リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
=Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
第12章・一党国家の建設。
----
第7節・立憲会議から抜け出す(rid of)決定②。
(9)一部の社会主義者たちは、それでは十分でない、と考えた。
その意見は社会革命党の下部から上がってきたもので、帝制に対抗するために用いた方法-テロルと街頭暴力-だけが民主主義を回復させるだろうと感じていた。
そうした意見の代表者のF・M・オニプコ(Fedor Mikhailovich Onipko)は、スタヴロポル(Stavropol)選出の社会革命党代議員で、立憲会議防衛同盟執行委員会の一員だった。
オニプコは、経験のある共謀者に助けられて、スモルニュイに入り込み、役人や運転手を偽装した4人の活動家をそこに撒いた。
レーニンの動きを追跡し、妹を訪れるために頻繁にスモルニュイから抜け出していることに気づいて、その妹の家に用務員を装った工作員を置いた。
オニプコは、レーニンを、そしてトロツキーを、殺したかった。
行動は、クリスマスの日に予定された。
しかし、オニプコが承認を求めた社会革命党中央委員会は、そのような行動を大目に見るのを断固として拒絶した。
オニプコは、こう言われた。かりに社会革命党がレーニンとトロツキーを殺戮すれば、労働者たちのリンチに遭い、革命の敵だけが有利になるだろう、と。
彼は、テロリスト集団を即座に解散させるよう命じられた。(108)
オニプコは従った。しかし、社会革命党とは関係をもたない何人かの共謀者たちは(中には、ケレンスキーの親しい同僚だったネクラソフ(Nekrasov)もいた)、1月1日、レーニンの生命を狙って結果的には不ざまな試みを行った。
その暗殺の試みは、レーニンと一緒に乗車していた、スイス急進派のF・プラッテン(Fritz Platten)に軽傷を負わせただけだった。(109)
レーニンはこの事件のあと、スモルニュイからあえて外出する際にはいつでも、回転式連発銃を携帯した。
(10)オニプコはつぎに、予期されるボルシェヴィキの立憲会議襲撃に対抗する、武装抵抗隊を組織しようとした。
立憲会議防衛同盟とともに練り上げた計画は、親ボルシェヴィキ兵団を威嚇し、立憲会議が解散されないよう確実に守るために、1月5日にタウリダ宮の正面で、大衆的な武装示威行動を行うことを呼びかける、というものだった。
彼は何とかして立派な後援を確保することができた。
プレオブラジェンスキー(Preobrazhenskii)、ゼミョノフスキー(semenovskii)、およびイズマイロフスキー(Izmailovskii)の各護衛連隊で、およそ1万人の兵士たちが、武器を持って行進し、銃砲を放たれれば戦闘すると自発的に志願した。
主としてはオブホフ(Obukhov)工場施設や国家印刷局からのおよそ2000人の労働者も、それに加わることに合意した。//
(11)この計画を実施に移す前に、軍事委員会は社会革命党中央委員会に戻って、権威づけを求めた。
同党中央委員会は、再び拒絶した。
中央委員会はその消極的な姿勢を曖昧な説明でもって正当化した。しかし、結局は、最終的に分析するならば、理由は恐怖にあった。
誰もかつて、議論はしたが、臨時政府を防衛しなかった。
ボルシェヴィズムは大衆の病いなのであって、治癒するには時間がかかる。
危険な「冒険」をしている余裕はない。(110)//
(12)社会革命党中央委員会は、1月5日に平和的な示威行動を行うことを再確認した。諸兵団は歓迎されるが、非武装で参加しなければならない。
同委員会は、新しい血の日曜日を惹起する怖れからボルシェヴィキが示威行動参加者に対してあえて銃火を放つことはないだろうと予測した。
しかしながら、オニプコとその仲間たちが兵舎に戻って新しい知らせを伝え、武装しないで参加するよう兵士たちに求めたとき、オニプコたちは嘲弄された。//
「兵士たちは信用できないで、こう反応した。
『同志よ、我々を愚弄しているのか?
貴方たちは示威行動に参加することを求め、かつ武器を持って来ないように言っている。
では、ボルシェヴィキは?
彼らは小さな子どもたちか?
ボルシェヴィキはきっと、非武装の民衆に火を放つだろう。
そして、我々は? 我々は口を開けて、頭が彼らの目標になるようにすると思っているのか?
そうでなければ、ウサギのように早く走って逃げよと、命令するつもりか?』」(111)
兵士たちは、素手でボルシェヴィキのライフル銃や機銃砲と対決するのを拒み、1月5日には兵舎の外で日向に座っている、と決定した。
この活動に勢いを得たボルシェヴィキは、機会を逃さず、戦闘をする決定的な日の準備をした。
レーニンが、個人的な指揮を執った。
(13)最初の任務は、軍連隊に打ち勝つか、少なくとも中立化させることだった。
兵舎に派遣されたボルシェヴィキの煽動者は、立憲会議には人気があるとを考慮して、あえて直接にそれを攻撃しようとはしなかった。
その代わりにボルシェヴィキ煽動家たちは、「反革命の者たち」はソヴェトを廃絶するために立憲会議を利用しようとしている、と説いた。
彼らは、このような論拠でもって、フィンランド歩兵連隊に対して「全ての権力を立憲会議へ」とのスローガンを拒否するよう、そして立憲会議がソヴェトと緊密に協力する場合にのみ立憲会議を支持することに同意するよう、説得した。
ヴォルィーニ(Volhynian)連隊とリトアニア連隊は、類似の決議を採択した。(112)
これが、ボルシェヴィキが達成した限度だった。
どの規模のどの軍団も、立憲会議を「反革命」だと非難しなかっただろうと思われる。
そのため、ボルシェヴィキは、急いで組織された赤衛軍と海兵たちの軍団に依存しなければならなかった。
しかし、レーニンはロシア人を信頼せず、ラトヴィア人を取り込むよう、指令を発した。
彼は、「<muzhik>〔農民〕は何かが起これば動揺する可能性がある」と語った。(113)
このことは、ボルシェヴィキの側に立ったラトヴィア人ライフル銃部隊が革命に大きく関与したことを、さらに示した。//
(14)1月4日、レーニンは、ペトログラードで十月のクーを実行したボルシェヴィキ軍事組織の前議長であるN・I・ポドヴォイスキー(Podvoiskii)を、非常軍事スタッフに任命した。(114)
ポドヴォイスキーはペトログラードに再び戒厳令を施行し、公共的集会を禁止した。
この趣旨の宣告文は、市内じゅうに貼りめぐらされた。
ウリツキは1月5日の<プラウダ(Pravda)>で、タウリダ宮周辺での集会は必要とあれば実力でもって解散させる、と発表した。//
(15)ボルシェヴィキはまた、工業の重要地点に煽動活動家を派遣した。
そこで彼らは、敵意と無理解で迎えられた。
最大の工場群-プティロフ、オブホフ、バルティック、ネフスキ造船所、およびレスナー-の労働者たちは、立憲会議防衛同盟の請願書に署名をしていた。そして、彼らの多数が共感をもつボルシェヴィキがなぜ、今や立憲会議に対する反対に回ったのかを理解できなかった。(*)//
(16)決定的な日が接近するにつれて、ボルシェヴィキはプレスに、警告しかつ脅かす、定期的なドラム音を鳴らさせ続けた。
1月3日、ボルシェヴィキは一般公衆に、1月5日に労働者は工場で、兵士は兵舎でじっとしている見込みだ、と知らせた。
同じ日にウリツキは、ペトログラードにはケレンスキーとサヴィンコフが組織する反革命クーの危険がある、と発表した。この二人は、その目的でペトログラードに秘密裡に戻ってきている、とした。(*)(115)
<プラウダ>の一面見出しは、こうだった。
「本日、首都のハイエナと雇い人たちが、ソヴェトの手から権力を奪おうとする」。//
-------------
(108) B. F. Solokov in ARR, XIII(Berlin, 1924), p.48.; Fraiman, Forpost, p.201.
(109) V. D. Bonch-Bruevich, Tri pokusheniia na V. I. Lenina(Moscow, 1930), p.3-p.77.
(110) Solokov in ARR, XIII, p.50, p.60-p.61.
(111) 同上, p.61.
(112) Pravda, No.3/230(1918年1月5日/18日), p.4.
(113) トロツキー, in 同上, No.91(1924年4月20日), p.3.
(114) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.334-5; Fraiman, Forpost, p.204.
(*) E. Ignatov, in PR, No.5/76(1928年), p.37. この著者は、これら労働者の署名は捏造されたもので、証明力をもたない、と主張する。
(*) ケレンスキーは実際、このときにペトログラードにいた。しかし、彼が反ソヴェト実力部隊を組織しようとした証拠はない。
(115) Pravda, No. 2/229(1918年1月4日/17日), p.1, p.3.
----
第7節、終わり。第8節の目次上の表題は、<立憲会議の解散>。
=Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
第12章・一党国家の建設。
----
第7節・立憲会議から抜け出す(rid of)決定②。
(9)一部の社会主義者たちは、それでは十分でない、と考えた。
その意見は社会革命党の下部から上がってきたもので、帝制に対抗するために用いた方法-テロルと街頭暴力-だけが民主主義を回復させるだろうと感じていた。
そうした意見の代表者のF・M・オニプコ(Fedor Mikhailovich Onipko)は、スタヴロポル(Stavropol)選出の社会革命党代議員で、立憲会議防衛同盟執行委員会の一員だった。
オニプコは、経験のある共謀者に助けられて、スモルニュイに入り込み、役人や運転手を偽装した4人の活動家をそこに撒いた。
レーニンの動きを追跡し、妹を訪れるために頻繁にスモルニュイから抜け出していることに気づいて、その妹の家に用務員を装った工作員を置いた。
オニプコは、レーニンを、そしてトロツキーを、殺したかった。
行動は、クリスマスの日に予定された。
しかし、オニプコが承認を求めた社会革命党中央委員会は、そのような行動を大目に見るのを断固として拒絶した。
オニプコは、こう言われた。かりに社会革命党がレーニンとトロツキーを殺戮すれば、労働者たちのリンチに遭い、革命の敵だけが有利になるだろう、と。
彼は、テロリスト集団を即座に解散させるよう命じられた。(108)
オニプコは従った。しかし、社会革命党とは関係をもたない何人かの共謀者たちは(中には、ケレンスキーの親しい同僚だったネクラソフ(Nekrasov)もいた)、1月1日、レーニンの生命を狙って結果的には不ざまな試みを行った。
その暗殺の試みは、レーニンと一緒に乗車していた、スイス急進派のF・プラッテン(Fritz Platten)に軽傷を負わせただけだった。(109)
レーニンはこの事件のあと、スモルニュイからあえて外出する際にはいつでも、回転式連発銃を携帯した。
(10)オニプコはつぎに、予期されるボルシェヴィキの立憲会議襲撃に対抗する、武装抵抗隊を組織しようとした。
立憲会議防衛同盟とともに練り上げた計画は、親ボルシェヴィキ兵団を威嚇し、立憲会議が解散されないよう確実に守るために、1月5日にタウリダ宮の正面で、大衆的な武装示威行動を行うことを呼びかける、というものだった。
彼は何とかして立派な後援を確保することができた。
プレオブラジェンスキー(Preobrazhenskii)、ゼミョノフスキー(semenovskii)、およびイズマイロフスキー(Izmailovskii)の各護衛連隊で、およそ1万人の兵士たちが、武器を持って行進し、銃砲を放たれれば戦闘すると自発的に志願した。
主としてはオブホフ(Obukhov)工場施設や国家印刷局からのおよそ2000人の労働者も、それに加わることに合意した。//
(11)この計画を実施に移す前に、軍事委員会は社会革命党中央委員会に戻って、権威づけを求めた。
同党中央委員会は、再び拒絶した。
中央委員会はその消極的な姿勢を曖昧な説明でもって正当化した。しかし、結局は、最終的に分析するならば、理由は恐怖にあった。
誰もかつて、議論はしたが、臨時政府を防衛しなかった。
ボルシェヴィズムは大衆の病いなのであって、治癒するには時間がかかる。
危険な「冒険」をしている余裕はない。(110)//
(12)社会革命党中央委員会は、1月5日に平和的な示威行動を行うことを再確認した。諸兵団は歓迎されるが、非武装で参加しなければならない。
同委員会は、新しい血の日曜日を惹起する怖れからボルシェヴィキが示威行動参加者に対してあえて銃火を放つことはないだろうと予測した。
しかしながら、オニプコとその仲間たちが兵舎に戻って新しい知らせを伝え、武装しないで参加するよう兵士たちに求めたとき、オニプコたちは嘲弄された。//
「兵士たちは信用できないで、こう反応した。
『同志よ、我々を愚弄しているのか?
貴方たちは示威行動に参加することを求め、かつ武器を持って来ないように言っている。
では、ボルシェヴィキは?
彼らは小さな子どもたちか?
ボルシェヴィキはきっと、非武装の民衆に火を放つだろう。
そして、我々は? 我々は口を開けて、頭が彼らの目標になるようにすると思っているのか?
そうでなければ、ウサギのように早く走って逃げよと、命令するつもりか?』」(111)
兵士たちは、素手でボルシェヴィキのライフル銃や機銃砲と対決するのを拒み、1月5日には兵舎の外で日向に座っている、と決定した。
この活動に勢いを得たボルシェヴィキは、機会を逃さず、戦闘をする決定的な日の準備をした。
レーニンが、個人的な指揮を執った。
(13)最初の任務は、軍連隊に打ち勝つか、少なくとも中立化させることだった。
兵舎に派遣されたボルシェヴィキの煽動者は、立憲会議には人気があるとを考慮して、あえて直接にそれを攻撃しようとはしなかった。
その代わりにボルシェヴィキ煽動家たちは、「反革命の者たち」はソヴェトを廃絶するために立憲会議を利用しようとしている、と説いた。
彼らは、このような論拠でもって、フィンランド歩兵連隊に対して「全ての権力を立憲会議へ」とのスローガンを拒否するよう、そして立憲会議がソヴェトと緊密に協力する場合にのみ立憲会議を支持することに同意するよう、説得した。
ヴォルィーニ(Volhynian)連隊とリトアニア連隊は、類似の決議を採択した。(112)
これが、ボルシェヴィキが達成した限度だった。
どの規模のどの軍団も、立憲会議を「反革命」だと非難しなかっただろうと思われる。
そのため、ボルシェヴィキは、急いで組織された赤衛軍と海兵たちの軍団に依存しなければならなかった。
しかし、レーニンはロシア人を信頼せず、ラトヴィア人を取り込むよう、指令を発した。
彼は、「<muzhik>〔農民〕は何かが起これば動揺する可能性がある」と語った。(113)
このことは、ボルシェヴィキの側に立ったラトヴィア人ライフル銃部隊が革命に大きく関与したことを、さらに示した。//
(14)1月4日、レーニンは、ペトログラードで十月のクーを実行したボルシェヴィキ軍事組織の前議長であるN・I・ポドヴォイスキー(Podvoiskii)を、非常軍事スタッフに任命した。(114)
ポドヴォイスキーはペトログラードに再び戒厳令を施行し、公共的集会を禁止した。
この趣旨の宣告文は、市内じゅうに貼りめぐらされた。
ウリツキは1月5日の<プラウダ(Pravda)>で、タウリダ宮周辺での集会は必要とあれば実力でもって解散させる、と発表した。//
(15)ボルシェヴィキはまた、工業の重要地点に煽動活動家を派遣した。
そこで彼らは、敵意と無理解で迎えられた。
最大の工場群-プティロフ、オブホフ、バルティック、ネフスキ造船所、およびレスナー-の労働者たちは、立憲会議防衛同盟の請願書に署名をしていた。そして、彼らの多数が共感をもつボルシェヴィキがなぜ、今や立憲会議に対する反対に回ったのかを理解できなかった。(*)//
(16)決定的な日が接近するにつれて、ボルシェヴィキはプレスに、警告しかつ脅かす、定期的なドラム音を鳴らさせ続けた。
1月3日、ボルシェヴィキは一般公衆に、1月5日に労働者は工場で、兵士は兵舎でじっとしている見込みだ、と知らせた。
同じ日にウリツキは、ペトログラードにはケレンスキーとサヴィンコフが組織する反革命クーの危険がある、と発表した。この二人は、その目的でペトログラードに秘密裡に戻ってきている、とした。(*)(115)
<プラウダ>の一面見出しは、こうだった。
「本日、首都のハイエナと雇い人たちが、ソヴェトの手から権力を奪おうとする」。//
-------------
(108) B. F. Solokov in ARR, XIII(Berlin, 1924), p.48.; Fraiman, Forpost, p.201.
(109) V. D. Bonch-Bruevich, Tri pokusheniia na V. I. Lenina(Moscow, 1930), p.3-p.77.
(110) Solokov in ARR, XIII, p.50, p.60-p.61.
(111) 同上, p.61.
(112) Pravda, No.3/230(1918年1月5日/18日), p.4.
(113) トロツキー, in 同上, No.91(1924年4月20日), p.3.
(114) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.334-5; Fraiman, Forpost, p.204.
(*) E. Ignatov, in PR, No.5/76(1928年), p.37. この著者は、これら労働者の署名は捏造されたもので、証明力をもたない、と主張する。
(*) ケレンスキーは実際、このときにペトログラードにいた。しかし、彼が反ソヴェト実力部隊を組織しようとした証拠はない。
(115) Pravda, No. 2/229(1918年1月4日/17日), p.1, p.3.
----
第7節、終わり。第8節の目次上の表題は、<立憲会議の解散>。