大江健三郎に関する本に、谷沢永一・こんな日本に誰がした(クレスト社、1995)がある。表紙にもある「戦後民主主義の代表者大江健三郎への告発状」との副題はスゴい。この本は20万部売れたらしい。大江は谷沢永一・悪魔の思想-「進歩的文化人」という名の国賊 12人(クレスト社、1996)の対象の一人でもあるが、「悪魔の思想」とはこれまた勇気凛々の タイトルだ。
 皇太子・秋篠宮両殿下の次の世代の悠仁親王ご誕生への慶賀と安堵の声を伝える放送を見ていたとき、大江健三郎は誕生と一般市民の反応の二つをどう感じているのだろう、とふと思った。その理由は、つぎのことにある。
 谷沢永一の上の第一の本の引用によれば、大江は1959年に「皇太子よ、…若い日本人は、すべてのものがあなたを支持しているわけではない。…天皇制という…問題についてみば、多くの日本人がそれに反対の意見をもっているのである」と書き(ここでの皇太子は現天皇)、1971年には天皇制という中心への志向を特性とするのが日本の近代の「歪み、ひずみ」だとした。また、岩波新書・あいまいな日本の私(1995)の中にも反天皇的気分の文章はある(例えばp.151-2)。
 朝日新聞が悠仁親王に関する大江のコメントを求めたら面白かった(というのは皇室に失礼な表現かもしれないが)と思う。大江は民主主義の徹底を「あいまい」にしたものとして天皇・皇室の存続に反対であり、可能ならば天皇関係条項を憲法から削除したいが、「情勢」を見て自説を積極的に唱えてはいない、と推察できる。9条を考える会の呼びかけ人の1人になっているのは、天皇条項廃止とは異なり9条改正阻止は可能性があると「政治的」に判断しているからだろう。
 大江については、鷲田小彌太他二名・大江健三郎とは誰か(三一新書、1995)という本もある。但し、鷲田以外は文学系の人のためか目次にある天皇制・戦後民主主義との関係等は内容が貧弱だ。同じ年刊行の上の谷沢氏の本の方が大江を広く読んでいて、論評として勝れている。
 もっとも、鷲田の大江への厭味は十分に伝わり、大江が天皇制に批判的であることも明記してある(p.259)。それにしても鷲田によれば-私自身の経験と印象ともほぼ合致するが-大江の小説は「ある時期から特定の文学評論家や研究者以外には、読まれなくなった…。特殊のマニア以外には、買われなくなった…。難解なのか、つまらないのか。私にいわせれば、その両方である」。ノーベル賞で重版が続いたらしいから「売れない、というのは当たっていないだろう。しかし、売れたが、読まれなかった、読もうとしたが、冒頭…で断念した、という人がほとんどだった、といってよい」(p.261)。  これらが事実だとしたら(そのように思えるが)、そもそも大江にノーベル文学賞の資格はあったのか、「文学」とは何かという疑問も生じる。ふつうの自国々民に愛読者が少なくて、何が世界の文学賞様だ、とも思える。司馬遼太郎や松本清張等々の方がふつうの日本国民にはるかに多く読まれ、かつ意識に大きな影響を与えたことに異論はないだろう。この二人については、生前から「全集」が刊行されていた。三島由紀夫にもある。大江作品・エッセイの全てを網羅した個人全集はまだないのではないか。大江は実質的には将来に影響を与えない、名前だけ形式的に記憶される作家になる可能性があるように思うのだが。
 大江について雑談風に書けば、彼は東京大学文学部入学・卒業を「誇り」にしていただろうが、いわゆる現役ではなく一浪後の合格だったことにコンプレックスを持っていたようだ。というのは、手元に元文献はないが間違いない記憶によれば、一年めに英語か数学ができなくて途中で放棄して不合格だったがその年は例年よりもその英語か数学がむつかしくそのまま最後まで受験していたら合格した可能性が十分にあった旨をクドクドと書いてあるのを何かで読み、何故こんなにこだわっているのか、何故長々と釈明するのか、自分の「弱味」意識が強く内心の翳にある、と感じたことがあるからだ。大江はきっと、平均人以上に、「世間」を強く意識している自意識過剰の人物なのだろうと思われる。
 元に戻って、再び大江の天皇・皇室観の問題に触れれば、大江健三郎が明確に語っていないとしても、かつての自衛隊や防衛大学校生に関する発言から見て、彼が反天皇・皇族心情のもち主であることは疑いえない。
 大江は、ノーベル文学賞を受けた1994年に文化勲章受賞・文化功労者表彰を、「戦後民主主義」者にはふさわしくない、「国がらみ」の賞は受けたくない、という理由で拒んだ。だが、何と釈明しようと、大江は要するに、天皇の正面に向かい合って立ち、天皇から受け取る勇気がなかったか、彼なりにそれを潔しとはしなかったからではないか。明確に語らずとも、怨念とも言うべき反天皇・反皇室心情をもって小説・随筆類を書いてきたからだ。
 表向きの理由についても、「戦後民主主義」者うんぬんは馬鹿げている。大江にとって天皇条項がある「民主主義」憲法はきっと我慢ならない「曖昧さ」を残したもので、観念上は天皇条項を無視したいのだろうが、「戦後民主主義」にもかかわらず天皇と皇室は、憲法上予定されている存在なのだ。敗戦時に10歳(憲法施行時に12歳)で占領下の純粋な?「民主主義」教育を受けた感受性の強く賢い彼にとって天皇条項の残存は不思議だったのかもしれないが、憲法というのは(法律もそうだが)矛盾・衝突しそうな条項をもつもので、単純な原理的理解はできないのだ。
 「国がらみ」うんぬんも奇妙だ。彼が愛媛県内子町(現在)に生れ、町立小中学校、県立高校で教育を受け、国立東京大学で学んだということは、彼は「国」の教育制度のおかげでこそ、(間接的な)「国」の金銭的な支援によってこそ成長できたのだ。「国がらみ」を否定するとは自らを否定するに等しいのではないか。
 大江は一方では、スエーデン王立アカデミーが選定し同国王が授与する賞、かつ殺人の有力手段となったダイナマイト発明者の基金による賞は受けた(なお、スエーデン王室は17世紀以降の歴史しかない)。さらに、2002年には皇帝ナポレオン1世が創設したフランスの某勲章を受けた、という。こうした外国の褒章を受けるにもかかわらず、天皇が選定の判断に加わっているはずもない日本の文化勲章のみをなぜ拒否するのか。その心情は、まことに異常で「反日」的というしかない。
 その彼は月刊WiLL2006年12月号によると-石平・私は「毛主席の小戦士」だった(飛鳥新社、2006)の著者が執筆-同年9月に「中国土下座の旅」をし、中国当局が望むとおりの「謝罪」の言葉を述べ回った、という。「九条を考える会」の代表格の一人がこうなのだから、この会の性格・歴史観もよくわかるというものだ。
 大江の中国旅行についてもう少し書くと、大江と相思相愛の朝日新聞の2006年10/17付には大江の中国訪問記が掲載されたらしい。石平の引用によると、1.南京「大虐殺」の証言者老女に会って、彼は日本の「国家規模の歴史認識スリカエ」への抵抗を感じたらしい。どのように感じようと勝手だが、「従軍慰安婦」も南京「大虐殺」も(後者に含められることがある「百人斬り競争」も)、さらに所謂日華事変の発生原因、対日政策にかかる中国共産党とコミンテルンの関係、国民党内への共産党の「侵入」の実態等々もユン・チアン等のマオ(講談社、2005)の作業も含めて、「歴史」は見直されている。それらはアメリカや崩壊後の旧ソ連の資料を使って内外の研究者によってなされているようなのだが、「国家規模の歴史認識スリカエ」とは、大江はよく書いたものだ。約70年前の諸事件の「真実」がとっくに明らかになり確定していると考える方がおかしい。ましてや中国共産党の戦前の資料等はまだ公開されていないのだ。
 2.大江は南京師範大学の研究者の講義には「政治主義、ナショナリズムから学問を切り離そうとする態度」が明らかだったと述べたとか。中国共産党支配国の「学問」がそうだったとは全く信じられない。元朝日新聞の某氏の如く彼らの言うことを「純粋」に信じているのか、「政治的に」嘘を書いているのか。
 というような感想をもちつつ旅をした大江は石平によると、中国共産党政治局常務委員で宣伝・思想教育担当の李長春との人物と「接見」した。大江は純粋な作家ではなく中国に都合のよい「政治的」発言者として遇された、と言ってよい。また、大江は謝罪をし「歴史認識」・「靖国」等を各地で多用したが、「戦後民主主義者」のはずなのに「民主主義」や「人権」という語は一度も使わなかった。また、中国の某サイトは、一昨年10月に小泉首相の靖国参拝があったとき大江は中国人作家関係者への弔電の中にとくに「日本の政治家は常に中国人民の熱意を裏切っている。日本の政治家の…卑劣な行為に私は恥ずかしく思っている」と述べていたことを明らかにした、という。
 作家が政治的行動をしてもよい。三島由紀夫、石原慎太郎しかり。だが、大江を何となく「良心的」な作家と誤解して、その完全に「媚中」・「屈中」的な、かつ反天皇・反皇室的な、完璧に「政治的」行動者たる性格を知らない人がまだ日本国民の一部には残っているのではないか、と怖れる。