秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

神武天皇

2217/岡田英弘「歴史と神話」(1998年)-著作集Ⅲより。

 岡田英弘「歴史と神話をどう考えたらよいか」同著作集Ⅲ・日本とは何か(藤原書店、2014)p.490以下。初出、月刊正論(産経)1998年・シンポジウム/古代史最前線からの眺望・基調報告(著作集によるとこれの「採録」)。
 なお、翌年刊行された西尾幹二・国民の歴史(扶桑社、1999)も、「歴史/神話」問題に触れている。
 以下、岡田論考の抜粋的引用。上掲書、p.493~p.502。
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 ・「中世」という時代区分には「歴史には一定のゴールがある、という考え方が潜んでいる。「歴史には法則性がある、という考え方」はこれから派生している。
 「この世で起きることは、すべて偶発事件であり、その偶発事件の積み重なりで、この世界はあちらへよろよろ、こちらへよろよろする。歴史に法則などあるわけがない」。
 ・「歴史家の仕事は、歴史に法則を見つけ出すことにあるのではなく、さまざまな史料から取捨選択して筋道を立て、過去の世界に合理的な解釈を施すこと、世界を理解することにある」。
 「要するに、歴史は、世界を理解する仕方の一つ」だ。「世界とは、もちろん人間の住む世界」だ。
 「世界を理解するための道具として、たとえば物理学も数学も哲学も使えるだろうが、歴史という見方もそうしたアプローチの一つなのだといえる」。
 「歴史家の存在を危うくする暴論」ではなく、先に「歴史は世界に対する解釈」だと記したように、「歴史とは一つの文化なのである」。
 ・「本来、歴史を持っている文明は、シナ文明と地中海文明の二つだけであり、他の文明はみなこの二つのどちらかから、歴史という文化をコピーしている。
 日本文明の歴史というのは、もちろんシナ文明のコピーである」。
 シナでは「変化しない世界」、地中海世界では「変化する世界」をそれぞれ書くのが「歴史」だ。「水と油」だが、「この世界を空間だけではなく、時間の軸に沿っても捉えよう」とする点でどちらも「歴史」だ。
 「時間の軸に沿い、今見えなくなった世界も実在する世界であると見て、まとめて理解しようとするのが歴史なのだ」。
 ・「では、『理解する』とは、どういうことなのか」。
 「ストーリーを受け入れる、ということ」だ。「ストーリー(物語と言ってもいい)」は頭に入りやすく、「因果関係」で結ぶと受け入れられる。
 「この世界は、本当は偶発的事件ばかりの積み重ねで、なんの筋書きもないのだが、歴史はそれにストーリーを与える機能を持っている。
 言ってしまえば、文学なのである。だから歴史をつくっているのは言葉であって、ものではない。」
 ・「18世紀末までが古代、19世紀以降は現代」だ。「国民国家」の登場は後者で、それ以前にはなかった。
 ・ヘロドトスの歴史叙述は「ギリシア神話」を利用した。
 司馬遷も、「天上の神々であった五帝を地上の人間のように書き直し、そうすることで皇帝権の起源を説明」した。
 「日本最初の歴史書『日本書記』も同様である」。編纂過程は「日本の建国の時期」だったので、「建国事業の一環」として、「なるべく古いところに日本国と天皇の起源を持ってゆく必要があった。
 そのために、「神武天皇以下、16代応神天皇に至る架空の天皇を発明した」。また、「壬申の乱に際し天武天皇が伊勢で発見した地方神」の「アマテラスオホミカミを中心とした神話を新たにつくり、神武天皇の話の前にくっつけ」た。「神様を人間に」し、「幽冥界から死んだ天皇を呼び出してくる」といったやり方で、「歴史をつくった」。
 「どんな国の歴史」も初めて書かれるときはそんなもので、「神話が歴史に読み替えられるのである」。
 ・「『日本書記』が建国の時期をなるべくむかしに持ってゆこうとしたのは、シナを意識してのことである」。
 シナは紀元前221年・秦の始皇帝のときに国が初めてできたので、「シナに対抗するには、それよりも建国を古くしなければならない。日本の天皇のほうが、シナの皇帝よりも古い起源を持っているのだ、と言わねばならない」。
 「シナ文明圏では、王権の正統性を保障するのは歴史であり、そのパターンから日本は抜け出せない」。神武天皇の建国を紀元前660年で、秦より400年以上古い、という「操作に神話は使われた」。
 ・「今でも歴史を論じるとき、なにかと神話に戻りたがる人がいる。
 神話から史実を読み取ろうとするのだ。
 しかし、歴史で神話を扱う際には、こうした神話の性質を充分わきまえておかねばならない」。
 「もっとも、一般の人たちが神話に戻りたくなる気持ちも、わからないではない。
 古代というのは、いまだに神代と同意義に使われていて、なんでもありの異次元空間なのである。そこでは現実世界の法則は通用せず、なんでもできる。…。
 そういう神話が与えてくれるロマンは、現実からの逃避には都合がいいだろうが、そうした情緒的ニーズと合理的な歴史を混同してもらっては困る。」
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2162/「邪馬台国」論議 と八幡和郎/安本美典⑦。

 A/安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2003)。
 安本のこれ以前の文庫・新書本にも同種の図表があるが、これが最も分かり易いようだ。
 B/安本美典・古代年代論が解く邪馬台国の謎(勉誠出版、2013)。
 これにも、安本の同旨の<年代論>が述べられている。
 以下、原則としてAによって、日本の天皇の時代・代数別の在位平均年数の資料を紹介する。
 p.122に、最も簡明な、1988年刊行の新書=同・新版/卑弥呼の謎(講談社)にもあった、つぎの図表が載せられている。
 (1)日本の天皇の平均在位年数(その1)。
  A/17~20世紀・17天皇・延べ379年-平均22.29年
  B/13~16世紀・29天皇・延べ453年-平均15.62年
  C/09~12世紀・33天皇・延べ404年-平均12.24年
  D/05~08世紀・20天皇・延べ218年-平均10.88年
  第31代とされる用明天皇~第124代とされる昭和天皇までの99天皇・延べ1454年が対象とされる。
  総平均は、14.69年だ。
  それ以外の各時代の最初・最後の各天皇名等は、明記されていない(代数の数字とおおまかな世紀数で探ってみると判明するかもしれないが、その作業は省く)。
  いずれにせよ、時代が古くなると、それだけ平均在位年数は短くなる。
 (2)時代別平均在位年数(その2)。
 p.263とp.264には、別の分類による、平均在位年数の図表がある。
 前者は第32代崇峻天皇以降を「歴史的事実」とする図表があり、後者には、第22代清寧天皇~第31代用明天皇を「準歴史的事実」として加えた図表がある。
 これらを併せると、つぎのようになる(つまり後者と同じ)。
  A/徳川時代+現代  ・17天皇-平均21.90年
  B/鎌倉+足利+安土桃山・25天皇-平均15.11年
  C/平安時代     ・32天皇-平均12.63年
  D/崇峻天皇+奈良時代・18天皇-平均10.78年
  E/清寧天皇~用明天皇・10天皇-平均10.07年
 時代が古くなると、それだけ平均在位年数は短くなる、という結果に変わりはない。
 Aは、108代・後水尾天皇~124代・昭和天皇(17代)。Bは、第83代・後鳥羽天皇~第107代・後陽明天皇(25代)。Cは、50代・桓武天皇~81代・安徳天皇(32代)。Dは、32代・崇峻天皇~49代・光仁天皇(18代)。Eは、22代・清寧天皇~31代・用明天皇(10代)。これらのうち、C~Eについては、明記がある。
 第82代・後鳥羽天皇(1183-1198)の扱いが秋月にはよく分からないが、詮索を避ける。
 また、安本の上のB著(2013年)p.90には、上とやや分類が異なる図表がある。卑弥呼~雄略天皇を省略して、紹介しておく。
  (3)平均在位年数(その3)。
  A/徳川時代+現代  ・18天皇-平均22.28年
  B/鎌倉+足利+安土桃山・25天皇-平均16.13年
  C/平安時代     ・32天皇-平均12.69年
  D/飛鳥時代+奈良時代・29天皇-平均10.36年
  Dは、21代・雄略~30代・敏達と明記されている。従って、(その2)のEと対象が異なる。ここでのA・Bが(その2)と異なるのは、Aに107代・後陽明天皇を、Bに82代・後鳥羽天皇を含めているためではないか、と推察される。
 ところで最後に、安本の上の著A(2003)には、「新しく定義しなおし」た計算にもとづくとされる図表が掲載されている。
  (4)天皇の一代平均「在位年数」(その4)。
 A/106正親町~124昭和天皇 ・代差18・年計402年01月・平均年22.34。
 B/082後鳥羽~106正親町天皇・代差24・年計388年10月・平均年16.20。
 C/049光仁 ~082後鳥羽天皇・代差33・年計416年10月・平均年12.63。
 D/031用明 ~049光仁天皇 ・代差18・年計193年11月・平均年10.77。
 古い時代ほど、天皇一代の年数は短くなる。
 上の「計算」で新しい旨が明記されていると見られるのは、①在位期間を年のみならず月単位まで計算していること(8カ月で0.67年、10カ月で0.83年になる)、②旧暦(和暦)を(月も)新暦で計算し直していること、だろう。
 但し、031代-(差18代)-049代-(差33代)-082代-(差24代)-106代-(差18代)-124代、という表記の仕方をしているので、各時代がどれどれの天皇の在位期間を考察・計算対象にしているのかが、必ずしもよく分からないところがある(厳密にフォローすれば明瞭になるのかもしれない)。
 なお、以上の全てについて、重祚の場合は2代と数えられている。
 南北朝時代については、きちんと確認しないが(安本美典による明示的論及はない)、正統と(明治期以降に)される南朝側の諸天皇とその在位期間のみを対象としているように思われる。
 ***
 安本美典著を見て、読んできただけで、自ら計算してみようと思ったことはこれまでなかった。
 安本著には厳密には分かりにくい点もあるので、秋月が自分で計算して、表を作ってみよう。
 ①皇統譜上の代数表記による。②重祚は2代とする。③南朝側の天皇のみを対象とする。
 ④講談社・天皇の歴史各巻所載の「歴代天皇表」上の在位期間による。在位期間は「月」を無視して、「年」のみを考慮する。例えば、1000年12月~1010年2月の場合、実際には9年3月であっても、在位年数は11年となる。
 ⑤上に在位期間の記載のある第29代・欽明天皇から第123代・大正天皇までを対象とする。この間の代数は、123-29+1=95だ。大正天皇までとするのは、大きな意味があるのでなく、昭和天皇の60年超の在位が明らかに平均年数を高める要因になるだろうことを考慮したにすぎない。
 ⑥つぎのように時代区分する。おおよそA/江戸以降、B/鎌倉以降、C/平安時代、D/それ以前(欽明以降の飛鳥+奈良)だ。
 ⑦安徳天皇退位は1185年、後鳥羽天皇即位は1183年なので、3年の重複があるが、そのまま計算する。
 A/123代・大正天皇~108代・後水尾天皇、代数(123-108+1)は16。
 B/082代・後鳥羽天皇~107代・後陽明天皇、代数(107-082+1)は26。
 C/050代・桓武天皇~081代・安徳天皇、代数(81-50+1)は32。
 D/029代・欽明天皇~049代・光仁天皇・代数(49-29+1)は21。
 上の前提のもとでの、秋月瑛二の計算
 A/大正~後水尾・16代・年数243年・一代平均年-19.75年。
 B/後鳥羽~後陽成26代・年数429年・一代平均年-16.50年。
 C/桓武~安徳・32代 ・年数405年・一代平均年-12.65年。
 D/欽明~光仁・21代 ・年数243年・一代平均年-11.57年。
 上の注記の④にあるように、在位年数は実際よりも少し大きくなり、従って平均年数も実際よりも少し大きくなっているだろう。
 しかし、古い時代ほど平均的な天皇在位期間は短くなり、欽明天皇頃になってくるとほぼ10年~12年だ、ということが分かる。
 そうすると、もっと前の古代天皇の在位期間の平均は、9-10年まで下がってくるのではなかろうか?
 ***
 八幡和郎の「頭の中」には、こういう、天皇在位平均年数という考慮要素はない。
 まず、改めて、応神天皇から崇神天皇までの、出生・即位、在位年に関する、八幡和郎と安本美典の違いを示してみよう。
 八幡については、八幡和郎・最終解答・日本古代史(PHP文庫、2015)による。安本については、改めて上の著(2003)Aのp.260-1の図表(横グラフ)から目視した(すでに紹介した安本推測と①と②でやや異なる)。安本の仲哀期は、神功皇后称制期をも含む。。
 ①15応神天皇-出生346年/即位380年頃。安本・在位410年~424年。
 ②14仲哀天皇-出生310年/即位4世紀中。安本・在位390年~410年。
 ③13成務天皇-出生265年/即位4世紀前。安本・在位386年~390年。
 ④12景行天皇-出生260年/即位300年頃。安本・在位370年~386年。
 ⑤11垂仁天皇-出生235年/即位3世紀後。安本・在位357年~370年。
 ⑥10崇神天皇-出生210年/即位3世紀中。安本・在位343年~357年。
 崇神天皇について、約100年の違いがある。
 ***
 八幡和郎は、つぎの著では、神武天皇の時代も推測していた。
 八幡和郎・八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない(扶桑社新書、2011)。
 これのp.30-1によると、「神武天皇から数えて崇神天皇が10世代目というのなら、神武天皇はだいたい西暦紀元前後、つまり金印で有名な奴国の王が後漢の光武帝に使いを送ったころの王者だということになります。
 しかし、10代めというのは少し長すぎるので、実際には数世代くらいかもしれないとすれば、2世紀のあたりかもしれません。」
 前段は神武を「西暦紀元前後」と見ている。この根拠は分かりにくいが、この頃の天皇の即位後の生存年数または在位年数を約「25年」と見ているのが根拠である可能性が高い。
 上の表に見られるように、八幡は、12代・景行から10代・崇神まで「25年」間隔で皇位継承された、と推定しているからだ。
 これを崇神以前にさか上らせた出生年は、9代・紀元185年、8代・160年、7代・135年、6代・110年、5代・85年、4代・60年、3代・35年、2代10年、初代・神武紀元前15年となる。この神武の紀元前15年出生というのは、紀元前後に神武が即位した(初代天皇として)という推定の、有力な計算根拠になり得るかもしれない。
 しかし、この「25年」というのは八幡独自説ではなくて、明治以降の複数の学説が示してきたものだ。かつまた、神武即位は紀元前後というのは、那珂通世およびこれを支持した学者たちと全く一致している。八幡和郎が「自分の頭」から生み出したものでは全くないと推察される。
 上の後段は、神武~10代・崇神という10代の「実在」を、<三王朝交替説>の影響によるのかどうか、さっそく?疑問視している。この人物に定見はないのだろう。
 また、安本美典は「在数」と「世数」を区別しているが、直系男子継承(父子継承)であって初めて、「25年」の隔たりで天皇が交替していく、ということが言える。
 日本書記によると、21代・雄略天皇は16代・仁徳天皇よりも「5代」あとの天皇だが、雄略は仁徳の孫とされるので「3世」の子孫だ。「5代将軍」徳川綱吉は、徳川家康の曽孫で「4世」の孫。
 八幡和郎は神武以降の「実在」を肯定しつつ「直系男子」(父子)継承とすると奇妙だと感じているのだろうか。
 かりに初代~10代・崇神までの「全」天皇が実在していたとしてすら、全てが父子継承ではなかったとおそらくほぼ断言できるので(安本美典も同じ)、単純に25×9または25×10年さかのぼらせて神武の時代を推定しようとすること自体が、「思考方法」として間違っているだろう。
 それにそもそも、15代・応神~10代・崇神を原則として在位「25年」で継承したとするのも、安本美典説を知っていれば、安本の推定根拠の重要な部分も上で示したように、そもそも間違っている可能性が高い。
 もともとは、八幡和郎による応神天皇出生346年という「基準年」自体が間違っているだろう(なぜか八幡は外国文献である<新羅本紀>の記載年・記載事項を「そのまま」信じ、かつそれだけを利用している、という問題もある)。
 加えて「25年」説を採用したのでは、各天皇の実際の在位時期は、ますます古くなりすぎているだろう、と推察される。
 これはシロウト秋月瑛二の幼稚な推測だが、15代・応神~10代・崇神の間は9~11年、それ以前は6~9年ごとに、「大王」・「天皇」は交替したのではないだろうか。
 安本美典の推定はこれに比べると穏便で、上の著p.260-1の表は、あくまでさしあたりなのだが、清寧~用明は平均在位年数・10.07年、卑弥呼~雄略は平均在位9.45年としてグラフを作ったうえで、さらにその他の諸考慮要素を含めて、最終的な「推測」、「安本案」にしている。
 八幡和郎の「頭の中」は、中学校の高学年か高校生くらいなのではなかろうか。
 原史資料を日本書紀を除いては読まず、主立った関係文献のうち通説または有力説だけを調べて、八幡和郎程度の「推測」は可能だろう。参照文献を一切載せることなく、まるで「自分の頭」でゼロから考え出したフリをすることも可能なのだ。
 八幡和郎の崇神天皇年代論にもとづくと、容易に(八幡は北九州説なので見向きもしていないが)、卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説(箸墓=倭迹迹日百襲姫陵=卑弥呼の墓説)も出てくる。これにはまた別に言及するだろう。

2148/「邪馬台国」論議と八幡和郎/安本美典⑤。

 日本の天皇(さらに卑弥呼・天照大御神まで)に関する安本美典の「年代論」は、すでに言及している、つぎの一部にも書かれている。
 安本美典・邪馬台国と卑弥呼の謎(潮文庫、1987)。
 つぎの著にも、興味深い資料が掲載されているので、紹介しておこう。
 安本美典・新版/卑弥呼の謎(講談社現代新書、1988)。
 この著p.93以下によると、徳川幕府の各将軍、足利幕府の各将軍、鎌倉幕府の将軍・執権の「在位」年数の平均は、ぎのようになる。それぞれについて、各将軍等ごとの「補任・辞任」の年の一覧表(後二者については「月」も)掲載されているがここでは省く。
 最終的にはつぎのとおり。Bでは空位期間を含む/含めないの二つがある。
 A/徳川幕府・15代・1603~1867年-平均17.67年
 B/足利幕府・16代・1338~1573年-平均14.69年/13.50年
 C/鎌倉幕府・19代・1192~1333年-平均08.32年
 日本の3例の比較だが、時代が古くなればなるほど短くなっている。
 中国の「王」の在位年数の、世紀別平均年も掲載されている。根拠となる史料は、東京創元社・東洋史辞典の巻末「アジア各国統治表」のうちの「中国歴代世系表」上の、「即位・退位」時期のようだ。複数の王朝に分立している場合は、それら全てを合算して計算していると見られる。
 A/17~20世紀・15王・延べ334年-平均22.27年
 B/13~16世紀・33王・延べ476年-平均14.42年
 C/09~12世紀・96王・延べ1308年-平均13.63年
 D/05~08世紀・83王・延べ845年-平均10.18年
 E/01~04世紀・96王・延べ965年-平均10.05年
 時代が古くなればなるほど、短くなっている。計算の詳細な過程は書かれていないけれども。
 何のために安本美典がこういう作業をしているかというと、日本の各天皇の「在位」のおおよその期間を推論するためだ(なお、卑弥呼または天照大神の世代にまで及ぶ)。
 安本美典は、珍しく?、欠史八代も含めて、神武とそれ以降の天皇の「実在」を想定する。この点で、八幡和郎と同じだ。
 但し、安本はさらに神武以前の天照大御神までの「世代」数(5)も、日本書記に書かれているとおりだと仮定する。但し、日本書記上の生没年等の記事は(ある天皇以前は)全く信用しないし、直系継承ではなかっただろうともほぼ断定する。
 一方、八幡和郎による「崇神」=「壱与」までの推論の計算根拠は定かではなく、神武と崇神の間の代数については、「実在」か否かを疑っているフシもある。以下がその部分の叙述だ。下掲書、p.30ー31。
 「もし、神武天皇から数えて崇神天皇が10世代目というのなら、神武天皇はだいたい西暦紀元前後、つまり金印で有名な奴国の王が後漢の光武帝に使いを送ったころの王者だということになります。
 しかし、10代めというのは少し長すぎるので、実際には数世代くらいかもしれないとすれば、2世紀のあたりかもしれません。」
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない(扶桑社新書、2011)。
 八幡によると、崇神天皇は「3世紀中頃から後半」(上掲書p.30)。
 上の前半は神武~崇神をおよそ250-270年間とするようだ。かりに神武「全盛」期を紀元0年前後とし、崇神の「3世紀中頃から後半」を260年だとし、そして10世代・10天皇で割ると、一天皇在位平均は、26年になる。280年だとすると、28年になる。
 上の後半では、「数世代」=「3世紀中頃から後半」マイナス「2世紀のあたり」だ。
 かりに「数世代」=2~4世代で、かりに「3世紀中頃から後半」を260年、「2世紀のあたり」が110年、だとすると、260-110=150を前提として、1世代=150÷2~4で、平均は37.5年~75年、ということになる。しかし、「かりに」が多い。いずれにせよ、八幡和郎における「推論」・「推測」の計算根拠はよく分からない。

1692/安本美典・2017年7月著。

 「組織集団がある方向にむいている場合、その内部にいる人たちには、組織集団の文化の特異性に、気づきにくくなる。/思い込みと、ある程度の論証の粗雑さとがあれば、どのような結論でもみちびき出せる。当然見えるべきものが見えず、見えないはずのものが見えるようになる」。はじめにⅲ。
 「捏造をひきおこす個人、組織、文化は、捏造をくりかえす傾向があるといわれている」。はじめにⅹ。
 「素朴な人がらのよさを持っている方が、他の分野よりも多いような感じがする。/それだから困ってしまう。/信じたい情報だけを選び、それ以外は無視する」。p.346。
 「私は、…、捏造であるという『信念』を述べているのではない。…である『確率』を述べているのである。/それは、…私が…にあった『確率』を計算して述べているのであって、『信念』を述べているのではないことと同じである。/確率計算は、証明になりうる」が、「宣伝は、証明にならない。/この違いを、ご理解いただけるであろうか」。p.347。
 以上、安本美典・邪馬台国全面戦争-捏造の「畿内説」を撃つ(勉誠出版、2017.07)。
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 「信念」だけで、物事を判断してはいけない。信念とか、<保守の気概>とかの精神論は、理性的判断を誤らせ、人々を誤らさせる狂信・狂熱を呼び起こすに違いない。
 「宣伝」をしてはならないし、それを単純に信頼してもいけない。「宣伝」する者は、事実に反していることを知っていても事実・真実だと偽って「宣伝」することがしばしばある。とくに<政治的論評・主張の分野>では。<評論家・政策研究家>の肩書きの「宣伝員」を信頼してはいけない。
 自戒を込めて、安本美典の文章も読みたい。この人は古代史、かつ「邪馬台国」所在地論争について語っているが、<歴史>全般にかかわるし、現在の種々の<認識・報道・論評>にも関係するだろう。
 上の文章を、日本共産党員に読ませても意味がない。しかし、阿比留瑠比や小川榮太郞には、多少はぶつけてみたい気がする。
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 安本美典は、もう10年前には<卒業>したつもりでいた。
 しかも、しっかりと吸収して、「邪馬台国」北九州説をほとんど迷うことなく支持し、中心地だったとする福岡県甘木市(合併によりいまは朝倉市)も訪れた。さらに、甘木の奥のわが故郷(?)秋月地区も訪れた。
 卑弥呼=天照大神説もほとんど迷うことなく支持していて、実在の人物を反映しているとみられる卑弥呼=天照大神は、3世紀半ば頃の活躍だったと推測している。
 とすると、神武天皇等々の年代も、おおよそのことは判断できる。
 いつぞや皇室の系譜はどこまで実証できるかについて、神武天皇、さらには天照大神にので遡らせることはせず、継体以降は確実だが、とか記したが、実証はほとんど不可能にしても、神武天皇や天照大神「に該当する人物」または人たちはいたのだろうと感じている(但し、血統関係の正確さはよく分からない)。
 安本美典は<神武天皇実在説>なるものに分類されていることもあるようだが、日本書記記載のそのままのかたちで存在していたなどと主張はしていない(はずだ)。
 安本美典は記紀編纂時期までの<天皇の代数>くらいの記憶・記録はあったのではないか、とする。あくまで「代数」で、在位年数とか、在位時代の記述までそのまま彼が「信じて」いるわけではない(はずだ)。
 一定時期以前に関する記紀の叙述を「すべて」作り話とする大勢の学者たちに反発しているのであって、逆に「すべて」がそのまま真実だなどと主張しているわけではない(はずだ)。
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 ちなみに、櫻井よしこは、簡単に「2600年余の」皇統とか平気で書く。
 神武天皇は紀元前660年に「即位」とされているので、以降、1940年は<紀元2600年>だったわけだ。
 しかし、天照大神より後の(とされる)神武天皇が紀元前7世紀の人の可能性は絶無だろう。
 そう<信じたい>・<信念を持ちたい>人は、どうぞご勝手に、なのだが。
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 上のように安本美典を「ほとんど迷うことなく支持」したいのは、その理性的・合理的な説得性による。「確率」の高さの主張かもしれないが、そのとおりだろうなぁ、と感じてしまう。立ち入らないが、余裕があれば、詳細にこの欄で紹介したいくらいだ。
 10年ほど前までに安本の本は読み尽くした感があったので、しばらくはずっと手にしなかった。
 ところが、数年前から、ぶ厚い書物をまだ多く刊行していることに気づいた。これまでの書物をまとめた全集ものかと思ってもいたが、実際に入手してみると、そうではなかった。
 安本美典、1934年~。もう80歳を超えている。そして、上の書物は今年7月の刊行。
 すさまじい精神力と健康さだと思われる。
 この人の本を立てて並べてだけで、2メートルほどの幅になるのではないか。
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 西尾幹二・全集第20巻-江戸のダイナミズム(国書刊行会、2017.04)。
 この本の巻末に、江戸のダイナミズム・原書(文藝春秋、2007)の出版を祝う会の叙述があり(なお、2007年!、としておこう)、その中に「安本美典」の返信文も掲載されている。
 安本美典と西尾幹二は、刊行本を交換し合うような程度の交際はあったらしい。ある程度は「畑」が違うので、西尾の本で安本の名を見て、興味深く思った。
 西尾幹二、1935年~。 
 お二人とも、すごいものだ。
 秋月瑛二は80歳まで絶対に生きられないと決めて(?)いるので、異なる世界に住んでおられるようだ。いくら「信念」があっても、いくら「根性」があっても、致し方ないことはある。

1155/佐伯啓思において日本書記・古事記はすべて「神話」か。

  前回に続ける。佐伯啓思「『天皇』という複雑な制度をめぐる簡単な考察」隔月刊・表現者2009年9月号)はついで、元来の「すめらのみこと」を意味する「天皇」という語自体が「中国からの影響のもと」にある。しかし、中華秩序からの自立を意味したもので、中国とは異なって「世襲による王権であることを明示」したものだった、ということを述べている。
 再び、左翼的な「王権」という概念が使われていることが気になるが、より気になるのは以下だ。
 佐伯啓思は、「『記紀』による天皇の神格化」
と簡単には叙述し、世襲の「日本の王権の特質」の一つは、「神話」による「政治的正当性」の確保だった、と述べている(p.71)。
 明記はしていないし、紙数の制限により厳密な叙述はしていないと釈明または反論される可能性はあるが、まるで、記紀=日本書記・古事記全体が「神話」の叙述だという理解を前提にしているような書きぶりだ。
 佐伯はむろん「単純左翼」ではないので、①「左翼的意味」で天皇の正当性は「でっちあげられた神話に過ぎない」と言っているのではない、②「神話」は歴史学者のいう「事実」ではないが、「一国の文化的事実」だ、と書いている(「不可欠でそれなりによくできた発明だったと受けとめなければならない」とも言う)。
 だが、「神話」と「記紀」の二つについての正確な叙述がないので、後者全体が「神話」だと理解していると思えなくもない。
 日本書記は明らかに「神代」と神武天皇以下を区別しているし、古事記の中・下巻が神武天皇以下推古天皇の時代までの叙述になっている。
 むろん連続はしているのだが、「記紀」の作者または伝承者においては、神武天皇以前または古事記の上巻のみが「神話」=「神」をめぐる物語と意識されており、それ以降は少なくとも主観的には歴史的な事実だと理解されていたのだ、と私は理解している。
 推古天皇(古事記)または天武天皇や元明天皇(日本書記)、そしてこれらの天皇の時代は執筆者・伝承者にとってはほとんど当時における近現代のことであり「客観的な事実」のつもりで書かれたのだと思われる。
 むろん、客観的な歴史的事実とは異なる叙述も時代より古くなればなるほど含んでいるだろう(場合によっては「作為」も)。しかし、神武天皇以降の叙述は、主観的には決して「神話」ではなかったはずだ、と思われる。
 上のような趣旨が、佐伯の文章からはまるで伝わってこない。「そこに神話が生じる。『記紀』による天皇の神格化である」、という部分などは、繰り返すが、記紀の全体が「神話」だと理解しているごとくだ。こんなことを書くのも戦後の歴史学・戦後教育において日本書記・古事記の全体=とくに世襲天皇を美化・正当化するための「神話」で<ウソ・でっちあげ>という言説が一部には有力にあり、そのような教育等の影響を-「神話」の理解は同じでないとしても-佐伯も受けているようにも思えるからだ。
 些細なことかもしれない。だが、「日本的なるもの」という語をやたら使っている佐伯啓思の諸文章において、天皇も記紀も(いわゆる日本神話も)ほとんど言及されていないのであり、そして天皇に関する「物語」をこの人は十分には知らないのではないか、少なくとも大きな関心を持ってはいないのではないか、という疑いを持たせる。
 ○佐伯啓思は新潮45今年7月号(新潮社)の最後に、「本当にわれわれが支柱にすべき価値」、「日本人にとっての価値の基軸」について「今後、何回かにわたって」
模索してみたい、と書いている(p.334)。
 同誌の今年12月号の佐伯の連載のつづきは橋下徹と石原慎太郎批判で、この二人をそれこそボロカスに批判しているが、「日本人にとっての価値の基軸」の探求といかなる関係にあるのかは分からない。
 8~11月号も所持はしているので、佐伯における「模索」の内容を別の機会に確認してみよう。

0851/小林よしのりの皇位継承論(女系天皇容認論)-サピオ4/14・21号。

 小林よしのり・昭和天皇論(幻冬舎、2010)は読み了えているし、小林よしのりのサピオ(小学館)と月刊WiLL(ワック)上の天皇・皇室関係の連載もすべて読んできている。
 そのつど何らかの知識も追加的に得ており、何らかの感想も持ってきている。
 皇位継承問題が-雅子皇太子妃の個人的問題などよりはるかに-重要であることは言うまでもない。但し、小林よしのりの議論・主張に全面的に反対はしないが、無条件に支持することもできない。
 結論・内容自体についてもそうだが、論旨・論理過程にいささか無理なところもあると感じるし、内在矛盾がある点もあると感じる。
 さかのぼることは面倒なので(ヒマがあればいつか書いてもよいが)、最も新しい、サピオ4/14・21号(小学館)の2本の「天皇論・追撃篇」を取り上げてみる。
 小林よしのりは女系天皇容認論者で、男系限定論者、小堀桂一郎・櫻井よしこ・渡部昇一らを批判する。それはそれでもよいとして、その理由づけには疑問も残る。
 小林よしのりは今上天皇および皇太子・秋篠宮両殿下の意向は<女系天皇容認>だとし、それを「忖度」せよ、と主張している。
 基礎的データを小林が使っているものに限るが(いろいろと調べ、確認するのにも時間が要るし、そのヒマがない)、第一に、天皇陛下が「将来の皇室の在り方については、皇太子とそれを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要」と述べられたその意味は、「将来の皇室の在り方」は皇太子・秋篠宮殿下の「考え」そのままに決定してほしい、という趣旨かどうかは疑問が残る。日本国憲法を遵守する旨を仰ったこともある天皇陛下が、皇室典範が法律として国会が定めることに現憲法ではなっていることを御存じないはずはなく、現実にも「国会の議論にゆだねるべきであると思いますが…」と前置きされている(p.61)。
 皇太子・秋篠宮殿下の「考え」そのままに決定してほしいとかりに望まれているとしても法制上はそれが絶対的に可能だとは思われていないと推察されるのであり、上のご発言の基本的な趣旨は、国会が議論する際には、皇太子・秋篠宮の「考え」も十分に配慮して議論して決定してほしい、ということではないだろうか。
 国会(あるいは加えて政府・審議会)だけで議論すれば足り、皇族の意見などいちいち聴く必要はないと考えている者たちもいるので、その意味では、陛下のご発言は「実に異例」、あるいは画期的だったかもしれない。
 だがそれは、審議(議論)・決定の<過程>に皇族、とくに皇太子・秋篠宮殿下も参画する機会、ご意見を発表する機会が与えられ、かつそれが十分に配慮されるように望む、という趣旨ではないかと思われる。
 上の意味でのご発言に、私はまったく異存はない。皇太子・秋篠宮殿下に限らず、皇族は発言して(意見発表して)も構わない、と考える。その内容について自由に批判する自由も国民には(あるいは政治家・評論家等)あるが、しかしそうした発言をすること自体を<けしからん>・<余計な介入をするな>とは言えないだろう。そのような意味で、天皇陛下のご発言は理解されるべきではないか。
 上の趣旨に沿ったことを秋篠宮殿下も言われているようだが(p.63、「皇太子」とご自分・「秋篠宮」殿下にとりあえず限定されているようだ)、第二に、皇太子殿下や秋篠宮殿下のお考えが「女系天皇」の容認(p.65)、あるいは「将来の皇族は…皇太子と秋篠宮、そしてその子供が新設する宮家に限定すべき」というもの=かつての皇族の皇族復帰の否定(p.63)であるかどうかは、なおも断定できないし、断定してはいけないような気がする。
 小林は「というお考えにしか読めない」(p.63)、「誰にでも『お察し』できよう」(p.65)と言うが、それは自らの女系天皇容認論に都合のよいように推測(忖度)している可能性を、なおも論理的には否定できないのではないか? かりに「せっかく」の「サイン」だとしても(p.65)、あくまで推測であり、「忖度」の結果であることは明瞭に意識しておく必要があるように思われる。
 第三に、小林よしのりは女系天皇容認の論拠の一つとして皇祖・天照大御神が女性だったことを挙げ、「ならば日本の天皇は女系だったと考えることもできる!」と言っているようだが(p.66)、これはさすがに無理だ。
 天照大御神が女性だったとしても(これは間違いないだろう。「卑弥呼」も女性だ)、その後の天皇位の継承が<男系>主義でなされたことは歴史的事実だろう。女性天皇は存在したが例外的で、<女系天皇容認>の歴史的根拠を探すならば、皇子がいたのに皇女が皇位を継承した例、あるいは最初に生まれた子供が女性(皇女)だったが最長子を優先して天皇となった、というような例、というのを見出さなければならないように思われる。あらためて勉強する気持ちは今はないが、そのような例は皆無だったのではないか。
 まだ「天皇」位というものが意識されていない時代の、そしてまた後世(飛鳥時代・奈良時代)になっても「天皇」とはされなかった天照大御神が女性だったことを援用するのは、いかにも苦しい。
 「日本の天皇は女系だったと考えることもできる」と小林は言うが、その場合の「女系」という語は一般に理解された「女系」ではなく、拡張された、あるいはズラされた「女系」概念で、今日の議論にそのまま当てはまるものではないだろう。
 第四に、上の点をもち出したうえで、小林は男系限定論者は天照大御神が登場する「神話」を無視、否定しようとしていると批判しているが(p.66、p.73)、そこで登場させている小堀や新田均の主張を正確には知らないものの、これも無理筋、<いいがかり>にすぎないような気がする。
 小堀、新田均のこの問題に関する主張を支持している、と言いたいわけではない。彼ら「男系主義者」は天照大神を「排除」するために「神話」を「切り離し」、「何が何でも『神武天皇から』にしたいのだ、という論難は当たっていないような気がする、と言いたいだけだ。彼らとて、神話を完全に「否定」・「排除」する気などはないだろう。
 したがって、「神話を否定することは、天皇を否定することだ」、<男系主義者>は「どこまでカルト化」するのか、彼らは「うるさい少数者」で「左翼プロ市民と変わらない」、「神話と歴史を切り離し、天皇を単なるホモ・サピエンスの子孫としか」見ない、などと批判するのは(p.74)、感情的な表現で、それこそ「左翼プロ市民」の言い方にも似ている悪罵・罵詈雑言の類のように思える。
 それに、そもそもが、天照大神からか神武天皇からか、という議論の仕方は不毛なのではないか。
 第五に、最後の基本的な問題として、かりに天皇陛下や(重要な)皇族の意向が「忖度」できたとして、日本国民はそれを絶対的に支持しなければならないのか、という問題があるだろう。
 こんなことを書くと、小林よしのりから<不忠>・<左翼>と罵られるのかもしれないが、しかし、皇位継承の仕方は、歴史的に見ても、各時期の天皇や皇族の意向どおりになった、とは必ずしもいえないように思われる。この点もあらためて勉強しないで書くが、ときどきの政治的・世俗的権力者の意向も反映して定められたことはあったのではないか。
 そのような事例こそ異例であり、純粋に天皇・皇族の意向どおりに皇位の継承(とその仕方)は決定されるべきだ、という主張は成り立つだろう。しかし、かりに異例であっても事実としては、天皇・皇族の意向どおりには皇位継承されなかったこともあった。あるいはそもそも天皇・皇族の間で(皇室の内部で)皇位継承につき争いのあったこともあったのだ。
 天皇陛下や皇太子殿下等の皇族のご意向・ご意見も十分に考慮して審議・決定はなされるべきだろう。だが、かりに万が一正確に拝察できたとしても、「忖度」されたその内容に国民(・国会)はそのまま従うべきなのか、という問題はなおも残っている、と私は考えている。重く受け止めるべき、という程度のことは言えるだろう。しかし、「そのまま」拘束されるべき、とまで言えるのか…。
 以上は思考方法、論理の立て方の問題にかかわる。皇位継承の仕方の中身の問題については別途書くつもりだ。

0843/建国記念日(2/11)の産経新聞社説。

 産経新聞2月11日付社説は「建国記念の日」をとり挙げており、よい意味で異彩を放っている。
 朝日・毎日はもちろん日経・読売新聞もこの日の社説のテーマにしていない。社説どころか、朝日や毎日のこの日の朝刊には、「建国記念の日」に関する記事そのものが全くなかったのではないか。こんなことが朝日等において他の祝日(記念日)についてはあるのだろうか。
 かかる新聞の大勢の現状こそがむしろ異様と言うべきなのだろう。
 「神話が生きる国誇りたい」を大見出しとする産経新聞社説は「日本のように連綿と歴史が続き、神話的な物語に基づいて国の誕生を祝うという例は、むしろ例外なのである」とする。そういえばそうだと意表を突かれた感じで納得する。
 建国記念日の復活等は「多くの国民」が「日本の国づくりの歴史を通して、日本や日本人の生き方を考えようとしたからだ」という指摘にも納得する。「多くの国民」と言えるかどうかを(朝日新聞的立場のように)大いに疑問視する向きもあろうが、主権者・「国民の皆さま」を<代表>する国会が法律で決定したのだから、「多くの国民」と表現するのは決して僭称ではない。
 そして、建国以来の歴史に「国民はもっと誇りを持ってよいのではないか。その誇りがひいては、日本の国を愛し、日本の伝統文化や国語を大切にする心を養うことにもつながるだろう」との最後の一文にもほとんど違和感はない。
 <ナショナルなもの>を忌避し嫌悪しあるいは無視しようとする<(容共)左翼>の広範な存在によって、あるいはすでに長くなった<戦後の平和と民主主義(・国際協調主義)>風潮の継続の中で、日本の(長い)歴史への「誇り」を正面から語ることは困難になってきたという面があることを完全には否定できないだろう。
 そうした中では、産経新聞のあたり前のような主張がむしろ新鮮に感じられる。どこかが奇妙で倒錯した時代になってきている、と言うべきだろう。
 産経新聞社説も言うように、「神話というのは、そっくり史実ではあり得ない」、「しかし、記紀につづられた神話は、民族の生活や信仰、世界観が凝縮されたもので、単なる作り話ではない」、「神話は民族の貴重な遺産なのである」。
 私にとってはしごく当たり前の指摘だが、たとえば朝日新聞の論説委員等は、このように<日本神話>や日本の歴史を捉えないのだろう。明治以降はおろか古代についても、日本独特の<誇り>ある歴史ではなく、むしろ中国や朝鮮半島からの影響や<恩恵>を強調したい気分であるに違いない、と推測する。
 「神話というのは、そっくり史実ではあり得ない」のだが、産経新聞社説は日本国家の長い歴史に触れる中で、「建国当初の国家がそのまま現在につながり、神武天皇以来125代の長きにわたって皇統も継承されてきた」と書いている。
 この文章のうち「神武天皇以来125代の長きにわたって皇統も継承されてきた」という部分は、少し気になる。
 現在の日本史学界の支配的な理解だと、皇統が長く続いていることは認めるとしても、「神武天皇以来125代の長きにわた」る継承という部分は否定されるのではないか。
 マルクス主義史学がなお支配的な現在の日本史学界に従わないとしても、つまり私のような者でも、本当に「125代」なのか、そもそも「神武天皇」は実在したのか、という疑問は持っている。
 神武天皇(神日本磐余彦命)とのちに呼ばれた「天皇」が2600余年前に<建国したということになっている>という叙述ならばよい。だが、「2600余年前」はともかくとしても、「125代」前の初代の「神武天皇」は実在した、と断定するのは私でもいささか躊躇するところがある。
 安本美典説によると、古代(ここではどの天皇から以前かの議論には立ち入らない)の天皇の生没年・在位年数は信じられないが、天皇(にあたる、スメラノミコト?)の<代の数>自体の記憶は日本書記の編纂時あたりまで残り続けただろう、という。
 そうだとすると、「神武天皇」とそれ以降の十代程度の天皇もまた、彼らにあたる人物は実在した、ということになるだろう。
 そのような可能性を私も否定するつもりはない。イザナギ・イザナミに至る複雑な系譜(系図)が、天照大御神も含めて、全くの<捏造>とは思えない。
 だが、たとえば、大友皇子(天智天皇の子)はかつては(いわゆる天武天皇系の時代=ほぼ「奈良時代」には)天皇位継承の事実は否定され、明治になってから、弘文天皇と追号され、皇位を継承したと「認め」られたのではなかっただろうか(明治以前のことだったかもしれないが、そうだとしてもここでの本筋には関係がない)。
 「125代」というのはこの弘文天皇も一代として算入しているはずだ。そうだとすると、大友皇子(弘文天皇)の皇位継承が<正式には>認められなかった時代の理解をかりに継続させると、現在の天皇陛下は「125代」めの天皇ではあられないはずなのではないか?
 南北朝時代の皇位継承(数)に関する議論も全く生じえないとは思われない。要するに、学問的にいえば、天皇の代数は必ずしも絶対的に<正しい>ものではないのではないか?
 こんな意味では、産経新聞社説がてらうことなく(?)あっさりと「神武天皇以来125代の長きにわたって皇統も継承されてきた」と(「神話」ではなく)史実の如く書いていることには、やや驚くとともに、<勇気>すら感じる。
 この<勇気>は、必ずしも肯定的な評価を伴うものではない。
 記紀等をふまえると、「神武天皇以来125代の長きにわたって皇統も継承されてきた」と<されている>、という程度でよいのではないか。
 ちなみに、神功皇后や応神天皇を祭神とする古い神社はいくつもある(天照大御神はもちろん)。神武天皇を祭神とする神社は、明治になって以降に建てられた橿原神宮以外に、あるのだろうか。神武天皇の実在性は神功皇后や応神天皇(・天照大御神)よりも薄いのではないか、という感覚的な根拠として記しただけだが。
 元に戻して続ける。
 建国記念日に現在でも反対している活動家たちや違和感をもっているかもしれない平均的な(?)日本人は、その日が「2月11日」で、神武天皇が旧暦の元旦(1月1日)に「即位」し「建国」したのは<嘘くさい>と感じているだろう。
 たしかに神武天皇(神日本磐余彦命)が<元旦(1月1日)に「即位」した>というのは記紀に書かれてあるだけで客観的な証拠があるわけではない。産経新聞社説も述べるように「神話というのは、そっくり史実ではあり得ない」のだ。
 したがって、上の疑問には理由がある、と思われる。もっとも、そうでなくとも(2月11日でなくとも)、自民党政府に対する反対者、明治以降の日本国家(=「帝国主義」・「軍国主義」国家)によって作られた記念日などは全面否定したい者たち、つまり「左翼」活動家たちや朝日新聞等の「左翼」的マスコミ人士は、「建国記念の日」の設定そのものに反対する(反対した)だろう、と思われるが。
 一方、保守派の人々も、日本「神話」を完全な史実と誤解してはいけない。記紀においてすら、たしか、「神代」という言葉が使われて、「建国」時代のことが書かれているのだ。
 したがって、<元旦(1月1日)=新暦2月11日に神武天皇が即位し建国した>というのは、<神話>あるいは<伝承>であることを認める(少なくともその可能性を否定しない)程度の柔軟性をもっておくべきだろう。
 <神話>あるいは<伝承>によると、初代天皇がその日に即位し「建国」した<ことになっている>という程度で、何ら差し支えないのではないか?
 産経新聞社説の言うように、日本は、「神話的な物語に基づいて国の誕生を祝うという」世界でも例外的な・稀少な国なのだ。
 「連綿と歴史が続」いている、「神話的な物語に基づいて国の誕生を祝うという」国家であることに<誇り>をもって何が悪い、と思っている。そう、朝日新聞の若宮啓文あたりには言ってやりたい。
 最後に、唐突ながら、某神社(神宮)の境内に建てられている石碑に刻まれた、昭和天皇御製。
 「遠つおやの しろしめしたる大和路の 歴史をしのび けふも旅ゆく」
 「しろしめす」という語の意味はひょっとして問題になるかもしれないが、自らの「遠つおやの しろしめしたる…」という感覚は、やはり常人のものではない、とあらためて感慨を覚えるところがあった。「遠つおや」とは1200年以上前の「おや」なのだ…。このような「御製」が詠われる「天皇」(にあたる地位・職)をもつ国は、日本以外にあるのだろうか。こうした点も、日本の<遅れ>・<異様さ>だと、「左翼」人士あるいは反天皇の<合理主義者・インテリ>のつもりの者たちは、考えているのかもしれないが。

0719/「朝日新聞」の、中野正志・万世一系のまぼろし(朝日新書、2007)。

 おそらくは今年2月に概読だけをして済ませた、中野正志・万世一系のまぼろし(朝日新書、2007)も、さすがに朝日新聞社の出版物らしい書物だ。
 「まえがき」にあたる「序章」では、①小泉首相私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」は「国際経験も豊富でバランス感覚豊かな人たちが多かったから、人選に問題があるとは思わなかった」(p.4-5)、②「現在、女性天皇や女系を認めてよいとみなす世論が多数を占めるまでになっている」(p.6)、等と書いている。
 些細なことだが、①につき、<皇室典範>改正に関する議論に「国際経験」の豊富さはいったいどう役立つ(役立った)のだろう。
 さらに、③旧皇族の皇室復帰により将来の天皇を選ぶとしても「恣意性は逃れえまい」、④その場合、「天皇制について懐疑的な憲法学者は少なくないから、様々な違憲訴訟が起こされ、混乱に見舞われるに違わない」とも書く(p.7)。
 上の③についていうと、皇族の拡大によっても、天皇家との血の近さ、長幼によって、論理的には特定の人物を指名できる(現在も語られているように、継承資格順位を明確にできる)と思われる。
 もっとも、皇族拡大論(旧宮家復活論)の先頭に立っているかもしれない中川八洋の議論には、皇位継承者の順序・特定に関して「恣意性」がまぎれこんでいる、と思われる。そのかぎりで私は中川に批判的な所があるので、別の回に言及する。
 上の④は、脅迫、恫喝だ。皇族の範囲を拡大すると、大変ですよ、という嚇かしだ。「天皇制について懐疑的な憲法学者は少なくない…」という部分は正確だろう。さすがに日本の現在の「憲法学者」の傾向くらいは知っているようだ。
 但し、脅迫・恫喝のつもりなのだろうが、「様々な違憲訴訟が起こされ、混乱…」という部分には、法学(憲法学、訴訟法学)に関する無知が見られる。皇族の範囲拡大(皇室典範=法律によるだろう)を「違憲」と主張する訴訟がどのようにすれば(適法に)成立するかは困難な問題で、ほとんど不可能ではないかと思われる。また中身の問題としても、法律による皇族の範囲拡大がなぜ「違憲」なのかは論理構成が相当に困難でもあるだろう。
 以上のような感想がすでに生じてくるが、この本自体のテーマは書名のとおり「万世一系(の天皇制)」説は「まぼろし」だ、ということにあるようだ。
 という前提で読み進めたが、そもそもよく分からないのは、この中野正志が「万世一系」をどのように理解し定義しているのか、だ。
 天皇が父と子(とりわけ長男)の「一系」ではないことくらい、天皇制度に批判的ではない者たちにとっても、当たり前の知識だろう。しかるに、中野は継体天皇から今上天皇までの皇位継承のうち父と男子間の継承は「44例と半数を切っている」、南北朝の「両統迭立」の時代もあった等と述べたあとで、「いまだになぜ、『万世一系説』が唱えられているのか」、と問題設定する(p.18)。
 これによると、長い<父子継承>こそが<万世一系>の意味だと理解しているように読めるが、そんなことが「まぼろし」であることは、論じるまでもないのではないか。
 つぎに、中野によると、皇位継承についての男系論者は、1.神武天皇を実在として初代としての即位を史実をとする、2.記紀(古事記・日本書紀)を「大筋では間違いないととらえる」のいずれかである、という。
 はたしてそうだろうか。2.の「大筋では間違いない」ということの厳密な意味の問題でもあろうが、皇位継承・男系論者のすべてが必ずしも古事記・日本書紀の記述を「大筋では間違いない」と理解しているかはどうかは怪しいと私は理解している。記紀自体が「神代」という概念を使っているのであり、初期の諸天皇については(現実を何らかのかたちで反映した)「神話」=物語だと理解している皇位継承・男系論者も少なくないのではないか(私は安本美典の影響を受けて、生没年の記載は虚偽(創作)であっても、各天皇(そして天照大神等)にあたる人物は存在したのではないか、それくらいの<記憶>・<伝承>は八世紀まで残ったのではないかとも思っているが、これはこの回の主題ではない)。
 中野の本は、そのあと、上の1.2.が「成立しうるのか」と問うて、途中まで日本の古代史の叙述をしている(p.20-71)。そもそも皇位継承・男系論者のすべて又は多くが必ずしも1か.2.の理解に立っていないとすれば、全く無駄な作業だ。
 また、そもそも、古事記・日本書紀の記述を史実か「大筋では間違いない」と理解するとかりにしても、これらの文献自体が、父から子(とくに長男)への継承という意味での「万世一系」を否定している。弟や配偶者等への皇位継承も記紀はちゃんと記載している。
 中野正志の論旨は、「万世一系」が上のような意味であるとすれば、この点でもとっくに破綻しているのではないか。
 その後は明治憲法・皇室典範等に話題を変えるが、依然として、「万世一系」の定義はない。
 細かな検討は省略するが、なるほど、明治憲法第一条は「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と定めている。だがそもそも、当時においてすら、「万世一系」とは<父子継承>の連続のことだと理解されていたのかどうか。
 中野によると、伊藤博文・憲法義解は「我が日本帝国は一系の皇統と相依て終始し…」と書いているらしいが(p.128)、伊藤が「一系の皇統」と書いたとき、<父子継承>の連続を意味させていたのだろうか。
 ほぼ間違いなく、このようには理解されていなかった。要するに、「万世一系」とは、神話=物語性のある部分を厳密には(学問的には)含むことを暗には容認しつつも、明治時代でいえば2500年以上も、①同一の血統(天皇としては神武天皇が起点だが、それ以前に天照大神、さらにそれ以前の「神」たちもいる)の者が代々の天皇位に就いてきた、かつ②少なくとも「有史」以降のいずれか(遅くとも継体天皇?)以降についてこのことを証明できる文献がきちんと残っていること(天皇家の系図のうちいずれかの古代の天皇以降は真実だと考えられること)を意味した、のではないか、と考えられる。
 今日では<紀元2600何年>ということを<保守派・右翼>でも理解・主張していないだろう。そのかぎりで、明治憲法下の理解とは異なるかもしれない。しかし、かりに「万世一系」という語を用いるとすれば、「古代」のいずれかの時点以降は上の①・②の要素が充たされている、というのが、その意味するところだろう。
 中野は明瞭には自らの「万世一系」の意味の定義を示さないまま、これが明治になって生み出された<イデオロギー>にすぎない、と主張したいようだ。
 だが、天皇と皇室はその「血」のゆえに尊い(あるいは畏怖されるべき存在だ)という意識は、「古代」から江戸時代までも、日本人(少なくとも政治「権力」関与者および各時代の「知識人」)にとって、連綿とつづいたのだろうと思われる。そうでないと、「天皇制度」が今日まで続いているわけがない。(井沢元彦がよく書いていることだが、)天皇家が廃絶されなかったこと、天皇家に代わる一族による「王朝交替」のなかったこと、は日本とその歴史の大きな特徴なのだ。
 中野正志は、どうもそうは理解したくないらしい。あるいは勉強不足で、そもそも知識がないのだろう。
 定義・基礎的概念や論旨の展開の筋が分かりにくいと感じて途中で読むのを止めつつ、「左翼」であることは間違いない、さすがに「朝日新書」で「朝日的」だと思って、奥付を見ると、中野正志(1946-)は2006年まで、朝日新聞社の社員で論説委員の経歴もある。「朝日的」どころか、「朝日新聞」そのものの人物なのだった。<アカデミズム>の世界の人々を一般的により信頼しているわけでは全くないが、元来の研究者・学者とは異なり、新聞記者上がりの人の書く本や文章には(「ジャーナリスティック」でも?)、体系性・論理性・概念定義の厳密さに欠けている、と感じることがしばしばある。この本も、その代表であり、かつ「左翼」丸出しの本だ。
 なお、(確認の労を厭うが、たしか)立花隆が最近(昨年)の月刊現代(講談社)で、誰でも親がいて祖父母もいて…なのだから、誰でも<万世一系>だと書いて、おそらくは<万世一系>論を批判・揶揄していた。
 たしかに、例えば私にも「古代」まで続く「血」のつながりがある筈だ。誰にとってもそうだ。しかし、天皇(家)との決定的な違いは、上に挙げた②だろう。すなわち、天皇(家)については「古代」以降、名・血族関係・(おそらくは)生没年等々が文献にきちんと記録され(例外的に、天武天皇の生年は書かれていない)、<不詳>などということはなく、個別的・具体的に祖先をたどれるのだ。立花隆の祖先は、そうではないのではないか。その意味では、立花隆は<万世一系>の家系の末裔ではない、というべきだ、余計ながら。

0562/安本美典・大和朝廷の起源、同・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2005・2003)全読了。

 一 この数日間で、安本美典・大和朝廷の起源―邪馬台国の東遷と神武東征伝承(勉誠出版、2005)、安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承―神話の中に、史実の核がある(勉誠出版、2003)を、この順序で、それぞれ全読了した。
 安本美典の2000年以降の本(№はないが、「推理・邪馬台国と日本神話の謎」との統一タイトルのシリーズ扱いのようだ)は、安本がそれまでに主張してきたことの集大成プラス若干の補足的情報で、1934年生まれの安本としては、同じ形式・スタイル・造本で<ライフ・ワーク>を遺しておきたかったのだと思われる。したがって、その主張に馴染みがある者にはごく簡単に読めるし、もともとこの人の文章は(安本は文章心理学の本も出しているが)短く、読みやすく、主張が明晰だ(それと比べて、丸山真男の文章は何と読み難いのか。大江健三郎も、そしてある程度樋口陽一もそうだが)。但し、価格がやや高いのが難。
 二 上の安本・大和朝廷の起源の一部紹介。
 ・p.244-「平等」を至高の「正義」と考えれば「天皇制こそは、わが国において、平等の実現を阻害してきた最大の要因」になる。「いかに人々が平等をめざして戦ってきたか」という「人民の歴史」観は「第二次大戦後、大きく燃えあがり、マルクス主義などによってささえられ、とくに学界を席巻した」。「人民の歴史」観に立つと、「天皇制の源である大和朝廷も、本来、価値的に否定すべきものとして見ることとなる。そして、古代において大和朝廷が果たした一定の積極的役割を、評価しにくくなる」。
 ・p.247-「今日、古代においては、天皇家も、他の氏族と同じていどの権力しかもっていなかったとする議論がさかんである。しかし、私は、そのような議論は、古代における天皇の権威を、実質以上に低くみようとする一定の意図にもとづくものであると思う。/天皇家の権威は、大和朝廷の成立の当初から、他の氏族に比べ、卓越していたとみられる……」。
 ・各天皇の活躍期等/(卑弥呼=天照大御神230年頃)-神武天皇280年~290年頃-北九州から大和への「東遷」3世紀末-崇神天皇360年頃。
 ・時期の理解・主張に違いはあるが、<神武東遷>又は<邪馬台国東遷>を史実とするものに、和辻哲郎、市村其三郎、森浩一、井上光貞らがいる(安本美典が初めて主張といった珍説?では全くない)。
 三 上の安本・倭王卑弥呼と天照大御神伝承の一部紹介。
 ・247年と248年に続けて皆既日食が起きた(前年のものは大和・飛鳥の上では「皆既」にならない)。この史実(天文学的事実)の反映が<天の岩屋>(天照大御神の「隠れ」)伝承で、これは天照大御神=卑弥呼の<死>を意味するだろう(なお、卑弥呼が中国に使いを遣ったのは中国文献によると239年)。
 ・伝承では天照大御神が天の岩屋から再び地上に出てくるが、前後の天照大御神の活動の仕方には違いがある(後では補佐がつき単独では行動しない)など、再登場後の天照大御神は、中国文献で卑弥呼の「宗女」とされる<台与(豊)>のことだろう。
 ・第一代神武から第一六代仁徳まで皇位は父から子に継承されているが、これは信じられない。弟や甥への継承もあった筈。だが、第一代神武は勿論、非実在説の有力な第二代綏靖~第九代開化も(第十代が崇神)、生没年・在位年数等は別として、存在自体は否定できないだろう。
 ・直木孝次郎は(井上光貞も)、第二代綏靖~第九代開化には「事跡記事」(「旧辞」的部分)が全くないことをもって非実在の根拠とする。しかし、仁賢(24代)・武烈(25代)・安閑(27代)・宣化(28代)・欽明(29代)・敏達(30代)という存在が「ほぼ確実な」天皇にも「旧辞」的部分はなく、用明(31代)・崇峻(32代)・推古(33代)という存在が「確実な」天皇にも「旧辞」的部分はない。
 直木孝次郎は、①神武には事跡記事があっても存在を否定し、②綏靖以下八代は事跡記事を欠くことを理由に存在を否定し、③崇神や仁徳は事跡記事があって存在を肯定し、④用明・崇峻・推古には事跡記事が欠けていても存在を肯定する。こんな根拠は「主観にもとづくもので、およそ、論理や実証にたえるような議論とは思えない」(p.168、典拠は、直木・神話と歴史(吉川弘文館))。
 ・第二代綏靖~第九代開化非実在説の井上光貞(中央公論社の全集の初巻)の第二の根拠は名前(和風諡号を含む)が<後世的>だということにある(三王朝交替説の水野祐に大きく依存)。だが、記紀編纂後の桓武以降の天皇も第二代綏靖~第九代開化に似た又は同じ部分(例、ヤマトネコ)のある諡号をもつ。<後世>の記紀編纂期の天皇の名前を真似たのではなく、逆に、第二代綏靖~第九代開化の名前が<後世>に影響を与えた、と見られる。
 ・神功皇后は実在。活躍時期は400年前後。高句麗・広開土王の碑文は391年に倭が半島に侵入してきたことを示す。神功皇后はこの頃の人物。雄略天皇の活躍時期は470年頃。
 ・天皇等の代数と在位年数(10年程度で古代になればなるほど短くなる)が不自然にならない、というのが、コロンブスの卵的な安本美典説の立脚点。p.217、p.280のグラフは卑弥呼=天照大御神説にきわめて説得的。卑弥呼は神功皇后(日本書記の考え方)でも倭姫でも倭迹迹日百襲姫(箸墓被埋葬者とされる)でもない。
 四 以上の紹介はごく一部。安本美典説すべてを支持はしていないが、相当に説得的かつ刺激的だ。
 日本を<天皇を中心とする神の国>だと完全に又は多分に又は一部にせよ考えている日本国民は、日本古代史についてもっと知っておくべきと思うのだが、はたして<保守>派とされる論客たちにはどの程度の知識・見識とどの程度の一致があるのだろう。かなり心許ないのではないか、という気もする。

0468/1945~1947年の神社と昭和天皇。

 先の大戦終了後、GHQによる占領開始期の神社(とくに伊勢の神宮)と天皇(・皇室)の関係やそれに関するそれぞれの対応・行動は現在の日本人に広くは知られていない。
 1.敗戦前において、ということは明治維新以降の所謂<国家神道>の時代だが、神道は「宗教」とは考えられていなかった。戦前に<宗教団体法>という名の法律があったが、「教派神道」と言われたものを除く神道(およびその関係機構)はこの法律の規制対象ではなかった。
 この宗教団体法は1945年12月28日に廃止され、同日に<宗教法人令>が公布・即日施行された。
 2.その約二週間前の12/15に発せられたのがGHQの「神道指令」。その第一項は「伊勢の大廟に関して宗教的式典の指令、ならびに官国幣社その他の神社に関しての宗教的式典の指令はこれを撤廃すること。」だった。GHQは神道も「宗教」と見なし、(日本)国が伊勢の神宮等の神社による式典挙行の指示を出すことを禁じた。
 以上の二点はほとんど、千田稔・伊勢神宮―東アジアのアマテラス(中公新書、2005)p.203-4による。この著の表現によると、「神道指令」により、「…軍国主義、…過激なる国家主義的宣伝」のための再利用の「防止」を目的として「GHQは国家と神道の結びつきを断ち切った」(p.204)。
 3.この「神道指令」が発せられる約1カ月前、したがって神道(と神社)が制度上もまだ「国家」と不可分だった時期の最後に、天皇(昭和天皇)は(伊勢)神宮等を行幸・巡幸された。
 細かく書けば、11/12-皇居出発・神宮内宮「行在所」泊、11/13-外宮(豊受大神宮)・内宮(皇大神宮)参拝、京都・大宮御所泊、11/14-奈良・神武天皇陵(畝傍御陵)参拝、京都・桃山の明治天皇陵参拝、京都・大宮御所泊、11/15-京都駅から東京へ。
 以上も千田・上掲書による(p.201-2)。この際の天皇陛下の心境を私ごときが正しく推測することなどできる筈もないが、この「巡幸」は「終戦奉告」(千田)であり、昭和天皇は<敗戦>を皇祖(天照大神)・神武天皇・明治天皇の順序で、それぞれの御霊に対して<報告>されたのだと思われる(千田は明記していないが、参拝の順序は無意味・偶然では全くなかっただろう)。
 4.敗戦前において、神社の土地(境内地)は国有財産(>「公用財産」)だった。なお、寺院の土地(境内地)は国有財産のうち「雑種財産」とされ、寺院が使用する間は(おそらく「無償」で)国から各寺院に「貸しつけ」られていたが、1939年(昭和14年)に(おそらく「無償」で)「譲与」された。神社境内地はその年以降も国有財産(・「公用財産」)のままであり、土地以外の建物や組織(・人員)を含めた意味での「神社」は、「国の営造物(公共施設)」の一種だった。
 以上は、「おそらく「無償」で」の部分を除いて、神社本庁研修所編・わかりやすい神道の歴史(神社新報社、2005)p.254による(執筆=新田均)。
 5.敗戦後のGHQの国家・神道分離方針のもとでは、上のような法的状態は維持できない。GHQ「神道指令」(1945.12.15)の後で、神社の土地を戦前の昭和14年までの寺院との関係と同様に国有財産としての「雑種財産」に変更したうえで各神社に「貸しつけ」ることが計画された。だが、1946年3月に憲法改正草案(あるいは「新憲法」草案)が発表され、そこには<政教分離>も掲げられていたため、この計画実現は不可能となった。<(無償)貸しつけ>は神社(・神道という宗教)を有利に扱う(特定の宗教に「特権を与える」)ことになるからだった。一方で、<有償での(土地等の)買取り>では、資力のない神社は「自滅する以外に」なかった。
 以上も殆ど新田均執筆部分の神社本庁の上掲書p.254によっている。そして、かかる状況のもとで<無償譲渡>の実現が「緊急の課題」となり、日本国憲法の施行の前日(1947年5月2日)に国から各神社への<無償譲渡>が―<用地等(無償)払い下げ>とも表現できる―実現した、という。
 知らなかったが、何とも際どいドラマが展開されていたものだ。
 もともと書き記しておきたかったことにまだ至っていない。再び回を改める。
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