Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
<第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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第14章・第20節/外国の「干渉」の問題。
(01) ロシア革命は、ロシアという一国に限られた出来事ではなかった。
二月革命の勃発から、そしてとくにボルシェヴィキがペテログラードを掌握した後では、ロシア革命は国際化するようになった。そしてこれには、二つの理由があった。
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(02) ロシアは、戦争の大きな舞台だった。
ロシアが一方的に戦争から撤退したことは、二つの交戦ブロックのいずれにも、致命的な利害に大きな影響を与えた。
中央諸国にとっては、勝利への期待が高まった。
連合諸国にとっては、敗北する不安の根源になった。
そのゆえに、戦争が継続しているかぎり、どちらの側も、ロシアに起きていることに無関心ではおれなかった。地理的な位置だけでは、ロシアは世界的な激動から免れることができなかったのだ。
ボルシェヴィキは、相互に交戦する二大ブロックから離れることによって、この対立へのロシアの関与に影響を与えた。
1918年の春、ボルシェヴィキは、反ドイツの多民族軍を領土内に形成することを連合諸国と議論した。そして、Murmansk の占領に同意し、赤軍設立への助力を求めた。
1918年の秋、北部の港湾を連合諸国から解放し、ロシアの義勇軍を粉砕するために、ドイツの軍事干渉を要請した。
ドイツは何度も何度も、ボルシェヴィキ体制が崩壊しないように、政治的支援や金銭によって介入しなければならなかった。
Helfferich は、1918年7月-8月のソヴィエト体制の危機について、その回想録で、「意識的でなくまた意図的でもなかったとかりにしても、この危機的期間のボルシェヴィキ体制の最大の支援者はドイツ政府だった」ということを認めた(注224)。
この事実に鑑みれば、1917-1918年の外国のロシアへの干渉はボルシェヴィキを権力から下ろすために行なわれた、などと真面目に主張することはできない。
諸外国は、まず第一には、西部戦線での均衡状態を自分たちに有利に変更するために、干渉した。連合諸国の場合にはロシアでの戦線を活性化することによって、中央諸国の場合はロシアでの戦線を静穏なままにしておくことによって。
ボルシェヴィキはこうした諸外国の干渉に積極的に関与し、あるときはこちらの勢力から、あるときは別の勢力から、干渉を招来した。そのときどきのボルシェヴィキの利益にとって何が必要かに依存していたわけだ。
ボルシェヴィキが歓迎し懇願したドイツの「干渉」は、ボルシェヴィキが臨時政府の運命を辿るのを阻止した蓋然性が高い。
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(03) 第二に、ボルシェヴィキは最初から、社会主義革命と国際的階級戦争の時代には国境は無意味になった、と宣言した。
ボルシェヴィキは、外国の国民に対して、立ち上がって自国政府を打倒しようとの訴えを発した。この目的のために彼らは、各国家に資金を配分した。
そして、外国の国民がそうできる状態にあれば—当面は主としてドイツだったが—、ボルシェヴィキは積極的に革命を促進した。
全ての外国政府の正統性に挑戦することによって、ボルシェヴィキは、全ての外国政府がボルシェヴィキ政府に挑戦するよう招来した。
かりに現実にはいずれの国もその権利を行使しなかったとすれば、どの国にもそうする利益がなかったからだ。
ドイツはボルシェヴィキが自分たちのために役立つと考え、ボルシェヴィキが苦境に陥ったときはいつでも、彼らをを支えた。
一方で連合諸国は、自国の生存のために励んでいた。
ある歴史家が問題を提起した。—「人類史上最も破壊的だった戦争のまっ最中に重大な軍事力を失ったソヴィエト政権が、いかにして、革命の最初の年を生き延びることができたのか?」(注225)
自ら答える。すなわち、この最も破壊的な戦争が、ロシアの出来事をすっかり覆い隠した。
ドイツはボルシェヴィキ体制を支援した。
連合諸国には、他に関心があった。
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(04) したがって、1917-1918年のロシアへの外国の関与を敵対的な「干渉」という言葉を使って理解するのは、誤っている。
ボルシェヴィキ政府は、この干渉を招くとともに、自分自身のために積極的に介在しもした。
元の状態への回帰を切望していた諸大国は承認しようとはしなかったけれども、ロシア革命は決してロシアの純然たる国内的事件ではなく、戦争の結末に影響を与えるというだけでも重要なものだった。
ロシアの新しい支配者は、世界じゅうに影響を及ぼすだろうと明確に述べた。
1918年11月の停戦によって、ボルシェヴィキには、ドイツ、オーストリア、ハンガリーおよびそれが可能な国で、革命を組織するというかつてなかった機会が与えられた。
この闘いは当面は失敗したけれども、彼らが確実にしたのは、世界には休止期間はなく、1914年以前の生活に戻ることはできない、ということだった。
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(05) ロシア国内への1918年の外国の干渉については、もう一つ書いておく必要があることがある。
連合諸国がロシア<において>何をしたかに関する議論—それは大して多くはないが—では、ロシアの<ために>何をしたか—通常はきわめて多かった—、ということが忘れられている。
ロシアが戦争に参加するという約束を破り、ドイツと自分たちだけで戦闘するよう離れた後で、連合諸国は、莫大な人的および物質的損失を被った。
ロシアが戦争から脱落した結果として、ドイツ軍は不活発な東部戦線から撤兵し、西部戦線での実働兵力をほとんど四分の一(150分団から192分団へ)増加させることができた(注226)。
この勢力増強によって、ドイツ軍は激烈な攻撃を行なうことができた。
1918年の春と夏の西部戦線での大きな戦闘—St.Qentin、Lys、Aisne、Matz、Marne、Chateau-Thierry—で、イギリス、フランス、アメリカの各軍は総計数十万の兵士を失った。
こうした犠牲は、ついにはドイツの降伏をもたらした。
ドイツの敗北にボルシェヴィキは何ら寄与しなかったが、ドイツの敗北は、ソヴィエト政権にブレスト=リトフスク条約を廃棄して、ブレストで放棄を強いられた領土のほとんどを回復するのを可能にしただけではない。ドイツの敗北によって、ソヴィエト・ロシアは、ドイツはそうなることを意図していたのだが、一つの植民地、一種のユーラシア・アフリカ、になる運命から救われもした(脚注)。
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(脚注) この点を、Brian Pearce, How Haig Saved Lenin (London, 1987) は熱心に、かつ説得的に論述している。
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第20節、終わり。第14章全体も終わり。<第15章・“戦時共産主義”>へとつづく。
<第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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第14章・第20節/外国の「干渉」の問題。
(01) ロシア革命は、ロシアという一国に限られた出来事ではなかった。
二月革命の勃発から、そしてとくにボルシェヴィキがペテログラードを掌握した後では、ロシア革命は国際化するようになった。そしてこれには、二つの理由があった。
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(02) ロシアは、戦争の大きな舞台だった。
ロシアが一方的に戦争から撤退したことは、二つの交戦ブロックのいずれにも、致命的な利害に大きな影響を与えた。
中央諸国にとっては、勝利への期待が高まった。
連合諸国にとっては、敗北する不安の根源になった。
そのゆえに、戦争が継続しているかぎり、どちらの側も、ロシアに起きていることに無関心ではおれなかった。地理的な位置だけでは、ロシアは世界的な激動から免れることができなかったのだ。
ボルシェヴィキは、相互に交戦する二大ブロックから離れることによって、この対立へのロシアの関与に影響を与えた。
1918年の春、ボルシェヴィキは、反ドイツの多民族軍を領土内に形成することを連合諸国と議論した。そして、Murmansk の占領に同意し、赤軍設立への助力を求めた。
1918年の秋、北部の港湾を連合諸国から解放し、ロシアの義勇軍を粉砕するために、ドイツの軍事干渉を要請した。
ドイツは何度も何度も、ボルシェヴィキ体制が崩壊しないように、政治的支援や金銭によって介入しなければならなかった。
Helfferich は、1918年7月-8月のソヴィエト体制の危機について、その回想録で、「意識的でなくまた意図的でもなかったとかりにしても、この危機的期間のボルシェヴィキ体制の最大の支援者はドイツ政府だった」ということを認めた(注224)。
この事実に鑑みれば、1917-1918年の外国のロシアへの干渉はボルシェヴィキを権力から下ろすために行なわれた、などと真面目に主張することはできない。
諸外国は、まず第一には、西部戦線での均衡状態を自分たちに有利に変更するために、干渉した。連合諸国の場合にはロシアでの戦線を活性化することによって、中央諸国の場合はロシアでの戦線を静穏なままにしておくことによって。
ボルシェヴィキはこうした諸外国の干渉に積極的に関与し、あるときはこちらの勢力から、あるときは別の勢力から、干渉を招来した。そのときどきのボルシェヴィキの利益にとって何が必要かに依存していたわけだ。
ボルシェヴィキが歓迎し懇願したドイツの「干渉」は、ボルシェヴィキが臨時政府の運命を辿るのを阻止した蓋然性が高い。
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(03) 第二に、ボルシェヴィキは最初から、社会主義革命と国際的階級戦争の時代には国境は無意味になった、と宣言した。
ボルシェヴィキは、外国の国民に対して、立ち上がって自国政府を打倒しようとの訴えを発した。この目的のために彼らは、各国家に資金を配分した。
そして、外国の国民がそうできる状態にあれば—当面は主としてドイツだったが—、ボルシェヴィキは積極的に革命を促進した。
全ての外国政府の正統性に挑戦することによって、ボルシェヴィキは、全ての外国政府がボルシェヴィキ政府に挑戦するよう招来した。
かりに現実にはいずれの国もその権利を行使しなかったとすれば、どの国にもそうする利益がなかったからだ。
ドイツはボルシェヴィキが自分たちのために役立つと考え、ボルシェヴィキが苦境に陥ったときはいつでも、彼らをを支えた。
一方で連合諸国は、自国の生存のために励んでいた。
ある歴史家が問題を提起した。—「人類史上最も破壊的だった戦争のまっ最中に重大な軍事力を失ったソヴィエト政権が、いかにして、革命の最初の年を生き延びることができたのか?」(注225)
自ら答える。すなわち、この最も破壊的な戦争が、ロシアの出来事をすっかり覆い隠した。
ドイツはボルシェヴィキ体制を支援した。
連合諸国には、他に関心があった。
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(04) したがって、1917-1918年のロシアへの外国の関与を敵対的な「干渉」という言葉を使って理解するのは、誤っている。
ボルシェヴィキ政府は、この干渉を招くとともに、自分自身のために積極的に介在しもした。
元の状態への回帰を切望していた諸大国は承認しようとはしなかったけれども、ロシア革命は決してロシアの純然たる国内的事件ではなく、戦争の結末に影響を与えるというだけでも重要なものだった。
ロシアの新しい支配者は、世界じゅうに影響を及ぼすだろうと明確に述べた。
1918年11月の停戦によって、ボルシェヴィキには、ドイツ、オーストリア、ハンガリーおよびそれが可能な国で、革命を組織するというかつてなかった機会が与えられた。
この闘いは当面は失敗したけれども、彼らが確実にしたのは、世界には休止期間はなく、1914年以前の生活に戻ることはできない、ということだった。
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(05) ロシア国内への1918年の外国の干渉については、もう一つ書いておく必要があることがある。
連合諸国がロシア<において>何をしたかに関する議論—それは大して多くはないが—では、ロシアの<ために>何をしたか—通常はきわめて多かった—、ということが忘れられている。
ロシアが戦争に参加するという約束を破り、ドイツと自分たちだけで戦闘するよう離れた後で、連合諸国は、莫大な人的および物質的損失を被った。
ロシアが戦争から脱落した結果として、ドイツ軍は不活発な東部戦線から撤兵し、西部戦線での実働兵力をほとんど四分の一(150分団から192分団へ)増加させることができた(注226)。
この勢力増強によって、ドイツ軍は激烈な攻撃を行なうことができた。
1918年の春と夏の西部戦線での大きな戦闘—St.Qentin、Lys、Aisne、Matz、Marne、Chateau-Thierry—で、イギリス、フランス、アメリカの各軍は総計数十万の兵士を失った。
こうした犠牲は、ついにはドイツの降伏をもたらした。
ドイツの敗北にボルシェヴィキは何ら寄与しなかったが、ドイツの敗北は、ソヴィエト政権にブレスト=リトフスク条約を廃棄して、ブレストで放棄を強いられた領土のほとんどを回復するのを可能にしただけではない。ドイツの敗北によって、ソヴィエト・ロシアは、ドイツはそうなることを意図していたのだが、一つの植民地、一種のユーラシア・アフリカ、になる運命から救われもした(脚注)。
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(脚注) この点を、Brian Pearce, How Haig Saved Lenin (London, 1987) は熱心に、かつ説得的に論述している。
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第20節、終わり。第14章全体も終わり。<第15章・“戦時共産主義”>へとつづく。



























































