(つづき)
四 西尾幹二は上記の引用文の中で、「人間の認識力には限界があって、我々が事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」と書いた。
こう2020年に書いたことと、「明白に」矛盾することを、西尾幹二は主張していたことがある。
すなわち、西尾自身が「あれほど明白になっている」「現実」に、「新しい時代の自由」をいう「平和主義的、現状維持的イデオロギー」と「旧習墨守」をいう「古風な、がちがちに硬直した、皇室至上主義的なイデオロギー」に立つ論者は、いずれも「目を閉ざして」いる、と厳しく非難したことがある。
月刊諸君!2008年12月号、p.36-37。
西尾幹二は「あれほど明白になっている東宮家の危機」を上の両派ともに「いっさい考慮にいれ」ず、「目を閉ざして」いると論じる。
そして、こうも書く。
「現実はいっさい見ない、現実はどうでもいいのです。
自分たちの観念や信条の方が大切なのです。」
そして上の危機、「東宮家の異常事態」、の中心にある「現実」だと西尾が「認識」しているらしきものは、つぎだ。
「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくない」、「明瞭に拒否されて、すでに五年がたっている」。
この危機・異常事態を西尾は「日本に迫る最大の危機」とも表現するのだが、その点はともかく、「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくない」、「明瞭に拒否されて」いるという「事実」は、どうやって認定、あるいは認識されたのだろうか。
テレビ番組での西尾発言を加えると、<病気ではないのにそれを装って(「仮病」を使って)>雅子妃は宮中祭祀を「明確に拒否」している、との「現実」認識を、西尾はどうして「あれほど明白になっている」とする危機の根拠にすることができたのだろうか。
こういう「認識」の仕方は、西尾自身が2008年に非難していた、「現実はいっさい見ない、現実はどうでもいいのです。自分たちの観念や信条の方が大切なのです」とか、「イデオロギーに頼って…日本に迫る最大の危機すら曖昧にしてしまう」とかにむしろ該当するのではないか。
さらに西尾が2020年著で批判する、「…をつい疎かにして、ひとつの情報を『事実』として観念的に決めてしまうというようなこと」を自分自身が行っていたことになるのではないか。
首尾一貫性がない、と評すれば、それまでだ。西尾幹二という人物は、いいかげんだ、で済ませてもよい。
「事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」と言いつつ、これと矛盾して、「あれほど明白になっている」現実を無視していると、多くの論者を糾弾することのできる<神経>が、この人にはあるのだ。
なお、「過去の事実」と「現実」(=「現在の事実」?)は異なる、と言うことはできない。西尾は「五年」前からの「現実」を問題視しているのであり、一般論としても、「現在の事実」は瞬時に、あっという間に「過去の事実」(=「歴史」?)になってしまうからだ。「事実」という点において、本質は異ならない。
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付
2020年著の冒頭頁の「事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」という表現は、<事実それ自体は存在しない>というF・ニーチェの有名な一節を想起させる。そして、西尾は、単純に、アフォリズム的に、これの影響を受けているのではないか、とも推察することができる。
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その部分は、現在は実妹のElisabeth が編集した「偽書」 の一部だとされていると思われる、『権力への意志(意思)』の一部だった。だが、この書自体は存在していなくとも、上の旨を含む一節・短文は現実に存在した、と一般に考えられていると思われる。
M・ガブリエル(Markus Gabriel)は、そのいう「構築主義」を批判する中で、ニーチェのつぎの文章を引用している。
Markus Gabriel, Warum es die Welt nicht gibt (Taschenbuch), S.186,
=清水一浩訳/なぜ世界は存在しないのか(講談社、2018年)p.61。
(0) 「いや、まさに事実は存在せず、解釈だけが存在するのだ。
我々は事実『それ自体』を確認することができない。
そのようなことを望むのは、おそらく無意味である。
『そのような意見はどれも主観的だ』と君たちは言うだろう。
しかし、それがすでに解釈なのだ。
『主観』は所与のものではなく、捏造して付け加えられたもの、背後に挿し込まれたものである。」
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上の前後を含む短文全体の邦訳を、以下に二つ示しておく。この欄でのみ便宜的に前者にだけ、対応する原語・ドイツ語を付す。//は本来の改行箇所。
(1) 三島憲一訳/ニーチェ全集第九巻(第II期)・遺された断想(白水社、1984年)、397頁。
「『存在するのは事実(Tatsachen)だけだ』として現象(Phänomenen)のところで立ちどまってしまう実証主義(Positivismus)に対してわたしは言いたい。
違う、まさにこの事実なるものこそ存在しないのであり、存在するのは解釈(Interpretation)だけなのだ、と。
われわれは事実(Faktum)『それ自体』は認識(feststellen)できないのだ。
おそらくは、そんなことを望むのは、愚行であろう。
『すべては主観的(subjektiv)だ』とお前たちは言う。
だがすでにそれからして解釈(Auslegung)なのだ。
『主観』(Subjekt)ははじめから与えられているものではない。
捏造して添加されたもの、裏側に入れ込まれたものなのだ。
とどのつまりは、解釈(Interpretation)の裏に解釈者を設定して考える必要があるのだろうか?
すでにこれからして虚構(Dichtung)であり、仮説(Hypothese)である。//
『認識』(Erkenntniß)という言葉に意味がある程度に応じて、世界は認識しうる(erkennbar)ものとなる。
だが世界は他にも解釈しうる(anders deutbar)のだ。
世界は背後にひとつの意味(Sinn)を携えているのではなく、無数の意味を従えているのだ。
『遠近法主義』(Perspektivismus)。//
世界を解釈(die Welt auslegen)するのは、われわれの持っているもろもろの欲求(Bedürfnisse)なのである。
われわれの衝動(Triebe)と、それによる肯定と否定なのである。
いっさいの衝動はそのどれもが一種の支配欲であり、それぞれの遠近法を持っていて、他のすべての衝動にそれを押しつけようとしているのだ。」
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(2) 原佑訳/ニーチェ・権力への意志(下)(ちくま学芸文庫・ニーチェ全集13、1993年)、27頁。
「現象に立ちどまって『あるのはただ事実のみ』と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、
否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。
私たちはいかなる事実『自体』をも確かめることはできない。
おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。//
『すべてのものは主観的である』と君たちは言う。
しかし、このことがすでに解釈なのである。
『主観』は、なんらあたえられたものではなく、何か仮構し加えられたもの、背後へと挿入されたものである。
—解釈の背後になお解釈者を立てることが、結局は必要なのであろうか?
すでにこのことが、仮構であり、仮説である。//
総じて『認識』という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。
しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももっておらず、かえって無数の意味をもっている。
—『遠近法主義』。//
世界を解釈するもの、それは私たちの欲求である、私たちの衝動とこのものの賛否である。
いずれの衝動も一種の支配欲であり、いずれもがその遠近法をもっており、このおのれの遠近法を規範としてその他すべての衝動に強制したがっているのである。」
--------
注記—上に出てくる「遠近法主義」とは、M・ガブリエル=清水一浩によると、「現実(Wirklichkeit)についてはさまざまな見方(Perspektiven)があるというテーゼ」とされ〔一部修正した〕、邦訳者・清水は「遠近法主義」ではなく、そのまま「パースペクティヴィズム」としている。
このような言葉・概念の意味は、Nietzscheにおけるそれでもある(少なくとも、大きく異なるものではない)と見られる。
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四 西尾幹二は上記の引用文の中で、「人間の認識力には限界があって、我々が事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」と書いた。
こう2020年に書いたことと、「明白に」矛盾することを、西尾幹二は主張していたことがある。
すなわち、西尾自身が「あれほど明白になっている」「現実」に、「新しい時代の自由」をいう「平和主義的、現状維持的イデオロギー」と「旧習墨守」をいう「古風な、がちがちに硬直した、皇室至上主義的なイデオロギー」に立つ論者は、いずれも「目を閉ざして」いる、と厳しく非難したことがある。
月刊諸君!2008年12月号、p.36-37。
西尾幹二は「あれほど明白になっている東宮家の危機」を上の両派ともに「いっさい考慮にいれ」ず、「目を閉ざして」いると論じる。
そして、こうも書く。
「現実はいっさい見ない、現実はどうでもいいのです。
自分たちの観念や信条の方が大切なのです。」
そして上の危機、「東宮家の異常事態」、の中心にある「現実」だと西尾が「認識」しているらしきものは、つぎだ。
「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくない」、「明瞭に拒否されて、すでに五年がたっている」。
この危機・異常事態を西尾は「日本に迫る最大の危機」とも表現するのだが、その点はともかく、「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくない」、「明瞭に拒否されて」いるという「事実」は、どうやって認定、あるいは認識されたのだろうか。
テレビ番組での西尾発言を加えると、<病気ではないのにそれを装って(「仮病」を使って)>雅子妃は宮中祭祀を「明確に拒否」している、との「現実」認識を、西尾はどうして「あれほど明白になっている」とする危機の根拠にすることができたのだろうか。
こういう「認識」の仕方は、西尾自身が2008年に非難していた、「現実はいっさい見ない、現実はどうでもいいのです。自分たちの観念や信条の方が大切なのです」とか、「イデオロギーに頼って…日本に迫る最大の危機すら曖昧にしてしまう」とかにむしろ該当するのではないか。
さらに西尾が2020年著で批判する、「…をつい疎かにして、ひとつの情報を『事実』として観念的に決めてしまうというようなこと」を自分自身が行っていたことになるのではないか。
首尾一貫性がない、と評すれば、それまでだ。西尾幹二という人物は、いいかげんだ、で済ませてもよい。
「事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」と言いつつ、これと矛盾して、「あれほど明白になっている」現実を無視していると、多くの論者を糾弾することのできる<神経>が、この人にはあるのだ。
なお、「過去の事実」と「現実」(=「現在の事実」?)は異なる、と言うことはできない。西尾は「五年」前からの「現実」を問題視しているのであり、一般論としても、「現在の事実」は瞬時に、あっという間に「過去の事実」(=「歴史」?)になってしまうからだ。「事実」という点において、本質は異ならない。
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付
2020年著の冒頭頁の「事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」という表現は、<事実それ自体は存在しない>というF・ニーチェの有名な一節を想起させる。そして、西尾は、単純に、アフォリズム的に、これの影響を受けているのではないか、とも推察することができる。
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その部分は、現在は実妹のElisabeth が編集した「偽書」 の一部だとされていると思われる、『権力への意志(意思)』の一部だった。だが、この書自体は存在していなくとも、上の旨を含む一節・短文は現実に存在した、と一般に考えられていると思われる。
M・ガブリエル(Markus Gabriel)は、そのいう「構築主義」を批判する中で、ニーチェのつぎの文章を引用している。
Markus Gabriel, Warum es die Welt nicht gibt (Taschenbuch), S.186,
=清水一浩訳/なぜ世界は存在しないのか(講談社、2018年)p.61。
(0) 「いや、まさに事実は存在せず、解釈だけが存在するのだ。
我々は事実『それ自体』を確認することができない。
そのようなことを望むのは、おそらく無意味である。
『そのような意見はどれも主観的だ』と君たちは言うだろう。
しかし、それがすでに解釈なのだ。
『主観』は所与のものではなく、捏造して付け加えられたもの、背後に挿し込まれたものである。」
----
上の前後を含む短文全体の邦訳を、以下に二つ示しておく。この欄でのみ便宜的に前者にだけ、対応する原語・ドイツ語を付す。//は本来の改行箇所。
(1) 三島憲一訳/ニーチェ全集第九巻(第II期)・遺された断想(白水社、1984年)、397頁。
「『存在するのは事実(Tatsachen)だけだ』として現象(Phänomenen)のところで立ちどまってしまう実証主義(Positivismus)に対してわたしは言いたい。
違う、まさにこの事実なるものこそ存在しないのであり、存在するのは解釈(Interpretation)だけなのだ、と。
われわれは事実(Faktum)『それ自体』は認識(feststellen)できないのだ。
おそらくは、そんなことを望むのは、愚行であろう。
『すべては主観的(subjektiv)だ』とお前たちは言う。
だがすでにそれからして解釈(Auslegung)なのだ。
『主観』(Subjekt)ははじめから与えられているものではない。
捏造して添加されたもの、裏側に入れ込まれたものなのだ。
とどのつまりは、解釈(Interpretation)の裏に解釈者を設定して考える必要があるのだろうか?
すでにこれからして虚構(Dichtung)であり、仮説(Hypothese)である。//
『認識』(Erkenntniß)という言葉に意味がある程度に応じて、世界は認識しうる(erkennbar)ものとなる。
だが世界は他にも解釈しうる(anders deutbar)のだ。
世界は背後にひとつの意味(Sinn)を携えているのではなく、無数の意味を従えているのだ。
『遠近法主義』(Perspektivismus)。//
世界を解釈(die Welt auslegen)するのは、われわれの持っているもろもろの欲求(Bedürfnisse)なのである。
われわれの衝動(Triebe)と、それによる肯定と否定なのである。
いっさいの衝動はそのどれもが一種の支配欲であり、それぞれの遠近法を持っていて、他のすべての衝動にそれを押しつけようとしているのだ。」
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(2) 原佑訳/ニーチェ・権力への意志(下)(ちくま学芸文庫・ニーチェ全集13、1993年)、27頁。
「現象に立ちどまって『あるのはただ事実のみ』と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、
否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。
私たちはいかなる事実『自体』をも確かめることはできない。
おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。//
『すべてのものは主観的である』と君たちは言う。
しかし、このことがすでに解釈なのである。
『主観』は、なんらあたえられたものではなく、何か仮構し加えられたもの、背後へと挿入されたものである。
—解釈の背後になお解釈者を立てることが、結局は必要なのであろうか?
すでにこのことが、仮構であり、仮説である。//
総じて『認識』という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。
しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももっておらず、かえって無数の意味をもっている。
—『遠近法主義』。//
世界を解釈するもの、それは私たちの欲求である、私たちの衝動とこのものの賛否である。
いずれの衝動も一種の支配欲であり、いずれもがその遠近法をもっており、このおのれの遠近法を規範としてその他すべての衝動に強制したがっているのである。」
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注記—上に出てくる「遠近法主義」とは、M・ガブリエル=清水一浩によると、「現実(Wirklichkeit)についてはさまざまな見方(Perspektiven)があるというテーゼ」とされ〔一部修正した〕、邦訳者・清水は「遠近法主義」ではなく、そのまま「パースペクティヴィズム」としている。
このような言葉・概念の意味は、Nietzscheにおけるそれでもある(少なくとも、大きく異なるものではない)と見られる。
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