秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

皇帝家族の殺害

2938/R.Pipes1990年著—第17章㉑。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第15節/この事件からの示唆。
 (01) Ekaterinburg の悲劇以後の時代にチェカが奪い取ることになる数万人の生命を思えば、またその継承者が殺した数百万人のことを思えば、11人の囚人〔前皇帝とその家族〕の死は、異常な規模のものだったとはほとんど言えない。
 しかしそれでも、前皇帝、その家族、補助者たちの虐殺には、深い象徴的な意味がある。
 自由(liberty)に偉大な歴史的時代があったように—Lexington やConcord の闘い、Bastille への突撃—、全体主義(totalitarianism)についてもそうだ。
 虐殺が準備され、実行されたやり方には、それは最初は否定されたあとで正当化されたのだが、それにまつわる独特のおぞましさがある。以前の国王殺しとは際立って区別する、そして二十世紀の大量虐殺の前兆だったと印象づける、そういう何ものかがある。
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 (02) まず何よりも、不必要だった。
 ロマノフ家は進んで、実際に幸福に、積極的な政治世界から退き、捕獲者であるボルシェヴィキの全ての要求に屈従していた。
 彼らは確かに、誘拐されることや自由な世界に連れていかれることに反対でなかった。しかし、収監状態、とくに責任追及や裁判がないままでの拘禁の状態から逃れたいと彼らが望むことを、処刑を正当化するためにEkaterinburg のボルシェヴィキが指し示したような「犯罪の企て」だと見なすことはほとんどできない。
 いずれにせよ、かりにボルシェヴィキ政府が実際に彼らが逃亡して反対派の「生ける旗印」になることを恐れたのだとすれば、そのときは、彼らをモスクワに連れてくるまさに適切な時期だった。Goloshchekin からすれば、3日後に皇帝家族の持ち物とともにEkaterinburg を経って列車でモスクワに向かうことに何の困難もなかった。
 彼ら皇帝家族は、モスクワにいれば、チェコ軍団、白軍その他のボルシェヴィキ体制への反対派の手に届かなかっただろう。
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 (03) これが行なわれなかった理由が探し求められなければならない。それは、時間不足、逃亡の危険、あるいはチェコ軍団に捕われるといった偽りの言い訳にではなく、ボルシェヴィキ政府の政治的必要にあった。
 1918年7月、ボルシェヴィキは、多方面から攻撃を受け、支持者の多くから見離されて、運命のどん底へと沈んでいた。
 継続する任務放棄を断固として阻止するため、ボルシェヴィキは血を必要とした。
 トロツキーが亡命中につぎのように事件を回想したとき、こうしたことの多くは承認されていた。
 トロツキーは、17年前に、前皇帝の妻と子どもたちを片付けるとのレーニンの決定と同意見だった—トロツキーに個人的な責任はなく、従って正当化する必要のない行為だ。
 「決定は、好都合だけではなく必要だった。
 この制裁が苛酷であることによって、誰に対しても、我々は容赦なく闘い続け、どこにも止まらないだろうことを、示した。
 皇帝家族の処刑は、威嚇し、脅かし、見込みがないという感覚を敵に植えつけるだけではなく、我々の党員たちに刺激を与え、退却することはあり得ない、目の前にあるのは全面的な勝利か全体的な破滅かのいずれかだ、ということを示すためにも、必要だった。」(注109)
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 (04) ある次元で言うと、トロツキーによる正当化には良い点がなかった。
 かりに敵の中にテロルを、味方の中に忠誠性を注ぎ込むために、前皇帝の妻と子どもたちを殺したのだとすれば、ボルシェヴィキはその殺害行為を大声で明瞭に言明しただろう。にもかかわらず実際には、当時に、そしてその後10年間、ボルシェヴィキは否定した。
 しかし、トロツキーの恐るべき告白は、深い道徳的、心理的意味では、正しかった。
 Dostoevsky の「悪霊」の主人公のように、ボルシェヴィキは、動揺する支持者たちを集団的犯罪の絆で結びつけるために、血を流さなければならなかった。
 ボルシェヴィキが良心の咎めを感じる犠牲者たちが無実であればあるほど、ボルシェヴィキ党員はそれだけ強く、退却も逡巡も妥協もあり得ないこと、指導者に絶対的に拘束されていること、を認識せざるを得なかった。そして、指導者とともに、代償を無視して「全面的勝利」を目指して行進するか、それとも「全体的破滅」へと沈むか、のいずれかだけを選ぶことができた。
 Ekaterinburg の虐殺は、公式には6週間後に始まった「赤色テロル」の始まりを画するものだった。「赤色テロル」の犠牲者たちの多くは、犯罪を冒したゆえにではなく、トロツキーの言葉では彼らの死が「必要とされた」がゆえに処刑された、そういう人質たちだったことになる。
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 (05) 冒したことを理由としてではなく死が「必要とされた」がゆえに人々を殺害する、ということを政府が誇るとき、我々は、全く新しい道徳の王国に入っている。
 ここに、1918年7月16-17日の夜に起きた出来事の象徴的な意味がある。
 政府の秘密の指令によって行なわれた皇帝家族の虐殺は、人類を初めて、意識的なジェノサイドの出発点に立たせた。皇帝家族はその背景にもかかわらずきわめて普通で、何の罪もなく、ただ平穏に過ごすのを許されることだけを望んでいたのだったが。
 ボルシェヴィキが彼らを非難して死に追いやったのと同じ理由は、のちにロシアやその他の国で、数百万の名もなき人々に対して適用されることになる。新しい世界秩序に関するあれこれの設計をたまたま邪魔した、というだけの人々に対して。
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 第15節、終わり。第17章全体も、終わり。第18章は<赤色テロル>

2935/R.Pipes1990年著—第17章⑲。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第13節/ニコライ処刑をモスクワが発表(1)②。
 (08) Sverdlov は次に、翌7月19日の報道のために<Izvestiia>と<Pravda>に送る公式発表の原稿を書いた。
 London の<The Times>に翻訳されて、7月22日に公表された。つぎのような記事だった。
 「ソヴェト第五回大会で選出された中央執行委員会の最初の会合で、前皇帝のNicholas Romanoff の射殺に関する、Ural地方ソヴェトから直接に受け取った通信文が公にされた。
 赤色Ural の首都であるEkaterinburg は最近、チェコスロヴァキア軍団の接近による脅威を受けていた。
 同時期に、反革命陰謀が暴露された。武装部隊でもってソヴェトの権威から皇帝を奪い取ることを目的とする陰謀だ。
 この事実にかんがみ、Ural 地方ソヴェトの幹部会は、前皇帝のNicholas Romanoff を射殺することを決定した。この決定は、7月16日に実行に移された。
 Romanoff の妻と子息は、安全が保障された場所に移された。暴露された陰謀に関する文書は、特別の配達人によってモスクワに送られた。
 最近に、前皇帝を裁判にかけると決定されていた。人民に対する犯罪で審判されることになっていた。だが、のちに起きたことで、この道筋を辿るのが遅れた。中央執行委員会の指導部は、Ural 地方ソヴェトがNicholas Romanoff を射殺する決定を行なうのを余儀なくした情勢を討議したあとで、次のとおり決定した。
 ロシア〔全国ソヴェト〕中央執行委員会は(幹部会の者たちにおいて)、Ural 地方ソヴェトの決定を、正常なものとして受け容れる。
 中央執行委員会は今では、Nicholas Romanoff 事件に関するきわめて重要な資料や文書を自由に利用することができる。最近のほとんどの日々についての彼自身の日記、妻や子どもたちの日記。彼の文通文書、中でもRomanoff とその家族に対するGregory Rasputin からの手紙。これらの資料は全て、調査され、近い将来に公にされるだろう。」
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 (09) こうして、公式の伝説が生まれた。ニコライ—そして彼だけ—は、逃亡を企てたがゆえに射殺された、そして、決定はモスクワのボルシェヴィキ中央委員会によってではなく、Ural 地方ソヴェトによってなされた。
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 (10) <Pravda>と<Izeves ti ia>がEkaterinburg ソヴェトの決定なるものを最初に報道した7月19日にも、直後の日々にも、Ekaterinburg ソヴェトは石の沈黙を守った。なお、7月13日に、ロマノフ家の資産を国有化する布令は発効していた。
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 (11) 世界じゅうのプレスは、ボルシェヴィキの公式見解に従った物語を報道した。
 <The New York Times>は、7月21日の日曜版の第一面にニュースを載せた。見出しはこうだった。
 「ロシアの前皇帝、Ural ソヴェトの命令で殺さる。ニコライ、7月16日に射殺さる。チェコスロヴァキア軍が彼を奪う怖れがあったとき。妻と継承者は安泰。」
 付随している追悼記事は、厚かましくも、処刑された君主は「社交的だが弱かった」と書いた。
 前月のニコライの死に関する風聞への無関心さからモスクワが正しく予見していたように、世界は処刑を冷静に取り扱った。
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 (12) ソヴィエトのプレスがニュースを掲載した日、Riezler は、Radek およびVorovskii と逢った。
 彼はおざなりにニコライの処刑に抗議し、世界の意見は必ず非難されるだろうと言った。一方で、ドイツ政府の「ドイツの皇女たち」への関心を強調した。
 もしドイツ政府が本当に皇妃とその娘たちに関心を持つならば、彼女たちは「人道主義的配慮」によってロシアを離れるのが許されるべきだ(注93)、とRadek が反応したとき、彼は高い自制心をもっていたに違いなかった。
 7月23日、Riezler はもう一度Chicherin に、「ドイツ皇女たち」の問題を取り上げた。
 Chicherin はすぐには反応しなかったが、翌日に、「自分が知っているかぎりで」皇妃はPerm へと避難した、とRiezler に言った。
 Riezler は、Chicherin はウソを言っている、との印象をもった。
 このとき(7月22日)までに、Bothmer は、Ekaterinburg 事件の「恐るべき詳細」を知っていた。そして、モスクワの命令によって家族全員が殺害され、Ekaterinburg のソヴェトに自由があったのは処刑の時期と殺害の方法を決定することだけだった、ということに疑いをもたなかった(注94)。
 それでもなお、8月29日にRadek は、ドイツ政府に対して、Alexandra とその子どもたちを逮捕されているスパルタクス団員のLeon Jogiches と交換させることを提案した。
 ボルシェヴィキの官僚は、この申し出を9月10日にドイツ領事に対して繰り返した。だが、詳細が報道され、前皇帝の家族は軍事作戦によって遮断されたと言われるようになると、こういった申し出は責任逃れ的になった(注95)。
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 ③へとつづく。

2934/R.Pipes1990年著—第17章⑱。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第13節/ニコライ処刑をモスクワが発表(1)①。
 (01) モスクワがロマノフ家の殺害を命じた、との争う余地のない証拠資料がかりに存在しなかったとしても、ニコライの「処刑」に関する公式の報道がその決定があったとされたEkaterinburg でではなく、モスクワで行なわれたという事実からしても、それが事実だったかを強く疑い得ただろう。
 実際に、Ural 地方ソヴェトは、すでに外国で報道されていた、発生したあとの5日間は、事件を公的に発表することを許されなかった。
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 (02) 証拠資料は決定的ではないけれども、皇妃と子どもたちの運命はきわめて微妙な問題だったがゆえに、モスクワはEkaterinburg に対して、発表を控えるよう命令したように見える。
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 (03) 問題は、この時期にボルシェヴィキが大いに取り入っていた、ドイツ人だった。
 ドイツ皇帝(Kaiser)はニコライの従兄で、ニコライの子どもたちの名付け親だった。
 彼〔Wilhelm 二世〕がその気になれば、ブレスト=リトフスク条約による解決の一部として、前皇帝とその家族をドイツに引き渡せと要求できただろう。この要求を、ボルシェヴィキは断わることのできない立場にあった。
 しかし、彼は何もしなかった。
 3月早くにデンマーク王がロシア前皇帝らのために取り持つよう求めたとき、ドイツ皇帝は、ロシアの皇帝家族の庇護場所を提供することはできない、と反応した。その理由は、ロシア人は君主制の復活の企てだと解釈するだろう、ということだった(注86)。
 スウェーデン王から、ロマノフ家がその苦境から楽になるのを助けるよう求められても、彼は拒否した(注87)。
 こうした振る舞いについての最もあり得る説明を、Bothmer が行なった。ドイツの左翼諸政党に対する恐れによる、というものだ(脚注1)
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 (脚注1) K. von Bothmer, Mit Graf Mirbach in Moskau(Tübingen, 1922), p.104. あるドイツ人学者は、ドイツの行動を擁護して、Alexandra が言ったこと—娘たちの家庭教師だったGilliard が記録した—を引用した。自分は「ドイツに助けられるより、ロシアで激烈に死にたい」。Jagow, BM, No.5(1935), p.351. そうかもしれないが、しかしもちろん、ドイツ政府は当時に彼女がこのように考えていることを知りようがなかった。
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 (04) ドイツ政府は、ニコライの運命に対して無関心だったにもかかわらず、ドイツの血統の前皇妃、彼女の娘たち、その他のロシア宮廷のドイツ人女性たち、とくにAlexandra の妹のElizabeta Fedorovna、の安全にはある程度の関心を示した。彼らは、これら女性をまとめて「ドイツの皇女たち」として言及した。
 Mirbach〔ロシア駐在ドイツ大使〕は5月10日に、Karakhan やRadek とともにこの問題を取り上げ、政府につぎのように報告した。
 「もちろん、打倒された体制を擁護するような冒険的行為をしてはいけないが、それにもかかわらず、私は、人民委員たちに対し、<ドイツの>皇女たちはあり得る全ての配慮でもって扱われる、とくに、彼女たちの生命への脅威はもちろんだが、どんな小さなごまかしもあってはならない、という期待を表明する。体調の悪いChicherin に代わってKarakhan とRadek は、きわめて協力的にかつよく理解して、私の見解を聞いてくれた。」(注88)
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 (05) 7月17日の朝、前夜の出来事に関する報告を、Ekaterinburg にあるソヴェトのある官僚—ほとんど確実に、その議長であるBeloborodov—は、クレムリンに電信で送ったと見られる。
 レーニンの生涯についてはきわめて詳細な編年記録があって、一時間ごとに彼の公的な活動を辿っている。しかし、不可解なことだが、その7月17日の記録はこう記している。
 「レーニンは(正午に)Ekaterinburg からの通信を受け、封筒に書く。『受領した。レーニン』」(注89)。
 Ekaterinburg はこの時期にはクレムリンと郵便では連絡しておらず直接の電信によっていたので、問題の通信は手紙ではなく電報だった、ということを当然視することができる。
 つぎに、当該の編年記録は通常は、レーニンに対する、挙げている文書の要点を記載している。
 この場合での省略が示唆するのは、共産党の文献がレーニンとの関係をつねに否定する主題、すなわち皇帝家族の殺害にそれは関連していた、ということだ。
 通信文は、ニコライの妻と子どもたちの運命に関して、明らかに十分に詳細ではなかった。そのことは、説明を求めてクレムリンがEkaterinburg に電信したことで分かる。
 同じ日ののちに、Beloborodov はモスクワへ、尋問に対する答えであるかのような暗号化した通信を送った。
 Solokov はEkaterinburg の電信電話局で、この電信文の写しを見つけた。
 彼はこの暗号を解読できなかった。
 ようやく二年後にパリで、あるロシアの暗号使用者が、解読した。
 解読された通信文は、皇帝家族の最終的運命に関する問題を決着させた。
 「モスクワ、クレムリン。人民委員会議秘書Gorbunov、返信証明。
 Sverdlov に知らせる、家族全員が長と同じ運命に遭う。公式には、家族は避難中に死ぬだろう。Beloborodorv。」(注90)
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 (06) Beloborodov の通信文は、その夜にモスクワに届いた。
 Sverdlov は、全ロシア・ソヴェト中央執行委員会の幹部会に報せを伝えた。注意深く、ニコライの家族の運命に言及することを省略して。
 彼は、前皇帝がチェコ人の手に落ちることの重大な危険性について語り、Ural 地方ソヴェトの行動について幹部会から正式の是認を得た(注91)。
 彼は、適切な時期があった6月か7月初旬に皇帝家族をモスクワへ移送しなかった理由を説明するという、面倒なことしなかった。
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 (07) Sverdlov はその日の遅く、クレムリンで進行中だった人民委員会議の会合に立ち寄った。
 目撃者は、その光景をこう叙述する。
 「Semashko 同志が報告していた公衆衛生の企画に関する議論のあいだに、Sverdlov が入ってきて、Ilich(レーニン)の後ろの椅子に着席した。
 Semashko は終わった。
 Sverdlov は身体をIlich の方に曲げて近づき、何かを言った。
 『Sverdlov 同志は、出席者に対して、発表することを求める』。
 Sverdlov はいつもの落ち着いた声で始めた。
 『私は、言わなければならない。地方ソヴェトの決定により、Ekaterinburg で、ニコライは射殺された。Alexandra とその息子は、信頼できる者の手にある。
 ニコライは逃亡しようとした。チェコ人が近くに来ていた。
 〔全ロシア・ソヴェト〕執行委員会幹部会は、是認を与えた。』
 一同、沈黙。
 Ilich が提案した。『条項から条項へ、企画書を読み進まなければならない。』
 条項から条項へと読むのが進行し、統計に関する計画案の議論がつづいた。」(注92)
 このような偽装でもってどうしようとしていたのか、我々が知るのは困難だ。必ずや、ボルシェヴィキ内閣の一員たちは真実を知っただろうからだ(脚注2)
 このような成り行きは、恣意的な行動を正当化する「正しさ」を必要とするボルシェヴィキを満足させたように見える。
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 (脚注2) Bruce Lockhart は、7月17日の夕方にすでに、Karakhan が自分に、皇帝家族の全員が死んだと言った、と主張する。<あるイギリス人工作員の回想>(London, 1935), p.303-4.
 ニコライの4人の娘たちは誰の「手」のうちにいるのかと、なぜ誰かが問わなかったのか、不思議なことだ。
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 ②へとつづく。

2932/R.Pipes1990年著—第17章⑰。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第12節/その他の皇帝一族の殺戮。
 (01) 殺人者たちがその犯罪の痕跡を隠しているあいだに、別のロマノフ家の悲劇が、Ekaterinburg の北140キロにあるAlapaesk で演じられていた。
 ボルシェヴィキは1918年5月以降、ここに何人かの皇帝一族を監禁してきた。Sergei Mikhailovich 大公、Elizaveta Fedonovna 大公妃(1905年にテロリストに殺されたSergei Aleksandrovich の未亡人で今は修道女の前皇妃の妹)、Constantine 大公の3人の子息—Igor、Constantine、Ivan。
 彼らは、助手や家族の世話を受けながら、ロシア人とオーストリア人に警護されたAlapaesk の外の学校用建物に、監禁されて生活していた。
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 (02) 6月21日—まさにIpatev 邸の囚人たちが自称救出者からの最初の連絡を受けた日—に、Alapaesk の被監禁者たちの地位は変わった。
 彼らは今では、厳格な収監体制のもとにあった。
 二人—F. S. Remez という名の秘書と修道女—を除いて、付添者は排除され、貴重品は没収され、行動の自由は厳格に制限された。
 これらは、Ekaterinburg から発せられたBeloborodov の命令によっていた。その言うところでは、一週間前のMichael のPerm からの「逃亡」の繰り返しを防止するためだった。
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 (03) 6月17日、皇帝家族が殺害された日に、Alapaesk の囚人たちは、より安全な場所へ移動させると言われた。
 当局はその夜に、ロマノフ一族が捕らわれた学校用建物に、「白衛軍」を偽装した武装団によるニセの攻撃を仕掛けた。
 囚人たちは混乱に乗じて逃亡するためにこれ利用した、と言われた。
 実際には、Vekhniaia Siniachikha と呼ばれる場所に連れていかれ、森の中へと歩かされ、ひどく殴られ、そして殺された。
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 (04) 7月18日午前3時15分、Alapaesk ソヴェトは、茶番劇全体を演じたEkaterinburg へ、ロマノフ家の囚人は逃亡した、と電信連絡をした。
 その日ののち、Beloborodov は、モスクワのSverdlovsk、ペテログラードのジノヴィエフとUritskii に電報を打った。
 「Alapaesk の執行委員会、不明の部隊による18日朝の建物への攻撃を知らせる。そこに一時期、Igor Konstantinoich, Konstatin Konstantinovich, Ivan Konstantinovich, Sergei Mikhaiovich とPoley(Paley)をとどめさせ続ける。警護者の抵抗にかかわらず皇子たちは犠牲者にならないよう誘拐される。両側で探索が進行中。」(注84)
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 (05) 白軍が行なった検死によると、抵抗して射殺されたと見られるSergei 大公を除いて、犠牲者全員が、見つかった鉱山の立て坑に投げ込まれたときには、まだ生きていた。
 5人の犠牲者とElizaveta 大公妃の付添修道女は、おそらく数日後に、空気と水の不足で死んだ。
 検死によると、Constantine 大公の口と胃には土の痕跡があった。
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 第12節、終わり。

2931/R.Pipes1990年著—第17章⑯。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第11節/遺体の処理。
 (01) Ekaterinburg のボルシェヴィキは、ロシア人は殉教者の遺体に奇蹟的な力を認めるのを知っていて、またロマノフ家への崇拝が発生するのを阻止しようと気にかけて、遺体の全ての痕跡を破壊することに傾注するに至った。
 Iurovskii とその助手のErmakov がその目的のために選んだ場所は、Ekaterinburg から15キロ北にあるKiptiaki 村の近傍の森だった。Ekaterinburg の北部は沼地、泥炭地ばかりで、放棄された鉱山もある、という地域だった。
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 (02) 中心部から数マイル走って、遺体を乗せたトラックは、荷車をもつ25人の男たちの一党と出会った。
 「彼らは労働者(ソヴェト、その執行委員会等々のメンバー)で、Ermakov が集めていた。
 彼らは叫んだ。『なぜ彼らを死なせて運んでいるのか?』
 彼らは、自分たちがロマノフ家の処刑を任された、と考えていた。
 彼らは、遺体を荷車へ移し始めた。…
 すぐに(犠牲者の)ポケットを探索し始めた。
 ここでも私は、射殺という威嚇で脅迫し、警護をするよう命じた。
 Tatiana、Olga、Anastasia は何らかの特殊なコルセットを身につけていることが判った。
 遺体を裸に剥くことが決定された。—ここでではなく、埋める予定の場所で。」
 彼らが、ほとんど3メートルの深さにある放棄された金鉱跡に到着したのは、午前6-7時だった。
 Iukovskii は、死体の衣服を脱がせ、埋めよ、と命令した。
 「彼らが少女の一人の衣服を脱がせ始めたとき、コルセットの一部が銃弾で裂かれているのを見た。ダイヤモンドがgash にあった。
 やつらの眼が輝いた。全員にやめさせる必要があった。…
 彼らは遺体の衣服を脱がせ、それらを焼却し始めた。
 Alexandra(前皇妃)は亜麻布に縫い込まれたネックレスで成る真珠のベルトを着けているのが分かった。
 (少女たちはみんな、首にRasputin の絵と彼の祈祷文のある御守りをつけていた。)
 ダイヤモンドが集められた。半pud(8キログラム)の重さがあった。…
 貴重品を鞄に詰めたあと、遺体にあった残りの物は焼かれた。
 死体そのものは、鉱山の中へと降ろされた。」(注82)
 6人の女性の遺体に対してどのような侮辱が行なわれたかは、読者の想像に委ねなければならない。この作業に加わった警護者の一人は、のちにこう言って自慢した、とするにとどめよう。「皇妃の—をsqueeze したので自分は安らかに死ねる」(注83、「—」は原文ママとの記述あり(試訳者))。
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 (03) この場所は、現地の農民には、一本の幹から成長した大きな四本の松の木があったことから、<四人兄弟>として知られていた。
 Solokov がロマノフ家の遺体を見つけるために数ヶ月のあいだ掘ったのは、まさにこの場所だった。
 彼は多くの物的資料を見つけた。—イコン、ペンダント、ベルト留め具、めがね、コルセット締め具。これらは全て、皇帝家族の一員の持ち物だと特定された。
 切断された指も、見つかった。きつく嵌められていた指輪を取り除く際に切られた、皇妃のものだと考えられた(脚注)
 一組の入れ歯は、Botkin 博士のものだと識別された。
 彼らは、イヌのJemmy を焼却する手間をかけなかった。その犬の腐敗した死体は、立て坑で見つかった。
 皇妃が持っていた10カラットのダイヤモンドは、見逃すか偶然に落とすかした。これは夫からの贈り物で、草の中にあった。
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 (脚注) だが、ニコライのものである可能性もあった。Alexandra は7月4日に、全ての宝石類を渡せとするIurovskii の要求に関連させて、夫の婚約指輪は外れないだろう、と記していた。
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 (04) しかしながら、犠牲者の遺体はどこにも見つからなかった。そして、長年にわたって、皇帝家族の何人か、またはほとんどですら、虐殺を免れて生き残っているのではないか、という推測を生むことになった。
 この謎が解消されたのは、〔1989年に〕Iurovskii の回想録が出版されることによってだった。この書物はまた、遺体は一時的にのみ「四人兄弟」に埋められた、ということを明らかにした。
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 (05) Iurovskii は、「四人兄弟」鉱床は深さが浅すぎて墓場を隠すことができない、と考えた。
 彼は調査するために中心部に帰り、モスクワへと至る道の途中にもっと深い鉱床が存在することを知った。
 すみやかに、大量の灯油と硫酸を携えて戻った。
 7月18日の夜、付近の道路を閉鎖したあと、Iurovskii の部隊は、チェカの派遣部隊に助けられて、遺体を掘り出し、トラックに乗せた。
 彼らはモスクワ街道を進んだが、トラックが途中で泥に嵌まって動かなくなった。
 埋葬が、近くの浅い墓場で行なわれた。
 犠牲者たちの顔と身体に硫酸が注がれ、墓場は土と小枝で覆われた。
 その埋葬場所は、1989年まで知られないままだった。
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 第11節、終わり。
 

2930/R.Pipes1990年著—第17章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第10節/殺害(2)②。
 (07) 苛酷な作業だった。
 Iurovskii は各処刑者に一人ずつ犠牲者を割当てて、真っ直ぐに心臓を狙うこととしていた。
 一斉射撃が止まったとき、犠牲者のうち6人—Alexis、三人の少女、Demidova、Botkin—は、生きていた。
 Alexis は、血溜まりの中で呻いていた。Iurovskii は、頭に二発撃って、終わらせた。
 Demidova は、うち一つには金属の箱が中にある枕を使って、激しく防衛した。だが彼女も倒れ、銃剣で差し抜かれた。
 「少女たちの一人が突き刺されたとき、銃剣はコルセットを貫こうとしなかった」と、Iurovskii は不満ごちた。
 彼が思い出すように、「手続」の全体は、20分を要した。
 Medvedev も、光景を思い出す。「彼らは、身体のさまざまな部分に銃弾で負傷した。顔は血で覆われていて、衣服にも血が染み込んでいた。」(注78)
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 (08) トラックのエンジン音がかき消してはいても、射撃音は街路からも聞こえた。
 Solokov 委員会での目撃証言者の一人で、外部警護者たちが宿舎にしていた街路の向かいのPopos の家の居住者は、こう思い出した。
 「私は、記憶にある16日から17日の夜を十分に再現すことができる。その夜私は、一睡たりとも眠れなかったからだ。
 深夜の頃、私は中庭へ行き、物置に近づいた。
 私は不安を感じ、止まった。少しのちに、遠くの一斉射撃の音が聞こえた。
 およそ15発だった。続いて、別の射撃があった。3発か4発だった。それらは、ライフル銃の音ではなかった。
 2時を過ぎていた。
 射撃音は、Ipatev 邸からきていた。
 まるで地下室から聞こえてくるように、くぐもって聞こえた。
 そのあと私は、急いで自分の部屋に戻った。前皇帝が拘禁されている家の警護者が、上から私を見ることができるのではないか、と怖くなったからだ。
 戻ったとき、隣人が私に尋ねた。『聞いたか?』。
 私は答えた。『射撃音を聞いた』。
 『聞いた?』
 『うん、聞いた』と私は言った。そして、我々は沈黙した。」(注79)
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 (09) 処刑者たちは、上階からシーツを持ってきた。そして、死体から貴重品を剥ぎ取って着服し、血が滴り落ちている遺体を、即席の担架で、低層階を通って、正門で待つトラックまで運んだ。
 彼らは、粗い軍用布のシーツを車の床に広げ、遺体をつぎつぎと上に重ね、同様のシーツでそれらを巻いた。
 Iurovskii は、死で威嚇して、盗んだ貴重品の返還を要求した。そして、金の時計、ダイヤの煙草入れ、その他の物を没収した。
 そして、トラックに乗って離れた。
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 (10) Iurovskii は、Medvedev に、清掃を監視する責任を課した。
 警護者たちは、柄付き雑巾、水バケツ、血痕を除去するための砂を持ってきた。
 彼らの一人は、作業の光景をつぎのように叙述した。
 「部屋は、火薬の霧のような何かで満たされており、火薬の臭いがした。…
 壁や床には、弾痕があった。一つの壁にはとくに多数の弾痕(銃弾そのものではなくそれによる穴)があった。…
 壁のどこにも銃剣の傷はなかった。
 壁や床の弾痕の周りには、血があった。壁には血が跳ねたものや染みがあり、床には小さな血溜まりがあった。
 弾痕のある部屋からIpatev 邸の中庭を通って横切る必要があった他の部屋の全てにも、血痕や血溜まりがあった。
 正門に続く中庭の石にも、同様の血の染みがあった。」(注80)
 翌日にIpatev 邸に入ったある警護者は、完全に乱雑した状態を見た。衣類、書籍、ikon が乱雑に散らばっていた。それは、隠された金や宝石類が隈なく探され、奪われた跡だった。
 雰囲気は陰鬱で、警護者たちは会話しなかった。
 チェカの一員たち(チェキスト, chekist)は低層階の自分たちの区画で残りの夜を過ごすのを拒み、上の階に移動していた。
 従前の居住者をただ一つ思い出させるものは、皇女のspaniel犬のJoy だった。この犬は、見逃されていた。彼は皇女の寝室のドアの外にいて、入れてくれるのを待っていた。
 警護者の一人はこう証言した。「ひそかに思ったことをよく憶えている。キミは、待っても無駄だよ」。
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 (11) 当分のあいだは、外部警護者はその職にとどまった。Ipatev 邸では何も変化していない、という印象を作り出すためだった。
 この欺瞞の目的は、偽りの逃亡の企てを演じることだった。この企ては、皇帝家族が殺されたと言われることになるだろう過程で彼らは「避難」しており、その間に行なわれた、ということになる。
 7月19日、ニコライとAlexandra の、私的文書を含む最も重要な持ち物が、列車に荷積みされ、Goloshchekin によってモスクワへと運ばれた(注81)。
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 第10節/殺害(2)、終わり。

2929/R.Pipes1990年著—第17章⑭。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第九節/殺害(1)。
 最近まで、1918年7月16-17日の夜にIpatev 邸で起きた血の事件については、ほとんど全部が、Solokov 委員会が集めた証拠資料にもとづいていた。
 ボルシェヴィキは7月25日に、Ekaterinburg をチェコ軍団に明け渡した。
 チェコ人とともにEkaterinburg に入ったロシア人は、急いでIpatev 邸へと向かった。そこには誰もおらず、乱雑なままだった。
 7月30日、皇帝家族の運命を決定するために調査が始まった。しかし、調査者たちが真剣な努力をしないままで、貴重な数ヶ月が経った。
 翌1919年1月、Kolchak 提督は、調査を指揮させるべくM. K. Diterikhs 将軍を任命した。だが、Diterikhs には必要な資質がなく、2月に、シベリアの法律家であるNicholas Solokov と交替させられた。
 その後2年間、Solokov は揺るぎない決意でもって、全ての目撃証人や全ての資料上の手がかりを追い求めた。
 1920年にロシアから逃亡することを余儀なくされたとき、彼は、調査の諸記録を携帯して持ち出した。
 この諸資料とそれらによって彼が書いた論文は、Ekaterinburg の悲劇に関する第一の証拠資料を提供している(脚注1)
 最近にIurovskii の回想録が出版された。これは、警護者たちの主任だったP. Medvedev や、Solokov が尋問した追加的な証人の宣誓供述書を、補足し、拡充している。
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 (脚注1) Solokov 委員会の調査記録の複写文書—タイプ打ちの7フォルダ—は、Harvard のHughton 図書館の預託物だ。これらは最初は、Solokov に同行した、ロンドンの<The Times>紙の特派員のRobert Wilton が所有していた。そのうち三つある原本の運命は、Ross, Gibel’, p.13-17 で論じられている。Ekaterinburg 事件の追加的な証拠資料は、Diterikhs, Ubiistvo tsarskoi sem’i の中にある。
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 第10節/殺害(2)①。
 (01)  皇帝家族は、7月16日をふつうに過ごした。
 Alexandra の日記の最後の書き込みによると、それは彼らが床に就いた午後11時頃のものだが、彼らには、何か異様なことが起こりそうだとの予感が全くなかった。
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 (02) Iurovski は、一日じゅう忙しかった。
 遺体を焼却して埋める場所を選別したあと—Koptiaki 村の近傍の放棄された鉱山跡—、Ipatev 邸の正門そばの垣根の中にFiat 製トラックが駐車できるよう調整した。
 夕闇が迫る頃、Medvedev に対して、警護者が回転銃を取り外すよう求めた。
 Medvedev は、Nagan タイプの回転銃—ロシアの将校への標準的な配布物で、各々7発撃つことができた—を12丁集め、指揮者の部屋へ持っていった。
 午後6時、Iurovskii は、台所から料理人見習いのLeonid Sednev を呼び出し、家の外に出した。その際、この少年が叔父である侍従のIvan Sednev に会ことができるよう皇帝たちが心配している、と言った。
 Iurovskii は嘘をついていた。叔父のSednev は数週間前にチェカによって射殺されていたからだ。
 だが、そうであっても、これはこの時期での彼の唯一の人間的行為だった。この少年の生命は、救われた。
 午後10時頃、Medvedev に対して、警護者にロマノフはその夜に処刑される、射撃音を聞いても驚くな、と伝えるよう言った。
 深夜に着く予定のトラックが、一時間半遅れた。それで、処刑も遅れた。
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 (03) Iurovskii は午前1時半にBotkin 博士の目を醒させ、他の者を起こすよう求めた。
 市内で騒擾が発生している、皇帝家族の安全のために低層階に移動する必要がある、と説明した。
 この説明は、納得させるものであったに違いない。Ipatev 邸の居住者たちは、街路からの射撃音をしばしば聞いていたからだ。前の日にAlexandra は、夜間に一台の大砲や数丁の回転銃の発射音を聞いた、と記していた(脚注2)
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 (脚注2) いくつかの説明によると、皇帝家族はIpatev 邸から安全な場所へ移動させられる、と言われていた。しかし、この説明は、彼らは一緒に持っていっただろう物品が全くないまま部屋を離れたという事実と矛盾している。物品の中には、Alexandra が旅行中に決して離さなかったイコン(ikon)も含まれている。Doterikhs, Ubiistvo, I, p.25.
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 11人の囚人たちが洗面し、衣服を着るのには、30分かかった。
 午前2時頃、彼らは階段を降りた。
 Iurovskii が、先頭になって導いた。
 つぎに続いたのは、腕にAlexis を抱いたニコライだった。二人とも軍用服と帽子を着用していた。
 ついで、皇妃と娘たちが続いた。Anastasia はKing Charles spaniel 犬のJeremy と一緒だった。そのあとは、Botkin 博士。
 Demidova は、二個の枕を運んだ。その一つには、宝石箱が隠されていた(注76)。
 彼女の後ろは従者のTrup、料理人のKharitonov だった。
 皇帝家族は知らなかったが、10人の処刑部隊—そのうち6人はハンガリー人、残りはロシア人—が、隣の部屋にいた。
 Medvedev によると、家族は「危険を予期していないかのごとく、静かだと見えた」
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 (04) 皇帝家族らの行列は内部階段の最後で中庭に入り込み、左に曲がって低層階へと降りた。
 彼らは、家の反対の端へと連れていかれた。そこは以前は警護者たちが占めていた部屋で、5メートルの幅、6メートルの奥行きがあった。その部屋からは、全ての家具が除去されていた。
 窓が一つあった。半月の形をし、外壁の高いところにあり、格子の柵が付いていた。そして、開いたドアが一つだけあった。
 反対側に第二のドアがあって、収納空間につづいていたが、鍵がかかっていた。
 その部屋は、袋小路にあった。
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 (05) Alexandra は、なぜ椅子がないのか、と不思議に思った。
 Iurovskii は、いつも親切であるように、二個の椅子を持ち込むよう命令した。その一つにニコライがAlexis を座らせ、もう一つにAlexandra が座った。
 残りの者たちは、並ぶよう言われた。
 数分後、10人の武装部隊と一緒に、Iurovskii が再び部屋に入ってきた。
 つづく光景を、彼はこう叙述した。
 「一同が入ったとき、私はロマノフたちに、彼らの親戚がロシアに反抗する攻撃を続けていることを考慮して、Ural のソヴェトは彼らを射殺する決定を下した、と告げた。
 ニコライは、部隊に背を向けて、家族と向かい合った。
 そして、まるで気を取り直したように、身体を向き直して、「何?」、「何?」と尋ねた。
 私は急いで自分が言ったことを繰り返し、部隊に対して、準備するよう命じた。
 その一員たちは、射撃する者があらかじめ指定され、血が大量に溢れるのを避け、また迅速に死に至らしめるために、直接に心臓を狙うよう指示されていた。
 ニコライはもう何も言わなかった。
 彼はもう一度、家族に向かい合った。
 他の者たちは、取り乱して、抗議の叫びを発した。
 それが、数秒間だけ続いた。
 そして、射撃が始まり、二、三分つづいた。
 私はその場で、ニコライを殺した。」(注77)
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 (06) 皇妃Alexandra と彼女の娘の一人には辛うじて十字を切る時間があったことが、目撃証人によって知られている。彼女らも、すぐに死んだ。
 部隊の全員が回転銃の予備銃弾を空にしたほどの、激しい射撃だった。Iurovskii によると、銃弾は壁から床へとはね返り、霰のように部屋じゅうを跳んだ。
 少女たちは、絶叫した。銃弾を浴びて、Alexis は椅子から落ちた。
 Kharitonov 〔料理人〕は「座り込んで、死んだ」。
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 第10節②へとつづく。

2926/R.Pipes1990年著—第17章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第八節/モスクワによる殺害決定とチェカ①。
 (01) 共産党当局のいつものやり方だったけれども、皇帝家族を処刑する責任をUral の地方ソヴェトに負わせるというのは、レーニンを免責するためとはいえ、確実に誤解を生じさせる。
 ロマノフ一族を「絶滅」するという最終決定が個人的にレーニンによって、おそらくは7月初めになされたことは、確定することができる。
 中央から明確に権限付与されることなく、地方のソヴェトがこのような重大な問題について行動することはないだろう、ということからも、上のことは相当程度確実に推測され得ただろう。
 Solokov は、委員会による調査結果を公表した1925年に、レーニンの責任について、確信をもった。
 しかし、トロツキーという権威ある者による、争う余地のない積極的な証拠資料が存在している。
 トロツキーは1935年に、ある亡命者用新聞で、皇帝家族の死に関する記事を読んだ。
 彼は記憶を呼び覚まし、日記にこう書いた。
 「私のその次のモスクワ行きは、Ekaterinburg がすでに落ちた後のことだった[すなわち7月25日以後]。
 Sverdlov と話した際に、ついでにこう尋ねた。『ああそうだ、皇帝はどこにいる?』
 彼は、『終わった』、『射殺された』と答えた。
 私は『家族はどこにいる?』、『家族も彼と一緒にか?』と、驚き気味で尋ねた。
 『全員だ。どうして?』とSverdlov は答えて、私の反応を待った。
 私は、返答しなかった。
 『では、誰が決定したのか?』と私は追及した。
 答えはこうだった。『我々が、ここで決定した。Ilich〔レーニン〕は、とくに現在の困難な状況のもとでは、白軍に生きている旗印として残してはならない、と考えた』。
 私はそれ以上質問せず、この件はもう打ち切りだと考えた。」(注64)
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 (02) Sverdlov の素っ気ない言葉は、公式の見解はつぎのようだったにもかかわらず、一瞬に問題を片付けた。すなわち、ニコライとその家族は、逃亡するかチェコ軍団に捕らわれるかを阻止するために、Ekaterinburg の当局の主導によって、処刑された。
 決定は、Ekaterinburg でではなく、モスクワで行なわれた。それは、ボルシェヴィキ体制が基盤を失っていると感じ、君主制の復活を怖れたときだった。—これは一年後にはすでに狂信的すぎて考慮に値しなくなった考えだったが (脚注1)
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 (脚注1) Kolchak 提督が立ち上げた調査委員会によって詳細が知られるようになると、Ekaterinburg の虐殺は、反ユダヤ主義文献が不快にも溢れるという事態を生んだ。それらは何人かのロシアの文筆家や歴史家によって書かれ、西側にも反響があった。
 こうした文献の多くは、Ekaterinburg の虐殺についてユダヤ人を非難し、それを世界的な「ユダヤの陰謀」の一部だと解釈した。
 ロンドンの<Times>特派員のイギリス人、Robert Wilton の記事で、および彼のロシアの友人すらの説明では、ユダヤ人恐怖症のDiterikhs 将軍は、精神病理上の異常を呈した。
 おそらく、当時に反ユダヤ主義の拡散や偽作の<シオンの賢人の議定書(Protokols of the Elders of Zion)>の普及に役立った、という以上のことは何もなかった。
 これらの著作者たちは悲劇についてユダヤ人を断固として非難するが、都合よく、死刑の宣告はロシア人のレーニンによって裁可されたことを忘れていた。
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 (03) 6月の末、Ural の最有力のボルシェヴィキでSverdlov の友人のGoloshchekin は、Ekaterinburg からモスクワに向かった。
 Bykov によれば、彼の任務は、ロマノフ一族の運命について、共産党中央委員会および全国ソヴェト中央執行委員会と討議することだった(注65)。
 Ekaterinburg のボルシェヴィキ、とくにGoloshchekin は、邪魔なロマノフ一族を排除したかった、ということは、十分に確定されている。このことから、彼は処刑へと進むことについてモスクワの承認が欲しかった、ということを合理的に導くことができる。
 レーニンは、この要請を是認した。
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 (04) 前皇帝を、そして可能であれば彼の直接の家族をも処刑するという決定は、7月の最初の数日のあいだに行なわれた、と見られる。7月2日夕方のソヴナルコム〔人民委員会議=ほぼ内閣〕の会議で、というのが最もありそうだ。
 この仮説を裏付ける二つの事実がある。
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 (05) ソヴナルコムの会合の議題の一つは、ロマノフ家の資産の国有化だった。
 この趣旨の布令の草案を策定する委員会が、設置された(注66)。
 この問題が緊急を要するとは、共産党支配のもとで生きているロマノフ一族は監獄の中にいるか国外追放中で彼らの財産はとっくに国家に奪われているか農民に配分されていたとすれば、危機的な状況のもとでは考えられなかっただろう。
 したがって、ニコライを処刑する決定と関連付けられて、議題設定や布令案作成が行なわれたと言えそうだ。
 ロマノフ一族の資産を公式に国有化する布令は、殺害の三日前、7月13日に施行された。だが、不思議にも一般的な実務から逸脱して、6日後まで公表されなかった。—この日は、殺害という事実の情報が公にされた日だ(注67)。
 この論脈を支持するもう一つの事実は、すぐのちにある。すなわち、7月4日に、皇帝家族を警護する責任は、Ekaterinburg からチェカへと移された。
 この7月4日に、Beloborodov は、クレムリンに電報を打った。
 「モスクワへ。Goloshchekin に代わって〔全国ソヴェト〕中央執行委員会議長のSverdlov あて。
 中央の指示に合致して事態を調整すべくSyromorotov が出発したところだ。…<中略>(脚注2)
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 (脚注2) Solokov, Ubiistvo, Photograh No.129, p.248-p.249の間。Avdeev の助手のA. M. Moshkin は、皇帝家族の持ち物を盗んだ責任で逮捕された。
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 (06) Ekaterinburg のチェカの長のIakov Mihailovich Iurovskii は、革命の相当前に通常の犯罪で有罪判決を受け、シベリアへの流刑となったユダヤ人の、孫だった。
 不十分な教育を受けたあと、Tomsk で時計職人の見習いになった。
 1905年革命のあいだに、ボルシェヴィキに加入した。
 のちにベルリンでしばらく過ごし、そこでルター主義へと改宗した。
 ロシアに帰ったとき、Ekaterinburg へと追放され、写真スタジオを開いた。そこはボルシェヴィキの秘密会合の場所として役立った、と言われている。
 戦争中は、準医療従事者の訓練を受けた。
 二月革命が勃発したときにやめて、Ekaterinburg へ戻った。そこで兵士たちの中に入って戦争反対を煽動した。
 1917年十月、Ural 地方ソヴェトは、彼を〔Ural 地方の〕「司法人民委員」に任命した。そのあと、彼はチェカの一員になった。
 Iurovskii は、どの文献を見ても、邪悪(sinister)な人物だった。憤懣と挫折感でいっぱいの、当時のボルシェヴィキに惹かれるようなタイプで、第一の応募先は、秘密警察だった。
 Solokov は、彼の妻と家族に対する尋問から、つぎのような人物像を描いた。すなわち、尊大で、意欲的な人間で、傲慢で、残虐な気質の持ち主(注68)。
 Alexandra 〔前皇妃〕は、すぐにこの人物を嫌いになり、「下品で不愉快だ」と形容した。
 チェカにとっては、彼を価値あるものにするいくつかの長所があった。すなわち、国有財産を扱う際の実直さ、慎みのない残虐さ、相当の心理的洞察力。
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 ②へとつづく。

2924/R.Pipes1990年著—第17章⑪。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第七節/チェカによる救出作戦の捏造②。
 (08) (1918年)6月22日、明らかにニコライの返書に反応して、作業員が皇帝夫妻の寝室の窓を点検した。
 その翌日、作業員たちが喜んだことに、二重窓が外され、換気用窓枠が入れられていた。息苦しく熱い上層階に新鮮な空気を入れるためだった。
 囚人たちは、外に寄り掛かるのを禁じられた。娘たちの一人が頭を外に出しすぎたとき、警護者の銃の火が噴いた。
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 (09) 6月25日、第二の秘密の伝言が届き、三つめは6月26日に来た。
 これらの手紙が皇帝家族に届いたことに争いがないのは、ニコライの日記による。彼は不用意にも6月14日(27日)の日付にこう書いた。
 「我々は最近、次から次に、二通の手紙を受け取った。それらは、誰か献身的な者によって神隠しされる準備をするよう、我々に助言している!」
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 (10) 第二の手紙は、心配しないよう説得していた。救出は何のリスクもなく実行される、と。
 皇帝家族は数十人の武装警護者に囲まれていることを考えれば、かりに策略者が望むように捕囚者の気持ちを和らげることが許されたのだとしても、これは、驚くべき請け負いだった。
 そしてこれは、その真正さに関するきわめて大きな疑問を生じさせる。
 この手紙はこう述べた。窓の一つは壊されていることが「絶対に必要だ」と。—これは実際に、指揮者によって2日前に、そうなされた。
 Alexis が歩けないことは「問題を複雑にした」が、「大きすぎる面倒ではなかった」。
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 (11) ニコライはこの手紙に対して、6月25日に、ある程度のも長さの返書を書いた。
 彼は手紙の発送者に対して、窓の一つが二日前に実際に空いた、と教えた。
 皇帝家族だけではなくBotkin 博士や侍従たちも救出することが、絶対的要請だった。
 「彼らが我々に負担をかけたくなく、彼らが我々に従った後で自発的に国外追放になって我々を残したくないと思うとすれば、我々は何と浅ましいことだろう」。
 ニコライはまた、物置に保管している二つの箱の運命についても、関心を表明した。小さな箱はAF(Alexandra Fedorovna)No.9 と貼り紙され、大きな箱は「No.13 N. A.」と指定され(Nicholas Alexandrovich)、後者に「古い手紙と日記」が入っていた。
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 (12) 第三の手紙は、追加の情報を求めていた。
 差出人は、残念ながら、全員を救出するのは不可能かもしれない、と書いた。
 その者は、6月30日までに「作戦行動の詳細な計画」を提供すると約束し、家族に対して、合図(これに関する叙述はなかった)に関して敏感になるよう指示した。合図を知るや否や、玄関に続くドアにバリケードを築き、彼らが何とか入手したロープを使って、空いている窓から下に降りることとされていた。
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 (13) その夜(6月26-27日)、約束された救出の企てを予期して、Alexis は、両親の部屋へ移動した。
 家族は、就寝しなかった。
 ニコライは、「我々は不安な夜を過ごし、衣服を着けたままで徹夜した」と記した。
 しかしながら、合図は来なかった。
 「待つことと不確実さは、身を切られるように辛かった」。
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 (14) 何が起きたことでチェカがその計画を放棄したのかを、決定することはできない。
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 (15) つぎの夜、ニコライとAlexandra は、警護者の会話を偶然に聞いて、逃げようという考えを捨てた。
 Alexandra は、6月28日にこう書いた。「我々はその夜に、部屋の下にいる見張り番の様子を聞いた。我々の窓をつねに監視せよ、と特別に言われていた。—我々の窓が開いていたので、再びきわめて疑い深くなった。」
 このことは、ニコライにつぎの行動をさせた、と見られる。すなわち、誘拐されることに反対していないが逃亡する気持ちになっていないという趣旨の、本意ではない覚書を手紙の発送者に伝えること。
 「<中略>(フランス語文。脚注に英語化されているので参照。)(脚注)
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 (脚注) 「我々は<逃亡>するのを望まないし、そうすることもできない。
 力ずくで誘拐されることだけができる。我々をTobolsk から移したのは、実力だったように。
 したがって、我々からの<いかなる積極的な援助も>あてにしてはいけない。
 指揮官には多数の協力者がおり、彼らは頻繁に交替させられ、不安になっている。
 彼らは我々捕囚者とその生活を注意深く警護している。それは我々には良いことだ。
 我々は、彼らが我々を理由として被害を受けるのを望まないし、我々のために行動する君たちを理由としてそうなるのも望まない。
 とりわけ、お願いだから、血を流すな。
 君たち自身で、彼らに関する情報を取得せよ。
 ハシゴなくして窓から下に降りるのは不可能だ。
 降りた後でも、指揮者の部屋から我々の部屋の窓が開いているのが見えるため、大きな危険がまだある。低層階の機関砲は中庭から入ってくる者を狙える。
 (削除印付き—だから、我々を誘拐しようという考えは捨てよ。)
 もし我々を見守っているなら、君たちは、緊急の現実的な危険がある<場合には>、いつでも我々を救いに来ることができる。
 外で何が起きているのか、我々は完璧に知らない。新聞も手紙も受け取っていない。
 窓を開けることが許された後で、監視は強化され、頭を窓の外に出すことすら禁止された。そうすれば、顔に銃弾を受けるリスクがある。」
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 (16) この段階で、見せかけだけの救出作戦は、頓挫した。
 皇帝家族は、しかしなおも、四つめおよび最後の秘密連絡を受けた。それらの文書は、7月4日以降に書かれたはずだった。その日にAvdeev と交替した新しい指揮者に関する情報を求めるものだったからだ。
 これらは、チェカによる粗雑な捏造文書だった。その文書は、皇帝家族に対し、友人の「DとT」—明らかにDolgorukii とTatishchev—はすでに「救出された」と保障していたが、実際には、二人は6月に処刑されていた。
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 (17) こうした経験をしたあと、ニコライと子どもたちの外貌は変化した。Solokov〔委員会〕での目撃証人は彼に、皇帝家族は「疲れ果てて」いると見えた、と語った(注63)。
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 第七節、終わり。

2923/R.Pipes1990年著—第17章⑩。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第七節/チェカによる救出作戦の捏造①。
 (01) 6月17日、皇帝家族は、歓迎すべき報道を知った。Novotikhvinskii 修道会の修道女が、これまでは同様の要請は却下されてきたが、卵、牛乳、乳脂を皇帝家族に配達することが認められるだろう、という報せだ。
 のちに知られるに至ったように、これは皇帝家族の良い暮らしへの関心から生じたのではなく、チェカの策略の一部だった。
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 (02) 6月19日または20日、皇帝家族は修道女から乳脂の容器を受け取った。その蓋の中には、つぎの伝言が書かれた一片の紙が隠されていた。その伝言は注意深く書かれたか、または、フランス語に関する知識が十分にない者によって書き写されたもののようだった。
 「<中略>[フランス語文。脚注1に英語化されているので、参照。]
 死を覚悟している者、ロシア軍将校より。」(脚注1)
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 (脚注1) 友人たちはもう眠らず、長く待ったときが来るのを望むでしょう。
 チェコスロヴァキア人の反乱はかつてなく、ボルシェヴィキの深刻な脅威になっています。Samara、Chelia binsk および東部と西部のシベリアは、民族臨時政府の支配下にあります。スラヴの友人の軍隊は、Ekaterinburg の80キロ離れたところにおり、赤軍の兵士たちは有効には抵抗していません。
 外部の動きの全てに対して、注意深くしていて下さい。待って、希望をもち続けて下さい。
 しかし同時に、用心深くして下さるよう懇願します。なぜなら、ボルシェヴィキは<敗北するより前に、本当のかつ重大な危険を象徴している>からです。
 昼も夜も一日じゅう、準備しておいて下さい。
 <あなたの二つの部屋>の概略を、家具、ベッドの場所を、描いて下さい。
 あなたたち全員が床に就く時間を、明確に書いて下さい。
 あなたたちのうち一人は、これから毎晩2時と3時のあいだを眠ってはいけません。
 二、三の言葉で返答して下さい。外部にいるあなたの友人にとって有用な全ての情報を与えてくれるよう、懇願します。
 返答を、あなたにこの文書を伝えたのと同じ兵士に、<書いて、だがひと言も言わないで>、与えて下さい。
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 (03) 返答は、皺になったノート用紙と同じ紙でなされた。
 家族が床に就く時間に関する質問のそばに、「a 11 1/2」と書かれていた。
 「二つの部屋」との質問は、「三つの部屋」に訂正された。
 下部は、力強く、読みやすい文字で書かれていた。
  「<中略>[フランス語文。脚注2に英語化されているので、参照。](脚注2)
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 (脚注2) 「バルコニーへ上がる角から。5つの窓は通りに、2つの窓は広場に面している。窓は全て閉められ、封印され、白く塗られている。
 男の子はまだ病気でベッドにおり、全く歩くことができない。脳震盪が彼の痛みの原因だ。
 一週間前、無政府主義者を理由として、夜間に我々をモスクワへ移動させた、と考えられた。
 結果が<絶対に確実だ>ということがなければ、誰も何のリスクも負うはずはない。
 我々はほとんど常時、慎重に監視されている。」
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 (04) 自称救出者からのこの秘密の伝言文書には、いくつかの当惑させる特徴がある。
 まず、言葉遣いだ。 
 この文書は、君主制主義の将校ならばその国王に対して使わないだろう、そのような態様で書かれている。「Vorte Majeste」(陛下)ではなく「vous」(あなた)と国王に呼びかけるというのは、想定し難い。
 全体を見ても、この文書の語彙や様式は異様なであって、Ekaterinburg の悲劇の調査者ならば完全な捏造文書だと考えるほどのものだ(注57)。
 また、この手紙がどのようにして囚人(=皇帝家族)に届けられたか、という疑問がある。
 執筆者は兵士に、おそらく警護者に、言及している。
 しかし、Ipatev 邸警護団の指揮者だったAvdeev は、つぎのように書いている。秘密の手紙は、修道女から送られた乳脂の容器の蓋で発見された、そしてチェカのGoloshchekin に渡された、彼は囚人に送る前に複写した、と。
 Avdeev によると(注58)、チェカはこの問題を追及し、執筆者は「Magich」という名のセルビアの将校だと確定し、この人物を逮捕した。
 実際に、セルビアの将校やロシアへのセルビア軍事使節団の中に、Jarko Konstantinovich Micic(Michich)少佐がいた。この人物は、ニコライに会いたいと要請して、疑念を生じさせていた(注59)。
 Micic は、Alapaevsk に抑留されていたセルビアの皇女、Helen Petrovna を発見して救出するために、Ural 地方を旅行したことがある、ということも知られている。この皇女は、Ivan Konstantinovich 大公の妻だった。
 しかし、Micic の旅行に同行したSerge Smirnov の回想録から、二人はようやく7月4日にEkaterinburg に到着した、ということを確定することができる。これが意味するのは、Macic は6月19-20日に執筆することはできなかった、ということだ(注60)。
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 (05) 最初の文書の所持者として考えられるもう一人は、Alexis の医師のDerevenko 博士だった。
 しかし、ソヴィエト当局が1931年に明らかにしたDerevenko の宣誓供述書から、彼が〔Alexisを〕訪問したときには囚人たちとの意思疎通を禁止されていた、ということが知られる(注61)。
 さらに、Alexandra の日記から、彼がIpatev 邸を最後に訪問したのは6月21日だった、と確定している。このことから、彼が最初の秘密文書を運ぶのは、理論的に不可能だ。
 しかし、これですら、ありえそうでない。なぜなら、Derevenko の言うことを確認して、Alexandra は、彼は決して「Avdeev の随行なくして」姿を見せず、したがって「彼〔ニコライ〕に一言でも話しかけるのは不可能だった」と書いていたからだ。
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 (06) こうして見ると、文書はチェカによって捏造され、策略に関与した警護者によって囚人たちに送られた、と想定するのが合理的であるように思われる(脚注3)
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 (脚注3) つぎのことが最近に明らかになった。すなわち、自称君主制主義救出者からの最初およびその後の手紙は、Ural 地方のIspolkom〔ソヴェト執行委員会〕の委員で、Geneva 大学の卒業生のP. Voikov という人物が執筆し、別のボルシェヴィキ党員のきちんとした手書きで書き写された。E. Radzinskii, Ogonek, No.2(1990年)、p.27.
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 (07) Avdeev によると、ニコライは受け取ってから二、三日後に、最初の手紙に返答した(注62)。この日付は、6月21日と23日の間になる。
 返書は、もちろん途中で奪われ、チェカの謀略が動き始めた。
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 第七節②へとつづく。

2922/R.Pipes1990年著—第17章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第六節/観測気球としてのMichael 殺害。
 (01) 1918年の春、ニコライとその家族をEkaterinburg に、残りのロマノフ一族をPerm 地方の別の街に幽閉したとき、ボルシェヴィキは、安全だと見られる場所に、彼らを置いていた。ドイツの前線と白軍からは遠く離れており、ボルシェヴィキの本拠地の真ん中だった。
 しかし、チェコ軍団による反乱が勃発して、この地域の状況は劇的に変化した。
 6月半ばまでに、チェコ軍団は、Omsk、Chelia binsk、Samara を支配した。
 チェコ人の軍事行動によって、これらの都市のすぐ北に位置するPerm 州は危険に晒された。そして、ロマノフ一族がいる場所は、ボルシェヴィキが後退している戦場の近くになった。
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 (02) 彼らをどう扱うべきか? トロツキーは6月に、見せ物的になる〔革命審判所での〕審理をまだ支持していた。
 「私がモスクワを訪れた何度かのうちの一つの時期に—ロマノフ家の処刑の数週間前だったと思う—、政治局へ行っていたとき、Ural の悪い状況を考えて、皇帝の裁判を急ぐ必要があることに気づいた。
 私は、〔前皇帝の〕全治世の絵(農民政策、労働者、諸民族、文化、二つの戦争等々)を広げることができるように、公開で審判を行なうことを提案した。
 審判の経緯は、ラジオで全国土に放送されるだろう。
 Volosti では、審理の過程に関する記事が、毎日、読まれ、論評されるだろう。
 レーニンは、実現できるととても良い、という趣旨の答えをした。
 しかし、…時間が十分でなかったかもしれない。…
 私が提案に固執せず、別の仕事に集中していたので、議論は起きなかった。
 そして、政治局には、三、四人しかいなかった。私自身、レーニン、Sverdlov、…。思い出すに、カーメネフはいなかった。
 レーニンはそのとき、むしろ陰鬱で、成功裡に軍を建設することができるかどうか、自信をもってなかった。…」(注49)
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 (03) 1918年の夏までに、〔前皇帝を〕審判にかけるという考えは、現実的でなくなっていた。
 チェコ人の蜂起のすぐ後に、レーニンはチェカに対して、「逃亡」が仕組まれていたとの言い分を使って、Pern 州のロマノフ一族を全員殺害する準備をする権限を与えた。
 レーニンの指示にもとづいて、チェカは、3つの都市で、徴発を捏造した。その3都市、Perm、Ekaterinburg 、Alapaevsk では、ロマノフ一族は幽閉されるか、監視のもとで生きるかのいずれかの状態にあった。
 計画は、Perm とAlapaevsk ではうまくいった。
 Ekaterinburg では、放棄された。
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 (04) 皇帝とその家族の殺害の予行演習が、Perm で行なわれた。Perm は、Mihael 大公が追放された場所だった(注50)。
 3月に、秘書である英国人Nicholas Johnson を同行させてPerm に到着したとき、Mihael は監獄に入れられた。
  しかし、彼はすぐに釈放され、Johnson、侍従、運転手とともにホテルに住居を構えることが認められた。そこで彼は、比較的に快適かつ自由に生活した。
 チェカの監視下にあったが、かりに彼が逃亡しようと思ったならば、大した困難なくそうできただろう。自由に街の中を動くことが許されていたからだ。
 だが、他のロマノフ一族と同じく、彼は服従の意向を示した。
 彼の妻は、復活祭の休日期間に訪れた。彼の望みに従って、ペテログラードに戻り、そこからのちに逃亡して、イギリスへ行った。
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 (05) 6月12-23日の夜、5人の武装者が三頭馬車に乗ってきてMihael のホテルに入ってきた(注51)。
 彼らはMihael を起こし、衣服を身に着けて、従うよう告げた。
 Mihael は、彼らの身分証明を求めた。
 彼らが何も提示できなかったとき、Mihael は現地のチェカに確かめるよう要求した。
 この時点で(と、処刑される前に侍従は仲間の在監者に言った)、訪問者たちは我慢できなくなり、実力行使に訴えて威嚇した。
 一人がMihael かJohnson の耳に何かを囁いて、二人は疑いを解消したように見えた。
 彼ら3人が、救出の使命をもった君主制主義者を装ったことは、ほとんど確実だ。
 Mihael は服を着て、Johnson に付き添われながら、ホテルの正面に停まっていた訪問者たちの車に入った。
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 (06) 三頭馬車は、Motovilikha の産業居留地の方向へと過ぎ去った。
 町を出て、森の中に入り、停まった。
 乗っていた二人は出るように言われた。従ってそうしたとき、この当時のチェカの習慣だったように、二人は弾丸で撃ち倒された。おそらくは背後から射殺された。
 遺体は、近くの溶鉱炉で焼かれた。
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 (07) この殺害のすぐ後で、Perm のボルシェヴィキ当局は、ペテログラードと地域の諸都市に対して、Mihael は逃亡しており、探索中だと伝えた。
 同時に、Mihael は君主制主義者に誘拐された、という噂を拡散した(注52)。
 地方新聞紙の<Permskii Izvestiia>は、出来事についてつぎの報告記事を掲載した。
 「5月31日[6月12日]の夜、偽造の命令書をもった白軍の組織立った一隊がMihael Romanov とその秘書のJohnson が住むホテルに現われて、二人を誘拐し、不明の目的地へと連れ去った。
 探索隊は、夜のため痕跡が分からない、と発表した。探索は継続している。」(注53)
 これは、連続したウソだった。
 Mihael ら二人は実際には、白軍に誘拐されたのではなく、元錠前屋で職業的革命家であり、Motivilikha ソヴェトの議長であるG. I. Miasnikov が率いるをチェカによって誘拐された。
 彼を手伝った4人の共犯者は、同じ都市の親ボルシェヴィキの労働者だった。
 「白衛軍」の陰謀という神話は、翌年にMihael ら二人の遺体の場所がSokolov 委員会によって突き止められると、維持することができなくなった。
 そのあとの公式の共産党の見解は、〔チェカの〕Miasnikov と共犯者たちは、モスクワからも現地のソヴェトからも権限を与えられることなく、自分たちで勝手に行動した、というものだった。—これは、最も騙されやすい者ですらその軽信さを疑問に感じるであろうような説明だ(脚注1)
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 (脚注1) Bykov, Poslednie dni, p.121. Miasnikov はのちに労働者反対派の一人になり、そのために党を1921年に追放され、1923年に逮捕された。1924-25年にパリに現われ、Mihael 殺害を叙述する原稿を売り歩いた。それを1924年にモスクワで出版した、と言われている(Za svobodu!, 1925)。
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 (08) 6月17日、モスクワとペテログラードの新聞は、Mihael の「行方不明」を報告し(脚注2)、ニコライはIpatev の家宅に押入った一人の赤軍兵士によって殺されている、との風聞が同時に広がっている(注54)、と伝えた。(脚注2)
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 (脚注2)例えば、NVCh, No.91(1918 年6月17日), p.1. 一ヶ月後にソヴナルコムのプレス局は、Mihael はOmsk へと逃亡し、おそらくロンドンにいる、との声明を発表した。NV, No.124/148(1918年7月23日), p.3.
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 この風聞はもともとは自然発生的なものでもあり得たが、つぎのことの方がはるかに大いにありそうだ。すなわち、ニコライの殺害とそのために進行している準備に対するロシア民衆と外国諸政府の両方の反応を試してみるために、ボルシェヴィキが意図的に流布した。
 このような仮説に信憑性を付与するのは、レーニンの異常な振舞いだ。
 レーニンは6月18日に、日刊紙<Nashe slovo>のインタビューを受けて、こう語った。すなわち、Mihael の逃亡を確認することはできるが、政府は前皇帝が死んでいるか生きているかを決定することができない、と(注55)。
 レーニンが<Nashe slovo>のインタビューを受けたのは、きわめて異例のことだった。この新聞紙はリベラル派で、状況が許す範囲内でボルシェヴィキ体制に批判的であって、ボルシェヴィキはこれとは通常は接触しなかったのだ。
 同様に不思議であるのは、前皇帝の運命についての無知を弁明していることだった。なぜなら、政府は簡単に事実がどうであるかを確定することができたからだ。6月22日、ソヴナルコム(人民委員会議)のプレス局は、Ekaterinburg と毎日交信していることを認めつつ、ニコライの運命に関してはまだ分からない、と述べた(注56)。
 政府のこうした行動によって、企てている前皇帝の殺害に対する公衆の反応を試すためにモスクワが風聞を流布した、という仮説は、強く支持される(脚注3)
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 (脚注3) P. Bulygin, Segodnia(Riga), No.174(1928年7月1日), p.2-3. ようやく6月28日、ソヴィエト当局は、ニコライとその家族は安全に生存していることを確認した。その際、Ekaterinburg にいる北部Ural 戦線の最高司令官から、6月21日にIpatev 邸を調査して、生存している居住者たちを見つけた、という電信を受けた、と表向き主張した。NV, No.104/128(1918年6月29日), p.3. つぎを参照。M. K. Diterikhs, Ubiistvo tsarskoi, sem’i i chlenov doma Romanovykh na Ural e, I(Vladivostok, 1922), p.46-48. この情報が一週間遅れたことは、意図的な偽装という文脈を除外しては説明不可能だ。
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 (09) 貴族制や君主制に親近的な者たちは別として、ロシアの民衆、知識人層、「大衆」は同様に、ニコライの運命に関する一方あるいは他方の立場を示さなかった。
 外国の諸見解も、紛糾したものではなかった。
 London の<Times>紙のペテログラード特派員が6月23日に送り、7月3日に公にされた通信文は、不吉な暗示を伝えていた。
 「ロマノフ一族がこの種の公的な著名さを与えられるときはいつでも、人々は何か重要なことが起きている、と考える。
 退位があった王朝に関して頻繁にこのような驚きが生じることに、ボルシェヴィキはますます我慢できなくなっている。そして、ロマノフ家の運命の解決が賢明であるかについて、そしてきっぱりとロマノフ一族の問題を処理してしまうことについて、そのような問題が再び提起されている。」
 もちろん、「ロマノフ家の運命の解決」とは、彼らを殺害することのみを意味している。
 このむしろ粗雑な問題提起は、すげなく無視された。
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 (10) ロシアと外国での、このような風聞への無関心さによって、皇帝家族の運命は話題にされなくなった、と思える。
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 第六節、終わり。

2921/R.Pipes1990年著—第17章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第五節/「特殊任務の家」②。
 (06) 1918年5月末、Ipatev 邸には11人が住んでいた。
 ニコライとAlexandra は、角部屋を占めた。
 Alexis は最初は姉たちと寝室を共有していたが、のちに述べる理由で、6月26日に、両親と同じ部屋に移った。
 娘たちは真ん中の部屋におり、そこで折りたたみ式の簡易ベッドで寝た。
 侍女のA. S. Demidova は、ただ一人、テラスの隣に、自分だけの一部屋をもった。
 Botkin 博士は、客間を占めた。
 台所では、三人の侍従が生活した。料理人のIvan Kharitonov、その弟子の、Leonid Sednev という名前の少年(逮捕された使用人の甥)、娘たちの侍従のAleksei Trup だ。
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 (07) 家族は単調な生活に慣れてきた。
 9時に起床し、10時に茶を飲んだ。
 昼食は午後1時で、主食は4-5時、茶が7時で、夕食は9時。
 11時に就寝した(注45)。
 食事の時間を除いて、彼らは自分の部屋に閉じ込められた。
 ニコライは、日記をつけるのを省略し始めた。
 聖書、ロシアの古典を声を出して読むことに、多くの時間が費やされた。しばしば停電したので、ときには蝋燭の光で読んだ。ニコライは、<戦争と平和>を初めて読む機会を得た。
 家族は、何度も祈祷した。
 彼らは長くて15分ほど庭を散歩するのが許された。だが、ニコライには困難だった肉体運動は、認められなかった。
 ニコライは、障害のある息子を庭に連れ出した。
 二人はトランプ(bezique)やtrickyrack と言うロシア風すごろく(backgammon)で遊んだ。
 教会に行くことは許されなかったが、日曜日と祝日に、客間の即席の礼拝堂で、警護者の監視のもとで、一人の僧侶が礼拝の仕事を行なったものだ。
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 (08) 警護者たちによる皇帝家族の粗暴な扱いについては、多数のおぞましい話がある。
 警護者たちは昼と夜のいつでも娘たちがいる部屋に入ってきた、ニコライが要求した結果として家族が侍従たちと一緒に一つの食卓で食べるつもりだった食料を勝手に奪っていった、前皇帝を乱暴に突くことすらした、と言われている。
 こうした話は、根拠が全くなくはないとしても、誇張されがちだ。
 指揮者と警護者たちの振る舞いは疑いなく、粗暴だった。だが、実際の虐待についての証拠資料は存在していない。
 そうであっても、皇帝家族が耐えた状況は、きわめて痛ましいものだった。
 二階に配置された警護者たちは、つぎのようにして楽しんだ。娘たちが洗面室へ行くのに同行し、なぜそこに行くのか教えろと要求し、出てくるまで外で待つ(注46)。
 淫らな絵や彫刻物を洗面室や浴室で見つけられるように置いておくことは、珍しくなかった。
 Faika Safonov という名のプロレタリアの少年は、皇帝家族の窓の下で卑猥な歌をうたって、友人を楽しませた。
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 (09) ロマノフ一族は、際立つ平静さでもって、幽閉状態、不愉快さ、屈辱に耐えた。
 Avdeev は、ニコライは「自然の陽気さ」を示して、少しも囚人のようには振る舞わない、と思った。
 この出来事に関する共産党員歴史家のBykov は、「自分の周りで起きていることに関する愚かな無関心」について、苛立ちをもって語っている(注47)。
 しかしながら、前皇帝とその家族の行動は、無関心のゆえではなく、礼儀の感覚と、宗教信仰に根ざす宿命論によっていた。
 もちろん我々は、ニコライの「自然の陽気さ」、Alexandra の横柄さ、子どもたちの活気ある精神という表面の背後で、幽閉されている者たちの心に何が動いているかを、知ることができるはずはない。彼らは誰も信用しなかったのだから。
 ニコライとAlexandra の日記は、個人的な日記というよりも、機械的記録だった。
 しかし、「祈り」と題される、彼らの持ち物の中から発見された詩は、彼らの内心の感情を、思いもかけず洞察させてくれる。
 この詩は、Zinaida Tolstoy の兄弟でAlexandra の友人のS. S. Bekhteev によって1917年10月に書かれ、Olga とTatiana に献じてTobolsk へ送られた。
 皇帝家族の文書の中から、この詩が二つ見つかった。一つはAlexandra の手に、もう一つはOlga の手にあった。
 つぎのような詩だ。
 「神よ、我々そなたの子どもに忍耐を授けよ
  この耐えるべき暗い嵐の日々に
  我々人民への迫害と
  拷問が我々に降りかかる。
  神よ、必要な我々に力を授けよ
  迫害者を許し、
  我々の重く痛ましい十字架をもち
  そしてそなたの偉大なる柔和さを得る。
  我々が掠奪され侮辱されるときに
  反乱が起きる不安な日々に
  我々はそなたキリスト救済者に助けを求める
  辛い試練に我々が耐え抜けるようにと。
  創世の神よ、創造の神よ
  祈りを通じて我々にそなたの恵みを授けよ
  我々に心の平穏を授けよ。おお主よ
  耐え難きこのおぞましい恐怖の時間に。
  そして、墓園の入口で
  我々の肉体に聖なる力を吹き込み給え
  我々そなたの子どもが強さを見出すように
  我々の敵が祈る従順さの中に。」(注48)
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 第五節、終わり。

2919/R.Pipes1990年著—第17章⑥。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第四節/ニコライとAlexandra のEkaterinburg への移送④。
 (18) Ekaterinburg は、その日の朝早くに、皇帝家族が乗る列車が走行中だと知らされた。
 その日の遅くにAvdeev からの電報によって、Iakovlev の策略についてだけ知った。
 〔Ekaterinburg〕ソヴェト幹部会は、Iakovlev は「革命に対する裏切り者」だと宣告し、彼を「法の外」に置いた。
 この趣旨の電報が、あらゆる方向へと発せられた(注37)。
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 (19) この情報を受けて、Iakovlev の列車がKulomzino 交差点に着く前に止めようと、Omsk は、軍事部隊を派遣した。その交差点で、列車は、西に方向を変え、Omsk を回避して、Cheliabinsk へ向かうことができた。
 自分の任務を誠実に履行していないと責任追及されていることを知って、Iakovlev は、Liubinskaia 駅で列車を止めさせた。
 モスクワと連絡をとろうと、機関車を切り離して第四の客車に乗ってOmsk へと進んだ。三つの客車は護衛たちに残してきた。
 このことが起きたのは、4月28-29日の夜間だった。
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 (20) Iakovlev のSverdlov との会話の内容は、Bykov による、きわめて怪しい二次的資料によってのみ知られている。
 「(Iakovlev は)Sverdlov を電話に呼び出し、旅程を変更せざるを得なかった状況を説明した。
 モスクワからは、ロマノフ家をEkaterinburg へ連れていき、Ural 地方ソヴェトへと引き渡せ、との提議(proposition, predlozhenie)があった。」(脚注1)(注38)
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 (脚注1) 文書記録を利用したある歴史家の最近の説明によると、Iakovlev はSverdlov と会話したが、後者はEkaterinburg に連絡し、おそらくは皇帝家族の安全の「保障」を要請した。Ekaterinburg は、囚人たちについて責任をもつことが許される、という条件のもとで、この保障を与えた、と言われている。Ioffe, Sovetskaia Rossiia, No.161/9,412(1987年7月12日), p.4.
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 この叙述は、ほとんど確実に、虚偽だ。三つの理由がある。
 第一に、Iakovlev は「旅程を変更」しておらず、Sverdlov が以前の会話のあいだに指示したのと同じように動いていた。
 第二に、全ロシア[ソヴェト]中央執行委員会の有力な議長とレーニンが信任している者は、より下位の活動家に対して「提議」しようとはせず、「命令」するだろう。
 第三に、かりにSverdlov が実際に、Iakovlev に対して皇帝家族をEkaterinburg ソヴェトに引き渡すことを望んでいたとすれば、翌日の、Iakovlev と現地ボルシェヴィキの間のEkaterinburg での激論は生じなかっただろう。
 最ももっともらしい説明は—推論にすぎないけれども—、こうだ。
 Sverdlov はIakovlev に対して、Ekaterinburg のソヴェトと論争を始めることを避けるように、また彼は前皇帝を誘拐しようとしているとの疑いに終止符を打つために、Ekaterinburg を経てモスクワへと進むように、言った。
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 (21) Sverdlov と会話したあとIakovlev は、鉄道運転者に対して、方向を逆にするよう命令した。
 夜に起きたこうした全てのあいだ、ニコライとその家族は眠っていた。
 4月29日の朝に目覚めて、ニコライは、列車が西へと走っていることに気づいた。このことは、モスクワへと移送されているとの従前の考えの正しさを確認するものだった。
 Alexandra は、Ialevkovから与えられた情報に依っていそうだが、日記にこう記した。「Omsk のソヴェトは我々をOmsk に通させようとはしない。我々を日本に連れていこうとする者がいるとすると、怖いものだ。」
 ニコライは、その日にこう書いた。「みんな、とても気分が良い」。
 こうして、彼らを苦しめる者の手によって外国に送られるという予想は嬉しいものではなかったけれども、ロシアのかつての都、今のボルシェヴィズムの主要な砦へと連れていかれることは、彼らの気分を高めた。
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 (22)  彼らは、Omsk とEkaterinburg の間の850キロを、ときどき停まりながら、一昼夜をかけて進んだ。
 平穏無事だった。
 Iakovlev は、前皇妃は痛ましいほど臆病で、車両に見知らぬ人がいなくなるまで何時間も洗面室へ行くのを待ち、廊下に誰もいないことを確認するまで座席にとどまった、と思い出す(注39)。
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 (23) 4月30日午前8時40分、列車はEkaterinburg 中央駅に入った。
 そこには多数の敵意に満ちた群衆が集まっていた。Iakovlev にその責任を熟考するよう圧力をかけるべく、この地域のボルシェヴィキによって集められていたようだ。
 列車がそこにあった3時間、乗客は離れることを禁止された。そして、その間の事態は、混乱に包まれていた。
 Iakovlev は、Ekaterinburg では安全でないという理由で、ニコライとAlexandra を引き渡すのを拒んだ、と思われる。
 ニコライの日記によると、こうだ。
 「我々は駅で3時間待った。大きな紛議が、この地の人民委員と我々の間で起きていた。前者が、最後には勝った。」
 ニコライは単純に、どの駅で降ろすかに関して論争が行なわれた、と考えた。正午の直後に、二級の商業車庫地である第二Ekaterinburg 駅へと列車が移行させられたからだ。
 Alexandra はより十分に分かっていて、日記にこう書いた。「Yakovlev は、Ural 地方ソヴェトへと我々を引き渡なければならなかった」。
 Iakovlev と現地の人民委員のあいだの対立は、実際には、一行をモスクワへと行かせるかどうか、に関してだった。
 Iakovlev は、おそらくはモスクワ〔政府・党中央〕が介入した後で、論争に敗れた。
 モスクワは、Ekaterinburg のボルシェヴィキたちと敵対したくなかった。そして、いずれにせよ、ロマノフ一族の扱い方について、確固たる方針がなかった。
 いつかの将来にある前皇帝の審判まで、安全にEkaterinburg に彼らをとどめておくことは、レーニンやSverdlov にとって、決して悪い妥協ではなかった、と十分に言えるだろう。
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 (24) 第二Ekaterinburg 駅に列車が入ると、Iskovlev は、Beloborodov にとっての罪人に変わった。彼から、この案件に関する責任から解除する、という手書きの文書を受け取ったのだ(注40)。
 Iakovlev は、おそらく群衆の暴力から皇帝家族を守るために、護衛を要求した(注41)。
 モスクワへと出発する前に、彼は、Ekaterinburg ソヴェトに自分の行動について説明しなければならなった。これは満足を得たようだ(注42)。
 モスクワにいる上司の目から見て彼は間違ったことを何らしなかった、ということは、つぎのことで示されている。すなわち、彼は一ヶ月のちにSamara の赤軍部隊の長に、さらに続いて、東部(Ural)戦線の第二赤軍の司令官に、任命された(脚注2)
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 (脚注2) A. P. Nena rokov, Vostochnyi front, 1918(Moscow, 1969), p.54, p.72, p.101. その年ののちに白軍へ走ったあと、彼はチェコの諜報機関に逮捕された。中国へと逃亡し、ソヴィエト同盟に戻り、逮捕された。Solobetskii の強制収容所でいくらかを過ごした後で釈放され、NKVD(ソ連内務人民委員部)のある収容所の司令官に任命された。しばらくのちに再逮捕され、処刑された。私はこうした情報を、ソヴィエトの作家、Vladimir Kashits 氏に負うている。
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 (25) 午後3時、ニコライ、Alexandra とMaria は、Beloborodov とAvdeev に付き添われて、二台の無蓋車で、市の中心まで連れていかれた。これらには、Alexandra が「完全武装」の兵士たちで満たされたと描写した、貨物自動車が従っていた。
 Avdeev によると(注43)、Beloborodov はニコライに対して、モスクワの〔全国ソヴェト〕中央執行委員会は、ニコライとその家族を来たるべき前皇帝の審判まで拘留すると命じた、と告げた。
 車は、大きい、漆喰で塗られたIpatev の邸宅で停まった。この家は、所有者が一日前に空けていた。そして、ボルシェヴィキが今では「特殊任務の家」と呼ぶ屋敷だった。
 皇帝とその家族は、ここから生きて出ることはできないことになる。
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 第四節の全体が、終わり。

2918/R.Pipes1990年著—第17章⑤。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第四節/ニコライとAlexandra のEkaterinburg への移送③。
 (10) 一行は予定どおり出発し、<tarantassy>(四輪馬車、シベリアでは<koshevy>として知られる)で進んだ。二頭または三頭の馬が牽引する、長い、バネのない四輪車だ。
 35人の護衛たちが随行していた。
 先頭にはライフルで武装した2人の男が乗り、2個の機関砲と2人のライフル武装者が乗る車が続いた。
 その次が、ニコライと、前皇帝のそばに座ることにこだわったIakovlev を運ぶ<tarantass>だった。
 その後ろが2人のライフル武装者、Alexandra とMaria が乗る四輪馬車で、それにさらにライフル武装者が続いた。
 一行の中には、家族医師のEvgenii Botkin 博士、Court Martial のAlexander Dolgorukii 皇子と3人の侍従たちが、含まれていた。
 Alexandra はお気に入りの娘のTatiana に、息子と2人の妹たちの世話を任せてきた。
 Iakovlev は、川が氷結しなくなるとすぐに—二週間以内と予期された—、子どもたちは両親に加わることができる、と約束した。
 彼は、最終目的地を秘密にしたままだった。前皇帝夫妻は、Tiumen に連れていかれている、ということだけ知っていた。そこは、230キロ離れた、最も近い鉄道路線の結節点だった。
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 (11) Tiumen への道路は酷い状態だった。冬の後で轍がいっぱいで、部分的には汚泥がぬかるんでいた。
 Tobolsk を出立してから4時間後、Irtysh 川の浅瀬を渡った。馬は、氷のような水に嵌まりつつ苦労して進んだ。
 半分くらい進んだIevlenko で、彼らはTobol 川の中に入った。川の水が氷となって浮かんでいて、木の厚板に乗って歩いた。
 Tiumen の直前で、Tura 川を横切った。一部は脚で、一部は小船で。
 Iakovlev は、途上ずっと馬の中継を管理していた。交替しての中継の回数は、最小限に抑えられた。
 ある地点でBotkin 博士が気分が悪くなり、回復してもらうために彼らは2時間、小休止した。
 第一日の夕方、出立後16時間、Bochalino に到着した。そこで、夜を過ごすための調整が行なわれた。
 Alexandra は、休憩する前に、こう書き留めた。
 「Marie は四輪馬車に。ニコライは人民委員Yakoblev と一緒に。
 寒く、暗く、風が強い。馬を替えたあと8時にIrtish 川を渡り、12時にある集落に着いて、冷たい提供物と一緒に茶を飲んだ。
 道路は完璧に酷かった。凍った地面、泥、雪、馬の胃に入る水。恐ろしく揺れて、身体じゅうが痛い。
 4回めの馬の取替えの後で、車体にあるポールがなくなった。それで、別の車によじ登って乗り込まなければならなかった。
 5回めの馬替え…。
 8時にYeblenko に着いた。以前は村の店だった家で夜を過ごした。
 一つの部屋で3人で寝た。我々はベッドで、Marie は床の上のマットレスで。…
 Tiumen からどこへ行くのか、誰も言わない。モスクワだと想像している者もいる。
 川が通れあの子が元気なら、すぐに子どもたちは我々と同行することになっている。」(30)
 Iakovlev は途中で、Alexandra に子どもたちに手紙を投函することや電報を打つことを許した。
 停まったある所で、農民が近づいてきて、ニコライはどこに連れていかれるのかと尋ねた。
 モスクワだと答えられたとき、その農民は、「王に栄光あれ。…モスクワへ。今やここロシアにもう一度秩序が生まれる」と反応した(注31)。
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 (12) 一行に随行する護衛たちは、Iakovlev が丁重に前皇帝と接しているために、ますます彼への疑念を募らせた。
 彼らは、なぜニコライが上機嫌であるのかを理解できず、Iakovlev は東部シベリアへ、あるいは日本にすらへとニコライを神隠ししようとしているのでないかと、不思議に思い始めた。
 彼らは、途中に配置されていた巡視者を通じて、Ekaterinburg に対する懸念を伝えた。
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 (13) 4月27日午前4時、事件もなく一晩が過ぎて—予期された待ち伏せ攻撃は実行されなかった—、旅が再開した。
 一行は正午に、Pokrovskoe で停まった。
 シベリアに数千とある中のこの村は、Rasputin の故郷だった。
 Alexandra は、こう記した。「旧友の家の前で長くとどまった。窓から外を見ている彼の家族や友人を見た」。
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 (14) Iakovlev によれば、ニコライは運動と新鮮な空気で元気になっているように見えたが、Alexandra は「寡黙で、誰にも話しかけず、誇り高く、接近し難いように振る舞った」(注32)。だが、二人とも、彼にはきわめて印象的だった。
 彼はのちに、ある報道記者にこう語った。「この人たちの謙虚さに感心した。何も不平を言わなかった。」(注33)
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 (15) 混乱している証拠資料から決定できるかぎりでだが、Iakovlev は、できるだけ早くEkaterinburg に着き、そこを早く後にして、モスクワへ向かうことを意図していた。
 しかし、彼は、Ekaterinburg を通って安全に彼の責任を履行できるかについて、いっそう不安になった。
 つぎのことを知ったならば、さらにいっそう警戒しただろう。彼の一行が後半の歩みを始めていた頃、Ekaterinburg ソヴェトからの人民委員が技師のNicholas Ipatev の家にやって来て、Ipatev の家はソヴェトの必要のために収用される、48時間以内に退去せよ、と伝えた(注34)。その家は、Voznesenskii 大通りとVoz-nesen 通りの角にあった。
 Ekaterinburg は、ロマノフ一族について、自分たちの案をもっていた。
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 (16) Iakovlev の一行は、4月27日午後9時に、Tiumen に着いた。
 そこでただちに、騎兵部隊に囲まれた。騎兵部隊は鉄道駅まで随行した。駅には、一台の機関車と四台の乗客車が待っていた。
 Iakovlev は、皇帝家族、職員たち、持ち物の移動を監視した。
 そのときにNemtsov が現われ、ロマノフ家関係者が眠りに就いているとき、二人の人民委員は電信局へ向かった。
 Hughes 装置を使って、Iakovlev はSverdlov に対して、現地のボルシェヴィキの意図に関する懸念を伝え、皇帝家族をUfa 地方の安全な場所に移動させることの許可を求めた。
 5時間の会話の末、Sverdlov はこの提案を拒否した。
 しかしながら、Sverdlov は、Iakovlev が直接にではなくEkaterinburg を通って移動することには同意した。但し、Tobolsk へ同じその月に彼が通ったのと同じ遠回りの—つまり、Omsk、Chelia binsk 、Samara を通る—行路によってだった。
 Iakovlev は、彼の計画を隠すために、駅長に対して、列車をEkaterinburg の方向へ向かわせ、次の駅で新しい機関車を付け、方向を転換させて、全速力でTiumen を通過してOmsk の方向へ走らせるよう、指令した(注35)。
 4月28日、日曜日の午前4時半、皇帝家族を乗せた列車はEkaterinburg へと向かい、そして方向を転換させた。
 Iakovlev は、説明として、Zaslavskii の同僚のAvdeev に対して、Ekaterinburg は列車を突然に攻撃するつもりだ、との情報を得ている、と伝えた(注36)。
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 (17) 朝に目覚めたとき、ニコライは、列車が東に向かって走っていることに、驚きをもって気づいた。
 彼は、日記にこう書いて不思議がった。「Omsk の後で、どこへ連れていくつもりなのか? モスクワへ、それともVladivostok へ?」(脚注)
 Iakovlev は、言おうとしなかった。
 Maria は護衛たちとの会話を始めたが、彼女の美しさと魅力をもってしても、彼らから何かを引き出すことができなかった。
 彼らもまた、知らなかったのだろう。
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 (脚注) 1918年のニコライの日記は、以下。KA, No.1/26(1928), p.110-p.137.
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 第四節④へとつづく。

2917/R.Pipes1990年著—第17章④。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第四節/ニコライとAlexandra のEkaterinburg への移送②。
 (06) Iakovlev の命令は、前皇帝夫妻に、とくにAlexandra に、激しい動揺をもたらした。
 Iakovlev によると、Alexandra は叫び出した。「残酷すぎる。そんなことをするとは信じない。…!」(注24)
 彼はニコライをどこに連れていくかを言おうとしなかった。そして、のちに、白軍の新聞に、知らなかった、と主張した。
 もちろんこれは、本当ではない。そしておそらく、彼が白軍へと移ったあとの時期には彼には好ましい、彼は本当は白軍が支配する地域にニコライを移すつもりだったと、との風聞に信憑性を与えることを意図していた(脚注)
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 (脚注) Iakovlev は、1918年10月に白軍へと走り、新聞紙のUral’skaia zhi’zn のインタビューを受けた。これは君主主義雑誌のRL, No.1(1921), p.150-3 に再録されている。
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 (07) Iakovlev が去ったあと、ニコライ、Alexandra、Kobylinskii は状況について議論した。
 ニコライは、ブレスト条約に署名するためにモスクワに連れて行かれるという点で、Kobylinskii に同意した。
 かりにそうであれば、使命は無駄だった。「そんなことをするくらいなら、首を刎ねてもらう」(注25)。
 ニコライがボルシェヴィキはブレスト条約を正規のものにするために自分の署名を必要としていると信じることができた、ということは、彼の退位後にロシアで起きたことについて、自分が重要でなくなっていることについて、ほとんど何も知っていなかったことを示している。
 それがIakovlev の任務の目的だとやはり信じたAlexandra は、夫の不動の地位についてははるかに確信がなかった。彼女は夫が退位したことを決して許しておらず、あの運命の日に自分がPskov にいたなら、きっと彼の行動を止めようとしただろうと思っていた。
 彼女は、ニコライには、主に家族に対する威嚇でもって、モスクワで不名誉な条約に署名するよう耐え難い圧力が加えられるだろう、自分が彼の側に立たなければニコライは崩壊してしまうだろう、と懸念した。
 Kobylinskii は、Alexandra が親しい知人のIlia Tatishchev にこう言うのをたまたま聞いた。「ニコライが独りなら、彼は愚かなことをするだろう、と思って怖い」(注26)。
 彼女は取り乱しており、病気の我が子への愛情とロシアへの務めだと感じているもののあいだで切り裂かれていた。
 そして最後には、長年にわたり養い国を裏切っていると責められてきた女性は、ロシアを選んだ。
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 (08) 子どもたちのスイス人家庭教師のPeter Gilliard は、Alexandra に午後4時に会ったのだが、つぎのように叙述した。
 「皇妃は、…Iakovlev は皇帝を移送するためにモスクワから派遣された、彼は今晩に出発する予定だ、と確認した。
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 『人民委員は、皇帝には危害は加えられない、誰かが同行したいのなら反対はしない、と言う。
 皇帝を独りで行かせることはできない。
 前もそうだったように、彼らは彼を家族から引き離したいのだ。…』
 『彼らは、彼の家族のことを心配させて、強引に行かそうとしている。…
 彼らには皇帝が必要だ。彼だけがロシアを代表している、と感じている。
 我々は一緒に、彼らに抵抗する良い立場にいるべきだ。私は審判のときに、彼の傍にいるべきだ。…』
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 『しかし、子どもは病気だ。…
 面倒なことになっていると想像してほしい。…
 ああ、神よ。何という恐ろしい拷問か。…
 人生で初めて、自分がすべきことが分からない。決定しなればならないときはいつでも、啓示を感じてきた。今は、考えられない。…
 しかし、神は皇帝の出発をお許しにならないだろう。そうできないし、そうあってはならないはずだ。きっと今晩に、雪解けが始まるだろう。…』
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 Tatiana Nikolaevna がここで割って入った。
 『でも、お母さん、我々が何と言ってもお父さんは行かなければならないなら、何かを決める必要がある。…』
 私はTatiana を弁護し、Alexis は良くなっている、我々は彼の世話をきちんとすべきだ、と言った。
 皇妃は不決断に明らかに苦しんでいて、部屋の中を行きつ戻りつした。そして、自分にではなく、我々に対して語りかけていた。
 最後に私に近づいて来て、こう言った。
 『よし。これが最善だ。私は皇帝と一緒に行く。Alexis は貴方に委ねよう。』
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 すぐのちに、皇帝が入ってきた。皇妃は彼に向かって歩き、こう言った。
 『決めた。私は貴方と一緒に行く。Marie もそうする。』
 皇帝は答えた。『望むなら、大変けっこうだ』。…
 家族全員が、午後いっぱいを、Alexis のベッドの周りで過ごした。
 ----
 この日の午後10時半に、我々は茶を飲みに上がった。
 皇妃は、二人の娘とともにソファに座っていた。
 彼らの顔は、泣いたことでふくらんでいた。
 我々はみんな、悲しみを隠し、外面上の静穏さを維持すべく最善の努力をした。
 誰か一人が離れれば全員が壊れる原因になる、とみんなが感じていた。
 皇帝夫妻は、静かで、落ち着いていた。
 神が深遠な知恵でもって国の福祉のために要求するならば、いかなる犠牲をも、生命ですらも覚悟している、ということが明らかだ。
 彼らは、優しさや気遣いを示さなかった。
 この素晴らしい静穏さ、この素晴らしい忠誠さは、伝わりやすい。
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 午後11時半、侍従たちが大広間に集まった。
 皇帝夫妻とMarie は、別れを告げた。
 皇帝は全男性と、皇妃は全女性と、抱擁した。
 ほとんど全員に、涙があった。
 皇帝、皇妃が去った。我々は私の部屋へと降りた。
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 午前3時半、乗り物が中庭に入ってきた。
 恐ろしい、<長い四輪馬車>(ratantass)だった。一台にだけ、覆いがあった。
 裏庭に小さな麦わらがあるのに気づいた。それを四輪車の床に撒いた。
 皇妃が使う車の中に、マットレスを入れた。
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 午前4時、上がって皇帝と皇妃に会いに行き、Alexis の部屋を出たばかりだと気づいた。
 皇帝夫妻とMarie は、我々に別れを告げた。
 皇妃と大公爵夫人〔Elizabeta Fedorovna—試訳者〕は、涙で濡れていた。
 皇帝は平静そうで、我々への勇気づけの言葉を述べた。そして、我々を抱擁した。
 さよならと言った皇妃は、上がってAlexis の側にいるよう私に頼んだ。
 私が少年の部屋へ行くと、彼はベッドで泣いていた。
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 数分後、車輪が動くのが聞こえた。
 大公爵夫人は彼らの部屋へ戻る途中でその弟の部屋を通った。私は彼らがむせび泣くのを聞いた。」(注27)
 --------
 (09) Iakovlev は、ひどく急いでいた。
 雪解けが始まったその瞬間に、道路は通れなくなる。
 彼はまた、待ち伏せの危険も知っていた。
 彼の受けた命令は、前皇帝の生命を守り、安全にモスクワまで移送することだった。
 しかし、その使命について多くのことを準備して、Ekaterinburg のボルシェヴィキは異なる計画をもっている、と確信した。
 まさにこの時期に行なわれたUral 地方のボルシェヴィキの大会は、前皇帝の逃亡と君主制復活を阻止するために、ニコライのすみやかな処刑に賛成する票決をしていた(注28)。
 Iakovlev には、Tobolsk のボルシェヴィキ人民委員の一人の Zaslavskii は彼が到着した日にEkaterinburg に来ていた、という情報があった。
 Zaslavskii は、ニコライを捕え、必要があれば殺害するという意図をもって、Ievlenko に待ち伏せ部隊を設置した、との風聞があった。そこはTiumen の鉄道交差点につながる道路がTobol 川を渡る箇所だった(注29)。
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 第四節③へとつづく。

2915/R.Pipes1990年著—第17章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第四節/ニコライとAlexandra のEkaterinburg への移送①。
 (01) 1918年4月22日、モスクワからの密使、Vasilii Vasilevich Iakovlev が、Tobolsk に姿を現した。
 長いあいだ神秘的な人物で、イギリスの諜報員と疑われもしたが、彼は最近に、本当の名前はKonstantin Miachin という。古くからのボルシェヴィキだと特定された。
 1886年にOrenburg の近くで生まれ、1905年に社会民主党に加入し、多数のボルシェヴィキによる強奪(「収用」)に参加した。
 1911年に偽名(Iakovlev)で出国して、ベルギーで電気技師として働いた。
 二月革命のあとでロシアに戻った。
 1917年十月、〔ペテログラード〕軍事革命委員会の一員で、第二回全国ソヴェト大会の代議員になった。
 1917年12月、チェカの役員に任命された。
 立憲会議の解散にも、関与した(注18)。
 要するに、彼は、試練済みの、信頼されるボルシェヴィキだった。
 --------
 (02) Iakovlev-Miachin は、その使命の最終的な目的について、口を噤んだ。共産党の文献資料も、寡黙でありつづけた。
 しかし、彼の任務は、ニコライと、もし実行可能ならば、彼の家族を、前皇帝が審判を受けるべきモスクワへと送り込むことだった、と確実に言うことができる。
 このことは、状況上の証拠資料から確定することができる。すなわち、常識はこう指し示している。政府は、モスクワからほとんど2000キロ離れたTobolsk へ、そこから近くのEkaterinburg までだけ皇帝家族に随行させるために、密使を派遣しはしなかっただろう。とくに、Ekaterinburg のボルシェヴィキは、皇帝家族を監禁状態に置くことに熱心だったのだから。
 だが、この趣旨の直接的な証拠資料もある。これは、Tiumen 出身の政治委員でPerm Guberniia の中央執行委員会の議長だったN. Nemtsov によって与えられた。
 Nemtsov は、4月にIakovlev の訪問を受けた、彼は42人の「モスクワ派遣員」と一緒に現れた、として、こう詳述する。
 「[Iaklevは]私に、ニコライ・ロマノフのTobolsk からの『退去』とモスクワへの移送についての命令書を提示した。
 命令書には、人民委員会議議長、Vladimir Ilich Lenin の署名があった。」(脚注1)
 ロマノフ一族に関する情報全てに対するきわめて厳しい検閲を何とか免れたこの証言は、Iakovlev はロマノフ家族をEkaterinburg へ移送せよとの命令を受けていたのか、それとも誘拐して安全圏に送り込む白軍の工作員だったのか、等の憶測に終止符を打った。
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 (脚注1) Krasnaia niva, No.27(1928), p.17. Avdeev, KN, No.5(1928), p.190 は、Iakovlev がレーニンからの命令書を携帯したことを確認している。Koganitskii によると(PR, No.4, 1922, p.13)、Iakovlev はニコライをモスクワに移送せよとの命令を受けており、このことは、疑念をもった現地ボルシェヴィキがモスクワと連絡して正しいものと確認した。
 --------
 (03) Tobolsk への途中で、Iakolev はUfa で止まって、Goloshchehko と逢った。
 Iakovlev は命令書を示し、追加の人数を求めた。
 そこから、直接にEkaterinburg を通ってではなく、Chelyabinsk やOmsk を迂回して、Tobolsk へと向かった(注19)。
 彼がそうしたのは、ニコライを確保したがっているEkaterinburg が自分に成功させる責任がある使命を挫折させる、という怖れがあったからだったように見える。
 実際に、彼がTobolsk へ向かっているあいだに、Ekaterinburg は、前皇帝を「生きているか死んでいるか」はともかく持ち帰るための一隊の兵士を派遣して、彼に先行しようとしていた。
 Iakovlev は、この派遣隊にほとんど追いつき、二日後にTobolsk に着いた(注20)。
 彼には150人の騎兵でなる警護団があった。そのうち60人は、Goloshchekin から提供されていた。
 この一団は、機銃砲で武装していた。
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 (04) Iakovlev は、2日間をTobolsk で過ごし、情勢を知った。
 地方連隊と会い、未払いの給与を払って、気に入られた。
 知事の居宅内の状況も、知った。
 Alexis が重病であることを、知った。
 1912年の秋以降は血友病の症状を示さなかった皇帝の子息は、4月12日に自ら打ち傷を作り、それ以来ベッドを出られなくなっていた。
 彼はひどく痛み、両脚は膨らんで、麻痺した。
 Iakovlev は二度、前皇帝の居宅を訪問し、子息はモスクワまでの危険な旅行に耐えられる状態にはない、と確信した。
 (「聡明で、きわめて神経質な職人で技師」というのが、彼についてのAlexandra の印象だった。)
 四月は、Ural 地方を旅行するには最悪の時季だった。その頃までに雪が解けて橇や荷車の動きを邪魔し、かつ海運のために川を自由に利用できるわけでもないからだ。
 4月24日、Iakovlev は、モスクワと電話で連絡を取った。彼は、ニコライだけを移送し、当分は家族は残しておくように、指示された(注21)(脚注2)
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 (脚注2) 安全確保のため、Iakovlev とクレムリンとの間の連絡は、前皇帝とその家族を「商品」と言及して行なわれた。モスクワの官僚はIakovlev に、「荷物の主要部分だけ運ぶ」ように伝えた。Iakovlev, Ural, No.7(1988), p.160.
 --------
 (05) このときまで、Iakolev は皇帝家族に対して丁寧で、ほとんど慇懃ですらあったので、随行の兵士やTobolsk 連隊には疑念が巻き起こっていた。
 ボルシェヴィキが「血のニコライ」と握手をするまでにへり下るのは、きわめて疑わしい、と彼らは感じた(注22)。
 新しい指示を受けたあとでもIakolev は礼儀正しくしていたが、官僚に変わった。
 彼は4月25日の朝に、知事の居宅の指揮者であるKobylinskii に対して、前皇帝を移送させなければならない、と言った。どこへかを言おうとしなかったけれども、行先はモスクワだと口を滑らしたようだ。
 彼は「聞き手」に、その日の午後2時に予定されている、と要請した。
 知事の居宅に着いて、彼はニコライがAlexandra、Kobylinskii と一緒にいるのに気づいて困惑した。
 彼は立ち去るよう求めたが、Alexandra は、そのままとどまるのに同意されているかのように振る舞った。
 ニコライに対して、こう言った。翌日早くに一緒に出立せよと、中央執行委員会から指令を受けている、と。
 彼の受けた命令は最初は家族全員とともにニコライを召喚することだったが、Alexis の病状を考慮して、ニコライだけを移送するのが新しい指令になっていた。
 Iakovlev の知らせに対するニコライの反応については、二つの種類の記録がある。
 翌月にIzvestiia が掲載したIakovlev へのインタビュー記事によると、ニコライはたんにこう尋ねた。「どこへ連れて行くのか?」。
 しかし、Kobylinskii はこう思い出す。ニコライは、彼らしくない言い方なのだが、「私はどこへも行かない」と言った。
 Kobylinnskii によると、Iakovlev は、さらにこう反応した。
 「そうしないで下さい。私は命令を実行しなければならない。
 貴方が拒めば、実力を行使するか、それとも任務遂行を諦めるかのどちらかをしなければならない。
 その場合には、より人間的でないことをする誰かと私は交替させられるでしょう。
 安心して下さい。貴方の生活を気遣います。
 独りで旅行するのが嫌なら、誰でも好みの者を連れていって構いません。
 明日の朝4時、我々は出発します。」(注23)
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 第四節②へつづく。
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