Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
——
第一節・共産党の官僚主義化③。
(15) いつの間にか、新しい支配者たちは、古い支配者たちの習慣にのめり込んでいた。
Adolf Loffe はトロツキーに対して、腐敗の蔓延について不満を述べた。
「頂上から底まで、そして底から頂上まで、どこでも同じだ。
最下級のレベルでは、一足の靴か兵士のシャツ[gimnasterka]。
上になると、自動車、鉄道車両、ソヴナルコムの食堂、クレムリンや『国営』ホテルの部屋。
そしてこれらを全て利用できる最高の段階では、威厳であり、傑出した地位であり、名声だ。」(注32)
Loffe によると、「指導者たちは何でもすることができる」と考えることが心理的に受容されるようになっていた。
民衆の奉仕者のこのような貴族的習慣のどれ一つとして、マルクス主義は何の関係もなかった。だが、ロシアの政治的伝統とは大きな関係があった。//
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(16) 新体制のもとでの地方の行政官の鍵は、広くgubkomy として知られた、地方の(〈guberniia〉)党委員会の長だった。
ピョートル大帝以来、guberniia はロシアの基礎的な行政単位で、その長である知事は、広汎な執行と警察の権力を持ち、帝国の権威を代表していた。
ボルシェヴィキ体制は、この伝統に従った。つまり、gubkomy の書記局長が、事実上、帝制時代の知事の継承者になった。
ゆえに、この長を任命する権限は、相当の恩寵の淵源だった。
革命前には、ツァーリが内務大臣の推薦にもとづいて知事を任命していた。
今では、レーニンが、組織局と書記局の推薦にもとづいて知事を任命した。
1920年に設置された書記局内のUcharaspred(Uchetno-Raspredetil'nyi Otdel)と呼ばれる特別部署が、党人員を選抜し、配転させた。
1921年12月、gobkom 長に任命されるためには1917年10月以前に入党していなければならない、と定められた。
地区(〈uezd〉)の党委員会(〈ukomy〉)の書記局長は、最少限度3年間の党員履歴をもっていなければならなかった。
このような任命は全て、より上級の党機関によって承認される必要があった。(注33)
これらの条項は、紀律と正統性を守るのを助けたかもしれない。しかし、党の細胞から自分たち自身の職員を選出する権利を剥奪する、という対価を払ってのことだった。
当時はほとんど気づかれなかったけれども、これらの条項は、中央機関の権力を巨大なものにした。「組織局または書記局がもつ承認する権利は…、実際には、『推薦』や『指名』をする権利と同一になった」。(注34)
これら全てのことは、スターリンが1922年4月に書記長の職を掌握する以前に、起きていたことだった。//
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(17) こうした実務の結果として、地方での党の要職の任命は、ますます党員によってではなく、「中央」によって行われるようになった。
1922年のあいだに、37人の〈gubkom〉長が解任されるか配転され、42人が「推薦」にもとづき任命された。(*)
今や、帝制時代のように、忠誠心が、任用されるための最高の資格だった。中央委員会が配った回状「同志の党への忠誠について」では、これが役職に就くための第一の規準として挙げられていた。(注35)
1922年に、書記局と組織局は1万件以上の任用を行なった。(注36)
政治局は多くの仕事に忙殺されていたので、任用の多くは、書記長と組織局の裁量でなされた。
調査団がしばしば地方に派遣され、〈gubkomy〉の 実績について報告した。—帝制ロシアでの「是正」の模倣だった。
1921年3月の第10回大会で、〈gubkom〉長は三ヶ月毎にモスクワに来て、書記局に報告すべきものとされた。(注37)
書記局で仕事をしていたViacheslav Molotov は、彼らに任せれば〈gubkomy〉はほとんど自分たちの地方的案件にかかわり、national な党の問題を無視する、という論拠でもって、このような実務を正当化した。(注38)
こうして実際に、〈gubkomy〉は「モスクワの指令の運び手」に変わった。(注39)//
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(脚注*) Merle Fainsod, How Russia Is Ruled, revised ed. (1963), p.633, note 10.
1923年にE. A. Preobrazhenskii は、〈gubkom〉長の30パーセントは中央委員会によって「推薦」された、と語った。これを彼は「国家内部の国家だ」と称した。(Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), 1968,p.146.)
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(18) 書記局は、名目上は党の最高機関である党大会の代議員を選抜するという、追加の権限も獲得した。
1923年までに、代議員は〈gubkom〉長の推薦にもとづいて任命された。その〈gubkom〉長自身が、相当程度に書記局に任命された者たちだった。(注40)
この権限があることによって、書記局は、一般党員の反対を封じることができた。
かくして、いわゆる「労働者反対派」や「民主主義的中央派」が中央委員会を追及する辛辣な討論を行なった第10回党大会(1921年)で、代議員たちの85パーセントは、反対派を非難する中央委員会を支持した。利用できる証拠資料によって判断するならば、党員全体の気分をほとんど反映していない票決だった。(注41)
二年後の第12回党大会では、反対派は無力な辺縁部にまで減った。
その次の大会〔1924年〕では、もはや、反対それ自体が存在しなかった。//
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(19) かくして、共産党職員階層の中に、貴族制度が出現した。
権力奪取後5年後に採用された実務は、体制の初期からははるかに遠ざかっていた。当時は、党は党員たちに対して、平均的労働者よりも安い俸給を受け取れ、生活区画は一人あたり一部屋に限定せよ、と強く言っていたのだった。(注42)
これはまた、工場に雇用される共産党員に特権を与えず、むしろより重い義務を課す、という決まり事を捨て去ることも、意味していた。(注43)
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後注。
(32) Volkogonov, Trotskii, I, p.379-p.380.
(33) E. H. Carr, The Interregnum, 1923-1924 (1954), p.277n-278n: Odinadtsatyi S"ezd, p.555.
(34) Carr, Interregnum, p.278n.
(35) Pravda, NO. 64 (1921.3.25), p.1.
(36) Fainsod, How Russia Is Ruled, p.182.
(37) Kommunisticheskaia Soiuza v Rezoliutsiiakh i Resheniiakh, I (1953), p.576.
(38) Odinadtsatyi S"ezd, p.156-7.
(39) Roger Pethybridge, One Step Backwards, Two Sieps Forward (1990), p.154.
(40) Aleksandrov, Kto upravliaet, p.22-23.
(41) Desiatyi S"ezd, p.137.
(42) M. Dewar, Labour Policy in the USSR, 1917-1928 (1956), p.162-3.
(43) Desiatyi S"ezd, p.881.
——
③、終わり。第一節も、終わり。
第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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第一節・共産党の官僚主義化③。
(15) いつの間にか、新しい支配者たちは、古い支配者たちの習慣にのめり込んでいた。
Adolf Loffe はトロツキーに対して、腐敗の蔓延について不満を述べた。
「頂上から底まで、そして底から頂上まで、どこでも同じだ。
最下級のレベルでは、一足の靴か兵士のシャツ[gimnasterka]。
上になると、自動車、鉄道車両、ソヴナルコムの食堂、クレムリンや『国営』ホテルの部屋。
そしてこれらを全て利用できる最高の段階では、威厳であり、傑出した地位であり、名声だ。」(注32)
Loffe によると、「指導者たちは何でもすることができる」と考えることが心理的に受容されるようになっていた。
民衆の奉仕者のこのような貴族的習慣のどれ一つとして、マルクス主義は何の関係もなかった。だが、ロシアの政治的伝統とは大きな関係があった。//
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(16) 新体制のもとでの地方の行政官の鍵は、広くgubkomy として知られた、地方の(〈guberniia〉)党委員会の長だった。
ピョートル大帝以来、guberniia はロシアの基礎的な行政単位で、その長である知事は、広汎な執行と警察の権力を持ち、帝国の権威を代表していた。
ボルシェヴィキ体制は、この伝統に従った。つまり、gubkomy の書記局長が、事実上、帝制時代の知事の継承者になった。
ゆえに、この長を任命する権限は、相当の恩寵の淵源だった。
革命前には、ツァーリが内務大臣の推薦にもとづいて知事を任命していた。
今では、レーニンが、組織局と書記局の推薦にもとづいて知事を任命した。
1920年に設置された書記局内のUcharaspred(Uchetno-Raspredetil'nyi Otdel)と呼ばれる特別部署が、党人員を選抜し、配転させた。
1921年12月、gobkom 長に任命されるためには1917年10月以前に入党していなければならない、と定められた。
地区(〈uezd〉)の党委員会(〈ukomy〉)の書記局長は、最少限度3年間の党員履歴をもっていなければならなかった。
このような任命は全て、より上級の党機関によって承認される必要があった。(注33)
これらの条項は、紀律と正統性を守るのを助けたかもしれない。しかし、党の細胞から自分たち自身の職員を選出する権利を剥奪する、という対価を払ってのことだった。
当時はほとんど気づかれなかったけれども、これらの条項は、中央機関の権力を巨大なものにした。「組織局または書記局がもつ承認する権利は…、実際には、『推薦』や『指名』をする権利と同一になった」。(注34)
これら全てのことは、スターリンが1922年4月に書記長の職を掌握する以前に、起きていたことだった。//
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(17) こうした実務の結果として、地方での党の要職の任命は、ますます党員によってではなく、「中央」によって行われるようになった。
1922年のあいだに、37人の〈gubkom〉長が解任されるか配転され、42人が「推薦」にもとづき任命された。(*)
今や、帝制時代のように、忠誠心が、任用されるための最高の資格だった。中央委員会が配った回状「同志の党への忠誠について」では、これが役職に就くための第一の規準として挙げられていた。(注35)
1922年に、書記局と組織局は1万件以上の任用を行なった。(注36)
政治局は多くの仕事に忙殺されていたので、任用の多くは、書記長と組織局の裁量でなされた。
調査団がしばしば地方に派遣され、〈gubkomy〉の 実績について報告した。—帝制ロシアでの「是正」の模倣だった。
1921年3月の第10回大会で、〈gubkom〉長は三ヶ月毎にモスクワに来て、書記局に報告すべきものとされた。(注37)
書記局で仕事をしていたViacheslav Molotov は、彼らに任せれば〈gubkomy〉はほとんど自分たちの地方的案件にかかわり、national な党の問題を無視する、という論拠でもって、このような実務を正当化した。(注38)
こうして実際に、〈gubkomy〉は「モスクワの指令の運び手」に変わった。(注39)//
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(脚注*) Merle Fainsod, How Russia Is Ruled, revised ed. (1963), p.633, note 10.
1923年にE. A. Preobrazhenskii は、〈gubkom〉長の30パーセントは中央委員会によって「推薦」された、と語った。これを彼は「国家内部の国家だ」と称した。(Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), 1968,p.146.)
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(18) 書記局は、名目上は党の最高機関である党大会の代議員を選抜するという、追加の権限も獲得した。
1923年までに、代議員は〈gubkom〉長の推薦にもとづいて任命された。その〈gubkom〉長自身が、相当程度に書記局に任命された者たちだった。(注40)
この権限があることによって、書記局は、一般党員の反対を封じることができた。
かくして、いわゆる「労働者反対派」や「民主主義的中央派」が中央委員会を追及する辛辣な討論を行なった第10回党大会(1921年)で、代議員たちの85パーセントは、反対派を非難する中央委員会を支持した。利用できる証拠資料によって判断するならば、党員全体の気分をほとんど反映していない票決だった。(注41)
二年後の第12回党大会では、反対派は無力な辺縁部にまで減った。
その次の大会〔1924年〕では、もはや、反対それ自体が存在しなかった。//
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(19) かくして、共産党職員階層の中に、貴族制度が出現した。
権力奪取後5年後に採用された実務は、体制の初期からははるかに遠ざかっていた。当時は、党は党員たちに対して、平均的労働者よりも安い俸給を受け取れ、生活区画は一人あたり一部屋に限定せよ、と強く言っていたのだった。(注42)
これはまた、工場に雇用される共産党員に特権を与えず、むしろより重い義務を課す、という決まり事を捨て去ることも、意味していた。(注43)
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後注。
(32) Volkogonov, Trotskii, I, p.379-p.380.
(33) E. H. Carr, The Interregnum, 1923-1924 (1954), p.277n-278n: Odinadtsatyi S"ezd, p.555.
(34) Carr, Interregnum, p.278n.
(35) Pravda, NO. 64 (1921.3.25), p.1.
(36) Fainsod, How Russia Is Ruled, p.182.
(37) Kommunisticheskaia Soiuza v Rezoliutsiiakh i Resheniiakh, I (1953), p.576.
(38) Odinadtsatyi S"ezd, p.156-7.
(39) Roger Pethybridge, One Step Backwards, Two Sieps Forward (1990), p.154.
(40) Aleksandrov, Kto upravliaet, p.22-23.
(41) Desiatyi S"ezd, p.137.
(42) M. Dewar, Labour Policy in the USSR, 1917-1928 (1956), p.162-3.
(43) Desiatyi S"ezd, p.881.
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③、終わり。第一節も、終わり。