秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

脳科学

2721/「文科系」評論家と生命科学・脳科学—佐伯啓思。

  池内了×佐伯啓思(対談)「科学の現在と行方を見つめて」佐伯啓思監修・雑誌/ひらく第2号(A &F、2019)、p.166以下。
 この号の二つある特集の一つが<科学技術を問う>で、上の対談は体裁上重要なものだ。
 佐伯発言によると、池内了・科学の限界(ちくま新書、2012)という書物があり(秋月は未読)、科学の「あり方」を問題にしているようだ。それを理由として、佐伯は対談相手として選んだのかもしれない。
 但し、佐伯の希望どおりの内容になったかは疑わしい。
 そもそもが、一読者としての印象では、二人の発言内容は、うまく噛み合っていないところが少なくない。単純系・複雑系の区別も秋月自体がよく分かっていないが、池内が単純系の科学ではよく分からないと言っているのを、佐伯は科学そのものの問題・限界だと理解したがっているようなところもある。この単純系・複雑系に加えて、佐伯は 現代を<科学と技術>の区別の曖昧化だと把握したいがためにこの二語を使い出してくるので、錯綜が増している。
 決してつまらない対談ではないが、最も興味深く感じたのは、「文系」と自認する佐伯啓思の、科学(・自然科学)、とくに生命科学・脳科学に対する<不信>、批判・揶揄したい気分を感じさせる諸発言だ。
 佐伯啓思はまだよく知っている方で、西尾幹二、長谷川三千子、小川榮太郎、江崎道朗あたりは、生命科学や脳科学の動向に関心すらないかもしれない。
 だが、これらの者たちも発言しそうな、「文科系」評論家らしき言明を、佐伯は行っている。
 長くなりそうなので、2回に分ける。長々と論じるほどでもないので(それだけの明瞭な内容が示されていないので)、発言を引用し、ごく簡単な感想を記す。対談相手の発言が不明だと佐伯発言の意味も不明だろうものもあるので、必要に応じて、池内の発言も記す(ほとんどが引用ではない)。
 「〜と思います」は省略し、口語体を文語体に改めたところがある。。
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 ①「つまり、自然を物質的な組成の組み合わせとみる、これが我々が考える、いわゆる自然科学的な意味での自然だ。
 すると、問題は生命科学が対象とするのは人体で、人間というのは、これは自然と考えていいのかという問題がある。」
  佐伯は、「自然」=「物質的な組成の組み合わせ」とすることの意味、さらに「物質的」なる表現の意味を、そして「自然」と「物質」をほとんど同一視する、または同系列の語としてこれら二語を用いることの理由を、より厳密に明らかにしておく必要がある。
 従って言葉の使い方の問題になるかもしれないが、「人体」も、「人間」も、「自然」の一部だろう、というのが、秋月瑛二の理解だ。
 米米 地球上(内)での「生命」の誕生や、のちの「ヒト」または「ホモ・サピエンス」の誕生は、<自然>の営みそのものではないか。
 米米米 私も佐伯啓思も、その新たに誕生した「生命」や「ホモ・サピエンス」を祖先とする後裔に他ならない。これを否定するなら、佐伯は〈自己〉の本質を理解していないのではないか。
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 ②「われわれ文系の人間からすると、人間の持っている感情とか記憶とか思考作用とか、快感のメカニズムとか、こういう種類のことは、果たして脳現象に持ってきていいのか、という疑問がどうしてもわいてしまう」。
  佐伯は、感情・記憶・思考作用・快感のメカニズムの四つを明記して、「脳現象」には還元できない旨を語る。思考や記憶はふつうの生物にないもので、「脳現象」ではない、と言いたいのかもしれない。全くの<無知>であるか、「脳」を「物質」と見て〈記憶・思考〉と無関係とする完全な間違いを冒している。〈感情・快感〉となると、より身体的側面を持ち、これまた「脳」の制御化にある。ともかく、「感情」に「脳」が深い関係のあること、中でも<扁桃体>が重要な役割を果たしているらいことくらい、初歩的な概説書にも書かれている。
 米米 「脳」神経あるいは「ニューロン(神経細胞)」に作用して、興奮したり緊張したりする「感情」を抑制する薬剤が、ごく初歩的には「睡眠」を助けるものも含めて、(ほぼ自由にまたは医師による処方を通じて)一般に流通していることを、佐伯は知らないのだろうか。
 これら薬剤は、〈セロトニン〉、〈ドーパミン〉等々の「神経伝達物質」(・「化学物質」)の(ニューロン間の)〈シナプス間隙〉への放出や回収にかかわっている。
 米米米 「快感」まで挙げているのは信じ難い。ひどい暑さ・寒さ、高湿度、痛み、等々からの解放、これらは人間にとって「快感」そのものだろう。そして感覚細胞を制御する「脳」の現象そのものだ。佐伯は特殊で独特の「快感」概念を使っているのかもしれない。
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 ③「文科系の人間は、人間というのは複雑系だと最初から思っているし、きれいに分析できないとあきらめている」。
 脳科学も生命科学も、「僕らのような文系の方からすると、そもそも人間というものについて、何か全く方向違いのことをやっているような気がする」。
 「仮に脳科学で、人間の感情やら記憶やら快感やらが、ニューロンの反応によって解析できるとして、あるいはAIが人間の脳の働きをほとんどシミュレートしまうとして、仮にそうだとして、それは、一体何が起きたのだろう」。
 「何かが進歩したと言えるのか、それで人間がわかったことにそもそもなるのか、という気」がする。
  「脳科学」と「生命科学」を明記して、「人間というものについて、何か全く方向違いのことをやっているような気がする」と明言している。秋月瑛二もどちらかというと「文系」だが、このようには考えない。
 米米 「人間の感情やら記憶やら快感やらが、ニューロンの反応によって解析できるとして、あるいはAIが人間の脳の働きをほとんどシミュレートし」て、いったい何の意味があるのか、というようなことを語っている。「無知」だ。
 米米米 「脳科学」者も「AI」によるシミュレート者も、それによって「人間がわかったことに…なる」とは、そもそも考えていないだろう。「人体」や「人間の神経・精神」を対象としていても、それで「人間」なるものが「わかる」ことには絶対にならない。但し、「人間」なるものの複雑さ・繊細さ・不可思議さを少しは理解することにつながる可能性がある、と考えられる。
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 ⑥〔池内—シミュレートしているだけで、わかったことにはならない。〕
 「そうですね。では、この種の科学とは何だろう」。「何か分かったことになるのか、という意味で」。
 〔池内—本質的に新しい法則の発見で「人間が実に複雑で、多様な側面がどういうメカニズムの下で発生しているのかということがある程度分かるんじゃないか」。「すぐに分かる」のではないが、「複雑系という非線形の非常な多体システムの扱い方がだんだん分かってくる」。
 「そういう意味では、根本的なところは物理のそれと今の生命科学はそれほど変わりはないということですね」。
 この部分で重要なのは、池内が「ある程度」分かる、「だんだん」分かっていると言っていることだ。秋月も、そうだろうと思う(但し、100%・完全にかは、??)。それに対して、佐伯が何やら不満げであることも重要だ。
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 ⑦「仮にそういう複雑系がある程度解析できるようになってきて、それで、人間の感情の動きと脳の作動の対応関係がある程度わかってきたら、すぐに、そのままそれを適用、応用されてしまうでしょう。つまり、脳科学は即技術になるのではないか。」
 〔池内—「いやいや」、その点では「応用」できない。但し、現時点ではできていないが、「複雑系の技術はあるのではないか」。〕
 「ただ、たとえば、すでに遺伝子工学がこれだけ急に展開してきて、それで遺伝子の組み合わせを操作すれば、癌を予防できるとか、癌にならないような子供を作れるとか、といった話が出てきて、それはもうすぐに現場に行ってしまいませんか」。
 この部分で佐伯は突然に、「ある程度わかってきたら」、「脳科学は即技術になるのではないか」と発言する。この性急さの意味は、ほとんど不明だ。
 米米かりに「即技術になる」として、なぜそれでいけないのか、という気がする。それに、「即技術」の意味が問題で、〈科学と応用〉または〈科学と技術〉のあいだには何段階もの中間段階がある(単純に二分できない)、と考えられる。
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 ⑧〔池内—癌は多くの組み合わせで、かつ「個体の反応は異なる」から、簡単には退治できない。〕
 「そこに生命科学の大きな問題があって、生命現象は物理現象とはやっぱり根本的に違う
 ところが、それを無理やりに単純系に砕いてやろうとするから、うまくいかない。」
 米じつに興味深い佐伯の発言だ。「生命現象は物理現象と…根本的に違う」。
 「物質的な組成の組み合わせ」が「自然」なのだから(上の①)、「生命」現象も「自然」現象ではない、または<たんなる物理現象>ではない、と言いたいのだろう。
 はたして、そうか。「生命」・「本能」の根幹を掌るとされる「脳幹」の作用に「化学物質」は関係していないのか。デカルト流に<我思う、ゆえに我あり>ということを言いたいのか。M·ガブリエルの著書の題である『「私」は脳ではない』(Ich ist nicht Gehirn)(秋月は未読)と言いたいのか。
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 ⑨「いくら生命過程の根本がDNAとか、それから、細胞レベルである程度のことが分かっても、それが具体的にどういうふうに働くかというのは個体によって全然違う、ということですね」。
 〔池内—人体は複雑系だから「個体によって全部違う」。「むろん、物質系としてはみんな同じなんです。本質的に」。「本質的には人体は同じ作りにできているんだけれども、反応は全部違う」。〕
 佐伯は<個体によって違う>ということを強調したいようだ。一方、池内の発言で重要なのは、「物質系としてはみんな同じ、本質的に」、「本質的には人体は同じ作りにできている」の部分だろう。この「本質」性を、佐伯は認めたくない、または、認めることができないのだろう。
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 ⑩〔池内—癌の要因に遺伝と環境の二つあり、両者の関係は複雑だから「なかなかわからないと思う」が、「むろんある程度解析できる要素はある」。〕
 「いや」、しつこいが、「僕が危惧するのは、逆に生命科学が進歩していって、癌の要因がかなりわかる、100%とはいかないまでも、80%くらいまで解析できる、となるとしましょう」。遺伝要因・環境要因、食べ物、人間関係、「それらがどう作用するか、ある程度わかってくる。で、わかってくれば、そのこと自体が我々を変えていってしまうのではないですか」。
 「我々の生活の仕方を変え、食生活を変え、という話になる。その延長の上に、先程の遺伝的な要因もやっぱりある程度はあるとなって、遺伝子を操作することによって癌にならない可能性を高めることができる、という話になる」。
 「そうすると、その科学の成果、科学の発展というものが、何らかの形で、ほとんど直接的に我々の存在の仕方に影響を与えてくるのではないか」。
 佐伯が言いたいことは、よく分からない。なぜなら、「癌の要因」が「80%くらいまで解析でき」て、諸要因の「作用」が「ある程度わかって」くる、そして、「遺伝子を操作することによって癌にならない可能性を高めることができる」ということが、ここでは「癌」防止に限っておくが、なぜいけないのか?? 佐伯は、「科学の成果」が「ほとんど直接的に我々の存在の仕方に影響を与えてくる」として問題視する。なぜ??
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 ⑪〔池内—それは「科学ではなく技術」だ。〕
 「先程から問題にしたかったのはそこ」だ。
 「科学的にいろんなことがわかってきた。遺伝子の構造がわかった。
 で、遺伝子の中に癌に関する遺伝子もある。
 そうすると、癌に関する遺伝子が完全に特定できる。
 これを除けば癌の可能性が減るということがわかるとなれば、もうそれは技術になってしまうし、さらにいえば、技術として応用されることを目論んで、現代科学は展開されているのではないか」。
 ⑩のつづきだ。遺伝子に関する科学によって「癌の可能性が減るということがわかるとなれば、もうそれは技術になってしまう」と、佐伯は問題視する。
 遺伝子等に関する科学の進展によって「癌の可能性が減る」ことは、佐伯にとって望ましくないことなのだ。これは癌の罹患・発症を免れたい圧倒的多数の人々に対して、「科学の成果」を享受することなく<癌で死んでしまえ>と言っているのと同じなのではないか。
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 ⑫「だから、科学上の発見といっても、それが応用に直結している限り、現実にとんでもない事態を引き起こすことはありうる
 何か今そういうことの途上にいて、そこで我々、何か打つ手はあるのか」。
 「少なくとも自覚する必要はあ」る。
 「科学上の発見」が「応用に直結」する限り、「現実にとんでもない事態を引き起こすことはありうる」。これは一般論としてはそのとおりだろうが、なぜしつこくこう強調するのか?
 米米「自覚する必要がある」。これは佐伯啓思という評論家の常套句。他に、「もう一度、〜について考えてみる必要がある」、「あらためて〜を問題とすることから始めなければならない」等々。
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 ⑬「生命科学の発展が、無条件でよいとは簡単には言えなくなってくる。
 遺伝子の解析が、そのままで無条件でいいとは言えなくなってくる。
 AIも同じことだと思いますし、情報分野の革新も同じことです。」
 「それは今たまたま始まった問題なのか、それとも20世紀の科学、特に物理学でもそういう構造ができてしまったのか。何か科学の構造が変わってしまったのか」。
 「生命科学の発展」、「遺伝子の解析」、「AI」、「情報分野の革新」について、さらにはおそらく<科学の発展>について、佐伯は懐疑的だ。しかし、もちろん、佐伯が具体的な代案を示すことはない。<問題だ、問題だ>、<自覚せよ、自覚せよ>とだけ騒いで、いったい何になるのか。
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2720/人類の「感情」の発生—300万年前〜3万年前。

  アントニオ·R·ダマシオ=田中三彦訳・感じる脳—情動と感情の脳科学·よみがえるスピノザ(ダイヤモンド社、2005)。
 この著(原題、Looking for Spinoza)は冒頭で、<感情の科学>の未成立または不十分さを強調している(感覚、感情、情動、情緒、感性といった語との異同には留意する必要はある。但し、さしあたりはこの点を無視してよい)。
 だが、脳神経学者(?)ダマシオも、以下のような進化生物学(?)の叙述または説明を、大きくは批判しないのではないだろうか。
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  科学雑誌NEWTON-2016年6月号「脳とニューロンシリーズ第3回/喜怒哀楽が生まれるわけ」。
 以下、上の一部の引用。一文ずつで改行、本来の改行箇所に/の記号を付す。
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 「喜怒哀楽は基本的に、自分のおかれた環境に対して生じるものだといえる。
 一方で、感情には、自分と他人の関係において見られるものも数多くある。
 いとおしさや、嫉妬、うらみ、といったものだ。
 これらは、『社会的感情』とよばれる。/
 現代の人間の感情を生むしくみは、農耕時代以前の300万年前〜3万年前の生活や環境のもとで発達したと考えられている。
 とくに社会的感情の多くは、特定の仲間たちと長く関係をともにするようになったことでつくられてきたと考えられているという。/
 また私たちは、感情を自覚するだけでなく、ほかのだれかにおきた出来事をわがことのように怒ったり、悲しんだりすることがある。
 つまり、他人の感情に共感できる。
 共感のしくみに深くかかわっているかもしれないと考えられているニューロンに、『ミラーニューロン』というものがある。
 …… 」
 <以下、略> 
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  20万-30万年前というのは、アフリカ東部でホモ・サピエンスが誕生したとされている時期だ。そして、上のNEWTON編集者のいう300万年前〜3万年前に入っている。
 この叙述に従うと、人類はその「共通祖先」や「原人」たちの長い時代のあいだに、「感情」を形成しつつあった。あるいは、人類は、「感情」というものをほとんど備えて生まれてきた。「日本」や「日本人」の成立よりはるかに昔のことだ。
 ホモ・サピエンスが地球各地へ分散していっても、同じような状況では、<かなりの程度>、きわめてよく似た「感情」をもち、そしてきわめてよく似た「感情」表現をする、これらも当然のことだ、と言えるだろう。
 もちろん、人種や民族による、さらには各個体による、差異は完全にない、全く同じだ、などと言うことはできないとしても。
 そしてまた、他人の感情との<共感性の欠如>という一種の「心の病気」が人間のごく一部には生じている、ということを否定できないとしても。
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2316/西尾幹二批判021—「哲学・思想」②。

 哲学関係もそのようだが、歴史学や法学など、人文社会系学問分野での<講座もの>または<体系もの>を岩波書店が刊行することが多いようだ。自然科学系は違うと期待したいが、<人文・社会>系での<岩波>には権威がかなりあるらしい(とくにアカデミズムの分野では)。
 そして、<岩波>は明確な「反共産主義」の書物を刊行しておらず、ロシア革命を扱っても明確なレーニン主義批判(そして現日本共産党批判)にまでは至らない、というのがこの出版社の特色だ。
 こんなことも知らず?、執筆当時はれっきとしたイギリス共産党の党員が書いたレーニン関係の邦訳書である岩波新書(下の①)をもっぱら参考にして、「レーニンの生い立ち」を叙述していた、江崎道朗というお人好し?の、いや「悲惨な」自称「保守自由主義」者もいた(下の②参照)。 
 ①クリストファー・ヒル〔岡稔訳〕・レーニンとロシア革命(岩波新書、1955)。
 ②江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 →No.1819/2018.06.24
 →No.1826/2018.07.09
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  岩波書店の書物を参照するとき、秋月瑛二でも、多少の警戒はする。岩波刊行書だと、意識しておく必要がある。
 しかし、岩波書店刊行の書物をいっさい読んではならない、などと偏狭な?考え方をしてはいない。
 不破哲三から櫻井よしこ・椛島有三まで(三番目の人には書物はごく少ないが)、一部ではあれ、目を通してきている。櫻井よしこはもういいが、不破哲三が書いたものはまだ検証しておくべき余地が残っている。
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  岩波講座/哲学〔全15巻〕(2008-2009年)、というのもある。
 西尾幹二の1999年『国民の歴史』よりも後の出版だが、西尾・自由とは何か(ちくま新書、2018)より前で、西尾が自分の1999年著には「歴史哲学」があると書いた同全集第17巻全体の「後記」(2018)よりも前だ。
 全15巻の各巻の表題は、以下のとおりだった。「」を付けず、改行もしない。
 01—いま哲学することへ、02—形而上学の現在、03—言語/思考の哲学、04/知識/情報の哲学、05—心/脳の哲学、06—モラル/行為の哲学、07—芸術/創造性の哲学、08—生命/環境の科学、09—科学/技術の哲学、10—社会/公共性の哲学、11—歴史/物語の哲学、12—性/愛の哲学、13—宗教/超越の哲学、14/哲学史の哲学、15—変貌する哲学。
 西尾幹二の心や脳内には存在しないかもしれない「心/脳の哲学」も表題の一つだ。また、西尾の心・脳を占めているのかもしれない「歴史/物語の哲学」というのも巻の一つとなっている。西尾自身は1999 年の自著を「歴史哲学」を示すものとし、かつまた「歴史」と「物語」・「神話」の差異や関係にしきりと関心を示してはいた。
 しかし、岩波書店刊行の著書内の論考などには、いっさい興味がないのかもしれない。2020年著も含めて、こうした各主題に迫ろうという姿勢はまるでない。「歴史学者」でも「哲学者」でもないのだから、やむを得ないのだろう。
 「精神」・「こころ」、そして「言葉」の重要性を表向きは語りながら、西尾幹二の文章の中には、例えば、Wittgenstein は全く出てこないだろう。安本美典は一回だけだが(私の記憶で)、この学者に言及していた。
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  2008-09年刊行の上の<哲学講座>を1985-86年刊行の岩波<新哲学講座>と比較すると、各巻の主題の異同もあるが、編集委員(計12名、井上達夫、野家啓一、村田純一ら)の「はしがき」(各巻全ての冒頭に掲載)が興味深い。
 学界所属者たちがいかほどに「はしがき」の内容と同じ意識・認識だったかは疑わしいとしても、1991年のソ連解体を経ての学界の「雰囲気」らしきものは知ることができる。
 つぎの四点の「現状認識」がある(四点への要約は秋月)。
 第一は、「大哲学者の不在」を含む「中心の喪失」だ。少し引用的に抜粋すると、つぎのようになる。-「20世紀の前半、少なくとも1960年代まで」は、「実存主義・マルクス主義・論理実証主義」の「三派対立の図式」が「イデオロギー的対立も含めて成り立っていた」。20世紀後半にこの図式が崩壊したのちも、「現象学・解釈学・フランクフルト学派、構造主義・ポスト構造主義など大陸哲学の潮流」と「英米圏を中心とする分析哲学やネオ・プラグマティズムの潮流」との間に、「方法論上の対立を孕んだ緊張関係が存在していた」。
 だが現在、「既成の学派や思想潮流の対立図式はすでにその効力を失っている」。
 第二に、「先端医療の進歩や地球環境の危機」によって促進されて、諸問題が顕在化した。
 第四に、「政治や経済の領域におけるグローバル化の奔流」が諸問題を発生させている。
 上でいったん飛ばした第三点が興味深い。全文を引用し、一文ごとに改行する。
 「哲学のアイデンティティをより根底で揺るがしているのは、20世紀後半に飛躍的発展を遂げた生命科学、脳科学、情報科学、認知科学などによってもたらされた科学的知見の深まりである
 かつて『心』や『精神』の領域は、哲学のみが接近を許された聖域であった。
 ところが、現在ではデカルト以来の内省的方法はすでにその耐用期限を過ぎ、最新の脳科学や認知科学の成果を抜きにしては、もはや心や意識の問題を論ずることはできない
 また、道徳規範や文化現象の解明にまで、進化論や行動生物学の知見が援用されていることは周知の通りであろう。
 そうした趨勢に対応して、…、哲学と科学の境界が不分明になるとともに、『哲学の終焉』さえ声高に語られるにまでになっている。」
 以上。
 西尾幹二における「哲学」のはるかな先まで、「哲学」学界は進んでいるのだ。いや、「進んで」いないかもしれず、「終焉」しつつあるのかもしれない。だが、少なくとも西尾が知らない、または意識すらしていない可能性がきわめて高い諸問題を、「はるかに広く」問題にしているのだ。
 西尾はいったいどういう自覚に立って、自分の「歴史哲学」を語り、1999年著での自分の「思想」が理解されなかったのは遺憾だった、などと安易かつ幼稚に書けるのだろうか。
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  不思議なことはいっぱいある。<あってはならない(はずの)こと>が、現実(ここでは言葉で外部に「現に」表現されている想念・意識等を含める)にはある。西尾幹二の文章だけでは、もちろんない。

2308/西尾幹二批判020ー「哲学・思想」。

  1999年(『国民の歴史』出版)の10年以上前に、つぎの<講座もの>が出版されていた。 
 新・岩波講座/哲学〔全16巻〕〔岩波書店、1985-1986)。
 各巻の表題はつつぎのとおり。「」を付けず、改行もしない。
 1/いま哲学とは、2/経験・言語・認識、3/記号・論理・メタファー、4/世界と意味、5/自然とコスモス、6/物質・生命・人間、7/トポス・空間・時間、8/技術・魔術・科学、9/身体・感覚・精神、10/行為・他我・自由、11/社会と歴史、12/文化のダイナミックス、13/超越と創造。14/哲学の原理と発展ー哲学の歴史1、15/哲学の展開ー哲学の歴史2、16/哲学的諸問題の現在ー哲学の歴史3。
 当然のことだろうが、「自由」を扱う巻はあり、論考もある。
 この時期はまだソ連・東欧社会主義諸国が存在し、「マルクス主義」哲学者も(日本では)多かったと見られる。
 これらの点は別として、この講座の編集委員(11名。中村雄二郎、加藤尚武、木田元、村上陽一郎ら)による<まえがき>を一瞥すると、つぎのことが興味深い。
 一つは、「哲学の終焉」の危機感などは全く感じさせない、つぎのような叙述をしている。「学問分野としての哲学は、…、研究者の層が厚い。また、前回…が出版された後、研究動向の多彩な展開がみられると共に若いすぐれた担い手たちも育っている」。
 二つに、つぎのような叙述が冒頭にあることが注目されてよいだろう。一文ごとに改行する。
 「…今日、私たち人類はこれまで経験したことのない状況に直面している。
 エレクトロニクスや分子生物学に代表される科学・技術の発達が人間の生存条件を一片させつつある
 と同時に、文化人類学、精神医学、動物行動学の成果からも、人間とはなにかということ自体が改めて問い直されるに至っている。」
 ここで興味深いのは、30年以上前すでに、「文化人類学、精神医学、動物行動学」の成果を参照しなければならないことが(たぶん)意識されていた、ということだ。
 この講座(全集)の第6巻の表題は上記のように、<物質・生命・人間>、第9巻のそれは<身体・感覚・精神>だった。
  西尾幹二が、「哲学」や「思想」にかかわるものとして、「物質・生命・人間」や「身体・感覚・精神」という主題を1999年に意識していたか、その後に何らかの関心を持ってきたかは、相当に疑わしい。
 また、西尾が、「哲学」や「思想」に、「エレクトロニクスや分子生物学に代表される科学・技術の発達」が関係してくるだろうことを、あるいは「文化人類学、精神医学、動物行動学の成果からも、人間とはなにかということ自体が改めて問い直されるに至っている」ということを、どの程度意識してきたかも、相当に疑わしい。このような問題意識は、1999年時点では、ゼロだったのではないか。
 というのは、例えば2018年の西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書)p.36-p.37でも、こんな間違いおよび幼稚なことを書いているからだ。忠実な引用はしない。何回かこの欄で触れてきたからだ。
 ①教育・居住条件の整備(Libertyに対応)と②教育の内容・生活の質(Freedomに対応)は異なる。後者の②は「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことのできない領域」だ。その扱えない問題というのは、「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の自由という問題」だ。
 この部分の文章は、<知の巨人>、<思想家>であるらしい、そして1999年著(のとくに前半)は「グローバルな文明史的視野を備えていて」、「これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担っている」と自賛している西尾幹二の、記念碑的な、後世へも(かりにこの人への関心が続くならば)伝えられるべき貴重なものだろう。
 ここにおける「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の自由」という表現の奥底にるのは、弱者・愚者を含む「各自」ではない、強者・賢者である「自分(西尾幹二本人)の、ひとつひとつの瞬間の心の自由」を尊重し、高く評価せよ、という強い主張ではないか、と想像している。
 この点はともかく、上の哲学講座の構成やその編集委員の「まえがき」からしても、「ひとつひとつの瞬間の心の自由」が「精神医学、動物行動学」あるいは「分子生物学」と無関係ではないことがとっくに示唆されている。
 現在の脳科学は、「意思の自由」・「自由な意思」の存否またはあるとすればどこ・どの点に、を議論している。
 この欄で言及したように、臨床脳外科医・脳科学者の浅野孝雄も、人間の「こころ」に迫っていて、当然に「自由」性を視野に入れている。
 西尾は、「自由」に関する「哲学」はもちろん、彼には当たり前だが<理系>とされる学問分野における「ひとつひとつの瞬間の心の自由」の研究を全く知らず、関心すらないのだ、と思われる。
  西尾幹二が、「哲学」・「思想」に自分は関係していて、「自由」を論じる資格があるなどと考えること自体が奇妙で、不思議なのではないか。
 同旨を、たぶんもう一回書く。

2273/「わたし」とは何か(9)。

 ダマシオの「自己」理論についての浅野孝雄の叙述のつづき。
 浅野孝雄=藤田晢也・プシューケーの脳科学(産業図書、2010)。p.196以下。 
 三 C 自伝的自己(歴史的自己)
 「新しい経験」はすでに蓄積された記憶に追加され、「記憶」は「一つのニューラル・パターンとして再活性化」され、必要に応じて「イメージとして意識に、あるいは意識下に」表象される。
 こうして生起した「中核意識」において、「中核自己と結びついた記憶の総体との結びつき」が生まれ、その「結びつきが確立・統合」されて、人は「ある程度の不変性・自律性を有する人格(パーソナリティ)」を獲得する。
 獲得するこれが、「自伝的(歴史的)自己」だ。
 つまり、「過去における個体の経験」と「未来において期待される経験の内容」とが「内示的・外示的記憶として蓄積」されることにより、「自伝的(歴史的)自己」が形成される。
 「自伝的自己」は、「生涯のでき事を通じて形成された自己のイメージ」、つまり「ある時点について固定化された陳述記憶と手続き記憶の体系」だ。それは、「自分とは、かくかくの人間である」というような「意識の中に客体化された自己についての観念」だ。
 ——
 このあとに、印象深いとしてすでに紹介した文章がある。
 「しかし記憶は、過去の事実についての必ずしも正確ではない記憶・想像・欲求などが混じりあって形成されたものであるから、選択された陳述記憶から成る自伝的自己とは、脳が自ら作り上げたフィクションにすぎない」。
 「人間の栄光と惨めさ、喜劇と悲劇は、フィクションである自伝的自己への固執から生じる」。
 ——
 四 さて、<原自己>・<中核自己>・<自伝的自己>の三区別とそれらの発展?に関する叙述から、さしあたり、シロウトでもつぎのように語ることができるだろう。
 ①「胎児」もまた、専門知識がないからその時期に論及できないが、いつの時点からか、<原自己>を(無意識に)有している。「自己」を「わたし」と言い換えれば、「胎児」にもいつかの時点以降、「わたし」がある
 ②人間が生誕して、いわゆる<ものごころ>がつく頃、おそらくは「自分」と他者(生物、いぬ・ネコを含む)の区別を知り、「自分」が呼ばれれば反応することができる頃—それは何らかの欲求・感情を表現する「言葉」を覚えた頃にはすでに生じていると思われるが—、<中核自己>は成立している
 ③<中核自己>が「思い出」をすでに持つようになる頃からいわゆる「思春期」にかけて、<自伝的自己>が形成される。むろん、その後もつねに継続して、<自伝的自己>の内容は、(同じ部分を残すとともに)新しい「経験」・「記憶」・「予測」等々によって、変化していく。
 こう考えることができるとすると、「わたし」=自己というものを単一に把握することは決定的に誤りだと気づく。また、単純に「原自己」が後二者へと移行するのではない。成人になっても、<自伝的自己>の根元には(これまた変化している)<原自己>がある。
 こうしたことは、「発達科学」あるいは<子ども>の成長に関する諸研究分野において当然のことを、別の言葉で表現しているのかもしれない。
 **
 ところで、「わたし」とはいちおう別のレベルの問題だと思われるが、浅野によると、ダマシオは、「拡張意識」や「アイデンティティ」等の言葉を用いて、その「意識」理論をさらに展開しているようだ。興味深いので、さらに別の回に扱う。

2272/人間と「脳」の神秘・奇跡。

  浅野孝雄の最初の著かもしれないつぎの著の中途に、浅野はこう書いている。
 藤田晢也=浅野孝雄・脳科学のコスモロジー−幹細胞・ニューロン・グリア(医学書院、2009)。p.239。一文ごとに改行した。
 「脳を構成する神経細胞の数はゼロから出発して、成人では約450億個に達し、それから死ぬまで減り続ける。
 脳が行う学習と記憶は一生続くプロセスであるが、それはニューラル・ネットワーク内部の神経回路が絶え間なく変容を続けることである。
 このニューラル・ネットワークの働きによって、脳がヒトの心の基本的特性を獲得し、文化・文明に適応し、さまざまな創造を成し、しかも自己の一体性を保持しているということは、まさに宇宙の奇跡である。」
  つぎの著では、自分の担当部分の冒頭で、浅野孝雄はこう書く。
 浅野孝雄=藤田晢也・プシューケーの脳科学—心はグリア・ニューロンのカオスから生まれる(産業図書、2010)。p.55。一文ごとに改行した。
 「浅野は、幾多の開頭手術を行い、生きている脳に自らの手で触れてきた脳外科医である。
 ピンク色に輝き、微かに拍動する脳にメスを下そうとする瞬間、それが人間の心を宿すという神秘的事実は、驚嘆と畏敬と惧れが入り混じった複雑な感情を呼び起こさずにはいない。
 カントが言った物と物自体の区別、唯物論と観念論、あるいは一元論と二元論の歴史的対立は、生きている脳がその外貌を露わにする時、最も鮮烈に立ち現れる。
 「『物』としての脳に分け入れば分け入るほど、『物自体』である心は見えなくなっていく。……
 脳外科医としての筆者の思考は物の世界に属していてそこから離れることがない。
 脳外科医としてそれ以上を望むべきではないのかもしれないが、筆者はそれでは満たされないものを感じ続けていた。
 50代も半ばを過ぎたころから、『心』の世界を覗き見たいという欲求がなぜか燃えさかってきたために、心と物の世界を繋ぐ唯一の窓である脳問題にについて、改めて学び考えることを筆者は決意した。」
  浅野は、多数の脳科学者・周辺学者(ドーキンス、チャーマーズ等々を含む)のほか、決してニーチェに限られない、多数の哲学者の哲学書等も紐解いたようだ。上の第二の著の注記によると、アリストテレス、アリエリー、デカルト、ドゥルーズ、ダイアモンド、ライプニッツ、ハイデガー、フロイト、ハンチントン、ヤスバース、レヴィ-ストロース、ロック、メルロ-ポンティ、西田幾太郎、等々。
 「知」のために研究し文章を書く人と、「自分」、自分の「名声」・「名誉」のために文章をこね回して<こしらえる>人とがいる。

2271/「わたし」とは何か(8)。

 「人間の栄光と惨めさ、喜劇と悲劇は、フィクションである自伝的自己への固執から生じる」。
 「自伝的自己」とは、「生涯のでき事を通じて形成された自己のイメージ、即ち、ある時点において固定化された陳述記憶と手続き記憶の体系である」。それは、「意識のうちに客体化された自己についての観念である」。
 「しかし記憶は、過去の事実についての必ずしも正確ではない記憶・想像・欲求などが混じりあって形成されたものであるから、選択された陳述記憶から成る自伝的自己とは、脳が自ら作り上げたフィクションにすぎない」。
 以上、浅野孝雄=藤田晢也・プシュケーの脳科学−心はグリア・ニューロンのカオスから生まれる(産業図書、2010)。 p.196。
 なかなか印象的な文章だ。但し、「自伝的自己」、「陳述記憶」等の術語があり、直前には「アイデンティティ」という語も出ている。
 これは浅野孝雄執筆部分にあるが、A・ダマシオ(Antonio Damasio)の<意識理論>に関する叙述の中にあるので、ダマシオ説の紹介の一部なのではないかと思われる。 
 ダマシオと言えば、その著書の一つの邦訳書(の一部)をこの欄に要約しいてたことがあった(2019年11月頃)。そのかぎりで、ある程度は<なじみ>がある。
 浅野孝雄は、その執筆部分(II、全体の8-9割)の<第3章・意識と無意識>の第2節で「ダマシオの意識理論」を扱う。そこにはダマシオによる「自己」の三分類、または三段階に螺旋的に生成する「自己」論が紹介されているので、以下、とりあげて見よう。
 ここにもあるように、「自己」・「わたし」とは脳内の特定の部位・部所にあるのではない。境界も定かではない、絶えず変動している、一体のカオス的回路の一定部分・一側面なのだろうと、シロウトはとりあえず考えてきた。
 **
 p.193〜p.196。
  ダマシオは1994-2003年に、①Decartes' Error、②The Feeling of What Happens、③Looking for Spinoza を発表した。
 ①は邦訳書もある世界的ベストセラー書。「近年の脳認知科学の見地からデカルトの物心二元論」を誤謬として排斥するのは容易なことで、この書の眼目は「身体(脳)と心がいかに不則不離な関係」にあるかを示すことだった。
 ②では、「感情を中心として、意識の構造と脳の構造・機能との対応」を包括的に論じた。
 ③では、スピノザの「一元論」に共鳴し、スピノザ哲学が秘める「(原)生物学的な意味合いを、現代脳(認知)科学の内容に活かそう」とした。
 デカルトを詳細に調べたダマシオが、デカルトの友人だが「それとは異なる見地から人間の感情」に関する哲学を構築したスピノザに関心を持ったのは自然だ。
  ダマシオは、「エーデルマンのダイナミック仮説」をふまえ、「自己」を①「原自己(protoself)」、②「中核自己(core self)」、③「自伝的自己(autobiographical self)」の三段階に分けた。
 これらは、「意識の螺旋的構造の内に階層的に位置」する。
 「意識の螺旋の底部」にあるのはNN(ニューラル・ネットワーク)の働きで、「覚醒状態において対象と有機体との関係から生じる様々な情報がダイナミック・コアに到達する以前」の段階にある。これが「イメージ・表象の受動的生起から始まる」とする点で、フリーマンと決定的に異なる。ダマシオ理論はアリストテレス的で、フリーマン理論は「トミズム的」だ。
  A 「原自己」とは、ダマシオによると、「個体の内部状態(身体から脳幹へと伝達される全ての情報)が、脳の複数のレベルにおいて相互に関連しあい、まとまりを持って大脳皮質に投射された神経反射のパターン(一次的マッピング)」だ。
 身体情報の受領・処理をする脳領域は「脳幹・視床下部・前脳基底部・島皮質・帯状回後部など」。ここに存在する様々の装置は、「生存のために身体の状態を継続的かつ「非意識的」に比較的に安定した狭い状態に保つ」=「個体のホメオスタシス」を維持する。
 この諸装置から「第一次マッピングとして継続的に表象」されるのは「個体の内部環境・身体臓器などの状態」で、この表象の全体が「原自己」を形成する。
 「原自己」はあとの二つの「自己』の基底だが、「海馬との情報交換」がなく『時間的・空間的定位」を欠き、「大脳皮質が未発達な動物の原始的な意識」と同じく、「意識に上らない」、つまり「無意識」だ。
 「原自己」は、「われわれの現在の意識が集中している自己」と区別されなければならない。それは『言語、認知、知識に関わるモジュールと直接の関係」を持たないので、人間が「明示的に認識」することがない。
  「中核自己」は「原自己」を母体として発生し、初めて「意識が生じる」。ダマシオの前提は「個体の全ての部分」とともに「身体内外の対象」も脳にマッピングされるということで、「原自己」と同様に「外的対象から生じたシグナルは、その性質に従って局所的にマッピングされる」。「原自己と外的対象の一次的マッピングは、脳の異なる部位に生じる」。
 それらから生じた表象は「上丘、帯状回などの、より上位の脳領域に投射され』、それを「二次的マッピング」と言うが、そこで「個体の内部状況と他の全ての対象の表象が相互的に作用」して、「新たな表象が生じる」。こうして「意識に上った表象は、未だ言語化されていないイメージ」ではあるが、「個体の全身的な身体状態と結びついているので感情(feeling)となる」。
 かくして、「個体は、自分がどういう状態にあって、何が起きているかについての最初の意識を有する」。これが「中核自己」だ。
 つまり、「脳の表象装置」が、「個体の状態が対象の処理によってどのように影響されているか」の「非言語的なイメージ」を生み、それと平行して「対象のイメージが海馬の働きを介して時間・空間的文脈の中に明確に定位される」とき、「中核自己」が生まれる。
 「対象の明確化」と「原自己の変容」が進んで、「自己」が各相互作用の「主役』として強く意識されるとき、「対象によって触発されて原自己から立ち上がる」のが「中核自己」だ。つまり、「中核自己」は「対象によって変容した原自己の、大脳皮質への二次的マッピングにおいて生じる非言語的表象」だ。
 対象による中核意識機構の活性化によって生成する「中核自己」は、「短い時間しか持続しない」。
 だが、「対象はつねに入れ替わりながら中核意識を活性化する」ため、「中核自己」は「絶え間なく生起」し、ゆえに「持続的に存在しているかのように感じられる」。
 「中核自己」は「コア・プロセス」に「付随』しており、「一生を通じてその生成メカニズムが変化することはない」。かくして「われ」が感情によって染められた「中核意識」の中に浮かび上がる。
 「われ思う(ゆえにわれあり)」の「われ」として感じられるのが、この「中核自己」だ。
 **
 第三の「自伝的自己」(「歴史的自己」)、これは「人格」=personality と同義かほぼ同義のようなのだが、これについては、別の回にする。ダマシオ説に関する、著者=浅野孝雄の叙述だ。

2270/「わたし」とは何か(7)。

 「『わたし』とは何か」という主題と直接には関係なくなっているが、密接不可分とも言えるので、フリーマンの叙述をもう少しフォローしよう。原書を見て、適宜原語も付記する。
 脳科学について、こうも語られる。邦訳書、p.5。
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 ① ある流派の「脳科学者たち」は「神経の出来事と心的出来事(neural and mental events)は、同じものの異なる様相」だと主張して、「脳がどのようにして思考を生み出すか」という問題を回避している。こうした考えは「心・脳同一説」(the psyconeural identy hypothesis、「同一説」・「双貌説」とも)として知られる。我々には「脳なくして思考する」のは不可能で、「脳」機能の一部は「思考」することなのだから、この説は「原理的には反駁が難しいほど理窟に適って」いる。
 しかし、この「心・脳同一説」を「直接証明(test directly)する方法」はない。
 「あなたが何かを考えながら同時にあなた自身が自身にが脳の中に入り込んで脳がどのように活動しているかを観察することはできません。
 一方、あなたの脳を観察している人に、あなたが考えていることを言葉で伝えようとしたところで、彼はあなたの考えの内容を正確に知ることはできません。」
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 前回に秋月が直感として書いたのと似たようなことをフリーマンも書いている。「現に活動している脳または心」の具体的内容等をその時点で(おそらくのちにでも)正確に知ることはできないのだ。よって、「心・脳同一説」の正しさは検証できないことになる。
 フリーマンは、この点をこうまとめている。
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 ② 「現代脳画像検査方法によって、様々な種類の認知作業において脳の異なる部位が大かり少なかれ同時に活性化することが明らかとなりました。
 しかし、この脳地図における色のパッチ〔濃淡や色の違い-秋月〕から、あなたが何を考えているかを推定することはできません。
 つまりわれわれは同一性仮説を、検証不可能な理論と見なすほかないのです。」
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 しかし、従来・在来の脳科学を全否定するのではもちろんなく、こう語り、かつ次のように目標(・達しようとする結論)を示す。邦訳書、p.6。
 ③ 「しかし、脳理論から因果律(causality)を排除すべきではありません。
 私たち「脳科学者グループは、異なる観点から、選択能力(poweer to choose)は人間にとって本質的で奪うことのできない特性である」と考える。
 「因果律があまねく宇宙を支配することを前提とする限り、選択の可能性を否定せざるを得なく」る。
 逆に、我々は「選択の自由が存在するという前提」から出発し、「因果律を脳の特性として説明すること」を目指す
 「選択の自由が存在するという前提」は「倫理学』を基礎にしておらず、反対にこの前提が、「倫理」の諸問題を発生させる。
 すなわち、「選択の自由」の奨励・拒絶、「選択の自由」を行使し得る性・人種・年齢・教育や資産の程度等々の地多くの倫理的問題」が発生するのだ。そして「選択の自由」の存在という前提こそが「アングロ・アメリカン民主主義社会の土台」となった
 だが17世紀以降の「生物学」・「物理学」の諸発見は「個人の自由」を否定する方向に働いた。スピノザは、「崖を転げ落ちる」岩との違いは人間は「自ら選択したという幻想を抱いている」ことにあるとした
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 そのような状況のもとで、としてフリーマンが目標(・達しようとする結論)してやや長く語るのは、次のようなことだ。
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 ④ 「従来の生物学の基本的発想を転回させ、脳のダイナミクスを正しく理解することによって、選択という生物学的能力を説明する」こと。
 第一に、『選択のオプションがニューロンによって構成されることを説明するような脳のメカニズムを提示する」。
 第二に、我々の「選択の瞬間に、ニューロン回路でどのようなことが生じているかを説明する」。
 第三に、「気づきの本性とその役割、および気づきの状態と意識内容の継起との関連を、脳科学的な用語を用いて説明する」。
 これらの作業は「脳の働きを理解し、その支配権を握るための基礎を築くこと」に他ならない。
 こうして理解された「脳の働き」は、「脳科学が示す諸事実」のみならず、我々の「直観」、「思考」そして「クオリア」と合致するものでなければなない
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 フリーマンによる専門的な論述に立ち入りはしないが(私には知識・能力が足りない)、少なくとも日本の<文科系>、とりわけ<文学畑>の知識人・評論家が想像もしていないかもしれない議論が欧米でも日本でもなされていることが明らかだ。
 何度も名前を出して恐縮だが、西尾幹二はまるで自分は「こころ」や「自由(意思)」の問題の専門家のごとき口吻で語る。自然科学系、とくに脳科学の研究者とは雲泥の差、天地の差、専門家と小学生レベルの幼稚さの違いのあることは明瞭だろう。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)、p.37。
 「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことのできない領域」がある。それは「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」だ。
 ああ恥ずかしい。上に限っても、社会科学的知性の方が西尾よりも種々の意味での「こころ」をはるかに問題にし、議論している。西尾が無知で幼稚なだけだ。全集刊行書店の国書刊行会のウェブサイトがこの人物を「知の巨人」と呼んでいるのも、歴史に残る<大嗤い>だろう。  

2269/「わたし」とは何か(6)。

 <自己意識のセントラルドグマ>を維持するとしても、 茂木健一郎の指摘するように、自己意識の対象となる「自己」・「私」はつねに変化しているということを自覚することは重要なことだ。
 いつか書いたように、本質的には、根本的には同一の「私」があって、思春期・成人期・老齢期と成長または発展している、のではない。
 例えば、あくまで例えばだが、西尾幹二や樋口陽一は自分は「ものごころ」のついた幼少の頃から「西尾幹二」・「樋口陽一」であって、その「西尾幹二」または「樋口陽一」という<私>・<自己>が一貫して自分を統御し、(一部では、あるいは一定の分野では)著名な?そして<尊敬される>?人間になった、と思っているかもしれない。そして、その「西尾幹二」・「樋口陽一」はふつうの・平凡な人々に比較して、<優れて>・<秀でて>いたのだ、と自負しているかもしれない。
 このような考え方をする者は、「自分」は他者と違って少年時代から<優れて>・<秀でて>いて、自分の力で(一部では、あるいは一定の分野では)成功して著名になった、と自負している人々の中に多いかもしれない。
 いくつかの疑問符の部分はさて措くとして、このような自己自身に関する理解の仕方は「自己」・「私」が私の脳(も心も)支配してきたし、している、という誤ったものだろう。これは身体(頭)の中に住んでいると想定された、<ホムンクルス>の存在を肯定するもののように見える。
 −−
 W・フリーマン/浅野孝雄訳・脳はいかにして心を創るのか—神経回路網が生み出す志向性・意味・自由意志(2011)。
 =W.J.Freeman,How Brains make up their Minds(2011,Columbia Uni. Press)。
 数回前に(No.2263で)抜粋紹介を省略したW・フリーマン著の初めの部分の追記を遅れて記そう。この文書を含む章の題は<第1章・自己制御と志向性>で、すでに「志向性」という語がある。なお、この書全体のタイトルにある「心」は上掲のようにmind で、heart ではない。魂・霊(・ときに精神)という意味での soul と区別される「こころ」には mind が用いられており、日本の関係学界や研究者も、これと一致している、あるいはこれを継受していると見られる。「脳」は、brain。
 フリーマンは近年のまたは有力な?「脳科学」を批判して乗り越えようとしているのだが、その「脳科学」について、こう書く。p.3-p.4.
 **
 「自己決定」の本質は何か。この問題は「脳とニューロン」が「心」・「自分自身として経験される行動と思考」をどう創出しているか、「心」の経験が「脳とニューロン」を変化させ得るとすれば、いかにして、に帰着する。つまり<心と脳の間の因果関係>は何を意味するのか、という問題だ。
 「多くの神経学者」はこの問題に目をつぶる。<生まれより育ち>論者にとっては「自己をコントロールできる」という考えは幻想にすぎない。「決定論」信奉のこれら哲学者たちは「心的過程の気づき(意識)」を「随伴現象」と呼び、無意味の「副次的現象」と見る。彼らは、「心的出来事が物理的世界に入り込むこと」の承認は「神が…自然法則を停止させた中世の奇跡」の承認と同じだと主張する。彼らには「クオリア」は「私秘的」な、科学者が接近不能なもまたは科学研究に値しない経験だ。彼らは「変形された刺激が感覚ニューロンによって外的世界が脳へと運びこまれ、そこで予測し得る行動へと処理される過程の自然法則の発見」を目的としており、「偶然」が関与しても(自由意思による−秋月)「選択」が関与する余地はない、と考える。
 **
 今回もこの程度にして区切るが、フリーマンは例えばこのように把握したうえで、「自由意志」(自由意思)とそれによる選択を肯定する。
 その結論と論理過程自体が興味深いのだが、しかし、在来・従来の「脳科学」(brain science )はフリーマンの言うが如き単純な?物的(物理的)一元論?だったのか、という疑問がないわけではない。
 というのは、全くのシロウトにすぎない私は、究極的にはニューロン細胞網等の物理化学的反応の回路による、と説明できるとしても、「自由な意思」の存在を語り得る、と何となく考えてきたからだ。
 その根拠は、たぶんじつに幼稚なもので、その複雑な物理化学的反応の全てのありようを特定の個人ごとに「認識」することなど、人間にできるはずがない、というものだ。その不可能である範囲内で、ヒト・人間の「自由意思」を、そして「私の意思」を、そして「私」を、ヒト・人間は観念し続けるのではないか、と考えてきた。
 なぜ不可能なのか。これまたたぶんじつに幼稚な根拠による。つまり、現に生きている人間の「意思形成過程」の中身・背景等々を問題し「認識」しようとしても、「生きている」がゆえに、その詳細な中身・神経(+グリア)細胞網の「カオス」の状態を知ることには、いかにすぐれた器械・機械装置を発明していくにしても、絶対に限界がある、というものだ。
 「現に生きている人間の」脳細胞=神経細胞等をどうやって覗き込むのか。むろん、ある程度は(興奮すればどの部位辺りのシナプス間の反応が活発になるといったことは)今でも分かるようだが、「現在のこの瞬間に」何を、どのように、何を背景・理由として、「情動」し「思考」しているなど、永遠に分からないのではないか。
 死ねば、脳を解剖することはできる。しかし、たぶん身体・肉体が「死んで」しまうと、脳内の「細胞」も「死んで」いて、生きている場合の形状をとどめていないはずだ。死後の解剖では無意味なのだ。
 したがって、ついでに書けば、茂木健一郎のいう「コピー人間」というものの実現可能性もおそらくゼロなのではないか、と感じている。一部ならば可能かもしれない。しかし、脳は身体全体とともに存在しているので、「脳」だけのコピーはできない(「脳」なるものの範囲も問題になる)。そして、全く同じ身体・肉体条件・「脳」条件にある、全くの「コビー」人間など(思考実験としてではなく実際には)作り出すことはできないのではないか。
 さらに、しろうととして、フリーマン等に言及することにしよう。

2264/「わたし」とは何か(2)。

  茂木健一郎はいつからなのかYouTube上に頻繁に「語り」をupしていて、きっと全て面白いだろうが、全部には従いていけない。最近にときどき話題にして指摘している、日本の学校教育や入試制度の欠陥・問題点には、歴史的、大雑把には「人間史」的に見ても、共感するところが大だ。
 その点も重大だが、「私」なるものとの関係でも、興味深い発言が目立つ。言うまでもなく、その<脳科学>という専門分野からきている。
 12月6日のタイトルは「自己意識のセントラルドグマは正しいのか?」。
 その下に、「「私」の自己意識は、宇宙の歴史でたった一回生まれ、死んだらその後は「無」であるという考え方は正しいのでしょうか? 私のコピー人間は私と同じ自己意識? 私と他人の意識の関係は? 生まれ変わりや前世は?」とある。
 茂木健一郎は、要約を試みると、こういうことを言う。
 ——
 僕を含む人間は生まれて、死ぬ。僕の「自己意識」も一度かぎりだ。前世も後世もない。「生まれ変わり」はなく、たった一度だけの「人生」だ。
 このような理解を<自己意識のセントラルドグマ>と言うことにしよう。セントラルドグマとはある分野で疑いないものとして絶対視されているもののこと。
 僕はこれに疑問をもつが、従来にいう<前世>・<生まれ変わり>を信じるからではなく、<私は私であるという自己意識の成り立ちに関する原理的考察>をしたとき、それが<正しい科学的・論理的立場>なのかを疑問視している。
 現在の脳科学によれば脳内の神経細胞の結合パターンによって<私の自己意識>も生まれる。<外部記憶装置>はなく、その(一個人の)結合パターンの中に全てが含まれる。これをコピーするとするとその瞬間に<コピー人間>ができるが、そのコピーもまた不断に変遷していく。その<コピー人間>によって「私」も抽象的には影響を受けるだろうが、<私の自己意識>に影響するとは思えない。
 私は私であるという秘私性・自己意識に関係はない。自己意識(Self Conciousness)とは脳内の前頭葉・大脳皮質?等によるメタ認知で閉じており、<情報的な同一性・類似性>により担保されたり、影響されたりはしない。<コピー>もまた別の「自己意識」をもっていく。
 情報論としては、いっときの<情報を他にコピー>しても、<私の自己意識>を変えない。
 人生の過程の分岐点、可能性は多数あり、実際とは別の「私」が生成した可能性があるが、その「私」は今の「私」とは異なる。
 <脳の自己意識の距離(非同一性)は絶対的>だ。「壁」を越えることはできない。
 <僕の自己意識を形成している情報内容>はつねに変わっていく。自然的か、他律的にかは別として。その(神経細胞の結合パターンの変化による)情報内容の変化、「意識状態」の変化は、かつての「私」との関係では連続していて、「自己意識」と言えるだろう。
 だが、そうすると、「コピー人間」の自己意識と現実の「私」の自己意識の関係は、一定時期の「私」の自己意識が連続的に変化したものだという点では共通する。「私」と全く無関係だ、とは言えない。
 とすると、極論すれば、その関係は、現実の「私」の自己意識と今いる数百億の「人間」の自己意識、かつて歴史上にいた無数の「人間」の自己意識の関係と、原理的には同じなのではないか。
 そうだとすると、元に戻ると、「死」によって私の自己意識が消滅するとは論理的には言えず、「意識」は一個なのではないか。時空・物質も「一個の電子」だという議論と同様に。
 世界中には「一つの意識しかない」。現れ方が異なるだけだ。とすると、<自己意識のセントラルドグマ>を疑問視することができる。
 ——
 茂木にとっては不満が残る要約かもしれないが、少なくともおおよそは、こんなことを語っている。
  茂木が言及している自著を(所持はしていても)読んでいないので、どこまで理解できているかは疑問だが、私には、茂木の言いたい趣旨は分かるような気がする。これを契機として、いくつかのことを述べる。
 第一。「私」、あるいは(それぞれの人間の)「自己意識」はつねに変化している。これは、茂木健一郎が当然の前提としていることだ。
 しかし、この点が一般にどの程度共有されているかは疑わしいようにも見える。つまり、いろいろと「変化」はしたが、「私の根本」は変わっていない、「自己」の同一性は保たれている、と何となく感じている人の方が多いのではないか。
 あるいはそのように観念しないと、現実に生きていくことはできない、とも言える。
 茂木が考えているのと比べると世俗的で卑近なことだが、秋月瑛二がときどき感じる疑問の一つに以下がある。
 ある人がある年に「殺人」をしたとして、その人は(公訴時効内の)10年後に逮捕され、起訴されて、死刑判決を受けた、とする。
 被告人は、こう主張することができないのだろうか ??
 10年前の自分は今の自分ではない。別の、とっくに消滅した「私」がしたことで、今の「私」と同一ではない。なぜ異なる「私」の<責任>をとらされ、今の「私」が制裁を受けなければならないのか。
 厳密に言えば、論理的には、茂木の理解するとおり、10年前の彼と今の彼とは同一ではない。「変化」しており、上の被告人の主張は正しいと考えられる。
 しかし、現実の世俗世界で通用しないだろうのは、立ち入らないが、<そういう約束事になっている>からだ、というしかないだろう。あるいは、<生まれてから死ぬまでの個人・個体の<同一性>>というドグマが、世俗世界では貫かれている、と言えるのかもしれない。
 第二。いや、YouTubeの聴き取りとその要約作業があって、疲れた。別の回にしよう。

2263/「わたし」とは何か(1)。

 一 ときどき覗いているネット上の<松岡正剛/千夜千冊>の最近の思構篇/1757夜は、リチャード・ゴンブリッチ・ブッダが考えたこと—プロセスとしての自己の世界(邦訳書、2009•2013)についてだ。いつもよりかなり長くて、西欧におけるブッダ・仏教の理解等に論及する。興味深かったので、一週間ほど前に一気に読んでしまった。そして、今は内容の詳細をほとんど忘れた。
 上の書の邦訳者である浅野孝雄(東京大学医学部卒、脳神経学者、と松岡はとりあえず紹介する)の著書・別の邦訳書に関心を持ったので、松岡が言及しているつぎの二つを入手してみた。
 1 浅野孝雄・古代インド仏教と現代脳科学における心の発見(産業図書、2014)。
 2 浅野孝雄訳/ウォルター・J・フリーマン・脳はいかにして心を創るのか—神経回路網のカオスが生み出す志向性・意味・自由意志(産業図書、2011)。
 何と魅力的な主題だろうか。
 後者にある浅野の訳者あとがきによると、フリーマン(1927〜)は物理学・数学、電子工学、哲学、医学、内科学・神経精神医学をこの順で学び、1995年以降、Berkeley の「神経生物学」教授。多数の賞を受け、「哲学」の講義をしたこともある、という。
 この邦訳書の冒頭には日本の読者向けに分かりやすくまとめてもらったという著者の「日本語版への序論」が20頁ほど付いているが、全く理解不能ではないものの、まだむつかしい。
 二 ウォルター・J・フリーマン/浅野孝雄訳・脳はいかにして心を創るのか(2011)の目次のあとの本文・第一章の最初からしばらくは、まだ理解することができ、かつ興味深い。こうだ。
 ——
 「あなたを操っているのは、いったい誰」か。「あなた自身なのか、それともあなたの脳なのか」。もし「あなたの脳でない」とすれば、操っている「あなたとは一体何なのだろう」。
 ルネ・デカルトは「脳を含む身体を、魂が動かす機械」だと考えた。彼によると、「あなた自身が、あなたの脳を統御している」。
 しかし、近年の脳科学は「あなた」または「あなたの脳」がいくぶんかでも「支配力」をもつとの考えを否定する。「神経遺伝学者」は、…。「神経薬理学者」は、…。神経科医師は処方薬を飲むか否かの自由を認めるが、「社会生物学者はその自由さえも奪って」しまう。あなたが薬を服用するのは「幼少時の教育によって形成された従順な行動様式」に従っており、服用しないとすれば「両親に対するあなたの反抗的態度の社会的反復」にすぎないのだ。
 「生まれついた」からか「育てられた」からかという、長く続く生まれ・育ち論争の「核心」にあるのは「遺伝的・環境的決定論という教義」だ。だが、この教義は「あなた自身の積極的関与を否定し、あなたの全ての決定が周囲環境によって強制された」とする点で、大きな問題を孕む。この決定論は、キリスト教神学における運命予定説の遺残」にすぎない。
 以上、上掲書1-2頁。6頁くらいまでは読んだが、省略する。

2048/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)③。

 茂木健一郎・脳とクオリア-なぜ脳に心が生まれるのか(日経サイエンス社、1997)。
 <第10章・私は「自由」なのか?>の後半、「認識論的自由意思論」。p.302-。
 「自然法則の基本的性質」からする自由意思論に加えて、「認識論的自由意思論」なるものが提示される。この部分の方が、<哲学者>の思考にまだ近い。
 茂木によると、「自由意思」概念は、「時間」の認識と深い関係がある。
 そして相対性理論のもとでの「相対的時空観」では四次元の中に「空間」と結びついて「時間」が最初から「そこに存在」するので、「自由意思」なるものは成立し得ない。
 この「相対的時空観」は、私たちの「直感」上の「時間」とは異なり、アインシュタインの過去・現在・未来の区別は「幻想」だとの言明は「正しい」としても、この「幻想」は強固であって、この「幻想」が「自由意思」と深くかかわる。
 どのようにか。これは、つぎのように論述される。
 ・「現在」が生成して「過去」が消滅する。「現在」時点でには「未来」は存在しない。「未来」が作成されたときに「現在」は消滅する。
 上のことが意味するのは、「未来」は「現在」には存在しないからこそ、つまり「未来」は不分明だからこそ、「自由意思」が作動して「未来」の私たちの行動が決定される、ということだ。
 ・「相対的時空観」では「幻想」ではあっても、私たちの一定の「やり方」の「認識」構造がある限り、「幻想」下での「自由意思」の存在を正当化できる可能性がある。
 さらに、つぎのように展開されもする。これによると、「幻想」を前提としなくても済むことになる。
 すなわち、「相対的時空観」が最終的真理ではなく、「時間の流れ」を記述する「未来の自然法則」が存在する可能性がある。
 やや中途半端な感もあるが、これでこの辺りを終えて、茂木はさらに、①<「自己」と「非自己」の区別>、②<自由意思と「選択肢」の認識>の問題に論及する。
 ①では例えば、飛んできたボールを避けるのと「飛んできたボール」を頭に浮かべて避ける練習?をする際の「自己」の内部・外部が語られる。
 ②では、「自由意思」といってもそれによる選択肢の数や範囲は限られる、として、つきの(私には)重要なことが叙述される。
 ・「どのような選択肢が認識に上るかは、私たちの経験、その時の外部の状況、私たちの知的能力、その他の偶然的要素にかかっている」。
 重要なのは、「どのような選択肢が認識に上るか自体を決めるのは、私たちの自由意思ではないということだ」。p.309。
 さて、適切な<要約>をしている、または<要旨>を叙述しているつもりはないが、以下が、この章での「議論」の茂木による「まとめ」のようなので、省略するわけにはいかない。p.309-p.310。
 前回に述べた大きな論脈の第一と今回の第二のそれぞれに対応して、こうなるだろう。
 第一。自由意思が存在するとしても、「アンサンブル限定」の下にある。但し、宇宙の全歴史の時間的空間的限定を考慮すると、「有限アンサンブル効果」を通して、「事実上の自由意思が実現される可能性がある」。
 第二。「認識論的自由意思論」の箇所では「自由意思」の条件を検討したが、未熟で検討課題が多い。
 以上のうえで、さらにこう書いている。p.310。
 ・「私の現時点での結論」は、現在知られている「自然法則が正しい」とすると、「自由意思」が存在しても「かなり限定的なものになる」、ということだ。
 ・「アンサンブル限定」という制約のつかない「本当の意味で自由な」「自由意思」は「存在しないと考える方」が、「量子力学の非決定性の性質、相対論的な時空観から見て、自然なように思われる」。
 さて、このように「現時点での結論」を記されても、特段の驚きはないだろう。
 「本当」のであれ、「事実上」のであれ、「自由意思」は存在する、と考える、そう観念する、ということができなくはないだろうからだ。
 それに、この書での茂木健一郎の論述は1997年時点での彼が30歳代のときのもので、体系的には(江崎道朗著などと比べてはるかに)しっかりしているが、現時点での彼や脳科学上の学問状況を反映しているとは言えないと思われる。もともとが、仮説・試論の提示なのだと思われる。
 むろん、仮説・試論の提示であっても、こうした分野に疎い「文科」系人間にとっては、脳科学の一端らしきものを知るだけでも意味があった。
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 なお、立ち入るならば、上のp.309の論述には、素人ながら疑問をもつ。
 「私たちの経験、その時の外部の状況、私たちの知的能力、その他の偶然的要素」によって「どのような選択肢が認識に上るか」を決めるのは、「私たちの自由意思ではない」、と茂木健一郎は叙述している。
 的外れかもしれない。しかし、決定する時点で「自由意思」は働いていないとしても、「私たちの経験、その時の外部の状況、私たちの知的能力、その他の偶然的要素」は、簡単には自分たちの「経験」等々自体が、自分たちの「自由意思」の介在が100%なくして発生したのではない、のではないだろうか。
 <自由意思>を働かせる選択肢の数・範囲が(残念ながら宿命的にも)限られているのは、おそらく間違いはない。
 しかし、その限られて発生する選択肢の範囲や内容自体の中に、なおもほんの少しは「自由意思」が介在しているものがあると思われるのだが。
 さらに、第9章<生と死と私>も、この欄で紹介・コメントする予定だ。
 ***
 なお、茂木の原書では「自由意思」は全て「自由意志」と表記されている。はなはだ勝手ながら、「自由意志」では何となく?落ち着かないので、全て「自由意思」に変更させていただいている。

2047/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)②。

 茂木健一郎・脳とクオリア-なぜ脳に心が生まれるのか(日経サイエンス社、1997)。
 9/12に全読了。計313頁。出版担当者は、松尾義之。
 <第10章・私は「自由」なのか?>、p.282~。
 まえがき的部分によると、「万能の神」のもとでも人間に自由意思があることは自明のことだったが、いわゆる「人間機械論」がこの「幻想」を打ち砕き、<人間的価値>の危機感からニーチェやサルトルの哲学も生まれた。
 ここで「人間機械論」とは、茂木によると、人間の肉体は脳を含めて「自然法則に従って動く機械」にすぎないとする論で、彼によるとさらに、「私たち人間が、タンパク質や核酸、それに脂質などでできた精巧な分子機械であるという考えは、現在では常識と言えるだろう」とされる。
 「心」も「自由意思」も、「自然法則の一部であるということを前提として」、茂木は論述する。
 単純な「文科」系人間、あるいは人間(とくに自分の?)の「精神」を物質・外界とは区別される最高位に置きたい「文学的」人間にとって、回答は上でもう十分かもしれず、以降を読んでも意味がないのかもしれない。茂木健一郎とは<考えていることがまるで違う>のだ。
 しかし、同じ人間の(しかも同じ日本人の)思考作業だ。
 読んで悪いことはない。かつまた、その<発想方法>の、「人間の悪、業を忌憚なく検討する事も文学の機能だ」と喚いていた小川榮太郎とはまるで異質な発想と思考の方法の存在を知るだけでも、新鮮なことだ。
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 茂木健一郎の設定する最初の問いはこうだ。p.285。
 「果たして、自然法則は、自由意思を許容するか?」
 この問題は、「自然法則が、決定論的か、非決定論的か」と同じだ。
とすると、「私たちの意思決定のプロセスを制御している神経生理学的な過程、すなわちニューロンの発火の時間発展を支配する自然法則が、決定論的か、非決定論的か」ということになる。
 「ニューロンの時間発展を支配」する自然法則が「決定論的」であれば、「自由意思」はなく、「非決定論的」であれば、「自由意思」はある。p.286。
 なお、「自然法則が決定論的」であるということは、その自然法則にもとづいて私たちが将来を「知る」ことができることを必ずしも意味しない。p.287。
 現在の状態を完全に「知る」のは不可能なので、将来の状態の予測にも誤差が生じる。「カオス」だ。しかし、「カオスの見られる力学系は、時間発展としては、あくまでも決定論的」なのだ。p.288。
 このあと茂木は、「量子力学」への参照に移る。
 量子力学上は、「ある系の現在の状態から、次の瞬間の状態を完全に予測することはできない」。計算可能なのは「確率」だけで、この「不確定性」は「系自体の持つ、本来的な性質」であって、「量子力学は、本質的な非決定性を含んでいる」。
 しかし、「電子、光子」などの「ミクロな世界」について意味がある量子力学の「非決定性」を、ニューロン発火過程に適用できるのか?
 このあとの論述は「文科」系人間には専門的すぎるが、第一に「シナプスの開口放出に含まれる量子力学的な不確定性」が「自由意思」形成に関係するとする学者もいるとしつつ、茂木はそれに賛同はせず、かつ量子力学の参照の必要性は肯定したままにする。
 第二に、量子力学にいう「非決定性」というものの「性質」が問題にされる。p.292-。
 そして、茂木健一郎が導くとりあえずの、大きな論脈の一つでの結論らしきものは、つぎのとおりだ。
 ・量子力学の「非決定性」といっても、それには「アンサンブル〔集合〕のレベルでは決定論的」だ、という制限がつく。
 ・「量子力学が、自由意思の起源にはなり得たとしても、その自由意思は、本当の意味では『自由』ではない。なぜならば、量子力学は、個々の選択機会の結果は確かに予想できないが、アンサンブルのレベルでは、完全に決定論的な法則だからだ。」p.294。
 ・「アンサンブル限定=個々の選択機会において、その結果をあらかじめ予想することはできない。しかし、…全体としての振る舞いは、決定論的な法則で記述される。」
・「個々の選択機会」について「その結果を完全には予測できない」という意味で、「自由意思」が存在するように「見える」が、同じような「選択機会の集合」を考えると、「決定論的な法則が存在し、選択結果は完全に予測できる。」
 ・「現在のあなたの脳の状態をいくら精密に測定したとしても、予想するのは不可能」だ、というのが量子力学の「非決定性」だ。しかし、「あなた」のコピーから成る集合〔アンサンブル)全体としての挙措は、「完全に決定論的な法則で予測することができる。」p.295。
 というわけで、分かったような、そうではないような。
 「個々の選択機会においては、自由があるように見えるのに、そのような選択機会の集合をとってくると、その振る舞いは決定論的で、自由ではない」(p.296.)と再度まとめられても、「自由」や「決定」ということの意味の問題なのではないか、という気もしてくる。
 もっとも、茂木健一郎は、より厳密に、つぎのようにも語る。
 ・選択機会の集合(アンサンブル)に関していうと、「現実の宇宙においては、可能なアンサンブルがすべては実現しないことが、事実上の自由意思が実現する余地をもたらすという可能性」がある。p.297。
 ・「宇宙の全歴史の中で」、「まったく同じ遺伝子配列と、まったく同じ経験」をもつ人間が「二度現れる確率は、極めて少ない」。このような「個性」ある人間による選択なのだから、ある「選択機会が宇宙の歴史の中で再び繰り返される確率は低い」。こうして、私たちの「選択」は生涯一度のみならず「宇宙の歴史の中でただ一回という性質を持つ」。とすれば、選択機会のアンサンブルの結果は「厳密に決定論的な法則」で決定されるとしても、その「選択機会が宇宙の全歴史の中でたった一回しか実現しない」のでその結果は「偏り」をもつ。しかもこれは「量子力学が許容する偏り」であり、この「偏り」を通じて、「事実上の自由意思が実現される可能性」がある。
 このあと、茂木は、現在の(1997年の)量子力学の不完全さを指摘し、今後さらに解明されていく余地がある、とする。
 さらに、もう一つの大きな論脈、<認識論的自由意思論>が続く。p.302-。
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 ここで区切る。小川榮太郎はもちろんのこと、西尾幹二とも全く異なる、人間の「自由」に関する考察があるだろう。
 1997年の著だから茂木自身の考えも、脳科学も、さらに進展しているかもしれない。
 まだ、紹介途上ではあるものの、しかし、秋月瑛二の想定する方向と矛盾するものではない。
 簡単に言えば、自然科学、生物科学、脳科学等によって、人間の「心」、「感情」、「(自由)意思」についてさらに詳細な解明が進んでいくことだろうが、人間一人一人の脳内の「自由」はなお残る、ということだ。あるいは少なくとも、いかに科学が進展しても、生存する数十億の人間の全員について、その「思考」している内容とその生成過程を完璧に把握しトレースすることは、「誰も」することができない、ということだ。
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2042/講座・哲学(岩波)や哲学学者と政治・社会系学者・評論家。

 岩波講座/哲学〔全10巻〕(2008-2009)の各巻共通の編集委員一同による「はしがき」は、途中で、「以上のような現状認識を踏まえた上で、…」と述べて、編集の基本方針を記している。
 その前に叙述されている「現状認識」は、番号が付されてはいないが、四点を記しているものと解される。
 第一は、「大哲学者の不在」を含む「中心の喪失」だ。興味深いのでもう少し引用的に抜粋すると、つぎのようになる。
 「20世紀の前半、少なくとも1960年代まで」は、「実存主義・マルクス主義・論理実証主義」の「三派対立の図式」が「イデオロギー的対立も含めて成り立っていた」。
 20世紀後半にこの図式が崩壊したのちも、「現象学・解釈学・フランクフルト学派、構造主義・ポスト構造主義など大陸哲学の潮流」と「英米圏を中心とする分析哲学やネオ・プラグマティズムの潮流」との間に、「方法論上の対立を孕んだ緊張関係が存在していた」。
 だが現在、「既成の学派や思想潮流の対立図式はすでにその効力を失っている」。
 <日本の>哲学状況はどうなのだと問いたくなるが、かなり面白い。
 第二は、「先端医療の進歩や地球環境の危機」によって促進されて、諸問題が顕在化した、ということだ。
 第三はのちに紹介するとして、第四は、「政治や経済の領域におけるグローバル化の奔流」が諸問題を発生させている、ということだ。
 上の第二点と一部は重複すると考えられるが、第三に、つぎのように語られている。全文を引用しよう。ここでは、一文ごとに改行する。
 「哲学のアイデンティティをより根底で揺るがしているのは、20世紀後半に飛躍的発展を遂げた生命科学、脳科学、情報科学、認知科学などによってもたらされた科学的知見の深まりである。
 かつて『心』や『精神』の領域は、哲学のみが接近を許された聖域であった。
 ところが、現在ではデカルト以来の内省的方法はすでにその耐用期限を過ぎ、最新の脳科学や認知科学の成果を抜きにしては、もはや心や意識の問題を論ずることはできない
 また、道徳規範や文化現象の解明にまで、進化論や行動生物学の知見が援用されていることは周知の通りであろう。
 そうした趨勢に対応して、…、哲学と科学の境界が不分明になるとともに、『哲学の終焉』さえ声高に語られるにまでになっている。」
 以上。
 このように叙述される「現状」の「認識」は、正当なものではないか、と思われる。
 そして、「文学部哲学学科」の存在意義というちっぽけな問題は別として、つぎの感想が生じる。
 第一に、人文社会系の学者・研究者および評論家類(自称「思想家」を含む)の中には、「実存主義・マルクス主義・論理実証主義」の「三派対立の図式」になお「イデオロギー的」にこだわっている者がいるのではないか。そうでなくとも、「現象学・解釈学・フランクフルト学派、構造主義・ポスト構造主義」、「分析哲学やネオ・プラグマティズム」といった「潮流」にこだわり続ける者も少ないのではないか、ということだ。
 むろん、そうした「哲学」の「潮流」などを知らない、意識していない人文社会系の者の方が、はるかに多いかもしれない。そんなことを知らなくとも、学界・大学や情報産業界の一部で「生きて」いける。
 第二は、まさに上に明記されている、「生命科学、脳科学、情報科学、認知科学」は、人文社会系学問(歴史学を当然に含む)や社会・政治系の評論家類の営為の対象となり得る、ヒト・人間の「性質」・「本性」にかかわっている。この<自然科学>の進展を、この人たちは、どれほどに知っているのか、知ろうとしているのか、ということだ。
 経済学部出身らしい池田信夫の言述を(好意的・積極的に)評価するのは、この人がこの分野にも強い関心を向けていると見られることだ。
 この欄に名を出したことはないが、雑誌・Newton の愛読者だという元々は文科系の大原浩にもたぶん上のことがあてはまる。
 また、福岡伸一(<動的平衡>というテーゼ)や茂木健一郎(少なくとも当初は<クオリア>への関心)は、人文社会系の学者・研究者や読者たちと交流?する意識を排除していない、と推察される。
 圧倒的多数の人文社会系学者・研究者や社会・政治系評論家類(自称「思想家」を含む)は、おそらく、人間の(覚醒・意識の成立を前提とする)「認識」が(究極的に)脳内作業であって、「文章」を書くことも全く同様であること(むろんメカニズム・システムは複雑多様だが)を意識していない、と推察される。「自分」は<物質>などとは無関係の、「独立の」、「個性ある」、たんなる生物ではない<知識人>だと考えている、のではないか。これは<右も左も、斜め右上も斜め左下も、中央手前も奥も>、変わりがない。
 そうであっても、学界・大学や情報産業界の一部で「生きて」いける。
 なお、上の講座(全集)の第5巻の表題は<心/脳の哲学>。
 ----
 上の講座(全集)は21世紀に入ってからのものだ。ソヴィエト連邦等の解体後であるとともに、今日までの10年間で、「脳科学」・「神経生物学」等はさらに進展している可能性がある。
 では、一つ前の同様の企画ものである講座(全集)は、異なる編集委員によってどういう「まえがき」を書いていただろうか。
 新・岩波講座/哲学〔全16巻〕は1985-1986年に刊行されている。上よりも20年ほど前だ。このとき、まだソヴィエト連邦等が存在した。
 各巻に共通する編集委員「まえがき」を一瞥すると、つぎのことが興味深い。
 第一に、「哲学の終焉」の危機感などは全く感じさせないような叙述をしている。つぎのとおりだ。
 「学問分野としての哲学は、明治期以降一世紀あまりの歴史をふまえて、研究者の層が厚い。また、前回…が出版された後、研究動向の多彩な展開がみられると共に若いすぐれた担い手たちも育っている。」
 ほぼ20年後の上述の講座(全集)とは、相当に異なっていることが分かる。
 しかし、第二に、つぎのような叙述が冒頭にあることは注目されてよいだろう。一文ごとに改行する。
 「…今日、私たち人類はこれまで経験したことのない状況に直面している。
 エレクトロニクスや分子生物学に代表される科学・技術の発達が人間の生存条件を一片させつつある。
 と同時に、文化人類学、精神医学、動物行動学の成果からも、人間とはなにかということ自体が改めて問い直されるに至っている。」
 30年前すでに、「文化人類学、精神医学、動物行動学」の成果を参照しなければならないことが(たぶん)意識されてはいたのだ。
 なお、この講座(全集)の第6巻の表題は<物質・生命・人間>、第9巻のそれは<身体・感覚・精神>。
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 この講座(全集)類の発行は日本の「哲学学界」または「哲学学・学界」を挙げての一大行事だっただろう。そしてまた、「まえがき」は時代と「編集委員」の意識を反映している。
 もっとも、学界所属者たちがいかほどに「まえがき」記述と同じ意識・認識だったかは疑わしい。
 また、「哲学」学界は略称<純哲>とも言うらしいのだが、<法哲学>、<社会哲学>、<経済哲学>?等々の学界と共通する意識・認識だったとは言えないだろう(但し、2008年ものの編集委員の一人は「法哲学」の井上達夫)。純粋の「哲学」の方が「こころ」・「精神」そのものに最も関係するかもしれない。
 なお、少し元に戻ると、あえての推測なのだが、1985-86年時点では、公式に?表明するか否かはともかく、日本ではなおも「マルクス主義哲学」の立場に立つ哲学・学者・研究者は多かったのではないか。その影響は、今日の比ではおそらくなかっただろう。
 この点は、1985-86年とソ連解体と日本共産党や「マルクス主義」の動揺のあとの2008-09年の、無視できない、学界を包む雰囲気の違いだろう。

2034/池田信夫のブログ014-A・R・ダマシオ②。

 池田信夫は、2011年7月3日付アゴラ「合理的意思決定の限界」でもダマシオに触れている。以下のごとし。
 「ダマシオの二元論を引用して」原発稼働に関する経済学・経済政策論を正当化する論があるが、「合理性」は「アジェンダが与えられたとき計算するアルゴリズム」を示すだけで、アジェンダ設定の「メタレベルの感情」と対立しない。「むしろダマシオもいうように、感情がなければアジェンダを設定できないから、感情は理性の機能する条件なのだ」。
 さてさて。
 ----
 アントニオ・R・ダマシオ/田中三彦訳・デカルトの誤り-情動・理性・人間の脳(ちくま学芸文庫、新訳2010・原版2000/原新版2005・原著1994)。
 「感情」・「情動」・「理性」・「推論」・「合理(性)」等の、もともとの英語は何なのか。
 上の原新版(2005年)のkindle 版を所持している。
 邦訳書の「新版へのまえがき」(原書ではPraface)と「序文」(同、Introduction)だけを原書と照合して、もともとの英語を確認しておきたい。邦訳文庫版は、p.11-p.31.
 関心と知識のある「理科系」の人は知っていて当然かもしれないが、ど素人の「文科系」人間にはそういうわけにはいかない。
 田中三彦の訳は(語・概念の訳が少なくとも一定・一貫しているという意味で)信頼できるものとする。
 内容、ダマシオの見解・主張には立ち入らない。専門用語的ではないものも含む。また、関係学問分野での定訳なのか否かについても、複数の原書(英語)を確認しないと明確には判別できないことなので、立ち入らないことにする。
 その意味で以下は、田中三彦の訳語に対応する、ダマシオが用いている英語だ。
 原題は、Antonio Damasio, Descartes’ Error: Emotion, Reason and the Human Brain。これですでに、「情動」と「理性」の対応語は分かる。
 ***
 「情動」=emotion、「感情」=feeling 。「情動システム」=emotional system。
 「直観」=intuition、「直観的感情」=gut feeling。
 「理性」=reason、「推論」=reasoning。「推論システム」=reasoning system。
 「合理性」=rationality、「合理的行動」=rational behavior、「合理性障害」=impaired rationality。
 「認知」=cognition、「認知的プロセス」=cognitive process、「認知的情報」=cognitive information、「社会的な認知や行動」=social cognition and behavior。「認知的、神経的」=cognitive and neural。
 「知覚」=perception。「思考様式」=thinking mode。
 「心」=mind。「意識的、意図的に」=mindfully and willfully、「心的かつ神経的」=mental and neural、「心的機能」=mental function。
 「身体」=body、「肉体」=flesh。
 「人間的な精神とか魂」=human soul or spirit。
 「適応」=adaptation。「意思決定」=decision making、「意思決定空間」=decision-making space。
 「脳損傷」=brain damage、「脳回路」=brain circuitry、「脳中枢」=brain center、「脳のある部位」=a brain lesion、「辺縁系」=limbic system。
 「前頭葉」=frontal lobe、「前頭葉患者」=frontal patient。
 「前頭葉皮質」=prefrontal cortices、「前頭前皮質」=brain's prefrontal cortices、「視床下部」=hypothalamus、「脳幹」=brain stem。「末梢神経系」=peripheral nervous system。
 「内分泌、免疫、自律神経的要素」=endocrine, immune, and autonomic neural components。
 「神経症患者」=neurological patient、「神経的疾患」=neurological disease。
 「神経科学」=neuroscience、「神経生物学」=neurobiology、「生理学」=physiology、「神経生理学」=neurophysiology。「生物化学」=biochemy。
 「神経組織」=neural edifice、「神経的基盤」=neural substrate。
 「生体調節」=biological regulation、「生物学的習性」=biological disposition。
 「若年発症型」=early-onset、「成人発症型」=adult-onset、「発育期」=formative years。「臨床的、実験的」=clinical and experimental。 
 「人文科学」=humanities。
 ***
 翻訳というのはむつかしい。例えばつぎは、どう訳すのが最適なのだろうか。
 <the neural process that we experience as the mind>→「我々が経験する『心』に対する神経的プロセス」。p.27.
 訳すことができても、「理解」するのが(私には)困難な表現もある。あくまで例として、以下。
 ①「絶対的な外界の実在」=absolute external reality。
 ②「主観の感覚」=sense of subjectivity。
 ③「統合された有機体」=integrated organism。

2019/茂木健一郎・生命と偶有性(2010年)。

 L・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(英訳書1978年、独訳書1977-79年)は、全体に関するPreface、第一巻(・創生者たち)のIntroduction に続いて、第一章(・弁証法の起源)の、見出しのない序説らしきものの後の第一節(数字つき大段落)の見出しを「人間存在の偶然性(contingency of human existence, Zufälligkeit des menschlichen Daseins)」としていた。
 <マルクス主義の歴史>に関する長い叙述の本文を、人間の、又は人間にとっての<偶然性と必然性>という主題から開始していたわけだ。
 ちなみに、その最初の段落の文章は、つぎのとおりだった。合冊版、p.12.
 「存在全体を知的に包括的に把握するのは哲学にとっての宿願だったし、現在でもそうだが、それを原初的に刺激したのは、人間の不完全さ(imperfection, 弱さ: Hinfälligkeit)に関する知覚だった。
 哲学的思考を刺激して作動させたこの人間の不完全さという感覚、および全体を理解することで人間の不完全さを克服しようとする意志のいずれをも、哲学は神話の世界から受け継いだ。」
 ---
 茂木健一郎・生命と偶有性(新潮選書、2015年/原書2010年)。
 この書の「目次」をそのまま書き写すと、以下のとおり。
 **
 まえがき
 第一章/偶有性の自然誌
 第二章/何も死ぬことはない
 第三章/新しき人
 第四章/偶有性の運動学
 第五章/バブル賛歌
 第六章/サンタクロース再び
 第七章/かくも長い孤独
 第八章/遊びの至上
 第九章/スピノザの神学
 第十章/無私を得る道
 あとがき
 **
 茂木健一郎とは「脳科学者」として知られる人物だが(1962~)、この書の構成・見出しだけからしても、「生命と偶有性」をタイトルとするこの書は「哲学書」でもあるのではないか。
 「まえがき」の中にはこんな一文がある。
 偶有性とはまた、「現在置かれている状況に、何の必然性もないということ」だ。「たまたま、このような姿をして、このような素質をもち、このような両親のもとに生まれてきた。他のどの時代の、どの国で生まれても良かったはずなのに、偶然に現代の日本に生まれた」。
 「そのような『偶有的』な存在として、私たちはこの世に投げ出されている」。
 わざわざ引用するほどの珍しい感覚または認識では全くないだろうが、上のようなことを忘れてしまって、当面・直面する、とりあえずの<自分の役割>を果たそうとするだけに終始している人々も多いだろう。
 また、自分がヒト・人間であり、「偶有性」があることも完全に忘却して、当面・直面する<文字のつながる文章作成>作業、つまりは「言葉」世界での加工業にいそしんでいる、とりわけ<文学>畑の評論家類もいるに違いない。 
 やや唐突だろうが、「論壇」人であり、あるいは思想家・哲学者であるためには、「論ずる」こと、思考することも<脳内作業>であること、各人の神経細胞(ニューロン)の連続的「発火」作業であることを、深いレベルで知覚しておく必要があると思われる。
 ----
 L・コワコフスキに戻ると、この人はときどき<人間のMisery>という句を用いている。
 勝手な読み方だが、このMisery=悲惨さ、というのは、特定の地域・時代でヒト・人間として生まれることは「偶然」であり、いつか「必然」的に「死」があること、そしてそれまで生きて「意識」をもち続ける間は<食って>、脳・心臓等々を動かしていかざるを得ないこと、といった意味を含んでいるのではないか、と思われる。
 ちなみに、上の「目次」の中にある「スピノザ」は、L・コワコフスキの最初の研究論文(・研究書)の対象人物だった。
 精神医学者(精神病理学者)と「哲学」研究者の対談が成立していることは、この欄の№1856(2018年10月14日)の精神医学者かつ「臨床哲学」者・木村敏に関する項で言及している。

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  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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