前回の西部邁論文に関する私なりの整理・引用のつづき。
〇マスメディアは3つのM、すなわち各「瞬間」(モメント)で目立つ「気分」(ムード)の「運動」(ムーブメント)の大衆心理における形態を見抜いているものだが、本来の「説得」の政治では「物事の根本前提を国民の根本的な歴史的感情」から導出すべきところ、その導出作業は3つのMに任せることはできない困難なもので、「説得」の際には「結論を導く過程を、状況に照らし合わせしつつ、論理化」するという厄介事をする必要がある。しかし、「大衆」はそんな困難や厄介には「聞く耳持たぬと構える」。p.54-55.
〇したがって、「政治家や情報屋」は前提・論理のうち「最も刺激的で最も流通しやすい」側面のみを取り上げる。彼ら「専門人」は大衆の「代表者」ではなく「代理人」に成り下がっており、「民衆の生活が直面している多面多層の厄介事にけっして触れることがない」。「みかけの多弁」にかかわらず「失語症」に陥っている。p.55
〇上の如き「群盲象を撫でる」専門人は、「民衆政治(=デモクラシー)につきものの民衆扇動(=デマゴギー)の走狗」になる。p.55
〇民衆の欲望の真偽、善悪、美醜を区別する基準は、「歴史の良識」としての「伝統の精神」、「良き慣習」としての「道徳の体系」を現下の状況に適用するために必要な「説得における会話法」の中にあるだろうが、その「言葉における歴史の叡智」を破壊してきたのが、「個人主義派と社会主義派の両左翼」、一口でいうと「近代主義」だ。p.56
〇民主主義はアリストクラシー=「最優等者の政治」では全くなく、カキストクラシー=「最劣等者の政治」になる可能性が大きい、と認めておく必要がある。そう認めることのできる民衆による政治=デモクラシーこそ「唯一健全な政治」かもしれず、「安倍晋三氏は、ひょっとしてアリストスでありすぎたのではないか」。p.56-57.
〇目指されるべき価値規範は、「自由」と「秩序」間の平衡としての「活力」と、「平等」と「格差」間の平衡としての「公正」だろう。この活力と公正の具体的意味はしかし、「歴史的英知」が指示するものなので、自らの「国柄が何か」を理解できないと、政治の価値規範を論じることはできない。p.57.
〇「歴史的英知」は過去の種々の状況での試行錯誤の蓄えなので、現在への具体化に際しては状況適合的な「説得と決断」が必要であり、「議論の作法」・「言語活動のルール」が不可欠となる。この作法・ルールに照らすと、「博愛」理想と「競合」現実の間の平衡としての「節度」と、「合理」と「懐疑」の間の平衡としての「常識」が必要だと判る。
〇「活力・公正・節度・常識」こそ、「大人の政治の要諦」だ。これらの総合点を見ると、「安倍晋三…はたぶん最高位にある」。「この相対的に勝れた資質を見抜く能力や真剣さ」、いわんや「この人物を激励したり育成したりする余裕」は「今のマスメディア関係者にも選挙民にも、みじんもなさそうだ」。p.58
〇「何と醜い政治であることか」。国内状況については、「格差それ自体」よりも、「家族・学校、地域・職場」、「歴史・自然」といった「国柄」にまつわる「共同体的なるもの」の「破壊が進んでいることを正視」すべきだ。p.58.
とりあえず、ここで終えておこう。
西部邁の本は少ししか読んだことがない。ただし、<保守主義>がこの論文にも出ていると思うし、何よりも言葉・語彙の豊富さ(それは複合的・多面的な知識と思索の結果として得られるものなのだろう)に感心する。
全面的に支持しているわけではなく、理解できないところもある。しかし、私が言いたいことをズバリと書いてくれている(と思える)部分が明確に存在する。
民主主義
民意を尊重すること、これが民主主義の要諦だ。
こういう文章があったとする。妥当なようだが、どこかおかしくないだろうか。すなわち、一般的理解によれば、民意を尊重することが民主主義の意味のはずなのであり、上の文は、民主主義は民主主義だ、民意を尊重すべきだから民意を尊重すべきだ、というアホらしいことを言っているのにすぎないのではないか。
むろん民意の尊重の具体的仕方についての議論はありうる。だが、民意を尊重すべきことを民主主義でもって基礎づけたところで、上記の如く循環論証または同義反復に陥るだけではないか。
多少とも「民主政治」に関係するマスメディアの中に、上のようなことを平然と書ける人間がいるとすれば、驚天動地だ。即刻クビになっても不思議ではない。
というようなことを枕詞にして、月刊正論10月号(産経〕の西部邁「民主喜劇の大舞台と化した日本列島」から、その「民主主義」に関係する、私の納得できる叙述をメモ書き的にまとめておこう。
〇デモクラシー=民衆政治とは「多数参加の多数決制」が客観的に存在していることをいうが、<戦後民主主義>はこれを民衆の「主権主義」という主観的当為にまで高めた。かかる指摘をすべき言論勢力等も、「民主主義の前に深々と跪いている」。p.46.
〇七月参院選は、かの「マドンナ選挙」をはるかに超えて、「大衆喜劇ぶりを底知れず俗悪化」した。p.50.
〇かつて自己責任論と「小さな政府」論でもって自民党を破壊せんとした小沢一郎の民主党が「生活が第一」と掲げたのは「度外れに醜く映った」が、かつての小沢の論を「忘れることのできるのは、痴呆化したデーモス(民衆)、つまりオクロス(衆愚)のみ」だろう。p.51.
〇「朝日新聞などの左翼系メディア」が安倍政権のスキャンダル暴露に「大活躍したのは周知の事実」だが、(テレビ)メディアは「醜聞で騒ぐのが商売柄」なので、「左翼流に便乗しただけのこと」だ。p.52.
〇安倍政権の憲法改正等の主張に「真っ向から抵抗せず」に「スキャンダル暴露の作戦」に出たのは、「アメリカ製の揺り籠のなかで相も変わらず泣きわめいていたいから」だ。左翼を含む日本人の大半は、憲法論に見られるように、アメリカへの「諾否」同時存在という「精神の病気にとらわれて」いる。p.52.
〇平成デモクラシーの過程で、「大衆〔=マス〕の進撃」と「公衆の絶滅」という一事が明瞭になった。「国柄の保守」を貫き「国柄に公心の拠り所を見出そうとする」「公衆」の「正気」の「ほとんど最後の一片に至るまでもが吹き飛ばされ」、「大衆の勝利」が生じ、それを祝うべく「大衆の民主喜劇」が盛大に演じられている。大衆は公衆であることを忌避しており、「社会のあらゆる部署の権力が大衆の代理人によって掌握された」。p.53.
〇「大衆喜劇」の舞台のマスメディアは第四どころか「第一権力」で、「大衆の弄ぶ流行の気分」=「世論」に立法・行政・司法が「追随」している。第一権力は議会や首相官邸にではなく「お茶の間ワイドショー」に帰属している。だからこそ、「政治家も学者も弁護士も、三流テレビ芸人の膝下に、陸続と馳せ参じている」。p.54.
〇第一権力は「匿名の独裁者」としての「人気」=ポピュラリティだ。もともと「民衆の欲望を無視する」政治は長続きせず、「政治の根底は時代を超えて民衆制」なのだが、その「民衆制が独裁者や寡頭者たちを生み出すだけ」のことで、今や「人気者というお化けめいた者が、民衆の茶の間のど真ん中で、大衆政治のどたばた劇」を一日中取り仕切っている。p.54.
以上。今回はここまでとする。
長谷川三千子・文春新書だから信用できない、という(朝日新聞・岩波シンパにはいるかもしれない)人は、かの<権威がある、正しいことが書いてあるはずの>岩波新書、福田歓一・近代民主主義とその展望(1977)のp.3にさっそく次のように書かれているのを知るとよいだろう。
ヨーロッパの場合はどうかというと「実はここでも民主主義という言葉ははなはだいかがわしい言葉であって、それが間違いなく正当な言葉、いい意味をもった言葉として確立したのはこの第一次大戦のときだったのであります」。
単純・素朴な<民主主義>礼賛者は、マスコミの中にいる人も含めて、こんな単純なことも、おそらくは知らないのだろう。
もう一点、別のことに触れておくと、第二次世界大戦は<民主主義対ファシズム>の闘いだったという理解の仕方も、戦勝国側の後づけ的な説明によることが多大であることを知っておく必要があると思われる。
日本はいかなる意味で<ファシズム>国家だったかという基本的な問題がまずあって、丸山真男のそもそもの出発点が誤っている可能性が大だが、その点は別としても、社会主義・ソ連を含めて<民主主義>陣営と一括して理解することに、相当の欺瞞があったと言うべきだろう。
かかる<民主主義>概念の曖昧さ、「人民民主主義」とか称して社会主義は「民主主義」と矛盾しないと説かれた、その<いかがわしさ>は、1929年のケルゼン・デモクラシーの本質と価値(岩波文庫、1948)の序文の中にも実質的にはすでに論及されている。
西部邁いわく-「デモクラシーを(民衆の政治ではなく)民『主』主義と訳したことの非が咎められなければなりません。民衆政治そのものは、民衆という名の『多数者』の『参加と決定』という一個の政治方式をしか意味しません」。
さらにいわく-「いいにくいことをあっさりいうと、その多数者がおおむね阿呆ならば、愚かしい議論と過てる決定がなされるということです」。
さらに<民主>主義にも論及が進む。西部によれば、<民「主」と称して政治に「主権」概念が持ち込まれて、「民意」が「神意」も同然と見なされた。元来の政治学は古代アテネの「民衆政治」批判だったが、「民主主義」礼賛は「現代の金科玉条」になってしまった。「民衆政治」に「民主主義」の衣装が着せられ、自然の成り行きとして、「民意」が誰も逆らってはならぬ「神意」となった。>
西部邁の議論をしばらくメモしてみようか。
同趣旨の文章が、たぶん次の3つある。
①「平成デモクラシーの紊乱は、…民衆という名の政治観客が自分らの醜行に茫然自失するに至るまでは、止むことがないのである」(p.49)。
②「社会のあらゆる部署の権力が大衆の代理人によって掌握されたという意味での『高度』な大衆社会は、大衆が自分らの無能無策に嫌気がさして沈黙に入るまでは出口なしなのだと、諦めておかなければならない」(p.53)。
③「大衆にできるのは『有能な人材をすべて引きずり下ろしたあとで、”人材がいなくなった”と嘆いてみせる』ことくらいなのだ。大衆の演出し享楽する『残酷な喜劇』には終わりがない。そうなのだと察知する者が増えること、それだけが、大衆喜劇としての民主主義に衰弱死をもたらしてくれる唯一の可能性である」(p.58)。
そして、①「民衆という名の政治観客が自分らの醜行に茫然自失する」こと、②「大衆が自分らの無能無策に嫌気がさして沈黙に入る」ことはあるのだろうか、という想いに囚われざるをえない。ある程度はレトリックなのだろうが、③「大衆喜劇としての民主主義」が「衰弱死」することなど、未来永劫ありえないのではないか、と思わざるをえない。
だとすれば、私の人生などいつ果てても不思議ではないとしても、日本人は末永く、③「大衆喜劇としての民主主義」と、多少は工夫を凝らして、かつ「民主主義」を神聖化することなく、付き合っていかざるをえないのではないか。
なお、この西部邁の文章を読んでも、デモクラシーとは「民衆政治」と訳す、又は理解するのが適切のようだ。
長谷川三千子・民主主義とは何なのか(文春新書)にも書かれていたと思う(確認の手間を省く)。イズムではないのだから<-主義>ではなく<民主制>又は<民主政>の方がよいのだろうが、さらには「民主」という語も、<主>の意味は元来はなかったと思われるので不適切だろう。もっとも、概念は語源・原意にとらわれる必要はなく、日本には、「民主主義」という、デモクラシー(democracy、Demokratie)とは異なる、日本産の概念・言葉がある、というべきか。
もはや新鮮味のないテーマになってきたが、産経の山本雄史記者が<安倍首相は空気を読めていない>→<空気を読んで退陣すべきだ>と主張した、その根拠は一体何だったのだろう。
単純には、参院選挙で与党が過半数を取れなかったから、あるいは自民党が惨敗(大敗)したから、ということなのだろう。しかし、もはや論じないでおくが、政治的に安倍退陣はありえたとしても、安倍退陣という論理的帰結が不可避的に出てくるわけではない。このことは、現実の政治・政界の動き、現実の各新聞や識者の論調からもすでに明らかだ。
にもかかわらず、7/30の段階で山本雄史は上のような主張を簡単に行ったのだろう。
できるだけ、この人の書いていることをフォローしてみる。とは言っても、論理・理論・論拠・理屈らしきものが見あたらないので困る。
冒頭の<>→<>が何の論理的裏付けもないことは言うまでもない。
8/01の山本氏のブログに書いてあることが、結局この人の言いたいことを簡潔に示していると思われる。いわく、自民党活動家たちに「共通しているのは、国民の声を受け止めようという、真摯な姿勢である」、「現場の自民党関係者も皆、今回の結果を深刻に受け止め、…」、「国民の審判を真摯に受け止めることが、今の自民党に最も必要だと思う」。
このブログは7/30ブログへの大きな反発に対して、あらためて、自民党関係者の<現場の声>を素材にして反論しているかのようだ。
だが、自民党活動家たった3人の声では迫力がないし、「現場の自民党関係者も皆」と書かれてもそうかな?と感じてしまうのだが、何よりも、この人たちは「国民の声を受け止めようという、真摯な姿勢」をもち、「今回の結果を深刻に受け止め」ているのであって、これらのことは安倍首相退陣を決して意味していない、ということが重要だ。自民党関係者は「国民の審判を真摯に受け止める」ことが必要だろう。そのとおりだ。だが、なぜ、そのことが安倍退陣の必要性を意味するのか。
<真摯に受けとめること>と<安倍退陣>との間にはどのような論理的関係があるのか。前者の一つが後者かもしれないが、他の可能性は全くないのか。両者はなぜ=で結ばれなくてはならないのか。書くのがバカバカしくなってきる。耐えられないほどの幼稚さだ。
この両者の媒介項が、山本雄史の頭の中には全くないのだ。
同旨のことは諸コメントへの対応コメントの中でも延々と反復されている。以下で、できるだけ多数の引用を試みるが、別のコメント者に対する返信内の文の一部だ。
①選挙民が「「ノー」を言っていることを、もう少し真剣に受け止めないと本当にマズイですよ、という意味…」。選挙民がノーと言っている、とは具体的にいかなる意味なのか。なぜそれが、安倍首相は退陣せよ、という意味になる又はつながるのか? ここでも「真剣に受け止め…」という語がある。これが何故、安倍退陣とイコールになるのか。
②「国民の審判という事実を、メディアも政治家ももっと真摯に受け止めないといけないな、という気も…」。そもそも「国民の審判という事実」を「真摯に受け止め」る、とは一体どういう具体的意味なのか? このことの具体的意味を全く明示しないで、どうやら安倍首相退陣のことと理解しているようなのが山本雄史なのだ。致命的な説明不足、「思い込み」による単純な結論づけ。
③「国民をナメてはいけないと思います。なぜ「美しい国」が届かないのか。そこのところをきちんと考えないと今後、傷は深まるとのは必至ではないか」。やや別の論点だが、のちに論じる点と関係があるので引用しておいた。
④首相が簡単に辞任すれば国益に反しないかとのコメントへの、「そういう側面もあるかと思いますが、国民は「ノー」を突きつけているのも事実です」。①と同じ。選挙民がノーと言っている、とは具体的にいかなる意味なのか。なぜそれが、安倍首相は退陣せよ、という意味になる又はつながるのか? バカバカしい。
⑤「不信任とみられても仕方がない負け方だと思う」。「不信任」ということが首相退陣要求という意味だとすれば、何故、参院選の結果をそう「みる」のかどうか。見解・分析の相違だろう。そして、山本のそれは朝日新聞と全く同じ。
⑥マスコミが「仮に強引に空気をつくっていたとしても、国民の審判、判断は尊重するべきだと思いますが…」。「国民の審判、判断は尊重するべきだ」とは、具体的にどういう意味なのか。なぜ、これが安倍退陣の必要性に論理的につながるのか。本当にバカバカしい。それとここでは、「仮に」と条件付きながら、「強引に作り上げられた空気」であっても<国民の審判、判断は尊重するべき>と主張している部分に、別の論点との関係で注意しておきたい。
⑦「王道を行っているのであれば、惨敗結果をもう少し真摯に受け止めた気もする」。「惨敗結果をもう少し真摯に受け止め」るとは具体的にどういう意味なのか。なぜ、これが安倍退陣の必要性に論理的につながるのか。既述。
⑧「国民の審判を尊重するのは基本だと思います。無党派層はマスコミに踊らされるほど、無知ではない」。前半については、「国民の審判を尊重する」とは具体的にどういう意味なのか。なぜ、これが安倍退陣の必要性に論理的につながるのか。既述。後半は、マスコミ信仰・国民信仰で別の論点に関係する。
⑨「昨今の国民のメディアリテラシーは高いと感じています。ネットの登場で、賢明な国民はさらに自分の頭で考えていると思うのですが…」。他マスコミ(とくに朝日)批判をしないこの人の特徴として便宜的に引用しておいた。
⑩「国民がノーを突きつけているという事実をこの人はわかっているのかなあ?と思わせるような発言が多かったので…」。①・④と同じ。
⑪「国民の審判が下ったにもかかわらず、会見などの受け答えをみていると、安倍首相自身が現在の状況を把握されていないのではないか?という疑問を私は持ち…」。⑥・⑧と同じ。バカバカしい。
⑫「国民の審判を安倍首相は本当に受け止めているのか、会見の受け答えをみていて、シンプルにそう思った」。上と同じ。「シンプルに」=単純に思った、と<自白>している。
⑬「安倍首相自身が、自身の置かれている状況を正確に把握しているように思えなかった」。これはいかなる意味か。まさか<退陣(辞任)すべき状況>の意味ではないと思うが。ちなみに私も、安倍首相の続投記者会見をテレビで観ていた。
⑭「国民に伝わらなかった、という事実をもう少し安倍首相は理解した方がいいのでは…」。問題は「理解した」上でどうするかで、むろん退陣につながりはしない。
⑮「国民の審判が仮に間違っていても、それを重く受け止めるというのは民主主義の基本だ」、「「民意」はきまぐれですが、それでも安倍首相の理念がなぜ国民に伝わらなかったのか、メディアだけの責任ではない…」。私の簡単なコメントへの返答の一部。前半は別の論点に関係するので引用した。後半は、⑧・⑨と同趣旨の反復。
⑯「論理的には政権選択選挙ではありませんが、3年に1度行われ、さらに過去に政局を動かしてきた例の多い国政選挙ということで、「現政権に対する評価を見る選挙」的な位置づけにあります…」。いちおう肯定しておこう。だが、かりに「現政権に対する評価を見る選挙的」なものだったとしても、そのことが何故不可避的又は論理的に安倍首相退陣の必要性とつながるのか、さっぱり分からない。
以上、少し余計なところも引用したが、安倍首相が空気を読めず退陣しないことを批判する論理として山本雄史という新聞記者が持ち出しているのは、参院選挙における<国民の審判の結果>を<尊重すべき>・<真摯に受けとめるべき>という、冒頭にすでに書いたことに尽きる。同じことを何度もオウムのように繰り返すだけだ。
これでは話にならない。返信ではなく、山本ではないコメント者の方にむしろ、引用したい・聞くべきものが多かった。
<国民の審判の結果>を<尊重>し<真摯に受けとめる>ということは安倍首相も語っていることで、こんなことが同首相が辞任すべき理由にならないことは明らかだ。
今回はいささか無駄足を踏んだ感もあるが、この人が前提としている「民主主義」観も問題があると思われるので、さらに別の回に扱う。
なお、選挙結果を真摯に受けとめる気持ちがあろうとなかろうと、選挙結果によって各政党の議席配分が決まり、参院では野党が多数となったために、衆院を通過した法律案も参院では通過せず法律として成立しない可能性が制度的に出てきた。このことこそがまさに、<国民の審判の結果>の制度的効果なのだ(他にも参院議長職等々があるが)。それ以外のことは、すべて、<政治>の世界のこと。参院選敗北で首相が退陣した(そして同じ自民党による別の政権ができた-見方によれば自民党内での「たらい回し」だった-)例がこれまでに二度あったが、今回の事例は、「大敗」と言われる敗北だったにもかかわらず首相が退陣しなかった新しい先例ができたにすぎない。
山本雄史よ、どこに法的又は政治的な問題があるというのか。
立ち入らないが、山本の8/01ブログに対する「自民党下野論」の方が山本氏の論よりは筋が通っている。自民党(総裁は安倍だが)が敗北したのであって、山本の言うように<国民の審判の結果>を<尊重すべき>・<真摯に受けとめるべき>ならば、山本の言うように今回の選挙が「現政権に対する評価を見る選挙的」なものだったとすれば、<民意>は民主党を選択していることになり、自民党は野党になって、第一党の民主党に政権を譲らなければならないのではないか。内閣の組成を民主党はしなければならないのではないか。
<国民の審判>が下った対象、<国民がノーとつきつけた>対象をなぜ山本雄史氏は安倍内閣・安倍首相に限定するのだろう。それらの対象は自民党それ自体とも十分に解釈できる。とすると、山本は、<民意>を尊重して自民党は下野して民主党に政権を明け渡せ、と主張しなければならない筈なのに、何故しないのか。一年半前の衆院選時よりも今回の方が<新しい(従ってより正確な現在の)民意>だという論拠で補強することすらできるではないか。
じつはここにも私は、とくに朝日新聞の主張(策略)の影響を山本雄史にも見る。4月の都知事選挙の前、それもおそらくは安倍内閣成立直後から、朝日新聞は7月参院選・自民党敗北→安倍退陣を企図していた。4月の都知事選挙の前に民主党は菅直人を立てよと朝日新聞が主張した際、はっきりと、<参院選に向けて勢いをつけるためにも>という旨を社説で書いていた。朝日新聞の狙いは自民党下野ではなく(これは政治的にはじつは困難なことを朝日新聞も分かっている)、安倍首相退陣だったのだ。だからこそ、今でもそうだろうと思うが(もう諦めた?)、安倍・自民党敗北のための<政治ビラ>をまき続けたのち、<安倍辞めよ>と大キャンペーンを張っているのだ。その影響が山本にも現れて、<安倍は辞めるか>・<安倍首相は辞めるべきか>というとくに朝日新聞によって意図的に作られた争点問題への強い関心をこの人に持たせたのだと思われる。前々回に書いたが、山本自身が多数派の他マスコミの起こした「風」に巻き込まれてしまったのではないか。
7/29の夜から翌日未明にかけてのテレビ放送を観ていると、安倍首相が続投表明をしたあとで、それを疑問視する発言・コメントが多かったように思う。
それもいちおう<政治評論家>を名乗っている者がそういう発言をすることは別に不思議ではないのだが、奇妙に思ったのは、番組のキャスター類(要するに司会進行役が基本のはずだ)やさらにはあろうことか番組のふつうのアナウンサーまでもが、何か喋らないと時間が潰れなかったのか、平気で安倍首相の行動・判断を批判又は疑問視する発言をしていたことだ。翌日の彼らの発言・コメントも含めておいてよい。
日本のテレビ局のキャスターやアナウンサーはいつからそんなに<エラく>なったのか。いつから<政治>を論評できる資格を実質的にでも身に付けたのか。
<しろうと>が生意気にあるいはエラそうに電波を使って多数視聴者に<したり顔>で語っているのだから、じつに滑稽であるととともに怖ろしい、日本のマスコミの姿だと感じた。それも政権側を、あるいは敗戦した側を批判しておけば<多数大衆に受けて>無難と考えたのか、政権側を批判するのが<進歩的・良心的・知的>で、そのようなコメントの方が格好良い又は自分をエラく見せられると考えたのか、上述のような内容の発言・コメントなのだから、度し難いバカバカしさを感じた。
ヘンなのは民放各局だけではない。30日に入ってからの島田敏夫というNHKの解説委員の発言・解説的コメントは、録画していないので正確に再現できないが、少なくとも私から見れば、相当に<偏り>のあるものだった。視聴率が低くてあまり注目されていないが、日付が変わってからのNHKの政治がらみのニュース解説には??と感じさせる奇妙なものがあると感じていたが、島田敏夫なる人物のコメントも奇妙だった。
また、島田および上で触れた民放各局のキャスター類にも共通することだが、そして今に始まったことでもないが、内閣総理大臣という国家機関を担当している者に対する慰労の念などこれっぽっちもなく、内閣総理大臣担当者に対する儀礼的でもいい敬意すらなどこれっぽっちも示さず(むろん首相への直接の質問者は最低限の丁寧さはあったとは思うが)、安倍と呼び捨てているような雰囲気で、あれこれと批判・疑問視しているのも奇妙に感じた。
そのような人たちは内閣総理大臣たる職務の重要性・大変さを理解したうえで発言しているのか疑問に思ったものだ。大衆注視の舞台の上で何かを<演技している>のが政治家ではない。演技かゲームプレイの巧さ・下手さをヤジウマのような感覚でプレイヤーと対等な感覚で論評する、というのが国政選挙にかかる発言・コメントではないだろう。
元に戻れば、7/31午後7時半からのNHK・クローズアップ現代の国谷裕子の言葉・雰囲気もヒドいものだった。
安倍続投が気に入らない、問題にしなければならない、何故自民党内で続投批判が大きくならないのか、という関心に立脚して彼女は喋っていた。原稿が別の政治記者によって書かれているとすれば、その政治記者の気分をそのまま画面上で伝えたのかもしれないが、明らかに公平さを欠く報道の仕方だった。画面に登場した政治記者の方がまだ冷静又はより客観的だったのが救いだったが、ともあれ、NHKの報道等の仕方・内容は決して安心して観れるものだけではないことは十分な注意を要する。政治記者クラブの世界の意識・雰囲気は一般国民又は心ある国民のそれらとは相当に異なっている可能性がある、と想像しておくべきだろう。
最後にもう一点指摘したいのだが、次のことをあらかじめ一般論として述べておきたい。
民主主義理念にもとづく有権者国民の投票の結果は、<正しい>または<合理的>なものだろうか? 答えは勿論、一概には言えない、だ。選挙結果は歴史的に見て<正しい>または<合理的>とは言えなかった、と評価されることは当然にありうる。
民主主義はつねに正しい又は合理的な決定を生み出す、というのは幻想だ(だから私は直接民主主義的制度にはどちらかと言うと反対だし、限られた範囲での住民投票制度の導入にも政策論として消極的だ)。多数の者が<参加>したからより<正しく>又はより<合理的に>決定できる(た)、と考えるのは一種の<幻想>にすぎない。
民主主義はあくまで手続又は方法なのであって、生み出される結果の正しさ・合理性を保障するものではない。ここで民主主義を「選挙」と言い換えてもよい。くどいが、「民意」がつねに<正しく><合理的だ>と理解すれば基本的な誤りに陥る。
このような観点から、読売新聞7/31夕刊の編集委員・河野博子の「行動を起こす」と題するコラムを読むと、なかなか興味深いし、素朴な誤りに取り憑かれていると感じる。
この人は次のように書く。「有権者の投票」という「アクション」が「自民党大敗をもたらした」。「年金、政治と金の問題、閣僚の問題発言に、国民は肌で「これはおかしい」と感じ、反応した。頂点に達した不信がはっきりした形で示された」。これをどう今後に生かすかが問題で簡単ではないが、「しかし、信じたい。人びとのアクションの積み重ねが世の中を、一つ、一つ変えていくのだ、と」。
これは読売新聞に載っていたのであり、朝日新聞ではない。この河野博子が何を分担担当している編集委員なのか知らないが、上の文章はヒドい。
第一に、「有権者の投票」という「アクション」とその結果を100%肯定的に評価している。読売社内にいて、一部マスコミ(つまり朝日新聞等)の<異常な反安倍報道ぶり>に何も気づかなかったのだろうか。また、読売は社説で選挙結果に伴う衆参のねじれ等から生じる混乱等に<憂慮>も示していたのだが、そんな心配は、上の河野コラムには微塵もうかがうことができない。
第二に、今回の結果をもたらしたような「アクションの積み重ねが世の中を、一つ、一つ変えていく」と結んでいる。ここでも言うまでもなく、選挙結果の肯定的評価が前提とされている。
さて、この河野という人物は、選挙の結果=「民意」はつねに<正しい>又は<合理的>なものだ、という素朴な考え方にとどまっいるのではないか。このような考え方が<正しい>又は<合理的>なものではないことは上に述べた。
上で書くべきだったが、ヒトラーは合法的に・民主主義的に政権を獲得し、合法的に・民主主義的に実質的<独裁>政権を樹立した。民主主義は結果の正当性を保障しない。
朝日新聞と同様に今回の選挙結果を、投票までの種々の要素をヌキにして結果としてはそのまま<正しい>ものと判断しているなら、読売から朝日に移籍したらどうか。
第二に、「アクションの積み重ねが世の中を、一つ、一つ変えていく」などというのは、失礼ながら、少女の描く政治幻想とでもいうべきものではないか。
問題は「アクション」の中身なのであり、いくらつまらない、あるいは有害な<アクション>が積み重なっても「世の中」は良くならないのだ。「世の中を、一つ、一つ変えていく」とは、文脈・論旨からすると<良い方向に変えていく>という意味だろう。
こんなふうには、絶対に言えない。何かのアクションの積み重ねによって世の中が良い方向に変わるのなら、こんなに簡単なことはない。改良・改善の方向への動きを阻止・妨害する「アクション」も生じうることは、一般論としても明らかではないか。多言はもうしないが、この筆者は単純素朴な<進歩主義者>なのかもしれない。
読売新聞の解説委員までもが(と言っておく)上に簡単に紹介したような文章を書いて活字にしてしまうところに、日本のマスメディアの大きな恐ろしさがある。
読売新聞の解説委員はなんと、要するに、今回の投票のような国民のアクションの積み重ねで世の中は良くなる、と書いたのだ。朝日新聞等のおかげで論じられるべき争点は論じられず、結果として「安倍改革」・「安倍政治」の進行を滞らせることになったのが、今回の選挙結果なのではないか、読売新聞自体もこのことをある程度は理解し、憂慮し、警告を発しているのではないのか。河野博子コラムは読売全体の論調からも外れている。
小沢一郎・日本改造計画(講談社、1993)とは、大きな古書店には4、5冊も並んでいる、小沢が自民党を脱党した頃に出した本だ。この本には、大嶽秀夫の本を紹介する中でも言及し、大嶽のおおよその理解も紹介した(7/17)。
この本のp.252にはこんな文がある。
「民主主義の前提が日本人に欠けたまま…実際には民主主義が根づかないまま現在に至っている。…/民主主義の土壌をつくるはずの戦後教育も、その使命とは裏腹な方向に進んできたのではないだろうか。自己の確立どころか、非行・犯罪の増加、学校と家庭での暴力、麻薬やエイズの拡大など、青少年の自己の崩壊さえうかがわせる問題が深刻化しているのが現状である。教育がこうした荒廃状況と無関係であるとは、誰も断言できまい。/…教育改革を断行しなければならない」。
第一に、こう書いたこの人が現在率いる政党は、なぜ自民党の教育基本法改正案に反対投票したのか。なぜ教育再生関係三(四)法案に反対したのか。
考え方が変わっていないとすれば、自民党に同調だけはしないという<党利党略>のために反対したのだ。理念と行動が一致しないこの人物を私は全く信用していない。
ついでに第二に、上では日本の「民主主義」の未成熟さを嘆いているが、カネにかかわる、<大衆(衆愚)>に解りやすい問題を選挙の争点化し、<生活が第一>などという<大衆(衆愚)>の心に一番響きそうなキャッチフレーズを採用したのはいったい誰なのか。
この小沢という人物は、日本人の<弱点>あるいは<大衆民主主義>=<衆愚政治>の問題点を熟知しつつ、あえて、その弱点を衝いた問題を争点とし、最も<大衆(衆愚)>受けしそうなスローガンを掲げているのだ。
彼の少なくともかつての考え方が<生活が第一>などと要約できるものでないことは、別の機会に書くだろう。
小沢という人物は、本気・本意を胸の裡に隠した<策士>だ。さすがに<選挙上手>と言われるだけのことはある。
すでに読んだ大嶽の本に依れば、小沢一郎とは、かつては、地域・地元利益(自民党)、職業(=公務員・組織労働者)利益(社会党)という<集票構造>を壊そうとした人物ではなかったか。
それが今はどうだ。街頭にあまり立たず、労働組合の本部や農業団体の事務所をこまめに回って地域・地元利益も職業(=公務員・組織労働者)利益も代表しようとしている。
この人物を私は全く信用しない。この人の言葉と本音はおそらく全く違う。<政略家>に騙されてはならないだろう。こんな<政略家>が率いる政党を支持し勝利させることは、日本に歴史的な禍根を遺すだろう。
「①国民が権力の支配から自由であるためには、国民自らが能動的に統治に参加する民主制度を必要とするから、自由の確保は、国民の国政への積極的参加が確立している体制においてはじめて現実のものとな」る。
「②民主主義は、個人尊重の原理を基礎とするので、すべての国民の自由と平等が確保されてはじめて開花する、という関係にある。民主主義は、単に多数者支配の政治を意味せず、実をともなった立憲民主主義でなければならない」。
以上には、「自由」・「民主制度」・「国民の国政への…参加」・「民主主義」・「個人尊重の原理」・「平等」等の基礎的タームが満載だ。そして、それらが全て対立しあうことなく有機的に関連し合って一つの理想形態を追求しているような書き方だ。
阪本昌成の本の影響を受けて言えば、上の文は、諸概念の「いいとこ取り」であり、「美しいイデオロギー」であって、とりわけ「自由」・「平等」・「民主」それぞれが互いに本来内包している緊張関係を無視又は軽視してしまっているのではないか(ついでに、上にいう「立憲民主主義」とは一体どういう意味なのだろうか)。
上の①は<権力からの自由>のためには<民主制度が必要>と言うが、<権力からの自由>のためには<民主制度のあることが望ましい>とは言えても、<必要>とまで断言できるのだろうか。
上の②は<民主主義の開花>のためには<国民の自由と平等の確保>が前提条件であると言うが(「…されてはじめて開花する」)、国民に<自由と平等>のあることが<民主主義の「開花」のためには望ましい>と言えても、前者は後者の不可欠の条件だと断言できるのだろうか。
<有機的な関連づけ合い>がなされているために、却って、それぞれの固有の意味が分からなくなっている、又は少なくとも曖昧になっているのではないか。
それに次のような疑問が加わる。
消滅した国家に、ドイツ「民主」共和国、ベトナム「民主」共和国、現存する国家(らしきもの)に朝鮮「民主主義」人民共和国というのがある。これらは国名に「民主(主義)」を書き込むほどだから、自国を「民主的」な又は「民主主義」の国家だと自認し、宣言している(いた)ことになる。
しかるにこれらの国々において、上の②のいう「すべての国民の自由と平等が確保されてはじめて…」という条件は充たされていた(いる)のだろうか。これらの国々の国民に「自由」がある(あった)とはとても思えない。
とすると、これらの国々の資本主義諸国又は自由主義諸国に対抗するために本当は「民主主義」は存在しないことを知っていながら僭称していた(ウソで飾っていた)のだろうか。
私はそうは考えていない。彼らには彼らなりの「民主主義」観があり、「民主主義」もあると考えていた、と思っている。
唐突だが、日本共産党は、同党の運営は<民主主義的ではない>とはツユも考えてはいないと思われる。つまり、一般党員(支部所属)→党大会代議員選出→党大会・中央委員選出→中央委員会設立(議長選出)→幹部会委員選出→幹部会委員会設立(委員長等選出)→常任幹部会委員選出→常任幹部会設立という流れによって、究極的には一般党員の意思にもとづいて、中央委員会も幹部会委員会も(委員長も)常任幹部会も構成されており「民主(主義)」的に決定されていると説明又は主張しているだろう(地区・都道府県レベルの決定については省略した)。
だが、上の過程に一般党員から始まる各級の構成員に、上級機関の担当者を選出する本当の「自由」などあるのだろうか。
筆坂秀世・日本共産党(新潮新書、2006)p.84-によると、定数と同じ数の立候補者がいて中央委員の選出も「実態は、とても選挙などといえるものではない」。また、p.89-によると中央委員選出後の第一回中央委員会では、仮議長選出→正式議長選出→幹部会委員長・書記局長の推薦することの了承(拍手で確認)→同推薦(拍手で確認)→その他の幹部会員も同様という過程を経るらしい。
ある大会(22回)のときの具体的イメージとしては、「大会前に…人事小委員会が設置され、大会前に…四役の人事案がすでに作成され、常任幹事会で確認されていた。/一中総では幹部会委員、第一回幹部会では常任幹部会員が選出される。このときの第一回幹部会などは、一中総の会場の地下通路に五五人の新幹部会委員が集まり、全員が立ったままで、不破氏が二〇人の常任幹部会員の名簿を読み上げ、拍手で確認して決まった」(p.90-91)。
かかる過程のどこに「自由」はあるのだろう。だが、一般党員・一般中央委員等の意思に基づいているかぎりで「民主主義」は充たされている、とも言える。
日本共産党の話をしたが、同じ事は、旧東独・旧ベトナムでも基本的には言えたのだろう(北朝鮮については現在は形式的にすら「民主主義」が履践されていない可能性がある)。
言いたいのは、「民主主義」とは「自由」や「平等」の条件がなくても語りうるし、そのような意味での「民主主義」の用法も誤りではない(むしろ純化されていて解りやすい)ということだ。
マルクス主義憲法学者の杉原泰雄・国民主権の研究(岩波、1971)は<ルソー→一七九三年憲法→パリ・コミューン→社会主義の政治体制>という歴史の潮流を語り、現に見られる「人民主権憲法への転化現象」についても語っていたのだが(p.182、6/21参照)、「人民主権憲法」とは「人民民主主義」憲法(=社会主義憲法)の意味ではないかと推察される。
すなわち、民主主義にも、マルクス主義によれば、あるいは現実に社会主義国が使った語によれば、「ブルジョア民主主義」と「人民民主主義」とがある。旧東独等での「民主」とは日本共産党内部の「民主主義」と同様の「人民民主主義」又は「民主集中制」だったのだろう。
こうしたマルクス主義的用語理解の採用を主張したいわけではない。ただ、現実には「自由」とは論理的関係なく「民主主義」という語は使われてきたことがあることを忘れてはならないだろう。
「自由」と「民主」の双方を語るのは良いし、双方ともに追求するのも構わないだろう。だが、上の芦部信喜氏が説くようには、両者は決して相互依存関係にはない、と理解しておくべきだ、と考える。それぞれに固有の価値・意義が、区別して、より明瞭に語られるべきだ。
以上、阪本昌成・リベラリズム/デモクラシー第二版(有信堂、2004)p.90のあたりに刺激を受けて書いた。阪本の主張を紹介したのでは全くない。但し、阪本は芦部信喜氏の上の②につき「若い憲法研究者がこの民主主義観にはもはや満足することはないものと、私は期待する」とコメントしている。
「私が犯した最大の間違いは、旧ソ連・中国などの社会主義国を本当に理想を追求している国だと思い込んだことである。…20歳前後…に気づくことができた。社会主義と言われる国々は、人間性を否定する最悪の独裁国だと気づいた」。
戦後1970年代くらいまでにかかる幻想をもった(思い込んだ)人々は、悪びれることなく正々堂々と誤っていたことを認めるべきだし、そのことこそ讃えられるべきだ。
日本には「変節」・「裏切り」という言葉もあって、いったん社会主義・マルクス主義にシンパシーを持った(又は共産党・社会党に接近した、さらに入党した)人がそれらから離れることについて本人が自らを精神的に苛むことがありうる。
しかし、疑問をもちつつ社会主義・マルクス主義(日本共産党・社民党)から離れられない人こそ、勇気・正義感がないのだと悟るべきだ。社会主義・マルクス主義は実質的には「宗教」だから、離脱に何らかの苦痛・葛藤が伴うことはありうるが多少はやむをえない。
とくに20歳代、30歳代の若い人たちよ。「科学的社会主義」(=マルクス・レーニン主義)の政党に、かけがえのない、一度しかない一生を賭ける必要は全くない。まだ人生はやり直せる。
日本共産党からすみやかに離れた方がよい。あなた自身と日本・世界のためにも。そう、心から訴える。日本共産党とその追随者に未来はない。
「故郷も、親も、完全に愛することも、完全に憎むこともできない。それは、切り捨てることのできない「自分の一部」になってしまうのだ」。
そのとおりと感じる内容で、声に出して呟くと涙も滲みかける。故郷といえば、某市・某地方であり、そして日本だ。また、両親の「血」を引く私にとって、両親や祖父母は「自分の一部」なのだ。
朝日新聞の昨年10/06付社説の一部はこうだった―「時代の制約から離れて、民主主義や人権という今の価値を踏まえるからこそ、歴史上の恐怖や抑圧の悲劇から教訓を学べるのである。ナチズムやスターリニズムの非人間性を語るのと同じ視線で、日本の植民地支配や侵略のおぞましい側面を見つめることもできる」。
<植民地支配や侵略>の存否自体について議論はありうるのだがそれは別としても、この社説はそれらの「おぞましい側面」を「ナチズムやスターリニズムの非人間性を語るのと同じ視線で」、冷静・冷徹に見つめよと主張している。
<良心的>又は<正義>面を装っているのだろうが、その<おぞましさ>とは過去の日本のものであり、先輩である同胞日本人の行為のことだ。
上の烏賀陽の文と違いここには、「故郷も、親も…完全に憎むこともできない」という感情はない。過去の日本と先輩同胞への「愛惜の念」は全くない。それが朝日新聞だ。国籍不明と評されて当然の新聞、朝日新聞。
「日本列島は無政府状態の色を濃くしているし、レーニン/ヒットラーの全体主義を再現するかのような不気味な土壌をつくりつつある」(p.297)。
「日本の学界・教育界は、大正デモクラシーの大波をかぶってそのままデカルト/ルソー/マルクスの住む島に流れつきそこにとじこもることすでに八十年、理性万能の狂妄から目を覚ますことがない」(p.325)。
ところで、読みながら、失礼ながら何故か、「きっこのブログ」や「きっこの日記」のきっこ?を想起してしまったのは、第六章「平等という自由の敵」の第四節「大衆という暴君」の中の、次のような、紹介されている等の、いくつかの言葉だった(p.298-9)。
オルテガ-「大衆人」は「生の中心がほかでもなく、いかなるモラルにも束縛されずに生きたいという願望にある」。
中川-「道徳」とは…のことだが、「これを欠くか、ない方がよいと願う「大衆人」とは、その本性において、社会主義者・共産主義者のシンパとなりやすい特性をもっている」。
オルテガ-「大衆人」は「倫理・道徳性の欠如」を示し、「忘恩の徒」となる。「忘恩」とは「甘やかされた子供の心理」でもあり、「今日の大衆人の心理図表に…線を引くことができる。…安楽な生存を可能にしてくれたいっさいのものに対する徹底した忘恩の線を…」。
ホイジンガ-「ピュアリリズム(小児病)」とは「子供を大人に引き上げようとせず、逆に子供の行動にあわせてふるまう社会、このような社会の精神態度」のことだ。
ホイジンガ-「ピュアリリズム(小児病)」の特質は「…他人の思想に寛容でないこと、褒めたり、非難するとき、途方もなく誇大化すること、自己愛や集団意識に媚びるイリュージョンに取り憑かれやすいこと」だ。
ル=ボン-「衝動的で、昂奮しやすく、推理する力のないこと、判断力あよび批判精神を欠いていること、感情の誇張的であることなど…こういう群衆のいくつかの特徴は、野蛮人や小児のような進化程度の低い人間にもまた同様に観察される」。
自戒の意味も込める必要があるが、きっこ?氏に限らず、日本という国家への「忘恩」、上に種々書かれている「小児」性は日本国民のかなりの部分に蔓延しているのではないだろうか。上では「大衆」という言葉が使われ、中川八洋には「大衆蔑視」的ニュアンスが全くなくはないと感じるのは気になるところだが、ほぼ「(一般)国民」と置き換えて読むべきだろう。そして、国民の「忘恩」と「小児」性は、「民主主義」は適切に機能するか、の基本的な問題でもある、とも考えるのだ。
勝谷誠彦は<さるさる日記>の2006年12/12にこう書いていた。
「私はこの国は小泉政権からタライの中を水がザブンザブンと行ったり来たりするようなメディアが囃すと馬鹿踊りが始まる衆愚政治時代に入ったと思っている。」
これを読んで一瞬に感じたのは、では小泉政権以前の時代は「衆愚政治時代」ではなかったのか、とっくに「衆愚政治」だったのではないか、ということだった。森首相、小渕首相、橋本首相…、どの時代であれ、民主主義とは極論すればつまりは衆愚政治のことではないのか。
民主主義は衆愚政治に陥る危険があるという言い方もされるが、民主主義(デモクラシー)、すなわち直訳すれば大衆(民衆)支配政治(体制)とは、「大衆(民衆)」が全体として賢くなく愚かであれば、もともとの意味が「衆愚政治」のことなのだ。
こんなことを書くのも、中川八洋・保守主義の哲学(PHP)の影響だろう。民主主義と平等主義とが結合するとき、「多数者の専制」(バークの語)となる。「多数者」の判断が誤っていれば、少数者にとっては我慢できない圧政となる。
トクヴィルはこう言ったという。「デモクラシー政治の本質は、多数者の支配の絶対に存する」。また、中川によれば、デモクラシーを「専制」又は「暴政」と捉えるのは、「英米とくに米国では普通」のことだという。
民主主義を最高の価値の如く理解している日本人も多いのかもしれないが、多数の(過半数の)者が支持した決定は相対的には合理的なことが多いだろうという程度のことにすぎず、少数者の判断の方がより合理的でより正しい可能性は客観的にはつねに残されている(何がより合理的でより正しいかを決定するのがそもそも困難なのだが)。
民主主義という「多数者の専制」を排するために存在するのが、国民により「民主的」に選出された代表が構成する議会の「民主的」な決定(法律の制定等)も憲法には違反できないという意味で、憲法だ。
憲法は民主主義と対立する、それを制約する価値を秘めてもいることを理解しておいてよいだろう。
民主主義なるものを最高の価値の如く理解していけないのは、民主主義の名のもとに、「人民の名」による圧政が現実にあったし、今でもあることでも判る。社会主義・東ドイツの国名はドイツ「民主」共和国だったし、北朝鮮の国名は朝鮮「民主主義」人民共和国だ。
民主主義と平等原理が結合するとき、容易に社会主義への途を開くことにもなる。日本共産党系の大衆団体が「民主」の名を冠していることが多いのも理由がある。民主主義文学者同盟(機関誌は「民主文学」?)、民主青年同盟(民青)、全国民主医療機関連合会(民医連)、民主商工会…。日本共産党が民主主義の徹底を通じて社会主義へという途を展望しているのは、周知のことだろう(日本共産党を支持する多数派の形成は容易に同党の「多数」の名による=「民主主義」の名による一党独裁を容認することになろう)。
フォン・ハイエクの有名な著は隷従への道(東京創元社)だが、中川によると、このタイトルは「デモクラシーの全体主義への転換」を論じるトクヴィルの次の文章に由来するのだという(p.277)。
「平等は、二つの傾向をうみ出す。第一の傾向は、…突然に無政府状態になることがある。第二の傾向は、…もっと人知れず、しかし確実な道を通って人々を隷従に導く」。
なお、ここでの「隷従」状態とは、トクヴィルやハイエクにおいて、「全体主義」の支配を意味する。そして、「全体主義」とは共産主義又はファシズムのことだ。
安倍首相が、「人権、自由、民主主義、法の支配」の<価値観外交>を進めてよいし、中国との関係では進めるべきなのだが、上の4つの全てについて、~とは何かという厳密な議論が必要であり、現に議論されてもきている。
中川八洋の具体的な主張には賛成し難い点もあるのだが、読了まであと70頁ほどになった彼の本が、知的刺激に満ちていることは間違いない。
2月12日又は13日に読み始めたとみられる中川八洋・正統の哲学・異端の思想-「人権」「平等」「民主」の禍毒(徳間書店、1996)全358頁を4/01の午後9時頃に、45日ほど要して漸く全読了した。むろん毎日少しずつ読んでいたわけではなく、他の本や雑誌等に集中したりしたこともあって遅れた。
刺激的だが重たい本で、各章が一冊の大きい本になりそうな程の内容を凝縮して箇条書きになっているような所もあり、又ややごつごつした文章で読み易いとはいえない。だが、まさしく、この本p.351に引用されているショーペンハウエルの言葉どおり、「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間とかには限りがあるからである」。中川も「近代政治哲学(政治思想史)」の「ガイドライン」のつもりでも書いた旨記しているが、全部を鵜呑みにするつもりはないにせよ、短い人生のための今後の読書の有益な指針を提供してくれているように感じる。
内容を仔細に紹介しないが、究極的にはマルクス主義という「異端の思想」の批判書ではあるが、マルクス主義そのものよりも、「正統の哲学」の言辞も引用しながら、それを生んだ哲学的・思想的系譜を示して批判すること、同時に、「進歩」主義、「平等主義」、「人権」思想、「民主主義」又は「人民主権」論等々を批判することに重点がある。私には「狂人」ルソー思想批判とフランス革命批判が強く印象に残った。
デカルト→ルソー・ヴォルテールら→フランス革命→サン=シモンら空想的社会主義→マルクス・エンゲルス→レーニン→ロシア革命という大きな流れに、デカルトとフランス革命→ヘーゲル・フォイエルバッハ→マルクス・エンゲルスという流れを追加して、ほぼマルクス(及びロシア革命)の思想的淵源が解る。中川によれば、「理性主義」信仰のデカルト、平等・「人民主権」論等のルソー、サン=シモン、ヘーゲル、フォイエルバッハの五人はマルクス・レーニン主義という「悪魔の思想」の「五大共犯者」とされる。
一方で「正統の哲学」の思想家等を27人挙げているが、著名な人物は「悪魔の思想」関係者よりも少なく、かつ日本で邦訳本が出版されている割合が少なく、かつ岩波書店からは一冊も出版されていない。戦後日本の「知識人」たちの好みに影響を受けたこともあっただろうが、岩波は公平・中立に万遍なく世界の思想家等の本を出版しているわけでは全くないのだ。この点は注意しておいてよい。
その「正統の哲学」の27人は、-のちの中川・保守の哲学(2004)の表で修正されているが-マンデヴィル、ヒューム、アダム・スミス、エドマンド・バーク、ハミルトン、コンスタン、トクヴィル、ショーペンハウアー、バジョット、ブルクハルト、アクトン、ル・ボン、チェスタトン、ホイジンガ、ベルジャーエフ、ウィトゲンシュタイン、オルテガ、エリオット、ミーゼス、チャーチル、ドーソン、ハンナ・アレント、アロン、オークショット、ハイエク、カール・ポパー、サッチャーだ。
「進歩」、「平等」、「人権」、「民主主義」等々について、この本も参照しながら考え、このブログでも「つぶやく」ことにしたい。
可能性どころか、現実にすでにそうなっているともいえる。私は小泉純一郎に好悪いずれの感情も持たないのだが(むろん宮本顕治・不破哲三よりは好感をもつが)、一昨年の小泉自民党圧勝は「正しい判断のできない愚弄な大衆」の感情をたまたま?巧く掴んだ者たちの勝利だった、というのは完全な間違いだろうか。
中川八洋の本p.312-3は平等主義と結合している民主主義は本質的に、大衆を、そして大衆を相手とする「ジャーナリズム界」を「俗悪化」させる、と説く。全面的に誤った指摘では少なくともないだろう。
もう少し詳しく正確に引用するとこうだ。-「デモクラシーは平等な教育と門地による差別の完全撤廃を伴うから(大学などの)高等教育機関や(新聞・テレビの)ジャーナリズム界につねに「大衆」そのものの疑似知識層を大量に輩出させる」。「これにより…国民全体の精神を野卑の方向に大幅に低下させる教育と煽動がさらに行われるので、俗悪化はますますひどくなる」。「これらの疑似知識層は「大衆」の精神を昂めず逆に卑しくさもしい欲望のみを刺激し、煽動する」。「これらの疑似知識層こそ…あたかも向上の道を説くかの演技(スタイル)をしつつ、心底ではみずから個人の利己一点張りで…、政治の品格をより下降せしめる。また、彼らには公共心は欠如して存在しておらず、現に彼らの「主張」は、…政治を、必ず腐敗に導く働きしかしていない」。
確認しておけば、ここでの「大衆」から生まれた「疑似知識層」とは、大学等や新聞・テレビ等に「巣くっている」教員やジャーナリストだ。
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