秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

浅野孝雄

2308/西尾幹二批判020ー「哲学・思想」。

  1999年(『国民の歴史』出版)の10年以上前に、つぎの<講座もの>が出版されていた。 
 新・岩波講座/哲学〔全16巻〕〔岩波書店、1985-1986)。
 各巻の表題はつつぎのとおり。「」を付けず、改行もしない。
 1/いま哲学とは、2/経験・言語・認識、3/記号・論理・メタファー、4/世界と意味、5/自然とコスモス、6/物質・生命・人間、7/トポス・空間・時間、8/技術・魔術・科学、9/身体・感覚・精神、10/行為・他我・自由、11/社会と歴史、12/文化のダイナミックス、13/超越と創造。14/哲学の原理と発展ー哲学の歴史1、15/哲学の展開ー哲学の歴史2、16/哲学的諸問題の現在ー哲学の歴史3。
 当然のことだろうが、「自由」を扱う巻はあり、論考もある。
 この時期はまだソ連・東欧社会主義諸国が存在し、「マルクス主義」哲学者も(日本では)多かったと見られる。
 これらの点は別として、この講座の編集委員(11名。中村雄二郎、加藤尚武、木田元、村上陽一郎ら)による<まえがき>を一瞥すると、つぎのことが興味深い。
 一つは、「哲学の終焉」の危機感などは全く感じさせない、つぎのような叙述をしている。「学問分野としての哲学は、…、研究者の層が厚い。また、前回…が出版された後、研究動向の多彩な展開がみられると共に若いすぐれた担い手たちも育っている」。
 二つに、つぎのような叙述が冒頭にあることが注目されてよいだろう。一文ごとに改行する。
 「…今日、私たち人類はこれまで経験したことのない状況に直面している。
 エレクトロニクスや分子生物学に代表される科学・技術の発達が人間の生存条件を一片させつつある
 と同時に、文化人類学、精神医学、動物行動学の成果からも、人間とはなにかということ自体が改めて問い直されるに至っている。」
 ここで興味深いのは、30年以上前すでに、「文化人類学、精神医学、動物行動学」の成果を参照しなければならないことが(たぶん)意識されていた、ということだ。
 この講座(全集)の第6巻の表題は上記のように、<物質・生命・人間>、第9巻のそれは<身体・感覚・精神>だった。
  西尾幹二が、「哲学」や「思想」にかかわるものとして、「物質・生命・人間」や「身体・感覚・精神」という主題を1999年に意識していたか、その後に何らかの関心を持ってきたかは、相当に疑わしい。
 また、西尾が、「哲学」や「思想」に、「エレクトロニクスや分子生物学に代表される科学・技術の発達」が関係してくるだろうことを、あるいは「文化人類学、精神医学、動物行動学の成果からも、人間とはなにかということ自体が改めて問い直されるに至っている」ということを、どの程度意識してきたかも、相当に疑わしい。このような問題意識は、1999年時点では、ゼロだったのではないか。
 というのは、例えば2018年の西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書)p.36-p.37でも、こんな間違いおよび幼稚なことを書いているからだ。忠実な引用はしない。何回かこの欄で触れてきたからだ。
 ①教育・居住条件の整備(Libertyに対応)と②教育の内容・生活の質(Freedomに対応)は異なる。後者の②は「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことのできない領域」だ。その扱えない問題というのは、「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の自由という問題」だ。
 この部分の文章は、<知の巨人>、<思想家>であるらしい、そして1999年著(のとくに前半)は「グローバルな文明史的視野を備えていて」、「これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担っている」と自賛している西尾幹二の、記念碑的な、後世へも(かりにこの人への関心が続くならば)伝えられるべき貴重なものだろう。
 ここにおける「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の自由」という表現の奥底にるのは、弱者・愚者を含む「各自」ではない、強者・賢者である「自分(西尾幹二本人)の、ひとつひとつの瞬間の心の自由」を尊重し、高く評価せよ、という強い主張ではないか、と想像している。
 この点はともかく、上の哲学講座の構成やその編集委員の「まえがき」からしても、「ひとつひとつの瞬間の心の自由」が「精神医学、動物行動学」あるいは「分子生物学」と無関係ではないことがとっくに示唆されている。
 現在の脳科学は、「意思の自由」・「自由な意思」の存否またはあるとすればどこ・どの点に、を議論している。
 この欄で言及したように、臨床脳外科医・脳科学者の浅野孝雄も、人間の「こころ」に迫っていて、当然に「自由」性を視野に入れている。
 西尾は、「自由」に関する「哲学」はもちろん、彼には当たり前だが<理系>とされる学問分野における「ひとつひとつの瞬間の心の自由」の研究を全く知らず、関心すらないのだ、と思われる。
  西尾幹二が、「哲学」・「思想」に自分は関係していて、「自由」を論じる資格があるなどと考えること自体が奇妙で、不思議なのではないか。
 同旨を、たぶんもう一回書く。

2277/「わたし」とは何か(10)。

 松岡正剛・千夜千冊からどうして<「わたし」とは何か>を主題とする書き込みを始めたのか、忘れてしまっていた。関連して入手した浅野孝雄訳・フリーマンの書の冒頭の、<あなたとは何か>という問いに刺激されたのだった。
 浅野孝雄著によるダマシオ説に関する叙述を紹介して、(10)という区切りのよい所で終える。「延長意識」等々についてなので、「わたし」の問題からは離れる。「わたし」=Self、self-conciousnessは、「こころ」(mind)や「意識」(conciousness)と同義ではない。
 また、ダマシオの著書は、<デカルトの誤り>の他に、入手可能な邦訳書・原書をすでに所持だけはしているのだった。したがって、それらを直接に読むので足りるのに気づくが、浅野孝雄の紹介に引き続いて頼る。 
 浅野孝雄=藤田晢也・プシューケーの脳科学(産業図書、2010)。p.196以下。
 ——
 1 アイデンテイティ。
 「自伝的自己」が「個人の所属する集団・民族の文化的伝統の内に組み込まれ、それと一体化したもの」。これが、「個人のアイデンティティ」だ。
 アイデンティティは、「人格」=自伝的自己や「中核自己」=「われ」とは区別される。
 2 「拡張意識」(extended conciousness)
 原自己・中核自己・自伝的自己という「出来事の連鎖」の上に「拡張意識」が生まれる。
 これは、「二次的マッピング」で生起した「現象」が、global workingspace(バース)、dynamic core(エーデルマン)で、「他の全ての情報・表象」すなわち「記憶・感情・作業記憶と結合し、辺縁系(海馬)、傍辺縁系などの働きによって時空間に定位される」ことによって発生する。
 「一方の根」が「身体シグナルと結びついた原自己」にあるので、「感情」(feeling)の性格を失わない。
 他方で、「現在起こっている事象と緊密に結びついている」ので、「起こっていること(what happens)についての感情」だ。
 「外部の対象」と同様に「大脳皮質」内の「一つの表象」も「中核意識の生成を刺激し、その拡張意識への発展を促す」。
 3 「知性」(intelligence)
 「拡張意識」は「知性」と我々が称するものの「母体」となる。「有機体が有する知識を最大限に利用することを可能とする点」において。しかし、「知性」そのものではない。
 「知性』は、「拡張意識が呼び起こした知識を利用して新奇な反応」=「新しく統合された認識(大局的アセンブリまたはアトラクター)」を生み出す、「拡張意識よりもさらに高次の能力」だ。
 「前頭葉に宿る知性の働き—創造力—」は「人間精神の最高位に位置」し、「全ての個人の精神、さらには文明を発展させてきた原動力」であって、この精神的能力こそが、アリストテレスのいう「能動理性」だ。
 4 ダマシオはこのように、「原自己」という最下位の事象が最上位の「知性」に至るまで「変容をつづけながら螺旋的に上昇する構造」としして、「意識」を理解する。「意識の全構造」が、原自己・中核自己を中心とする全ての「経験と環境の認識」と「相互依存的な関係」を取り結ぶ。頂点にあるのは「知性」だが、「そのピラミッド自体は複雑なフィードバック・システムを形成している」。
 ——
 叙述はさらに、ダマシオにおける(有名な)「情動」と「感情」の区別等に進んでいるが、ここで終える。
 「意識」もそうだが、「アイデンティティ」(identity)や「知性」という日本人もよく用いる概念・言葉について説明され、何がしかの定義もされていることは、新鮮なことだ。「わたし」=「自己」についても。
 もとより、私は全てを理解しているわけではないし(脳に関する基礎的知識・素養が不十分だ)、納得しているわけでもない。また、「最上位」の「知性」をもってしても、人類は平気に「殺し合い」、平気で「人肉食い」もしてきたのだ、と思いもする。
 また、このような<一般論>でもって、全ての個々の人間の自己意識を含む「意識」の詳細な全構造の内容が判明するわけでもないし、それは永遠に不可能だと思ってもいる。
 但し、究極的・本質的には(茂木健一郎が若い頃から言っているように)、人間の「精神」作用は、「自己意識」も「こころ」も、何らかの、複雑な物理化学的作用の一つに他ならないことを、「文科」系人間も知っておく必要がある。「世俗的名誉」、「世間的顕名」、「体裁」を維持したいとは、いかなる「気分」、いかなる「意識」によるのか??
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2273/「わたし」とは何か(9)。

 ダマシオの「自己」理論についての浅野孝雄の叙述のつづき。
 浅野孝雄=藤田晢也・プシューケーの脳科学(産業図書、2010)。p.196以下。 
 三 C 自伝的自己(歴史的自己)
 「新しい経験」はすでに蓄積された記憶に追加され、「記憶」は「一つのニューラル・パターンとして再活性化」され、必要に応じて「イメージとして意識に、あるいは意識下に」表象される。
 こうして生起した「中核意識」において、「中核自己と結びついた記憶の総体との結びつき」が生まれ、その「結びつきが確立・統合」されて、人は「ある程度の不変性・自律性を有する人格(パーソナリティ)」を獲得する。
 獲得するこれが、「自伝的(歴史的)自己」だ。
 つまり、「過去における個体の経験」と「未来において期待される経験の内容」とが「内示的・外示的記憶として蓄積」されることにより、「自伝的(歴史的)自己」が形成される。
 「自伝的自己」は、「生涯のでき事を通じて形成された自己のイメージ」、つまり「ある時点について固定化された陳述記憶と手続き記憶の体系」だ。それは、「自分とは、かくかくの人間である」というような「意識の中に客体化された自己についての観念」だ。
 ——
 このあとに、印象深いとしてすでに紹介した文章がある。
 「しかし記憶は、過去の事実についての必ずしも正確ではない記憶・想像・欲求などが混じりあって形成されたものであるから、選択された陳述記憶から成る自伝的自己とは、脳が自ら作り上げたフィクションにすぎない」。
 「人間の栄光と惨めさ、喜劇と悲劇は、フィクションである自伝的自己への固執から生じる」。
 ——
 四 さて、<原自己>・<中核自己>・<自伝的自己>の三区別とそれらの発展?に関する叙述から、さしあたり、シロウトでもつぎのように語ることができるだろう。
 ①「胎児」もまた、専門知識がないからその時期に論及できないが、いつの時点からか、<原自己>を(無意識に)有している。「自己」を「わたし」と言い換えれば、「胎児」にもいつかの時点以降、「わたし」がある
 ②人間が生誕して、いわゆる<ものごころ>がつく頃、おそらくは「自分」と他者(生物、いぬ・ネコを含む)の区別を知り、「自分」が呼ばれれば反応することができる頃—それは何らかの欲求・感情を表現する「言葉」を覚えた頃にはすでに生じていると思われるが—、<中核自己>は成立している
 ③<中核自己>が「思い出」をすでに持つようになる頃からいわゆる「思春期」にかけて、<自伝的自己>が形成される。むろん、その後もつねに継続して、<自伝的自己>の内容は、(同じ部分を残すとともに)新しい「経験」・「記憶」・「予測」等々によって、変化していく。
 こう考えることができるとすると、「わたし」=自己というものを単一に把握することは決定的に誤りだと気づく。また、単純に「原自己」が後二者へと移行するのではない。成人になっても、<自伝的自己>の根元には(これまた変化している)<原自己>がある。
 こうしたことは、「発達科学」あるいは<子ども>の成長に関する諸研究分野において当然のことを、別の言葉で表現しているのかもしれない。
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 ところで、「わたし」とはいちおう別のレベルの問題だと思われるが、浅野によると、ダマシオは、「拡張意識」や「アイデンティティ」等の言葉を用いて、その「意識」理論をさらに展開しているようだ。興味深いので、さらに別の回に扱う。

2272/人間と「脳」の神秘・奇跡。

  浅野孝雄の最初の著かもしれないつぎの著の中途に、浅野はこう書いている。
 藤田晢也=浅野孝雄・脳科学のコスモロジー−幹細胞・ニューロン・グリア(医学書院、2009)。p.239。一文ごとに改行した。
 「脳を構成する神経細胞の数はゼロから出発して、成人では約450億個に達し、それから死ぬまで減り続ける。
 脳が行う学習と記憶は一生続くプロセスであるが、それはニューラル・ネットワーク内部の神経回路が絶え間なく変容を続けることである。
 このニューラル・ネットワークの働きによって、脳がヒトの心の基本的特性を獲得し、文化・文明に適応し、さまざまな創造を成し、しかも自己の一体性を保持しているということは、まさに宇宙の奇跡である。」
  つぎの著では、自分の担当部分の冒頭で、浅野孝雄はこう書く。
 浅野孝雄=藤田晢也・プシューケーの脳科学—心はグリア・ニューロンのカオスから生まれる(産業図書、2010)。p.55。一文ごとに改行した。
 「浅野は、幾多の開頭手術を行い、生きている脳に自らの手で触れてきた脳外科医である。
 ピンク色に輝き、微かに拍動する脳にメスを下そうとする瞬間、それが人間の心を宿すという神秘的事実は、驚嘆と畏敬と惧れが入り混じった複雑な感情を呼び起こさずにはいない。
 カントが言った物と物自体の区別、唯物論と観念論、あるいは一元論と二元論の歴史的対立は、生きている脳がその外貌を露わにする時、最も鮮烈に立ち現れる。
 「『物』としての脳に分け入れば分け入るほど、『物自体』である心は見えなくなっていく。……
 脳外科医としての筆者の思考は物の世界に属していてそこから離れることがない。
 脳外科医としてそれ以上を望むべきではないのかもしれないが、筆者はそれでは満たされないものを感じ続けていた。
 50代も半ばを過ぎたころから、『心』の世界を覗き見たいという欲求がなぜか燃えさかってきたために、心と物の世界を繋ぐ唯一の窓である脳問題にについて、改めて学び考えることを筆者は決意した。」
  浅野は、多数の脳科学者・周辺学者(ドーキンス、チャーマーズ等々を含む)のほか、決してニーチェに限られない、多数の哲学者の哲学書等も紐解いたようだ。上の第二の著の注記によると、アリストテレス、アリエリー、デカルト、ドゥルーズ、ダイアモンド、ライプニッツ、ハイデガー、フロイト、ハンチントン、ヤスバース、レヴィ-ストロース、ロック、メルロ-ポンティ、西田幾太郎、等々。
 「知」のために研究し文章を書く人と、「自分」、自分の「名声」・「名誉」のために文章をこね回して<こしらえる>人とがいる。

2271/「わたし」とは何か(8)。

 「人間の栄光と惨めさ、喜劇と悲劇は、フィクションである自伝的自己への固執から生じる」。
 「自伝的自己」とは、「生涯のでき事を通じて形成された自己のイメージ、即ち、ある時点において固定化された陳述記憶と手続き記憶の体系である」。それは、「意識のうちに客体化された自己についての観念である」。
 「しかし記憶は、過去の事実についての必ずしも正確ではない記憶・想像・欲求などが混じりあって形成されたものであるから、選択された陳述記憶から成る自伝的自己とは、脳が自ら作り上げたフィクションにすぎない」。
 以上、浅野孝雄=藤田晢也・プシュケーの脳科学−心はグリア・ニューロンのカオスから生まれる(産業図書、2010)。 p.196。
 なかなか印象的な文章だ。但し、「自伝的自己」、「陳述記憶」等の術語があり、直前には「アイデンティティ」という語も出ている。
 これは浅野孝雄執筆部分にあるが、A・ダマシオ(Antonio Damasio)の<意識理論>に関する叙述の中にあるので、ダマシオ説の紹介の一部なのではないかと思われる。 
 ダマシオと言えば、その著書の一つの邦訳書(の一部)をこの欄に要約しいてたことがあった(2019年11月頃)。そのかぎりで、ある程度は<なじみ>がある。
 浅野孝雄は、その執筆部分(II、全体の8-9割)の<第3章・意識と無意識>の第2節で「ダマシオの意識理論」を扱う。そこにはダマシオによる「自己」の三分類、または三段階に螺旋的に生成する「自己」論が紹介されているので、以下、とりあげて見よう。
 ここにもあるように、「自己」・「わたし」とは脳内の特定の部位・部所にあるのではない。境界も定かではない、絶えず変動している、一体のカオス的回路の一定部分・一側面なのだろうと、シロウトはとりあえず考えてきた。
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 p.193〜p.196。
  ダマシオは1994-2003年に、①Decartes' Error、②The Feeling of What Happens、③Looking for Spinoza を発表した。
 ①は邦訳書もある世界的ベストセラー書。「近年の脳認知科学の見地からデカルトの物心二元論」を誤謬として排斥するのは容易なことで、この書の眼目は「身体(脳)と心がいかに不則不離な関係」にあるかを示すことだった。
 ②では、「感情を中心として、意識の構造と脳の構造・機能との対応」を包括的に論じた。
 ③では、スピノザの「一元論」に共鳴し、スピノザ哲学が秘める「(原)生物学的な意味合いを、現代脳(認知)科学の内容に活かそう」とした。
 デカルトを詳細に調べたダマシオが、デカルトの友人だが「それとは異なる見地から人間の感情」に関する哲学を構築したスピノザに関心を持ったのは自然だ。
  ダマシオは、「エーデルマンのダイナミック仮説」をふまえ、「自己」を①「原自己(protoself)」、②「中核自己(core self)」、③「自伝的自己(autobiographical self)」の三段階に分けた。
 これらは、「意識の螺旋的構造の内に階層的に位置」する。
 「意識の螺旋の底部」にあるのはNN(ニューラル・ネットワーク)の働きで、「覚醒状態において対象と有機体との関係から生じる様々な情報がダイナミック・コアに到達する以前」の段階にある。これが「イメージ・表象の受動的生起から始まる」とする点で、フリーマンと決定的に異なる。ダマシオ理論はアリストテレス的で、フリーマン理論は「トミズム的」だ。
  A 「原自己」とは、ダマシオによると、「個体の内部状態(身体から脳幹へと伝達される全ての情報)が、脳の複数のレベルにおいて相互に関連しあい、まとまりを持って大脳皮質に投射された神経反射のパターン(一次的マッピング)」だ。
 身体情報の受領・処理をする脳領域は「脳幹・視床下部・前脳基底部・島皮質・帯状回後部など」。ここに存在する様々の装置は、「生存のために身体の状態を継続的かつ「非意識的」に比較的に安定した狭い状態に保つ」=「個体のホメオスタシス」を維持する。
 この諸装置から「第一次マッピングとして継続的に表象」されるのは「個体の内部環境・身体臓器などの状態」で、この表象の全体が「原自己」を形成する。
 「原自己」はあとの二つの「自己』の基底だが、「海馬との情報交換」がなく『時間的・空間的定位」を欠き、「大脳皮質が未発達な動物の原始的な意識」と同じく、「意識に上らない」、つまり「無意識」だ。
 「原自己」は、「われわれの現在の意識が集中している自己」と区別されなければならない。それは『言語、認知、知識に関わるモジュールと直接の関係」を持たないので、人間が「明示的に認識」することがない。
  「中核自己」は「原自己」を母体として発生し、初めて「意識が生じる」。ダマシオの前提は「個体の全ての部分」とともに「身体内外の対象」も脳にマッピングされるということで、「原自己」と同様に「外的対象から生じたシグナルは、その性質に従って局所的にマッピングされる」。「原自己と外的対象の一次的マッピングは、脳の異なる部位に生じる」。
 それらから生じた表象は「上丘、帯状回などの、より上位の脳領域に投射され』、それを「二次的マッピング」と言うが、そこで「個体の内部状況と他の全ての対象の表象が相互的に作用」して、「新たな表象が生じる」。こうして「意識に上った表象は、未だ言語化されていないイメージ」ではあるが、「個体の全身的な身体状態と結びついているので感情(feeling)となる」。
 かくして、「個体は、自分がどういう状態にあって、何が起きているかについての最初の意識を有する」。これが「中核自己」だ。
 つまり、「脳の表象装置」が、「個体の状態が対象の処理によってどのように影響されているか」の「非言語的なイメージ」を生み、それと平行して「対象のイメージが海馬の働きを介して時間・空間的文脈の中に明確に定位される」とき、「中核自己」が生まれる。
 「対象の明確化」と「原自己の変容」が進んで、「自己」が各相互作用の「主役』として強く意識されるとき、「対象によって触発されて原自己から立ち上がる」のが「中核自己」だ。つまり、「中核自己」は「対象によって変容した原自己の、大脳皮質への二次的マッピングにおいて生じる非言語的表象」だ。
 対象による中核意識機構の活性化によって生成する「中核自己」は、「短い時間しか持続しない」。
 だが、「対象はつねに入れ替わりながら中核意識を活性化する」ため、「中核自己」は「絶え間なく生起」し、ゆえに「持続的に存在しているかのように感じられる」。
 「中核自己」は「コア・プロセス」に「付随』しており、「一生を通じてその生成メカニズムが変化することはない」。かくして「われ」が感情によって染められた「中核意識」の中に浮かび上がる。
 「われ思う(ゆえにわれあり)」の「われ」として感じられるのが、この「中核自己」だ。
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 第三の「自伝的自己」(「歴史的自己」)、これは「人格」=personality と同義かほぼ同義のようなのだが、これについては、別の回にする。ダマシオ説に関する、著者=浅野孝雄の叙述だ。

2270/「わたし」とは何か(7)。

 「『わたし』とは何か」という主題と直接には関係なくなっているが、密接不可分とも言えるので、フリーマンの叙述をもう少しフォローしよう。原書を見て、適宜原語も付記する。
 脳科学について、こうも語られる。邦訳書、p.5。
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 ① ある流派の「脳科学者たち」は「神経の出来事と心的出来事(neural and mental events)は、同じものの異なる様相」だと主張して、「脳がどのようにして思考を生み出すか」という問題を回避している。こうした考えは「心・脳同一説」(the psyconeural identy hypothesis、「同一説」・「双貌説」とも)として知られる。我々には「脳なくして思考する」のは不可能で、「脳」機能の一部は「思考」することなのだから、この説は「原理的には反駁が難しいほど理窟に適って」いる。
 しかし、この「心・脳同一説」を「直接証明(test directly)する方法」はない。
 「あなたが何かを考えながら同時にあなた自身が自身にが脳の中に入り込んで脳がどのように活動しているかを観察することはできません。
 一方、あなたの脳を観察している人に、あなたが考えていることを言葉で伝えようとしたところで、彼はあなたの考えの内容を正確に知ることはできません。」
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 前回に秋月が直感として書いたのと似たようなことをフリーマンも書いている。「現に活動している脳または心」の具体的内容等をその時点で(おそらくのちにでも)正確に知ることはできないのだ。よって、「心・脳同一説」の正しさは検証できないことになる。
 フリーマンは、この点をこうまとめている。
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 ② 「現代脳画像検査方法によって、様々な種類の認知作業において脳の異なる部位が大かり少なかれ同時に活性化することが明らかとなりました。
 しかし、この脳地図における色のパッチ〔濃淡や色の違い-秋月〕から、あなたが何を考えているかを推定することはできません。
 つまりわれわれは同一性仮説を、検証不可能な理論と見なすほかないのです。」
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 しかし、従来・在来の脳科学を全否定するのではもちろんなく、こう語り、かつ次のように目標(・達しようとする結論)を示す。邦訳書、p.6。
 ③ 「しかし、脳理論から因果律(causality)を排除すべきではありません。
 私たち「脳科学者グループは、異なる観点から、選択能力(poweer to choose)は人間にとって本質的で奪うことのできない特性である」と考える。
 「因果律があまねく宇宙を支配することを前提とする限り、選択の可能性を否定せざるを得なく」る。
 逆に、我々は「選択の自由が存在するという前提」から出発し、「因果律を脳の特性として説明すること」を目指す
 「選択の自由が存在するという前提」は「倫理学』を基礎にしておらず、反対にこの前提が、「倫理」の諸問題を発生させる。
 すなわち、「選択の自由」の奨励・拒絶、「選択の自由」を行使し得る性・人種・年齢・教育や資産の程度等々の地多くの倫理的問題」が発生するのだ。そして「選択の自由」の存在という前提こそが「アングロ・アメリカン民主主義社会の土台」となった
 だが17世紀以降の「生物学」・「物理学」の諸発見は「個人の自由」を否定する方向に働いた。スピノザは、「崖を転げ落ちる」岩との違いは人間は「自ら選択したという幻想を抱いている」ことにあるとした
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 そのような状況のもとで、としてフリーマンが目標(・達しようとする結論)してやや長く語るのは、次のようなことだ。
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 ④ 「従来の生物学の基本的発想を転回させ、脳のダイナミクスを正しく理解することによって、選択という生物学的能力を説明する」こと。
 第一に、『選択のオプションがニューロンによって構成されることを説明するような脳のメカニズムを提示する」。
 第二に、我々の「選択の瞬間に、ニューロン回路でどのようなことが生じているかを説明する」。
 第三に、「気づきの本性とその役割、および気づきの状態と意識内容の継起との関連を、脳科学的な用語を用いて説明する」。
 これらの作業は「脳の働きを理解し、その支配権を握るための基礎を築くこと」に他ならない。
 こうして理解された「脳の働き」は、「脳科学が示す諸事実」のみならず、我々の「直観」、「思考」そして「クオリア」と合致するものでなければなない
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 フリーマンによる専門的な論述に立ち入りはしないが(私には知識・能力が足りない)、少なくとも日本の<文科系>、とりわけ<文学畑>の知識人・評論家が想像もしていないかもしれない議論が欧米でも日本でもなされていることが明らかだ。
 何度も名前を出して恐縮だが、西尾幹二はまるで自分は「こころ」や「自由(意思)」の問題の専門家のごとき口吻で語る。自然科学系、とくに脳科学の研究者とは雲泥の差、天地の差、専門家と小学生レベルの幼稚さの違いのあることは明瞭だろう。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)、p.37。
 「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことのできない領域」がある。それは「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」だ。
 ああ恥ずかしい。上に限っても、社会科学的知性の方が西尾よりも種々の意味での「こころ」をはるかに問題にし、議論している。西尾が無知で幼稚なだけだ。全集刊行書店の国書刊行会のウェブサイトがこの人物を「知の巨人」と呼んでいるのも、歴史に残る<大嗤い>だろう。  

2269/「わたし」とは何か(6)。

 <自己意識のセントラルドグマ>を維持するとしても、 茂木健一郎の指摘するように、自己意識の対象となる「自己」・「私」はつねに変化しているということを自覚することは重要なことだ。
 いつか書いたように、本質的には、根本的には同一の「私」があって、思春期・成人期・老齢期と成長または発展している、のではない。
 例えば、あくまで例えばだが、西尾幹二や樋口陽一は自分は「ものごころ」のついた幼少の頃から「西尾幹二」・「樋口陽一」であって、その「西尾幹二」または「樋口陽一」という<私>・<自己>が一貫して自分を統御し、(一部では、あるいは一定の分野では)著名な?そして<尊敬される>?人間になった、と思っているかもしれない。そして、その「西尾幹二」・「樋口陽一」はふつうの・平凡な人々に比較して、<優れて>・<秀でて>いたのだ、と自負しているかもしれない。
 このような考え方をする者は、「自分」は他者と違って少年時代から<優れて>・<秀でて>いて、自分の力で(一部では、あるいは一定の分野では)成功して著名になった、と自負している人々の中に多いかもしれない。
 いくつかの疑問符の部分はさて措くとして、このような自己自身に関する理解の仕方は「自己」・「私」が私の脳(も心も)支配してきたし、している、という誤ったものだろう。これは身体(頭)の中に住んでいると想定された、<ホムンクルス>の存在を肯定するもののように見える。
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 W・フリーマン/浅野孝雄訳・脳はいかにして心を創るのか—神経回路網が生み出す志向性・意味・自由意志(2011)。
 =W.J.Freeman,How Brains make up their Minds(2011,Columbia Uni. Press)。
 数回前に(No.2263で)抜粋紹介を省略したW・フリーマン著の初めの部分の追記を遅れて記そう。この文書を含む章の題は<第1章・自己制御と志向性>で、すでに「志向性」という語がある。なお、この書全体のタイトルにある「心」は上掲のようにmind で、heart ではない。魂・霊(・ときに精神)という意味での soul と区別される「こころ」には mind が用いられており、日本の関係学界や研究者も、これと一致している、あるいはこれを継受していると見られる。「脳」は、brain。
 フリーマンは近年のまたは有力な?「脳科学」を批判して乗り越えようとしているのだが、その「脳科学」について、こう書く。p.3-p.4.
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 「自己決定」の本質は何か。この問題は「脳とニューロン」が「心」・「自分自身として経験される行動と思考」をどう創出しているか、「心」の経験が「脳とニューロン」を変化させ得るとすれば、いかにして、に帰着する。つまり<心と脳の間の因果関係>は何を意味するのか、という問題だ。
 「多くの神経学者」はこの問題に目をつぶる。<生まれより育ち>論者にとっては「自己をコントロールできる」という考えは幻想にすぎない。「決定論」信奉のこれら哲学者たちは「心的過程の気づき(意識)」を「随伴現象」と呼び、無意味の「副次的現象」と見る。彼らは、「心的出来事が物理的世界に入り込むこと」の承認は「神が…自然法則を停止させた中世の奇跡」の承認と同じだと主張する。彼らには「クオリア」は「私秘的」な、科学者が接近不能なもまたは科学研究に値しない経験だ。彼らは「変形された刺激が感覚ニューロンによって外的世界が脳へと運びこまれ、そこで予測し得る行動へと処理される過程の自然法則の発見」を目的としており、「偶然」が関与しても(自由意思による−秋月)「選択」が関与する余地はない、と考える。
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 今回もこの程度にして区切るが、フリーマンは例えばこのように把握したうえで、「自由意志」(自由意思)とそれによる選択を肯定する。
 その結論と論理過程自体が興味深いのだが、しかし、在来・従来の「脳科学」(brain science )はフリーマンの言うが如き単純な?物的(物理的)一元論?だったのか、という疑問がないわけではない。
 というのは、全くのシロウトにすぎない私は、究極的にはニューロン細胞網等の物理化学的反応の回路による、と説明できるとしても、「自由な意思」の存在を語り得る、と何となく考えてきたからだ。
 その根拠は、たぶんじつに幼稚なもので、その複雑な物理化学的反応の全てのありようを特定の個人ごとに「認識」することなど、人間にできるはずがない、というものだ。その不可能である範囲内で、ヒト・人間の「自由意思」を、そして「私の意思」を、そして「私」を、ヒト・人間は観念し続けるのではないか、と考えてきた。
 なぜ不可能なのか。これまたたぶんじつに幼稚な根拠による。つまり、現に生きている人間の「意思形成過程」の中身・背景等々を問題し「認識」しようとしても、「生きている」がゆえに、その詳細な中身・神経(+グリア)細胞網の「カオス」の状態を知ることには、いかにすぐれた器械・機械装置を発明していくにしても、絶対に限界がある、というものだ。
 「現に生きている人間の」脳細胞=神経細胞等をどうやって覗き込むのか。むろん、ある程度は(興奮すればどの部位辺りのシナプス間の反応が活発になるといったことは)今でも分かるようだが、「現在のこの瞬間に」何を、どのように、何を背景・理由として、「情動」し「思考」しているなど、永遠に分からないのではないか。
 死ねば、脳を解剖することはできる。しかし、たぶん身体・肉体が「死んで」しまうと、脳内の「細胞」も「死んで」いて、生きている場合の形状をとどめていないはずだ。死後の解剖では無意味なのだ。
 したがって、ついでに書けば、茂木健一郎のいう「コピー人間」というものの実現可能性もおそらくゼロなのではないか、と感じている。一部ならば可能かもしれない。しかし、脳は身体全体とともに存在しているので、「脳」だけのコピーはできない(「脳」なるものの範囲も問題になる)。そして、全く同じ身体・肉体条件・「脳」条件にある、全くの「コビー」人間など(思考実験としてではなく実際には)作り出すことはできないのではないか。
 さらに、しろうととして、フリーマン等に言及することにしよう。

2268/「わたし」とは何か(5)。

 (つづき)
 茂木健一郎はヒト・人間という「種」を超えた「生きとし生けるもの」の「意識」の同一性を語ろうとする。ヘッケル(Ernst Haeckel)の生物発生系統図に見られるような、「生物」・「生命」への根源に至る「共通の幹」があるというわけだ。すべては、我々も、「一つの意識」が<連続変換>したものだ、というわけだ。変換=transformation。
 しかし、ここまで来ると、地球上に「生命」を誕生させた地球環境条件の生成、地球の誕生、大爆発が連続したのちの?太陽系宇宙の誕生にまで行き着くのではなかろうか。
 茂木が示唆を得ているようである<One Electron Universe >のいう<一つの電子>論に、<一つの意識>仮説も逢着するのではないか。
 こうなると、問題は「自己意識」とは何か、「わたし」とは何か、という最初の問題へと還元してしまいそうだ。茂木は、モジャモジャの髪の毛も「私」の構成要素だとし、構成要素である「記憶」と同様に変化するものだ、と言ったりしているけれども。
 そして、茂木の言う<自己意識のセントラルドグマ>をなお維持しておいてよさそうに見える。
 きちんとした論文に書いているのではなく、ネット上で語っていることでもあり、議論?はこの程度にしよう。
 但し、追記すると、茂木は興味深いことも別に語っている。
 一つは、(私は感想を書き込んで投稿したりしたことはないが)視聴者の質問・疑問等にある程度は答えたようにも感じるが、<対応する認知構造がないと理解できない>ことだ、などと論理必然性なく?語っていることだ。
 問題・主題が何であれ、たしかに、<対応する認知構造>がないと何らかの主張・見解の意味を理解することはできない。余計ながら、<意識の次元や構造>が全く異なると、そもそも議論が成立しない、意味交換をすることができない。これは世俗的にも、現実的にも、日本人どおしであっても、あり得ることだ。
 二つは、茂木が<クオリア>と<志向性(intentionality)>に目覚めたとき、と語っていることだ。なぜ気を引いたかと言うと、後者の<志向性>とは、数回前に言及したつぎの書のW・フリーマンが用いる中心概念または基礎概念らしいからだ。茂木はフリーマンの名を出していないけれども。
 ウォルター•J•フリーマン/浅野孝雄訳・脳はいかにして心を創るのか—神経回路網のカオスが生み出す志向性・意味・自由意志(産業図書、2011)。
 浅野孝雄自身の「複雑系理論に基づく先端的意識理論と仏教教義の共通性」を副題とする書物以外に、つぎの書物も入手して、少しだけ目を通した。8-9割は浅野が執筆している。2021年に、少しでも論及したい。
 浅野孝雄=藤田哲也・プシューケーの脳科学—心はグリア・ニューロンのカオスから生まれる(産業図書、2010)。
 「プシューケー」は人名ではなくpsycho,Psycho (サイコ,プスィヒョ)のたぶん原語のようなもの、「グリア」細胞とはニューロン(神経細胞)を取り囲んでいる細胞。

2263/「わたし」とは何か(1)。

 一 ときどき覗いているネット上の<松岡正剛/千夜千冊>の最近の思構篇/1757夜は、リチャード・ゴンブリッチ・ブッダが考えたこと—プロセスとしての自己の世界(邦訳書、2009•2013)についてだ。いつもよりかなり長くて、西欧におけるブッダ・仏教の理解等に論及する。興味深かったので、一週間ほど前に一気に読んでしまった。そして、今は内容の詳細をほとんど忘れた。
 上の書の邦訳者である浅野孝雄(東京大学医学部卒、脳神経学者、と松岡はとりあえず紹介する)の著書・別の邦訳書に関心を持ったので、松岡が言及しているつぎの二つを入手してみた。
 1 浅野孝雄・古代インド仏教と現代脳科学における心の発見(産業図書、2014)。
 2 浅野孝雄訳/ウォルター・J・フリーマン・脳はいかにして心を創るのか—神経回路網のカオスが生み出す志向性・意味・自由意志(産業図書、2011)。
 何と魅力的な主題だろうか。
 後者にある浅野の訳者あとがきによると、フリーマン(1927〜)は物理学・数学、電子工学、哲学、医学、内科学・神経精神医学をこの順で学び、1995年以降、Berkeley の「神経生物学」教授。多数の賞を受け、「哲学」の講義をしたこともある、という。
 この邦訳書の冒頭には日本の読者向けに分かりやすくまとめてもらったという著者の「日本語版への序論」が20頁ほど付いているが、全く理解不能ではないものの、まだむつかしい。
 二 ウォルター・J・フリーマン/浅野孝雄訳・脳はいかにして心を創るのか(2011)の目次のあとの本文・第一章の最初からしばらくは、まだ理解することができ、かつ興味深い。こうだ。
 ——
 「あなたを操っているのは、いったい誰」か。「あなた自身なのか、それともあなたの脳なのか」。もし「あなたの脳でない」とすれば、操っている「あなたとは一体何なのだろう」。
 ルネ・デカルトは「脳を含む身体を、魂が動かす機械」だと考えた。彼によると、「あなた自身が、あなたの脳を統御している」。
 しかし、近年の脳科学は「あなた」または「あなたの脳」がいくぶんかでも「支配力」をもつとの考えを否定する。「神経遺伝学者」は、…。「神経薬理学者」は、…。神経科医師は処方薬を飲むか否かの自由を認めるが、「社会生物学者はその自由さえも奪って」しまう。あなたが薬を服用するのは「幼少時の教育によって形成された従順な行動様式」に従っており、服用しないとすれば「両親に対するあなたの反抗的態度の社会的反復」にすぎないのだ。
 「生まれついた」からか「育てられた」からかという、長く続く生まれ・育ち論争の「核心」にあるのは「遺伝的・環境的決定論という教義」だ。だが、この教義は「あなた自身の積極的関与を否定し、あなたの全ての決定が周囲環境によって強制された」とする点で、大きな問題を孕む。この決定論は、キリスト教神学における運命予定説の遺残」にすぎない。
 以上、上掲書1-2頁。6頁くらいまでは読んだが、省略する。
ギャラリー
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