秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

法学部

2314/大学・法学部の教員人事と日本共産党。

  池田信夫が数年前のブログで、自然科学と違って<文科系学問>の評価はむつかしく、経済学を別として、法学部・文学部の(教員の)人事は「コネ」による、というようなことを批判的に書いていた。経済学を除き法学部・文学部の人事は「コネ」、という部分に記憶間違いは(たぶん)ない。
 明らかに日本共産党員だとみられ、民科法律部会の理事・副理事長の小沢隆一(小澤隆一)は、法学系教員がたぶん1名(多くて2名)と思われる東京慈恵会医科大学の教授に、何故就任しているのだろうか。もっともこれは法学部の話ではない。
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  第一。ある大学・法学部である科目の教員の人事があり、特定の候補者について人事の検討を開始するか否かについての予備的な審査があったとき、審査(査読)委員の一人だった日本共産党の党員と思しき人物は、そもそも<論理展開>が論文のレベルに達していないとして正規手続きに移行するのに反対した。
 教授会の(出席者)全員による無記名投票で、僅か一票だけ賛成票が多く(予備段階なので票数はそのときは公表されなかったらしい)、人事は最後まで(提案者には結果は首尾よく)進んで終了した。
 のち、別の日本共産党の党員と思しき教員は、<あと一票だった(らしい)。惜しかったなぁ>とつぶやいて、残念がった。
 これは私が関係者から直接に聴いた話。その関係人物は「賛成(可)」票を投じたらしい。
 第二。ある大学・法学部である科目の教員人事があった。特定の候補者について人事の検討を開始するか否かについての予備的な審査があったとき、審査(査読)委員の一人だった日本共産党の党員と思しき人物は、<何故今どき、こんな主題の研究なのか>等と発言し、正規手続きに移行するのに反対した。
 提案している当該科目の関係者たちは善後策を話し合い、このままでは正規の審査後の採用決定(学部教授会としての)に必要な3分の2以上の多数を獲得できないだろうとやむなく判断し、提案自体を取り下げ、正規手続に移行しなかった。
 これも、私が関係者から直接に聴いた話。
 第三。ある大学・法学部である科目の教員人事があった。特定の候補者について人事の検討を開始するか否かについての予備的な審査があったとき、審査(査読)委員の一人だった日本共産党の党員と思しき人物は、外国語の読み方に誤りが多い等と発言して反対し、別の日本共産党シンパらしき(たぶん民科法律部会所属の)審査(査読)委員の一人は、外国の—と—は異なる「思想」であるのに並列するとは何事かという趣旨の発言をして、これまた反対した。
 提案自体の取り下げはなく正規手続に移行したが、採用決定に必要な3分の2以上の多数に1票だけ不足し、「正規に」提案が却下された。
 最初は賛成の様子だったが、最終的には「反対(否)」に回った、別の日本共産党シンパらしき(たぶん民科法律部会所属の)教員もいたらしい。
 これも、私が関係者から直接に聴いた話。
 第四。ある大学・法学部である科目の教員人事があった。特定の候補者について人事の検討を開始するか否かについての予備的な審査があったとき、複数の日本共産党員と思しき人物が反対し、結局この場合は、採用決定に必要な3分の2以上の多数に2票不足し、提案が否決された。
 これも、私が関係者から直接に聴いた話。
 その関係者が話の中で「ニッキョーというところ」という言葉を挿んでいたので何のことかといぶかった。だが、なんと、ニッキョー=日共=日本共産党で、「日本共産党」グループが反対したことを、その関係者は知らなかった。
 第五。ある大学・法学部での教員人事一般に関する話。
 日本共産党の党員+その硬いシンパのグループの人数と、これに反対する(迎合しない)グループの人数がほぼ3分の1ずつで拮抗している。
 どちらも「過半数」すら獲得することができず、人事がなかなか進まない。
 これも、私が関係者から直接に聴いた話。
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  20歳くらい年上の教員がかつて言っていたことを思い出す。
 「(教授会構成人数のうち)彼ら(日本共産党員)の数を、3分の1以上にしてはいけない。」
 3分の1があれば、たいていの教員人事は、可でも否でも、「日本共産党員グループ」の意のままになるだろう。

0374/阪本昌成・法の支配(勁草、2006)-01。

 阪本昌成・法の支配-オーストリア学派の自由論と国家論(勁草書房、2006.06)、本文計254頁、をメモしながら読んでいく。
 阪本昌成は、「ハイエキアン」を自称する、わが国には珍しい憲法学者だ(広島大学→九州大学)。この人の本の二つをこの欄を利用しつつ読んだことがある。その当時に想定した時期がかなり遅れたが、三冊めに入る。以下、数十回をかけてでも、要約を続ける。
 序章・自由の哲学(p.1~p.5)
 1・公法学における体制選択
 前世紀は資本主義と社会主義の対立の世紀で、この対立・論争は「公法学」にも影を落とした。日本の公法学者はこの体制選択問題を「常に意識し」つつも「あからさまなイデオロギー論争を巧みに避け」て、個別の解釈論や政策提言に「各自の思想傾向を忍ばせ」てきたが、「経済市場と国家の役割への見方」には奇妙な一致があった。すなわち、通常は国家の強制力を警戒する一方で、経済市場への国家介入には寛容だった。
 体制選択の一候補は社会主義で、快い響きをもっていたため、自由主義経済体制(資本主義)の優越を「公然と口にする公法学者」には「右派・保守」とのレッテルが貼られた。だが、社会主義国家が自己崩壊し体制選択問題が消失した今では、「リベラリズムの意義、自由な国家の正当な役割、市場の役割」を問い直すべきだ。その際のキーワードは、「政治哲学」上の「自由」、「法学」上の「法の支配」。
 2・自由の究極的正当性
 自由の究極的正当性につき、道徳哲学者は論者により「人間性」や「内心領域の不可侵性」を挙げ、関心を「政治体制」の中での自由に向ける論者は、人により「リベラリズム」の究極的正当性を「正義」、「効用」、「権利」の諸観念に求めた。
 上の問題の解は未だない。自由・リベラリズムの普遍的意義を問い究極的正当性を根拠づけるのは知的に傲慢な態度で、この問題をこの書で論じはしない。自由と同等以上に論争的な概念の「平等」でもって「自由」を理解するドゥウォーキンを支持はできない。
 3・強制力の最小化
 この書の論点を「国家の統治権力と自由の関係」に限定し、「自由への強制を最小化するには、社会的・政治的制度はどうあるべきか」を論じていく。この「制度」は「国家、政府、法、政体、市場、習律、伝統等」を含む。その中でも、「法の支配」という「法制度」と「自由市場」という「経済制度」に目を注ぐ。そうした際、「憲法哲学の書でもあろうとする本書」が「国家の役割・政府権限の限界」に言及するのは当然のこと。
 主要な関心事は、国家は積極的に何をすべきかではなく、何をすべきでないか、だ。在来の国家論は、何らかの価値を積極的に追求しがちだが、そこでの諸価値は茫洋としており、「輪郭のない責務」を(われわれに)負わせうる。本書は、「われわれに明確な責務だけを負わせる国家とその任務はどうあるべきか」を語る。
 本書は国家を「一定の道徳目標を実現するための集団ではなく、個々人に保護領域を与えて、個々人の道徳的目標を実現しやすくするための装置」と把握している。そして、道徳的価値の一つの「自由」を「国家統治のなかで極大化するための接近法」に言及する。この根源的・回帰的な問いを突きつけてきたのは、「政治学」での「リベラリズム」、「憲法学」での「近代立憲主義」だった。
 次章の課題は「現代国家における政府の任務」を検証すること。
 今回は以上まで。
 諸外国の理論・思想には(憲法学を超えて)幅広い知識をもちそれらに依りつつ思索しているようだが、日本の古典への言及がたぶん全くないのは最近にこの欄で書いたことを思い出すといささか鼻白むところはある。また、はたして現実の日本国家・日本社会が阪本の主張する方向に変わりうるかは疑問なしとしない。しかし、「大多数の」憲法学者と異なる思考をしていることは間違いないと見られるので、知的刺激を得るためだけにでも、関心をもって読んでみよう。

0041/日本共産党・党員学者は赤旗・前衛にのみ執筆しているか。

 昨秋にネットを散策していると、5年ほど前の「かつては渡辺洋三がそうであったが、最近では樋口陽一がもっとも多く一般向けの法学書を書いているのではないだろうか」という書き込みの一文に出くわした。
 樋口陽一著にはいずれ触れることとして、「渡辺洋三」という名で思い出したことがある。約20年前だろう、30歳ほど年上の人が、<渡辺洋三は日本共産党の「大学部長」だ>と私に言った。正確に「大学部長」だったかの自信はないが、また私に真偽を確かめる術はなかったが、おそらく事実で、大学所属の教員・研究者党員のトップ、「大学(学術)政策」の最高責任者だろうと想像した。渡辺洋三(1921-)は世間的な知名度は必ずしも高くないが、1970年代は東京大学社会科学研究所の教授だった。
 昨年8月に、渡辺洋三・日本社会はどこへ行く(岩波新書、1990)を通読してみたのだが、西側先進諸国よりも日本は「遅れて」おり、日本の「特殊的体質」等を除去しての日本社会の「民主的改革」が不可欠だとしていた。西欧との差違を強調して=日本を批判するための方便としての西欧なる基準をもち出して民主主義の徹底を主張するのは、まさしく日本共産党の路線そのままで(「遅れた」日本には「民主主義革命」が必要なのだ)、その枠内での具体的諸指摘・ 諸主張をしていた。あらためて手にとってみると、「西側の国で、日本くらい市民にとって自由のない国はない」と平然とのたまっている(p.234)。
 ドイツやアメリカには共産党はなく、一定の要件に該当する共産主義政党は結成・設立自体が禁止されているはずだ。しかし、日本では、日本共産党のれっきとした幹部が国立大学の教授を務めることができ、一般国民むけ書物を(岩波書店や朝日新聞社等の出版社を通じて)自由に出版でき、自由に(共産党的)意見を述べられる。コミュニスト、共産党員にとって「日本くらい自由のある国はない」のではなかろうか。国公立大学教員―私立大学を含めてもよいが―のうち共産党員が占める比率は、西側先進諸国中で日本が最大ではなかろうか。
 岩波新書に限らず、朝日新書、ちくま新書等々の「一般」向け書物を日本共産党員がその旨を隠して執筆している例は、歴史・経済部門も含めて、多数あるはずだ。かかる実態は広く知られておいてよいと思われる。
 1996年初めに首相は村山富市から橋本龍太郎に変わったのだったが、この頃に最終的執筆があったと思われる渡辺洋三・日本をどう変えていくのか(岩波新書、1996.03)も、見てみた。最後の方に当時の政局又は政党状況を前提にした各党への批判的コメントがあり、自民党、小沢党首の新進党、新党さきがけ、村山退陣とともに日本社会党から改名した社会民主党に触れている。しかし、何と日本共産党には何も言及していない。日本共産党という言葉は一回も出てこず、日本共産党が最も優れているとか自分の主張と近い(同じ)という旨も書かれていない! このことは、当時衆議院に15議席を占めていた共産党を小党という理由で無視したわけではなく、渡辺の主張が日本共産党のそれであることを問わず語りに証明しているようなものだろう。その意味で、とても面白い部分をもつ本だ。
 今は大学の入学式の季節だ。むろんその中には、法学部に進学した若者もいる。岩波新書は一定年齢以上の者にはまだ「権威」があるようで、そのような感覚の両親をもつ新入の大学生は、岩波新書の中から基礎的教養書又は入門書を購入しようとするかもしれない。法学(法律学)関連では、上に言及した二つを重複を避けて除外しても、渡辺洋三・法とは何か(1998)、同・法を学ぶ(1986)、同ほか・日本社会と法(1994)がある。
 但し、いかにマルクス主義又は共産党に独特の用語は出てこなくとも、上に述べたように、渡辺洋三はれっきとした日本共産党員だと推測される(樋口陽一氏の岩波新書もあるが、「基礎的教養書・入門書」にはならないだろう)。
 日本史関係では羽仁五郎・日本人民の歴史(1950)はさすがにもう絶版だが、井上清・日本の歴史(上)(中)(下)(1963-66)はまだ売られているようだ。井上清は元日本共産党員、のち「新左翼」支持のマルクス主義歴史学者だ。
 渡辺洋三や井上清の本を読むとマルクス主義者にならなくとも、少なくとも「反体制」、「反権力」的雰囲気だけはしっかりと身につけるに違いない。それが、岩波新書、そして岩波書店の出版意図だとも言える。読者本人や勧める親等の勝手なことではあるが、やや老婆心ながら。
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