六 1 ソ連崩壊により時代は新しくなり、「反共」とともに、またはそれ以上に、「反米」を主張すべきだ(但し、既述の2002年時点での重要な例外がある)、という西尾幹二の間違いの原因・背景の第一は、<日本会議>とその基本的見解だ、と考えられる。第一という順番に大した意味はない。
「新しい歴史教科書をつくる会」が1996年末に発足したのを追いかけるように、翌1997年5月に日本会議が設立された。
「つくる会」と日本会議は、したがって前者の会長の西尾幹二は、椛島有三を事務局長(現在は事務総長)とする日本会議と、2006年に「つくる会」が(当時の西尾によると)同会に潜入していた日本会議グループによって実質的にに分裂する直前までは、友好関係にあった。
その日本会議は設立宣言の一部でこう謳った(今でも同サイト上に掲載されている)。
「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露されたが、その一方で、世界は各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時 代に突入している」。
「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」という一文によって明記されているわけではないが、<マルクス主義の誤りは「余すところなく」暴露された>とあるのだから、「マルクス主義」についてもはや研究・分析する必要はない、という意味も込められている、と見られる。
そして、日本会議の運動は実際に、「反共」ではなく「日本」・「民族」を正面に掲げるものだった。すなわち、資本主義と社会主義(・共産主義)の対立から<諸国・諸民族>の対立へ、という基本的図式で時代の変化を理解する、というものだ。
この点が、1990年代半ば以降の(<日本文化会議>が存在した時期とは異質な)日本の「保守」派の少なくとも主流派の主張または基調となる。産経新聞や月刊正論の基調も、今日までそうだと感じられる。反中国ではあっても、「反共」の観点からするのと、「中華文明」に対する<日本民族>の立場からするのとでは大きく異なる。なお、余計ながら、月刊正論(産経)の近年の結集軸はさらに狭まって、<天皇・男系男子限定継承>論(への固執?)だろう。
「反共」意識が強くて<親英米派>の中川八洋は少数派だったと見られる。というよりも、「保守」の人々の多くが大組織と感じられた?日本会議に結集した、または少なくとも<反・日本会議>の立場をとらなかったために、中川八洋は少数派に見えた(見えている)のかもしれない。
西尾幹二もまた主流派の輪の中にいたのであり、既述のように、西尾会長時代の「つくる会」と日本会議は友好・提携関係にあった。
「つくる会」の分裂後の2009年の対談書で西尾は、「残された人生の時間に彼ら(=日本会議)とはいっさい関わりを持たないでいきたいと思います」とまで発言した。
しかし、世界情勢の理解という点では、日本会議(派)と基本的には何ら変わらなかった。
例えば、月刊正論2009年6月号。
1991年のソ連崩壊により「世界中に…民族主義の炎が燃え広がったわけですから、日本の保守政権も…軍事的、政治的、外交的に自立への道を歩みだすチャンスであったのに、実際にはまるで逆の方向、隷属の方向に進んでしまいました」。
また、例えば、月刊正論2018年10月号
「共産主義が潰れて『諸君!』の役割が終わっても、対立軸は決してなくなっておらず、東京裁判史観にどう立ち向かうという課題は依然として残って」いる、という点で渡部昇一と一致しました。
このような状況・時代の認識において、西尾幹二は基本的なところで日本会議(派)と共通したままだ。
西尾が「産経文化人」としてとどまっておれるのも、日本会議と共通するこうした基本的な理解+<天皇・男系男子継承>論の明確な支持、による、と考えられる。
ついでながら、西尾の日本会議に対する意識は、2009年段階での「残された人生の時間…いっさい関わりを持たないでいきたい」から、近年ではまた?変化しているようだ。
2019年1月時点で公にされたインタビュー記事で、「つくる会」の分裂に関して、こう発言している。
2019年1月26日付、文春オンライン(今でもネット上で読める)。
「日本会議の事務総長をしていた椛島(有三)さんとは何度か会ったこともあり、理解者でもあった。
だから、この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして、『つくる会』事務局長更迭を撤回していれば、問題は回避できたかもしれない。
それをしなかったのはもちろん私の失敗ですよ。
しかしですね、私は『つくる会』に対して…だけが目的の組織ではないという思い、もっと大きな課題、…を目ざす思想家としての思いがある。
だから、ずるく立ち回って妥協することができなかった。そこが私の愚かなところ。」
以上が、関係する全文の範囲。
「この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして」おけばよかったかもしれない、と発言しているのは全くの驚きだ。
かつまた、そうするのは「ずるく立ち回って妥協する」ことで、そうできなかったのは自分の「思想家としての思い」と合理化、自己正当化し、「愚かなところ」と卑下?しているのは、 じつに興味深い。
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第二の原因・背景へとつづく。