Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第一節/起源と目標②。
 (07) 戦時共産主義には、いくつかの源泉となる着想があった。
 商品と労働の生産・配分の国家統制(国家所有でなかったが)は、第一次大戦中のの帝政ドイツで導入されていた。
 「戦時社会主義」(Kriegessozialismus)として知られるこの緊急措置は、レーニンとその経済助言者のIurii Larin に深い印象を与えた。
 商品の自由市場を国家経営の分配センターで置き換えるというのは、Louis Blanc の思想と彼の影響のもとで1948年にフランスに導入された<ateliers>に倣っていた。
 しかしながら、精神では、戦時共産主義が最も似ていたのは、中世ロシアの父権的体制(tiagloe gosudarstvo)だった。父権的体制のもとでは、君主制は、住民や資源も含めて、国全体を君主の私的領域のごとく扱った(注08)。
 西欧の文化に本当に全く接したことがなかったロシアの大衆にとって、経済の統制は、抽象的な財産権や「資本主義」と称される複合現象全体よりも、はるかに自然だった。
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 (08) かりに1918年と1921年の間のソヴィエトの経済布令を額面どおりに理解すれば、この時期の終わりには国家の経済は完全に国家が管理するものになると、おそらく間違いなく結論づけるだろう。
 実際には、ソヴィエトの布令群は、しばしば意図を示したものにすぎなかった。法と現実との不一致はより大きくはならなかった。
 恒常的に膨大化する国家セクターと並んで、その廃止の企てに抵抗する私的セクターが盛んに活動していた証拠は、豊富に存在する。
 通貨は、言うところの「貨幣なき」経済においてすら流通しつづけた。
 そして、パンは、体制は穀物独占を主張しているにもかかわらず、公開の市場で販売された。
 中央経済計画は、実施されなかった。
 言い換えると、戦時共産主義が放棄されなければならなかった1921年に、それはきわめて不完全ながらようやく実現していた。
 戦時共産主義が失敗した理由は、ごく一部は、法令を政府が実施できなかった、能力のなさにある。
 これ以上に、可能であったときですら、厳格に強制的に施行すれば経済的大厄災をもたらしただろう、と気づいていたことによる。
 共産主義者の文献は、パンの総量の三分の二の多さを都市住民に提供していた非合法の食物取引がなければ、都市は飢餓に陥っていただろう、ということを認めていた。
 新しい名前とスローガンにあった戦時共産主義は、ようやく10年後に現実になった。スターリンが、レーニンが中止させていたときに経済的編成を再開したからだ。
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 (09) 戦時共産主義の目標は、社会主義だった。あるいは、共産主義ですらあった。
 唱導者たちはいつも、社会主義国家は私有財産と自由市場を廃止し、中央集権化した、国家が経営する、計画経済システムがそれらに代わる、と信じていた。
 ボルシェヴィキがこの構想を実現しようとして直面した主要な困難さは、マルクス主義は資本主義の発展の長期の経緯の結果として私有財産と市場を廃棄することを想定していた、ということに由来していた。資本主義の発展こそが、法令によって国有化することができるまでに生産と配分を集中させることができたのだ。
 しかし、ロシアでは、革命の時点で、資本主義はまだその幼年期にあった。
 ロシアの圧倒的な「プチ・ブルジョア」経済は数千万の自己雇用の自治組織の農民と職人に支配されていたのだが、それは、農民に配分し、労働者に工業企業の統制権を付与するために大規模の資産を破壊するというボルシェヴィキの政策によってさらに強化された。
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 (10) レーニンが十分に証明しているのは、異常に明敏な政治家だったということだ。しかし、こと経済問題については、きわめて未熟だった。
 彼の経済に関する知識は、全体として、ドイツの社会主義者のRudolf Hilferding の諸著作のような文献に依拠していた。
 影響力ある<金融資本論>(1910)でHilferding は、資本主義はその最も発展した段階、「金融資本主義」の段階に入った、それは全ての経済力を銀行の手に集中させる、と主張した。
 その段階に到達した資本主義の論理的帰結はこうだ。
 「この趨勢は一銀行または銀行群が貨幣資本全体を支配する状況を生むだろう。
 このような『中央銀行』はそれによって社会的生産の全体に対する支配を確立する。」(注09)
 「金融資本主義」という観念と結びついていたのは、シンジケートやトラストの役割に関する誇張した見方だった。
 レーニンとその仲間たちは、ロシアではシンジケートやトラストが事実上は産業と取引を支配すると信じ、市場の力には小さいかつ消失していく役割しか認めなかった。
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 (11) このような前提からは、銀行やシンジケートを国有化することは国の経済の国有化と同じことである、という帰結が生じ、そのことは次いで、社会主義の基礎を築くことを意味する。
 レーニンは、ロシアでの銀行制度とカルテルの手への経済諸力の集中によって、金融と商業の布令による国有化を可能にする次元を獲得した、と論じた(注10)。
 彼は、十月のクーの直前に、単一の国有銀行を創設すればそのこと自体だけで「<社会主義>制度の十分の九」が達成されるだろう(注11)、という驚くべき言明を述べた。
 トロツキーは、レーニンのこのような楽観主義を確認している。
 「1918年早くに書いた『平和に関するテーゼ』で、レーニンは、『ロシアでの社会主義の勝利には、一定の期間が、<数ヶ月程度(no less than)> が必要だ』と述べる。
 現在〔1924年〕では、この言葉は完全に理解し難いように思える。
 これはペンのすべりだったのか、彼は数年または数十年を意味させたかったのではなかったか?
 だが、否だ。これは、ペンのすべりではなかった。…
 私はとても明瞭に憶えている。最初の時期の、Smolnyi での人民委員会議の会合で、レーニンはいつも変わらずに、我々は半年で社会主義を達成し、最強の国家になるはずだ、と繰り返した。」(注12)
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 (12) 権力を掌握していた最初の6ヶ月のあいだに、レーニンは、彼が「国家社会主義」と呼んだシステムをロシアに導入することを考えた。
 これはドイツの「戦時社会主義」を範としたものだったが、直接に戦争遂行に関連性があるセクターや「資本主義者やユンカーたちの利益となる作業のみならず、「プロレタリアート」のための利益となる作業も包括する、という違いがあった。
 1917年9月、十月のクーの直前に、かくしてレーニンはこう考えていた。
 「常備軍、警察、官僚制の圧倒的に『抑圧的な』諸装置に加えて、現在の国家には、とくに緊密に銀行やシンジケートと結びついて、言ってみれば、大量の会計や記帳の作業を実行している諸装置が存在している。
 これらの装置を粉砕できないし、粉砕してはならない。
 これらは、資本家たちに対する服従から解放されなければならない。影響力をもつ資本家たちから切り離されなければならない。
 プロレタリア・ソヴィエトに対して服従させなければならない。
 そうなれば、諸装置はより総合的に、より多くを包括するものに、より国民的なものになる。
 そしてこのことは、大規模の資本主義によってすでに成し遂げられている達成物に依拠して、行なうことが<できる>。…
 銀行、シンジケート、商業社会等々の大量の被雇用者は、(資本主義と金融資本主義のおかげで)技術的にも、<ソヴィエト>による統制と監視のもとで政治的にも、十分に「国有化」を行なうことができる。」(注13)
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 (13) 1917年11月、レーニンは、経済綱領の概略を、こうメモした。
 「経済政策の諸問題。
  1. 銀行の国有化。
  2. 義務的なシンジケート化。
  3. 外国取引の国家独占。
  4. 略奪と闘う革命的手段。
  5. 金融や銀行の略奪の公表。
  6. 金融産業。
  7. 失業。
  8. 動員—軍の?、工業の?
  9. 供給。」(注14)
 この案は、国内取引の国家独占や工業または輸送の国有化、そして貨幣なき経済については、何ら言及していない。これらは、戦時共産主義の特徴になるはずなのだけれども。
 この時期のレーニンは、金融制度の国有化と工業、商業企業のシンジケート化で、社会主義経済をその途上に乗せるには十分だ、と信じていた。
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 ③につづく。