秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

自殺

2265/「わたし」とは何か(3)。

 (つづき)
 第二。<生まれてから死ぬまでの個人・個体の<同一性>というドグマ、と前回最後に記したが、「ドグマ」、「同一性」という語自体の意味に問題はある。
 また、「生まれてから死ぬまでの個人・個体の…」ということも、厳密には疑わしい。
 別の回に茂木健一郎も述べていて、また脳科学分野全体で合致があるようなのだが、睡眠(とくにノンレム睡眠)中と全身麻酔中の人間には「意識」はない、とされる。「意識」(conciousness)が欠如していればと「私」という(「私」に関する)自己意識も消滅していることになる。とすると、毎日・毎夜、全身麻酔手術ののたびに「私」は途切れていて、連続していないことになろう。意識の喪失=「死」、ではないが、かりに誤ってこれらを同一視するとすれば、我々は何度も「死んで」いるのだ。つまり「私」は決して連続していないのだ。「意識」が消滅しているときの「私」とは、いったい何だろう。
 上のことはさて措くとしても、重要なのは、「生まれてから死ぬまで」とはいつからいつまでのことか、ということだ。
 脳科学、脳神経科学等の書物をかじっていて、ときに感じるのは、どのような人間を対象にして叙述、議論をしているのだろう、ということだ。おそらくは、<ふつうの(正常な)成人>を念頭に置いている。だが、生誕後に限るとしても、乳幼児期からいつ頃までに、「自己意識」をもつ「私」は発生>するのだろうか。
 いや、茂木健一郎は別の回で「胎児にも私があって、睡眠というものがあって、後で覚醒して、あっ私だ、と感じるのだろうか」というようなことを語っていたが、生誕時から(胎児の時から??)「私」はすでに発生しているのだろうか。
 逆に、「死ぬ」ときまで、「私」は存在しているのだろうか。認知症の患者にはどのような「私」があるのだうか。統合失調症の人々には、<歪んだ私>があるのだろうか。いわゆる精神障害者にとっての「私」とは??
 これはいつからいつまでを自立・自律の「人間」と見るのか、という大問題にかかわっているだろう。脳科学だけで解決できる問題でもないだろうが(つまり常識・伝統・制度等が関係する)、しかし脳科学・生物学こそが最も大きな寄与をすべき問題であるように見える。
 余計ながら、現在の日本の法律(・その解釈)では「人」となる時期は決まっていて「胎児」と区別されるが、旧優生保護法全面改正の現母体保護法(2013年〜)第14条第1項1号によると、「指定医師」は、「本人及び配偶者の同意を得て」、「妊娠の継続または分娩が身体的または経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」について「妊娠中絶を行うことができる」。ここで「妊娠中絶」とは簡単には<胎児の母体からの排出>をいう(同第2条)。立ち入らないが、人としての生誕・非生誕は決して自然なものではない。なお、いくつかの寺院には真新しい「水子地蔵」がたくさん並んでいる。
 「死」の時期についても、「脳死」問題が議論されたように、自然に、あるいは明確に定まるものではない(むろん一定の基準はある)。
 <生まれてから死ぬまでの個人・個体の<同一性>>というドグマに立つとしても(実際には、または世俗生活的にはそのドグマを私も前提にはしているのだが…)、その始期と終期の厳密な確定にはなおも問題がある、ということを、<ふつうの(正常な)成人>だけを視野に入れるのではいけないのではないか、ということを、言っている。
 さらに余計ながら、人工妊娠中絶の是非はアメリカ等では<リベラル・保守>を分ける根本的対立点のようだし、自殺の是非・可否もキリスト教の人々には重要な論点のようだ。
 生と死に関係する重要な問題だが、日本人はどのように考えてきたのだろうか。生きていてこそ「私」があり、「こころ」もある。
 西尾幹二は、条件の物的な整備よりも「こころ」・「精神」の問題がより重要だと、強調する。また、「自然科学」も蔑視する。
 「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことができない領域」がある。それは「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」だ。
 以上、西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 「自然科学の力とどう戦うか、それが現代の最大の問題で、根本にあるテーマ」だ。
 以上、歴史通/月刊WiLL2019年11月号別冊「対談/皇室の神格と民族ま歴史」。
 西尾幹二は、日本での中絶や自殺・脳死の問題について、何か発言したことがあるのだろうか。これらは、もちろん<技術的な>問題ではなく、ヒト・人間にとって<本質的な>問題だ。
 ——

2134/猪木武徳・自由の思想史(2016)①。

  猪木武徳・自由の思想史-市場とデモクラシーは擁護できるか(新潮選書、2016)。
 オビに「自由は本当に『善きもの』か?/ギリシア哲学から現代の経済思想まで」等とある。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)と比べて読むのも、面白いだろう。
 前者は「選書」、後者は「新書」だが、前者計p.239まで、後者計p.396で、活字の大きさも後者が小さいので、文章・文字の総量は後者がはるかに上回る。
 内容や質は? 以下に書く。
 猪木著の「まえがき」で、こんなことが書かれる。
 ***
 <太った奴隷よりも飢えて自由の方がよい>旨のイソップ寓話がある。
 しかし、「隷従し」、「拘束を受けても」、「十分食べたい」という欲望が人間にはあるのではないか。
 「精神的な欲求としての自由を、いかなる価値よりも優先させるべき理由、そして人間の本性と両立しうる原理の根拠をどこに求めればよいのだろうか」。
 自由の実現には苦痛も伴う。「人間は、自由と不自由のコストとベネフィットを考慮することがあるのではないか」。
 「精神的な欲求としてだけではなく、『制度としての自由』には、さらに本質的な問いが潜んでいる」。
 以下、省略。
 ***
 すでに、勝負あり、だ。その背景は世代・年齢差(10年)にあるのではなく、基本的には、<文学・思想>分野か<経済・思想>分野かという、素養・「教養」の由来にあるだろう。
 西尾幹二は、「精神的な自由」、「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」を最重視しているかのごとくだ。人間も生物であることを完全に無視している。
 猪木武徳においては、まず「精神的自由」は最重要の価値なのかと問題設定される。
 「十分食べたい」という欲求は人間の本性(nature)に合致している。これを無視することは、少なくとも一切無視することは、絶対にしてはならないだろう。
 西尾幹二はすでに「人間」ではなくなっているのかもしれない。あるいは生物・動物であることを忘却している、そのふりをしているのかもしれない。
 猪木は第3章の冒頭(p.77)で、アダム・スミスに言及しつつ、「自殺」=「自由意思による死」の問題を彼は論じている、という。西尾はこれに論及していないはずだ。
 しかし、これも、「自由」の、しかも難解な「自由」に関する問題だ。<自殺>・<自由意思>一般の問題には立ち入らないが、ここで想起するのは、ジョン・グレイ(John Gray)が言及していた、ソ連の強制収容所体験者の回想記・<北極コルィマ物語>のことだ。紹介部分の一部を、省略しないで、そのまま引用する。
 J・グレイ/池中耿訳・わらの犬(みすず書房、2009)、p.104。
 「意味と名のつく一切を奪われた収容者に、生きつづける理由はなかった。
 しかし、多くは、時にみずからの選択で命を絶つ機会が訪れても、その機会を捉えて行動するだけの気力、体力を残していなかった
 『死ぬ気が萎えないうちに急がなければならない場合もあった』。」
 旧ソ連のでも、ナツィスのユダヤ人強制収容所でもよいのだが、被収容者の「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」とはいったい何だろうか。
 「死ぬ自由」すら選択できない、その「気力、体力」すら残っていない、という人々にとっての「精神的な自由」とは、いったい何だろうか。
 安全な場所に身を置いて、優雅に「精神・こころ」の大切さを説く高慢と偽善を許してはいけない。

0584/憲法学者・樋口陽一の究極のデマ(6)-「個人」・「個人主義」・「個人の自由」/その2

 二 月刊正論8月号(2008、産経新聞社)の小浜逸郎「死に急ぐ二十代女性の見る『世界』」は若い女性の自殺率の高まりの原因等を分析するものだが、最後の文章は次のとおり(p.285)。
 「人間は一人では生きられない。戦後、日本人は欧米との戦争の敗北をふまえて、『欧米並みの近代的な個の確立』という課題をやかましく叫んできた。しかし、気づいてみると、そういう心構えの問題を通り越して、社会(ことに企業社会)の構造そのものが、ばらばらな個として生きることを強いるようになってしまった。若い女性の一部にそのことの無理を示す兆候が顕著になってきた」のかもしれない。/
 そうだとすれば、「私たちは、個の単なる集合として社会を捉えるのではなく、あくまでもネットワークとしてこの社会が成り立っているのだということを、もう一度根底から捉え直す必要があるのではないのだろうか」。以上。
 <欧米並みの近代的な個の確立>を説く樋口陽一において、企業・法人は国家とともに「個人」を抑圧するものとして位置づけられていた。
 しかるに小浜逸郎は「企業社会」の「構造そのものが、ばらばらな個として生きることを強いるようになってしまった」という。これを樋口陽一は当然視して歓迎しても不思議ではないのだが、樋口本人はどう理解・評価するのか。
 いずれにせよ、<欧米並みの近代的な個の確立>などという(日本の進歩的文化人・「左翼」知識人が唱えてきた)お説教が日本と日本人にとって適切なものだったかどうか自体を、小浜の指摘のとおり、「根底から捉え直す必要がある」だろう。<欧州近代>を普遍的なもの(どの国も経る必要があり、かつ経るはずの段階)と理解する必要があるか否か、という問題でもある。
 また、自信をなくしての自殺も自尊心を損なっての行きずり(無差別)殺人も、戦後日本の<個人(の自由)主義>の強調・重視と無関係ではない、と感じている(仮説で、面倒な検証と議論が必要だろうが)。
 (この項、つづく。)

0197/松岡勝利前農水相自殺から一週間後のつぶやき。

 数日前だが、4/22午前のテレビ朝日・サンデープロジェクトの録画済みのもの(ディスクへのムーヴ版)を観ていると、画面手前に大きく松岡勝利氏の顔写真を大きなパネルにしたようなものが登場し、そのあとで画面は6党の政策担当者に移ったが、ときどきは松岡氏の顔写真も見せていた。司会者は言うまでもなく田原総一朗で、<松岡農水相の「ナントカ還元水」をきっかけにして問題は大きくなり…>と発言したのを皮切りに、6党関係者の政治資金規正法改正に関する議論がなされた。
 そのテーマのたぶん殆ど最後だったが、田原氏はこう言った(以下は正確な紹介)。-「なんで松岡を守んなきゃいけないんだよ、自民党は」。
 内容を問題にしたいのではない。田原が松岡農水相をこのとき「松岡を」と呼び捨てにしたのが引っかかった
 田原総一朗は現職大臣を上の名前のみで呼び捨てにする習慣をもっているだろうか。私の知るかぎりでは、そのような発言の仕方を聞いたことはない。田原には松岡を<軽侮する気分>があったのであり、一部マスコミもそのような気分を共有していたのではないか。
 また、番組のそのテーマ自体が松岡の大きなパネル写真から始まったことは上記のとおりだ。
 ちなみに、このテレビ朝日の番組は、民主党の角田義一議員への朝鮮総連関係団体からの違法献金問題、小沢一郎の政治資金による不動産取得問題を取り上げたことがあるのだろうか? 取り上げていないのなら、それは何故なのか?
 さて、今日で、松岡前農水相の衝撃的な自殺から一週間になる。
 3月の参院予算委員会での「ナントカ還元水」発言以降のマスコミや野党の報道・主張・発言を詳細には知らないが、松岡氏が自殺した<原因>の一つは、マスコミの報道の仕方ではないか、と上のような田原氏が司会の番組を観ていて、ふと思った。
 むろん、マスコミに第一の責任があるなどとは言わない。
 第一の<責任>者は松岡本人で、<原因>も彼にあるだろう。但し、いかなる理由で彼が死を選んだかについては決定的なことは分からない。
 いろいろと推測又は憶測することは可能だ。しかし、先週の週刊文春と週刊新潮は私も見たが、産経6/02の「花田紀凱の週刊誌ウォッチング」が指摘するように「なにしろ校了まで時間がないから内容的には迫力不足」、「…この程度では弱い」。つまり、緑資源機構又は林野関係事業に関連して、松岡にいかなる具体的な「疑惑」があったのか自体がまだ不明だ。そのうち明確になるかもしれないが、政治献金を受けること自体は違法でも犯罪でもない。職務関連の「収賄」となってはじめて犯罪となる。
 松岡が自殺したことをもって、そうした疑惑、さらには「犯罪」性を自ら肯定したと理解する向きもあるようだが、それは違うだろう。
 6/03の某番組で田島陽子が<悪いことをしていた自覚があったから死んだのよ>という旨を相変わらず無責任に発言していたが、<悪いことをした>とはまだ誰も決定できないことに留意すべきだ。
 私もまた推測することしかできないが、事務所費問題でマスコミ・野党の攻撃・批判の対象になり、安倍首相と安倍内閣に迷惑をかけているという「申し訳ない」気持ちが強かったところ、緑資源機構又は林野関係事業の問題もマスコミに報道され、国会後半で野党に質問され、追及され、マスコミが輪をかけて騒ぐということが予想されるに至って、その「申し訳ない」、「迷惑をかけている」との気持ちが極まったのではないか。
 自殺したのは国会出席当日の午前中だった。当日の朝刊記事を材料に野党議員が質問してくるのは目に見えていた。むろん強い心臓と気力があれば、犯罪者との明確な自覚がないかぎりは、応答できる筈だろう。しかし、疑惑をかけられ、それに釈明すること自体が彼には<イヤになった>のではないか。答えること自体に<疲れ>を感じた、のではないだろうか。また、少なくとも一部マスコミによって<軽侮>されているという意識はそうした気分を強くしたようにも思える。
 むろん、簡単な説明・釈明で野党議員やマスコミが納得するはずはなく、自分のことが話題になり続けて参院選を前にしている自民党、そして安倍首相と安倍内閣にさらに<迷惑をかける>という思いがそれらに重なったように、私は推測又は想像している(むろん、推測・想像で自信があるわけでない)。
 第二に、安倍晋三首相の「責任」はむろん問われる。私は安倍首相を支持するし、また安倍内閣も支持するが、安倍が松岡を農水大臣に任命していなければ今回のようなことはありえず(安倍内閣を構成する大臣だからこそマスコミの一部や野党もターゲットにしたに違いないと思われる)、首相自身が認めているとおり、安倍首相に「責任」はある。
 むろんそれは<任命責任>又は<結果責任>で、松岡氏をめぐって具体的に3月以降のような状況になることを安倍首相が予見できた筈はない。ましてや自殺を予見できる筈がない。
 また、事務所費の問題は、現行政治資金規正法上は違法でも「犯罪」でもなかったのだから、<ナントカ還元水>問題だけで罷免する、又は辞表の提出を求めるのは困難だっただろう、と考えられる。そうした先例を作ってしまえば、違法行為・「犯罪」行為の疑惑ですらない場合にすべて罷免・辞表提出要求をしなければならなくなるからだ。
 むろんもっと早い段階で辞めさせていたら、ということを今なら言えるが、どの段階で、となるとなかなか困難だったのではなかろうか。
 第三に、最初に触れたマスコミ(正確には一部のマスコミ)だ。少なくとも「原因」の一つにはなったのではないか、と感じている。
 最初にとり上げたテレビ番組を松岡氏が観ていたかは知らないが、録画したものも含めて観ていたとすれば、きわめて<不愉快>に感じ、ある程度は<自分がイヤになる>という想いを持ったとも想像できなくもない。
 繰り返すが、松岡は政治資金規正法に違反したわけではない。また、事務所費用等は政治献金等で賄われていたのであり、税金が不透明に使用されていたわけでもない。
 しかし、上述のように詳細は承知しないが、水に落ちた犬は叩け、とばかりの報道の仕方もあったのではないか。「松岡を」と著名なキャスターが呼びつけにするくらいだから、マスコミがこぞって(一部のマスコミは意図的に)ある程度は<面白がって>いたのではないのか。
 政治(家)とカネの問題、政治資金規正法にもとづく報告内容の問題が重要ではないとは言わない。しかし、そんな問題よりも日本の国家と社会にとって重要な問題はいくらでもあったように思う。貴重な国会での質疑時間を、民主党等の野党は政略的に使った、という疑念を私は強く持っているのだが…。
 なお、事務所費の問題を最初にとり上げたのは日本共産党の筈だ。それは、議員宿舎に事務所を置いているにもかかわらず、事務所経費が多すぎる国会議員がいるとの政治資金報告書をタネにしたものだった。だが、議員宿舎以外にも地元等に複数の事務所を持っている等と反論されて、要らぬ<揚げ足とり>だったことが明らかになったように記憶している。確認していないままだが、かりにこの日本共産党の<揚げ足とり>が松岡議員の事務所経費問題にまでつながったとすれば、日本共産党と松岡氏の死の間には少なくとも所謂<条件関係>はある。
 それにしても、人というのは、自分の意思で、自分の精神で、自分の生命を消滅させることができる生物なのだ、とつくづく思う。
 松岡は死(又は意識喪失)に至るまで少なくとも何分間かをじっと耐えたと推察されるが、その何分間の苦痛の時間に彼の頭に去来したのは一体何だったのだろう。
 三島由紀夫の場合は自殺ではなく厳密には「嘱託殺人」とでも言うべきなのだろうが、腹に小刀を刺し込み、自分の頸が傷つけられ、切り取り落とされるまでのいずれかの瞬間までは意識を保っていた筈だ。進行する肉体的苦痛の中で、彼の精神はいったい何を考え又は感じていたのだろうか。
 むろん決して遠くはないだろう私自身の「死」も考えてしまう。どんな「死に方」になるかはさっぱり分からないが。
 追記-伊丹十三の死も自殺だったことを思い出した。何らかの疑惑をかけられたのが原因だったと記憶するが、その疑惑とは警察・検察官が介入するような問題ではなく、芸能マスコミの報道によるものだった(ウィキペディアによると写真週刊誌・フラッシュによる<不倫疑惑>)。報道に対する抗議の自殺ともされたが、この伊丹の場合も自殺の原因を断定はできないのだろう。だが、あくまで一般論としていえば、<(社会・世間一般に情報・論評を提供する)マスコミは、人を自殺にまで追い込むことがありうる>という叙述は、決して誤りではない、と思われる。

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