秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

第10回党大会

2770/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑧。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017)の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一節④
 (20) 内戦の終了とともにソヴィエトの経済と社会に生じていたのは、より大きな厄災の状況だった。
 歴史家たちは、この原因は長年の戦争と社会的転覆—深い根源をもつ厄災の継続(38)—のうちにより多くあるのか、それとも、ソヴィエトの政策の特有の効果であるのか、を議論している。
 しかし、大厄災たる結果だったことについては一致がある。破滅した経済、都市部の人口減少、大量の国外逃亡という危機、農民の反乱、ストライキ、そして共産主義者の中にすらある公然たる不満。
 1921年までに、工業生産高は戦争前の20パーセントへと落ちた。
 『プロレタリアート独裁』としてソヴェト支配の基盤だと想定されていた労働者たちは、荒廃して飢えた都市から逃亡するか、兵士または行政官になった。そうして、労働者階級の規模は、戦争前の半分以下にまで縮小した。
 マルクス主義者の言うプロレタリアートの『脱階級化』は、革命の厄介で逆説的な効果だった。労働者階級出身で『労働者反対派』の指導者だったAlexander Shliapnikov が1922年の党大会でLenin をこう冷笑したように。
『存在しない階級の前衛となって、おめでとう』(39)。
 農民たちは耕作する土地で、彼ら自身が生きていくのに必要な生産しかしなくなった。
 しかし、彼ら自身の生存すら、干魃が広い地域を飢餓の縁に追い込んだときには、脅かされた。その飢饉は、1921〜22年に、大規模で襲うことになった。
 これの頂点にあるのは、疾患と病気の蔓延だった(ある歴史家の言葉では『近代史における最も過酷な公衆の健康の危機』)。また、数百万の子どもたちにとってを含む住宅欠如、都市部での暴力犯罪、地方での山賊、大量の泥酔者、生き残ろうとする、道徳意識なき民衆による放蕩しての悪態その他の、想像し得る全ての態様等々。
 Lenin が1921年3月の党大会で、ロシアは『打ちのめされて死に際にあった男のように、7年の戦争の中から出現してきた』と語ったとき、彼は強調しすぎてはいない。
 あるいは、若干の歴史家が論じてきたように、ロシアは『トラウマ』の状態で、内戦を終えた(43)。
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 (21) 民衆の反乱は、損傷を受けた革命およびトラウマとなった革命という感覚を増大させた。
 農民がもう白軍の勝利を怖れなくなったあとでは、ボルシェヴィキは、よりマシな悪魔ではなくなった。
 農民たちは穀物徴発隊を待ち伏せして襲い、国家の権威の代理人たちを攻撃した。
 1920年の遅くに、西部シベリア、中部Volga、Tambov 地方、およびウクライナで、大量の蜂起が勃発した。
 どこにでも見られた主要な要求は、同じだった。すなわち、穀物の強制取得〔徴発〕の廃止、自由取引の復活、そして農民に耕作地と生産物に対する完全な支配権を付与すること。
 このリバタリアンな考えは、農民が革命で自らの手によって獲得したと思ったものだった。
 いくつかの農民集団は、憲法会議の再招集を主張した。
 都市労働者の騒擾はさほどに拡散しなかったが、政治的にはより不安定だった。
 1921年の初め、抗議集会、示威行動、ストライキが散発して起きた。
 労働者たちの要求は主として肉体的生存の問題に関係していて、とくに食糧と衣類を要求した。
 しかし、経済的な欲求不満は、かつてと同様に、政治的不満を惹き起こした。
 労働者たちは、市民権の回復、工場の実力強制的経営の廃止を要求した。憲法会議を呼びかける者もいた。
 1921年3月、ペテログラードに近い島にあるKronstadt 海軍基地で反乱が起きた。
 Kronstadt の海兵たちは1917年の七月事件—Trotsky は当時に『ロシア革命の誇りと栄光』と賞賛した—と十月の権力奪取の際にボルシェヴィキを支援したことで有名だったが、今や、一党支配の終焉、言論とプレスの自由の回復、憲法会議の招集、全権力の自由に選出されたソヴェトへの移行、穀物徴発を含む経済の国家統制の廃止、を要求した。
 『人民委員体制はくたばれ』は、海兵と労働者たちのあいだの一般的なスローガンになった。
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 (22) この危機を複雑にしたのは、共産主義者たちの中にあった不満だった。彼らは、革命の中核的諸原理は生き延びるために犠牲にされた、と感じていた。
 不満をもつ党派は、以前にも発生していた。
 1918年、『左翼共産主義者』は、世界革命に対する裏切りだとして、ブレスト=リトフスク条約に反対した。また、労働者支配の侵奪だとして、工業への厳格な労働紀律の導入を批判した。
 1919年、『軍事反対派』は、新赤軍は伝統的紀律を採用し、帝制下の将校たちを用いるとのTrotsky の構想を非難した。
 しかしながら、内戦が終わると、党の政策に対する内部批判はより公然たる、かつより激烈なものになった。もはや勝利することはなかったけれども。
 『民主主義的中央派』は、党の権威主義的中央集権化や官僚主義化の増大に異論を唱え、諸問題の自由な討議と地方党官僚の選挙を要求した。
 『労働者反対派』は、工業での伝統的紀律、経営への『ブルジョア専門家』の利用、労働組合の国家への従属に反対した(44)。
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 (23) 1921年の春は、転換点だった。
 異論は鎮静化され、粉砕された。
 3月に開かれた第10回党大会は、党内の分派を禁止した。その結果、いかなる組織勢力の周りにも、共産主義者のあいだでの批判が合流することができなくなった。
 しかし、党内部での反対派の抑圧は、農民の蜂起、労働者のストライキ、あるいはKronstadt を粉砕するために使われた暴力に比べれば、温和だった。
 Lenin 、Trotsky その他の党指導者たちは、これを正当化した。おそらくは彼ら自身に対するものであっても。彼らは、自分たちが歴史の正しい側にいると確信していたのだから。
 同時に、こうした妥協は必要であるように見えた。多くの異論に直面したから、というだけではない。経済的には後進国であるロシアが経済的諸問題を解決し、社会主義への途を急速に進むために国際主義的な支援が必要であるところ、そのような支援を提供すると想定された、世界全体の社会主義革命が『遅れ』ていたからだ。
 1921年、『戦時共産主義』の残虐性と英雄主義は、宥和的で穏健な『新経済政策』あるいはNEP の導入によって放棄された。
 多くは、変わらなかった。
 共産党による国家の統制権は無傷で残ったままだった(他政党の公式の禁止によって強化された)。そして、党内紀律も強化された(分派の禁止等々)。
 経済については、『管制高地』の完全な支配権は国家が維持した。銀行、大中の産業、輸送、外国貿易、商業全体。
 しかし、小規模の企業、小売取引は、規制を受けつつも、再び許容された。
 そして、非難された穀物や生産物の徴発に代わって、政府は『現物税』を導入し、これをさらに現金税に変えた。
 Lenin は、NEPが社会主義への途上での『後退』であることを認めた。より急進的な者たちは耐え難いものと考えた。
 しかし、おそらくはLenin を含む多数のボルシェヴィキは、遅れた農業国家にはふさわしい、社会主義への新しい途だとNEPについて考え始めた。
 1920年代に、党内でつぎの二つの議論が激しく行なわれた。一つに、民衆の文化的、経済的レベルを向上させ、社会主義的協同の利益を民衆に理解させる、緩やかな社会主義への移行の主張、二つに、戦時共産主義の英雄的急進主義の復活であっても、より戦闘的な行進の強行の主張。
 この議論はようやく、1920年代末に、Stalin による『大転換』によって決着がついた。複雑さと妥協の中で突き進み、新しい経済、社会、文化へと跳躍しようとする、『上からの革命』。
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 第四章第一節、終わり。

2388/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第1節③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 この書に邦訳書はない。試訳のつづき。一文ずつ改行し、段落の区切りに//と原書にはない数字番号を付す。
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 第15章・勝利の中の敗北。
 第一章・共産主義への近道③。
 (14-02)農民たちの小規模農地では市場用のものはほとんど作られず、消費用の物品がなくて食料の余剰は全て国家が持っていくという状況では、彼らの農地はぎりぎりの生存のための生産と村落と国との連結のための役割へと落ち込んだ。
 ボルシェヴィキは農民と取引をする物品をもたず、「穀物のための闘い」で冷厳な実力を行使した。武装部隊を派遣して農民たちの食糧を奪い取り、国じゅうの農民反乱を蹴散らした。
 これは、もう一つの隠れた内戦だった。
 ボルシェヴィキは、注意深く、自分たちの土地布令が神聖化した農民の小規模農地所有制度について口先だけの賛意を示したけれども—これは結局は、白軍との内戦で多数の農民の支持を獲得した理由だった—、ソヴィエトの農業の将来は、国家のために直接に生産する巨大な集団農場とソヴィエト農場—<コルホーズ,kolkhozy>と<ソホーズ,sovkhozy>—だ、と考えていた。
 厄介な農民たち—小所有者たる本能、迷信、伝統への執着をもつ—は、これらの社会主義的農場によって廃棄されるだろう。自分たちのために働く全ての農民は、<コルホーズ>または<ソホーズ>の「労働者」へと再配置されるだろう。
 Miliutin は、穀物、肉、ミルク、飼料を生産する農業工場を夢見ていた。それは、社会主義秩序を小規模農場への経済的な依存から解放するだろう。//
 (15)ここでもまた、ボルシェヴィキは、布令によって社会主義を創出することができるという夢想(utopianism)に囚われていた。
 ロシアの農民たちは元来、用心深かった。
 近代的技術と集団的労働チームによる大規模農場は本当に彼らの利益iなるので父親や祖父が維持してきた伝統—家族農業、共同体と村落—と訣別する十分な理由になる、と農民たちを説得するには、農学上の証拠にもとづく穏やかな教育をして、数十年を要しただろう。
 だが、1919年2月、ボルシェヴィキは、社会主義的土地機構に関する法令を採択した。これは一挙に、全ての農民農業は「旧式だ」と宣告した。
 大地主が所有するが耕作されていない全ての土地は、これによって新しい集団農地に変わった。このことは、大地主の資産は革命の貴重な獲得物だという主張を知っていた農民たちを大いに戸惑わせた。  
 1920年までに、1万6000箇所以上の集団農場および国営農場があり、合計でほとんど数千万エイカーの土地の広さがあり、数百万の被用者(多くは移住した都市住民だった)がそこで働いていた。
 国家が設置した最大の国営農場(<sovkhozy>)は、10万エイカー以上の広さがあった。一方、地方農民の協同組合が設置した多様な集団農場(<kolkhozy>)のうちの最小のものは、50エイカー以下だった。//
 (16)大きな集団農場の多くは、実験的な共産主義的生活様式の縮図だった。
 複数の家族が所有物を提供し合い、宿舎で一緒に生活した。
 女性たちは男性たちと並んで重い農業仕事を行い、ときには子どもたちのために託児所が設置された。
 宗教的慣行は存在しなくなった。
 この本質的には都市的生活様式は、工場での在来の組合組織をモデルにしたもので、地方の農民たちには相当に馴染みのないものだった。彼らは集団農場では土地や用具だけではなく妻や娘たちも共有されている、と考えた。全員が一緒に、巨大な毛布の中で寝ていたのだ。//
 (17)農民たちにとって醜聞ですらあったのは、集団農場のほとんどは農業について何も知らない人々によって運営されている、ということだった。
 国営農場は、大部分は都市部から逃亡した失業労働者で構成された。
 一方、集団農場は、土地を所有しない労働者、地方の職人たち、および、
不運にも飲み過ぎて、あるいはたんなる怠惰で自分の農場をうまく経営できなかった、最も貧しい農民たちで成っていた。
 農民集会では、集団農場の拙劣な運営に関する不満が圧倒的に述べられた。
 タンボフ地方の農民たちは、「彼らは土地を手にしたが、農業の仕方を知らない」と不服を発言した。
 ボルシェヴィキですら、集団農場は「個人の農民たちから投げかけられる批判に耐えることのできない、怠け者の避難場所」になっていていることを、やむなく認めざるを得なかった。
 食料の徴発を免れ、用具や家畜について国家の寛大な譲渡があったにもかかわらず、きわめて僅かの集団農場しか利益を挙げられず、多くの集団農場は損失を計上した。
 全収入のうち集団農場自体が生んだものは3分の1未満で、残りは主に国家が与えていた。
 いくつかの集団農場は、経営状態がひどいために、その農場での労働義務を地方農民に課すという徴用をしなければならなかった。
 農民たちはこれを新しい形態の農奴制と見なし、集団農場に反抗して闘いを挑んだ。
 それらの半分は、1921年の農民戦争により鎮圧された。//
 (18)こうした共産主義の実験に反抗したのは、農民層だけではなかった。
 工業分野でも、軍事化政策は労働者のストライキ、抗議運動、懈怠による消極的抵抗を増加させた。
 紀律を強化すべく意図された政策は、いっそうの不紀律(indiscipline)を生んだだけだった。
 ロシアの全工場の4分の3が、1920年の前半6ヶ月の間に、ストライキに見舞われた。
 逮捕と処刑の脅かしにもかかわらず、全国の都市労働者たちは、抗議しながら行進し、こう呼号した。「人民委員よ、くたばれ!」
 一般にあった感覚は、内戦終結から長く経つが、ボルシェヴィキは労働者階級に対する戦争類似の政策を維持している、というものだった。
 まるで全産業システムが永遠の国家緊急事態の罠に嵌まったかのごとくだった。平時ですら戦時体制にあり、この状態が労働者階級を搾取し、弾圧するために用いられていた。//
 (19)トロツキーの政策は、党内でも、党員各層からの反対に遭遇していた。
 トロツキーは、鉄道の混乱の原因だとして非難する鉄道労働組合を破壊して、国家機構に従属する総運送労働組合(Tsektran)に変えようとした。その高圧的なやり方は、ボルシェヴィキの労働組合指導者たちを激怒させた。彼らは、トロツキーの政策は労働組合の自立の全権利を剥奪する作戦の一環だと見た。
 労働組合の役割に関する論争が、1919年の初めから巻き起こった。
 その年の党の基本方針は、労働組合は直接に産業経済を管理すべきであるという理想を設定した。—しかしこれは、労働者階級がそのための教育を受けていてのみ可能だった。従って、そのときまでは、労働組合の役割は仕事場での労働者の教育と紀律に制限されるべきだ、との見解があった。
 独任者による経営への趨勢が継続するにつれて、多数派へと増加していた労働組合指導者たちは、労働組合による直接の経営という約束は遠い将来へと先延ばしされるのではないかと懸念するようになった。
 彼らは、1920年1月の第3回労働組合大会で、独任制経営の原理を課そうとする党指導者たちの努力を何とか打ち負かした。
 同年4月の第9回党大会で、彼らは党指導部と妥協して、その原理を受け容れる代わりに、経営者の一部として自分たちを任用するよう提案した。//
 (20)—労働組合と党・国家の間の—微妙な均衡は、1920年夏にトロツキーが提示した、運送労働組合を国家官僚機構の一端とするという案によって、ひっくり返った。
 労働組合の自治という原理全体が、今や危うくなっていた。
 労働組合指導者たちだけがトロツキーに反対したのではなかった。
 党の指導層自体の多くが、労働組合側を支持した。
 トロツキーの個人的対抗者のジノヴィエフは、「労働者を整列させる警察的やり方」だとトロツキーの案を非難した。
 Shlianikov は、1月にKollontaiが加わったが、労働組合の権利を防衛するためにいわゆる労働者反対派を結成した。そして、より一般的に言えば、労働者階級の「自発的な自己創造性」を抑圧すると彼らが言う「官僚主義」の蔓延に抵抗した。
 労働者反対派への労働組合、とくに金属労働者、の支持は拡大した。労働組合の間には、階級的連帯の感情—労働者による統制という理想と「ブルジョア専門家」に対する嫌悪の両者で表現されていた—が、最も強く根づいていた。
 彼らは、工場管理者や官僚層に対する嫌悪の声をますます大きくし、それらは「新しい支配階級」、「新しいブルジョアジー」だと非難した。
 こうした感情の多くは、党の別の主要な反対派、すなわち民主主義的中央派によっても表明された。
 ほとんどは知識人のボルシェヴィキであるこのグループは、党の官僚主義的中央主義と、直接に労働者が支配する機関としてのソヴェトの解体に、反対していた。
 彼らの基盤が最も強かったモスクワのより急進的な党員の中には、地方行政での<グラスノスチ、glasnost>、公開性を促進するために、地区の党執行部を党員各層一般に開放すらする者もいた。
 この者たちが、最初にこの言葉〔glasnost〕を用いた。//
 (21)これら二つの異論派的論議—労働組合と党・国家に関する—は、1920年の秋の間に一般的な危機へと融合し、かつ発展していった。
 9月の臨時党大会で、二つの反対党派は結びついて、民主主義と<glasnost>の促進を意図する一連の決議を通過させた。すなわち、全ての党会合は党員各層に公開されるものとする。下級党機関は上級機関の官僚の任用につきより多くのことを発言できるものとする。上級機関は党員各層に対する説明責任を負うものとする。
 反対党派はこの勝利に勇気づけられて、労働組合をめぐる闘いの準備をした。
 11月の第5回労働組合大会で、トロツキーは、全ての労働組合役員は国家によって任命されると提案することによって、戦いに挑んだ。
 これは、党内に激しい対立を発生させた。トロツキーは、即時の、かつ必要ならば強制的な労働組合の国家機構との融合を強く主張し、反対党派は必死になって、労働組合の自立性のために闘った。
 レーニンは、トロツキーの目標を支持した。しかし、痛手となる体制内部の分裂を回避するために、より高圧的ではない実行手段を擁護した。
 レーニンは警告した。「労働組合問題で党が争論するならば、それは確実にソヴィエト権力に終止符を打つだろう」。
 党中央委員会は、見込みもなく、この問題で分裂した。そして、つづく3ヶ月の間、党のプレス内での対立は激しくなり、各党派は、つぎの3月の第10回党大会で確実に起きるだろう決定的な闘いに備えて、支持をかき集めようとした。(*13)
 政権は明らかに危機に陥っており、国じゅうが反乱の暴動とストライキに巻き込まれていた。そのため、ロシアは、新しい革命の瀬戸際にあった。//
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 ③および第15章第1節、終わり。

2240/L.Engelstein・Russia in Flames(2018)第6部第2章第4節・第5節①。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 上の著の一部の試訳のつづき。
 第6部・勝利と後退。
 第2章・革命は自分に向かう。
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 第4節。
 (1)クロンシュタットの海兵たちは、全ての意味での聖像(icon)だった。
 ボルシェヴィキは、バルト艦隊の海兵たちを、革命の初期に果たした役割のゆえに褒めそやした。
 1921年反乱のパルチザンたちは、抑圧の新しい形態に反対する暴徒たちを称揚し、彼らを自由を愛する「アナキスト」、民衆の解放のための闘士だと叙述した。
 ヴィルナ(Vilna)〔リトアニアの都市〕出身のアメリカのアナキスト、A・バークマン(Alexander Berkman)は、その当時、ロシアに住んでいた。彼は事件の一年後に、こう書いた。
 「クロンシュタットは陥落した。
 だが、その理想主義と道徳的純粋さでは、勝った。その寛容さとと高い人間性において。
 クロンシュタットは、立派だった。…。
 素朴な、洗練されていない海兵たちは、振る舞いと言説は粗野だったが、あまりに高貴すぎて、ボルシェヴィキによる復讐の見せしめとして屈従することはできなかった。彼らは、嫌われた人民委員ですら射殺しようとはしなかった。」
 バークマンは、つづける。
 「ボルシェヴィキの勝利は、それ自体の中に敗北を抱えていた。
 その勝利は、共産主義者独裁の真の性格を暴露した。…。
 クロンシュタットはボルシェヴィキとその党の独裁に、狂った中央集権主義に、チェカのテロリズムと官僚主義階層制に、弔鐘を響かせた。
 クロンシュタットは、共産主義者〔共産党〕独裁のまさに心臓部分を突いた。」(67)//
 (2)バークマンの書いたのとは反対に、ボルシェヴィキは敗北しなかった。
 革命に対する脅威を、党を強化するために利用することができた。そして、本当の反対派は、そのときまでに衰退していた。
 社会革命党とメンシェヴィキは、革命を敗北させる「白軍将軍」コズロフスキと協力したと非難された。
 反乱は外国勢力によって使嗾され、財政援助された、と言われた。
 実際には、左翼に対する党の批判者の中の多数は、反乱に対抗して立ち上がるのは気が進まなかった。
 メンシェヴィキ指導者たちは、すでに記したように、労働者たちがその抵抗運動を増大するのを思いとどまらせた。
 アナキストのV・セルジ(Vivtor Serge )は、クロンシュタットは「人民民主主義のための新しい、解放する革命の始まり」だと考えた。しかし、それにもかかわらず、最後の瞬間には、「混乱と、その混乱を通じての農民蜂起と共産主義者の虐殺に、エミグレたちの帰還に」、「とどのつまりは純然たる実力行使による、別の独裁制、今度は反プロレタリアの独裁制が生まれる」ことに反対して、ボルシェヴィキ独裁を擁護した。(68)//
 (3)多くのエミグレたちは、旧体制に復帰する望みをなお捨てていなかった。
 何人かは、立憲主義を基礎にした権力の再構築をなお夢見ていた。
 1918年、カデットの一グループはモスクワで自分たちで国民センター(National Center)と称した団体を設立しており、今では多様なヨーロッパの都市にも根拠を置いていた。そして、1919年には、ユーデニチ(Iudenich)将軍への支援を提供した。
 この団体はクロンシュタットでの騒擾を歓迎し、食糧や武器のかたちでの支援を結集させようとした。
 この活動は、赤十字とフランスのそれに巻き込まれることとなった。
 ある程度の資金が集められたが、反乱者たちにはほとんど何も届かなかった。
 イギリスは当時はロシアとの商取引の交渉に追われていて、これには無反応だった。(69)//
 (4)要するに、反革命陰謀という咎を負わせるのは、あらゆる意味で間違っていた。
 コズロフスキ将軍は、片方の将校たちとは何の関係もなかった。
 反ボルシェヴィキのリベラル反対派は、かつてはユーデニチ(Iudenich)と同盟したが、今では外国に離散して、介入する力がなかった。
 メンシェヴィキは、国内でも外国でも、ソヴィエト体制に根本的な挑戦をすることに、一貫して反対し続けた。彼らはソヴィエト体制のうちに、社会主義の未来の最良の希望を依然として探し求めたのだった。//
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 第5節①。
 (1)1921年初頭、ソヴナルコムはこうして、かつて革命の中枢的基盤-産業プロレタリアートと急進的クロンシュタット海兵-と称したものによる戦闘的な反対に直面した。
 対照的に、農民たちはつねに、懐疑的に「ブルジョア」だと考えられてきた。
 クロンシュタット反乱者が弾圧され、示威的に報復的な制裁を受けると、今度はついに、農村地帯を統制下に置くときがやって来た。
 農民たちはぎこちなくマルクス主義の教条に適合していたけれども、彼らもまた、より良き生活に憧れ、新しい種類の自由としての革命を夢見た。19世紀の人民主義者(Populists)やそれを継承した社会革命党が理解したような革命を。
 飢えは彼らの憤激の唯一の根源ではなかった。
 農民たちは、新しい権力が課す要求と、彼らに向けられる暴力に憤慨した。
 タンボフ(Tambov)地方で長引いている暴動に関係して、ボルシェヴィキの最後の戦闘の残虐さは、誰が目標を定める者で、誰が主人であるかを、明確に示そうとする気概によっていた。
 ボルシェヴィキのタンボフ作戦は反暴動の運動であり、究極的には征服(conquest)と言ってよい行為だった。//
 (2)1921年春、クロンシュタット兵が鎮圧されて第10回党大会が新経済政策を開始した後でも、農村地帯はまだ沈静化していなかった。
 V・アントノフ-オフセエンコ(Vladimir Antonov-Ovseenko)はA・アントーノフの反乱の残滓を絶滅させる権能をモスクワに付与された特別全権委員会の長をしていたが、軍事増援を求めた。
 彼は訴えた。「強盗分子たちが戻ってきて、我々に忠実な農民たちの制裁を始めた」。
 赤軍が撤退すればいつでも、「強盗たちがもう一度やって来て、状況を支配する主人面をしている」。(70)
 党はタンボフを、スター司令官のミハイル・トゥハチェフスキに委ねた。トゥハチェフスキは、最も信頼できる赤軍の大分隊、自動車部隊、偵察用航空機、および軍団を指揮するための1000人の政治委員とともに、5月6日にタンボフに到着した。(71)
 この戦闘でトゥハチェフスキが強く主張したのは、固有の軍隊を制御する制約は-表面的にすにら-存在していない、ということだった。(72)
 反乱者アントーノフはせいぜいのところ、パルチザン-非正規兵-として扱われることとされた。
 最悪の言い方をすると、「強盗」、無法者、犯罪者だった。
 活動中のある点で、森の中に潜んでいる反乱者たちに対して毒ガスを用いる権限すら、トゥハチェフスキに与えられた。
 毒ガスが実際に用いられたかどうかは、明瞭ではない。しかし、毒ガスの脅威は、威嚇の手段として公表された。(73)//
 (3)しかしながら、戦場でアントーノフを敗北させるだけでは十分でなかった。
 トゥハチェフスキは、こう警告した。「盗賊団という病気蔓延から地方住民を守って治癒するには、熟達した手段を用いなければならない」。(74) 
 5月の一連の布告が、この手段がどのようなものであるかを明らかにした。(75)
 一ヶ月のち、指令171号は、農民世帯に深く入り込む戦争に着手した。それは、人質取りや集団責任という悪辣な実務を拡張し、社会的連帯を-家族的紐帯すらも-根こそぎ破壊し、いかなる形式的手続もなしで済ませるものだった。
 「1) 自分の名前を述べるのを拒否する市民は、裁判なくしてその場で射殺する。
 2) 武器が隠匿されている村落では、政治委員は人質を取り、武器が譲り渡されないときは人質を射殺する。
 3) 隠匿された武器が発見されたとき、家族中の最年配の労働者は、裁判なくしてその場で射殺される。
 4) 盗賊を匿う家庭では、全家族が拘束され、その地方から放逐され、資産は没収され、最年配労働者は裁判なくして射殺される。
 5) 盗賊の家族を匿う、または盗賊の資産を隠す農民世帯は、盗賊として扱われ、家族中の最年配労働者は、裁判なくしてその場で射殺される。
 6) 盗賊の家族が逃亡した場合、その資産はソヴェト権力に忠実な農民たちで分けられ、その家屋は焼却するか、解体する。
 7) この指令は、厳格かつ容赦なく適用される。」(76)
 実際に、そのとおりだった。(77)
 ある司令官は6月遅くに、「農民大衆を盗賊と非盗賊に分離する」技術に関して報告した。
 彼は村落に対して、犯罪者の存在を明らかにするために30分を猶予した。その後で、人質-男はむろんのこと女も-を、第三者の面前で射殺した。
 「この方法は、積極的な結果を生んだ」、と彼は報告した。(78)//
 (4)系統的な運動は、抵抗を鎮圧することのみならず、ソヴィエト諸制度を強化することも意図していた。
 地方チェカは数の上では、反乱の過程で少なくなっていた。しかし、アントノフ-オフセエンコは一掃と拘束を呼びかけた。
 A・アントーノフは、信頼することのできる農民世帯のリストを作っていた。
 チェカの工作員も今では、人質を取る誘導指針として、忠実な村民と疑わしい村民のリストをまとめた。
 パルチザン軍は、地方ソヴェトを破壊し始めていた。
 アントノフ-オフセエンコは、既存のソヴェトに代わって地方の党員たちで構成される「革命委員会」を設置した。彼らは、殺害されることを怖れて、都市部の比較的な安全さを捨てるのは気が進まなかったけれども。(79)
 (5)もちろん、農民にとって、作戦行動はつねに簡単に選択できるものではなかった。
 労働農民同盟は、共産党員の家族たちや赤軍に屈従している者たちに対して、復讐をした。
  一方で、チェカは仕事をしていて、同盟の表面部分の委員の跡をつけ、その指導者たちを捕獲し、同盟の村落での支持者の記録を残した。
 地方の司令官たちは人質を射殺することの有効性を正当化したけれども、7月までにモスクワの指導者は、村落でのテロル運動の心理的な影響に疑問を投げかけた。(80)
 ある者たちは、指令171号を廃棄することを望んだが、結局はアントノフ-オフセエンコとトゥハチェフスキは、アントーノフの軍隊の残りを多数殺戮したとして、褒め称えられた。(81)
 トゥハチェフスキ自身は、「強盗たち」への支援の淵源を根絶するのみならず、村落の「ソヴィエト化」(sovietization, sovetizatsiia)を達成するという困難な任務をもやり遂げたことを、誇った。(82)
 (6)しばらくの間は、沈静した状態が実際に続いた。
 7月に指令171号は公式には撤回されたけれども、その有効性は称賛され、「全ての厳格さをもって」一定の地域に適用され続けた。(83)
 人質を住まわせるために用いる強制収容所(この語はすでに述べたように戦争中にすでに流布していた)の数は、女性や子どもを含む収容者の数と同じく、増加し続けた。
 8月頃に、タンボフ地方での10の強制収容所は、1万3000人の収容者を住まわせていた。それらの中には、チェカまたは革命審判所によって「強盗」または「投機者」として有罪とされた者もいた。またもちろん、ポーランドの戦争捕虜、以前の義勇軍兵士たち、実際の犯罪者たち、クラク〔富農〕と想定された農民もいた。
 生活条件は、別に驚くほどのことではないが、きわめてひどかった(dreadful)。(84)
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 第5節②へとつづく。
ギャラリー
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  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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