池田信夫ブログマガジン2023年7月24日号。
一 この号にある、フランクフルト学派(アドルノ、ホルクハーイマーら)と啓蒙・合理主義の関係に関する叙述も興味深いのだが、秋月瑛二にとって面白いのは、<名著再読「Cages of Reason」>の中の文章だ。
最初にある、英米法と大陸法、英米型と日仏型の官僚機構の違いは1993年の原本著者の、日本についての研究者でもあるらしいSilberman の叙述に従っているのかもしれない。
だが、「日本の官僚機構は『超大陸法型』」という中見出しの後の文章は、池田信夫自身の考えを述べたものだろう。
以下、長くなるが、引用する。一文ごとに改行。本来の段落分けは----を挿入した。
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二 「日本の法律は、官僚の実感によると、独仏法よりもさらにドグマティックな超大陸型だという。
ルールのほとんどが法律や省令として官僚によってつくられ、逐条解釈で解釈も官僚が決め、処罰も行政処分として執行される。
法律は『業法』として縦割りになり、ほとんど同じ内容の膨大な法律が所管省庁ごとに作られる。
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このように省令・政令を含めた『法令』で決まる文書主義という点では、日本の統治機構は法治主義である。
これはコンピュータのコードでいうと、銀行の決済システムをITゼネコンが受注し、ほとんど同じ機能のプログラムを銀行ごとに作っているようなものだ。
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しかも内閣法制局が重複や矛盾をきらうので、一つのことを多くの法律で補完的に規定し、法律がスパゲティ化している、
一つの法律を変えると膨大な『関連法』の改正が必要になり、税法改正のときなどは、分厚い法人税法本則や解釈通達集の他に、租税特別措置法の網の目のような改正が必要になるため、税制改正要求では財務省側で10以上のパーツを別々に担当する担当官が10数人ずらりと並ぶという。
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こういうレガシーシステムでは、高い記憶力と言語能力をそなえた官僚が法律を作る必要があるが、これはコンピュータでいえば、デバッガで自動化されるような定型的な仕事だ。
優秀な官僚のエネルギーの大部分が老朽化したプログラムの補修に使われている現状は、人的資源の浪費である。
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問題はこういう官僚機構を超える巨視的な意思決定ができないことだ。
実質的な立法・行政・司法機能が官僚機構に集中しているため、その裁量が際限なく大きくなる。
国会は形骸化し、政治家は官僚に陳情するロビイストになり、大きな路線変換ができない。
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必要なのはルールをモジュール化して個々の法律で完結させ。重複や矛盾を許して国会が組み換え、最終的な判断は司法に委ねる法の支配への移行である。
これは司法コストが高いが、官僚機構が劣化した時代には官僚もルールに従うことを徹底させるしかない。」
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三 学術研究論文の一部として書いたものではない、印象、感想にもとづく提言的文章だろう。
だが、テーマは重くて、多数の論点に関係している。
これを素材にして、思いつくまま、気のむくまま、雑文を綴る。
第一。「ルールのほとんどが法律や省令として官僚によってつくられ、逐条解釈で解釈も官僚が決め…」。
法律の重要な一つである刑法について、法務省?の「解釈通達」はない。刑法施行政令も法務省令〈・国家公安委員会規則)もない。法律の重要な一つである民法をより具体化した、その施行のための政令も省令もない。民法特別法の性格をもつことがある消費者保護関係法律には、関係省庁の「解釈」または「解説」文書があるかもしれない。かりにあっても、民法とその特別法の最終的解釈は裁判所が判断する。
池田信夫が念頭に置くのは、雑多な<行政関係法令>だろう。つまり、「行政」執行を規律する「法令」だろう。<行政法令>を適用・執行するのは(あとで司法部によって何らかの是正が加えられることもあるが)先ずは「行政官僚」・「行政公務員」あるいは中央省庁等であることが、行政諸法が刑事法や民事法と異なる大きな特色だ。
その<行政法令>・<行政関係法令>を、私は「行政法規」と称したい。
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「行政法規」は、法律、政令、省令に限られない(憲法典は除外しておく)。
伊東乾はかつて団藤重光(元最高裁判事、東京大学教授)と交流があって「法的(法学的)」思考にも馴染みがあるようだ。そして、いつか、「告示」で何でも決められるものではないと、「告示」の濫用を疑問視していた。安倍晋三の「国葬」決定の形式に関してだったかもしれない。
発想、着眼点は正当なものだ。だが、「告示」を論じるのはむつかしい。ここでは、「告示」には、「法規」たるものと、たんに<伝達・決定>の形式にすぎないものの二種がある、とだけ書いておく。
学校教育法33条「小学校の教科に関する事項は,第29条及び第30条の規定に従い,文部科学大臣が定める」→学校教育法施行規則(文部科学省令)52条「小学校の教育課程については,この節に定めるもののほか,教育課程の基準として文部科学大臣が別に公示する小学校学習指導要領によるものとする」。
こんな包括的で曖昧な根拠にもとづいて「学習指導要領」が文部科学大臣「告示」の形式で定められている。そして、最高裁判所判例は「学習指導要領」の「法規」性を肯定している。中学校・高校にはそれぞれ同様の規定が他にある。<日本の義務教育の内容>は、この「告示」によって決められている。
教科用図書(教科書)「検定」についても似たようなもので、省令でもない「告示」が幅をきかし、最高裁判所も「委任」・「再委任」のあることを肯定し、その「法規」性を前提にしている。
「都市計画」その他の一般的に言えば<土地利用・建築の規制のための「地域・地区」指定行為>の法的性格も怪しい。最高裁判所判例は都市計画の一類型の「処分」性(行政事件訴訟法3条参照)を否定しているので、そのかぎりで、「法規範」に類したものと理解していると解される。
以上のほか、地方公共団体の議会が制定する「条例」や知事・市町村長の「規則」もほとんどが「行政法規」だ。条例には、法律(または法令)の「委任」にもとづくものと、そうでない「自主条例」とがある(憲法94条参照)。
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これら「行政法規」に行政官僚は拘束される。但し、その原案を「行政官僚」が作成することがほとんどだろう。法律ですら、内閣の「法律案提出権」(内閣法5条参照)を背景として、行政官僚が作成・改正の任に当たっていることは、池田信夫が書いているとおり。
なお、日本国憲法74条「法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする」。
これは、興味深い、かつ重要な憲法条項だ。
法律・政令には「主任の国務大臣」が存在し、それの「署名」のあとで「内閣総理大臣」が「連署」すると定めている。憲法は「法律の誠実な執行」を内閣の職責の一つとするが(憲法73条第一号)、法律・政令の「所管(主任)の国務大臣」の責任が実質的には「内閣総理大臣」よりも大きいとも読める憲法条項であって、各省庁「縦割り」をむしろ正当化し、その背景になっている(ある程度は、明治憲法下からの連続性があるだろう〉。
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一 この号にある、フランクフルト学派(アドルノ、ホルクハーイマーら)と啓蒙・合理主義の関係に関する叙述も興味深いのだが、秋月瑛二にとって面白いのは、<名著再読「Cages of Reason」>の中の文章だ。
最初にある、英米法と大陸法、英米型と日仏型の官僚機構の違いは1993年の原本著者の、日本についての研究者でもあるらしいSilberman の叙述に従っているのかもしれない。
だが、「日本の官僚機構は『超大陸法型』」という中見出しの後の文章は、池田信夫自身の考えを述べたものだろう。
以下、長くなるが、引用する。一文ごとに改行。本来の段落分けは----を挿入した。
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二 「日本の法律は、官僚の実感によると、独仏法よりもさらにドグマティックな超大陸型だという。
ルールのほとんどが法律や省令として官僚によってつくられ、逐条解釈で解釈も官僚が決め、処罰も行政処分として執行される。
法律は『業法』として縦割りになり、ほとんど同じ内容の膨大な法律が所管省庁ごとに作られる。
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このように省令・政令を含めた『法令』で決まる文書主義という点では、日本の統治機構は法治主義である。
これはコンピュータのコードでいうと、銀行の決済システムをITゼネコンが受注し、ほとんど同じ機能のプログラムを銀行ごとに作っているようなものだ。
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しかも内閣法制局が重複や矛盾をきらうので、一つのことを多くの法律で補完的に規定し、法律がスパゲティ化している、
一つの法律を変えると膨大な『関連法』の改正が必要になり、税法改正のときなどは、分厚い法人税法本則や解釈通達集の他に、租税特別措置法の網の目のような改正が必要になるため、税制改正要求では財務省側で10以上のパーツを別々に担当する担当官が10数人ずらりと並ぶという。
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こういうレガシーシステムでは、高い記憶力と言語能力をそなえた官僚が法律を作る必要があるが、これはコンピュータでいえば、デバッガで自動化されるような定型的な仕事だ。
優秀な官僚のエネルギーの大部分が老朽化したプログラムの補修に使われている現状は、人的資源の浪費である。
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問題はこういう官僚機構を超える巨視的な意思決定ができないことだ。
実質的な立法・行政・司法機能が官僚機構に集中しているため、その裁量が際限なく大きくなる。
国会は形骸化し、政治家は官僚に陳情するロビイストになり、大きな路線変換ができない。
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必要なのはルールをモジュール化して個々の法律で完結させ。重複や矛盾を許して国会が組み換え、最終的な判断は司法に委ねる法の支配への移行である。
これは司法コストが高いが、官僚機構が劣化した時代には官僚もルールに従うことを徹底させるしかない。」
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三 学術研究論文の一部として書いたものではない、印象、感想にもとづく提言的文章だろう。
だが、テーマは重くて、多数の論点に関係している。
これを素材にして、思いつくまま、気のむくまま、雑文を綴る。
第一。「ルールのほとんどが法律や省令として官僚によってつくられ、逐条解釈で解釈も官僚が決め…」。
法律の重要な一つである刑法について、法務省?の「解釈通達」はない。刑法施行政令も法務省令〈・国家公安委員会規則)もない。法律の重要な一つである民法をより具体化した、その施行のための政令も省令もない。民法特別法の性格をもつことがある消費者保護関係法律には、関係省庁の「解釈」または「解説」文書があるかもしれない。かりにあっても、民法とその特別法の最終的解釈は裁判所が判断する。
池田信夫が念頭に置くのは、雑多な<行政関係法令>だろう。つまり、「行政」執行を規律する「法令」だろう。<行政法令>を適用・執行するのは(あとで司法部によって何らかの是正が加えられることもあるが)先ずは「行政官僚」・「行政公務員」あるいは中央省庁等であることが、行政諸法が刑事法や民事法と異なる大きな特色だ。
その<行政法令>・<行政関係法令>を、私は「行政法規」と称したい。
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「行政法規」は、法律、政令、省令に限られない(憲法典は除外しておく)。
伊東乾はかつて団藤重光(元最高裁判事、東京大学教授)と交流があって「法的(法学的)」思考にも馴染みがあるようだ。そして、いつか、「告示」で何でも決められるものではないと、「告示」の濫用を疑問視していた。安倍晋三の「国葬」決定の形式に関してだったかもしれない。
発想、着眼点は正当なものだ。だが、「告示」を論じるのはむつかしい。ここでは、「告示」には、「法規」たるものと、たんに<伝達・決定>の形式にすぎないものの二種がある、とだけ書いておく。
学校教育法33条「小学校の教科に関する事項は,第29条及び第30条の規定に従い,文部科学大臣が定める」→学校教育法施行規則(文部科学省令)52条「小学校の教育課程については,この節に定めるもののほか,教育課程の基準として文部科学大臣が別に公示する小学校学習指導要領によるものとする」。
こんな包括的で曖昧な根拠にもとづいて「学習指導要領」が文部科学大臣「告示」の形式で定められている。そして、最高裁判所判例は「学習指導要領」の「法規」性を肯定している。中学校・高校にはそれぞれ同様の規定が他にある。<日本の義務教育の内容>は、この「告示」によって決められている。
教科用図書(教科書)「検定」についても似たようなもので、省令でもない「告示」が幅をきかし、最高裁判所も「委任」・「再委任」のあることを肯定し、その「法規」性を前提にしている。
「都市計画」その他の一般的に言えば<土地利用・建築の規制のための「地域・地区」指定行為>の法的性格も怪しい。最高裁判所判例は都市計画の一類型の「処分」性(行政事件訴訟法3条参照)を否定しているので、そのかぎりで、「法規範」に類したものと理解していると解される。
以上のほか、地方公共団体の議会が制定する「条例」や知事・市町村長の「規則」もほとんどが「行政法規」だ。条例には、法律(または法令)の「委任」にもとづくものと、そうでない「自主条例」とがある(憲法94条参照)。
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これら「行政法規」に行政官僚は拘束される。但し、その原案を「行政官僚」が作成することがほとんどだろう。法律ですら、内閣の「法律案提出権」(内閣法5条参照)を背景として、行政官僚が作成・改正の任に当たっていることは、池田信夫が書いているとおり。
なお、日本国憲法74条「法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする」。
これは、興味深い、かつ重要な憲法条項だ。
法律・政令には「主任の国務大臣」が存在し、それの「署名」のあとで「内閣総理大臣」が「連署」すると定めている。憲法は「法律の誠実な執行」を内閣の職責の一つとするが(憲法73条第一号)、法律・政令の「所管(主任)の国務大臣」の責任が実質的には「内閣総理大臣」よりも大きいとも読める憲法条項であって、各省庁「縦割り」をむしろ正当化し、その背景になっている(ある程度は、明治憲法下からの連続性があるだろう〉。
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