秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

社会主義革命

2035/明治維新と日本共産党に関する小考。

 いろいろな「考え」・「思い」がふと生まれることがある。例えば、以下。
  西洋の力の背後に「キリスト教」を見て、明治政権は「天皇・神道」を対応する宗教として中軸に据えようとしたとの説明・論がある。
 しかし、キリスト教という「宗教」の世俗化またはそれと国家の分離のためにフランス革命があり、さらには「無神論」によるロシア革命までの動向があったとすると、西洋または欧米が世俗的にはすでに「キリスト教」という宗教から離れていた時代に、日本・明治政権は実質的に「神道」という宗教に依存しようとした。これは大いなる勘違い、ボタンのかけ間違いだったのではないか。
 しかし、神道または「神武創業・開闢」の原理の内容が実際には<空虚>であったため、実質的には自由に、欧米の近代「科学・技術」を何でも自由に「輸入して」、「文明開化」を推進することができた。
 しかしまた、天皇・神道原理からは具体的な近代的「政治」の原理は出てこなかったのだった。
  日本共産党が「天皇制打倒」を主綱領の一つにしたのは、ロシア革命での(正確には二月革命での)ロシア帝制「打倒」につづいて「社会主義」へと向かったという、ロシアの経験・成功体験にもとづくロシア共産党、そしてコミンテルンの方針にもとづく。
 (日本共産党の戦前の綱領類を誰が(どの日本人が)執筆したかを探ろうとする者がいるようだが、実質的にロシア語の翻訳の文章であるに決まっている。)
 上のことが実質的に、天皇制打倒=反封建(または反絶対主義)民主主義革命と社会主義革命という「連続」・「二段階」革命の基本方針となった。
 ロシアがソヴィエト連邦となった後のスターリンの時代だと、直接的な「一段階」の「社会主義」革命の方針が押しつけられた可能性がある。
 しかし、その時代、日本共産党はすでに実質的には存在せず(何人かのみが獄中にあり)、基本戦略を議論したり、受容する力が全くなかった。
 そのおかげで、戦後に復活した日本共産党は、若干の曲折はあったが、「民主主義」→「社会主義」という「二段階」革命路線を容易に採用することができた。
 かつそのおかげで、「社会主義」で一致しなくても「民主主義」という一点で引きつけて(党員の他に)少なくとも支持者をある程度は獲得することができ、国会内に議席を有する「公党」として生き続けることができている。
 前者一本だったとすると、とっくに消失しているだろう。あとは「社会主義」革命だけだったはずのイタリアの共産党はすでになく、フランスの共産党もなきに等しい。
  歴史というのは、「皮肉」なものだ。以上、思いつきまたは「妄論」の二つ。

1686/帝国主義と革命①-L・コワコフスキ著18章5節。

 この本には、邦訳書がない。Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 第5節へと進む。第2巻単行著の、p.491以下。
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 第5節・帝国主義の理論と革命の理論①。
 帝国主義に関するボルシェヴィキの理論は、レーニンとブハーリンが作った。
 ブハーリンは、最初に、新しい歴史的時代のために革命の戦略の基礎を定式化した。
 帝国主義に関する著作でレーニンは-すでに書いたことだが、たいていの部分は、J・A・ホブソンの<帝国主義>(1902)とR・ヒルファディングの<金融資本主義>(1910)にもとづく-、帝国主義を前独占資本主義時代と区別する主要な五つの特質を列挙する。
 (1) 生産と資本の集中。これは、大独占体による世界経済の支配へと至る。
 (2) 銀行と金融資本の融合およびその結果としての金融寡頭制。
 (3) 資本の輸出のとくに重要な役割。
 (4) 国際的資本主義の独占同盟者たちによる世界分割。
 (5) 大帝国主義諸勢力による世界の領土的分割競争。
 この状況は資本主義の矛盾を除去せず、極限にまでその矛盾を高める。体制内部での発展の不均等性と競争の激しさは、戦争の蓋然性を減少させないばかりか、それを一層不可避にする。
 最後の点を、レーニンは、カウツキーを攻撃して、強調する。
 カウツキーは、世界経済体制が『極端な帝国主義』の段階へと移行するのを予見するのは可能だ、と主張していた。その段階とは、大諸国と国際的カルテルが世界の分割を安定化させ、戦争の危険性を排除できる帝国主義の段階だ。
 カウツキーは、これを一般的な仮説として提起し、このように必然的に進むとは何も主張しなかった。
 しかし、レーニンは、戦争なき資本主義、革命も起こりそうにない状態の国家、という考え方だと憤慨した。
 カウツキーの『愚にもつかない話』は反マルクス主義的で、日和見主義の兆候だ。帝国主義は、世界発展の不均等性を調整して排除する手段はないので、戦争なくしては存在し得ないはずだろう。
 そのことから、論文『プロレタリア革命の軍事綱領』(1916)で、レーニンは、社会主義は全ての国で同時に勝利することはない、との結論を導いた。
 革命の過程は一つまたは若干の国々で始まり、それがさらなる対立と戦争につながるだろう。//
 ブハーリンは、革命の展望と、単一の制度を同時に構成する世界経済の不均等な発展との関係を、戦争中と革命後の最初の数年の間に書いた書物で、詳述した。
 彼が説明するには、帝国主義は、監督して規制する力のある国家とともに、生産の無秩序を克服しようと、かつ合理的な経済を組織しようと追求する。
 しかし、矛盾と競争を除外することはできず、そのゆえに、帝国主義戦争を避けることはできない。
 全体としての資本主義体制は、社会主義革命に向けて成熟している。しかし、技術的な発展が高度に達しており、莫大な収益のおかげでブルジョアジーが労働者に高い賃金を支払うことができ、労働者に革命を思いとどまらせるところでは、矛盾の集中が最大になっている、つまり資本主義世界の外縁の、後進地域、植民地および半封建的な諸国以上に、この社会主義革命は、勃発しそうにない。
 増大する搾取、民族的抑圧、および農民運動が組み合わさって、これらの諸国は、世界的体制の鎖を力づくでもぎ取ることのできる最も弱い繋ぎ目(環)だ。
 発展していない諸国での社会運動は、直接に社会主義の建設を導くことはできない。しかし、それは、先進諸国のプロレタリア-トの自然の同盟者であって、労働者、農民の結合した力にもとづいて、漸進的で平和的な社会主義への発展と一致するブルジョア民主主義的目標を達成する、そのような過渡的な社会形態を創り出すことができるだろう。//
 しかしながら、レーニンは1916年までに、議論をつぎの段階へと進めた。
 『自己決定に関する討論の総括』で、こう書いた。//
 『植民地や欧州の小民族の反乱が伴わない、<偏見を全てもった>小ブルジョアの一部の革命的な暴発が伴わない、地主、教会および君主制による抑圧に反対する、あるいは民族的抑圧に反対する等々の、政治的には無自覚のプロレタリアと半プロレタリアの大衆の運動が伴わない、そのような社会革命が<考えられ得る>、と想像するのは全て、社会革命を放棄することを意味する。<中略>
 「純粋な」社会革命を期待する者は誰も、それに生きてめぐり合うことは<決してない>だろう。<中略>
 ヨーロッパでの社会主義革命は、抑圧されかつ不満をもつあらゆる全ての者の側の、大衆闘争の暴発以外のものでは<あり得ない>。
 不可避的に、小ブルジョアや遅れた労働者の一部もそれに参加するだろう-このような参加なくして、<大衆>闘争は不可能であり、<いかなる革命も>また可能では<ない>。
 また彼らは、全く同じように不可避的に、自分たちの偏見、反動的な空想、弱さと誤りを運動に持ち込むだろう。
 しかし、<客観的には>、彼らは<資本>を攻撃するだろう。』
 (全集22巻p.355-6〔=日本語版全集22巻416-7頁〕。)//
 この理論の帰結またはこれがマルクス主義の伝統から逸脱する程度を、レーニンが十分に意識していたかどうかは明確でない。
 マルクス主義が発展の『ブルジョア』段階だと、別言すれば一次的な農民と従属民族の段階だと見なすような多数の充足されない要求や熱望があるところでのみ、社会主義者の蜂起は発生し得る。-このことが、いずれにしても、断固として述べられた。
 これは、社会がブルジョアジーとプロレタリア-トでのみ構成される、マルクスが予見したような状況に資本主義が接近するときには、社会主義革命は生じない、または生じそうにない、ということを意味する。
 充たされない農民と民族的要求および『封建主義の残滓』の存在はプロレタリア-トを助けて、『非プロレタリア』の活力でもってプロレタリア-トを補強し得るだろうとのレーニンの言明は、もちろん、マルクスとエンゲルスの戦略と矛盾してはいない。
 マルクスとエンゲルスは、多様な場合に同様の立場を採用した。例えば、1848年のドイツのプロレタリア革命や1870年代のロシアの革命への望みにおいて、あるいは、アイルランド問題はイギリスの労働者階級の立場を強化するだろうとの見方において。
 本当のことだが、マルクスとエンゲルスは、この同盟がどのように作動するかに関するいかなる精確な理論をも提示しなかったし、どのようにして彼らの望みは社会主義革命に関する一般理論と調和できるのかについて、明確でもなかった。
 しかし、プロレタリア革命は『封建主義の残滓』による補強なくしては決して生じることができないとの言明は、マルクス主義における新考案物(novelty)であり、伝統的理論からは完全に離反するものだった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ②へとつづく。

1610/二つの革命・三人における②-L・コワコフスキ著16章4節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第4節・民主主義革命におけるプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永続革命』③。
 1917年4月まで、レーニンは、第一の革命がただちに第二のそれへと発展するとは考えていなかった。彼は、『第一の段階』で社会民主主義政府が権力を握るというパルヴゥスの見方に異議を唱えた。
 彼は、1905年4月に、このような政府は長続きしない、と書いた。
 なぜなら、『人民の莫大な多数派が支える革命的独裁だけが永続的なものであり得るからだ。<中略>
 しかし、ロシアのプロレタリアートは、今のところは、ロシアの大衆のうちの少数派だ。』(+)
 (『社会民主党と臨時革命政府』、全集8巻p.291。〔=日本語版全集8巻289頁。〕) 
 ゆえに、社会民主党は、専政体制の打倒をその全体として利益とする農民と権力を分かち持つことを想定すべきだ。
 他方で、レーニンは、1905年革命の前に、プロレタリアートの独裁は自作農民の階級全体に対抗しそれを覆う独裁でなければならない、と書いた。
 このことは、プレハノフによる党綱領の第二草案に関する彼の<ノート>で、明確に表明されている。
 『「独裁」の観念は、外部からのプロレタリアートへの支持を積極的に承認することと両立し得ない。
 もしもプロレタリアートがその革命を達成する際に小ブルジョアジーが自分たちを支持すると本当に積極的に知っているならば、「独裁」を語るのは無意味だろう。
 我々が圧倒的な多数派によって完全に保証されるほどであれば、独裁なくしても立派にことを進めることができるだろうからだ。<中略>
 プロレタリアートの独裁の必要性を承認することは、ただプロレタリアートだけが真に革命的な階級だとの共産党宣言の命題と最も緊密にかつ分かち難く結びついている。』//
 我々が党の綱領の実践的な部分で、小生産者(例えば農民)に対して「好意」を示せば示すほど、綱領の理論的部分では、この信頼できない二つの顔をもつ社会的要員をそれだけ、我々の立場を微塵も損なうことなく「厳格に」、扱わなければならない。
 さて今や、我々は言う。もし貴君がこのような我々の立場を採用するならば、貴君はあらゆる種類の「好意」を期待できるだろう。
 しかし、そうでないならば、我々に腹を立てないで!
 我々は独裁をしながら、貴君に言うだろう。権力の行使が要求されているときに言葉を無駄にするのは無意味だ、と。』(+)
 (全集6巻p.51、p.53注。〔=日本語版全集6巻37頁、39-40頁注(1)。〕)//
 このような見方に沿って、レーニンは1906年に『農業問題綱領の改訂』で、つぎのように書いた。
 『農民の蜂起が勝利へと近づけば近づくほど、自作農民がプロレタリアートに反対する方向へと変化するのはそれだけ近づきそうだ、また、プロレタリアートが独立の組織をもつことが、それだけ多く必要になる。<中略>
 農村プロレタリアートは、完全な社会主義革命へと闘うべく、都市プロレタリアートとともに独自に組織化しなければならない。』(+)
 (全集10巻p.191。〔=日本語版全集10巻174頁。〕)
 したがって、綱領は、つぎのことを含んでいなければならない。
 『農民の成果を強固なものにし、民主主義の勝利から社会主義への直接のプロレタリアの闘争へと移るために運動がすることができ、またそうすべきつぎの一歩を、精確に明示すること。』(+)(同上p.192。〔=日本語版全集10巻174頁。〕)
 1906年4月の『統一大会』で、レーニンはこの見方から明確に、彼があるだろうと信じる西側でのプロレタリアートの蜂起がもしもないならば、農民の抵抗は革命をうち砕くだろうと、語った。//
 『ロシアの革命は、自らの努力で達成することができる。
 しかし、自分自身の強さによるのでは、その成果を保持して強固にすることはおそらくできない。
 西側で社会主義革命がないならば、そうすることができない。
 このような条件がなければ、復古は不可避だ。土地の市有化、国有化、分割のいずれを選択しようとも。それぞれのかつ全ての領有や所有の形態において、小土地所有者はつねに復古のための堡塁になるだろうから。
 民主主義革命が完全に勝利した後では、小土地所有者は不可避的にプロレタリアートに反対する方向に変わるだろう。そして、資本家、地主、金融ブルジョアジーその他のようなプロレタリアートと小土地所有者の共通の敵が放擲されるのが速ければ速いほど、それだけ早くそのように変わるだろう。
 我々の民主主義共和国は、西側の社会主義プロレタリアート以外には、予備軍を持たない。』(+)
 (全集10巻p.280〔=日本語版全集10巻270頁。〕//
 こうしたことは、スターリンがレーニン主義と永続革命理論の間には『根本的対立』があるとのちに語ったのが、いかに大きく彼が誇張していたかを、明らかに示している。
 スターリンはトロツキーに反対して、第一に、この理論は革命的勢力である農民に対する不信の意味を含んでいる、農民は一階級として社会主義革命でのプロレタリアートの敵になると示唆している、と主張した。
 第二に、トロツキーは一国における社会主義建設の可能性を疑問視し、西側での大転覆なくしてロシアでの成功を維持できるとは考えなかった、と彼は主張した。
 スターリンによると、この二つの点で、レーニンとトロツキーは最初から全体として対立していた。
 しかし実際は、レーニンは、1917年の前に、そして決して一人だけではなく、社会主義革命は言うまでもなくロシアでの民主主義革命ですら、西側の社会主義革命なくしては維持できないと考えていた。
 レーニンは、農村プロレタリアート、つまりその利益が彼によれば都市労働者と合致し、ゆえに社会主義革命を支持するだろう土地なき農民を組織する必要を強調した。
 しかし、1917年の前に、農民全体は『第二段階』ではプロレタリアートに反対する方向に変わるだろうと認識した。
 最後には、レーニンは、『第一段階』は社会主義政府をもたらさないが、『社会主義に向かう直接の階級闘争』を開始させる、と考えた。
 永続革命の理論は、『第一段階』がただちにプロレタリアートまたはその党による支配をもたらすという点でのみ、レーニンの見方に反していた。
 レーニンが農村地帯での階級闘争に関する戦術を基礎づけ、プロレタリアートと貧農の独裁という教理へと進んだのは、ようやくのちのことだった。レーニンは、プロレタリアートと全体としての農民層の間には埋められない懸隔があるという理論にもとづく政策に対抗すべく、その教理を認めざるを得なかった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
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 第4節終わり。第16章全体の「小括」へとつづく。


1551/レーニンの革命戦術①-R・パイプス著10章3節。


 リチャード・パイプスの近著に、以下がある。
 Richard Pipes, Alexander Yakovlev -The Man whose Ideas delivered Russia from Communism (2015) . <R・パイプス, アレクサンダー・ヤコブレフ-ロシアを共産主義から救い出した人物>。
 これの2015年2月付の序言の一部は、つぎのとおり。
 「2005年に、イタリア・トリノで開かれた会議に、ミハイル・ゴルバチョフから招かれた。その会議は、『世界を変えた20年』と題して、世界政治フォーラムが組織しており、1985年から始まったゴルバチョフの5年間の指導者在職中にソヴィエト同盟で生じた、諸変革を記念するのを目的としていた」。
 さて、Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990), の第二部第10章の試訳。
 前回からのつづき。
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 第3節・レーニンの革命戦術①。
 レーニンは、きわめて秘密主義の人間だった。
 合わせて55巻の全集になるほどに多くを語り、書いたけれども、彼の演説や著作は圧倒的に虚偽宣伝や煽動で、潜在的な支持者を説得することか、または知られた対抗者の考えを暴露するというよりもそれを破壊することかを意図していた。
 心に浮かんだことは、身近な仲間にすらほとんど明らかにしなかった。
 階級間の世界戦争の最高司令官として、計画は個人的なままにした。
 したがって、レーニンの思想を再述するためには、知られている行為から隠された意図へと遡って分析することが必要だ。//
 一般的な諸論点-誰が敵でその敵に対して何がなされるべきか-については、レーニンは包み隠さなかった。
 大まかに把握された目標-『綱領』(プログラム, programm)-を、彼は公にしていた。
 そこからレーニンの意図を見抜くには、かなりの困難がある。
 ムッソリーニについて言うと、彼自身はクー・デタ技術の専門家では全くなかったが、ジョバンニ・ジョリッティ(Giovanni Giolitti)に対して、『国家は革命の綱領に対してではなく、革命の戦術に対して防衛されなければならない』と打ち明けていた。//
 レーニンはメンシェヴィキ・エスエルの二段階革命の原理およびその推論形である dvoevlastie 、つまり二重権力を拒否した。
 彼は臨時政府を可能なかぎり実際にぐらつかせて、権力を奪取することを意図した。
 レーニンの注目すべく鋭い政治的本能-どの成功した将軍も所持する才能-によって、これができると考えた。
 彼は、リベラルなまたは社会主義的知識人がどういう存在なのかを知っていた。クレマンソー(Clemenceau)の言葉を借りれば、『菜食主義の虎』たちは、彼らの革命的な言辞にかかわらず、政治責任を死ぬほど怖れ、かりに手渡されても権力を行使できない。
 この点で彼は、ニコライ二世のようなものだと判断した。
 さらに、国民的な一体性の外観や臨時政府への一般的な支持の奥底には、煽り立てて適切に指揮すれば非効率な民主政体を打倒してレーニンに権力をもたらすような、力強い破壊力が煮え立っていると、気づいていた。都市での物資の不足、農民の社会的動揺、民族的な欲求。
 ボルシェヴィキはその目標を達成するため、現況(status quo)に対する唯一の選択肢として、臨時政府や他の社会主義政党のいずれもからきっぱりと離れなければならなかった。
 ロシアへの帰還後レーニンは、この主張を基本線として、支持者たちに臨時政府への融和的態度を放棄すること、メンシェヴィキとの統合を考えてはならないことを力強く説いた。//
 民主主義的なスローガンがますます民衆性を獲得しているのを見たレーニンは、ボルシェヴィキ党への権力の要求を公然とは主張できなかった。
 ボルシェヴィキ党の党員以外は誰も、そして党員ですらほとんど、権力要求が達成できる見通しを持たなかった。
 この理由で短い幕間(中間休憩期間)として、レーニンは1917年の間は、権力のソヴェトへの移行を主張した。
 1917年の秋までボルシェヴィキはソヴェトの中の少数派だったことを見ると、この戦術は当惑させるもののように思える。そして、表向きは、この綱領を達成するということは、権力のメンシェヴィキとエスエルへの移行を意味するはずだった。
 しかし、ボルシェヴィキは、このような移行は決して生じないと確信していた。
 メンシェヴィキの全指導者の中で対抗派に対する幻想を最ももっていなかったツェレテリ(Tsereteli)は、ボルシェヴィキはソヴェトの多数派から国民的権力を闘い取ることに何ら困らないと思っている、と書いた。
 臨時政府にはいろいろな欠点があったけれども、レーニンの見地からすると、それは大きな軍事力をもちかつ農民層および中産階級からの確実な量の支持を受けているがゆえに、民主主義的社会主義者たちよりもはるかに危険な敵だった。
 民族主義に訴えることで、臨時政府は力強い力を結集することができた。
 名目上であろうと、臨時政府に権力がとどまっているかぎり、国家が右へと舵を切る危険はつねに存在した。
 ソヴェトに権威の中心があったので、政治的雰囲気を急進化させ、『反革命』という妖怪でもって脅迫して優柔不断な社会主義者たちを引っ張り続けるのは、相対的には簡単なことだった。//
 レーニンはその目標-権力の奪取-をめざし、軍事史や軍事学で学んだことにもとづく方法で追求した。
 純粋な政治というのは、権威主義的な方法であっても、権力への競争者と自主的な主導性については抑えた展望をもつ民衆全体の両者との間の、何らかの種類の調整を含んでいる。
 しかし、レーニンには政治とはつねに階級戦争であり、クラウセヴィッツの語法で思考をした。
 軍事戦略としての目的は、対抗者との調整ではなくして、彼らを破壊することだった。
 これは、先ず第一に、二つの意味での対抗者の武装解除を意味した。すなわち、(1) 軍事力の剥奪、(2) その諸機構の破壊。
 しかしこれはまた、戦場と同じく、敵の肉体的な殲滅を意味しえた。
 ヨーロッパの社会主義者はよく『階級戦争』と語ったが、それは主としては、バリケードを築くという頂点があるかもしれないとしても、工場ストライキや投票行動のような、非暴力的な手段によるものを意味した。
 レーニンは、そして彼だけは、『階級戦争』を文字どおりに国内戦争(civil war)の意味で用いた-戦略的破壊を目的とする、必要ならば政治の戦場での再挑戦を不能にするほどの首尾での勝利につながる敵の殲滅を目的とする、使用可能な全ての武器を使っての、戦争だ。
 このような見地での革命とは、別の手段によって遂行される戦争だった。違いは、国家間や民族間ではなくて、社会的階級の間で行われる戦闘だということにあった。
 戦闘のラインは、水平ではなく垂直に〔横ではなく縦に〕走っていた。
 このような政治の軍事化に、レーニンが成功する重要な根源があった。
 成功するためにレーニンはこのように考えていたが、それは、彼の敵が、設定もされず予期もできない地域での戦闘だと政治を取り扱う者がいるなどとは想像できないほどのものだった。//
 レーニンがその人格の内奥から導く政治に関する考え方は、彼の支配への渇望とレーニンが成長したアレクサンダー三世時代のロシアで形づくられた伝来的政治風土とが結びついたものだった。
 だが、この心理的な衝動と文化的伝統とを、理論的に正当化するものがなければならない。レーニンは、これを、マルクスのパリ・コミューン(Paris Commune)に関する論評のうちに見出した。
 この主題に関するマルクスの著作はレーニンに圧倒的な印象を与え、彼の行動の指針になった。
 マルクスはコミューンの生成と崩壊を観察して、全ての革命家はそのときまで、既存の諸制度を破壊するのではなく奪い取ろうとするという重要な過ちを冒していたと結論づけた。
 階級国家の政治的、文化的そして軍事的な諸構造を無傷なままに残して、たんに人員だけを置き換えることでは、反革命の生育地が残されてしまった。
 これからの革命家は、違うやり方で前進しなければならないことになろう。
 『これまでなされたように官僚・軍事機構を一塊としてある者から別の者に移行させるのではなく、それを破壊すべきだ』。(44)
 これらの言葉は、レーニンの心に深く染みこんだ。
 レーニンはあらゆる機会にこれを繰り返し、その重要な政治命題の中心に据えた-<国家と革命>。
 それはレーニンの破壊本能を正当化するのに役立ち、新しい秩序を樹立するというその欲望に合理性を与えた。『全体主義』要求の中に全てを包括する、新しい秩序をだ。//
 レーニンはつねに、革命を世界的な意味で捉えた。
 彼にはロシア革命はたんなる偶然的事件であり、『帝国主義』の最も弱い環を偶発的に切断することだった。
 レーニンはロシアを改革することにでは決してなく、ロシアを征圧して、産業諸国家とその植民地における革命への跳躍台にすることにだけ関心があった。
 ロシアの独裁者となっても、1917年やその後の事態を世界的観点から見ることをやめなかった。
 彼にとっては、『ロシア革命』であってはならず、ロシアで開始された、発生するはずの世界的革命なのだった。
 ロシアへと出立する日の前に渡したスイスの社会主義者たちあての別れの文章の中で、レーニンはこの点を、つぎのように強調している。//
 『一連の諸革命を<開始>したという大きな栄誉は、ロシア人に与えられた。<中略>
 ロシアのプロレタリアートが<独特の、おそらく短期間のみの>全世界の革命的プロレタリアートの前衛になったのは、その特殊な属性にではなく、特殊な歴史的条件に原因がある。
 ロシアは農民国家であって、ヨーロッパの最も遅れた国の一つだ。
 そこで<直接に、現時点で>、社会主義が勝利するのは<不可能>だ。
 しかし、国家の農民的性格は…、ロシアのブルジョア民主主義革命への巨大な一撃を導くことを、そして我々の革命を世界的社会主義革命の<序曲>にすること、それへの<一歩>とすること、を<可能に>する。』(45)
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 (44) レーニン全集に引用される、1871年のクーゲルマン博士への手紙。
 (45) 〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)25頁「戦術に関する手紙」(1917年4日8-13日に執筆、のち単行小冊子)かと思われる。-注記・試訳者による〕
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 ②へとつづく。

1547/レーニン帰国②・四月テーゼ-R・パイプス著第10章。


 前回のつづき。
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 第2節・ドイツの助けでレーニン帰還②。
 そこ〔ストックホルム〕で待っていた人たちの中に、パルヴスがいた。
 彼はレーニンと逢いたいと頼んだが、慎重なボルシェヴィキ指導者は拒んで、ラデックに譲った。ラデックは、オーストリア人だったおかげで裏切りだと追及される危険がなかった。
 ラデックは3月31日/4月13日のかなりの部分を、パルヴスとともに過ごした。
 二人の間に何があったかは、知られていない。
 彼らは別れ、パルヴスは急いでペルリンに向かった。
 4月20日(新暦)に、パルヴスは私的に、ドイツの国務長官(state secretary)のアルトゥール・ツィンマーマン(Arthur Zimmermann)と会った。
 この会見についても、記録は残されていない。
 パルヴスは、ストックホルムに戻った。(32)
 文書上の証拠は不足しているが-高いレベルの秘密活動を含む資料についてよくあることだ-、後で起こったことを見てみると、パルヴスがドイツ政府に代わってラデックと逢い、ロシアでのボルシェヴィキを財政的に支援する条件や手続について取り決めた、ということが、ほとんど確実だと思われる。(*)//
 ストックホルムのロシア領事館は、到着を待って入国査証を用意していた。
 臨時政府は、戦争反対活動家たちの入国を認めるかどうかを躊躇したように見える。
 しかし、方針を変更して、敵国領土を縦貫したことでレーニンが政治的に妥協することを期待した。
 一行はストックホルムを立って3月31日/4月13日にフィンランドに着き、三日後(4月3日/16日)の午後11時30分にペテログラードに到着した。(+)//
 レーニンがペテログラードに着いたのは、全ロシア・ボルシェヴィキ大会の最終日だった。
 地方から出てきている多くのボルシェヴィキ党員は知っていて、指導者レーニンを歓迎する用意をしていた。その歓迎ぶりは、その劇場性において、社会主義諸団体でかつて見た全てをはるかに上回っていた。
 ペテログラード委員会は、フィンランド駅へと労働者たちを呼び集めた。
 委員会は、線路に沿って護衛兵と軍楽隊を配置した。
 レーニンが列車から姿を現わしたとき、軍楽隊は『マルセイエーズ(Marseillaise)』を演奏し始め、護衛兵たちは見ようと跳び上がった。
 チヘイゼ(Chkheidze)がイスポルコム(Ispolkom)を代表して歓迎し、社会主義者は国内の反革命と外国の侵略から『革命的自由』を防衛すべく一致団結するという希望を声を出して語った。
 フィンランド駅の外で、レーニンは装甲車の上に昇り、投光器によって照らされながら、簡単に若干の言葉を発した。そのあとでクシェシンスカヤ(Kshesinskaia)邸に向かい、群衆が後を続いた。//
 スハーノフ(Sukhanov)は、その夜のボルシェヴィキ中央司令部での出来事について、目撃証言書を残した。//
 『かなり大きなホールの下に、多数の人々が集まった。労働者たち、『職業的革命家たち』、そして女性たち。
 椅子は足らず、出席者の半分は心地よくなく立っているか、テーブルの上に体を伸ばしていた。
 誰かが進行役に選ばれ、各地域からの報告という形での挨拶の言葉が述べられた。
 この挨拶は、全体としては単調で、長々と続いた。
 しかし、いまそのときに、ボルシェヴィキの「様式(スタイル)」の奇妙で独特な特徴、ボルシェヴィキ党の仕事の独特の流儀(モード、mode)だとの思いが生じた。
 そして、ボルシェヴィキの全作業が、それなくして党員たちは完全に無力だと思い、同時にそれを誇りに思い、中でも自分が聖杯の騎士のごとくそれの献身的な召使いだと感じている、異質な精神的根源の鉄の枠に捉えられている、ということが絶対的な明白性をもって、明確になった。
 カーメネフも、漠然と何かを喋った。
 最後に、彼らはジノヴィエフを思い出した。ジノヴィエフはあまり熱意のない拍手を受け、何も語らなかった。
 そうして、報告の形での挨拶が最後を迎えた…。//
 そのとき、体制の大主人公〔レーニン ?〕が、『反応的に』起ち上がった。
 私は、あの演説を忘れることができない。異端者的に図らずも熱狂的興奮に投げ込まれた私にだけではなく、本当の信仰者たちにも衝撃を与えて驚愕させた、雷光のごときあの演説を。
 誰もあのようなことを予期していなかった、と断言する。
 まるで全ての原始的な諸力が棲息地から起き上がったように思えた。
 そして、全ての自然界破壊の精神的なものが、邪魔する物なく、懐疑なく、人間的な苦しみも人間的な打算もなく、クシェシンスカヤ邸のホールにいる取り憑かれた信徒たちの頭の上で、響き回った。』(35)//
 90分続いたレーニンの演説の基本趣旨は、『ブルジョア民主主義』革命から『社会主義』革命への移行は数ヶ月の問題として達成されなければならない、というものだった。(**)
 これは、帝制が打倒されたあと僅か4週間後に、死刑を執行するつぎの承継者は自分だとレーニンが公に宣言している、ということを意味した。
 こういう前提命題は、彼の支持者たちの大多数の気分とは違っていて、無責任で『冒険主義的』だと思われた。
 その結果として、その夜に残った者たちは、嵐のごとき議論を交わした。その会合は、午前4時に終わった。//
 その日の後で、レーニンは、ボルシェヴィキ党の一団に対して、そして別にボルシェヴィキとメンシェヴィキの合同の会議に対して、一枚の文書を読み上げた。それは、反対を予想して、レーニンの個人的見解による回答を提示するものだった。
 のちに『四月テーゼ(April Theses)』として知られるこの文書は、狂気でなければ完全に現実感を失っていると聞き手には思える行動綱領を概述したものだった。(36)
 レーニンの提示は、こうだった。進行する戦争への不支援、革命の『第二』段階への即時移行、臨時政府への支持の拒絶、全権力のソヴェトへの移行、人民軍を結成するための現軍隊の廃止、全ての地主所有土地の没収と全国土の国有化、ソヴェトの監督のもとでの全銀行の単一の国有銀行への統合。
 そして、ソヴェトによる生産と配分の統制、新しい社会主義インターナショナルの結成。//
 <プラウダ>編集局は、印刷装置が機械的に故障したという偽りの理由をつけて、レーニンの『テーゼ』を印刷するのを拒否した。
 4月6日のボルシェヴィキ中央委員会総会は、レーニンのテーゼに対する否認決議を採択した。
 カーメネフは、レーニンが現在のロシアとパリ・コミューンとの間の共通性を指摘するのは過っている、と主張した。
 一方、スターリンは、『テーゼ』は『図式的(schematic)』で事実に即していないと考えた。
 しかし、レーニンおよび一時期に<プラウダ>編集局に一緒にいたことのあったジノヴィエフは同編集局に発刊を強いて、『テーゼ』は4月7日に掲載された。
 レーニンの論文には、カーメネフの論評が付けられていて、これは党機関の決定から逸脱している、と書いていた。
 レーニンは、『ブルジョア民主主義革命は達成されたという前提から出発し、その革命の社会主義革命への即時移行を唱える』。
 さらにカーメネフは続ける。しかし、中央委員会の考えは異なっており、ボルシェヴィキ党はその決議に従う。(***)
 ペテログラード委員会は4月8日に会議を開き、レーニンの文書について議論した。
 表決は、やはり圧倒的に否定的だった。賛成2票、反対13票、そして保留が1票。
 地方の諸都市の反応も似ている。例えば、キエフとサラトフのボルシェヴィキ組織は、レーニンの基本方針(program)を却下した。後者は、執筆者〔レーニン〕はロシアの状況に疎い、という理由でだった。//
 指導者の宣言文書に関するボルシェヴィキの見解がどうであろうと、ドイツは愉快だった。
 ストックホルムにいるドイツの工作員は、4月17日に、ベルリンへと電信を打った。
 『レーニンの入国は、成功だった。彼は、我々がまさに望んだように仕事をしている』。(41)//
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  (32) ゼーマン=シャルラウ, 革命の商人・パルヴスの生涯 (1965), p.217-9。
  (*) ラデックはオーストリア人で、臨時政府からは敵国人だと考えられた。ロシアへの入国査証の発行を拒否されたので、彼は1917年10月までストックホルムにとどまり、レーニンのために働いた。
  (+) そのあと、ロシア難民のいくつかの一行がさらにドイツを縦貫してロシアに着いた。
  (35) N. Sukhanov, Zapinski o revoliutsii, III (1922), p.26-27。
  (**) この演説の音源上の記録はない。しかし、レーニンが用いたノートは、同全集・選集類で刊行されている。〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)10頁「われわれはどうやって帰ってきたか」1917年4月4日執筆、同13頁「四月テーゼ擁護のための論文または演説の腹案」1917年4月4-12日の間に執筆/1933年1月22日<プラウダ>上で初公表-「手稿による印刷」。とくに後者が該当しそうだ-試訳者の注記。〕
  (36) 〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)3頁「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について/テーゼ」<プラウダ> 26号(1917年4日7日)。-注記・試訳者による〕
  (***) Iu. Kamenev in :<プラウダ> 27号(1917年4日8日)2頁。カーメネフは、3月28日のボルシェヴィキ大会の諸決議を参照要求する。
  (41) ゼーマンら編, ドイツとロシア革命 (1958), p.51。
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 第3節につづく。

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