月刊諸君!(文藝春秋)12月号、西尾幹二「雑誌ジャーナリズムよ、衰退の根源を直視せよ」。p.26-37でけっこう長い。
一 「論壇」という観点等からの戦後史の理解に参考になる指摘がある。
1.「1960年代の終わりから1970年代なかば」は「決定的分岐点」。「大学知識人」の地位は失墜した。丸山真男の力も「雲散霧消」した。p.27。
2.1970年代以後、朝日新聞対文藝春秋の対立の構図があり、やがて朝日対産経の構図にとって代わられた。
産経の「保守的姿勢」は純度を欠くにいたっている。また、文藝春秋はかつての中央公論と似てきており、朝日・論座、講談社・現代を欠く中で、文藝春秋と中央公論(=読売)は「皮肉なことに最左翼の座を占め、右側の攻勢から朝日的左側を守る防波堤になりつつある」。p.27。
挿むと、なかなか興味深いが、かかる論壇の現状認識は適確なのだろうか。「右側の攻勢」が「朝日的左側」に対して実際に有効に加えられているのなら、よいのだが。
3.論壇誌は経済に弱い。経済誌は政治に弱い。後者から出た野口悠紀夫の「一九四〇年体制論」はかつての「戦時協力体制」が支配しつづけて、日本経済の「自由主義的発展」を阻害しているとするが、「戦時体制」による「日本社会の合理化」が戦後日本経済(の成長・強さ)に関係あるのではないか。p.29-30。
挿むと、高度経済成長の終焉後の議論としては噛み合っていないところがあるようでもある。
4.ロッキード事件・田中角栄逮捕は、「ソ連主導の共産主義」の経済的「足踏み」の時期と重なる。1970年代半ば、日本国内の「革命幻想の嵐」は終息に向かい、自民党・社会党の「馴れ合い進行」へと移っていた。国際的なある種の「雪解けムード」が田中角栄逮捕→角栄の闇権力の残存・政権たらい回しにも反映したのでないか。p.31。
5.1993年の細川政権誕生、その翌年の自社連立政権という「想像を絶する愚劣な政権」の誕生も、「冷戦終焉、ベルリンの壁崩壊による安堵感」という世界史的背景を見てこそ、本質がわかるだろう。p.32。
6.いま、今日の日本の政治状況も「国際政治」の「なんらかの反映」がある筈だが、「答えることができ」ず、「ぜひ教えてもらいたい」。
上の4.5.は興味深い。社会主義国の状況はやはり日本の国内政治と関係ではない筈だ。
「いまの政治状況」をどう理解しどう叙述するか自体が難問だ。だが、今後の方向を考える場合には、「公務員制度改革」も「地方分権」も、<格差是正>も(「国民生活」も)大切かもしれないが、やはり「社会主義」国である中国・北朝鮮との関係にかかる見解・政策こそが最大または第一の論争点でなければならない、と私は考えている。
相対的にだろうが、親中国派・親北朝鮮派のより多い政党への<政権交代>を主張する又は期待するのは、反コミュニズムを最大の基本理念とする「保守主義」者ではないだろう。この点で怪しい「保守」論客もいるようだが別の機会に書こう。
二 西尾幹二は論壇における「皇室論」、又は自らの「皇室論」への論壇の反応についても触れる。p.36-37。
二つの「皇室論」があったという。第一は、「皇太子殿下ご夫妻に、もっと多くの自由を」と説く、「ソフトで、制約がないことが望ましい」とする「平和主義的、現状維持的イデオロギー」(「自由派」)、第二は、「古風な、がちがちに硬直した、皇室至上主義的なイデオロギー」で、皇室に「もの申す」のは「不敬の極み」などと西尾を論難した(「伝統派」)。
そして、これらいずれも「東宮家の危機を、いっさい考慮にいれていない」、「目を閉ざしてしまう」点では「一致している」。
こうしたまとめ方・語句の使い方には必ずしも賛同できないところがあるが、とりあえず措く。
問題だと思うのは次の文章だ(p.37上段)。
「私が危惧するのは、いまのような状態をつづければ、あと五十年を経ずして、皇室はなくなるのではないかということです。雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける。というか、明確に拒否されて、すでに五年がたっている。…皇太子殿下はなすすべもなく見守っておられるばかりなのではないか。これはだれかがお諫めしなければならない。…なら、言論人がやらなきゃいけない」。
西尾はどうしてこうまで<焦って>いるのだろうか? よく分からない。「あと五十年を経ずして、皇室はなくなるのではないか」との懸念が「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける」ということを根拠にしているとすれば、それは当たっていないと思われる。
そもそもが「雅子妃」は「宮中祭祀をなさる(なさらない)」と書いて、雅子妃殿下が宮中祭祀の主体(の少なくとも一人)であるかのごとき認識をもっているようだが、これは誤りだろう。すなわち、皇太子妃は宮中祭祀の主体ではなく参加しても「同席者」・「列席者」にすぎず、「主体」はあくまで天皇陛下だと思われる。
また、これまでの歴史においていろいろな皇太子妃や皇后がいたはずで、雅子妃と同様に(?)宮中祭祀に関心を示さない皇太子妃や皇后もいたのではなかろうか。美智子前皇太子妃・美智子皇后を基準にしてはいけない。
さらには、確認はしないが、財政不如意のために皇位継承後の大嘗祭(新嘗祭)というきわめて重要な宮中祭祀を行えず、数年後になってそれをようやくなしえた天皇がかつて複数いたはずなのだ。
にもかかわらず、そういう時代があっても、天皇家と天皇制度は存続し続けてきた。雅子妃の件が<皇室消滅>の原因になるとは思われない。いろいろな皇太子妃・皇后がいた、ということだけになるではないのか。
再確認はしないが、宮中祭祀の主体は天皇陛下おん自らであり(代拝等はありうる)、皇太子妃等は<付き添い>・<見守り>役にすぎないことは、西尾よりも皇室行事・宮中祭祀に詳しいと考えられる竹田恒泰が明言していたことだ。
竹田恒泰は(そしてついでに私も)、西尾幹二が上にいう第二の「伝統派」にあたるのだろうが、皇太子妃・皇后と宮中祭祀の関係についての竹田恒泰の文章を西尾は読んでいるはずなのに、その後も全く触れるところがない。
「伝統派」は畏れ多いとだけ言っているのではなく、<大げさに心配するほどの問題ではない>と言っているのだ、と思う。この点でも、西尾幹二は正確に論議を把握していないか、知っていても無視しているのではないか。
以前に、かりに本当に皇太子妃殿下が<反日・左翼分子>に囚われてしまっているのだとすると<もう遅い>、現皇太子の婚姻の前にこそ西尾は発言すべきだった、と書いたことがある。
<もう遅い>というのは、極めて遺憾なことだがやむをえない(いろいろな皇族がいても不思議ではない)という意味であり、そのこと(皇太子妃殿下の心情や行動)と皇太子殿下(将来の天皇)のそれらとを同一視してはいけない、又は同一になるはずがない、ということを前提にしている。
このような同一視の傾向は、再引用は省略するが、八木秀次の文章の中にも見られたところだった。
西尾幹二の全ての仕事を否定する(消極視する)つもりはないのだが、やはり今年の西尾の皇室論はいくぶんエキセントリックだったと思われる。その意味では、今日の「雑誌ジャーナリズム」・「論壇」を奇妙なものにし、「衰退」させている一因は、西尾幹二にもあるのではないか。
なお、現皇太子はもっぱら戦後の<空気・雰囲気>の中で生きてこられた。戦後に生まれ、戦後の「教育」を受けてこられた。昭和天皇や今上天皇と全く同じことを期待するのは酷だ。「自由派」の主張には全く反対だが、悠久の歴史を引き継ぎつつ、独自の新しい面もある天皇像が示されることとなってもやむをえないのではないか。むろんこれは宮中祭祀不要論・否定論では全くない。伝統は伝統として(神道形式も含めて)間違いなく継承されるはずだ、と信頼している。
皇太子妃殿下
竹田恒泰=八木秀次・皇統保守(PHP、2008)における八木秀次の西尾幹二批判は、その<仕方>も<内容>も、適切ではないところがある。
長くは書かない。第一に、批判するためには相手の発言・執筆内容を正確に理解したうえで行う必要があるが、八木秀次は西尾幹二の主張内容を、批判しやすいように歪めているところがある。
基本は日本語の文章、テキストの理解だ。それをいい加減にしてしまうと、どんな批判もそれらしき正当性をもっているかのごとき印象を与える。
第二に、自分自身が発言・執筆していることとの関係で、そんな批判を西尾幹二に対してする資格が八木秀次にあるのか、と感じるところがある。
目につく点から、以下、簡単に指摘する。
第一に、竹田恒泰=八木秀次・皇統保守p.150の見出しは太ゴチで「『天皇制度の廃棄』を説いた『WiLL』西尾論文」となっている。そして、八木は、「西尾は『天皇制度の廃棄に賛成するかもしれない』と明記しています」、西尾のように「『天皇制度の廃棄に賛成する』とまで書くのは、どう考えても言いすぎです」と書いている。
西尾幹二の言説内容を、いつのまにか天皇制度廃棄に「賛成するかもしれない」から「賛成する」に変えている。この点も無視できないが、より重要なのは次の点だ。
月刊WiLL5月号で西尾幹二は、たしかに「天皇制度の廃棄に賛成するかもしれない」と明言しているが、この語句を含む一文の冒頭には「皇室がそうなった暁には…」との語句がある(p.43。「そうなった暁」の意味も書かれているが省略)。つまり、もし…ならば…かもしれない、というのが西尾幹二の原文に即した彼の主張・意見だ。
上の八木において、<もし…ならば…かもしれない>は、<…だ>へ変更されている。批判相手の言説内容(テキスト)のこのような<改竄>は議論の仕方として許されるのだろうか。批判しやすいように、八木にとって都合よいように(意図的か無意識的にか)、改竄(=一種の捏造)をしているとしか思えない。
八木秀次は「『ときすでに遅いのかもしれない』と言い、結論として皇室の『廃棄』まで言う…」と西尾の主張をまとめている(上掲p.151)。
たしかに西尾は「ときすでに遅いのかもしれない」と最後に述べているが、掲載は月刊WiLL5月号ではなく6月号(p.77)。何が「すでに遅い」のか何となくは判るが、天皇制度廃棄との関係はさほど明瞭に述べられているわけではない。
八木は何とかして、西尾を単純な<天皇制度廃棄>論者にしたいのではないか。西尾幹二の主張の内容に私は全面的に賛成しているわけではない。むしろ相当に批判的だ。だが、その西尾幹二の主張についての八木秀次の紹介の仕方は、あるいは前提としての理解の仕方は、ほんの少し立ち入っただけでも、正確だとは思えない。これでは議論は成立しない。これでは批判の正当性にも疑問符がついてしまう。
第二に、八木秀次は、「『WiLL』を含めマスコミ全体で皇太子妃殿下を血祭りにあげている感じがします」(p.156)と書く。
これはまさしく、<よくぞヌケヌケと>形容してよい文章だ。この問題についての前回(9/06)に紹介したように、八木自身が諸君!7月号(文藝春秋)誌上で、「問題は深刻である。遠からぬ将来に祭祀をしない天皇、いや少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后が誕生するという、皇室の本質に関わる問題が浮上しているのである」と明記しているのだ。「問題は深刻である。遠からぬ将来に…少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后…」という部分だけでも注目されてよい。
八木はこれにつき「皇太子妃殿下を血祭りにあげている」のではないと反論するかもしれないが、祭祀同席に消極的だとされる皇太子妃殿下について、皇后位継承を想定しつつ、「問題は深刻である」と言い切っているのだ。「血祭りにあげている」のと五十歩百歩と言うべきだ。
第三に、八木秀次は、西尾幹二は解決策を示していない、そして必ずしも明確ではないが、自分は「解決」策を考えている又は主張している、と言っているようだ。
①「われわれは『…どう解決するか』を考えるべきでしょう」(p.150)。
②「解決のための言論であればけっこうなのですが、西尾論文は『ときすでに遅いのかもしれない』と、すでに手遅れだという主張です。手遅れだから『天皇制度の廃棄』だと言うわけです」(p.157)。
③「単に批判するだけ。天皇制度を『廃棄』した方がいいというだけ」。西尾や久保紘之の「解決方法は『廃棄』だけです」(p.172)。
すでに触れたことだが、上の②③も西尾幹二=単純な「天皇制度廃棄」論者に仕立てている。<左翼>ですら表立っては言いにくいような主張を西尾幹二はしているのだろうか。八木が理解する(理解したい)ほどには単純ではない、と私は西尾幹二の文章を読んでいる。
それはともかく、西尾幹二は「解決」方法に(「廃棄」以外に)言及していないだろうか。
西尾は月刊WiLL5月号で、「勤めを果たせないのなら〔小和田家が〕引き取るのが筋です」という週刊誌上の宮内庁関係者の言葉を引用して、「私も同じ考えである」と明記している(p.39-40)。この辺りの部分の見出しは「引き取るのが筋」となっている(p.39)。
<小和田家が引き取る>とは、常識的には、皇太子妃殿下の皇室からの離脱、つまりは現皇太子殿下との離婚を意味しているのだろう(こんなこと書きたくないが……)。
つまり、西尾は「解決」方法に触れていないわけではないのだ。たんに天皇制度「廃棄」だけを書いているのではないのだ。
一方、八木秀次自身がもつ「解決」方法とは何か。八木はこう書く。
「あくまで最悪の事態を想定して」、「皇位継承順位の変更や離婚の可能性も考えておくべきだ」(p.196)。
ここで八木は「離婚の可能性」に言及しているが、上記のように、この点は西尾と何ら異ならない。
西尾幹二と異なるのは、西尾幹二は全く明示的には触れていないのに、また中西輝政も現皇太子妃殿下の「皇后位継承」適格についてのみ言及したのに対して、上に「皇位継承順位の変更」と言っているように、現皇太子の天皇位継承適格をも具体的に疑っている、ということだ。
このように見ると、解決方法の用意のある・なしで八木と西尾を区別することはできない、と考えられる。また、八木が明記する解決方法の一つは、現皇太子殿下の天皇位継承適格を直接に問題視すること(の可能性を少なくとも肯定すること)でもある。
西尾において廃棄に「賛成するかもしれない」との文章の内容の中には現皇太子の皇位継承否定の意味も含まれているかもしれないが、この論点について八木はむしろ明記している。
この程度にしておく。
八木秀次は高崎経済大学教授だという。学生のコピペのレポートを叱ることがあるかもしれない。だが、コピペ以下の西尾幹二の主張の単純化・歪曲があるなら、論文を読み、執筆するという、学者・研究者としての最低限のレベルまでも達してはいないのではなかろうか。
竹田恒泰は八木秀次にあまり引っぱられない方がよい。
別の回に、上の対談本に関する新田均の書評(月刊正論10月号)への感想を書く。
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