佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)には、この欄の1/29に「自由主義・『個人』主義-佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社)から・たぶんその1 」と題して、p.57-60あたりに言及した。その後、佐伯・自由と民主主義をもうやめる(幻冬舎新書、2008)へと回ったので、間隔が空いたが、「その2」を続けてみよう。
 1 ・「通俗的リベラリズム、すなわち抽象的な個人、本来何物にも拘束されない個人から出発すると、国家はもっぱら個人の自由の対立物と見なされる」。だが、個人が「伝統負荷的」だとは「国家負荷的」でもあるということだ。国家の解体・衰弱は「個人」も空中分解させる(p.61)。
 ・80年代以降の「個人」と「国家」の矛盾を「やり繰り」するためには、「何物にも拘束されない個人の自由」から「話を始めることをやめなければならない」。かかる「近代主義から決別しなければならない」(p.65)。
 論点は異なるが、もともと「国家」とは「個人」を含む概念かどうかという問題がある。両者を対峙させ、後者の前者からの「自由」、前者の後者(の生命・財産)を「保護する責任」を説くという用法もかなり広く見られる。だが、もともと、主権・領土・国民という三要素を持つとされる「国家」の場合は、その一部・一要素として「国民」を含み込んでいる。とくに社会系学問分野において、この「国家」概念自体が明確にされて議論されているのかどうか。場合によっては、「国家」と「統治(政治)権力」とはきちんと区別して論じる必要がある。但し、主権は「国民」にあるとし、「統治(政治)権力」者は最終的には「国民」だと説明し始めると、またややこしくなる。とすると、「…権力」はやめて、国家と区別される「統治機構(担当者)」と語るべきか。簡単には「政府」という言葉も使われている。だが、この「政府」概念は、<地方政府>=地方自治体を含みがたいという難点があると思われる。そもそも現在の地方自治体は<(地方)政府>といえるほどの実体があるのか、という問題も含めて。だが、地方自治体も「統治機構(担当者)」ではあるだろう。
 2 ・冷戦終結以降の一般的認識はイデオロギー・思想の時代は終わったというもので、代わって「その場しのぎの現実主義」、ほぼその自動的結果としての「大衆迎合主義」が登場している。1993年以降の二つの連立政権(非自民細川・自社さ)も「依然として、慣れ合いと大衆迎合に基礎」をもつ、「大衆迎合的現実主義」の産物で、「五五年体制から一歩も出ていない」(p.66-67)。
 ・「生活者重視」たるキーワードは、元来は「経済的自由主義」・「消費者主権」という陳腐な、だが「決して自明なものとして流通」できない概念の言い換えなのだろう。だが、「生活者」との語によって、「経済的自由主義」・「消費者主権」概念の問題・「まやかし」が隠蔽されている。「場当たり的現実主義」が、「思想的課題」を排除している(p.68)。
 ・政治家のみならず、「おおかたの」学者・ジャーナリスト等の「知識人」も「確かな見通し」をもてない。自国(国益)中心の経済的枠組みを作る必要があるのに「経済的自由主義」を、「民族主義」の噴出にかかわらず「グローバルなデモクラシー」を、建前とせざるをえない、という「思想的混乱」が現出している(p.70)。
 この本は1996年刊なのだが、上のような諸指摘は2009年の日本についても、なおそのまま妥当しているのではないか。