フランス革命とマルクス主義およびロシア革命の関係に関心を持っているときに、橋爪大三郎・現代思想はいま何を考えればよいのか(勁草書房、1991)を読んだ。抜粋的に紹介しつつ、感想・コメントを述べる。
マルクス主義に関係してはまず、「マルクス主義の瓦礫を越えて」との節の中での、英国と米国が「結局マルクス主義を受入れなかったのは…たかだか人間の考えた思想が「真理」であるなんて…とんでもない思い上がりだとしか思えない」からだ(p.49)との一文が目を惹く。フランスもドイツもキリスト教の国の筈だが、「神」を信じないで別の最高価値を創出したり「唯物論」を生んだりした。「西欧」又は「欧米」と一括りにしてはいけないことを痛感する。
橋爪(1948-)はずばり「団塊」世代なのだが、この世代につき、「マルクス主義をまともに信じた、おそらく最後の世代である」という(p.40)。むろん世代全員又は殆どではありえないが、そうかもしれない。ということは、「団塊」世代とは貴重な、特色ある世代の筈だ。だが、「マルクス主義をまともに信じた」者の数がより若い世代よりも相対的にかなり多いとすれば、それは特徴というよりも「弱点」だ、という思いにもなる。
そのような人々がマルクス主義を疑い始めて飛びついたのが、サルトルらの「実存主義」、ついで「構造主義」で、またエコロジストへの転身?者もいた、等も指摘している。成る程そうか、という感じだ。
p.67には、マルクス主義は明治維新を絶対王制の成立(日本共産党系)かブルジョア市民革命(旧日本社会党左派系)と見るが、「戦前の天皇制を、ヨーロッパ歴史学で割り切ってしまうのは、問題です」、と明言している。同旨のことは私も感じていたのだが、私が考えるようなことは既に誰かがどこかで述べているんだなぁと嘆息が出なくもない。
また、この本は1991.01刊の本でソ連「社会主義」崩壊の前に書かれていて、社会主義・自由主義の区別・優劣、中国の将来等に触れている。中国につき、いかに経済に自由主義を導入しても政治・文化が自由主義化しないと(実質的に共産党一党独裁のままでは)見通しは暗い、いずれ破綻すると、これまた私が感じていることをきちんと文章化してくれている。
さらに、日本になぜ世界的な思想家がいないのか、翻訳ばかりでないか、旨を強調しているのは興味深い。「思想」に限らないだろうが、外国の(とくに人文・社会系の)文献を翻訳して紹介しただけで研究者と、場合によっては「知識人」の如く、見なされることは、日本が学問的には立派な「植民地」であることを示しているだろう。実存主義も構造主義もポスト・モダンとやらも全て日本製ではない。マルクス主義も勿論で、その外国産「教義」に多少の日本的な色抜きを行って「聖典」としている政党も、つまり、日本共産党も、日本にはまだあるのだ。
日本人自身の「思想」によって、又は十分に日本的に咀嚼され吸収された外国原産の日本化した「思想」によって日本と世界を論じられないのか、と思うのだが、この本p.68によると、丸山真男は「ヨーロッパ近代」思想との類似性を江戸時代の荻生徂徠に認めた、という。対して橋爪は、山本七平と同様に明治維新を導いた尊皇思想の中心は山崎闇斎の学派だった、という。
ともあれ、日本人の中にも翻訳・輸入にとどまらない「自生の」思想家はいたと思われ、そうした思想又は理論の継承はより図られてよく、また余裕があれば、私もじっくりと読みたいものだ。例えば、本ではないが、明治維新直前の坂本竜馬の「船中八策」だって外国(主としてアメリカ?)の影響はあるかもしれないが、なかなかのものだし、日本の「法治主義の父」と言われる江藤新平もいた。福沢諭吉、吉野作造、徳富蘇峰ら、あるいは作家の漱石や鴎外等々が何を考えていたのかには興味だけはある。
最後に、橋爪によると、近代経済学者の森嶋通夫・マルクスの経済学(1973)はマルクス・資本論が構想する資本主義経済のモデルを分析してその「科学性」を解体させた(p.103-4)。その描く資本主義経済は「論理一貫した、整合的な世界」だが「過剰な単純化」がなされており、そもそも「労働価値」、次いで「剰余価値」概念に問題があるため、労働価値→剰余価値→労働者の搾取・階級闘争→プロ独裁・共産党の社会主義政権→共産主義という「論理」は成立しえず、「マルクス主義は真理でなく、ただの信念にすぎないことが明らかになってしまう」、等々(p.140~等)。
かくして、以下は私の言葉だが、経済学・歴史学等々を包括する「科学的」学問体系のはずのマルクス主義もその「奥義」又は「秘物」を覗いてみると他愛ない紛い物であることが暴露される。マルクス主義とはじつは<壮大なホラの大系>にすぎない。その将来予測は「信念」、「願望」にすぎず、殆ど「宗教」と変わらない。又は一種の「占星術」の如きものだろう。
しかし、イギリスのリカルド経済学、ドイツのヘーゲル哲学、フランスの(ルソー等→)「空想的」社会主義等を「総合」したマルクス主義の現実的影響力は大きかった。自国の権力者に「人民の敵」として殺戮された人々は一億人ほどもいた。もとはと言えば、人間が多少の「理性」をもち多少の「理想」をもてる生物だったことに原因があるかもしれない。
現実社会を完璧に又は本質的に「認識」可能と錯覚し、将来を「科学的に」予測できるなどと「思い上がって」しまったのだ。
その人間の「理性」信仰は社会主義的「計画」経済に行き着くが(「搾取」が発生する「市場」経済は許されない)、国家官僚がいかに優秀でも経済(・社会)運営の完璧な「計画」など策定できる筈がない。
理論的にも現実的にもマルクス主義(・「科学的社会主義」)の破綻・失敗は明らかなのだが、その「信念」をなお維持し「共産主義」社会への展望を語る政党、日本共産党なるものがあり、日本の政治・社会に現実的影響力を少しは持っている。もう何度も書いたような気がするが、このことを多くの日本人やマスコミが異常とは感じていないようであることが私には極めて異常に思える。
マルクス主義に関係してはまず、「マルクス主義の瓦礫を越えて」との節の中での、英国と米国が「結局マルクス主義を受入れなかったのは…たかだか人間の考えた思想が「真理」であるなんて…とんでもない思い上がりだとしか思えない」からだ(p.49)との一文が目を惹く。フランスもドイツもキリスト教の国の筈だが、「神」を信じないで別の最高価値を創出したり「唯物論」を生んだりした。「西欧」又は「欧米」と一括りにしてはいけないことを痛感する。
橋爪(1948-)はずばり「団塊」世代なのだが、この世代につき、「マルクス主義をまともに信じた、おそらく最後の世代である」という(p.40)。むろん世代全員又は殆どではありえないが、そうかもしれない。ということは、「団塊」世代とは貴重な、特色ある世代の筈だ。だが、「マルクス主義をまともに信じた」者の数がより若い世代よりも相対的にかなり多いとすれば、それは特徴というよりも「弱点」だ、という思いにもなる。
そのような人々がマルクス主義を疑い始めて飛びついたのが、サルトルらの「実存主義」、ついで「構造主義」で、またエコロジストへの転身?者もいた、等も指摘している。成る程そうか、という感じだ。
p.67には、マルクス主義は明治維新を絶対王制の成立(日本共産党系)かブルジョア市民革命(旧日本社会党左派系)と見るが、「戦前の天皇制を、ヨーロッパ歴史学で割り切ってしまうのは、問題です」、と明言している。同旨のことは私も感じていたのだが、私が考えるようなことは既に誰かがどこかで述べているんだなぁと嘆息が出なくもない。
また、この本は1991.01刊の本でソ連「社会主義」崩壊の前に書かれていて、社会主義・自由主義の区別・優劣、中国の将来等に触れている。中国につき、いかに経済に自由主義を導入しても政治・文化が自由主義化しないと(実質的に共産党一党独裁のままでは)見通しは暗い、いずれ破綻すると、これまた私が感じていることをきちんと文章化してくれている。
さらに、日本になぜ世界的な思想家がいないのか、翻訳ばかりでないか、旨を強調しているのは興味深い。「思想」に限らないだろうが、外国の(とくに人文・社会系の)文献を翻訳して紹介しただけで研究者と、場合によっては「知識人」の如く、見なされることは、日本が学問的には立派な「植民地」であることを示しているだろう。実存主義も構造主義もポスト・モダンとやらも全て日本製ではない。マルクス主義も勿論で、その外国産「教義」に多少の日本的な色抜きを行って「聖典」としている政党も、つまり、日本共産党も、日本にはまだあるのだ。
日本人自身の「思想」によって、又は十分に日本的に咀嚼され吸収された外国原産の日本化した「思想」によって日本と世界を論じられないのか、と思うのだが、この本p.68によると、丸山真男は「ヨーロッパ近代」思想との類似性を江戸時代の荻生徂徠に認めた、という。対して橋爪は、山本七平と同様に明治維新を導いた尊皇思想の中心は山崎闇斎の学派だった、という。
ともあれ、日本人の中にも翻訳・輸入にとどまらない「自生の」思想家はいたと思われ、そうした思想又は理論の継承はより図られてよく、また余裕があれば、私もじっくりと読みたいものだ。例えば、本ではないが、明治維新直前の坂本竜馬の「船中八策」だって外国(主としてアメリカ?)の影響はあるかもしれないが、なかなかのものだし、日本の「法治主義の父」と言われる江藤新平もいた。福沢諭吉、吉野作造、徳富蘇峰ら、あるいは作家の漱石や鴎外等々が何を考えていたのかには興味だけはある。
最後に、橋爪によると、近代経済学者の森嶋通夫・マルクスの経済学(1973)はマルクス・資本論が構想する資本主義経済のモデルを分析してその「科学性」を解体させた(p.103-4)。その描く資本主義経済は「論理一貫した、整合的な世界」だが「過剰な単純化」がなされており、そもそも「労働価値」、次いで「剰余価値」概念に問題があるため、労働価値→剰余価値→労働者の搾取・階級闘争→プロ独裁・共産党の社会主義政権→共産主義という「論理」は成立しえず、「マルクス主義は真理でなく、ただの信念にすぎないことが明らかになってしまう」、等々(p.140~等)。
かくして、以下は私の言葉だが、経済学・歴史学等々を包括する「科学的」学問体系のはずのマルクス主義もその「奥義」又は「秘物」を覗いてみると他愛ない紛い物であることが暴露される。マルクス主義とはじつは<壮大なホラの大系>にすぎない。その将来予測は「信念」、「願望」にすぎず、殆ど「宗教」と変わらない。又は一種の「占星術」の如きものだろう。
しかし、イギリスのリカルド経済学、ドイツのヘーゲル哲学、フランスの(ルソー等→)「空想的」社会主義等を「総合」したマルクス主義の現実的影響力は大きかった。自国の権力者に「人民の敵」として殺戮された人々は一億人ほどもいた。もとはと言えば、人間が多少の「理性」をもち多少の「理想」をもてる生物だったことに原因があるかもしれない。
現実社会を完璧に又は本質的に「認識」可能と錯覚し、将来を「科学的に」予測できるなどと「思い上がって」しまったのだ。
その人間の「理性」信仰は社会主義的「計画」経済に行き着くが(「搾取」が発生する「市場」経済は許されない)、国家官僚がいかに優秀でも経済(・社会)運営の完璧な「計画」など策定できる筈がない。
理論的にも現実的にもマルクス主義(・「科学的社会主義」)の破綻・失敗は明らかなのだが、その「信念」をなお維持し「共産主義」社会への展望を語る政党、日本共産党なるものがあり、日本の政治・社会に現実的影響力を少しは持っている。もう何度も書いたような気がするが、このことを多くの日本人やマスコミが異常とは感じていないようであることが私には極めて異常に思える。