秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

江藤淳

1368/歴史・政治・個人04-01ー「滝口までの生」。

 一 関川夏央・人間晩年図鑑1995-99年(岩波、2016)を一瞥していて江藤淳(-1999)の項に達したとき、「ナイアガラの瀑布が落下する一歩寸前の水の上で、小舟を漕いでいるようなもの」という表現に出くわした。江藤の妻が数ヶ月後に亡くなるらしいことを江藤が知った時点でのその妻と江藤自身の状況を表現している。江藤淳自身のたぶん1999年刊行の書からの引用部分の一部だ。
 なぜ印象に残ったかというと、鋭いアフォリズムに溢れた西尾幹二・人生について(新潮文庫、2015/原書2005・同全集第14巻にも所収)の「死について」の中に、かなり似た表現があるからだ。どちらが先かという話をしているのではない。
 西尾幹二は1989年逝去の詩人・上田三四二の書(この世この生、新潮社・1984)を参照・引用しながら、(川の下流の)「滝口までの線分の生」という生あるいは人生の本質を捉えた見方に共感を示す(p.205-6)。
 もう少し上田の文章を要約的にでも引用しないと分かりづらい。直接に見てみると、上掲の上田の書はこう述べている(もちろん一部)。
 ・残された人生の時間を「滝口までの河の流れのようなもの」と想像した。「滝口」とは「死の瞬間における死」だ。滝口までが「生の持時間」で「水流となって刻一刻、滝口に向かっている」。
 ・「滝口にちかい思い」も「あくまで予感」で、「私の死」は「いつ来るか予測のつかない曖昧なものとして目の前に」にあるが、「実際にやって来たとき、それを体験しようとしても私はその瞬間において死んでおり」、「その到来を知ることができない」。
 ・「私自身の死は、私自身にとって…、ないのである」。そこに、「死後なき死というおそろしい認識〔=恐怖〕に耐えるせめてもの慰藉を見い出してきた」。
 ・「死はある。しかし死後はない。死の滝口は、…水流をどっと瀑下に引き落とすとみえたところで、神隠しにでもあったように水の量は消え」る。
 ・「死後はすでに考慮外」だ。「死を避けることはできないが、死後はないと思い定め、…、滝口までの線分の生をどう生きるかに思いをひそめればよい」。以上、上田p.10-11。
 江藤のいう「ナイアガラの瀑布が落下」し始める地点が上田=西尾のいう「滝口」のことだ。
 その地点・時点以降(=死後)は「ない」=認識・意識不可能だ、という深遠な?洞察がここにある。
 自己(または肉親)の近づく「死」を意識した際に、人というのは同じようなことを考えるものだと思う(むろん、江藤が上田の上記のような比喩?を知っていた可能性はある)。
 二 だが、と揚げ足取りをすれば、「滝口」はまだ「死」ではないだろう。
 「滝口」から水瀑とともに落ちる途中か、滝壺の水に衝突してか、あるいは滝壺の中に深く沈んで溺れることによって、ようやく「死」に至るのではないだろうか。漕いでいた「小舟」もろとも落下し始めることだけでは、おそらくまだ「死」に至ってはないのではないか。
 江藤淳や西尾幹二(・上田三四二)を貶めようという気はさらさらないし、あくまでの喩え話に「理屈」でもって容喙しても意味がない。
 厳密には、と考えてしまうのも、どのような「死に方」が楽だろうか、不可避の、切迫した自らの「死」を意識して「自分が消滅するという恐怖」(西尾幹二・上掲書p.202)が発生したときから、実際の「死」までの、<恐怖>が継続する時間、または<苦しみ>の程度は、自分の場合はどうなるのだろう、とときどき想像してしまうからだ。
 「滝口」とは、「死」の意識が、つまりは「自分が消滅するという恐怖」が現実的・具体的に発生する地点だと思われる。理屈を言えば、じつは、落ちたと思った(「滝口」だと意識した)としても滝の高さが2メートルほどで、ずぶ濡れになっても平気でまだ生きている可能性はある。
 三 死刑囚が処刑される(刑を執行される)までどのような心理でいるのだろうと想像すると、なかなか恐ろしい。
 そしてまた、そもそもが江藤のいう「瀑布が落下する一歩寸前の水の上」の心理から書き始めたくなったのは、いわゆるA級戦犯のうち松井石根ら7名は東京裁判法廷の判決日から処刑される=刑を執行されるまで、どういう意識・心理だったのか、Death by hanging というが、厳密にはいつの時点で彼らは「死」に至ったのかその直前に何を一瞬にでも感じたのか・想ったのか、ということに思いを馳せることがあるからだ。
 どうやら最後まで書けそうにない。
 <つづく>

0990/<保守派>論客を出自・元来の専門分野から見ると…。

 〇西尾幹二・西尾幹二のブログ論壇(総和社、2010)という本は、その構成・編集の仕方が分かりにくい。渡辺望という目慣れない人の「はじめに」が延々と27頁も続くが、この本の趣旨・成り立ち等を西尾に代わって書いているわけではない。冒頭に、いわば<西尾幹二論>があるのだ。最後の方に唐突に「ブログ管理人/長谷川真美」による西尾幹二のブログの「歴史」が語られたりする。残りは西尾幹二のブログ(インターネット日記)の内容だとは推測されるところだが、ブログ内容に対する読者または知名人の感想等が挿入されていたり、西尾自身の出版直前のコメント等が挿入されていたりするので、いつの時点の文章のなのかもすこぶる分かりにくい。

 それでも、内容自体は興味深いテーマを扱っているので、読む人は読むだろうが、それにしても読者には不親切だ。関係する文章を時系列に関係なく、本文と解説等に分けることもなくごったにしてホッチキスで止めたような感じ。こんな本も珍しい。売れるとすれば、西尾幹二の名前によるところがほとんどではないか。

 〇上の渡辺望「はじめに」は、西部邁についてこう書いている。

 「福田恆存、江藤淳、竹山道雄、林健太郎、渡部昇一」らが「保守派」の論壇に存在していたが、「保守」という言葉を「現代日本に定着させた」のは西部邁の「論壇的功績」で、西部邁の1980年代の登場以降、「保守」という言葉を多くの人が使うようになった(p.19-20)。

 この西部邁論について大きな関心はないし、論評できる能力もない。興味を惹いたのは、そこで挙げられている「保守派」の論客の<出自>あるいは<(元来の)専門分野>だ。

 西部邁は経済学(・思想・歴史)だが、上の5人のうち林健太郎は歴史学・西洋史(とくにドイツ)で、あとの4人はいずれも<文学>畑だ。正確に確認しないが、渡部昇一は英語・英文学、そして西尾幹二もまた独語・独文学(・ドイツ思想・ドイツ哲学)という具合だ。

 福田恆存は英文学科卒、竹山道雄は独文学科卒、江藤淳は文学科英米文学専攻卒。

 このような<文学畑>または<文学部出身者(この場合は「歴史学」も含まれる)>によって<保守派>の論壇が形成されてきた、ということは、日本の<保守論壇>に独特の雰囲気・発想をもたらしているようにも見える。そしてそれは、必ずしもよいものばかりではないように見える。

 経済学部出身の西部邁、佐伯啓思、法学部(但し政治学系)出身の中西輝政あたりはむしろ少数派で、上記のような<文学畑>がなおも多数を占めているのではないか。櫻井よしこはハワイ大学で「歴史」を専攻したはずで、日本の大学でいうと文学部出身になる。

 どのような独特さをもたらしているかについて多少は書きたいこともあるが、ややこしいので別の機会にしよう。いつか言及した三島由紀夫と福田恆存の対談の中にも法学部出身者と文学部英文学科出身者の違いを感じさせる部分があった。

 <保守派>とはいえない屋山太郎は政治・行政に口を出しているので法学部出身かと思っていたら、文学部出身。経済についても法制についても<ドしろうと>なわけで、信頼できないことを書いている理由の一端も理解できる。政府の審議会委員をしていて見聞きして経験したことくらいで、政治・行政を「分かって」いると思っているとすれば、とんでもない勘違いだ。この人はまだ、民主党を1年半前に支持した不明を恥じる言葉を書いていない。

 〇先日の夜と翌朝にかけて、竹田恒泰・日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか(PHP新書、2011)を全読了。2/26~27に月刊WiLL4月号(ワック)の中のいくつかをすでに読了。

0981/中川八洋・民主党大不況(2010)の「附記」①真正保守と「民族系」。

 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)p.351-「附記/たった一人の(日本人)保守主義者として」の引用・抜粋。
 ここで中川が書いていることが適切ならば、日本は「ほとんど絶望的」どころか、「絶望的」だ。

 かの戦争の理解についても多くの<保守>論者のそれとは異なる<中川史観>が日本の多数派になることはないだろう。<日本は(侵略戦争という)悪いことした>のではない、という多数派<保守>の歴史観(歴史認識)が日本全体での多数派になることすら疑わしい、と予測しているのだから。かつての歴史理解の差異はさておいても、将来の自主的(自立・武装の)憲法制定くらいでは多数派を形成できないだろうかとささやかに期待している程度にすぎないのだから。

 さっそく脱線しかかったが、中川八洋の主張・見解を基本的なところで支持するにはなお躊躇する。あれこれと苦言を呈してもいるが、多数派<保守>の影響下になおある、つまり中川から見れば誤った<思い込み>があるのかもしれない。しかし、少なくとも部分的には、中川の主張や指摘には首肯できるところがある。

 以下、コメントをできるだけ省く。

 最後の方の図表(p.363)は以下のとおり。

 中川はタテ軸を上の<反共or国家永続主義>と下の<共産革命or国家廃絶(亡国)主義>で分け、ヨコ軸を左の<アジア主義(反英米)/倫理道徳の破壊>と右の<反アジア主義(親英米・脱亜)/倫理道徳重視>に分ける。

 四つの象限ができるが、左・かつ下の<共産革命or国家廃絶(亡国)主義+アジア主義(反英米)/倫理道徳の破壊>が中川のいう「Ⅱ・極左」だ。中心に近いか端に近いかの差はあるが、文章化しにくいので割愛し、そこで挙げられている人名(固有名詞)は、①林房雄、②福田和也、③保田與重郎、④共産党、⑤近衛文麿、⑥白鳥敏夫、⑦河野洋平、⑧松本健一、⑨村山富市、⑩宮沢喜一〔番号はこの欄の紹介者〕。①~③は、ふつうは<保守派>と理解されているのではなかろうか。

 右・かつ上(反共or国家永続主義+反アジア主義(親英米・脱亜)が中川のいう「Ⅰ・真正保守」で、次の8人のみ(?)が挙げられている。①昭和天皇、②吉田茂、③中川八洋、④殖田俊吉、⑤福田恆存、⑥竹山道雄、⑦林健太郎、⑧磯田光一

 右・かつ下はなく、左・かつ上の<反共or国家永続主義+アジア主義(反英米)>が中川のいう「Ⅲ・民族系」だ。自民党のある議員集団について中川が「容共・ナショナリスト」と断じていた、その一群にあたるだろう。そして、①渡部昇一、②松平永芳、③小堀桂一郎、④江藤淳、⑤西尾幹二、が明示されている。

 このグループはふつう <保守派>とされており、上のごとく(たぶん②を除いて)その「大御所」ばかりだが、中川八洋によれば、「真正保守」ではない。図表によると「反英米」か「親英米」のうち、前者を中川は「真正保守」に反対するものと位置づけていることになる。

 西尾幹二と江藤淳は対立したこともあるが広くは同じグループ。櫻井よしこも、渡部昇一と現在ケンカしている小林よしのりも、おそらくはこの一群の中に位置づけられるのだろう。

 西部邁や佐伯啓思はどう扱われるのだろうか。この二人の<反米>ぶりからして、「真正保守」とは評価されないのだろう。

 佐伯啓思は保田與重郎らの「日本浪漫派(?)」に好意的に言及していたように記憶するので、ひょっとすれば、中川からすると「極左」かもしれない。佐伯は親共産主義をむろん明言してはいないが、「反共」主張の弱いことはたしかだ。その反米性・ナショナリズムは「左翼」と通底するところもある旨をこの欄に書いたこともある(佐伯啓思が自らを「親米」でもある旨を書いていることは紹介している)。

 以上は、冒頭に記したように、中川の整理を支持して紹介したものではない。だが、少なくとも、思考訓練の刺激または素材にはなりそうだ。

 一回で終えるつもりだったが、ある頁の表への論及だけでここまでになった。余裕があれば、さらに続ける。

0657/日本国憲法制定と宮沢俊義-あらためて・その4。

 前々回のつづき。江藤淳責任編集・憲法制定過程(講談社)の江藤「解説」による。
 ・宮沢俊義のポ宣言十二項(とその受諾)を根拠とする「国民主権主義」への「八月革命」説につき、一年余後の「改造」1947年5月号で河村大介(当時最高裁判事)はポ宣言十二項の「国民の自由に表明する意思」等々は天皇・貴族院の排除を意味しない「政治的」な意味で、ポ宣言・受諾により「直接に即座に」明治憲法73条を変更する法的効果が生じたと解するのは無理だとし、現憲法の成立を「革命という概念」により説明することを疑問視した(p.405)。
 ・以下は江藤の判断が混じる。宮沢が上の河村説は「至極穏当」なものであることを「知らなかったはずはない」。「敢えて知りながら」「八月革命」説を唱えた「不可思議かつ不自然な変貌の秘密」は、既に言及の1946年の「改造」論文(3月)と「世界文化」論文(5月号)の間の「微妙な不整合のなかに隠されている」。
 「微妙な不整合」とはポ宣言に対する態度だ。「改造」論文で宮沢俊義は同宣言第十二項を必ずしも憲法改正の根拠とせず、改正はむしろポ宣言を「逸脱することを辞せず、それを超えた『理念』にもとづ」くべきことを述べたが、それは米国の「初期対日基本方針」の理念を「反映」したものだった。
 だが「世界文化」論文では再びポ宣言に改正の根拠を求める。但し、第十項ではなく第十二項に根拠条項を求め、「いったんポツダム宣言の枠の外に出た」かの如きだった宮沢はその「枠内に戻り」、「枠はなかった」、ポ宣言の「受諾そのものが”革命”だった」と叫んだのだ。
 かかる(ポ宣言からの)「逸脱」と「革命」は、異なるように見えて、しかし、ポ宣言が「本来日本と連合国の双方に課していた拘束を否定し去ろう」とする点では「全く一致している」。「世界文化」5月号論文は、実質的に、米国の「初期対日基本方針」の合理化の試みに他ならない。換言すれば、「八月革命説」は米国「初期対日基本方針」の「意図を隠蔽しつつ、同時にこれを合理化しよう」とする「手品のような学説」だった。(以上、p.406-7)
 ・憲法改正にかかる貴族院での審議に、議員の宮沢は「マッカーサー草案の基本線を積極的に支持する立場」(小林直樹による)で参加した。一方、改正草案が枢密院に諮詢されたとき〔なお、この手続は明治憲法には明記されていない-秋月〕、美濃部達吉は、明治憲法73条〔改正条項〕による改正なのだとすると、勅命により議案が提出され、廃止されようとしている貴族院にも付議され、天皇の裁可により改正成立となるが、一方で草案前文は「国民がみずから憲法を制定」と書いていて、これは「まったく虚偽」だ、等々と批判し枢密院でただ一人「否」票を投じた。佐々木惣一(京都帝国大学)・貴族院議員も「反対討論」をした〔内容省略〕。枢密院議長(公法学者)・清水澄は枢密院可決を「深く痛憤して」1947.09.25に投身自殺をした。
 ・江藤は憲法「改正」にかかる宮沢俊義の「変節」・「転向」を「責める」つもりはないが、「明らかにせずにはいられなかった」、と書いたあと、次のように言う。長々と紹介してきたが、本来はこの部分こそがメモしておきたかった箇所だ。
 「東京帝国大学(のち東京大学)法学部憲法学教授という職務は、きわめて重要な公職である。であるからこそこの公職は、占領軍当局にとっては何を措いても確保すべき戦略拠点だったに相違なく、現職の教授だった宮沢氏に、どれほどの圧力が掛けられたかも想像に難くない」。
 江藤は、東京(帝国)大学法学部憲法担当教授を「占領軍当局」が「確保」するためにとった「圧力」を具体的に示しているわけではない。
 だが、「想像に難くない」のであり、客観的にはいわゆる<工作>と言えるような行為・措置・「圧力」がGHQによって宮沢に対して執られたのではあるまいか。そして、客観的に見て宮沢が「応じた」(厳しくいえば客観的には「屈した」)のだとすれば、そのような対応は、戦時中に<体制>に積極的・消極的に順応・協力した、そして戦後になって批判された人々の行為と全く変わりはないのではないか。
 ・江藤は最後に、①宮沢俊義の「八月革命」説が「後進」の小林直樹・芦部信喜(いずれも元東京大学法学部憲法担当教授)らによって継承され、「定説」となって全国の大学で講じられ、「各級公務員志望者」によって「日夜学習されているという事実」、そして②米国の「初期対日方針」にもとづく米国の政策が「今日、依然として一瞬も止むことなく若い人々の頭脳と心に浸透しつつあるという事実」の喚起・銘記を求めて「解説」を終えている。
 これらにこそ、まさに今日的・現代的な問題点がある。東京大学法学部の<権威>?をもって、日本国憲法に関する<進歩的(左翼的)通説>が、今日・現在の公務員界(官僚たち)・マスメディア等々を実質的に「支配していること」、日本国憲法に関する<進歩的(左翼的)通説>の教育を受けた者たちが今日まで行政官僚・司法官(裁判官)・政治家や朝日新聞等々のマスコミの要職についてきたし、現在も就いているのだ、ということの明瞭な認識が必要だ。
 占領期の米国の政策は、「歴史認識」の実質的<押しつけ>も含めて、すでにほとんど、「若い人々の頭脳と心に浸透」してしまっているのではなかろうか。種々の恐怖・憂慮の<真因>はここにあるように思われる。
 そして、GHQの政策・考え方(・戦争の評価を含む「歴史認識」)等を客観的には支持し、擁護した、丸山真男を含む<進歩的知識人・文化人たち>(大学教授ら大学所属者を当然に含む)の果たした役割はきわめて犯罪的だった、と言わなければならない。
 この項を終える。
 

0655/日本国憲法制定と宮沢俊義-あらためて・その3。

 前々回、前回のつづき。江藤淳編・憲法制定経過〔占領史録第三巻〕(講談社)の江藤淳「解説」による。
 ・宮沢俊義はおそらく1946.04に執筆し、雑誌「世界文化」5月号に「八月革命と国民主権」を発表した。その一部を抜粋引用する〔江藤解説にはもっと長く引用されている〕。
 
<ポツダム宣言には「日本の最終的な政治体制は自由に表明された人民の意思にもとづいて決せられる」とある〔この宮沢の引用は直接・そのままの引用ではない-後記〕。これは「人民が主権者だという意味」だ。これをもって日本は「日本の政治の根本建前とすることを約した」のだ。この「国民主権主義」は「それまでの日本の政治の根本建前である神権主義」とは「本質的性格」を全く異にする。「敗戦によって…神権主義を棄てて国民主権主義を採ることに改めた」のだ。
 
かかる改革は日本政府や天皇が「合法的に」は為し得ない。「従って、この変革は、憲法上からいえば、ひとつの革命だといわなくてはならぬ」。むろん「まづまづ平穏に行われた変革」だが、「憲法の予想する範囲内においてその定める改正手続によって為されることのできぬ改革であるという意味で、…憲法的には、革命をもって目すべき」と思う。
  「日本の政治は神から解放された」。「神が―というよりはむしろ神々が―日本の政治から追放せられた」。「神の政治から人の政治へ、民治へと変った」。/「この革命―八月革命―はかような意味で、憲法学の視点から」は、有史以来の「革命」だ。「日本の政治の根本義がコペルニクス的ともいうべき転回を行ったのである」。>(p.402-3)
 ・江藤淳はこの論文を以下のように分析・論評する(すべてには言及しない-秋月)。
 ①「それまでの日本の政治の根本建前」につき、宮沢自身が前年秋には採っていた美濃部直伝の「合理主義的」国家観を「惜しげもなく放擲し」、一転して明治憲法の解釈に穂積八束・上杉慎吉流の「正統」説を採用して、明治憲法を「神権主義」にもとづくものと断定している。
 
②憲法改正の根拠とされたポ宣言第十項「…日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべし…」ではなく、第十二項「前記諸目的が達成せられ且日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては聯合国の占領軍は直に日本国より撤収せらるべし」の一部〔下線〕を援用して、「八月革命」 発生を主張している。ポ宣言を「受諾した瞬間に、いわば自動的に」「八月革命」という「コペルニクス的」転回があったと力説する。
 ③この新説は「無条件降伏」説で、ポ宣言は日本と連合国側の双方を拘束するとの宮沢俊義の前年秋の立場を「百八十度翻している」。(以上、p.404-5)
 
<なおも続ける。>

0654/日本国憲法制定と宮沢俊義-あらためて・その2。

 前回のつづき。江藤淳責任編集・憲法制定経過〔占領史録第3巻〕(講談社、1982)の江藤淳「解説」の要点紹介。
 ・1946.02.01に毎日新聞が憲法問題調査委員会「試案」を公表したが、これはじつは「乙案」に近い、宮沢俊義個人の「私案」(宮沢試案)に他ならなかった。このスクープの経緯、宮沢の関与の有無は明らかでない。いずれにせよ、この「試案」はGHQを「いたく刺戟し」、のちのマッカーサー試案起草のきっかけになった。
 ・01.30の政府・閣議に松本私案・甲案・乙案の三案が提出され、02.02の松本委員会は主として「甲案」を審議し、論議の内容は02.04閣議で紹介された。だが、政府は、これを正式決定せず、GHQの督促を受けて02.08に、松本私案をもとに宮沢が作成し、さらに松本丞治が加筆した「憲法改正要綱」(甲案と同じか類似)を提出した。
 この「憲法改正要綱」の「一般的説明」は、「根本精神は憲法をより民主的とし完全に…ポツダム宣言第十項の目的を達し得るものとせんとすることに在り」と書いた。所謂松本四原則の範囲内のもので、かつその原則はポツダム宣言第十項と矛盾しないとの前提に立つものだった。宮沢俊義は、1946.02.08の時点では、この立場にあり、<八・一五革命>を想定してなどはいなかった
 ・02.13の吉田茂・ホイットニー会談で「憲法改正要綱」は「全面的に拒否され」、代わりに、吉田外相・松本国務相は「マッカーサー草案」を手交された。このときホイットニーは、日本政府案では「天皇の身体の保障」をできない旨述べた。「決定的」な「脅迫」だったとするアメリカの学者もいる。
 ・「マッカーサー草案」の邦訳と一部修正を経ての03.06の日本政府「憲法改正草案要綱」公表までの経緯、宮沢・政府・GHQの関係は定かでない。但し、宮沢に「マッカーサー草案」を見る機会があったことは間違いない。
 また、のちの1968年の小林直樹(当時東京大学法学部教授(憲法))の本には、宮沢は03.06政府案の発表前に雑誌「改造」に「平和国家」として「丸裸になって出直すべき」旨を書き、その「非武装思想」は当時としては「珍しかった」のだが、宮沢が「何かの事情でマッカーサー草案のことを知った上」で「書かれたのかどうか」伺っておきたい、と書かれているが、宮沢自身は「記憶が頗る怪しい」が、現九条(当時は八条)の存在を知っていた以上、「無関係と見ることはむずかしいでしょう」と答えた。
 以下は、江藤淳の判断が混じる。この宮沢発言は「その儘には受け取り難い」。雑誌「改造」の宮沢論文とは同誌3月号の「憲法改正について」を指すだろうが、この論文内容を見てみると、「無関係と見ることはむずかしいでしょう」どころか、「ほとんどそのまま」マッカーサー草案の「趣旨を代弁している」。
 これに該当する宮沢論文の一部は次のとおり〔秋月が選択〕。
 「軍に関する規定」そのまま存置の意見もあり得るが、「日本を真の平和国家として再建して行こうという理想に徹すれば、現在の軍の解消を以て単に一時的な現象とせず、日本は永久に全く軍備をもたぬ国家―それのみが真の平和国家である―として立って行くのだという大方針を確立する覚悟が必要」だ、「日本は丸裸かになって出直すべき秋〔とき〕である」。
 ・江藤淳は続ける。「直ちに、次の二つの問題」を提起できる。第一は宮沢がマ草案を披見した時期。「改造」3月号発行が03.06以前で、宮沢が閣僚の一人からマ草案を示されたのが02月の下旬だったとすれば、400字×25枚ほどの上記論文を、宮沢はいつ執筆できたのか。02.13前後「何かの事情」でマ草案を入手しており、それに依って論文執筆したと考えざるをえない。
 第二は、宮沢にマ草案を披見させた人物は誰か。政府案とも松本四原則とも矛盾する「完全非武装平和国家」論を宮沢が書いたきっかけとなったからには、「当時の閣僚の一人」又は日本人であっても「政府関係者」ではないだろう。宮沢俊義の<「コペルニクス」的転向>を示す論文が書かれたのは、宮沢がマ草案を「仔細に検討する機会を与えられ」、同案がポツタダム宣言を逸脱し米国「初期対日方針」に準拠していることを「あらかじめ熟知していたから」だと考えざるをえない。
 その人物はどのような背景の誰か、毎日新聞の上記スクープとの関係、は謎のままだ。しかし、<「コペルニクス」的転向>は<八・一五革命説>の提唱(「世界文化」5月号)以前から開始されていたことは明らかだ。
 宮沢俊義には、一方で松本四原則を擁護しつつ、一方でマ草案の「援護射撃」を準備するという「屈折した薄明の一時期」があったのかも。この時期、この東京帝大教授の「脳裡に、いかなる想念が渦巻いて」いたのだろうか(以上、p.395-402)。
 
<さらに、続ける。>

0653/日本国憲法制定と宮沢俊義-あらためて・その1。

 一 昨年11/06に記したように、西修・日本国憲法を考える(文春新書、1999)p.33によると、①東京帝国大学教授兼貴族院議員だった宮沢俊義は、1945年10月01日、貴族院帝国憲法改正案特別委員会の席上で、「憲法全体が自発的に出来ているものではない。重大なことを失った後でここで頑張ったところで、そう得るところはなく、多少とも自主性をもってやったという自己欺瞞にすぎない」と発言した。
 また、同書p.45によると、②宮沢俊義は、1945年09月28日に外務省で、「大日本帝国憲法は、民主主義を否定していない。ポツダム宣言を受諾しても、基本的に齟齬はしない。部分的に改めるだけで十分である」という趣旨を述べた。
 二 佐伯啓思・国家についての考察(飛鳥新社、2001)は第三章「戦後民主主義という擬装」の中でやはり西修の上掲書を示しつつ上の①発言を紹介している(p.203)。
 また、佐伯は同書で、宮沢俊義の師だった美濃部達吉が朝日新聞1945.10.20紙上で次のように語ったと紹介もしている(p.202)。
 「民主主義の政治の実現は現在の憲法の下において十分可能であり、憲法の改正は決して現在の非常事態において即時に実行せられねばならぬほどの窮迫した問題ではないと確信する」。
 要するに、宮沢・美濃部らの主な又は多数の憲法学者は1945年秋の時点では、明治憲法の若干の改正で十分、天皇制と民主主義は矛盾しない、「天皇主権の維持こそが最も重要な課題」だ、と考えていた(正確には、最後の点は宮沢俊義についての佐伯啓思p.203のコメント)。
 しかし、実際には、国民主権原理に立つとされる新憲法が制定・施行された(ほぼ1年後の1946.11.03にすでに公布されるまでに至った)。
 この間の変化に関し、佐伯啓思は宮沢俊義について次のように述べる。
 ・宮沢は天皇主権の維持は国民の願望と考えていたが、新憲法はその国民の名で天皇主権を廃止した。元来の宮沢の見方とは異なり、「天皇主権の廃止」こそが「国民の総意」だと「装った」ものだった。しかるに、のちに宮沢は「新憲法の最も啓蒙的な擁護者となる」、「いわば戦後の護憲主義の元祖」となる(p.204)。
 ・家永三郎は新憲法を「押しつけられた」のは国民ではなく支配層で国民は新憲法を待望していたと書いたが、このような素朴で浅薄な「欺瞞」が必要だった。「この必要な欺瞞にイデオロギー的な同調」をできたからこそ家永のような「教条的左翼主義が戦後の歴史観をリードできた」。そして「戦後」を成立可能にするためには「この欺瞞が不可欠であることに気づいたために、宮沢は態度を一変させて、新憲法護持にまわったのだった。かかる欺瞞の根底にあるのは「無垢な」民衆・国民の措定で、宮沢の当初の判断とは異なり、国民は「天皇主義者ではなく民主主義者でなければならなかった」(p.204-5)。
 三 かかる宮沢俊義の変化・転身?の背景について、西修の上掲書は言及していたのだが、参照されている本の現物を見て紹介しようと思っていたため、昨年11/06にはあえて記さなかった。
 引用又は参照要求されていたのは、江藤淳責任編集・憲法制定経過(占領史録第3巻)(講談社、1982)だ。正確には、この本の巻末の、江藤淳による「解説」だ。
 この「解説」は、美濃部達吉、宮沢俊義、佐々木惣一(京都大学)らの1945年秋の発言をより詳しく資料として引用している。宮沢俊義に限定すれば、江藤淳は次のように書いている。経緯も含めてやや詳しく立ち入る。
 ・1945.09.28の外務省での講演・質疑応答〔今回冒頭の②がその要旨〕を読んで「一驚を禁じ得ない」。所謂「八・一五革命説」と「単に整合しないのみならず全く相容れない」からだ(p.384)。「八・一五革命説」は雑誌「世界文化」1946年5月号で初めて述べられた。
 ・宮沢が09.28に外務省での講演を依頼されたのは、1945.09.22に「米国の初期対日基本方針」が公表され、外務省がその内容がかなりポツダム宣言を逸脱していると重大視して「自主改革」の推進の必要を感じたからだろう。
 ・1945.10.04の近衛文麿・マッカーサー会談でマッカーサーは憲法改正の「指導の陣頭に立たれよ」と示唆したという「事態の急展開」があった。これを受けて、外務省は10.09にポツダム宣言遵守を連合国側に求める文書を公表したが、近衛文麿は10.11から佐々木惣一とともに「憲法改正調査」に当たった。12月に高木八尺(東京帝大法学部)が発表した天皇制を維持する主張の論考も資料の一つだった。
 宮沢俊義は毎日新聞1945.10.16紙上で、憲法改正案を政府と内大臣府(近衛文麿ら)で別々に検討することは「不穏当」と批判した。だが、「積極的な憲法改正を支持」していたのではなかった。宮沢は、毎日新聞1945.10.19紙上で、「現在のわが憲法典が元来民主的傾向と相入れぬものではないことを十分理解する必要がある」等と書いた。
 美濃部達吉も内大臣府(近衛文麿ら)による憲法改正調査を批判したが、そこには近衛・佐々木改正案がGHQの意向を反映しすぎて「極端に走る」ことへの危惧もあったかもしれない。
 ・佐々木惣一は1945.10.21毎日新聞紙上で、近衛文麿は10.25の声明で、上の批判に反論又は釈明した。だが、GHQは11.01に近衛文麿との(正式の)関係を否定する声明を発した(これとの関係性は薄いだろうが、近衛は12.06に服毒自殺)。
 1945.10.27に政府・松本丞治国務相の憲法問題調査委員会は第一回総会。宮沢俊義は委員の一人であり、かつ入江俊郎・佐藤達夫とともに「最も活躍した」委員になった。
 1945.11.26招集の臨時帝国議会の幣原喜重郎首相施政方針演説は憲法改正に言及しなかったが、質問があったため、松本委員会は12.08に「天皇が統治権を総覧せらるの原則には変更なきこと」等の四原則を明らかにした。
 ・宮沢俊義は松本委員会の小委員会の委員でもあり、これは12.24~1946.01.23に8回開催され、本委員会は12.27~1946.01.26に7回開催された。宮沢は積極的に参加したのみならず「中心的な役割を果たした」。
 宮沢は松本が1946.01.01~01.04に書いた「私案」を要綱化し、「憲法改正要綱」(のち「甲案」と呼ばれる)草案を作成した、まさにその人物だった。この「甲案」とは別に宮沢ら小委員会は改正の幅を大きくした「乙案」もまとめた。いずれも、上に触れた四原則の範囲内の案だったこと(当初の宮沢の考えと矛盾しなかったこと)には変わりはない(p.381-394)。
 長くなりそうだ。別の回に続ける。 

0582/板倉由明は田中正明を全否定したわけではない。西尾幹二・GHQ焚書図書開封(徳間)を半分読了。

 前回のつづき又は補足-田中正明の『松井石根大将の陣中日記』を批判した板倉由明は1999年に逝去し、遺作として、そして研究の集大成として同年12月に『本当はこうだった南京事件』(日本図書刊行会)を出版した。
 だが、その著の中には田中正明を批判した『歴史と人物』誌上の論文を収録せず、かつその名を巻末の「主な著作・評論」のリストにすら記載していない。
 小林よしのりもある程度のことは書いているが(パール真論)、推察するに、自分の学問的研究(田中正明の著の批判)が朝日新聞と本多勝一に「政治的に」利用されてしまったことへの後悔又は本多勝一等に対する憤懣があったからではないだろうか。
 小林によると「改竄の事実を指摘した板倉由明でさえ、田中正明の全ての言説を信用できないと言っていたわけではない」(p.212)。
 大部数を誇る全国紙を使って自分たちの考えと異なる史実を指摘し主張している本を<抹殺>しようとしたのだから、朝日新聞とは怖ろしい新聞(社)だ。
 だが、小林よしのりによると、「学界・マスコミ」では今だに「軍国日本を糾弾する論文を書けば、論壇の寵児になれる」体制が続いている(p.213)。そして、中島岳志の「パール判決書をねじ曲げたペテン本」が出る事態に至る。そしてこの本は、朝日新聞と毎日新聞から「賞」まで与えられた。怖ろしい、怖ろしい。
 有名な江藤淳・閉ざされた言語空間-占領軍の検閲と戦後日本(文藝春秋、1989)と櫻井よしこ・「眞相箱」の呪縛を解く(小学館文庫、2002)は所持しながらも意識的に未読で、<最後に>残しておこうというくらいの気持ちだった。
 だが、被占領期のGHQの言論統制について、西尾幹二・GHQ焚書図書開封(徳間書店、2008.06)を半分くらい読んでしまった。購入して目を通していたらいつのまにか…、という感じ。
 この西尾幹二の本を読んでも思うが、先の大戦、日本の対中戦争や対米(・対英)戦争に関する正確な事実の把握(とそれにもとづく評価)は、数十年先には、遅くとも50年先にはきっと、現在のそれとは異なっているだろう(と信じたい)。
 松井石根とは-知っている人に書く必要もないが-東京裁判多数意見によりA級戦犯として死刑となった者のうち、ただ一人、<侵略戦争の共同謀議>によってではなく南京「大虐殺」の責任者として処刑された人物だ。南京「大虐殺」が幻又は虚妄であったなら、紛れもなく、この松井石根は、無実の罪で、冤罪によって、死んだ(=殺された)ことになる。もともと「裁判」などではなく<戦争の続きの>一つの<政治ショー>だった、と言ってしまえばそれまでなのだが。
 アメリカの公文書を使っている西尾幹二とは別に、中西輝政らもソ連共産党・コミンテルン関係の文書を使って、かつての共産主義者の<謀略>ぶりを明らかにしている。
 毛沢東・中国共産党の戦前の文書はどの程度残っているだろうか。残っていれば、いずれ公表され、分析・解明されるだろう。
 いずれにせよ、中国や(GHQや)日本の戦後「左翼」の日本<軍国主義>批判という<歴史認識>を決定的なもの又は大勢は揺るがないものと理解する必要は全くない。まだ、早すぎる。それが事実的基礎を大きく損なったものであることが判明し、現在とは大きく異なる<歴史観>でもって日本の過去をみつめることができる日(私の死後でもよい)の来ることを期待し、信じたいものだ。

0367/朝日新聞の諸「悪行」の一つ。

 江藤淳・国家とはなにか(文藝春秋、1997.10)に収載されている「日本人の『正義』と『戦後民主主義』」(初出、1997.06)によると、第一に、同・閉ざされた言語空間(1989)を彼は13新聞社等に私信添付のうえ送付したが、すみやかに紙上で反応があったのは産経、東京、毎日の三紙で、読売は1997年の3月の社説でようやく占領期のGHQによる検閲の存在を認め、その検閲時代の存在が現今までの言論状況を歪めていることを指摘した、という(p.9~p.11)。
 興味を惹いたのは、上に書かなかったこと(江藤著に書かれていないこと)、すなわち、朝日新聞江藤閉ざされた言語空間に、(少なくとも1997.08までは)一切何の反応も示さなかった、ということだ。
 第二に、次のことも知らなかった。知っていたのは、あるいは読んだ記憶があるのは、日高六郎が理事長の神奈川県人権センターが三浦商工会議所に申し入れたことによって、後者の団体が当初予定していた櫻井よしこの講演会を、当該団体が取り止めた、という<事件>だった(1989年のできごとらしい)。<左翼>団体による、櫻井よしこに対する言論妨害、いやがらせ、だ。
 江藤は、この事件のとき、日本文藝家協会なる団体の理事長だったらしい。そして、柳美里のサイン会への暴力行使予告によるその中止<事件>と二つを対象にして、「深刻な憂慮を表明する」声明を同協会は発したらしい(3月6日付)。
 興味深いのは、この声明を「一社を除くすべての報道機関」が報道したが、例外の一社とは朝日新聞(社)だった、ということだ。これは知らなかった。
 朝日新聞は、柳美里に対する<右翼>からの攻撃については詳しく扱い、厳しく批判したようだ。
 当事者だったのだから、江藤が虚偽を書いている筈もない。朝日新聞は<右翼>からの言論(人)への攻撃にはすばやく反応する一方で、<左翼>からの言論(人)への攻撃は無視するか又は緩慢な反応しかしなかったようだ(完全無視だったのだろうか? 日高六郎を批判することにならないようにとの配慮を優先させれば、その可能性もある。江藤著はそこまで立ち入ってはいない)。
 かかる行動・思考様式の基礎にあるものを<二重基準>(ダブル・スタンダード)という。
 朝日新聞にとって、言論の自由(出版・表現の自由)は自分と自分の仲間たちだけに保障されておればよく、<右翼>・<保守派>の言論(人)はその(保護されるべき)価値がないのだろう。怖ろしい発想だ。全体主義に連なる怖ろしい考え方だ。
 自分を敵として批判する者・勢力に対してはいかなる手段を弄しても、マスコミ倫理を逸脱しても、人としての常識を逸脱しても、(言論の自由の名のもとに)徹底的に批判・糾弾する……、安倍内閣に対するそれは典型的だった。<日本の癌>だ、とあらためて思う。
 私の知らなかった上のことへの言及は、時期が古すぎるのだろう、山際澄夫・これでも朝日新聞を読みますか?にはないと思われる。
 いつかも書いたことがあるが、どなたか、又はいずれかの出版社か、朝日新聞の<戦後>の諸<業績>のすべてを、いや諸<悪行>のすべてを体系的に網羅した、詳細な資料集を編纂・出版してほしいものだ。
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