読売新聞1/05朝刊の「この国をどうする4」で憲法学者(大阪大学)の棟居快行が語っている。
 <「個人の能力」の解放と「組織的な強み」の両方が日本には必要。「個人の尊重」と「社会の公正」のどちらを重視するかを政党は示すべきだし、両者の「調和」をどこに見出すかで「憲法秩序」を語った方がよい。
 衆院と参院での「国民」の反応の違いの背景の指摘も含めて、上の指摘に大きな異論はない。当たり前のことを語っているにすぎないとすら言える。
 関心を惹いたのは次の部分だ。
 「『自由と平等』というフランス革命的なカードではなくて、もう少し現代の日本にあわせたカードで…切り分けた」方が、「二大政党にうまく移行できる」。
 後段の「二大政党」うんぬんはともかくとして、「フランス革命的なカード」ではない「もう少し現代の日本にあわせたカード」で切り分ける必要を説いている。
 この点にもとくに反対はしない。
 問題は次のことだ。すなわち、「自由と平等」という「フランス革命的なカード」ではダメ(少なくともそれだけではダメ)だということくらいは、とっくに明らかなことではないのか
 日本国憲法施行後すでに60年経った。1989年からでも20年めを迎えた。憲法学界はこれまでずっと、「自由と平等」という「フランス革命的なカード」で、あるいは広くとっても<欧米思想系>のカード、によってのみ切り分けた議論をしてきたのだろうか。
 日本について、そして、日本国憲法について、「もう少し現代の日本にあわせた」カードでの議論をすべきことは、至極当然のことではないか。
 棟居快行を非難するつもりはないが、上のような言葉が、さも新鮮なこととして語られるような風潮があるように見られること自体が、フランス「革命」思想あるいは<欧米系思想>に依拠してしか議論をしていない(むろん一部の例外はあるだろうが)かの如く見える憲法学界の異様さを示しているようだ(と私は感じる)。
 ついでに、読売新聞は同欄の「フランス革命」という語に注釈をつけ、「フランスの民衆が1789年に決起し、絶対王政を打倒した革命」、とまず定義づけている。こうした何気ない解説部分にも、朝日新聞に比べれば<保守的>と言われる読売においてすら、戦後日本が依拠した<フランス革命幻想>が浸透していることが、鮮明に示されている。
 読売のこの部分の(きっと安直な辞典類でも一瞥したのだろう)執筆者に尋ねたいが、上にいう「民衆」とは何か。「ブルジョア革命」との通説に従ってすら、主体とされる「ブルジョアジー」と当時にすでに存在した「民衆」を区別することはできる。前者も後者の語の中に含めているつもりだろうが、そのような「民衆」概念の用法は誤解を招くだろう。通説に従ってすら、「市民(ブルジョア)革命」と「民衆革命」とは別の筈であって、フランス革命は前者ではないのか?(<絶対王政打倒>との従来の支配的理解にも異論が出てきているがこの点には立ち入らない。)
 さらに言うと、読売新聞の「フランス革命」の注釈者は「フランス人権宣言一条」は「各国憲法に大きな影響を与えた」、とも書いている。その事実自体を否定するつもりはとりあえずないが、「人権宣言」などはただの紙切れ上の言葉にすぎない。フランスでそこに書かれたことがいちおうにせよ現実に達成されたのはいつだったのか?
 かつてのソビエト憲法にだって現在の北朝鮮憲法にだって、言葉としては立派なことが書かれていたし、書かれてある。
 当たり前のことだが、言葉(理念またはウソと知りつつ掲げる理想)と現実とは異なる。このことを読売の一記者には知ってほしいものだ。
 また、上に見られるが如く、一定の<フランス革命のイメージ>が牢固にすでに完成されているように見え、数千万の読者にそれがバラ撒かれているのは、怖ろしいことだ。