秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

自己意識

2268/「わたし」とは何か(5)。

 (つづき)
 茂木健一郎はヒト・人間という「種」を超えた「生きとし生けるもの」の「意識」の同一性を語ろうとする。ヘッケル(Ernst Haeckel)の生物発生系統図に見られるような、「生物」・「生命」への根源に至る「共通の幹」があるというわけだ。すべては、我々も、「一つの意識」が<連続変換>したものだ、というわけだ。変換=transformation。
 しかし、ここまで来ると、地球上に「生命」を誕生させた地球環境条件の生成、地球の誕生、大爆発が連続したのちの?太陽系宇宙の誕生にまで行き着くのではなかろうか。
 茂木が示唆を得ているようである<One Electron Universe >のいう<一つの電子>論に、<一つの意識>仮説も逢着するのではないか。
 こうなると、問題は「自己意識」とは何か、「わたし」とは何か、という最初の問題へと還元してしまいそうだ。茂木は、モジャモジャの髪の毛も「私」の構成要素だとし、構成要素である「記憶」と同様に変化するものだ、と言ったりしているけれども。
 そして、茂木の言う<自己意識のセントラルドグマ>をなお維持しておいてよさそうに見える。
 きちんとした論文に書いているのではなく、ネット上で語っていることでもあり、議論?はこの程度にしよう。
 但し、追記すると、茂木は興味深いことも別に語っている。
 一つは、(私は感想を書き込んで投稿したりしたことはないが)視聴者の質問・疑問等にある程度は答えたようにも感じるが、<対応する認知構造がないと理解できない>ことだ、などと論理必然性なく?語っていることだ。
 問題・主題が何であれ、たしかに、<対応する認知構造>がないと何らかの主張・見解の意味を理解することはできない。余計ながら、<意識の次元や構造>が全く異なると、そもそも議論が成立しない、意味交換をすることができない。これは世俗的にも、現実的にも、日本人どおしであっても、あり得ることだ。
 二つは、茂木が<クオリア>と<志向性(intentionality)>に目覚めたとき、と語っていることだ。なぜ気を引いたかと言うと、後者の<志向性>とは、数回前に言及したつぎの書のW・フリーマンが用いる中心概念または基礎概念らしいからだ。茂木はフリーマンの名を出していないけれども。
 ウォルター•J•フリーマン/浅野孝雄訳・脳はいかにして心を創るのか—神経回路網のカオスが生み出す志向性・意味・自由意志(産業図書、2011)。
 浅野孝雄自身の「複雑系理論に基づく先端的意識理論と仏教教義の共通性」を副題とする書物以外に、つぎの書物も入手して、少しだけ目を通した。8-9割は浅野が執筆している。2021年に、少しでも論及したい。
 浅野孝雄=藤田哲也・プシューケーの脳科学—心はグリア・ニューロンのカオスから生まれる(産業図書、2010)。
 「プシューケー」は人名ではなくpsycho,Psycho (サイコ,プスィヒョ)のたぶん原語のようなもの、「グリア」細胞とはニューロン(神経細胞)を取り囲んでいる細胞。

2267/「わたし」とは何か(4)。

 前回(No.2265)に茂木健一郎がYouTube上の「別の回」にも述べていて、と書いた「別の回」とは(日付不明になった)一週間ほど前の<「一つの意識」仮説>というタイトルの語りのことだ。私がすでに言及した内容では分かりにくいという反応があったためか、「一つの意識」仮説(One Conciousnss Hypothesis)をあらためて明瞭にしようとしている。
 但し、さほどに明確になっているわけでもなく、すでに「私には、茂木の言いたい趣旨は分かるような気がする」と記した(No.2264)域を出るものにはほとんどなっていない。その、私の理解する趣旨を以下に書こうと思うが、概念・言葉の整理・確認しておこう。
 上にたんに「意識」という場合の「意識」とはそれ一般ではなくおそらく「自己意識」のことだ。そして、この「自己意識」について茂木が self-conciousness という語を使い、<「この「私」が「私」であるという意識>等と言い換えているように、「自己意識」=「私(わたし)」と理解しておいて、ほぼ間違いないだろう。だからこそこの欄で「わたし」に関係させて言及している。
 第三。茂木の前提は、<情報の同一性・類似性は自己・「私」の同一性>を担保せず、根拠にならない>、ということだ。脳内をコピーした別の物体?は、かりに有する情報が同一・類似であっても「私」ではない。自己に関する記憶を有していることも、根拠にならない。なぜなら、記憶は消滅し、変遷し、日々「作られて」いる。
 上の二点に異論はない。朝目覚めて「自分」だと感じるとしても、就寝前と同一の「私」ではない。茂木が言うように、寝ている間に(レム睡眠の間に)「神経結合」はたぶん変化している(Synapse Connect という語も茂木は使ったようだ)。
 しかし、上のことからロボット人間や就寝前の自分が「私」だと言えるなら、<他人>の自己意識とも同一だ、という結論は簡単には出てこない(説明不足だろう)。但し、結論的には、そのとおりだと思える。
 これを長々と叙述するのはむつかしいが、第一に、特定の「私」=自分自身の子ども・孫・曾孫に「私」が一部にせよ継承されているなら、特定の「私」もまた、父親や母親の「私」が変化・発展する可能性があった無限数の中の一つにすぎず、同じことは、祖父母、曽祖父母、…の「私」にいついても言える。つまり、遠く遡る先祖と「私」は共通性がある。とすると、現在の<他人>についても同じことが言え、結局のところ、今の<他人>とも共通する「一つの意識」を今の自分は持っていることになる。
 こういう「血」・遺伝子レベルでの「私」の継続は、ふつうは「家系」とか「一族」とか、広げても「日本人」程度の範囲でしか語られないだろうが、理屈は、日本人・日本民族以外の人間についても当てはまる。
 第二に、「血」・遺伝子に着目しなくとも、つぎのようなことが言えるだろう。
 数百億以上にのぼるだろう過去のヒト・人間は個々の個体・個人がそれぞれおそらく数千万回の可能性の中で、数千万回の選択をして(意識的か否かは別として)生涯を終えてきた。適当に数を挙げたが、かりにこれを前提とすると、今生きている我々個人のそれぞれが、数百億以上✖️数千万の可能性と何らかの選択の結果として存在している。地球上のヒト・人間の全ての、無限と言ってよい変化可能性の結果として、現在のヒト・人間も存在している。「一つの意識」のもとに我々もあるのだ。
 こんなことを茂木は考えているのではなかろうか。しかし、当たり前のようなことでもあり、凡人の拙い理解なのかもしれない。
 茂木健一郎は、ヒト・人間を超えた、つまり<種の境界・壁>(specie border )を超えた<一つの意識>を語り、犬・猫どころか、「単細胞のアメーバ」もまた<自己意識>をもちうる旨を(仮説として)語る。
 長くなったので、別の回にしよう。

2265/「わたし」とは何か(3)。

 (つづき)
 第二。<生まれてから死ぬまでの個人・個体の<同一性>というドグマ、と前回最後に記したが、「ドグマ」、「同一性」という語自体の意味に問題はある。
 また、「生まれてから死ぬまでの個人・個体の…」ということも、厳密には疑わしい。
 別の回に茂木健一郎も述べていて、また脳科学分野全体で合致があるようなのだが、睡眠(とくにノンレム睡眠)中と全身麻酔中の人間には「意識」はない、とされる。「意識」(conciousness)が欠如していればと「私」という(「私」に関する)自己意識も消滅していることになる。とすると、毎日・毎夜、全身麻酔手術ののたびに「私」は途切れていて、連続していないことになろう。意識の喪失=「死」、ではないが、かりに誤ってこれらを同一視するとすれば、我々は何度も「死んで」いるのだ。つまり「私」は決して連続していないのだ。「意識」が消滅しているときの「私」とは、いったい何だろう。
 上のことはさて措くとしても、重要なのは、「生まれてから死ぬまで」とはいつからいつまでのことか、ということだ。
 脳科学、脳神経科学等の書物をかじっていて、ときに感じるのは、どのような人間を対象にして叙述、議論をしているのだろう、ということだ。おそらくは、<ふつうの(正常な)成人>を念頭に置いている。だが、生誕後に限るとしても、乳幼児期からいつ頃までに、「自己意識」をもつ「私」は発生>するのだろうか。
 いや、茂木健一郎は別の回で「胎児にも私があって、睡眠というものがあって、後で覚醒して、あっ私だ、と感じるのだろうか」というようなことを語っていたが、生誕時から(胎児の時から??)「私」はすでに発生しているのだろうか。
 逆に、「死ぬ」ときまで、「私」は存在しているのだろうか。認知症の患者にはどのような「私」があるのだうか。統合失調症の人々には、<歪んだ私>があるのだろうか。いわゆる精神障害者にとっての「私」とは??
 これはいつからいつまでを自立・自律の「人間」と見るのか、という大問題にかかわっているだろう。脳科学だけで解決できる問題でもないだろうが(つまり常識・伝統・制度等が関係する)、しかし脳科学・生物学こそが最も大きな寄与をすべき問題であるように見える。
 余計ながら、現在の日本の法律(・その解釈)では「人」となる時期は決まっていて「胎児」と区別されるが、旧優生保護法全面改正の現母体保護法(2013年〜)第14条第1項1号によると、「指定医師」は、「本人及び配偶者の同意を得て」、「妊娠の継続または分娩が身体的または経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」について「妊娠中絶を行うことができる」。ここで「妊娠中絶」とは簡単には<胎児の母体からの排出>をいう(同第2条)。立ち入らないが、人としての生誕・非生誕は決して自然なものではない。なお、いくつかの寺院には真新しい「水子地蔵」がたくさん並んでいる。
 「死」の時期についても、「脳死」問題が議論されたように、自然に、あるいは明確に定まるものではない(むろん一定の基準はある)。
 <生まれてから死ぬまでの個人・個体の<同一性>>というドグマに立つとしても(実際には、または世俗生活的にはそのドグマを私も前提にはしているのだが…)、その始期と終期の厳密な確定にはなおも問題がある、ということを、<ふつうの(正常な)成人>だけを視野に入れるのではいけないのではないか、ということを、言っている。
 さらに余計ながら、人工妊娠中絶の是非はアメリカ等では<リベラル・保守>を分ける根本的対立点のようだし、自殺の是非・可否もキリスト教の人々には重要な論点のようだ。
 生と死に関係する重要な問題だが、日本人はどのように考えてきたのだろうか。生きていてこそ「私」があり、「こころ」もある。
 西尾幹二は、条件の物的な整備よりも「こころ」・「精神」の問題がより重要だと、強調する。また、「自然科学」も蔑視する。
 「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことができない領域」がある。それは「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」だ。
 以上、西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 「自然科学の力とどう戦うか、それが現代の最大の問題で、根本にあるテーマ」だ。
 以上、歴史通/月刊WiLL2019年11月号別冊「対談/皇室の神格と民族ま歴史」。
 西尾幹二は、日本での中絶や自殺・脳死の問題について、何か発言したことがあるのだろうか。これらは、もちろん<技術的な>問題ではなく、ヒト・人間にとって<本質的な>問題だ。
 ——

2264/「わたし」とは何か(2)。

  茂木健一郎はいつからなのかYouTube上に頻繁に「語り」をupしていて、きっと全て面白いだろうが、全部には従いていけない。最近にときどき話題にして指摘している、日本の学校教育や入試制度の欠陥・問題点には、歴史的、大雑把には「人間史」的に見ても、共感するところが大だ。
 その点も重大だが、「私」なるものとの関係でも、興味深い発言が目立つ。言うまでもなく、その<脳科学>という専門分野からきている。
 12月6日のタイトルは「自己意識のセントラルドグマは正しいのか?」。
 その下に、「「私」の自己意識は、宇宙の歴史でたった一回生まれ、死んだらその後は「無」であるという考え方は正しいのでしょうか? 私のコピー人間は私と同じ自己意識? 私と他人の意識の関係は? 生まれ変わりや前世は?」とある。
 茂木健一郎は、要約を試みると、こういうことを言う。
 ——
 僕を含む人間は生まれて、死ぬ。僕の「自己意識」も一度かぎりだ。前世も後世もない。「生まれ変わり」はなく、たった一度だけの「人生」だ。
 このような理解を<自己意識のセントラルドグマ>と言うことにしよう。セントラルドグマとはある分野で疑いないものとして絶対視されているもののこと。
 僕はこれに疑問をもつが、従来にいう<前世>・<生まれ変わり>を信じるからではなく、<私は私であるという自己意識の成り立ちに関する原理的考察>をしたとき、それが<正しい科学的・論理的立場>なのかを疑問視している。
 現在の脳科学によれば脳内の神経細胞の結合パターンによって<私の自己意識>も生まれる。<外部記憶装置>はなく、その(一個人の)結合パターンの中に全てが含まれる。これをコピーするとするとその瞬間に<コピー人間>ができるが、そのコピーもまた不断に変遷していく。その<コピー人間>によって「私」も抽象的には影響を受けるだろうが、<私の自己意識>に影響するとは思えない。
 私は私であるという秘私性・自己意識に関係はない。自己意識(Self Conciousness)とは脳内の前頭葉・大脳皮質?等によるメタ認知で閉じており、<情報的な同一性・類似性>により担保されたり、影響されたりはしない。<コピー>もまた別の「自己意識」をもっていく。
 情報論としては、いっときの<情報を他にコピー>しても、<私の自己意識>を変えない。
 人生の過程の分岐点、可能性は多数あり、実際とは別の「私」が生成した可能性があるが、その「私」は今の「私」とは異なる。
 <脳の自己意識の距離(非同一性)は絶対的>だ。「壁」を越えることはできない。
 <僕の自己意識を形成している情報内容>はつねに変わっていく。自然的か、他律的にかは別として。その(神経細胞の結合パターンの変化による)情報内容の変化、「意識状態」の変化は、かつての「私」との関係では連続していて、「自己意識」と言えるだろう。
 だが、そうすると、「コピー人間」の自己意識と現実の「私」の自己意識の関係は、一定時期の「私」の自己意識が連続的に変化したものだという点では共通する。「私」と全く無関係だ、とは言えない。
 とすると、極論すれば、その関係は、現実の「私」の自己意識と今いる数百億の「人間」の自己意識、かつて歴史上にいた無数の「人間」の自己意識の関係と、原理的には同じなのではないか。
 そうだとすると、元に戻ると、「死」によって私の自己意識が消滅するとは論理的には言えず、「意識」は一個なのではないか。時空・物質も「一個の電子」だという議論と同様に。
 世界中には「一つの意識しかない」。現れ方が異なるだけだ。とすると、<自己意識のセントラルドグマ>を疑問視することができる。
 ——
 茂木にとっては不満が残る要約かもしれないが、少なくともおおよそは、こんなことを語っている。
  茂木が言及している自著を(所持はしていても)読んでいないので、どこまで理解できているかは疑問だが、私には、茂木の言いたい趣旨は分かるような気がする。これを契機として、いくつかのことを述べる。
 第一。「私」、あるいは(それぞれの人間の)「自己意識」はつねに変化している。これは、茂木健一郎が当然の前提としていることだ。
 しかし、この点が一般にどの程度共有されているかは疑わしいようにも見える。つまり、いろいろと「変化」はしたが、「私の根本」は変わっていない、「自己」の同一性は保たれている、と何となく感じている人の方が多いのではないか。
 あるいはそのように観念しないと、現実に生きていくことはできない、とも言える。
 茂木が考えているのと比べると世俗的で卑近なことだが、秋月瑛二がときどき感じる疑問の一つに以下がある。
 ある人がある年に「殺人」をしたとして、その人は(公訴時効内の)10年後に逮捕され、起訴されて、死刑判決を受けた、とする。
 被告人は、こう主張することができないのだろうか ??
 10年前の自分は今の自分ではない。別の、とっくに消滅した「私」がしたことで、今の「私」と同一ではない。なぜ異なる「私」の<責任>をとらされ、今の「私」が制裁を受けなければならないのか。
 厳密に言えば、論理的には、茂木の理解するとおり、10年前の彼と今の彼とは同一ではない。「変化」しており、上の被告人の主張は正しいと考えられる。
 しかし、現実の世俗世界で通用しないだろうのは、立ち入らないが、<そういう約束事になっている>からだ、というしかないだろう。あるいは、<生まれてから死ぬまでの個人・個体の<同一性>>というドグマが、世俗世界では貫かれている、と言えるのかもしれない。
 第二。いや、YouTubeの聴き取りとその要約作業があって、疲れた。別の回にしよう。

2244/宇都宮健児と八幡和郎-2016年。

 2016年の東京都知事選に宇都宮健児はいったん立候補表明をしたが、鳥越俊太郎が民進党・日本共産党・社民党等に推される共同候補となって、宇都宮は立候補しなかった。
 選挙後に、宇都宮は鳥越を応援しなかった理由を明らかにした、という。
 4年前のいきさつや今回(2020年)の選挙のことに触れたいのではない。
 八幡和郎が4年前に<アゴラ>欄に登載した文章が印象に残っており(2016年8月2日付)、そこに垣間見える八幡和郎という人物の<意識・気分>に関心をもつので、以下を書く。また、八幡の文章のタイトルは「宇都宮氏の応援拒絶真相と女性議員の不甲斐なさ」で、私が関心をもつのは、主題全体でもない。
 さて、2016年の選挙(投票)後に宇都宮が明らかにした鳥越を応援しなかった理由は、「女性問題」にあったという。
 その中身や真否に立ち入らない。
 八幡和郎は、その理由をおそらくそのまま詳しく紹介している。ここでは引用しない。
 興味を惹くのは、八幡のつぎの文章だ。
 「まことに法律家として筋の通った論旨である。私も10年余りあとに同じ大学の同じ学部で学んだ者として、我々が学んだ法の精神はこういうものだったと気分が良かった。法学を学ぶと言うことは、法務知識を駆使し正義を無視して自己の利益を図る技術を獲得することではないと教えられたものだ。
 これを見て、この宇都宮氏にこそ知事になって欲しかったという声も高まっているくらいだが、いくら立派な人でもめざす政策が正しいか、経済的な裏付けがあるかなど別の問題だから飛躍は困るが、宇都宮氏のこの意見表明が、こんどの都知事選挙を締めくくる一服の清涼剤となったことは間違いない。」
 上の後段は、宇都宮が知事になって欲しかった、と書いているわけではない。
 しかし、前段に、八幡和郎の<意識・気分>が現れているだろう。
 いわく、「法律家として筋の通った論旨」だ、「私も10年余りあとに同じ大学の同じ学部で学んだ者として、我々が学んだ法の精神はこういうものだったと気分が良かった」、「法学を学ぶということは、」…うんぬん。
 果たして、この部分で、八幡和郎は何を言いたいのか。言いたいというよりも、基礎にある<意識・気分>は何か。
 それは、大雑把には、宇都宮健児は自分が卒業した大学・学部の「先輩」であり、その彼の今回の(2016年の)発言は「気分が良かった」、というものだ。
 宇都宮健児は2020年都知事選挙に立憲民主党・共産党・社民党等に推されて候補者になっている者で、2012年以前にも(いわば「野党」統一候補として)立候補したことがある。
 そのような<政治信条>を無視するわけではないが、しかし、八幡和郎は、宇都宮は自分の「先輩」で「法学」を学んだ者だ(日弁連会長経験者だから当たり前のことだ)、とわざわざ記したかったのだろう。
 些細なことに言及していると感じられるかもしれない。
 「知(知識)」習得の結果としての大学または「学歴」というもののうさん臭さに近年は関心がある。「知」それ自体では、何ものも保障しないし、判断できない。
 また、「自己帰属意識」ないし戦後日本人の<アイデンティティ>というものにも以前から強い関心がある。出身大学・「学部」等々は、いかほどの「自己意識」を形成しており、かつまたその<機能>はどう評価されるべきか。
 あくまで推測になるが、八幡和郎は、場合によっては、自分以外の者の出身大学を他の何らかの要素よりも優先して考慮・配慮するのだろう。そうでないと、上のような文章を書かない。
 また、ここでは立ち入らないが、八幡和郎の「自己意識」を形成していると見られるのは<経済産業省官僚出身者>(かつフランス・ENA留学組)ということだろうと推察される。しかし、これはあくまで<過去>に関するものなので、現在と論理的には直接の関係はない(はずだ。この点、弁護士資格という国家「資格」は永続するのと異なる)。
 国家公務員(かつての)上級職試験合格者という「資格」があるのではない。あっても、数年間だけのはずだ。(特定の?)大学入学試験合格も卒業も、それだけでは、それ自体では、何の意味もないはずだ。何らかの「知識」の学習・修得が証されたとしても、それだけでは、つまりその「知識」を保持するだけでは、利用しなければ、人間社会・現実の社会にって、何の「役にも立たない」。その辺りが、きわめて曖昧になり、かつ異様な方向へと転じている<雰囲気>がある。これは戦後日本がたどり着いた現在の一つの特徴だろう。だが、何らかの「秩序づけ」と「安定」に役立っているかもしれない。しかし、何となくの緩やかな秩序化は、種々の意味と段階でのく既得権者>をも生み、必要な変化と変革を遅らせるだろう。
 余計ながら、何か勘違いをしているのではないか、なぜそんなに大胆かつ傲慢なことを単純に書けるのか、と感じる文筆家業者は多い。八幡和郎だけでは、もちろんない。
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