一 1 西尾幹二全集第3巻・懐疑の精神(国書刊行会、2012.07)のうち、この全集企画がなかったら「永遠に闇の中に消えて」いただろう(p.601)二篇のうちの一つ、「大江健三郎の幻想的な自我」(初出、1969)、のほか、若干を読む。この大江健三郎分析は二段組み計16頁で、決して短くはないし、引用・紹介したくなる同感点も多いが、これ以上の言及は省略する(1969年という時期にも感心する)。
月報に、「先覚者としての西尾幹二」と題する三浦朱門の文章が載っていて、「今や進歩的文化人という言葉すら、死語になろうとしている。彼らを『殺した』犯人の一人は間違いなく西尾幹二なのである」、と結んでいる。
やや釈然としない。西尾幹二が「進歩的知識人」と対決してきた(している)論者の一人であることは間違いないだろう。しかし、「進歩的文化人という言葉」はたしかに消滅しつつあるかもしれないが(完全に死語になったとは思えない)、言葉・用語法・概念はどうであれ、これに該当する者たちは、今日でも歴然と生き続けているのではないか。
「今や…言葉すら、死語になろうとしている」という表現は、「言葉」とともに実体も当然に死につつある、という趣旨に読めるが、かかる認識・判断は、甘すぎるものと思われる。
コミュニスト・親コミュニズム者、マルクス主義者・親マルクス主義者、そして「左翼」は、執拗に(かつてのマルクス・レーニン主義的用語は用いなくとも)生き続けているだろう。その影響力は、かつてよりも増した、という見方すらできるのではないか。
具体的には例えば、民主党政権、菅直人内閣総理大臣の誕生自体が、「左翼」の体制化、「左翼」の支配を意味していた(意味している)と言いうる。かつての「進歩的文化人」の主張・思想あるいは思考方法は、きちんと継承されていると思われる。
2 産経新聞8/11の「昭和正論座」は1980年の林三郎論考を掲載しているが、コメント者の「湯」(湯浅博かと思われる)は、「ポーランドがいかに祖国の歴史を否定する勢力と闘ってきたかをみれば、日本の一部新聞や進歩派を名乗る知識人の偽善、欺瞞(ぎまん)を感じるだろう」と述べ、「進歩派を名乗る知識人」を語っている。これは1980年頃の状況に限られた叙述ではないように思われる。
3 産経新聞7/28の「昭和正論座」は、1982年の、「崩壊した左翼的知識人の論理」を最大見出しとする辻村明論考を掲載している。コメント者の「石」(石井聡かと思われる)は、「朝日新聞の論壇時評を執筆する『進歩的文化人』にも向けられた」、「革命に同調しないものの、革命を志向する左翼学生らには理解を示す、ぬえ的な学者・文化人の“化けの皮”がはがれ始めたころの正論である」と述べている。ここでの「進歩的文化人」・「ぬえ的な学者・文化人」は、1982年当時のそれらだろう。
二 ところで、上の最後に言及した辻村論考には、気になることもある。
辻村明は月刊・諸君!(文藝春秋)誌上で当時、「戦後三十五年間にわたって、朝日〔新聞〕の『論壇時評』で活躍した錚々たる進歩的文化人たちを取りあげ、相当に遠慮のない批判を加えた」らしいのだが、それに対して、「論壇時評」を担当していた高畠通敏は、朝日新聞紙上で、辻村は「進歩的文化人」・「左翼的知識人」を批判しているが、「これまでのような社会主義革命を理想と考える文化人の集団などというものは、すでにはるかな昔から存在していないのである」と反論し、その例として、当時の都留重人論考を挙げた、のだという。
以上は、それはそれで興味深い話だが、高畠の反論?に対する辻村明の再反論は適切ではないように感じられる。
辻村は都留重人論文そのものを読んでおらず、高畠による紹介によって内容を理解しているようだ。そして、「社会主義革命に夢を託していた時代の都留氏は、確かにそこにはいないが、どうしてそのように変わったのか」、「私が批判したいことは『進歩的文化人』たちが『変わった』ということではなく、『変わった』ことについての論理的な説明がないということ」だ、と指摘して、叙述を終えている。
都留重人論文そのものを私も読んでいないから確言はできないが、容共・「左翼」の(マルクス主義の影響を戦前のアメリカで受け、戦後当初は木戸幸一らとともにGHQに協力した等々といわれる)都留重人は本当に「変わった」のだっただろうか。まだソビエト連邦が存在していた時期に、「日本の伝統の再評価を求め」る「保守」的知識人に変わったとは、とても想像し難い。
したがって、批判は、<変わったことについての説明の欠如>にではなく、都留重人らの「進歩的文化人」が、いかに論点を変え、いかに用語法を変えても、あるいはいかに部分的な修正を加えようとも、本質的には<変わっていなかったこと>に向けられなければならなかったのではないか。あくまで<直感的>な感想にすぎないが。
三 些細な問題かもしれない。が、ともあれ、上の一と二は関連し合ってはいるだろう。
石井聡
〇月刊文藝春秋6月号(文藝春秋)が橋下徹特集を組み12人に橋下への「公開質問状」を書かせたり、週刊文春5/17号が14頁の特集をして13人の対橋下見解を載せたり、週刊現代6/02号(講談社)が「橋下徹とこの時代」と題する20頁の特集を組んで8名の意見を紹介する等々と、相変わらず、橋下徹へのマスコミの関心は高い。
マスメディアまたはそこに登場する識者たち?はしばしば「ポピュリズム」を問題視するが、「ポピュリズム」の主体であり中心にいるのは、むしろマスコミ自体ではないかと思われる。それは、橋下徹ものを載せれば、販売部数が増える(または維持される)といった(とりあえず儲かればよいとの)経営者感覚ともつながっているのかもしれない。
〇比較的最近に目を通した上記のものではなく、もう少し前の橋下徹特集類に言及しておこう。
月刊宝島6月号(宝島社)の背表紙は「特集・虚構の橋下徹旋風」で、この言葉にも示されているように基本的に橋下徹批判の立場に立つ。それは巻頭1頁の編集長・富樫生の言葉にも表れていて、「宝島社は、橋下徹という人物について懐疑的です。…などでもその欺瞞を追及しており、今後も続けてまいります」と明言している。
面白いのは、例えば、「橋下徹『5人の外敵』」として、①「大阪市役所」、②「共産党」、③「部落解放同盟」、④「在京メディア」、⑤「日教組」を堂々と?明記していることだ(p.28-)。
①と④をとりあえず別にしておけば、月刊宝島編集部は、日本共産党・部落解放同盟・日教組を「外敵」とする橋下徹に対して「懐疑的」だということになる。ということは、日本共産党・部落解放同盟・日教組を、「懐疑」されるべき橋下徹から擁護するという機能を果たしたい、と言っていることに客観的にはなるだろう。
日本共産党・部落解放同盟・日教組はふつうは「左翼」と称される組織・団体なので、宝島社編集部は「左翼」の立場に立っている、と言ってよい。
このことは、「現職・共産党大阪府議団長」宮原威への2頁にわたるインタビュー記事を掲載して、橋下徹を批判させていることでも分かる。
なお、宝島社の別の出版物の執筆者・編者である一ノ宮美成とは日本共産党員か日本共産党系の人物ではないかと思われる。
このように「左翼」の立場を明確にして(日本共産党や日教組と同様の立場から)橋下徹を批判するのは、何ら奇妙でも、不思議でもない。月刊宝島編集長名で橋下徹への「懐疑」を示しているのは、明確で、潔いとすら言える。
〇問題は、<保守派>メディアのはずの、産経新聞や月刊正論(産経新聞社)だ。
社説で明確にしてはいないが、どうやら、産経新聞もまた、社論として、橋下徹に対して<懐疑的>で<冷たい>ように思われる。
産経新聞の今年になってからの「論壇時評」を読んでいて、そう感じた。
産経新聞は(正確にはMSN産経ニュースは)5月になってからの産経新聞・FNN世論調査で、12人の政治家のうち「評価する」の第1位は橋下徹(63.1%)、第2位は石原慎太郎(62.0%)だったと報道している(5/21、ワースト3は、鳩山由紀夫、菅直人、小沢一郎)。
このような結果であるにもかかわらず、産経新聞は、「大衆迎合」はよろしくないと、さすがに立派な新聞社らしく?考えたのだろうか、月刊正論編集長・桑原聡が「評価する」とは正反対の評価を明言している他、「論壇時評」での扱いも、私には異様に感じられるほどに、橋下徹に対して「冷たい」、または批判的だ。
朝日新聞等々も同様だろうが、書物・論文等の書評や紹介欄(の採り上げ方、内容)は、その新聞の性格(・主張)を問わずして答えていることが多いとみられる。産経新聞「論壇時評」については、以下のとおり。
産経新聞3/18の、4月号についての「論壇時評」では、私がこの欄で「アホ丸出しの…」と批判した、月刊WiLL4月号(ワック)の藤井聡論考を採り上げ、「思想的あるいは政策的吟味を十分に経ていない橋下流改革案(船中八策、維新八策)の欠陥をつく。地方分権も中央集権もそれ自体が善あるいは悪なのではない。両者のバランスの欠如が悪なのだ。現在、通貨、国防・安全保障、国際経済などの諸分野で緊要なのは何より国家としてのまとまりであって、それを弱体化する試みは、地方分権を含め避けなければならない。それに橋下らの地方分権論で念頭に置かれるのは大都市であって、地方は一層の格差に沈むという。そのことを税、地方債などの財源移譲の面から裏付ける」と、多くはない字数の欄にしては多くの文字を使ってわざわざ紹介している。
月刊WiLL4月号の数多い論考の中で言及しているのはこれだけだ。藤井聡論考の稚拙さには、もはや触れない(「地方分権も中央集権もそれ自体が善あるいは悪なのではない。両者のバランスの欠如が悪なのだ」なんていうくらいは誰でも書ける。とくに引用することの方が恥ずかしい)。その稚拙さに気づかないとは、産経新聞の「論壇時評」者・稲垣真澄の識見・能力自体も疑われる。
産経新聞4/22の、5月号についての「論壇時評」(石井聡)は、月刊ヴォイス5月号(PHP)の特集は「基本的に橋下を支援、擁護する立場から」のものだと述べつつ、その「支援、擁護」の内容にはいっさい言及せず、橋下徹を基本的にはむしろ支持・擁護する立場からの山田宏の論考の中から、あえて橋下徹への「危惧」を記した部分のみを抜き出して、紹介している。大前研一論考についても同様で、橋下徹を基本的に支持する大前の文章の中の、原発問題についての意見の相違部分のみを取り出して紹介している。かなり偏頗な、何らかの意図すら感じられる紹介の仕方だ。
月刊ヴォイス5月号の現物を見ながら書いている。山田宏の文章の最後の一文は次のとおり-「日本の再生には大阪維新の会の力が必ず必要となってくる。今後、必ず国の運命を左右する存在になることだろう」(p.63)。
大前研一の最後は次のとおり-「私はハシズム批判には与しない。橋下イズムは健全な国家ビジョンであり、まさに必要な方向性であり、手段でもある。それだけに国民が期待しているいま、みなが大阪の成功を祝福するかたちをつくることが、日本変革の近道であり、この国にとって最後に残されたチャンスなのである」。
こうした山田宏、大前研一の文章が、石井聡にかかると、まるで逆の趣旨のごとく印象づけられる。恣意的な、(橋下徹を危惧・批判する部分のみの)抽出は、果たしてまともな「時評」なのかという疑問が生じるが、産経新聞(社)の意図、または社論に即して書かれているのだとすると、(朝日新聞等についてと同様に)そのような取り上げ方自体を批判することはできないのかもしれない(むしろ問題になるのは、産経新聞の意図・社論なのだろう)。
石井聡はまた、月刊正論5月号の特集の中の佐藤孝弘論考のみを採り上げ、橋下徹批判になりそうな部分のみを紹介しているが、立ち入らない(実際の佐藤論考は全体としては、石井が描いているよりも、より中立的だ)。
産経新聞5/20の、6月号についての「論壇時評」(稲垣真澄)は、月刊WiLL月号の中の多くの論考・記事のうち、久保紘之・堤堯の対談〔雑談〕―見出しは「橋下のやってるのは単なる“維新ごっこ”」―のみを採り上げ、「『維新の会』の掲げる脱中央、地方主権がいかに幕末維新の精神から遠いものかを説く」等と紹介する。上記のような産経「論壇時評」の姿勢・方向性・方針からすると、この部分がお気に召した、ということだろう。
わずか3号分にすぎないが、橋下徹への支持・期待の論考類を紹介・引用したものは一つもない。言及・紹介があるのはすべて、橋下徹批判・懐疑だ。
追記すれば、隔週刊サピオ5/09・16号には、産経新聞や月刊正論でもお馴染みの遠藤浩一、八木秀次らが、「橋下首相なら日本をこう変える」という文章を各論点ごとに書いている。遠藤浩一は憲法改正について、八木秀次は靖国参拝について書いている。
前者は条件・前提を種々に加えてはいるが、橋下徹自身を批判してはいない。後者は、橋下徹は「間違いなく素朴な保守主義者、健全なナショナリスト」だ等と述べている(p.16)。
これらも<論壇>での見解の一部だろう。しかるに、産経新聞社にとって身近な?人物の文章であるにもかかわらず、産経「論壇時評」はいっさい無視している。
おそらくは、以上に紹介したようなことの中に、少なくとも現在の産経新聞の橋下徹に対する姿勢が明らかに示されているのだろう。
日本共産党・志位和夫(委員長)は大阪での集会で、橋下徹・維新の会について「独裁にも通じる恐怖政治…」、「維新に反撃ののろしを…」とか演説したと伝えられる(5/20)。
このように日本共産党や日教組その他の民主党・共産党系労組が敵視している橋下徹を擁護・応援するどころか、「冷たく」批判をし続ける産経新聞というのは、いったいいかなる政治的傾向・政治的感覚の新聞なのだろう、という基本的な疑問すら湧いてくる。
少なくとも、素直でまっとうな<保守>ではないのではないか? 本紙と月刊正論の購読中止は正解だった、と思っている。<資料>として読むことは、今後もむろんあるだろう。
〇すでに批判的に言及した月刊正論9月号巻頭の櫻井よしこ論考(談)を、産経新聞8/21の「論壇時評」で、石井聡は、こう紹介している。
「『菅災』が大震災や原発事故対応にとどまらず、外交面でも国益を大きく損なったと批判するジャーナリストの櫻井よしこは『希望がないわけではありません』という〔出所略〕。民主、自民両党の保守系議員らが『衆参両院の各3分の2』という憲法改正の高いハードルを2分の1に下げることを目指す『憲法96条改正を目指す議員連盟』で既成政党の枠を超えた活動を始めており、これが日本再生への起爆剤となると期待しているからだ。/同時に櫻井は『不甲斐ないのは自民党現執行部』と、菅の延命を見過ごした野党第一党の責任を問うている。谷垣禎一総裁の下で『相も変わらず、元々の自民党の理念を掲げていない』と憲法改正に取り組む熱意の薄さを批判し、民主党政権と『大差のない政策しか提示し得ていない』と言い切る」。
以上が全文で、「時評」と掲げるわりには論評部分はない。
この石井聡や最近に吉田茂の「軍事参謀」だった辰巳栄一に関する著書(産経新聞連載がもと)を刊行した湯浅博等々のように、産経新聞社内には、屋山太郎や某、某等々の知名度はよりあると思われる者たち以上の知見と文章力を持った論客がいると、とくに最近感じているのだが、上の後半部分、とくに櫻井よしこが自民党は「民主党政権と『大差のない政策しか提示し得ていない』と言い切」ったことについて石井聡は、あるいは産経新聞編集委員たちは、どう評価しているのかを知りたいものだ。
産経新聞は民主党を厳しく批判してきたが、自民党を積極的に支持してきたわけでもなさそうだ。それは、産経新聞が自民党の機関紙のごとく世間的に印象づけられることが経営的にもマズいと判断しているからかもしれないが、よく分からない。
だが、もともと産経新聞は自民党よりも「右」だという印象を持つ者も少なくはないだろう。一方また、西部邁や西尾幹二のように、産経新聞に対する批判を明言する「保守」派論者もいる。
ともあれ、櫻井よしこに対する遠慮などをすることなく、個人名であるならば、自民党は民主党と「大差がない」という櫻井の理解が適切なものかどうかくらいにはもう少し立ち入ってみてもよかったのではないか。日本の今後にとっても基本的な論点の一つだろうから。
〇産経新聞の8/14社説は「非常時克服できる国家を」等と題うち、菅直人政権の非常時対応について、こう書いた。
「戦後民主主義者が集まる国家指導部は即、限界を露呈した。緊急事態に対処できる即効性ある既存の枠組みを動かそうとさえしなかったからだ。安全保障会議設置法には、首相が必要と認める『重大緊急事態』への対処が定められているが、菅直人首相は安保会議を開こうとしなかった。重大緊急事態が認められれば、官僚システムは作動し、国家は曲がりなりにも機能したはずである」。
菅政権を「戦後民主主義者が集まる…」と規定していることも興味深い(誤りではないだろう)。さらに、菅首相(当時)の「不作為」として、安全保障会議設置法にもとづく同会議の招集の不作為のみを挙げ、一部?に見られた、①災害対策基本法による<緊急政令>発布の不作為、②武力攻撃事態等国民保護法の震災・原発事故への適用の不作為、を挙げていないのは、私と同じ適切な法的理解に立っているように思われる。このような社説(産経の「主張」)の中でこれらの①②も問責していれば、おそらく産経新聞は大恥をかいていただろう。
さらに遡るが、但木敬一(元検事総長)は産経新聞7/27でこう論じていた(一部要約)。
・内閣法6条は「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する」と定めるが、同法5条の1999年改正により閣議を内閣総理大臣が主宰する旨の規定に、「この場合において、内閣総理大臣は、内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議することができる」という文言が追加された。
・菅直人首相が「特に7月13日、官邸に記者を集め、脱原発を提唱したのは、内閣法の精神にもとるように思われる。エネルギー政策の転換は、国民生活、経済活動に幅広く、かつ深刻な影響を与える。従来の内閣の方針に明示的に反する政策の大転換は、まさに『内閣の重要政策に関する基本的方針』そのものではないのか。各国務大臣がそれぞれの観点から複眼的に閣議で論議すべき典型的事例であり、閣議を経ずして総理が独断で口にすべきことではない」。
このように但木は、菅による「脱原発」との基本政策の表明を、内閣法(法律)違反ではないか旨を述べている。
首相のあらゆる言動が(浜岡原発稼働中止要請も含めて)閣議による了解(または閣議決定)を必要とするかは、上の内閣法6条「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する」の射程範囲の理解または解釈にかかわる議論が必要だし、すでにあるものと思われる。「内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議」する権限が、「重要政策に関する基本的な方針」の決定・表明に関する<義務>なのかどうかも議論する余地はなおあるだろう。
むろん政治的・政策的な検討や議論はなされてよいのだが、上で指摘しているのは「法的」検討の必要性であり、「法的」論点の所在だ。
菅直人による(閣議を経ない)浜岡原発稼働中止要請や(閣議を経ない)「脱原発」基本政策表明がはたして法的にあるいは法律上許容されるのか、という問題があるはずなのだが、産経新聞の阿比留瑠比も含めて、どの新聞社の政治部記者たちも、そうした法的問題があるという意識自体をほとんど欠落させたままで日々の記事を書いているのではないか。これはなかなか恐ろしい事態だ、というのが先日に書いたことでもある。
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