秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

物理学

2177/レフとスヴェトラーナ-第1章③。

 レフとスヴェトラーナ。
 第1章③。
 (23) 大学生生活を始めたとき、レフは祖母(当時82歳)と一緒に、モスクワ北西のレニングラード・プロスペクト通りの共同アパートに住んでいた。
 彼の少し変わった「オルガ叔母さん」もそのアパートに一室をもち、彼女の夫と住んでいた。
 レフと祖母が生活していたのは、狭くて暗い部屋だった。一方の端に彼用のシングル・ベッドがあり、一方の端にはトランクがあって、その上に祖母が間に合わせのベッドを作っていた。踏み台に脚を乗せていたのだ。
 突先の窓のそばには机があった。レフのベッドの上には、ガラスが前面にある小さな飾り棚があって、集めた化学器具や本を保管していた。ロシア文学の古典作品もあったが、主としては数学と物理の本だった。
 スヴェータが訪れたとき、彼女はレフのベッドに腰掛けて、話をしたものだ。
 オルガ叔母さんはアパートの廊下にいて、二人の動きに注意深い目を向けた。
 教会にきちんと行く厳格な叔母さんはスヴェータがやって来るのに同意せず、レフに対して、何かが進行していると思っているとはっきり言った。
 レフはこう言ったものだ。「彼女は大学での友人にすぎない」。
 しかし、オルガは、レフの部屋のドアの側に立って、「証拠」を求めて耳を澄ませていた。//
 (24) レフとスヴェータが本当に自由になれる場所は、田舎にあった。
 毎年夏に、スヴェータの家はボリスノコブォにある大きな別荘を借りていた。そこは、モスクワ西北70キロの所にある、イストラ河岸の新開地だった。
 レフは彼らを訪れることになる。ときにはモスクワから自転車で、ときにはマニヒノまで列車に乗ったあとでボリスノコブォから一時間歩いて。
 レフとスヴェータは、一日全部を林の中で過ごすことになる。河岸に横たわり、詩を読む。夕闇が近づくと、レフは最終列車に乗るために別れるか、長い自転車旅行で戻って行く。//
 (25)1936年7月31日、レフは列車でやって来た。
 ひどい暑さで、マニヒノから歩いた後には汗まみれだった。それで、スヴェータの家に姿を見せる前にボリスコヴォ近くの川で少し泳ごうと決めた。
 下の肌着だけになって、レフは飛び込んだ。
 泳ぎは上手でなかったので、河岸沿いに進んだが、強くて大きな流れが来て彼を運び去り、レフは水中に入り始めた。
 河岸に釣り人がいるのをちらりと見て、レフはその男に向かって叫んだ。「溺れる、助けて!」。
 釣り人は、何もしてくれなかった。
 レフはまた水中に潜って、二度目に浮上したとき、もう一度助けを求めた。-そしてまた水中に沈んだ。
 か弱な自分では助からない。スヴェータの家のすぐ近くで死ぬとは、何と愚かなことだろう!
 そして彼は、気を失った。
 覚醒したとき、河岸に横になっていて、そばに釣り人がいた。
 呼吸を整えようともがきながら、後ろに立っている、助けてくれた釣り人を一瞥した。そして、どうして飛び込んで助けてくれなかったのかと小言を言った。
 その男が誰かを知ってきちんと感謝を言う前に、その男は離れて行った。
 レフはその日を、スヴェータとその家族と過ごした。
 スヴェータと妹のターニャがレフと歩いて村の端まで行って、別れを告げ、駅まで行く彼を見送った。
 その村で、レフは自分を救ってくれた人物を知った。
 その人物は、一人のもっと年配の紳士と二人の女性と一緒にいた。
 レフは彼に感謝を述べ、名前を尋ねた。
 年配の人が答えた。「私は教授のシンツォフで、これは義理の息子で技師のベスパロフ。そして、それぞれの妻だ」。
 もう一度彼らに感謝して、レフは駅に向かった。その駅では、公共ラジオ放送局がサン=サーンスの<序奏とロンド・カプリチオーソ>を流していた。
 D・オイストラフが美しいバイオリン・ソロを弾くのを聞きながら、彼は、生きている、という強い感覚に包まれた。
 彼の周りにあるものは全て、前よりも力強くて生き生きしていると感じた。
 助かった!
 スヴェトラーナが好きだ!
 音楽を聴いている間ずっと、彼は喜んでいた。//
 (26) 人生は、心もとない喜びで溢れている。
 1935年、スターリンは、生活は良くなり、明るくなっている、と発表した。
 以前よりも購買できる消費物品が、ウォッカ、キャビアも、増えている。、ダンス・ホールや楽しい映画も増えた。だから、人々は笑いつづけることができ、共産主義社会が樹立されれば到来する明るい燦然とした未来への確信を抱きつづけることができる。
 その間に、逮捕者リストがスターリンの政治警察、NKVD によって準備されていた。
 (27) 少なくとも130万人の「人民の敵」が1937-38年の大テロル(Great Terror)の間に逮捕された。-そしてその半数は、のちに射殺された。
 この計算された大量殺戮とはいったい何だったのか、誰にも分からなかった。-被害妄想症のスターリンによる潜在的な敵の殺戮で「社会的異物」に対する戦争なのか、それとも、こちらの方がありそうだが、国際的緊張が高度に達したときの戦争の事態に備えた「信頼できない者たち」の予防的な選抜的間引きだったのか。
 テロルは、社会全体を揺るがせた。
 生活の全分野が、影響を受けた。
 隣人、同僚、そして縁戚者が、一夜にして突然に「スパイ」のレッテルが貼られることが起きた。//
 (28)ソヴィエト物理学の世界は、とくに傷つきやすかった。理由の一つは、軍事にとっての実際的な重要性であり、また一つは、イデオロギー的に分かれていたからだ。
 モスクワ大学物理学部は、そうした精神状況の中心だった。
 一方には、ユリ・ルメルやボリス・ゲッセンのような若い研究者のグループがあった。彼らは、アンイシュタイン、ボールおよびハイゼンベルクの物理学の擁護者だった。
 他方には年配の教授たちがいて、この者たちは、相対性理論や量子力学は「観念論」で、弁証法的唯物論、マルクス=レーニン主義の「科学的」基礎とは合致しない、と非難した。
 イデオロギー上の分裂は政治的にも強化され、唯物論者たちは、量子力学の支持者は、外国に旅行して西側科学の影響を受けているがゆえに「非愛国的だ」(つまり潜在的な「スパイ」だ)、と責め立てた。
 1936年8月、レフとスヴェータが第二年次を始める直前に、ゲッセンが、「反革命テロリスト組織」の一員だという嫌疑を受けて逮捕された。
 ゲッセンは、のちに射殺された。
 ルメルは1937年に、大学から追放された。//
 (29) 学生たちは、警戒するように求められた。
 コムソモルの学生たちは、縁戚者が逮捕された学生仲間と対立した。そして、彼らが縁戚者を非難できないならば大学から追放されるべきだ、と主張した。
 他学部では多くの学生が追放されたが、物理学部ではより少なかった。物理学部には、強い学友団体意識があったのだ。
 1937年の事件のあとでレフを救ったのは、この共同体意識だった。//
 (30) モスクワ大学では、軍事教練は昼間部学生たちの義務だった。
 その学生たちは、戦争の際には動員される予備将校軍団に入るよう義務づけられていた。
 物理学部の学生たちには、歩兵隊の司令部のポストが用意されていた。
 軍事教練の中には、ウラジミルの近くで二回の夏を野営する、というものもあった。
 1937年の第一回の野営での主要な指示者は、大学の学生で構成されていない連隊の若い司令官へと、最近に昇格した人物だった。
 その人物は、エリート物理学者を200メートル走らせ、次いで同じ距離を行進させる、ということを際限なく繰り返して、彼らを訓練するのを愉しんだ。
 権威をもつ人間が少しばかり苛めるのを見たときに口を閉ざすのは、レフの性格ではなかった。
 ついには、レフは抗議して叫んだ。「我々の指揮官は、馬鹿だ!」。
 その声は指揮官の耳に十分に達した。彼はレフについて、当局に報告した。
 問題は、モスクワ軍事地区の党地区委員会にまで上げられた。党委員会は、「労働者農民赤軍の司令武官に対する反革命的トロツキスト的煽動」を行ったとしてレフをコムソモルから除籍した。
 翌9月、レフは、大学に戻った。
 レフはこの事件の結果がさらに大きくなるのを怖れて、自分のコムソモルからの除籍を取消すよう、党地区委員会に訴えた。
 軍事地区の司令部は彼を召喚し、事件に関する彼の見解を聴取し、除籍を撤回して、その代わりに、「非コムソモル行動」があったとして「厳重な譴責」(strogii vygovor)をした。
 これは幸運な逃げ道だった。
 レフはのちに、この措置は大部分は委員会への訴願書を書いて自分の名前を署名した物理学部の3人の勇気によるものだ、と知ることになる。
 レフは物理学部の学生たちにとても好かれていたので、彼らはレフを守るために危険を冒したのだった。
 彼らが連帯を明らかにすることは容易に裏目に出て、彼らの逮捕につながり得ることだった。三人のグループは当局の目からすると、すでに「組織」と性格づけられるものだったのだから。
 (31) このエピソードは、レフとスヴェータの二人を一緒にさせた。
 二人の関係は大学の第二年次の中頃に冷たくなっていて、しばらくはお互いに逢わなかった。
 中断して、突然に友人たちのグループから離れたのは、スヴェータだった。
 レフは、理解できなかった。
 前の夏には二人は毎日出逢い、彼女は彼の写真を欲しがりすらした。
 彼らの多くの友人たちは結婚していった。そして、レフも、二人もまもなく結婚するのではないかと望んだに違いなかった。
 そのときに、何の予告もなく、スヴェータは離れて行った。
 スヴェータはこの時期を振り返って、陰鬱な気分のせいだったとする。-彼女が一生のうち長くを苦しんだ抑鬱状態だ。
 彼女はのちに、レフに宛てて書くことになる。「私は私たちの関係をダメにして、-神はその理由を知っていますが-貴方をひどく苦しめていると、何度も自分を責めました」。
 (32) レフが困難に陥っていると知って、スヴェータはすぐに彼に戻った。
 つづく3年間、二人は離れなかった。
 レフは朝に、スヴェータの大学への通学路で彼女と逢うことになる。
 彼は講義の終わり時間に彼女を待ち、レニングラード・プロスペクト通りまで連れて帰って、彼女のために料理したり、あるいは二人で劇場や映画館へ行き、歩いて彼女の家に戻った。
 二人の関係にとって、詩は重要な要素だった。
 二人は一緒に詩を誦み、お互いに詩を交換し、新しい詩を紹介したりした。
 アフマトーヴァとブロクはスヴェータが好きな詩人だったが、彼女はエレナ・ルィヴィナの詩も好きだった。ある夕方にモスクワの通りをずっと歩きながら、彼女はルィヴィナの詩をレフに朗誦して聞かせた。
 「あなたのタバコの輝き
  最初は消えそうになって、また燃え上がる
  私たちはロッシの通りを通り過ぎていく
  街頭のランプが空しく光っているところを」
 「私たちの出逢いは 短い
  一歩、一瞬、一息よりも短い
  親愛なる建築屋さん、どうして
  あなたの通りはこんなに短いの」
 (33) レフが遅くまで仕事しなければならず、スヴェータと逢えないときは、ときどき彼は、夜中に彼女の家の脇を通ったものだ。
 このような場合、レフはこんなノートを残した。
 「スヴェトカ!
 どうしているか知りたくて、明日のことを思い出させるためにやって来た。
 明日は29日だ。あの場所で、逢おう。
 もう遅いし-11時半だ-、きみの二つの窓はもう暗くて、他の二つもうす暗いから、アパートに入り込むだけするのはやめると決めた。
 入り込んだら、みんなを起こして、怖がらせるだろう。
 自由だったら、僕に逢いに来て下さい。
 お母さんと妹さんによろしく。」
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 ④へとつづける。

2083/団まりな「生きているとはどういうことか」(2013年)。

 「生きているとはどういうことか/生物学者・団まりなに訊く」森達也・私たちはどこから来て、どこへ行くのか-科学に「いのち」の根源を問う-(筑摩書房、2015)の第4章。
 この書物は2015年刊だが、2012-2014年に某小雑誌に連載されたものをさらにまとめたものらしい。そして、団まりなとの対談またはインタビューは2013年1月に行われている(団まりなは2014年3月13日に「急逝」-同書p.156)。
 したがって、団自身の文章ではない。
 面白いのは、物理・化学といった自然科学の「主流」に対する生物学者の批判・鬱憤が、あるいは生物学の「主流」に対する批判・鬱憤が、団まりな・細胞の意思(NHKブツクス、2008)における以上に、明確に語られていることだ。
 自然科学といってもさまざまだ。一括りにして自然科学一般・近代「科学」を論評してはならない。なお、細胞の「自発性」や「意思」の有無は相当程度に言葉の遣い方、表現・強調の仕方の問題で、正しい/誤りの問題ではないと思われる。
 また、奇妙な「文学」畑の人々の中にある、<オレはオレは>の、あるいは知識をひらけかすだけの(つまり衒学的な)<人間論>よりも、はるかに自然なかたちで、理性的・知性的に生物である「人間」なるものに向かい合っているとみられることも、ある意味では感動する。
 以下、要約的紹介・引用のみ。番号は秋月の恣意による。コメントはもうしない。p.125~p.149。
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  森達也によると、団まりなは「ある意味で既成のアカデミズムに喧嘩を売り続けてきた」、また「階層生物学」を提唱した。この「階層」問題から対談・インタビューは始まる。
 「非常に大きなスコープで自然界を眺めると、素粒子・原子・分子と」微細から大へと「積み重なっている」。これは「階層」だ。生物学の範囲でさかのぼると「発生学」となり、さらには「進化学」になる。かつての「発生学」に不満で、「記述的な発生学」ではなく「何がどうなってどういう段階を踏んで」が知りたかったが、当時は「階層性という発想」はまだ皆無だった。
 「分子や遺伝学をやらない」ことが批判された。
 「分子や遺伝を専門にしている人から見れば、生態や行動は学問ではないんです。
 できるだけ物理化学に近い手法で機械などを使って精密な数値を出すことが、彼らにとっては学問なんです」。
 「階層性」についても、その意味が問われ、「証明できないし、再現性も語れない。ならばサイエンスじゃない、と判断されてしまう」。
 「進化論」も再現不可能であることには目をつむり、「遺伝子の相同性を調べるために、数学や統計の手法などについて話し合う」。「つまりDNA」で、「DNAを比較する手法を研究するのが進化学」。「DNA以外のものは、『はぁ』?みたいな感じ」。
  「擬人化」を厭わない。「擬人化すべきとまでは言わないけれども、擬人化を排除したら生物はわからないというのが私のスタンスです」。
 「物理の言葉で生物は語れません。
 当たり前のことなのに『サイエンスとは再現性がなくてはいけない』とか『証明できなくてはいけない』という物理や化学の手法が、生物学に押しつけられている。」
 「今は爛熟期にある分子生物学も、実は生物学ではなくて生物分子学とよぶべき」だ。
  「細胞」が培養皿の中で「別の細胞」と出会い、離れたりくっついたりする。ある場合は接合して「大きなシート」になり、別の場合は「出会っても動いて逃げる」。これを「出会ったり別れたり、一緒にやろうって協働することを『合意した』と記述したとしても、それは擬人化でも何でもない」。
 「細胞が出会ったら、まず自分たちが何者かをお互いに探って、相手を認識する」。ある場合には「お前と俺とでシートをつくろう」と、別の場合には「お前と俺とは違うな。じゃあね」と退く。「出会って、触れて、認識し合って、同族かどうかをチェックして、…何らかの合意で次のステップに行く」か「違うやつだなと思って別れる」。これを「擬人化で説明することに、何の不都合もありません」。
  森によると、団は「擬人化」どころか、「細胞は実際に人のように意思をもってふるまっている」と主張して、風当たりが強い。
 「それ(意思)は細胞の中にあるんですよ。
 だって実際に協働の構造までつくるんだから。」
 「合意という粗っぽい言葉だけではメカニズムまでは示せないけれど、細胞のふるまいをより深く感じるためにはそれでいいんです」。
  「進化論」や「DNA、二重らせんとか塩基の接合とか」では、「絶対に説明できません」。「DNAは細胞の部品」、「自動車で言えばエンジン」だが、「エンジンだけで自動車は語れない」。
 「分子細胞学」を無駄だと言っているのではない。「細胞みたいな混ぜこぜシステム」を扱うのは「モダンな科学ではないなどの下らないことを言いさえしなければいい」。
 「iPS細胞の発見」によって少し風向きは変わった。「分子の言葉だけでは語れない」。「大事なことは、細胞が最小の生きている単位であるということ」だ。
 「バクテリアは最も原初的でありながら、私たちと同じ感覚をすべて持っている。
 それぞれのメカニズムで、努力して一所懸命生きている。」
 バクテリアには「脳」はないが、「私たちと同じ」で、「生きている」。「外から分子を取り入れるとき、細胞膜に埋め込んだ輸送タンパク質により、ATP(…)を消費して取り入れます。人間と同じです」。
 「自発性」ではなく「意思」だ。「だって状況判断みたいなことをするわけ」だから。
 「現代的な"科学"を信奉する人たち」の現象説明では、「本当に知りたかったのは何だったか」を忘れてしまう。
  「進化論」は、「根源的に、物質がだんだんとまとまっていく性質がある、そのまとまり方の一つのセクション-というか、一つの分野かな」と思う。「突然変異と適者生存だけ」では「説明」できない。
 「動脈には弁がある」が、「突然変異と適者生存を満たすために、動脈に完璧な弁を持つ子供」が突然に生まれたとするのは「どうしても無理」だ。「細胞が血流を理解している」と考えたらどうか。「心臓、血管、血流というシステムを構築し、それを実際に使ってみて、一定以上の血流を循環させるには、要所要所で逆流を止めなければ効率があがらないということを経験的に知って、…弁という工夫を思いつき、…流すべき血液の量に応じた弁の洗練(進化)が始まる」、と。 
 「細胞レベルでの脳は全体だと思います。
 システム自身が思考している。いろんな細胞現象をみればそう考えざるを得ないんです。
 細胞は身体全体を脳のように使って生きている。」
  (「バクテリア」-)「プラナリヤ」-「鳥」-「犬」-「猿」、「脳の機能にもやはり階層性がある」。
 「情動を司どる部位は私たちの脳のうんと奥深くにある」が、ニワトリの情動・カエルの情動等と「階層的に考えると、情動の捉え方が大分違ってきます」。
 「情動の起源は、おそらく魚のあたり」だろう。「無脊椎動物となると情動とは言えそうにないから」。「一つの階層の上昇があると思われる」。
 「魚の脳に何を加えたら猫の脳になるのか」。「サルやゴリラやチンパンジーは人と近い」が「でもやはり何かが違う」。これが何故かを考察するのが「階層性」研究だ。
  「細胞」には「三段階の階層」がある。そのうち①「原核細胞」と②「ハプロイド細胞」は、「細胞分裂で無限に増える」。しかし、③「ディプロイド細胞」は二つの「ハプロイド細胞」が組み合わさった「いわば構築物」だ。但し、「このユニットがちゃんと細胞分裂できる」。
 「一個のディプロイド細胞は、自分がちょっと前に二つのハプロイド細胞からできたことを絶対にわかっている」、「こんな状態を続けたらいずれ自分のシステムがた゜んだん変な矛盾をきたしてくることもわかっている」。「だから、リニューアルしなければならない」。 
  「私たちの身体を構成している細胞」は細胞分裂の回数の限度を「知っている」。
 だから、「私たちは捨てられ、次の世代が出てくる」。「人間自身のリニューアルです」。
 80年で終わりであっても、「いいんです」。
 「だってリニューアルの方法が組み込まれている」。「私がまた私になる」のではなく「別の個体になる」のだけれども、「『私』ということはあんまり重要ではない」。
  「自分のシステムをもう一度つくれるのだから、いまあるものが解消してもかまわない。
 そんな感じで、あっさりとしているのだと思います。」
  でも「細胞たち」にも「『生きたい』という意思があることは明確です。絶対に死ぬのはいやだ。そのために工夫する。その工夫の結果として、いろいろと複雑になってきたわけです」。
 例えば、「ミトコンドリアの元となったバクテリアを取り込むための第一段階として、いくつかの細胞同士が集まって自らを大きくした」。次の段階で「DNAをタンパク質で包み込もうと考えた」。「細胞」はこうしたことを「彼らなりの方法でわかっているのだ」。
 「マーギュリス」[Lynn Margulis、1938-2011。生物学者(女性)]が言うように、バクテリアが持つミトコンドリアを「細胞」は「食べた」。そして「食べてはみたものの、消化しないで持っていた方が有利だと気がついた」。そして、そのような「細胞たちが、その後の競争に勝って繁栄した」。
 ミトコンドリアの「意思」との「合意形成」のためには、「最初に、ミトコンドリアをどのように騙したかを考えなくてはならない」。「たぶん、栄養をあげたんです」。「ミトコンドリアは原核細胞だから固形物は食べられない」が、「融合して巨大化すれば」、小粒子や水溶性の「大きな分子」も「飲み込むことができる」。
 10 「自然淘汰」も「適者生存」も強引で万能主義的で、「生物は闘いだ」とのイメージを刷りこむ。しかし、「ハプロイド細胞同士の有性生殖」のように「協力は両方で完全に合意しなかったらできない」。「お互いに溶け合って、また元に戻る」なんてことは「すごい深い協力関係」、「互いに意思」がないと不可能だ。「人は闘う本能」をもつというのは「男性原理に偏った見方」だ。
 11 「宗教」には向かわない。「意思をもつ理由は生きるためです」。
 「細胞も状況判断をしています。そこで判断している主体は細胞しかない。
 ならば、メカニズムがどうであれ、『そこに意思がある』と言えるんです。」 
 親しくしたり逃げたりする「原初的なモティーフ」は、「脳」がなくとも、「絶対に死ぬわけにはゆかないという事情のなかから生まれて」いる。
 「自ら膨大なエネルギーを使って自分の体を成立させるシステムが生命ですから、そのシステムの存続こそが、生きるモティーフそのものなのです。
 「意思やモティーフ」のための「特別の場所は存在しない」。「タンパク質やRNA、…それらの複合体が混然と存在する坩堝のような状況」の「細胞の中」に「エネルギー源となる糖の分子がものすごい勢いで入ってきて、<中略>最後は…尿素やクエン酸となって坩堝から外へと排出される」。他にも、「タンパク質や核酸を作り直す反応や細胞膜の素材を合成する反応」など、「何千、何万もの化学反応がネットワークを形成しながら、同時並行で行われて」いる。これらのスピードが遅くなると「システム全体」が破壊され、「エネルギーの流れが低下すれば、全てがほとんど同時に瓦解してしまう」。例えば、「青酸カリの作用は酸素の流れを一瞬乱すだけ」だが、「身体全体が壊れてしまう」。
 「生きるモティーフが細胞そのものに内在する」。「細胞構造の成立そのものが、自らのメカニズムや機能に立脚した抜き差しならないバランスの上に成り立っている」のだ。
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 以上。p.149-p.156は割愛した。
 下は、すべてネット上より。1つめは、茂木健一郎と団まりな。右は団・NHKブックス。

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1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 分冊版、p.131-136。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第5節・マルクス=レーニン主義と物理学・宇宙論。
(1)スターリニズムによる攻撃のとくに露骨な例は、自然科学へのイデオロギー的侵攻だった。
 無傷のままだった数学は別として、マルクス主義による統制運動は、全ての科学分野にある程度は影響を与えた。理論物理学、宇宙論、化学、遺伝学、医学、心理学、およびサイバネティクス〔人工頭脳学〕は全て、介入によって荒らされ、その頂点は1948-1953年だった。//
 (2)ソヴィエト物理学は、たいていの部分では、哲学上の議論にかかわってくる懸念はなかった。しかし、ある領域では、関係することが避けられなかった。
 量子理論も相対性理論も、一定の認識論上の前提を明らかにすることなくしては、十分に深化させることができなかった。
 決定主義の問題、観察される客体に対する観察行為の効果の問題、は明らかに哲学的な様相を帯びており、そのことは、世界じゅうの論議で承認されていた。//
 (3)ソヴィエト・ロシアとナツィ・ドイツは、相対性理論が攻撃され、公式イデオロギーと矛盾するとして禁止された、二つの国だった。
 既に述べたように、ソヴィエト同盟では、その攻撃運動は第二次大戦以前から始まっていたが、戦後の数年間に強化された。
 ドイツでは、相対性理論に反対する明白な論拠は、アインシュタイン(Einstein)はユダヤ人だ、ということだった。
 ロシアではこの点は挙げられず、批判が根拠にしていたのは、時間、空間および運動は客観的なもので、宇宙は無限だ、とするマルクス=レーニン主義の教義に反するものだ、ということだった。
 ジダノフは1947年に哲学者たちに対する挨拶の中で、宇宙は有限だと明言したアインシュタインの弟子たちを痛烈に非難した。
 哲学的批判は、つぎのようにも論じた。時間は客観的であるがゆえに同時発生性(simultaneity)との関連は絶対的なもので、特殊相対性理論が主張するような相関の枠組みに依存しているのではない。
 同じように、運動は物質の客観的な属性であり、そのゆえに動体の経路は同格者(co-ordinate)の制度によって部分的に決定されるということはあり得ない(これはむろんアインシュタインと同じくガリレオに対しても当てはまる論拠だ)。
 一般論として、アインシュタインは時間的関係と運動を「観察者」に依存させるので、換言すれば人間という主体に依存させるので、彼は主観主義者であり、そして観念論者だ。
 この論議に参加した哲学者たち(A. A. Maksimov、G. I. Naan、M. E. Omelyanovskyその他)は、批判対象をアインシュタインに限定しないで「ブルジョア科学」の全体を攻撃した。すなわち、彼らの好みの攻撃対象は、Eddington、Jeans、Heisenberg、Schrödinger および名のある全ての物理学方法論者たちだった。
 さらに、アインシュタインがかりに相対性理論の最初のアイディアをマッハ(Mach)から得たことを認めていれば、どうだっただろう? レーニンは、マッハの反啓蒙主義(obscurantist)哲学を罵倒したのだったが。
 (4)しかしながら、(古くさいやり方で一般相対性理論や空間の同質性の問題にも触れていた)論議の本質的な論点は、アインシュタインの理論の内容とマルクス=レーニン主義の間の矛盾にあるのでは全くなかった。
 時間、空間および運動に関するマルクス主義の教理は、何らかの特別の論理的な困難さがなければアインシュタイン物理学と調和することができない、というほどに厳密なものではなかった。
 相対性理論は弁証法的唯物論を確認するものだと主張することすら、可能だった。このような擁護の主張は著名な理論物理学者のV. A. Fock がとくに行った。この人物は同時に、アインシュタインの理論は限定された有効性をもつ、という見方を支持する科学的な論拠を提示した。
 アインシュタインに-そしてじつに現代科学のほとんどの成果に-反対する運動には、しかしながら、二つの基本的な動機があった。
 第一に、「ブルジョア対社会主義」とは実際には「西側対ソヴィエト」と同じことを意味した。
 スターリニズムという国家教理はソヴィエト排外主義を含むもので、「ブルジョア文化」の重要な成果の全てを、系統的に拒否することを要求した。ブルジョア文化の中でもとりわけ、世界で唯一の国だけが進歩の根源となり一方では資本主義が衰退と崩壊の状態にある1917年以降に生じたものを。
 ソヴィエト排外主義に加えて、第二の動機があった。
 マルクス=レーニン主義の単純な教理は、多くの点で、教育を受けていない人々の一般常識的な日常的観念と符号している。例えば、レーニンが経験批判論に対する攻撃で訴えかけたのは、そのような諸観念だった。
 他方で相対性理論は、疑いなく、ある範囲において一般常識を攻撃するものだ。
 同時発生性、範囲と運動の絶対性および空間の画一性は、我々が当然のこととして受容している日常生活の前提だ。そしてアインシュタインの理論は、地球が太陽の周りを回転しているとのガリレオの逆説的主張と全く同じように、この前提を侵害する。
 かくして、アインシュタインを批判するのは、ソヴィエト排外主義のためだけではなくて、我々の感覚にある平易な証拠とは合致しない理論を拒否するという、ふつうの保守主義のゆえでもあった。//
 (5)「物理学における観念論」に対する闘いは、同様の動機で、量子(quantum)理論にも向けられた。
 コペンハーゲン学派が受容した量子力学の認識論的解釈は、ある範囲のソヴィエト物理学者の支持を得た。
 論議の引き金となったのは、すでに言及した1947年のマルコフ(M. A. Markov)の論文だつた。
 マルコフは二つの基本的な点でBohr とHeisenberrg に従っており、それらはマルクス=レーニン主義哲学者の反発を引き起こした。
 第一に、位置と微粒子(microparticle)の運動量とを同時に測定するのは不可能であるがゆえに、粒子が明確な位置と明確な運動量を<持つ>とか、観察技術に欠陥があるためにのみ両者を同時に測定することができないとか主張するのは、無意味だ。
 こういう考え方は、多数の物理学者の一般的な経験的見方と合致していた。すなわち、客体の唯一の現実的属性は、経験的に感知できるということだ。客体が一定の属性をもつがそれを確認する可能性はないと言うのは、自己矛盾しているか、無意味であるかのいずれかだ。
 したがって、粒子は明確な位置と運動量とを同時には有しておらず、測定する過程ではこれらのいずれかが粒子に帰属する、ということを承認しなければならない。
 同意されなかった第二の点は、微小物体(micro-object)の行動を文字で記述する可能性に関係していた。これは、大物体とは異なる属性をもち、ゆえに大物体を叙述するために進化してきた言語で性格づけることができない、とされた。
 マルコフによると、ミクロ物理現象を叙述する理論は不可避的にマクロ物理学の用語へと翻訳したものだ。したがって、我々が知って意味をもつものとして語ることのできる微小物理的実体は、部分的には測定の過程とそれを叙述するために用いる言語で構成されている。
 したがってまた、物理学理論は観察される宇宙の模写物を用意したものとして語ることはできず、マルコフは明確には述べなかったけれども、現実に関する全概念は、少なくとも微視物理学に関するかぎりは、認識するという活動の観点から逃れようもなく相対化される。-これは、明らかに、レーニンの反射(reflection)理論に反する。
 そのために、マルコフは、観念論者、不可知論者、そしてレーニンが批判したプレハノフの「象形文字」理論の支持者だとして、<哲学雑誌>の新しい編集者によって非難された。//
 (6)相対性理論とは違って、量子力学をマルクス=レーニン主義の意味での唯物論および決定論と調和させるのは困難だ、ということは強調しておかなければならない。
 粒子が一定の感知できない、その地位を明確にする物理的媒介変数をもつと言うことが無意味だとすれば、決定論という教理は根拠薄弱であるように見える。
 一定の物理的属性のまさにその存在が、それを感知するために用いる測定装置の存在を前提にしているのだとすると、物理学が観察する「客観的」世界という概念を意味あるものとして適用することは不可能になる。
 こうした諸問題は、決して想像上のものではない。その諸問題は、マルクス=レーニン主義とは全く無関係に、物理学で議論されてきたし、現に議論されている。
 ソヴィエト同盟では、とりわけD. I. Blokhintsev やV. A. Fock が理性的な議論をした。そして議論は、スターリン以後の時代へと継続してきている。
 1960年代、党のイデオロギストたちが科学理論の「適正さ」を決定すると言わなくなったときに、ほとんどのソヴィエト物理学者たちは決定論的見方を採用していことが明白になった。従前には潜在的な媒介変数の存在を執拗に要求したBlokhintsevも、そうだった。//
 (7)一般的に言って、物理学や他科学の哲学的側面に関するスターリン時代のいわゆる論争は、破壊的で、反科学的だった。それは非現実的な問題を扱ったからではない。学者たちと党イデオロギストたちの間の-よくあったことだが-対立では、国家とその警察機構の支持のある後者が勝利を得ることが保障されていたからだ。
 提示されている理論がマルクス=レーニン主義と合致していない、または合致していない疑いがある、という責任追及は、ときどきは刑法典のもとでの制裁へと転化し得たし、実際にそうなった。
 イデオロギストたちの大多数は、問題になっている争点について無知で、レーニンまたはスターリンの言葉に変化をつけた言明を見つけ出す技巧に長けていた。
 レーニンは物理学やその他の科学全てについての偉大な権威だと信じていない科学者たちは、党、国家およびロシア人民の敵だとして民衆むけプレスで「仮面を剥がされる」ことになった。
 「論議」はしばしば、政治的な魔女狩りへと退化した。
 警察が舞台に登場し、結論的な論難は理性的な議論と何の関係もなかった。
 現代的知的生活のほとんど全ての分野で、このような対応が進行し、党当局は決まって、学者や科学者たちに対する騒々しい無学者たちを後援した。
 「反動的」という語が何がしかの意味をもつとすれば、スターリン時代のマルクス=レーニン主義ほどに反動的な現象を考えつくのは困難だ。この時代は、科学やその他の文明の諸態様にある全ての新しくて創造的なものを、力ずくで抑圧した。//
 (8)化学も、別扱いではなかった。
 1949-1952年には、哲学雑誌や<プラウダ>で、構造化学と共鳴(resonance)理論が攻撃された。
 これは1930年代にPauling とWheland が提起してある範囲のソヴィエト化学者に受容されていたが、今や観念論、マッハ主義、機械主義、反動的等々と非難された。//
 (9)さらに微妙なイデオロギー上の主題は、宇宙論や宇宙発生学の現代的諸理論の哲学的側面に関する論議に関係していた。そこから明らかになるのは、基本的諸問題に対する現存する回答の全ては、マルクス=レーニン主義にとっては好ましくない、ということだった。
 膨張する宇宙に関する多様な理論を受容するのは困難だった。それは不可避的に、「宇宙はいかにして始まったのか?」という問題を惹起し、我々が知る宇宙は有限であって時間上の始まりがあると、いうことを示唆するからだった。
 このことは次いで創造主義(creationism、多数の西側の執筆者が受容した推論)を支持し、マルクス=レーニン主義の観点からはより悪いことは何も想像され得なかった。
 宇宙は膨張し続けるが新しい粒子が発生し続けるので物質の運命は同じであるままだ、という補足的な理論は、かくして、「自然の弁証法」と矛盾した。
 このゆえにそののちは、これら二つの仮説のいずれかを支持して主張する西側の物理学者や天文学者は、自動的にすぐに宗教の擁護者だと記述された。
 宇宙は膨張か収縮かの二者択一的段階を経由するという、脈動する宇宙に関する選択肢理論は、時間の始まりに関する面倒な議論から自由だった。しかしこれは、物質の単一方向的進化というマルクス=レーニン主義の教理と矛盾していた。
 「弁証法の第二法則」が要求するように、脈動する宇宙は「循環的」なもので、「発展」とか「進歩」とかと言うことはできないものだった。
 ディレンマを抜け出すのは困難だった。単一方向の原理は創造という観念を含んでいるように見える。一方では、反対の理論は「無限の発展」という原理と対立していた。
 宇宙論に関する討議に参加した者たちの一方には、天文学者や天文物理学者(V. A. Ambartsumian、O. Y. Schmidt)がおり、彼らは科学的な方法で結論に到達しており、そして弁証法的唯物論と調和していることを示そうと努力した。
 他方には、イデオロギー上の正統派の観点から問題を判断する、哲学者たちがいた。
 宇宙は時間も空間も無限だということ、そしてそれは永遠に「発展する」に違いないということは、マルクス=レーニン主義がそこから離れることのできない、哲学上のドグマだった。
 こうして、党という盾に守られたソヴィエトの哲学者たちは、教養ある人々をあらゆる分野で圧迫し、ソヴィエト科学の基本教条に対して莫大な害悪を与えた。//
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 第6節の表題は「マルクス=レーニン主義の遺伝学」、第7章のそれは「ソヴィエト科学に対する一般的影響」。
 下は、Leszek Kolakowskiが1960年代に離国前までワルシャワで住んだアパートメント。ネット上より。
 Leszek Kolakowski-Wasaw (3) Leszek_Kołakowski_plac_Bankowy_Senatorska_40 (2)

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