「人間の栄光と惨めさ、喜劇と悲劇は、フィクションである自伝的自己への固執から生じる」。
「自伝的自己」とは、「生涯のでき事を通じて形成された自己のイメージ、即ち、ある時点において固定化された陳述記憶と手続き記憶の体系である」。それは、「意識のうちに客体化された自己についての観念である」。
「しかし記憶は、過去の事実についての必ずしも正確ではない記憶・想像・欲求などが混じりあって形成されたものであるから、選択された陳述記憶から成る自伝的自己とは、脳が自ら作り上げたフィクションにすぎない」。
以上、浅野孝雄=藤田晢也・プシュケーの脳科学−心はグリア・ニューロンのカオスから生まれる(産業図書、2010)。 p.196。
なかなか印象的な文章だ。但し、「自伝的自己」、「陳述記憶」等の術語があり、直前には「アイデンティティ」という語も出ている。
これは浅野孝雄執筆部分にあるが、A・ダマシオ(Antonio Damasio)の<意識理論>に関する叙述の中にあるので、ダマシオ説の紹介の一部なのではないかと思われる。
ダマシオと言えば、その著書の一つの邦訳書(の一部)をこの欄に要約しいてたことがあった(2019年11月頃)。そのかぎりで、ある程度は<なじみ>がある。
浅野孝雄は、その執筆部分(II、全体の8-9割)の<第3章・意識と無意識>の第2節で「ダマシオの意識理論」を扱う。そこにはダマシオによる「自己」の三分類、または三段階に螺旋的に生成する「自己」論が紹介されているので、以下、とりあげて見よう。
ここにもあるように、「自己」・「わたし」とは脳内の特定の部位・部所にあるのではない。境界も定かではない、絶えず変動している、一体のカオス的回路の一定部分・一側面なのだろうと、シロウトはとりあえず考えてきた。
**
p.193〜p.196。
一 ダマシオは1994-2003年に、①Decartes' Error、②The Feeling of What Happens、③Looking for Spinoza を発表した。
①は邦訳書もある世界的ベストセラー書。「近年の脳認知科学の見地からデカルトの物心二元論」を誤謬として排斥するのは容易なことで、この書の眼目は「身体(脳)と心がいかに不則不離な関係」にあるかを示すことだった。
②では、「感情を中心として、意識の構造と脳の構造・機能との対応」を包括的に論じた。
③では、スピノザの「一元論」に共鳴し、スピノザ哲学が秘める「(原)生物学的な意味合いを、現代脳(認知)科学の内容に活かそう」とした。
デカルトを詳細に調べたダマシオが、デカルトの友人だが「それとは異なる見地から人間の感情」に関する哲学を構築したスピノザに関心を持ったのは自然だ。
二 ダマシオは、「エーデルマンのダイナミック仮説」をふまえ、「自己」を①「原自己(protoself)」、②「中核自己(core self)」、③「自伝的自己(autobiographical self)」の三段階に分けた。
これらは、「意識の螺旋的構造の内に階層的に位置」する。
「意識の螺旋の底部」にあるのはNN(ニューラル・ネットワーク)の働きで、「覚醒状態において対象と有機体との関係から生じる様々な情報がダイナミック・コアに到達する以前」の段階にある。これが「イメージ・表象の受動的生起から始まる」とする点で、フリーマンと決定的に異なる。ダマシオ理論はアリストテレス的で、フリーマン理論は「トミズム的」だ。
三 A 「原自己」とは、ダマシオによると、「個体の内部状態(身体から脳幹へと伝達される全ての情報)が、脳の複数のレベルにおいて相互に関連しあい、まとまりを持って大脳皮質に投射された神経反射のパターン(一次的マッピング)」だ。
身体情報の受領・処理をする脳領域は「脳幹・視床下部・前脳基底部・島皮質・帯状回後部など」。ここに存在する様々の装置は、「生存のために身体の状態を継続的かつ「非意識的」に比較的に安定した狭い状態に保つ」=「個体のホメオスタシス」を維持する。
この諸装置から「第一次マッピングとして継続的に表象」されるのは「個体の内部環境・身体臓器などの状態」で、この表象の全体が「原自己」を形成する。
「原自己」はあとの二つの「自己』の基底だが、「海馬との情報交換」がなく『時間的・空間的定位」を欠き、「大脳皮質が未発達な動物の原始的な意識」と同じく、「意識に上らない」、つまり「無意識」だ。
「原自己」は、「われわれの現在の意識が集中している自己」と区別されなければならない。それは『言語、認知、知識に関わるモジュールと直接の関係」を持たないので、人間が「明示的に認識」することがない。
B 「中核自己」は「原自己」を母体として発生し、初めて「意識が生じる」。ダマシオの前提は「個体の全ての部分」とともに「身体内外の対象」も脳にマッピングされるということで、「原自己」と同様に「外的対象から生じたシグナルは、その性質に従って局所的にマッピングされる」。「原自己と外的対象の一次的マッピングは、脳の異なる部位に生じる」。
それらから生じた表象は「上丘、帯状回などの、より上位の脳領域に投射され』、それを「二次的マッピング」と言うが、そこで「個体の内部状況と他の全ての対象の表象が相互的に作用」して、「新たな表象が生じる」。こうして「意識に上った表象は、未だ言語化されていないイメージ」ではあるが、「個体の全身的な身体状態と結びついているので感情(feeling)となる」。
かくして、「個体は、自分がどういう状態にあって、何が起きているかについての最初の意識を有する」。これが「中核自己」だ。
つまり、「脳の表象装置」が、「個体の状態が対象の処理によってどのように影響されているか」の「非言語的なイメージ」を生み、それと平行して「対象のイメージが海馬の働きを介して時間・空間的文脈の中に明確に定位される」とき、「中核自己」が生まれる。
「対象の明確化」と「原自己の変容」が進んで、「自己」が各相互作用の「主役』として強く意識されるとき、「対象によって触発されて原自己から立ち上がる」のが「中核自己」だ。つまり、「中核自己」は「対象によって変容した原自己の、大脳皮質への二次的マッピングにおいて生じる非言語的表象」だ。
対象による中核意識機構の活性化によって生成する「中核自己」は、「短い時間しか持続しない」。
だが、「対象はつねに入れ替わりながら中核意識を活性化する」ため、「中核自己」は「絶え間なく生起」し、ゆえに「持続的に存在しているかのように感じられる」。
「中核自己」は「コア・プロセス」に「付随』しており、「一生を通じてその生成メカニズムが変化することはない」。かくして「われ」が感情によって染められた「中核意識」の中に浮かび上がる。
「われ思う(ゆえにわれあり)」の「われ」として感じられるのが、この「中核自己」だ。
**
第三の「自伝的自己」(「歴史的自己」)、これは「人格」=personality と同義かほぼ同義のようなのだが、これについては、別の回にする。ダマシオ説に関する、著者=浅野孝雄の叙述だ。
「自伝的自己」とは、「生涯のでき事を通じて形成された自己のイメージ、即ち、ある時点において固定化された陳述記憶と手続き記憶の体系である」。それは、「意識のうちに客体化された自己についての観念である」。
「しかし記憶は、過去の事実についての必ずしも正確ではない記憶・想像・欲求などが混じりあって形成されたものであるから、選択された陳述記憶から成る自伝的自己とは、脳が自ら作り上げたフィクションにすぎない」。
以上、浅野孝雄=藤田晢也・プシュケーの脳科学−心はグリア・ニューロンのカオスから生まれる(産業図書、2010)。 p.196。
なかなか印象的な文章だ。但し、「自伝的自己」、「陳述記憶」等の術語があり、直前には「アイデンティティ」という語も出ている。
これは浅野孝雄執筆部分にあるが、A・ダマシオ(Antonio Damasio)の<意識理論>に関する叙述の中にあるので、ダマシオ説の紹介の一部なのではないかと思われる。
ダマシオと言えば、その著書の一つの邦訳書(の一部)をこの欄に要約しいてたことがあった(2019年11月頃)。そのかぎりで、ある程度は<なじみ>がある。
浅野孝雄は、その執筆部分(II、全体の8-9割)の<第3章・意識と無意識>の第2節で「ダマシオの意識理論」を扱う。そこにはダマシオによる「自己」の三分類、または三段階に螺旋的に生成する「自己」論が紹介されているので、以下、とりあげて見よう。
ここにもあるように、「自己」・「わたし」とは脳内の特定の部位・部所にあるのではない。境界も定かではない、絶えず変動している、一体のカオス的回路の一定部分・一側面なのだろうと、シロウトはとりあえず考えてきた。
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p.193〜p.196。
一 ダマシオは1994-2003年に、①Decartes' Error、②The Feeling of What Happens、③Looking for Spinoza を発表した。
①は邦訳書もある世界的ベストセラー書。「近年の脳認知科学の見地からデカルトの物心二元論」を誤謬として排斥するのは容易なことで、この書の眼目は「身体(脳)と心がいかに不則不離な関係」にあるかを示すことだった。
②では、「感情を中心として、意識の構造と脳の構造・機能との対応」を包括的に論じた。
③では、スピノザの「一元論」に共鳴し、スピノザ哲学が秘める「(原)生物学的な意味合いを、現代脳(認知)科学の内容に活かそう」とした。
デカルトを詳細に調べたダマシオが、デカルトの友人だが「それとは異なる見地から人間の感情」に関する哲学を構築したスピノザに関心を持ったのは自然だ。
二 ダマシオは、「エーデルマンのダイナミック仮説」をふまえ、「自己」を①「原自己(protoself)」、②「中核自己(core self)」、③「自伝的自己(autobiographical self)」の三段階に分けた。
これらは、「意識の螺旋的構造の内に階層的に位置」する。
「意識の螺旋の底部」にあるのはNN(ニューラル・ネットワーク)の働きで、「覚醒状態において対象と有機体との関係から生じる様々な情報がダイナミック・コアに到達する以前」の段階にある。これが「イメージ・表象の受動的生起から始まる」とする点で、フリーマンと決定的に異なる。ダマシオ理論はアリストテレス的で、フリーマン理論は「トミズム的」だ。
三 A 「原自己」とは、ダマシオによると、「個体の内部状態(身体から脳幹へと伝達される全ての情報)が、脳の複数のレベルにおいて相互に関連しあい、まとまりを持って大脳皮質に投射された神経反射のパターン(一次的マッピング)」だ。
身体情報の受領・処理をする脳領域は「脳幹・視床下部・前脳基底部・島皮質・帯状回後部など」。ここに存在する様々の装置は、「生存のために身体の状態を継続的かつ「非意識的」に比較的に安定した狭い状態に保つ」=「個体のホメオスタシス」を維持する。
この諸装置から「第一次マッピングとして継続的に表象」されるのは「個体の内部環境・身体臓器などの状態」で、この表象の全体が「原自己」を形成する。
「原自己」はあとの二つの「自己』の基底だが、「海馬との情報交換」がなく『時間的・空間的定位」を欠き、「大脳皮質が未発達な動物の原始的な意識」と同じく、「意識に上らない」、つまり「無意識」だ。
「原自己」は、「われわれの現在の意識が集中している自己」と区別されなければならない。それは『言語、認知、知識に関わるモジュールと直接の関係」を持たないので、人間が「明示的に認識」することがない。
B 「中核自己」は「原自己」を母体として発生し、初めて「意識が生じる」。ダマシオの前提は「個体の全ての部分」とともに「身体内外の対象」も脳にマッピングされるということで、「原自己」と同様に「外的対象から生じたシグナルは、その性質に従って局所的にマッピングされる」。「原自己と外的対象の一次的マッピングは、脳の異なる部位に生じる」。
それらから生じた表象は「上丘、帯状回などの、より上位の脳領域に投射され』、それを「二次的マッピング」と言うが、そこで「個体の内部状況と他の全ての対象の表象が相互的に作用」して、「新たな表象が生じる」。こうして「意識に上った表象は、未だ言語化されていないイメージ」ではあるが、「個体の全身的な身体状態と結びついているので感情(feeling)となる」。
かくして、「個体は、自分がどういう状態にあって、何が起きているかについての最初の意識を有する」。これが「中核自己」だ。
つまり、「脳の表象装置」が、「個体の状態が対象の処理によってどのように影響されているか」の「非言語的なイメージ」を生み、それと平行して「対象のイメージが海馬の働きを介して時間・空間的文脈の中に明確に定位される」とき、「中核自己」が生まれる。
「対象の明確化」と「原自己の変容」が進んで、「自己」が各相互作用の「主役』として強く意識されるとき、「対象によって触発されて原自己から立ち上がる」のが「中核自己」だ。つまり、「中核自己」は「対象によって変容した原自己の、大脳皮質への二次的マッピングにおいて生じる非言語的表象」だ。
対象による中核意識機構の活性化によって生成する「中核自己」は、「短い時間しか持続しない」。
だが、「対象はつねに入れ替わりながら中核意識を活性化する」ため、「中核自己」は「絶え間なく生起」し、ゆえに「持続的に存在しているかのように感じられる」。
「中核自己」は「コア・プロセス」に「付随』しており、「一生を通じてその生成メカニズムが変化することはない」。かくして「われ」が感情によって染められた「中核意識」の中に浮かび上がる。
「われ思う(ゆえにわれあり)」の「われ」として感じられるのが、この「中核自己」だ。
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第三の「自伝的自己」(「歴史的自己」)、これは「人格」=personality と同義かほぼ同義のようなのだが、これについては、別の回にする。ダマシオ説に関する、著者=浅野孝雄の叙述だ。