自衛のための軍隊を持つことができる」とする、という違いがある。第二点は、自民党案では自衛軍保持は憲法上の義務(又は当然予定されたこと)になり、読売案では義務にならない(すなわち、<持たないこともできる>ことになる。保持が憲法によって許容はされているので、法律レベルでの判断に委ねられる)、という違いをもたらす。

0170/「平和主義」と自衛軍・憲法改正権の限界の関係。

 自民党新憲法草案の前文の中に、「…平和主義…は、不変の価値として継承する」との文言がある。
 この前文改正案は要点を箇条書きしたような出来のよくない文章で成り立っていると感じるが、それはともかく、このように「平和主義」を継承する、と書きつつ、周知のように、同草案九条の二では「…自衛軍を保持する」と定めている。
 この案も前提としているだろうが、平和主義と軍隊の保持は矛盾するものではない
 いつぞや阪本昌成の言明を紹介したように、「平和主義」の中にも<非武装による平和主義>もあれば、<武装・軍備による平和主義>もあるのであり、「平和主義」を自衛戦争の放棄や非武装(=軍隊不保持)主義と理解するのは、特定の(偏った)理解の仕方にすぎない。
 (このような曖昧な「平和主義」という概念を前文の中に書き込むかは再検討されてよい。平和を愛好する、平和を志向するということ自体は殆ど当たり前のことだし、阪本昌成氏が指摘していたように-後述の常岡氏のように-「誤解」へと意図的に?導く人々も生じうる。)
 さて、常岡せつ子の朝日新聞への投書が話題にしていた憲法改正の限界の問題だが、野中俊彦=中村睦男=高橋和之=高見勝利・憲法Ⅱ〔第四版〕(有斐閣、2006)p.397は「限界説に立った場合、…内容的には、…国民主権、…人権尊重主義ならびに平和主義の諸原理があげられる」(野中俊彦・法政大学教授執筆)と書いている。
 また、伊藤正己=尾吹善人=樋口陽一=富松秀典・注釈憲法〔新版〕(有斐閣新書、1983)は、「基本原理」である「国民主権と基本的人権の原理が憲法改正の限界をなすという説、ないしすすんで平和主義の原理を含めてそう解する説が支配的」で、「憲法改正」条項も含める説が「有力」だ、と書いていた(樋口陽一・東京大学名誉教授執筆)。
 4/25の17時台に「日本国憲法は三大原則か六大原則か」と題してエントリーしたのだが、上の二つの本は、「三大原則」とされるもの、すなわち国民主権・基本的人権保障・平和主義が憲法改正の限界の対象になる旨を書いている、と言える。
 この4/25の段階では憲法上の「原則」が何かは「憲法改正の「限界」とは無関係に語られているのではないかと思われる(あくまで私の理解だが)」と書いていた。同時に、八木秀次氏が「三大原則」は1950年代に「護憲派勢力」が憲法改正によっても変更できないものとして「打ち出した」と述べているとも紹介していたが、「私の理解」は少し足らなかったようだ。
 だが、上の二つの本もたんに「平和主義」と書いているだけであり、具体的にその中に九条二項が含まれることを明示してはいない。少なくとも、九条一項のみか、九条二項も含まれるのか、という議論がなお生じる書き方になっている。
 常岡せつ子は、上のような叙述をする本があるのを知っており、かつ改正できない「平和主義」の中には九条二項も含まれるという、いわば<非武装の平和主義>という特定の理解に立って、九条二項の削除は憲法改正の限界を超える(範囲外だ)と主張したものと推察される。
 しかし、明瞭ではないが、かりに上の二つの本が改正できない「平和主義」の中に九条二項を含めているとしても、そのような考え方が「通説」かどうかは別の問題だ。
 第一に、通説と明瞭に言えるためには、例えば上の二つの本が、より明確に九条二項に論及し、明確に改正不可の旨を書いている必要があるだろう。
 第二に、上の二つとは異なり、明瞭に九条二項は憲法改正の対象にならないことはないとするのが「通説」である、と明記する芦部信喜、辻村みよ子の本があり、平和主義・九条二項に何ら言及しない佐藤幸治の本もあることは既に書いたとおりだ。
 従って、常岡せつ子が「大ウソ」をついた、という判断に何ら変わりはない。
 この人は、1.憲法の基本原理は改正できない、2.その基本原理の中には「平和主義」も含まれる、3.「平和主義」の条項には九条二項も含まれる、という、八木によれば「護憲派勢力」が1950年代に「打ち立てた」戦略にそのままのっかった、それぞれ議論になりうる論点についての特定の単純な理解にもとづいて「通説」だと主張してしまったのだ。
 そのような考え方もありうるのだろうとは思う。しかし、そのことと、そのような考え方が「通説」だと喧伝できるかどうかは全く別の問題だ。
 公正かつ慎重であるべき学者・研究者が自己の特定の単純素朴な理解が「通説」だなどという<大ウソ>をついてはいけない。
 なお、常岡せつ子が<九条の会>賛同人として寄せている長文の「メッセージ」は以下のとおりだ。
 「「国民一人ひとりが九条を持つ日本国憲法を、じぶんのものとして選び直す」ことが必要だという「九条の会」アピールに心から賛同いたします。ただ問題は、九条をどのように解釈した上での九条の「選び直し」かという点にあるのではないでしょうか。昨今のマスコミの論調は、例えば六月三〇日付の朝日新聞の社説にもありますように、戦後憲法学界が積み重ねてきた「九条は一切の戦争を放棄している」という九条解釈を敢えて無視し、憲法学界が従来解釈改憲であるとして批判してきた政府の九条解釈に則った上で、「自衛隊が海外で武力行使する」ことを可能にするような「改正」には問題があるのではないかというものにシフトしてきているように思われます。九条にどのような意味を読み取るかという点において〝発起人〟の皆様の間で何らかの合意がなされているのでしょうか。それとも九条解釈を問題にすることは、むしろ「立場を超えて手をつなぎ合う」ことへの障害になるとお考えなのでしょうか。私自身は九条は集団的自衛権はもとより、個別自衛権も放棄していると理解した上で「九条の選び直し」が必要と考えております。

0168/常岡せつ子-主張・見解はいいが「大ウソ」はつくな。

  
 常岡せつ子
という大学の先生は、特筆すべき勇気を持っている。「大ウソ」を書いて朝日新聞に投稿するという勇気、だ。
 朝日新聞5/22(18?)の「声」欄の常岡氏の投稿文の要点は、見出しにもなっているが、1.「憲法の基本原理を変える変更」は「現憲法の否定」で「改憲」ではないとするのが「学界の通説」だ。
 2.「9条2項を削り「自衛軍」保持を記す自民党案は、通説に従えば」「改正」案ではなく、「新憲法制定」又は「クーデター」だ。
 要するに、9条2項は「憲法の基本原理」の一つでこれを削除するのは「改憲」・「改正」ではなく、「クーデター」だ、と言っている。
 さらに言い換えると、憲法改正権にも限界がありその限界(範囲)を超えることはできないが、九条二項を削除(改正の一つ)することは憲法改正権の限界を超える=違憲であり、もしもするなら、「クーデター」になる、と言っている。
 「クーデター」(か「革命」?)になるとは<法的連続性>が絶たれるとの趣旨だろう。
 これがたんに一つの主張又は学説とした語られているならまだよい。
 だが、上の文章は、2.の部分についても「通説に従えば」と明記して、上に要約したような内容は「通説」だと述べているのだ。
 そんな筈はないだろうと思って、所持しているいくつかの憲法概説書・教科書を開いてみた。そして、上の内容は1.は一般論としては通説だが、2.は全く「通説」ではないことが容易に分かった。
 常岡氏は「大ウソ」を書いている
 まず、元東京大学教授の芦部信喜(高橋和之補訂)・憲法第三版(岩波、2002)p.367は書く。-「国際平和の原理も、改正権の範囲外にあると考えなくてはならない。もっとも、それは、戦力不保持を定める九条二項の改正まで理論上不可能である、ということを意味するわけではない(現在の国際情勢で軍隊の保有はただちに平和主義の否定につながらないから)、と解するのが通説である」。
 つぎに、常岡と大学院時代の指導教授が同じかもしれない現東北大学教授の辻村みよ子・憲法第2版(日本評論社、2004)p.570は上の芦部著を参照要求しつつ書く。-「憲法の平和主義の改正には限界があるとしても、戦力不保持を定めた九条二項を修正しえないのかどうかについては議論があり、通説はその改正までは理論上不可能としているわけではない(芦部・憲法三六七頁)」。
 上の二つの本が岩波、日本評論社という「左翼的」(「進歩的」?)出版社から出ているのは偶然かもしれないが、芦部も辻村も、九条護持派又は「九条保守派」の論者の筈だ。その二人がいずれも、九条二項は憲法改正権の対象外だということはない(対象となりえ、改正できる)と明瞭に述べ、かつそれが「通説だ」と叙述しているのだ。
 想像するに、常岡せつ子が九条二項について述べているようなことを書いている日本国憲法に関する本は一つもないのではないか。
 常岡の説に従えば、九条二項については「改正」の議論すらできない。常識的に考えてもそんな馬鹿なことはないだろう。
 第三に、前京都大学教授の佐藤幸治・憲法〔新版〕(青林書院、1990)p.38-39は、改正の限界につき、1.「憲法制定権力の担い手の変更」(秋月注-国民主権原理のことと思われる)、2.「同一性を失わせるようなもの」、「例えば…「自然権」的発想を否定するような改正」、3.改正手続規定、の三点を指摘している。どこにも「九条二項」など出てきていない
 (なお、佐藤氏の<「自然権」的発想>うんぬんは解りにくいし、欧米的理論による日本国憲法の解釈・説明は止めて欲しいとも思うが、ここでは無関係なので省略。
 さらに、佐藤氏はこんなことも書いている。-改正限界肯定説・否定説両方があり、限界肯定説からすれば限界を越えた行為は「改正ではなく…無効ということになるが、新憲法の制定として完全な効力をもって実施されるということは十分にありうる。そして、改正の「限界」内にとどまるのか否かの判定権が改正権者の手にあるとされる限り、理論上新憲法の制定とみざるをえないものが改正の名において行われることはありうる」。(p.39)
 憲法理論上の改正の限界を超えた「改正」でもそのような「改正」案を
改正権者=国民が承認すれば、(国民は改正の限界を超えるとは判断しなかったとも考えられるので)改正とも言える、というような趣旨だろう。
 とりあえず、上の三つの本だけを紹介した。元東京大学教授(東京大学出身)、現東北大学教授(一橋大学出身)、前京都大学教授(京都大学出身)の三人の本はいずれも、常岡せつ子の主張することとは異なることを書いていることは明瞭だ。常岡が自らの説を「通説によれば」として説明できるためには、少なくとも上の三人のうち一人くらいは同じ又は殆ど同じ主張をしていなければならないのではないか?
 さらに他の、所持している憲法学の本を見て追記することもありうる。
 <主張、見解>を述べるのは、あるいは新聞に投書するのは、研究者として、新聞読者として、自由だ。
 しかし、自己の<主張、見解>が学界において「通説」である旨の「大ウソ」を述べてはいけない。
 常岡は、上の意味において大学教員としての<適格性>を欠いている、と考える。雇用主(使用者)たる所属学校法人は、あるいは所属学部教授会は一体どのようにこの人の処遇を考えるのか。この人の勤務先はフェリス女学院大学らしい。そして国際交流学部に所属しており、「比較憲法」を研究分野としている(さらにネット情報によると、一橋大学社会学部出身で、進学した大学院が同大学の法学研究科)。 
 表現の自由も学問の自由もある。しかし「大ウソ」を吐き、教える「自由」はない。これを、常岡もご承知のとおり、自由の「内在的制約」とか言うのだ。
 朝日新聞の「声」欄の担当者がかりに法学部出身者だったら、常岡の「声」が事実ではないと気がついたか、少なくとも不審に思うことができた筈だ。法学部出身者でなくとも、朝日新聞社には、代表的な憲法学教科書の若干も置かれていないのだろうか(そんなことはあるまい)。そして、上の芦部信喜の本でもちょっと見れば「通説」うんぬんが事実ではないことに容易に気づく筈なのだ。
 朝日新聞の「声」欄の担当者がかりに常岡のいう「通説」うんぬんが事実ではないと知りつつあえてそのまま掲載したのだとすれば、そして「9条2項削除/改正の枠逸脱」と見出しをつけたのだとすれば、さすがに朝日と言うべきだが、これまた怖ろしい。

0167/日本国憲法「無効」論とはいかなる議論か-たぶんその3。

 再び、小山常実・憲法無効論とは何か(展転社、2006)に言及する。
 .こう主張する(p.131)。「失効・無効の確認がなされるまでは、本来無効な「日本国憲法」が、一応有効であるとの推定を受ける」。
 <一応有効であるとの推定を受ける>という表現は、とくに「推定を受ける」は厳密にいうとややキツいだろう。
 より正しくは、<事実上、有効なものとして通用する>ではないかと思われる。その事実上の<通用力>のあることを認め、従うべきことが要求されている、ということではないか。
 どちらでもいいような細かなことだが、<有効性の推定>という表現はやや気になる。
 .「無効確認」の意味・効力につき、こう主張する。「無効確認の効力は、将来に向けてのみ発生するのであり、過去に遡ることはない」(p.141)。
 こうした「無効」または「無効確認」という語の使用法は通例の「無効」概念とは違うのではないか、ということをすでにたぶん4/28に次のように書いた。
 このように<「無効」という言葉を使うのは法律学上通常の「無効」とは異なる新奇の「無効」概念であり、用語法に混乱を招くように思われる。/無効とは、契約でも法的効果のある一方的な国家行為でもよいが、当初(行為時又は成立時)に遡って効力がない(=有効ではない)ことを意味する。無効確認によって当初から効力がなかったこと(無効だったこと)が「確認」され、その行為を不可欠の前提とする事後の全ての行為も無効となる。と、このように理解して用いられているのが「無効」概念ではなかろうか。
 こうした感想は今でも変わらない。「無効確認」がなされるまではそうではないが、「無効確認」が正規になされれば(その主体・手続につき議論がありうることは既述)、当初に遡って効力がなくなり、それを前提としていた全ての行為の有効性もなくなる(無効となる=法的にはなかったことになる)、というのが「無効確認」の意味であり、そういう意味があるからこそ「無効確認」決定をする必要もあるのだ、というのが通例の用語法だろう。民事訴訟(行政訴訟を含む)において問題になる(使われる)「無効」とは、このような意味なのではないか。
 異なる意味で用いると言うのならば、それを明確にしておけば問題はない、ともいえる。ただ、やはり新奇の「無効」概念だと私には思える。
 .上のように「無効」という語が使われるので、「違法確認」との区別がないか、少なくとも不明瞭だ、と感じる。
 著者も前提としておられるだろうように、違法な又は瑕疵ある国家行為がそのゆえにただちに「無効」となるわけでもないし、「無効確認」の要件が満たされるわけでもない。
 違法な又は瑕疵ある国家行為であっても有効なことはあるし、また正規の「無効」確認がなされるまでは有効との外観を呈することもある。だが、「無効」と判断できるだけの強い違法性又は瑕疵があれば「無効」確認をして、無効=効力が最初からなかったものとして扱うことができることは、上でも述べた。
 だが、将来においてのみ効力をなくすというのであれば、正規の「違法確認」行為がなされた場合とどう違うのだろう。違法→無効ではないことは上述のとおりだが、手続的に正規の「違法確認」行為・決定がなされれば、違法=少なくとも将来に向かっては効力がなくなる(という意味での「無効」)とするのが原則であり、それが(法の支配又は)法治主義の要請するところだろう。
 現在において「違法確認」することは、その行為の過去の効力に影響を与えない筈だ。とすると、主張されている「無効」論は「違法」論とどう違うのだろう。
 読解不足、私の知識不足かもしれないが、どうもよく分からない。
 .将来に向かってのみ「日本国憲法」の効力を否定することの意味・意義はそもそもどこにあるのだろう。
 著者によれば、新憲法制定までの<手続>・<段階>はこうだ。
 第一に「無効確認」と(ほぼ)同時に明治憲法の復原の確認がなされる。第二に、新憲法制定までの間は改正規定(明治憲法73条)以外の明治憲法の諸規定の「効力を停止し」、臨時措置法を制定する。この臨時措置法の内容は、前文・九条・改正手続規定(96条)以外は「日本国憲法」の条文を「基本的に採用する」。5-10年後に、第三に、明治憲法73条にもとづいて明治憲法を改正する新憲法制定に移るのだが、まずは改正手続規定である明治憲法73条を改正し「日本国憲法」96条のような規定にする。その上で、第四に、実質的には「日本国憲法」96条を内容とすることとなった明治憲法73条により国会の発議・国民の承認という手続で(明治憲法の改正による正当な)新憲法を制定する。
 何とも複雑な手続で容易には解りにくく(私は何とか理解できたが)、まさに<アクロバティック>な手続を経る必要があることになる。
 日本国憲法「無効」論のほとんど不可欠の帰結であるらしいこのような手続と、現在の日本が「現実」に置かれている状況と比較すると、今の現実は、上の第三までは終わっており、第四の段階に移ろうとしている段階にある。
 ということは、「現実」と比較すると、日本国憲法「無効」論とは、上の第一~第三の「段階」を余計に踏ませるための議論なのだ、と言い得る。
 むろん、日本国憲法が「無効」なのだからそうしないと「正統な」憲法は生まれない、ということなのだろうが、それにしても解りにくく複雑だ。また、日本国憲法を無効と考えていない者にとっては、<全く不要で余計な、かつ複雑な>行為の連鎖を要求していることにもなる。
 この説に従うと、(もともと議会による無効確認決議、天皇の裁可等の「現実」的可能性はほぼゼロだと思うがその点は別としても)現憲法の改正は「現実」よりもかなり遅れるだろう。現憲法九条は、臨時措置法の制定によってとりあえず削除されるようだが、日本国憲法無効確認と明治憲法の復原確認の後になることには変わりはなく、「現実」が進もうとしている時期よりも遅くなることは間違いないだろう。
 この議論の「現実」的通用性は別として論理的に言っても、<日本の現実は、そんなに悠長なことを言っておれる状況なのだろうか?>
 .著者のいう日本国憲法の「無効」事由には立ち入らない。説得的なものもあれば、首を傾げるものもある。
 芦部信喜(高橋和之補訂)・憲法第三版(岩波、2002)p.29がのどかにも?「完全な普通選挙により憲法改正案を審議するための特別議会が国民によって直接選挙され、審議の自由に対する法的な拘束のない状況の下で草案が審議され可決されたこと」を現憲法の制定過程は「不十分ながらも自律性の原則に反しない」ということの根拠の一つに挙げていることに比べれば、より現実に即していると思える部分もある。
 .だが、もう端的に結論だけ示しておきたいが、今頃になって日本国憲法の「無効」を主張するのは遅すぎる。主権回復後早々に同様の主張がなされて(明治憲法の改正手続を利用するか、制憲議会の設立・国民投票を特別に行うか等の問題は残るが)日本人のみによる「正統」な憲法制定がなされればまだ良かったかもしれない(「無効」論に全面的に組みしている訳ではない)。
 だが、憲法施行後60年も経った主権回復後でも55年も経った。<憲法学者等に騙されてきたのだ>と主張されるのかもしれないが、その55-60年の間、圧倒的多数の国民が、政府関係者、裁判所関係者、そしておそらくは昭和天皇も今上(明仁)天皇も、日本国憲法は「有効」な憲法だと信じて国政を運営し、生活を営み、現憲法を前提として皇位の継承も行われたのだ(正確な記録は持っていないが、昭和天皇も今上(明仁)天皇も何度も「日本国憲法に則り」とか「日本国憲法に基づき」とかの言葉を用いられた筈だ)。
 議論のために天皇陛下の主観を利用するつもりはない。再述すれば、天皇や皇室はかりに別としても、圧倒的多数の国民は日本国憲法は「有効」な憲法だと考えてきたのだ(そのことは現在の国会議員の全員が有効性を前提としていることでも証されるだろう)。
 それを今頃になって「無効」と主張し、「無効確認」を国家機関にさせようと主張するのは、第一に、民法でいう「権利濫用」にあたる、国家機関による<権限濫用>をそそのかしている疑いがある。関連して第二に、民法でいう「信義則」にあたる、国家行為への国民の<信頼の保護>原則を大きく損なう可能性がある。
 いちおう分けたが、国家行為への国民の<信頼の保護>を大きく損なうがゆえにこそ、無効確認行為は国家機関による<権限濫用>になる可能性が極めて高い、と言い換えてもよい。
 著者が言及している論点だけが、この問題に関係する論点なのではない。国家の<権限濫用>も国民の<信頼保護>も視野に入れるべきだ。
 さらに、法原理の中には、抽象的・究極的ではあれ、<法的安定性の維持・確保>という要請もある。違法又は無効の国家行為についてこの一般原理を濫りに使うべきではないのはいうまでもないが、しかし、55-60年という長期間の経過を考えると、<法的安定性の維持・確保>も視野に入れるべきだ。視野に入れているからこそ「無効確認」の効力は将来にのみ及ぶと主張していると反論されるかもしれないが、無効確認、そして明治憲法の復原確認という行為そのものが<法的安定性>を十分に害する、と考える。
 日本国憲法「無効」論は、現憲法の制定過程の<いかがわしさ>を明らかにし、現憲法を(当然に同96条と最近成立した憲法改正手続法に基づいて)改正して、日本人(のみ)による新憲法の制定=改憲をするために有利な議論として、個人的には利用させていただきたい、と考えている。

0162/読売新聞5/20朝刊-「気鋭の改憲論者どこに」。

 読売新聞5/20朝刊に、前木理一郎という署名入りの記事「気鋭の改憲論者どこに」がある。それによると、こうだ。
 1.「全国憲法研究会」の5/12の研究集会(成城大)に行ったら、司会の駒村圭吾(慶応大学)が<憲法60年で還暦お祝いなのに「赤いちゃんちゃんこ」ではなく「経帷子」(仏式の際死者に着せる白い着物)を着さされそうな雰囲気だ>旨言った。「憲法改正を憲法が死ぬととらえるのは穏やかではないが、…憲法学界は「護憲」派が大多数を占めている」。
 2.有望らしい東京大学教授の石川健治(1962-)が論座6月号(朝日新聞社)で<9条2項を改正して自衛隊に正当性を与えた上で国民の自由を確保すできるだけの力量は…日本の議会政治にはいまだ備わっていない>と書いているのを読んでショックを受けた。
 3.55年生まれ組として注目されているのが松井茂記、棟居快行、安念潤司各教授だが、棟居は「9条は自衛隊の存在を前提としない文字通りの丸腰論で、とっくに賞味期限は切れている」と石川を批判する。但し、安念は「憲法〔学?-秋月〕の世界では改憲論者は、はっきり言って二流学者」と言った。
 以上のように述べたあと、「同業者から認められ、政府が手を伸ばしたくなるような気鋭の改憲論者の登場を心待ちにしたい」と締め括っている。
 小さな記事だが、なかなかよく現在の憲法学界の雰囲気を伝えている。いくつかの感想・コメントを記しておく。
 1.私は勝手に憲法学者の80-90%は護憲派(とくに九条改憲反対派)だと想像しているが、この記事は「大多数」と表現している。
 「憲法研究会」なるものは、例えば日本評論社から同会編の憲法改正問題という本(雑誌特集号?)を刊行して「護憲」のための主張をしている、護憲派ばかりが集まっている研究会だと推測される。
 2.石川健治のものを読んだことはないが(とくに「論座」など買うわけがない)、この人も東京大学教授なのか。日本の「議会政治」という<権力>側に対して強い又は執拗な<不信感>を持っているようだが、「議会政治」を支える国民一般もまた<信頼>しておらず東京大学という「高み」から<蔑視>しているのだろう。それにしても東京大学の憲法学教授には「左翼」が多すぎはしないか。いや「左翼」ばかりではないか。
 3.たまたま前々回にこの記事をきちんと読まないままで肯定的評価を書いた棟居快行教授が、この記事の引用が正確である限り、明確に9条(2項)を批判している。「とっくに賞味期限は切れて…」と私も思うが(占領初期の数年だったのではないか)、この表現は九条二項改正論支持を意味しているのではないか。とすれば、珍しい、まともな「改憲論」の憲法研究者ではないか。
 上では言及しなかったが、棟居は改憲論を支持すると政府・与党に引っ張られて「勉強できなくなる」から護憲派になっている者が多いのではないかとの「ユニーク」なことを言っているようだ。当人もきっと忙しくなるのはイヤなのだろう。だが、この見方は<ジョーク>の類だと思われる。というのは、護憲派の憲法学者もまた、労組・「市民」団体等々への九条護持のための講演やら研修やらで現在すでに忙しく、「勉強できなくな」っている可能性も十分あるからだ。
 ともあれ、「同業者から認められ、政府が手を伸ばしたくなるような気鋭の改憲論者」
が必要であることは間違いない。だが、現在までの憲法研究者の「養成」の仕方(主として指導教授が大学院で行う)からすると、大きな期待をすることはできず、私はほぼ絶望的だと何となく思っている。
 東京大学の小林直樹芦部信喜両教授のもとで何人の憲法研究者が育っただろう。東京大学に限らず、小林直樹、芦部信喜両氏のような九条改正反対の教授のもとで何人の憲法研究者が育っただろう。そして、そのような、「憲法研究会」に参加しているような彼らこそが、法学部学生に、あるいは高校までの教員免許を取ろうとする教育学部等の学生に「日本国憲法」を講義してきたのだ。
 現在の国や地方の「官僚」や学校教員に(さらにはマスコミ関係者にも)、そのような<憲法教育>が影響を与えていない筈はない。いつかも書いた気がするが、暗然たる思いがするし、指導的な憲法学者(故人も含む)の社会と歴史に対する「責任」はきわめて大きい、と感じる。

0140/読売2007.05.12の橋本五郎記事による憲法学界の状況に寄せて。

 読売5/12朝刊の橋本五郎・特別編集委員の記事はなかなか面白い。この人は今年の1月に、東京大学の憲法学者の長谷部恭男と読売紙上で対談していた。
 憲法改正手続法成立見込みの時点で、「「抵抗の憲法学」を超えて」という大見出しのもとで、現在の憲法学界の状況を紹介・コメントするもののようだ。
 1.現在岩波書店が出版している講座・憲法全6巻のうちの第一巻の「はしがき」にこう書いてある(直接の引用ではない)のを読んで、「違和感を覚えた」という。
 <「戦後憲法は紙屑だ」と言い放っている人たちが「押し付け憲法」であることを根拠に現憲法を葬り去ろうとしている>。
 こんなふうに書かれれば、改正試案を発表している読売の立場もなかろう。従って、改正試案を世に問うたのは「「押し付け憲法」だからというのではない。「紙屑」だと思ったからでもない」、と橋本は反論?している。
 上の<>を「はしがき」を書いたのは第一巻の編者だと思われ、そうだとすると、東京大学の法哲学の教授の井上達夫、ということになる。
 岩波書店(および日本評論社)が出す憲法の講座ものが<公平>・<客観的>である筈がない雑誌『世界』の出版社らしく当然に<偏向>している、と私は思っているので特別の驚きはなく、やっぱりと感じるのだが、本当に法学部の(しかも東京大学の)教授が上のようなことを書いているのだとすれば、空怖ろしいことだ。まともな神経ではない。まともに現実が見えていない(安い古書になれば購入を考えよう。なお、長谷部恭男もいずれかの巻の編集者の筈だ)。
 2.1966年に故芦部信喜東京大学教授(憲法学、1923-99)は、自衛隊違憲論+改正反対論は「政治に対しても国民に対しても、訴える力が非常に弱くなってきている。学説と国民意思が離れすぎてしまっているのではないか」と書いたらしい。
 東京大学法学部には自衛隊についての<違憲合法論>を示した、旧日本社会党ブレイン(と思われる)小林直樹(1921-)がいて、こちらの方は明確な「左翼」だった。世間的には小林直樹ほどは目立っていなかった芦部信喜も、最近に代表的な憲法概説書ということで彼の本の憲法九条の部分を読んでみると明らかに「左翼」だ(いずれ、彼の議論も俎上に乗せるつもりだ)。
 晩年に書いたもののようだが、芦部信喜氏は、評論家ふうに「訴える力が非常に弱くなってきている。学説と国民意思が離れすぎてしまっている」
などと書ける立場の人物ではなかったのではないか。すなわち、訴求力をなくし、学説と国民意思を乖離させた責任の一半は、東京大学教授だった自らにこそあるのではないか。
 同じ1996年に、よくは知らないが芦部の「弟子」(芦部を指導教授とした)らしい高橋和之(現在、東京大学法学部教授・憲法学、1943-)は、自衛隊違憲論を唱えた「大きな代償」として次の2点を挙げた、と橋本は書いている。
 1.<憲法学者は非現実的すぎるという印象を国民に与え、憲法学者の発言の説得力を低下させた>、2.<現実が憲法規範通りにいかないのが通常のことだという意識を国民の間に蔓延させた>。
 私も橋本とともに、「その通りだと思う」。私は日本の憲法学者の殆どを信用していない。おそらくは殆どの憲法学者がフランス革命を平等・人権等のための「素晴らしき市民革命」と理解しているはずだ(あるいは、そういう「囚われ」から抜け出ていない筈だ)。
 3.「特別編集委員」というのは専門雑誌も読むようだ。ジュリスト最新号(有斐閣)で、佐藤幸治・京都大学名誉教授(1937-)は、<憲法学の役割は「批判」・「抵抗」だけでなく「創る」・「構築」も重要だ>旨書いているらしい。高橋和之も、「制度設計」を議論しないで他人の創った制度を「批判」するだけでは「憲法学として半分しかやっていないような気がする」と、「抵抗の憲法学」からの脱却を述べているらしい。
 これらは誤りではなく、適切だ。しかし、私に言わせれば、今頃にこんなことを言っていたのでは遅すぎる。それに高橋の「…しかやっていないような気がする」とは一体何だろう、「ような気がする」とは。
 ジュリスト最新号を購入して、全体をきちんと読んで、再び触れるかもしれない。
 橋本は読売の改正試案発表の動機のようなものを次のように述べている。
 ア「国民の大多数が認知している自衛隊を憲法学者の多くが違憲…と学生に教え」、「政府は自衛隊を…「実力は持っているが…戦力ではない」などと、綱渡りのような解釈でしのいできたのはおかしいのでないか」。
 イ「国連平和維持活動」等の果たすべき国際的責務を「憲法9条があるからできないというのは本末転倒で」、「憲法上きちんと位置づけるべきではないのか」。
 これらはまことに尤もなことだ。ふつうの人間の「常識」・「良識」に合致するのではないか。
 しかるに、過日と同じことの繰り返しになるが、自衛隊は憲法上の「戦力」ではないとの「大ウソ」をつき続けて、<現実が憲法規範通りにいかないのが通常のことだという意識を国民の間に蔓延させた>ままにしようとしているのが、朝日新聞社(若宮啓文)・九条の会等々の面々に他ならない。憲法学者の多くは、正気に戻って、こうした面々を応援・支持することを即刻止めるべきだ。

0107/阪本昌成・リベラリズム/デモクラシー(有信堂)を少し読む。

 エントリーが100回を超えてしまうと、既に書いたことなのかどうかが分からなくなるものがある。
 日本の社会系・人文系の学界にはまだマルクス主義の影響が強く残っているようであることに、すでに言及したかもしれない。とりあえず私がそう感じるのは(たぶんに推測を含んでいるが)、日本史学と政治学だ。
 法学界のうち、少なくとも憲法学界も含めてよいだろう。前々回に一部紹介した渡部昇一の書評文の中には、「…憲法九条のおかげだ」という「嘘に学問的装いを与えてきたのは東大の憲法学教授たち」だとの文もある。
 その書評の対象だった潮匡人・憲法九条は諸悪の根源のp.250には東京大学に限らない、次の語句もある-「前頭葉を左翼イデオロギーに汚染された「進歩派」学者の巣窟ともいうべき日本の憲法学界…」。そして、「学界の通説」を代表する芦部信喜氏は「自衛隊は…九条二項の「戦力」に該当すると言わざるをえないであろう」と述べて「明白な自衛隊違憲論」に立っているとする(p.252。なお、芦部は1923-1999で故人)。また、改憲を説く憲法学者は少なく、樋口陽一は「とりわけ先鋭的に「護憲」を奉じている」と書いている(p.253)。この二人は東京大学教授だった。樋口の論の一部には言及したことがあるが、芦部(および現役東京大学法学部教授の長谷部恭男等)の論も含めて、今後言及することがあるだろう。
 「「進歩派」学者の巣窟ともいうべき日本の憲法学界」と称される中では、別冊正論Extra.06・日本国憲法の正体(産経)に原稿を寄せている憲法学者はごく少数派に属するに違いない。八木秀次百地章の2人、憲法「無効論」の小山常実氏を含めて3人だ。こうしたタイトルの現日本国憲法に批判的な特集に(但し、呉智英氏は九条護持論者だ)、編集部を除く20人の執筆者(巻頭は櫻井よしこ)のうち憲法学者が2~3名しかいないというのも、現憲法に批判的な憲法学者が少ないことの現れかと思える。
 上にいう「進歩派」とはマルクス主義者、親マルクス主義者、少なくともマルクス主義憲法学者に敵対はしない者をおおむね意味していると、大まかには言えるだろう。
 上には名前が出ていないが、これまでに言及したことのある阪本昌成(現在、九州大学教授)も、少数派に属する憲法学者のようだ。
 阪本昌成・リベラリズム/デモクラシー〔第二版〕(有信堂、2004)は<反マルクス主義>に立つことを次のように書いている(1998年の第一版も所持しているが、文末の表現を除いて同一内容だ)。ここまで明瞭にマルクス主義を批判している憲法学者がいることを知り、驚くととともに安心もした。
 「
マルクス主義とそれに同情的な思想を基礎とする政治体制が崩壊した今日、マルクス主義的憲法学が日本の憲法学界で以前のような隆盛をみせることはないはずだ(と私は希望する)。…。
 マルクス主義憲法学を唱えてきた人びと、そして、それに同調してきた人びとの知的責任は重い。彼らが救済の甘い夢を人びとに売ってきた責任は、彼らみずからがはっきりととるべきだ、と私は考える。…本書は、マルクス主義憲法を批判の対象としない。なぜなら、マルクス主義は、もはや古典的リベラリストにとっての「論敵」ではないからだ。それでも彼らは、<社会的弱者を放置するなかれ>という平等主義を、社会主義に代わるスローガンとして掲げ続けるだろう。
 マルクス主義者の失敗の最大原因は、経済自由市場のメカニズムを信用することなく、確固とした正義(彼らにとっては、イデオロギーではなく「科学」であると思われたもの)が市場の外にあるとの前提のもとで、その正義の鋳型に沿って国家と社会を設計主義的に作り上げることができると過信した点にあった。計画経済、基幹産業の国有化、集団農場政策等がこれであった。これらは、自由市場の「見えざる手」をあざ笑うかのような成果を見せたように思われた。が、全面的に失敗した
」(p.22-23、以下省略)。
 マルクス主義は消滅したように見えてもルソー的平等主義を主張するかぎり必ず復活してくる旨の中川八洋の指摘を思い出す。「設計主義」とは、マルクス主義(共産主義)を批判する際にフォン・ハイエクが用いた概念だった。
 この阪本昌成の現憲法に対する態度は、正確には(まだ彼の本を十分には読んでいないので)知らない。しかし、現憲法「無効」論者の小山常実はさしあたり別として、「マルクス主義的憲法学」が(少なくとも従前は)隆盛の中での
、八木秀次、百地章、そして阪本昌成各氏を、私が何をできるかは分からないが、少なくとも精神的・心理的には、強く支持し、応援したいものだ。
 現時点での最も大きい対立軸は共産主義者(又はその追随者。朝日新聞、立花隆、社民党等々)と「自由主義者」(反共産主義者)との間にあるのであり、現憲法についての有効論者と無効論者との間にあるのでは全くない、と考えている。
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