テレビ放送には、大きく分けて、NHKといわゆる民間放送がある。
 法制上の違いは別とする(放送法という法律の半分は日本放送協会=NHKについて定め、同法はNHK設立の根拠法でもある)。
 両者の違いですぐに分かるのは、いわゆるコマーシャル、宣伝広告があるかどうかだ。NHKには受信料というものが必要だが、民間放送はタダで見ることができる。その代わりに、宣伝広告を視聴することを、事実上〈強制〉される。見たくなければ見なければよい、他局に変えればよい、テレビ放送自体を切ればよい、というのは〈建て前〉で、この〈事実上の強制〉こそが民間放送を成り立たせている。
 〈事実上の強制〉を甘受しているがゆえにこそ、タダで視聴することができる。番組制作に必要な費用はコマーシャル・宣伝広告を提供する企業等が支払ってくれているからだ。
 民間放送にも報道時間や報道関係番組がある。それをもって民間放送の社員が、少なくとも報道に「直接に」関与している者だけは別として、自分たちを「ジャーナリスト」と自認しているとすれば、大きな勘違いだろう。
 せいぜいのところ、民間放送という業の性格は「娯楽」または「慰安」を提供することで、<エンターテインメント>業というのが正確だと思われる。あるいは、皮肉っぽく消極的な表現法を使えば、気晴らし産業、時間潰し産業だ。
 だが、より本質的には、民間放送は〈宣伝広告業〉だろう。報道番組も娯楽番組等々も、企業等からの「宣伝広告費」によって賄われている。民間放送会社の社員の給料ももちろんだ。民間放送会社が種々の「事業」を行なっていることは知っているが(映画制作費の一部負担もそうかもしれない)、「本質」論として記述している。
 このような観点からすると、企業等と民間放送を媒介し、ときには宣伝広告それ自体を制作している(種々の下請け・孫請けもあるのだろう)<電通>とか<博報堂>とかに関する情報は、NHKからもそうだが、民間放送からは全く得られないのは不思議だし、いやむしろ当然のことだろうと感じられる。視聴者は知らない裏の、「交渉」や「交際」の世界が、<電通>とか<博報堂>とかと民間放送・テレビ局の間にきっとあるのだろう(その実態を秋月瑛二は全く知らないけれども)。
 民間放送の〈宣伝広告業〉たる実質を最もよく示しているのは、いったん劇場等や配信サービスで提供された〈映画〉をテレビで放映(再放送)する場合に、コマ切れに入るコマーシャル・宣伝広告だ。
 映画はそもそも途中に何回もコマーシャル・宣伝広告が挿入されることを全く想定しないで制作されているだろう。何度もコマーシャル・宣伝広告でコマ切れにされるのでは、せっかくの「芸術」的映画も「感動的」映画も台無しだろう。元々の映画を「破壊」している、と思われる。それでも観る人々がいるのは確かだろうので、100%否定してはいけないとは思う。
 以上、無知のゆえの間違った推測等があるかもしれない。 
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 ついでに書くと、第一に、本来のコマーシャル・宣伝広告以外の時間に、自社(またはグループ局)が制作・放送する番組・ドラマ等の出演者をよんで語らせたり、自社が「制作委員会」の一端を構成しているらしき映画の事前の宣伝をしたりするのは、元来は〈見苦しい〉ものだ。宣伝広告費を受け取らないで放送する、自己宣伝をするのだから目くじらを立てるほどのものではないかもしれないが、視聴者からすると、ふつうのコマーシャル・宣伝広告の一部であることに変わりはない。
 第二に、民間放送が歴史的、制度的に見て決して「自由競争」原理のもとで成り立っておらず、テレビ電波または広く「電波」の(全くかほとんどー新規参入を許さない)寡占業者グループであることは、池田信夫のブログがかつて「民放連」について頻繁に書いていた。
 中央・地方の系列とか、ニュース原稿は自社グループの新聞紙にほとんど依拠しているのではないか(テレビ局独自の情報源による報道はどの程度あるのか)、といった問題や疑問には立ち入らない。
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  コマーシャル・宣伝広告がないだけでも、民間放送に比べてNHKはマシだ。
しかも、民間放送に比べて、経費を多く使った番組が総体としては多い(ようだ)。国際共同制作と謳われるドキュメンタリー類は、民間放送にはたぶん存在しないだろう。
 しかし、〈NHKスペシャル〉とか〈クローズアップ現代〉の中には、経費の無駄遣い、制作意図不明と感じられるものもある。
 むろん制作担当者(の責任者、ディレクター?)の個性が出ているのだろうが、きわめて「NH K的」と感じるものも2024年に入ってからあった。
 長くなったので、別の回に移す。
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