秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

津田左右吉

2131/津田左右吉・日本の神道(1948)-第1章④。

 津田左右吉・日本の神道(1948)/同全集第9巻(1964)。
 第1章・神道の語の種々の意義。紹介のつづき。
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  「神」の語が形容詞として用いられることもある。なお、古典的シナ語では品詞の区別が語形に現れない。
 道家の「神人」の「神」は「道を得た人」の形容であり、シナを「神州」、天下・帝位を「神器」とするのも同じ。いずれも「宗教的意義での神」から転化したものだろう。
 後世でも同様だが、「道教」で「人の形を備えた」「神」への崇拝が始まったように、変化もある。これは「仏または仏教に伴って伝えられたインドの神に関する知識」が誘った趣もある。「仏そのものが神と称せられてもいた」のだから。そして、「仏を宗教的祭祀の対象」と見たからで、「シナにもとからあった神」との区別のために「胡神戎神」という語も作られた。六朝時代の仏教徒が主張した「神不滅」論では、「神」は「形」に対するものだが、現代的意味での「霊魂」の性質をも付与されていたようだ。
  以上のとおりだから、「神道」に種々の意義があるのは当然だ。
 「神」の語は「宗教的意義」をもって、「とくに祭祀の対象」として用いられたから、「祭祀祈祷」または広く「宗教」が自然に「神道」と称せられることとなる例は多く、「仏教もまた神道と言われてきた」。
 「神道」の語は「神を祭る道」、「神についての道」の意味だろうが、「神」を形容詞と見てもよいようだ。そして、形容詞として使われつつ、「宗教的意義」のない「神道」という呼称もある。「道家の道が神道と呼ばれたことがある」のもその例だ。道家が「虚静無為の境地にあるもの」を「神」と称したとすれば、「神道」は「神を説く道」かとも思われるが、「道家の道」=「神道」というのはむしろ、晋代に「易」と道家が結びついたことによるのだろう。
 呪術・その他の方術を「神道」と称するのは、「神」を「不可思議な働き」の意味で用いてその「術」を形容したものだ。
  日本書記で「日本の民族的宗教としての神の崇拝が神道と称せられている」のは、「宗教的意義での神道の名を日本に適用してもの」だ。「ただ、仏が神と言われ、仏教が神道と称されていた実例がシナには多く、日本でも仏が神と呼ばれたことがあるから、仏教に対立するものとしての従来の民族的宗教に神道の名を負わせたことは、この点から見て少しく異様の感があるようでもある」。
 だが、「久しい前からカミの語には神の字があてられていたのと、書記編述のころには、仏を神と呼ぶ習慣もすたれていたようであるのと、この二つの事情から、こういうことが行われたのであろう」。
  こうして「神道」との名称が用いられはじめたが、後世には日本語化して、「神の道」と言うようにもなった。もとの日本語に「神の道」という語があったのではない。「道」という語をこういう趣旨で使うのはシナに限られる。
 人が歩行する道の意味が転じて、「人の行為の規範」、「事物に対する理法」、そしてこれらに関する一定の「教説」、現代語での「主張」の如きもの、または「特殊の知識技術」を指すに至ったのであって、「神道」の「道」もそういう転化しての意味だ。
 日本でも後に、慈遍が「皇道」を、真淵が「神代の道、皇神の道」、宣長が「神の道、日の大神の道、日のみこのうけつたへます道」、「神のみ国」等を言うのは、シナの用例に倣ったものだ。真淵や宣長が「特に」こういう言い方をするのは、「道」を日本語で表現しようとしたからだろう。
 たんに「神道」でも大きな支障はないにもかかわらずこうした語を作った点に「彼らの国学者的態度がある」けれども、「そのじつ、こういう意義で道ということを言うのは、シナ思想を受け継いだものである」。彼らがこうした語を作ったのは「旧来の神道」を非として自分たちの主張は「違う」と示そうとしたのだろうが、「道の語を用いた」ことは、以上のように「考えねばならぬ」。
  「神ながらの道」という語は〔平田〕篤胤に由来するのかさらに〔本居〕宣長に由来するのかは不明だが、「宣長の門下のもの」が使い始めたようだ。
 「神ながら」の語は続紀上での宣明や万葉の歌にもしばしば出るが、これは「道の名でもなく道とすべきことでもない」。古典には「神ながらなる道」は決して見えない。
 篤胤は「惟神」、「神随」を「カミナガラ」に当てた。書記・孝徳天皇大化3年「惟神」の訓読みとその条の注記があるために、「カミナガラ」と「神道」に何らかの関係がある、またはこの語が「神道の中心観念」の表現であると憶測され、「神なからの道」の語が思い浮かばれたのだろう。そして、いったんこの語が出現すると「神道」と同じ昔から、いや「それよりも古く」からあったと世間で「錯認」され、「神なからの道」の語も用いられるようになった。明治初年の大教宣布の詔にも公式に、「惟神之大道」という語がある。
 しかし、「惟神」の二字は「カミナガラ」の語を写しておらず、独立した概念ではなくて、文章の主語はあくまで「神」で、「惟」は発語にすぎない。誤った訓み方が定着し、「後の学者もこれらのことに気づかず」、そうして「神ながらの道」という語が作られ、かつ「古い語」のように思われてきたのだ。
  ①「神道の名に種々の意義」があること、②それが元々は「シナの成語を適用した」ものであること、③それが「いかにしていかなる意義で日本に用い初められるようになった」かは、上記で「ほぼ明らかにせられたと思う」。
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 以上で、第1章は終わり。

2129/津田左右吉・日本の神道(1948)-第1章③。

 津田左右吉・日本の神道(1948)/同全集第9巻(1964」。
 第1章・神道の語の種々の意義。つづき。
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 「神道」という語はもともとは「シナの成語」なので、シナ語としての「神」の意味を補説する。まずは、「名詞」として使われる場合だ。
 第一に、「宗教的呪術的意義」でのみのがある。おおよそ「人力以上の力もしくは働きをもっていて、何らかの仕方で人の生活を動かす或るもの」で、動物・木石・血・骨とか、またはこれらに「内在する」もしくは別に「遊離して存在する」、「種々の精霊の類」だ。
 呪力あるもの、呪術・祭祀の対象となるもの、もある。
 ふつうは「鬼」と言われたらしい「人の死後に存在する霊魂(現代の用語例での)」も、「祖先崇拝の宗教的儀礼において祭祀の対象」となる場合は「神」と称されている。
 より文化が進むと、「農業神としての稷」を例とする「人文神」とでもいうべき「神」もあり、「稷」のほか「社」を「古人」と見るように「神の或るもの」を「古人」として解する考え方も生じた。
 また、「知識社会」の「説話」では、「ある種の神が人の形態をとったもの」、「人格を有する神」も全くなくはない。
 第二に、「宇宙の、あるいは宇宙そのものの、玄妙な力もしくは働き」を「神」と称する場合がある。「陰陽不測之謂神」も例かもしれない。老子の「神得一以霊」もこれだろう。
 これは第一の「神」を転化させて、それから「宗教的意義を除き去り、その代わりに一種の形而上学的意義を付与したもの」と見ることができ、「知識社会の思惟」による形成物だ。
 第三は、「人に存在するものとしての神」だ。今日の「精神」という語の由来になる。
 「形」・「形と気」または「形と心」に対して用いられ、「心者形之主也、而神者心之実也」等によく示されている。
  「形」とは「肉体」、「気」とは「生理的意義において肉体に生命あらしめるもの」、「心」とは「心理的働き」をするものだ。一方、「神」は、「心の奥にあって心を主宰し生命ある肉体を主宰する霊妙なる存在」として考えられたと見られる。
 ときには「神」と「心」は同じものと扱われていることもある。だが、「神の本義ではあるまい」。
 ここでの「神」にも「宗教的意義」はない。しかし、第二の宇宙の「霊妙な力もしくは働き」を「神」と称したのと同じく、第一の意義から転化したものと推察される。
 「礼記の祭義篇」に「気也者神之盛也」・「魄也者鬼之盛也」とあるのは「宗教的意義」での「鬼と神」を説いていて、「生命ある肉体の内」にあるものとして「神」を語るが、上記とは趣意が違う。「気」は「魄」に対する意味での「魂」を指すのか、混同しているかのいずれからしい。きっと「神」も「気」と同じ意味で、全体として「鬼と神の対立」を「魄と魂」のそれとして説いたのだろうが、「むりな付会」だ。
 上記の「形や気に対する神」は「宗教的意義においての魂」を意味するのではない」。
 もっとも、ここでの「神」は「宗教的意義」がない代わりに「道徳的意義」が付与されることがあり、「形と神」を対立させ、一方が片方を「制する」とか論じられるのは、「肉体的欲求を制御」する点に「神」の重要な働きがあるとの考えからだろう。
 他方では、「神」を「肉体に付いたもの」とする考えもあり、「養形」・「養生」の方法として「養神」が語られる。
 「道家」ではここでの「神」を、「虚静無為の境地」にあるものとして用いることが多い。例えば、「荘子」・「刻意篇」の、「純素之道、惟神是守、守而勿失、与神為一、…」。
 つぎに、形容詞として用いられる場合がある。
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 つづける。

2128/津田左右吉・日本の神道(1948)-第1章②。

 津田左右吉・日本の神道(1948)/同全集第9巻(1964)。
 第1章・神道の語の種々の意義。紹介のつづき。
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  付言すべきなのは、①「近ごろ」になって、「第一の意義での神道に国家的権威の表徴たる意義を付与しようとする主張」が生じたことだ。
 このような主張は「思想」として第三~第五の意義の「神道」に含まれ、由来もあることなので第三~第五と「離して」取り扱う必要はない。しかし、「現実の国家的施設または政策に関連させようとする」点に、「この主張の特異性」があることに注意しなければならない。
 この主張は「国家的権威を神道の基礎の上に置いて」、国家に「宗教的意義を持たせよう」とするものの如くだが、そのためには「神道に国家的意義を与える」ことがまず要求されたのだろう。
 この場合に「神道」という呼称を使うのは、かりに「公式のこと」ではないかも知れないとしても、この語を「第一の意義」として用いることが許容されるならば、「一つの主張」ではある。
 しかし、これは「民族的宗教としての神道に本から具わっていることではない」。
 ②「現実に行われている民族的風習としての神の崇拝」や「神社における神の崇拝」を「神道」と称しつつ、その神道から「宗教的性質を排除し、道徳的政治的意義においての典礼」と見ようとする主張もあるようだ。
 これまた歴史的には「第五の意義での神道」に淵源があるとともに、かりに「現実の風習としての神の崇拝と神社における神の祭祀とに宗教的性質がない」とするものならば、「明白なる現在の事実を無視」するものだ。
 ③なお、「日本の民族精神というような観念を神道の名によって表現しようとする傾向」もあるようだ。これはしかし、「神道という語の濫用とすべき」だろう
  さらに付言する。①「原始神道」という語で「上代の」第一の意義の神道を呼ぶ人がいるようだ。しかし、その語で想定されるはずの「発達した神道」が第三~第五の意義の「神道」を指すのならば、その名称は「その実」に即していない。
 ②本居「宣長などの国学者」が説いた「神の道」が、「復古神道」とも称されているようだ。
 しかし、その「古の状態」が上代の第一の意義の神道を指すとすれば、その名もまた「妥当ではない」。宣長らの説示が「神道」と言い得るのは第五の意義のものであり、「上代の民族的風習としての宗教的信仰とは全く違った」ものだからだ。 
 但し、第一の意義の神道も種々の変化が生じて、後世には第三~第五の意義から影響を受け、後者が前者と「ある関連」をもって説かれている場合もある。
 しかし、「民族的風習としての神道は、とくに民間信仰」は、「表面的」にはともあれ「内面的」・「本質的」には後世でも「なお昔のままに」継承されている点が多いのであって、「学者が説くような神道は、それとは関係がはなはだ少ない」。
 また、「学者」の「考説」は民間信仰をもとに「思想的に深めたり体系づけ理論づけたりするする」のではない。「その仕事は、主として古典、とくに神代の巻などの記載に何らかの解釈を加えること」だが、「その神代巻には、…、宗教的要素が甚だ少なく、その少ないものでも民間信仰がそそのままに現れているのではない」。
 のみならず、「その解釈」は「古典そのものに内在する思想を明らかにする」のではなく「古典の記載とは全く別」の、「それとは関係のない思想をそれに付会する」ことにあり、そこに「シナ思想(またはインド思想)の働く理由がある」。
 従って、第三~第五の意義の神道が「現実の民族的宗教としての神道と深い交渉のないものであることは、当然である」。
 この論考の目的の一半はこれらを明らかにすることで、以上を予め述べておくのは、「神道」にも多義のものことが知られていないために、「原始神道」や「復古神道」という呼称が生じるのだろうからだ。
  「上代の民族的宗教がほとんどそのままに後世まで存続しているのは、珍しい」。
 これには種々の理由があろうが、知性の発達と文化の進展時代となって「学者が種々の神道学説を構成した」のも、各時代の学者が「そうしなければ知性の満足ができなかったから」でもある。最近に「民族的風習としての神道」に「強いて種々の思想を付会し、又はむりに」本来の性質と異なる意義の如く「解釈」して「宣伝」されるのも、理由はこの点にあるだろう。
 「宣伝」にはそれなりの意図があるのだろうが、「民族的宗教としての神道が、そのままの姿においては、現代人の知性の欲求とあまりに隔たっていること」も考慮すべきだろう。
 本稿では「主として」第三~第五の意義の「神道」を扱う。第一の意義のものは、第三~第五の意義のそれが「学者の思惟によって形成せられた何らかの教説であるのとは全く性質が違い」、後者こそが「シナ思想の要素を含む」。
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 つづける。

2127/津田左右吉・日本の神道(1948)-第1章①。

 一 津田左右吉全集第9巻(岩波書店、1964)の全体を、津田・<日本の神道>が占める。
 津田による1948年2月記の「まへ書き」によると、1937~39年(昭和12~14年)に雑誌に掲載した「日本の神道に於けるシナ思想の要素」と題する論考を「補訂したもの」。
 そして、たんに「日本の神道」としたのは「呼称としての便宜」で、神道には「仏教」の要素があったり「仏教」に「もとづいてくみたてられた」ものもあるので当たっていないようでもあるが、「主としてシナ思想との交渉の面」でだが「仏教との関連」も考察しているから、こう称しても「著しい僭称とはなるまい」、と述べている。
 二 第一章の表題は<神道の語の種々の意義>。この部分を要約・抜粋する。旧漢字・旧かな遣いは、新体・新遣いに改める。全集第9巻本文1頁以下。
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 「神道」はいろいろな意義で用いられているので、言葉のもつ意義を明らかにしておく必要がある。
 第一に、「古くから伝えられてきた日本の民族的風習としての宗教(呪述を含めていう)的信仰」を意味する。「最古の文献」上の用例はこの意味だ。日本書記の用明天皇紀・孝徳天皇紀での「仏法」に対する「神道」がこれ。
 「民族的風習としての宗教的信仰」には呼称がなかったが、「仏教」の外来・伝搬以降の区別・対抗のためにこの語が新たに作られたた(元来は「シナの成語」)。
 「儒教」は宗教ではなく「道徳・政治の道」を教えるものであっても、「礼」は学ばれず、書物から「その思想」が知られたにすぎない。
 「宗教としての道教」は入ってこなかった。
 「在来の民族的宗教」に対して宗教としての力あるのは「仏教」のみだったので、これに対する「神道」という語が必要だったのだろう。ある程度は前者が「力のあるもの」になって以降に。仏教伝来の最初の頃は、「仏が神といわれていた」ことも考えておく必要がある。
 「仏教」興隆に関する記載の多い推古天皇紀15年に「神祇拝祭」の記事を設けた書記編者に、「仏教に対立するものとしての神道を存在させようとする意図」があったと推測しても大きな間違いではないだろう。用明天皇紀・孝徳天皇紀の記事も、その「精神の現れ」ではないか。
 「いわゆる十七条の憲法」は「在来の民族的宗教を問題とせず、仏教のみを重んじ」、「仏教興隆」の趨勢下にあるが、この趨勢は一方で「民族的宗教を明らかにしようとする態度」を生んだと思われ、それが書記編纂者に継承されたのだろう。
 この意味は以下の諸「神道」概念の「根源」となった。
 第二に、「神の権威、力、はたらき、しわざ、神としての地位、神であること、もしくは神そのもの、などを指していう場合」がある。
 続紀延暦元年「神道難誣」、類聚三代格延暦17年「神道益世」等々。
「第一の意義から転化した」ものと推測される。
 「神代記の記載のごとき神代の説話を宗教的意義のものと見て、そこに語られている神、または神と称せられている人物の行動などを神道と称することもあ」り、釈紀が引用する私記等にもあるが、それも「ここに述べた意義での神道の一例」だと考えるべきだろう。
 第三は、「両部神道」、「唯一神道」、「垂加神道」等という場合のように、「第一の意義での神道に、あるいはむしろ第二に付言したような意義に解せられた神代の説話に、何らかの思想的解釈を加えた、その思想」を意味する。
 これは一種の「神学」、「教説」であって、その思想の違いから「種々の神道」が生じ、各々の「伝承」をもつに至っている。
 但し、「両部神道」のように「特異なる崇拝の儀礼」を行う場合もある。しかし、その「儀礼的側面」を離れても「たんに思想」と見ることが可能な点に、この意味での「神道」という語の存在意義がある。
 第四は、「何れかの神社を中心として宣伝せられているところに特異性があるもの」で、「伊勢神道とか山王神道とか」いうのを例とする。
 「思想的側面」としての「神学」や「教説」があるので、その点の限りでは第三の意義と同じで、「ただその神学なり教説がその神社との特殊の関係において組み立てられているのみ」だけれども、他の側面として「種々の方面に対するその神社の権威が…称揚せられることになる」ので、ここにこの意義での「神道」の「対世間的意義」がある。
 第五は、「日本の神の教え又は定めた、従って日本に特殊な、政治もしくは道徳の規範というような意義」で用いられた「神道」だ。
 「主として儒教の影響を受け、それに対抗するものとしての神道」、すなわち「儒者のいう聖人の道とか先王の道とかに対する意義で『神の道』というものを立てようとするところから生じた」ものだ。
 「徳川時代の学者に最も多く行われた神道の語の用い方」で、「いわゆる国学者が神の道とか皇神の道とか言っているもの」も、これに属する。
 第三・第四の「神道」は第一のそれを継承するもので、「神道」とい文字は「神を祭る道」、最も広義には「神に関する道」とでも解すべきものであって、「神の定め又は教えた道」を意味しない。この第五の意義での「神道」は、これらとは異なる。
 この第五の意義での「神道」は「思想として存在するのみ」で、「本質的には、現実の民族的風習としての神の崇拝とは、ほとんど関係がないと言ってもよいほどであり、また古典の記載からも離れている」。しかし、「いろいろな点でそれらに付会して説かれている」。よって、第三の意義と「はっきりと区別することはできぬ」。
 第六は、「いわゆる宗派神道のそれ」だ。
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 つづける。

2109/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史12。

 「多くの日本人は、今日でもややもすれば、日本文化なるものの最初からの存在を肯定し、外国文化を選択し同化しつつ今日の発達を来したと解釈せんと欲する傾きがある。
 この誤謬は随分古くからあって、国民的自覚が生ずると同時に、日本人はすでにこの誤謬に囚われていたと言ってもよい。
 維新以前の日本文化起源論とも云うべきものは、最後にこの立論の方法でほとんど確定せられていた。
 日本が支那文化を採って、それに従って、進歩発達を来したということは、だいたいにおいて異論はない。
 もっとも徳川氏の中頃から出た国学者達はこれにさえも反対して、あらゆる外国から採用したものは、すべて日本固有の何よりも劣ったものであり、それを採用したがために、我国固有の文化を不純にし、我国民性を害毒したと解釈したものもあった。
 今日では、その種の議論は何人も一種の負け惜しみとしてこれを採用しないが、しかし、自国文化が基礎になって、初めから外国文化に対する選択の識見を備えていたということだけは、なるべくこれを維持したいという考えがなかなか旺盛である。」
 内藤湖南(1866~1934年)は1924年初版・1930年増補の<日本文化史研究>で、上のように述べた、とされる。
 小路田泰直・「邪馬台国」と日本人(平凡社新書、2001)、p.154-5。一文ごとに改行した。
 「日本文化なるものの最初からの存在を肯定し、外国文化を選択し同化しつつ今日の発達を来した」というのは、おそらくは今日の<日本会議>運動の基礎にある考え方であり、信念だろう。
 西尾幹二が2019年に日本「神話」の歴史に対する<優越>性を語るのも、この始原としての<日本神話>=<日本文化>の、とくに当時の中国に対する<優越性>、少なくとも<自立性>を前提としているのかもしれない。
 また、「自国文化が基礎になって、初めから外国文化に対する選択の識見を備えていた」という理解の仕方を内藤湖南は皮肉っているのだが、櫻井よしこのつぎの文章は、日本の「神道」の基礎の上にその「寛容」さをもって「仏教を受け入れた」のだとしている。まさに、内藤湖南がかつて皮肉ったようなことを述べていることになるだろう。
 櫻井よしこ・週刊新潮2019年1月3日=10日号。
 「理屈ではない感性のなかに神道の価値観は深く根づいている。その価値観は穏やかで、寛容である。神道の神々を祭ってきた日本は異教の教えである仏教を受け入れた。
 その寛容さを、平川〔祐弘〕氏は……と較べて、際立った違いを指摘するのだ。」
 また、内藤の上の文章は江戸時代の「国学」も批判しているが、これまた櫻井よしこのつぎの一文をふまえて読むと、きわめて興味深い。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号。
 「壮大な民族の物語、日本国の成り立ちを辿った古事記は、…、日本が独特の文明を有することや、日本の宗教である神道の特徴を明確に示しています。」
 櫻井よしこは日本書記ではなく、(似たようなことが記述されていても)古事記を優先または選択する。
 これは、「国学」者・本居宣長が<純日本性>・<日本固有性>を求めて、日本書記ではなく古事記を選好したことを、おそらく継承しているのだろう。
 日本<神話>といえば漠然としているが、上の一連の<日本会議>的思考と理解の仕方は、つぎのように意外に単純な(・幼稚な)かつ大雑把なものかもしれない。
 日本(・民族)の素晴らしさや固有性・本来性=日本の長い伝統=日本<神話>とくに古事記=天壌無窮の神勅=天皇=万世一系=女性天皇否認。
 最後の部分は、西尾幹二によると<神話>→天皇→女系否認だから、このようになる。
 ところで、白鳥庫吉(1865~1942年)は、上掲書p.120によると、日本<神話>に出てくる(「高天原」・)「夜見」国・「幽界」について、こう書いている。
 「この高天原・夜見国なりが神典〔日本書記〕に見えるばかりで、…観れば、この幽界は太古から国民の信念にあったものと見做すのは困難である。
 思うにこれは、仏教と接触してかの国にいう極楽地獄の思想が影響したのではあるまいか。
 ……、海国に龍城があり、またそこに如意玉があったということは、明らかに仏書から得た知識でなければならぬ。<中略>
 もしもこの考察に誤りがないとすれば、神典の作られたきには仏教が伝搬せられていて、その作者の資料になったということができる。」
 かりにこの白鳥の考察が適切だとすれば、日本書記等の中の「神話」にも、6世紀半ばから後半とされる<仏教伝来>による仏教の影響を受けて作成されたものがあることになる。
 安本美典が邪馬台国=高天原の場所・地名を探求していることを知っていたりするので、さすがに白鳥庫吉を全面的に信頼するとは言わないが、日本神話それ自体が<純粋に日本>的なものではない、つまり中国あるいは東アジアの「伝承」や「物語」の影響を受けているだろうことを一切否定することはできないだろう。
 いかに「日本神話」に根源・始原を求めようとしても、核のない玉葱のごとく、中心は真空で、あるいはそこに空気があってもあっという間に霧散する、そのようなものかもしれない。
 また、「神道」がもともときちんとあって、その「寛容」性のために仏教も伝来できた、という櫻井よしこの「思い込み」も子どもダマしのようなものだろう。
 櫻井は、仏教伝来以前の「神道」とはどのような内容の(と言っても「教義」を確認することはできないのは常識に属する)、どのような儀礼・祭礼のものだったかを、きちんと説明すべきだろう。また、そもそもは、「古事記」=「神道」に立ち戻ることが、なぜ<保守>なのか、という言葉・概念の問題もある。
 内藤湖南、白鳥庫吉の時代からほぼ100年、人間の、あるいは日本人の「知」というのはいかほど「進歩」または「向上」したのだろうかと、感慨を覚える。この二人を絶対視する意図は全くないけれども。
 似たような論点を、明治期後半と、あるいは江戸時代の本居宣長等々と同様に、今日でもあれこれと(櫻井よしこには「単純化」が著しいが)、論じているわけだ。
 かくして、とやや跳ぶが、今年の天皇即位の儀式に「神道」ではなく「中国」風の印象を受けた、とこの欄に私が書いたことも直観的には適切だったように思える。
 天皇・皇室の「内々」の儀礼はともかく、即位の儀礼は、少なくとも文献・絵画等で辿り得るかぎりでの(奈良時代か平安時代初頭の)、決して日本(または「神道」)に固有で純粋なものではなく、仏教かその他の中国思想・儀礼かはともかく、<異国>の雰囲気がすでに混じっていた、それを(純粋な「日本」式または神武天皇の即位礼の様式を確認・創造することができないだめに)明治天皇もまた引き継がざるをえなかった、そして、今上天皇も、ということになるのではないかと思われる。
 聖徳太子の時期から天武・持統の時代に日本は独自の文化性を確立し、主張し始めた、と<日本会議>派の人々は理解したいのかもしれないが、律令制そのものが中国風であり、漢風諡号もまたその後に「継受」または「創造」された。<神仏習合>はすでに、しっかりと根を下ろしていた。
 日本を蔑視する、日本人であることを恥じる、という気は秋月瑛二には全くない。
 ただ、「史実」に知的関心がある。
 最近にあらためて思うのは、日本会議等の「右翼」や一部「保守」派は、明治維新以降約150年の日本の歴史、明治憲法と終戦までのわずか56年間の「明治憲法(・旧皇室典範)体制」を、長い長い日本の「伝統」と意識的に、または無知であるがゆえに、取り違えている、ということだ。
 太政官を筆頭とする律令体制は、形骸化してはいたが、じつは形式的には、明治維新期初頭まで継続していたのではないか、と思われる(きちんとは確認・検証しないで書く)。
 7世紀末ないし8世紀初頭(701年・大宝律令)から<武家政治>を経て19世紀後半まで、何と明らかに1100年以上だ。
 この1100年以上の(少なくとも表面・形式だけは)中国を「模範」とした、少なくとも「影響」を強く受けていた時代と、あるいは<神仏習合>の長い時代と、上の150年や56年の時代とは、どちらか日本の「伝統」なのだろうか。長い「伝統」を否定して切断した、そして神武開闢時代まで「国家」理念を遡らせた画期こそが、明治維新・明治新政府の樹立だった。それは<革新>であって、<保守>でも何でもない。
 また、ナショナリズム発揚ではあるが、ナショナリズムの利用は共産主義・社会主義国家でもあったことで(また、日本共産党もある意味では正確に反米ナショナリズム政党で)、西尾幹二・保守の真髄(徳間書店、2017)の理解するように「共産主義=グローバリズム」では全くない、ということは別に論及する。
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 小路田泰直・「邪馬台国」と日本人(平凡社新書、2001)は、「邪馬台国」関係で本棚(というよりも広大な?書庫)から発見したもので、著者の40歳代の書らしく元気がよい。
 「邪馬台国」関連でも面白く、白鳥庫吉(その指導を受けたのが津田左右吉)と内藤湖南の各々による北九州説と畿内説の主張も、各々の「東洋史学」の立論の論脈で位置づけられる必要があることが分かる。
 また、小路田に従えば、明治期以降の敗戦時まで、①(純)日本主義、②アジア主義、③皇国史観、という歴史観の変遷が見られるらしい。②は「大東亜」戦争となり③に直結するのだろう、きっと。
 いずれにせよ、「皇国史観」の時代が、明治期以降をすべて占めていたわけでもない。
 八幡和郎は「新皇国史観」という語を2011年の書の副題に使っていたが、今どき「皇国史観」という語を使うこと自体が<軽率すぎ>、この人物は「歴史」に本当は無頓着であることを示しているだろう。
 小路田(歴史学者、1954-)による歴史学界・アカデミズム(のボスたち?)批判もすこぶる面白いが、機会があれば触れる。

0553/「言挙げ」したくはない、しかし。-八木秀次とは何者か・2。

 一 渡部昇一=稲田朋美=八木秀次・日本を弑する人々(PHP、2008)の中で、八木は、改正教育基本法が「我が国と郷土を愛する…態度を養う」ことを理念の一つと定めたにもかかわらず、今年(2008年)3月の学習指導要領改訂には法律改正の趣旨が反映されていないと批判的に指摘している(p.245-)。産経新聞の3/19「正論」欄でも、「わが国の伝統と文化を語る上で重要な天皇も、…中学校では社会科公民で『…〔略〕について理解させる』と記述するにとどまり、改善点はなく、天皇への敬愛の念についての言及もない」などと批判している。
 「日本教育再生機構」の理事長でもあるという八木は、きっと、日本という「国」の成り立ちや天皇(制度)の歴史-<古代史>ということになろう-についても該博な知識とそれらの「教育」に関する適切な見解をもっていそうだ、と言えそうだ。
 二 しかし、中西輝政=八木秀次・保守はいま何をなすべきか(PHP、2008)の中で、私には奇妙と思えることを述べている。
 「日本の神話を読んで『神武天皇は実在したのか』『百二十五歳まで生きるわけがない』と言っても意味がない」。「建国神話とは、建国の精神に立ち帰ることで国民がまとまればいいわけですから」(p.231)。この二つめの「」は度外視しよう。
 上の一つめの「」の、①「神武天皇は実在したのか」、②「百二十五歳まで生きるわけがない」、と言っても「意味がない」とは、いったいいかなる意味なのだろうか。ここで彼は、何を主張したいのだろうか。
 常識的には、日本(建国)神話の<真実性>を論じても(あるいはその<虚偽性>を指摘しても)「意味がない」、という意味であるように読める。「神話」は「神話」として<理解>すればよい(又は<物語>として「信じ」ておくべきだ)、というような意味だと思われる。
 八木は、①「神武天皇」の実在性と②初期の諸天皇の<生存年数>を論じても「意味がない」と発言している。そして、明言はないが、どうやら、①「神武天皇」は実在しない(つまりこの点の神話はウソだ)、②生存年数「百二十五歳」の天皇は存在しない(つまりこの点の神話はウソだ)と八木は理解しているものと推察される。少なくとも、このように解釈されてもやむをえない発言の仕方をしている。
 そうだとすると、重大な疑問が生じる。すなわち、①の「神武天皇」の実在性の問題と、②同天皇を含む初期の諸天皇の<生存年数>(又は<在位年数>)の問題とを、こうして同次元の問題として論じるべきではない、と思われるからだ。一括して議論している八木は誤っている。つまり、古代史に関する知識が十分ではない。
 ここで述べようとしていることについて、安本美典・日本神話120の謎-三種の神器が語る古代世界(勉誠出版、2006)の「はじめに」には、なかなか興味深いことが書かれている。あの、「左翼」の立花隆が、2005年に、安本美典の別の本、安本・大和朝廷の起源-邪馬台国の東遷と神武東征伝承(勉誠出版、2005)を読んでの感想を、次のように某週刊誌に書いた、というのだ。以下、上の第一の著のp.8-9の引用からさらに一部引用する。
 「この本〔上の第二の2005年の著-秋月〕を読むまでは、私も通説に従って、神武天皇などというものは、神話伝説上の人物にすぎず、リアルな存在では全くないと思っていた。/しかし、この本を読んだ後はちがう。神武天皇伝説の背景には、骨格において伝説に近い史実があったにちがいないと思っている。/…私はこの本によって、古代史にまつわる多くの謎のモヤモヤがきれいに整理され、取りのぞかれた思いがして、大筋これで結構と思っている」。
 八木秀次の古代史・日本神話・初期天皇に関する知識は、この2005年時点の立花隆以前の状態にあるのではないか。私が安本美典の諸説を知ったのはたぶんん20年程度以前のことだが(なお、安本美典・神武東遷(中公新書)は1968年刊)、神武天皇にあたる人物は実在しただろう、大和盆地への「東遷」伝承は相当に史実を反映しているだろう、と(安本美典の説得力ある議論の影響をうけて)思っている。
 従って、第一に、「神武天皇は実在したのか」と言っても「意味がない」ということは全くなく、<実在した>と断固として主張してよいのだ(もっとも、安本説ではないが「崇神天皇」等との同一人物説等もある。だが、この説も「神武天皇」にあたる人物の実在を否定することにならない)。
 一方、初期の天皇の「生存年数」(=寿命)が記紀において異様に長く書かれていることはよく知られている。神武天皇は日本書記によると127年(古事記によると137年)、その他、開化天皇115(63)、崇神天皇120(168)、垂仁天皇140(153)等々。
 なぜこのように(神武天皇の即位が紀元前660年となるように)長くしたのかには辛酉革命説等の諸説あるが、これらの常識的に見て長すぎる寿命(生年・没年)の記載は<信じられない>・<ウソだ>と言って何ら差し支えない、と考えられる。
 従って第二に、「百二十五歳まで生きるわけがない」と言っても「意味がない」ということは全くなく、むしろ「意味がある」。
 八木はこの生存年数について、ひょっとして「神話」として<理解>すればよい、又は<物語>として「信じ」てよい、と言うのかもしれないが、そのような<公教育>をしても、小学校も高学年くらいの生徒になれば<理解>も<信じる>こともできず、「建国神話」によって「国民がまとま」ることをむしろ妨げることになるものと思われる。
 以上のとおり、八木秀次の古代史・天皇の歴史に関する知識と見解は怪しいものだ、というのが私の感想だ。
 三 中西輝政=八木秀次・保守はいま何をなすべきか(PHP)に再び戻ると、もう一点、やや奇妙に感じたことがある。すなわち、中西輝政は日本史を学ぶ「最終目標」は「神話が体得できる」ことだと言っているが(p.228)、八木はこの指摘を「学ぶ」優先順序のごとく理解しているのではないだろうか、ということだ。
 もう少し詳しく紹介すると、八木は、「国のかたちがはっきり現れる時代」(「継体天皇から聖徳太子を経て天武天皇に行き着く流れ」)から「歴史を見て」、「学んでいった後で」、「最後は神話に行き着く」と述べている。渡部昇一・稲田朋美との上掲共著p.247では、日本の「国のかたち」が「ようやく固まった」「天武天皇・持統天皇」の時代の「建国の精神」の内容を述べており、この時期をまずは「学ぶ」ことが重要だと考えているようだ。
 「学ぶ」順序などは些細な問題かもしれないが、関心を惹くのは、「天武天皇・持統天皇」の時代又はそこまでに至った「継体天皇」の時代以前について、八木は何も語ろうとしていない、ということだ。「応神天皇」やその母とされている「神功(じんぐ)皇后」にも一切の言及がない。
 日本の「建国の精神」でもよいし、日本人の「精神」・「心持ち」でもよいが、それらを知るために、「継体天皇」の時代以前に関する記紀等の叙述をこのように軽視してよいのだろうか。仏教が伝来するまで日本(人)に特有の<心情・信条の体系>だったと思われる<神ながらの道>=<神道>に立ち入らないかぎり、日本人の「精神」・「心持ち」、そして「建国の精神」も理解できないのではないか。
 安本美典は反マルクス主義者であり、「津田左右吉流の文献批判学」の批判者であり、(私の造語だが)「反アカデミズム」者でもある。その安本・日本神話120の謎(上掲)p.21の表現によると、戦前に迫害された「津田の諸説は、第二次大戦後の、懐疑的風潮の中で、はなばなしくよみがえ」り、「わが国の史学界において、圧倒的な勢力をしめ」、そして「戦時中の、神話の全面肯定から、全面否定へと、はげしいうつりかわり」を見せた。
 八木秀次の精神世界は、今も戦後の神話「全面否定」論の影響を受けつづけているのではなかろうか。安本がいう、ギリシャ神話・旧約聖書物語よりも「日本神話へのなじみがすくない世代」(上掲書p.21)に属したままなのではないだろうか。
 ふつうの日本人、とくに若い世代であれば、上のことは珍しくもなく、批判するのは酷かもしれない。だが、「保守はいま何をすべきか」と大上段に振りかざし、「国…を愛する」態度や天皇に関する<教育>について発言している八木が、今回記した程度の「日本の神話」に関する知識と関心しか持っていないとすれば、ほとんど<詐欺>に等しいのではないか。
 なお、八木の、天皇の宮中祭祀に関する知識が不十分である(又は誤っている)と見られることについては、すでに述べた。

ギャラリー
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