秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

毛沢東

2474/西尾幹二批判047—根本的間違い(続4-2)。

 (つづき)
 六 2 ソ連崩壊=「冷戦終了」により時代状況は変化したのであって、「反共」とともに、またはそれ以上に、「反米」を主張すべきだ、という西尾幹二の基本的論調の間違いの原因・背景の第二と考えられるものは、こうだ。
 西尾がA「文芸評論家」あがりで国際情勢や国際政治にまで「口を出す」評論者となったこと自体、そしてBいわゆる<保守論壇>の中で何らかの意味で「目立つ」、すなわち「特徴のある」・「角の立つ」文章執筆者であろうとしたこと。
 前者Aについて
 2017年の「つくる会」20周年会合への挨拶文にある<「反共」だけでなく最初に「反米」も掲げた>という部分に着目して叙述してきてはいるが、既述のように2002年頃の西部邁や小林よしのりとの関係では「反米」という<思想>自体の真摯さは疑わしい。
 だが、その後、引用はしないが自ら「親米でも反米でもない」と一方では明記しつつも、「反米」的主張を強く述べ続けているのも確かであり、その反面で「反共」性は弱くなっている。
 また、国際政治や中国に対する見方も、もともとは一介の「素人」だったらしく、懸命に「学習」したのかもしれないが、ブレがある。あるいは一貫していないところがある。
 例えば、2007年のつぎの文章は、どう理解されるべきなのだろうか。
 「ソ連の崩壊は第三次世界大戦の終焉であり、本来なら国際軍事法廷が開かれ、ソ連や中国の首脳の絞首刑が判決されるべき事件であった。…。
 かくて、ソ連と中国は『全体戦争』の敗北国家でありながら、ドイツや日本のような扱いを受けないで無罪放免となり、大きな顔をしてのうのうとしている。」
 月刊諸君!2007年7月号。
 明らかに、ソ連と中国を「敗北国家」として一括している。
 ソ連が崩壊し諸国に分解して、東欧諸国とともに「社会主義」国でなくなったとして、中国も「敗北」して「社会主義」でなくなったのか??
 日本共産党は<後出しジャンケン>をして1994年にスターリン施政下(たぶん1931-32年頃)以降のソ連は(じつは)<社会主義国でなかった>と認識を変更したが(何とソ連の期間全体の9/10!)、中国もそうだったとは言わなかった。1990年代末には友好関係を回復して「市場経済をつうじて社会主義へ」進んでいると認定した(現在では、「社会主義を目ざす国」性自体を否定している)。
 おそらく西尾幹二は、当時は「文学」・「文芸」か別のことに熱中していて、つぎのことにも無知なのだろう。上記と同様に時期等を確認しないままで書く。
 ソ連と中国は国境で「戦闘」をするなど、対立していた。米ソではなく米ソ中の三角関係があった時期があった(日本の対中外交にも当然に影響を与えた)。中国はソ連を「社会帝国主義国」と称し、「社会主義」国ではないと非難していた(日本共産党が間に入って宥めていた)。中国の首脳が、日米安保条約を容認すると明言したこともあった(対ソ連を考えてのことだ)。
 もっとも、同じ2007年に、つぎのようにも書いた。
 「今後日本人はアメリカに依頼心をもたないだけでなく、共産主義の枠組みの中にある中国に対してはより自由で、…一段と大きい距離を持っていなければならない。」
 月刊諸君!2007年11月号
 ここでは、「共産主義の枠組み」はなおも存在しており、中国はその中にある、とされている。
 また例えば、近年の2020年の書物の緒言の中に、一読しただけでは理解することのできない、つぎの一文がある(実際の執筆は2019年11月のようだ)。
 西尾・国家の行方(産経新聞出版、2020)、p.21-22。
 「1989年の『ベルリンの壁』の崩壊以来、なぜ東アジアに共産主義の清算というこの同じドラマが起こらないのか、アジアには主義思想の『壁』は存在しないせいなのか、と世界中の人が疑問の声を挙げてきたが、共産主義と資本主義を合体させて能率の良さを発揮した中国という国家資本主義政体の出現そのものが『ベルリンの壁』のアジア版だった、と、今にしてようやく得心の行く回答が得られた思いがする」。
 よく読むと、1989年の『ベルリンの壁』崩壊=「中国という国家資本主義政体の出現そのもの」と、ようやく納得した、ということのようだ。
 そもそも欧州とアジアは同じではないのだから、前者と「同じドラマ」が後者で起きると考えること自体が、西尾の本来の「思想」と矛盾しているだろう(「世界中の人が疑問の声を挙げてきた」かは全く疑わしい)。秋月はまだ「起きて」いない、と思っているけれども。 
 問題は「共産主義と資本主義を合体させて能率の良さを発揮した国家資本主義政体」(の出現)という理解の仕方だ。
 この部分の参照または依拠文献は何なのだろうか。
 中華人民共和国という国家の性格または本質について疑問が生じ、議論があることは分かる。だが、こんなふうに単純化し、かつそれで「得心」してもらっては困る。
 上の「出現」の時期について西尾がもう少し具体的にどこかで書いていたが、所在を失念した。
 だが、いずれにせよ特定のある年とすることはできないだろう。「社会主義(的)市場経済」の出現時期も私には特定できないが、鄧小平がいた1992-3年頃だろうか。そうだとすると、2019-20年になってようやく納得した、というのはあまりに遅すぎる。それとも、GDPが日本を追い抜いた頃なのか。しかし、そうなる前に、「政体」自体は出現しているはずだろう。
 西尾幹二の中国を含む国際政治・国際情勢に関する「評論家」としてのいいかげんさ・幼稚さを指摘している文脈なので、上の議論には立ち入らない。
 但し、つぎの諸点を簡単に記しておく。
 ①「国家資本主義」というタームの意味に、どれほどの一致があるのだろうか。
 レーニンのNEP政策のことを「国家資本主義」と称した時期や人物もあった。1949年の建国時にすでに「国家資本主義」という規定の仕方も中国自体にあった。そうであるとすると、今にしてようやく気づくことではない。
 ②西尾幹二によると、現在の中国は資本主義国でも社会主義国でもない、両者を「合体させて能率の良さを発揮した」国家らしいが、これは現在の中国を美化しすぎているだろう。
 ③上のような国家「政体」の出現が、なぜ「ベルリンの壁」崩壊と同じドラマであるのか、さっぱり分からない。「ベルリンの壁」崩壊→旧ソ連圏での「社会主義」諸国の消失だとすると、西尾によっても中国の半分は今でも「社会主義」国なのであって「同じ」ではない。
 ④1921年に中国共産党は設立されたとされ、昨2021年、現在もある中国共産党は創立100周年記念祝典を行った。
 ⑤結党の指導者で、かつ1949年に中華人民共和国を建国し国家主席となった毛沢東は現在もなお、「否定」されていない。
 共産党の歴史、戦後の中国の歴史は現在まで(法的にも)連続して続いている(この点、人々の感情や意識の次元は別として、旧ソ連を「否定」して現在のロシアは成立しており、両者の間に全体的な法的連続性はない)。
 ⑥テレビで見聞きした記憶によると、昨年の中国共産党100年記念式典で「共産主義実現に邁進する」旨が宣言され、同日に共産党に加入した一青年は「人生を共産主義に捧げる」、インタビューに答えて語った。
 以上。西尾幹二に見られる旧ソ連または「共産主義」に対する<甘さ>には、別に言及するだろう。
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 後者Bから次回はつづける。

2169/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節⑥-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき、最終回。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義⑥。
 (51)1957年2月、毛沢東は、「人民間の矛盾について」と題する講演を行った。これは、毛が理論家だと評価される根拠になっているもう一つの主要な文章だ。
 この中で彼は、こう宣言する。我々は慎重に、人民内部での矛盾と人民とその敵の間の矛盾を区別しなければならない。
 後者は独裁によって、前者は民主集中制によって、解消される。
 「人民」の間に自由と民主主義が広がっても、「この自由は指導者の付いた自由であり、この民主主義は中央集権化した指導のもとでの民主主義であって、アナーキーではない。<中略>
 自由と民主主義を要求する者たちは、民主主義を手段ではなく目的だと見なす。
 民主主義はときには目的のように思われるが、実際には一つの手段にすぎない。
 マルクス主義が我々に教えるのは、民主主義は上部構造の一部であって、政治の範疇に属する、ということだ。
 ということはすなわち、結論的分析では、民主主義は経済的基盤に奉仕する。
 同じことは、自由についても言える」(<哲学に関する四考>, p.84-p.86)。
 このことから抽出される主要な実践的結論は、人民内部の矛盾は教育と行政的手法の巧みな連係で処理されなければならず、他方で人民と敵の間の矛盾は独裁によって、つまり実力(force)によって解消されなければならない、ということだ。
 しかしながら、毛沢東が別の箇所で示唆するように、人民内部の「非敵対的」矛盾は、正しくない考えをもつその構成員が自分の誤りを受け入れるのを拒むならば、いつか敵対的矛盾に転化するかもしれない。
 このことが最も分かるのは、毛のつぎのような党員たちに対する警告だ。すなわち、党員たちが速やかに真実を承認するならば、その彼らは容赦されるだろう、しかしそうしなければ、その彼らは階級敵だと宣告され、そのようなものとして処置されるだろう。
 人民内部の見解の対立に関して毛は、正しさと過ちを区別するための6つの標識を列挙する(同上、p.119-120)。
 人民を対立させるのではなく団結させるならば、そうした見解や行動は正しい。
 社会主義の建築に有益であり、有害でなければ、同様。
 人民の民主主義的独裁制を強固にし、弱体化させないならば、同様。
 民主集中制を強化するのを助けるならば、同様。
 共産党の指導的役割を支援するのを助けるならば、同様。
 国際的な社会主義者の団結と世界の平和愛好人民の団結にとつて有益であるならば、同様。//
 (52)民主主義、自由、中央集権制および党の指導的役割に関するこれら全ての言辞には、レーニン=スターリン主義正統派と矛盾するところは何もない。
 しかしながら、実際には差異があるように見える。
 この差異は、こうだ。中国では「大衆」が支配しているとの多数の西側毛沢東熱狂者たちが想像するような意味でではない。そうではなく、中国の党はソヴィエトの指導者たちよりも多く、命じるためのイデオロギー操作の方法を知っていたがゆえに、政府は協議にもとづくという雰囲気をより醸し出している、という意味でだ。
 これは、権威が疑われない革命の父が長期間にわたって存在し続けたことや、中国が圧倒的に農村社会だったことによった。後者は、農民指導者は彼らの領主でもなければならないとマルクスが言ったことを確認している。
 古い文化を代表する階級が実際に破壊され、また情報の流通路がソヴィエト同盟以上にすら厳格に規制されている状況では(毛沢東が述べた「正しい思想の中央集権化」だ)、中央政府の権力を侵犯することなく、地方的な政治や生産に関する多数の問題は正規の政府機構によってではなく地方の諸委員会によって解決することができる。//
 (53)「平等主義」は、たしかに毛イデオロギーの最も重要な特徴の一つだ。
 既述のように、平等主義の基礎は、賃金の差異を排除する方針や全員が一定の量の身体労働をしなければならないという原理にある(指導者と主要なイデオロギストたちは、この要求対象から除外されたと見えるけれども)。
 しかしながら、このことは、政治的な意味での平等に向かういかなる趨勢を示すものではなかった。
 今日では、情報を入手できることは基本的な資産であり、統治に関与するための<必須条件(sine qua non)>だ。
 そして、中国の民衆はこの点で、ソヴィエト同盟の民衆と比べてすら、大切なものを剥奪されている。
 中国では、全てが秘密だ。
 実際には、いかなる統計も公的には利用できない。
 党中央委員会や国家行政機関の諸会議は、しばしば完全に秘密裡に行われる。
 「大衆」が経済を統制するという考えは、上層部以外の誰も経済計画がどうなっているかすら知らない国では、西側にいる毛主義者たちの、最も途方もないお伽噺(fantasy)の一つだ。
 市民が公的情報源から収集することのできる外国に関する情報は最小限度のもので、市民の文化的孤立は完全だった。
 中国共産主義に対する最も熱狂的な観察者の一人であるエドガー・スノウは、1970年に訪中した後で、公衆が入手できる書物は教科書と毛沢東の本だけだ、と報告した。
 中国の市民たちはグループを組んで劇場に行くことができた(個人用チケットは実際に販売されなかった)。また、外部の世界についてほとんど何も教えてくれない新聞を読むことができた。
 他方で、スノウが注目したように、彼らには西側の読者は慣れ親しんでいる殺人、ドラッグ、性的倒錯に関する物語は与えられなかった。//
 (54)宗教生活は、実際には破壊された。
 宗教的礼拝に用いる物品の販売は、公式に禁止された。
 中国人は、一般選挙や警察機構から独立した公的な訴追部署のような、ソヴィエト同盟には残っていた民主主義的表装の多数の要素を、なしで済ませた。ソヴィエトの公的訴追部署は実際には、「正義」と抑圧の両方の執行者だったのだが。
 直接的な実力による強制の程度は、知られていない。
 強制収容所の収容者数について、粗い推測をする者すら存在しない。
 (ソヴィエト同盟ではより多く知られている。これはスターリンの死以降の一定の緩和の効果だ。)
 専門家たちが議論をすることが困難であるのは、中国の人口は大まかに4~5億人と見積もられているという事実からも明らかだ。//
 (55)中国以外に対する毛主義のイデオロギー的影響には、主に二つの起源がある。
 第一に、ソヴィエト同盟との分裂以降、中国の指導者は世界を「社会主義」国と「資本主義」国ではなく、貧しい国と豊かな国に分けた。
 ソヴィエト同盟は、上の前者の一つと位置づけられ、さらには毛沢東によると、ブルジョアが復活しているのが見られる。
 林彪は、「農村地帯による都市部の包囲」に関する赤色中国の古いスローガンを国際的規模で適用しようとした。
 中国の例はたしかに、第三世界諸国にとって明らかに魅力のあるものだ。
 共産主義の成果はっきりしている。すなわち、共産主義は中国を外国の影響力から解放し、多大な対価を払いつつ、技術的および社会的な近代化の途上へと中国を乗せた。
 社会生活全領域の国有化は、他の全体主義諸国でのように、人類を、とくに後進農業国家を汚染した主要な疫病のいくつかを廃棄するか、または軽減させた。疫病とはつまり、失業、地域的な飢餓や大規模な貧困状態。
 中国型の共産主義の模倣が実際に成功するか否かは、例えばアフリカ諸国でのその問題は、本書の射程を超えるものだ。//
 (56)毛主義の、とくに1960年代の、イデオロギー的影響力の第二の淵源は、ある程度の西側の知識人や学生たちが中国共産主義を表装とするユートピア的お伽噺を受容した、ということだ。
 毛主義はその当時に、人間の全ての問題を普遍的に解決するものとして自らを描こうと努めた。
 多様な左翼的なセクトと人々は、毛主義は産業社会の厄害を完全に治癒するものだと、そしてアメリカ合衆国と西ヨーロッパは毛主義の諸原理にもとづいて革命を起こすべきだし、起こすことができると、真面目に信じたように見える。
 ソヴィエト・ロシアのイデオロギー的権威が崩れ落ちていたとき、ユートピア切望者たちは、エキゾティックな東洋に注目した。それはじつに容易に分かるが、中国の事情に完全に無知だったことが理由だ。
 完全な世界と崇高で全包括的な革命を追い求める者たちにとって、中国は、新しい天の配剤のメッカとなり、革命的戦いの最後の大きな望みとなった。-中国がソヴィエトの「平和共存」という定式を拒絶していなかったとすれば、こうではなかった。
 多数の毛沢東主義グループは、中国が大きく革命的信仰心を捨てて政治的対抗者というより「正常な」形態に変化したとき、ひどく失望した。そして、毛主義がヨーロッパまたは北アメリカで現実的な勢力となるのを望むことを明確にやめた。
 西側諸国での毛主義は、既存の諸共産党の地位に顕著な影響を何ら与えなかった、というのは実際のことだ。すなわち、毛主義は何らかの帰結として共産党の分裂を引き起こさず、小さな細片グループがもつ特性にとどまった。
 また、東ヨーロッパでも、アルバニアの特殊な例を除いては、記すに値するほどの成果を生まなかった。
 その結果として、中国は戦術を変換し、イギリス、アメリカ合衆国、ポーランドやコンゴと等価値の独立した救済策だとして毛主義を提示するのをやめて、ロシア帝国主義の仮面を剥ぐことや同盟を追求することに集中した。同盟の追及、あるいは何としてでも、ソヴィエトの膨張を阻止するという共通の利益にもとづいて、影響力を拡大することに。
 実際に、これははるかに見込みがある方向だ、と思える。毛主義のイデオロギーの問題ではなく、露骨に政治的な問題だけれども。
 マルクス主義の用語法はこの政策の追求のためにまだ用いられているが、それは本質的ではなく、装飾的なものだ。//
 (57)マルクス主義の歴史という観点からすると、毛主義イデオロギーが注目に値するのは、毛沢東が何かを「発展させた」のが理由ではなく、かつて歴史的に影響をもつものになったどの教理よりも無限定の融通性をもつことを例証したことが理由だ。
 一方で、マルクス主義は、ロシア帝国主義の道具になった。
 他方で、マルクス主義は、技術的経済的後進性を市場の通常の働き以外の別の手段によって克服しようとする、大国の上部構造にあるイデオロギー的固定物だった(多くの場合は、後進諸国が市場を利用するのは不可能だ)。
 マルクス主義は、強くて高度な軍事国家の推進力となり、近代化という根本教条のために臣民たちを動員すべく、その力とイデオロギー的操作装置が用いられた。
 これまで述べてきたように、たしかに、伝統的マルクス主義には重要な要素があり、それは全体主義的統治の確立を正当化するのに役立った。
 しかし、一つのことだけは、疑い得ない。つまり、マルクスが理解した共産主義は、高度に発展した工業社会の理想であって、工業化の基礎を生み出すために農民を組織する方法ではなかった。
 だが、マルクス主義の痕跡と農民ユートピアや東洋専制体制とを混ぜ合わせたイデオロギーを手段として、その目標は達成することができることが判明した。-このイデオロギーは、<すばらしくこの上ない>マルクス主義だと宣明し、ある程度は有効に作動する混合物だ。//
 (58)中国共産主義への西側称賛者が困惑しているというのは、ほとんど信じ難い。
 アメリカの軍国主義を強く非難する言葉を見出すことのできない知識人たちは、つぎのような社会について狂喜の状態に入っている。子どもたちの軍事教練が第三年から始まり、全ての男子市民は4年または5年の軍事労役を義務づけられる、そのような社会についてだ。
 ヒッピーたちは、休日なしの厳しい労働紀律を導入して、薬物使用は言うまでも性的道徳に関する清教徒的規範を維持する国家に惹かれている。
 ある範囲のキリスト教者の文筆家ですら、そうした制度を高く評価している。中国での宗教は、仮借なく踏みにじられたけれども。
 (毛沢東は後生を信じたように見えるのは、ここではほとんど重要でない。
 1965年、彼はエドガー・スノウに二度、「すぐに神に会うだろう」と述べた(Snow, 同上, p.89, p.219-220)。
 毛は同じことを、1966年の演説で語った(Schram, p.270)。そして、1959年にもまた(同上, p.154)、マルクスと将来に逢うことをユーモラスに語った。)//
 (59)中華人民共和国は、明らかに現代世界のきわめて重要な要素だ。とりわけ、ソヴィエト膨張主義の抑止という観点からして。
 しかしながら、この問題は、マルクス主義の歴史とはほとんど関係がない。
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 第6節、従って第13章はこれで終わり。

2166/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節⑤。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義⑤。
 (40)調和のとれた共産主義的社会秩序に対する毛沢東の不信は、明らかに、伝統的なマルクス主義ユートピア像と一致していない。
 しかし、毛沢東はさらに、異なる未来像を考察するまでしていた。すなわち、全てが変化して長期的には全てが死滅するので、共産主義は永遠のものではなく、人類自体もそうではない。
 「資本主義は社会主義となり、社会主義は共産主義となる。そして、共産主義社会は、さらに変革されるだろう。共産主義社会にもまた、始まりと終わりがある。
 猿はヒトに変わった。そして人類が発生した。
 最終的には、全人類が消滅するだろう。別の何かに変わるかもしれない。地球それ自体もまた、存在することをやめるだろう」(Schram, p.110)。
 「将来に、動物は発展し続けるだろう。
 人間だけが二つの手をもつ資格がある、とは思わない。
 馬、雌牛、羊は進化することができないのか? <中略>
 水にもまた、歴史がある。
 もっと前には、水素も酸素も存在しなかった」(Schram, p.220-1)。//
 (41)毛は同じように、中国の共産主義の未来が保証されているとは考えなかった。
 ある世代がいつか、資本主義を復活させるときが来る。
 しかし、そうであっても、その後世の者たちがもう一度、資本主義を打倒するだろう。//
 (42)正統マルクス主義から本質的に離反しているもう一つは、農民崇拝(cult)が共産主義の主柱としてあることだ。ヨーロッパ共産主義ではこれに対して、農民は革命闘争の補助勢力にすぎないし、そうでなければ、蔑視された。
 毛沢東は、1969年の第9回党大会で、人民軍が都市を制圧するのは、さもなくば蒋介石が都市部を維持し続けただろうから、「よい事」だった、しかし、そのことで党内の腐敗が生じたので、「悪いこと」だった、と述べた。//
 (43)肉体労働の崇敬を含む農民と田園生活の崇拝によって、毛主義の特質の多くを説明することができる。
 マルクス主義の伝統は身体労働を必要悪と見なし、技術の進歩によってその必要悪から徐々に解放されるだろうと考えた。
 しかし、毛沢東の考えで、身体労働にはそれ自体の崇高さがあり、他のもので代替できない教育的価値がある。
 学生や生徒が時間の半分を肉体労働に捧げるという考えは、経済的必要によるというよりも、それと同じ程度以上に、人格を形成するための影響力によるものだった。
 「労働を通じての教育」は普遍的な価値をもち、毛主義の平等主義の考えと密接に関係している。
 マルクスは、肉体労働と精神労働の差異はいずれは消滅する、もっぱら頭を使って働く一群の人々と筋肉だけを使って働く人々がいるべきではない、と考えた。
 「完全な人間」というマルクスの理想の中国版は、知識人には樹木を伐採させたり溝を掘らせ、大学教授たちはほとんど読み書きのできない労働者の隊列の中から集められなければならない、というものだった。
 なぜなら、毛沢東が明瞭に述べたことだが、無学の農民ですら知識人たちよりも経済問題をよく理解している。//
 (44)しかし、毛沢東理論はさらに進んでいる。
 学者、文筆家、芸術家が農村の労働や特別の施設(つまり強制収容所)での教育的労働へと放逐されなければならないのみならず、知的な作業は容易に道徳的頽廃に変わり得ることや、人民が多数の書物を読みすぎるのを是非とも阻止しなければならないことを、認識しなければならない。
 この考え方は、毛の演説や会話の中で多様なかたちをとって頻繁に出てくる。
 毛沢東は一般に、人民は知れば知るほど悪くなる、と考えていたように見える。
 彼は成都(Chengtu)での1958年3月の党大会で、歴史をとおして見て、ほとんど知識のない若者の方が教養ある者たちよりも良かった、と述べた。
 孔子、イエス、ブッダ、マルクス、孫文(孫逸仙, Sun Yat-sen)は、彼らの思想を形成し始めたときにはまだきわめて若くて、多くのことを知っていなかった。
 ゴールキ(Gorky)は2年間だけ学校に行き、フランクリンは街頭で新聞を売った。
 ペニシリンの発明者は、洗濯屋で働いていた。
 1959年の毛の演説によると、漢の武帝の時代に、首相のChe Fa-chih は、無学だったが詩を作った。しかしながら、彼自身は無学(illiteracy)と闘うのに反対しなかった、と毛は付け加えている。
 1964年2月の別の演説で述べたのはこうだった。明王朝には二人しか良い皇帝はいなかったが、二人ともに無学だった。そして、知識人たちが国を乗っ取ったときに、国は荒廃し、破滅した。
 「書物を多すぎるほど読むのは、有害だ。
 我々は、マルクスの本を読むべきだが、多すぎるほど読んではいけない。
 十冊かそれくらい(a dozen or so)読むので十分だろう。
 あまりに多く読みすぎると、我々の反対物へと向かい、本の虫、教条主義者、そして修正主義者になる可能性がある」(Schram, p.210)。
 「梁王朝の武帝は、初期の時代には相当に良かったが、のちに多数の書物を読んだ。そして、もはや十分には仕事ができなかつた。
 彼は、T'ai Ch'eng で、飢えて死んだ」(同上、p.211)。//
 (45)こうした歴史的考察から得られる道徳は明瞭だ。すなわち。知識人は農村へと労働ををすべく送られなければならず、大学や学校で教育する時間は削減されなければならない(毛沢東はしばしば、知識人は全段階の教育を受けるのが長すぎると述べた)。そして、入学は政治的な規準に従わなければならない。
 最後の点は、党内部で激しい論争があった問題だったし、現在でもそうだ。
 「保守派」は、少なくとも一定の最小限度の学問的規準が入学や学位の授与には適用れさるべきだと主張した。一方、「急進派」は、社会的出自と政治的意識以外のものは何も考慮されるべきではない、と考えた。
 後者は明らかに、毛沢東の考えと一致する方向にある。毛は1958年に、満足感をもって二度、中国人はどんな好む絵でも描くことができる白紙のようなものだ、と述べた。
 //
 (46)知識、専門家主義および特権階級によって創造された文化全体に対する深い不信感は、明らかに、中国共産主義の農民起源性を示している。
 この不信感はどの程度にマルクスの教理、レーニン主義を含むヨーロッパ・マルクス主義の伝統と矛盾しているかを論証する必要はない。ロシア革命の最初には、教育に対する類似の憎悪の兆しがあったのだけれども。
 教育を受けたエリート(élite)と大衆の間の深い溝が以前はロシア以上に深かったように見える中国では、無学の者は当然に学者たちに優先するという考えは、下からの革命がもつ完璧に自然な結果であるように見える。
 しかしながら、ロシアでは、教育や専門家主義に対する敵意は、決して党の基本的政策方針の特徴ではなかった。
 党はもちろん、古い知識人層を一掃し、人文学研究、芸術および文学を、政治的なプロパガンダの道具に変え始めた。
 しかし、同時に党は、専門家尊重を宣言し、高い程度の専門化にもとづく教育制度を発展させた。
 ロシアの技術、軍事および経済の近代化は、かりに国家イデオロギーがそれ自体のために無知を称揚して多数の本を読みすぎないよう警告していたとすれば、全く不可能だっただろう。
 しかしながら、毛沢東は、中国はソヴィエトのやり方では近代化しないし、そうできないだろうことを自明の前提としていたように見える。
 毛はしばしば、他国の「盲目的」模倣に反対して警告した。
 「我々が外国から模倣する全ては、厳格に採用された。だが、それは大敗北に終わった。白軍の領域での党組織はその強さの100パーセントと革命的基盤を失い、赤軍はその強さの90パーセントを失った。そして、革命の勝利は長年の間、遅れた」(Schram, p.87)。
 別の場合について、ソヴィエト範型の模倣は致命的影響を及ぼす、と毛は観察していた。彼自身が3年間、卵と鶏のスープを飲食できなかったが、それは、あるソヴィエトの雑誌がそれらは人の健康に悪いと書いていたからだった。//
 (47)こうして、毛主義はエリート(élite)文化に対する農民の伝統的な憎悪(これは例えば16世紀の改革の歴史によくあった特質だった)を表現するのみならず、中国人の伝統的な外国恐怖症、そして外国や白人出自のもの全てに対する不信をも、示していた。白人たちは一般に、帝国主義的浸食を支持していた。
 中国のソヴィエト同盟との関係は、こうした一般的態度を強化したものにすぎなかった。//
 (48)同一の理由で、中国人は工業化の新しい方法を探し求めた。
 これは「大躍進」の大失敗で終わったのだったが、その背後にあったイデオロギーは放棄されなかった。
 毛沢東とその支持者たちは、社会主義の建設は「上部構造」で、つまり「新しい人間」の創出でもって始まらなければならない、と考えた。
 この考えは、イデオロギーと政治は蓄積率に関するかぎりは最優先されるべきだ、社会主義は技術的進歩や福利の問題ではなく、諸制度と人間諸関係の集団化の問題であり、その集団化から、理想的な共産主義諸制度を技術的に未熟な条件のもとでも生み出すことができる、というものだった。
 しかしながら、これらのためには、旧来の社会的連関や不平等の原因となる条件の廃棄が必要だ。そのゆえに、とくに国有化に抵抗する家族的紐帯を破壊しようとする中国共産党の熱情は、私的な動機づけや物質的誘導(「経済主義」)に反対する運動とともに、強いものだった。
 もちろん、熟練技術や行う仕事の種類を理由として、報酬はある程度は区別されていた。しかし、ソヴィエト同盟と比べれば、その差は少なかったように見える。
 毛沢東が考えていたのは、人民が適切に教育されれば彼らは特別の誘導がなくとも懸命に労働するだろう、「個人主義」と自分自身の満足を目指す願望はブルジョア的心性の有害な残存物であって排除されなければならない、ということだった。
 毛主義は、全体主義ユートピアの典型的な例だ。そこでは、全てが個人の善とは反対の意味での「一般的な善」に隷従しなければならない。「一般的な善」が個人の善を除外してどのように明確になるのかは明瞭ではないけれども。
 毛沢東の哲学は、「個人の善」という観念を用いなかった。「個人の善」はソヴィエト・イデオロギーでは重要な役割を果たし、かつあらゆる形態でのヒューマニズム的用語法を避けもした。
 毛沢東は、「人間の自然的権利」という観念を明示的に非難した(Schram, p.35)。すなわち、社会は敵対的階級によって構成されているのであり、共同体もそれら階級の間の相互理解も存在し得ない。また、階級から独立したいかなる文化形態も存在しない。
 「赤い小語録」は、こう語る(p.15)。「我々は、敵が反対するものは何でも全て支持し、敵が支持するものは何でも全て反対しなければならない」。-これはおそらく、ヨーロッパのマルクス主義者ならば書かなかった文章だろう。
 過去、伝統的文化、そして階級間の溝を埋める可能性のある全てのものと、完璧に決裂しなければならない。//
 (49)毛自身が繰り返した声明によれば、毛主義は、特殊中国的な条件にマルクス主義を「適用したもの」だ。
 すでに行った分析から分かるだろうように、毛主義は、レーニンによる権力奪取の技術の用い方として、より正確に叙述されている。マルクス主義のスローガンは、マルクス主義とは疎遠であるか矛盾するかする思想や目的を偽装するものとして役立った。
 もちろん、「実践の優先」は、マルクス主義に根ざす原理だ。しかし、読書は有害だ、無学の者は教養ある者よりも当然に賢いという推論を、マルクス主義の語彙でもって防御することは、じつに困難だろう。
 最も革命的な階級であるプロレタリアートにとっての農民の補充性という考えは、マルクス主義の伝統全体と、明らかに合致していない。
 同じことは、階級の対立は絶えず発生せざるを得ない、そのゆえに定期的な革命でもって解消されなければならない、という意味での「永続的革命」という考えについても言える。
 精神労働と肉体労働の「対立」を廃棄するという考え方は、マルクス主義的だ。しかし、身体労働を最も高貴な人間の仕事として崇敬することは、マルクスのユートピアの醜怪な解釈だ。
 農民が労働の分割によって腐敗していない「完全な人間」の至高の代表者だという考えは、ときには前世紀のロシアの人民主義者(populists)の間に見ることができる。しかし、これまた、マルクス主義の伝統と全く矛盾するものだ。
 平等という一般的原理は、マルクス主義的だ。しかし、知識人たちを米の田畑に追い払うという政策にこの平等原理が具体化されるとマルクスは考えた、と想定するのは困難だ。
 いくぶんか時代錯誤的に比較するならば、我々はマルクス主義の教理の観点から、毛沢東主義は原始共産制の類型の一つだ、と見なしてよい。その原始共産制は、マルクスが述べたように、私的所有制を克服するものではないのみならず、私的所有制にすら到達していない。//
 (50)一定の限られた意味では、中国共産主義はソヴィエトのそれよりも平等主義的だ。
 しかしながら、それはより全体主義的でないのが理由ではなく、より全体主義的だからだ。
 賃金や給料に差が少ないのは、より平等主義的だ。
 階位を示す軍の徽章のような階層性の表徴は廃止され、体制は一般にはソヴィエト同盟よりも「人民主義」的だ。
 民衆を統制下におき続けるためにより重要な役割を果たしているのは、地域または労働場所ごとに組織された諸制度だ。そして、職業的な警察の役割は、それに応じて小さい。
 普遍的なスパイ活動と相互告発のシステムは、多様な種類の地方委員会をつうじて作動しているように思われるし、市民の義務だと公然と見なされている。
 他方で、ボルシェヴィキがかつて得た以上の民衆の支持を毛沢東が獲得しているのは、本当だ。よって、ボルシェヴィキがそうだつた以上に、毛沢東の力は信頼されている。
 このことは、外部に向かって発言せよと人々に何度も指令した(スターリンも場合によってはこれを採用した)ことよりも、文化革命の間に既存の党機構を打倒すべく若者たちを煽動するというリスクを冒したことに見られる。
 しかし他方で、混沌の全期間をつうじて、彼が権力と実力行使の装置を握りつづけたことは明瞭だ。これら装置によって、助言に従う者たちが過剰になるのを抑制することができた。
 毛は何度も、「民主集中制」という福音を繰り返した。そして、彼のこれに関する解釈がレーニンのそれとどのように違っていたのかは、明瞭でない。
 プロレタリアートは党をつうじて国家を統治し、党の諸活動は紀律にもとづき、少数者は多数者に服従し、そして全党は中央指導層に従う。
 民主集中制は「まず何よりも、<中略>正しい考えの中央集権化だ」(Schram, p.163)と毛沢東が説くとき、そこに疑いなくあるのは、ある考えが正しい(correct)か否かを決定するのは党だ、ということだ。
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 ⑥へとつづく。

2164/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節④-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義④。
 (32)毛沢東とその「急進派」グループは、1966年春、「ブルジョア・イデオロギー」が最も傷つきやすい場所、すなわち大学、に対する攻撃を開始した。
 学生たちは、「反動的な学問的権威たち」に反抗して立ち上がるよう駆り立てられた。学者たちは、ブルジョア的知識で身を固め、毛主義的教育に反対しているのだ。
 毛沢東が長く明瞭に語ってきた内容について、つぎのことが指摘されていた。
 教育を受ける代わりに、時間の半分は学習に、半分は生産的労働に捧げられるべきだ。教員の任命と学生の入学はイデオロギー上の資格または「大衆との連環性(links)」に従うべきであって、学問上の成績によるのではない。共産主義プロパガンダは、カリキュラムの中で最も重要な特徴になる。
 党中央委員会は今や、「資本主義の途を歩む」全ての者の排除を呼びかけた。
 官僚層が毛思想に口先だけで追従して実際にはそれを妨害したとき、毛沢東は、彼以前のどの国のどの共産党指導者たちもあえては冒険しなかった道へと進んだ。彼は、組織されていない若者たち大衆に、毛の反対派たちを破壊するよう訴えたのだ。
 大学や学校は紅衛兵分隊や革命の突撃兵団を設立し始めた。これらは、「大衆」へと権力を回復し、頽廃した党と国家の官僚機構を一掃すべきものとされた。
 大衆集会、行進、街頭闘争が、全ての大都市での日常生活の特質になった(農村部はまだ相当に広く免れていた)。
 毛のパルチザンたちは、「大躍進」が惹起していた不安や欲求不満を巧妙に利用し、それらを経済の失敗について責められるべき官僚たちに向け、資本主義の復活を望んでいると非難した。
 数年間、学校と大学の機能は完全に停止した。毛主義グループは生徒や学生たちに、社会的出自と指導者に対する忠誠さのおかげで、彼らは「ブルジョア」学者の知らない偉大なる真実の所有者だ、と保障した。
 このように鼓舞されて、若者たちの一団は知識をもつことだけが罪である教授たちを苛め、ブルジョア・イデオロギーの証拠を求めて教授たちの家を探し回り、「封建主義の遺物」だとして歴史的記念物を破壊した。
 書物は、まとめて焼却された。
 しかしながら、当局は慎重に、博物館を閉鎖した。
 闘いの呼び声は平等、人民の主権、「新しい階級」の特権の廃絶、だった。
 数カ月後、毛主義者たちは、そのプロパガンダを労働者に対しても向けた。
 このプロパガンダはもっと困難な対象だった。なぜなら、労働者階級のうち賃金が多く安定した部門にいる者たちは、賃金の平等を求めて闘ったり、共産主義の理想を掲げてさらに犠牲を被る、という気がなかった。
 しかしながら、ある程度の貧しい労働者たちは、「文化革命」のために動員された。
 こうした運動の結末は、社会的混乱であり、生産の崩壊だった。
 紅衛兵の中にある異なる分派や労働者たちはやがて、「真の」毛主義の名前でもってお互いに闘い始めた。
 暴力的衝突が多数発生し、秩序を回復するために軍が介入した。//
 (33)つぎのことが、明らかだ。つまり、かりに毛沢東が知の無謬の淵源である自分は全ての批判から超越したところにいる、よって反対者たちは自分を直接に攻撃することはできない、と考えてなかったならば、党の権益層を破壊するために党外の勢力に呼びかける、という危険なことをあえてはしなかっただろう。 
 かつてのスターリンのように、毛沢東自身が党を具現化したものだった。そして、そのゆえに、党の利益という名のもとで党官僚機構を破壊することができた。
 (34)疑いなくこの理由で、文化革命というのは、つぎのような時期だった。すなわち、すでに極端な程度にまで達していた毛沢東個人崇拝(cult)が、スターリンの死の直前のスターリン個人崇拝を-感じられるほどには可能でないが-凌ぐすらするほどの、グロテスクで悪魔的な様相を呈した、という時代。
 毛沢東が至高の権威ではない活動分野は、存在しなかった。
 病人は、毛の論文を読んで治癒した。外科医は「赤い小語録」の助けで手術を行った。公共の集会は、人類がかつて生んだ最も偉大な天才が創った金言(aphorism)を、声を揃えて朗読した。
 追従はついには、毛沢東を称賛する中国の新聞からの抜粋が、ソヴィエトのプレスに読者の娯楽のために論評なしで掲載される、という事態にまで達した。
 毛沢東の最も忠実な側近で国防大臣の林彪(Lin Piao)は(やがて裏切り者で資本主義の工作員だったと「判明」したのだが)、マルクス=レーニン主義研究に用いられている資料の99パーセントは指導者〔=毛沢東〕の著作から取られているはずだ、換言すれば、中国人は毛以外の別の出典からマルクス主義を学習すべきではない、と断言した。//
 (35)もちろん、称賛の乱舞の目的は、毛沢東の権力と権威が掘り崩されるのをいかなるときでも防止することだった。
 毛沢東はエドガー・スノウ(Edgar Snow)との会話で(スノウが<The Long Revolution>,1973年、p.70, p.205で言及したように)、フルシチョフは「彼には個人崇拝者が全くいないので」おそらく脱落する、と述べた。
 のちに、林彪の汚辱と死の後に、毛沢東は、個人崇拝という堕落の責任を林彪に負わせようとした。
 しかしながら、1969年4月、文化革命の終焉を告げる党大会で、毛沢東の指導者としての地位およびその後継者としての林彪の地位は、公式に党規約の中に書き込まれた。-これは、共産主義の歴史で未だかつてなかった事件だった。
 (36)<毛沢東主席の著作からの引用>である「赤い小語録」もまた、このときに有名になった。
 もともとは軍部用のものとして準備され、林彪が序文を書いていたのだが、すみやかに普遍的な書物となり、全ての中国人の基本的な知的吸収物となった。
 これは、市民が党、大衆、軍、社会主義、帝国主義、階級等、関して知っておくべき全てを包含する、加えて多数の道徳的および実際的な助言も付いた、民衆用の教理書(catechism)だった。例えば、人は勇敢かつ謙虚であるへきで逆境に挫いてはならない、将校は兵士を撃ってはならない、兵士は金銭を支払わずに商品を奪ってはならない、等々。
 これには、選び抜かれた訓示文がある。すなわち、「世界は進歩している、未来は輝いている、この一般的な歴史の趨勢を誰も変えることができない」、等々(<引用>, 1976年、p.70)。
 「帝国主義は、つねに悪事を行っているがゆえに、長くは続かないだろう」(p.77)。
 「工場は、徐々にのみ建設することができる。
 農民は、少しずつ土地を耕すことができる。
 同じことは、食事を摂ることについても当てはまる。<中略>
 一呑みでご馳走の全てを飲み込むのは、不可能だ。
 これは、漸次的(piecemeal)解決方法として知られている」(p.80)。
 「攻撃は、敵を破るための主要な手段だ。しかし、防衛なしで済ますことはできない」(p.92)。
 「自分を守り、敵を破壊するという原理は、全ての軍事原則の基礎だ」(p.94)。
 「ある者はピアノを上手に演奏し、別の者は下手だ。彼らが演奏する旋律には、ここに大きな違いがある」(p.110)。
 「全ての性質は、一定の量で表現される。量がなければ、性質もあり得ない」(p.112)。
 「革命的隊列の内部では、正しいか間違っているか、達成したか不足しているか、の区別を明瞭に行うことが必要だ」(p.115)。
 「労働とは何か?、労働とは闘争だ」(p.200)。
 「全てが善だというのは正しくない。なおも不足や欠点がある。
 しかし、全てが悪だというのも正しくない。これもまた、事実に合致していない」(p.220)。
 「僅かばかりの善を行うことは、困難ではない。
 困難なのは、全人生を通じて善を行い、悪を決して行わない、ということだ」(p.250)。//
 (37)文化革命の動乱は、1969年まで続いた。そして一定の段階で、状況を明確に統制することができなくなった。すなわち、多様な分派やグループが紅衛兵内部で発生し、それぞれが、毛沢東の誤りなき解釈なるものを主張した。
 革命の主要なイデオロギストの陳伯達(Ch'en Po-ta)はしばしば、パリ・コミューンの例を引き合いに出した。
 唯一の安定化要因は、軍だった。毛沢東は思慮深く、大衆の議論を管理するようには、また官僚化した指導者たちを攻撃するようには、軍を激励しなかった。
 地方での衝突があまりに烈しくなったときには、軍は秩序を回復させた。そして、地方の司令官たちは革命家たちを助けるのにさほど熱心ではなかった、ということは注記に値する。
 党の組織が大幅に解体してしまったとき、軍の役割は当然にますます大きくなった。
 劉少奇を含む主要な若干の人物を解任するか政治的に抹殺したあとで、毛沢東は、革命的過激主義者たちを抑制するために、軍を用いた。
 闘争の結果として変わった党指導層の構成は、多くの観察者にとっては、いずれの分派にも明確な勝利を与えない、妥協的な解決だったように見える。
 「急進派」は、毛の死後にようやく敗北することとなる。//
 (38)上述のように、1955年と1970年の間には、いくつかの重要な点でソヴィエトの範型とは異なる、新しい変種の共産主義の教理と実践で構成される毛沢東思想の展開があった。//
 (39)1958年1月に毛が宣言したように(Schram, p.94)、永続革命理論が毛沢東思想の根本的なものだ。
 文化革命が進行していた1967年、彼はこう述べた。この革命は一続きの無限の長さの最初の革命だ、そして革命の二つ、三つまたは四つが起きたあとでは全てが良くなっているだろうと考えてはならない、と。
 毛沢東は、安定すればつねに不可避的に特権と「新しい階級」が出現する、と考えていたように見える。
 従ってこのことによって、革命的大衆が官僚制の萌芽を摘み取る、定期的な衝撃的措置が必要になる。
 かくして明らかに、階級または対立がない確定された社会秩序は、決して存在し得ないことになる。
 毛沢東はしばしば、「矛盾」は永遠のもので、永続的に克服されなければならない、と繰り返した。
 ソヴィエトの修正主義者たちに対する毛の追及内容の一つは、その修正主義者たちは指導者と大衆の間の矛盾について何も語っていない、ということだった。
 劉少奇の誤りの一つは、社会は調和し統合するという未来を信じたことだった。
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 ⑤につづく。

2163/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節③-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義③。
 (19)毛沢東は、1959年7-8月の廬山(Lushan)党会議で自己批判の演説を行い(そのときはむろん公表されなかった)、「大躍進」が党の敗北だったことを認めた。
 彼は、経済計画について何の考えもなかった、石炭と鉄は自発的に動かないで輸送が必要であるとは考えていなかった、と告白した。
 彼は農村部での鉄精錬政策について責任をとり、国は厄災に向かっている、共産主義を建設するには少なくとも1世紀が必要だろうと見ている、と宣言した。
 しかしながら、指導者たちが誤りから学んだので、「大躍進」は全てが敗北なのではなかった。
 誰もが、マルクスですら、過ちを冒す。その場合に重要なのは、経済だけが考慮されるべきではない、ということだ。//
 (20)1960年には広く知られるようになった中国・ソヴィエト紛争は、とりわけソヴィエト帝国主義を原因とするもので、存在はしたものの共産主義の理想や実現方法に関する考え方の差異によるのではなかった。
 中国共産党は、スターリンへの忠誠を熱意を込めて表明するとともに、東ヨーロッパの「人民民主主義」の立場を受け入れる動向もまた示さなかった。
 論争の直接の原因は、核兵器に関して発生した。これに関して、ロシアは、中国が使用を統制する力をもつという条件のもとでのみ、中国に核兵器を所有させるつもりだった。
 ここで列挙する必要はないその他の論争点の中には、アメリカ合衆国に対するソヴィエトの外交政策および「共存」という原理的考え方があった。
 対立の射程は二つの帝国主義国のものであって、共産主義の二つの範型のものではない。このことは、中国はソヴィエトによる1956年のハンガリー侵攻を留保なく是認したが、-断交後のその20年後には-チェコスロヴァキア侵攻を激しく非難した、という事実で示されている。毛主義の観点からは、ドュプチェク(Dubček)の政策は途方もない「修正主義」で、リベラルな考え方による「プラハの春」はソヴィエト体制よりも明らかに「ブルジョア的」だつたのだけれども。
 のちに中国の二党派間の争論が内戦の間際まで進行したとき、両派はいずれも根本的には、換言すれば中国の利益と主体性の観点からは、同等に反ソヴィエトであることが明らかだった。//
 (21)しかしながら、ソヴィエトとの対立の第一段階で中国が示したのは、イデオロギー上の差異に重点を置いていること、新しい教理上のモデルを創って世界共産主義の指導者としてのソヴィエトを押しのけ、または少なくともモスクワを犠牲にして相当数の支持を獲得するのを望んでいること、だった。 
 ときが経つにつれて、中国は、自分の例に従うのを世界に強いるのではなく、ソヴィエト帝国主義を直接に攻撃することで好ましい結果を達成する、と決定したように見える。
 「イデオロギー闘争」、つまりは中国とソヴィエトの指導者たちの間での公的な見解の交換は、1960年以降に継続した。但しそれは、国際情勢に応じてきわめて頻繁に変化した。
 しかし、その闘いは容易に、第三世界への影響力を求める、対立する帝国間の抗争となった。それぞれの敵国〔であるソヴィエトと中国〕は、いずれかの民主主義諸国との<アド・ホックな>同盟関係を追い求めた。
 中国が採用したマルクス主義は、中国ナショナリズムのイデオロギー的主柱となった。同じことは、従前にソヴィエト・マルクス主義とロシア帝国主義の間にも生じたことだったが。
 かくして二つの大帝国は対立し合い、ともに正統マルクス主義だと主張し、「西側帝国主義国」に対する以上に敵対的になった。
 「マルクス主義」の進展は、中国共産党がアメリカ合衆国政府を、主として反ソヴィエト姿勢が十分でないという理由で攻撃する、という状況をすら発生させた。//
 (22)中国共産党内部の闘争は、1958年以降に秘密裡に進行していた。
 主要な対立点は、ソヴィエト型の共産主義を選ぶか、毛沢東の新しい完全な社会の定式を支持するか、にあった。
 しかしながら、前者は、モスクワの指令に中国を従わせるのを望むという意味での「親ソヴィエト」ではなかった。
 対立にあった特有な点は、つぎのように要約することができる。
 (23)第一に、「保守派」と「急進派」は、軍に関する考え方が違った。すなわち、前者は紀律と最新式の技術をもつ近代的軍隊を要求し、後者はゲリラ戦という伝統を支持した。
 これは1959年の最初の粛清(purge)の原因となり、その犠牲者の中には、軍首脳の彭徳懐(P'eng Te-huai)がいた。
 (24)第二に、「保守派」は多かれ少なかれソヴィエトに倣った収入格差による動機づけを信頼し、都市部と大重工業工場群を重視した。
 これに対して「急進派」は、平等主義(egalitarianism)を主張し、工業と農業の発展に対する大衆の熱狂的意欲を信頼した。//
 (25)第三に、「保守派」は、先進諸国にいずれは対抗することのできる医師や技術者を養成するために、全ての段階の教育制度の技術的専門化を主張した。
 一方で「急進派」は、イデオロギー的教化(indoctrination)の必要を強調し、この教化が成功するならば技術的工夫はいずれは自然について来るだろう、と主張した。//
 (26)「保守派」は、論理的には十分に、ロシアと欧米のいずれかから科学知識と技術を求めるつもりだった。
 一方で「急進派」は、科学や技術の問題は毛沢東の金言(aphorism)を読むことで解決することができる、と主張した。//
 (27)一般的には「保守派」はソヴィエト型の党官僚たちであり、技術的および軍事的な近代化と中国の経済発展に関心があった。また、全ての生活領域についての党機構による厳格で階層的な統制が可能だと考えた。
 「急進派」は、近づいている共産主義千年紀というユートピア的幻想に、相当に嵌まっているように見えた。
 「急進派」は、イデオロギーの万能さと、抑圧のための職業的機構によるのではない、「大衆」による(しかし党の指導のもとでの)直接的な実力行使を、信頼していた。
 地域的基盤について言えば、「保守派」は明らかに北京が中心地であり、「急進派」の中心は上海(Shanghai)にあった。//
 (28)両派はもちろん、1946年以降は揺るぎなかった毛沢東のイデオロギー的権威に訴えた。
 1920年代のソヴィエト同盟では同様に、全ての分派がレーニンの権威を呼び起こした。
 しかしながら、ソヴィエトと異なるのは、中国では革命の父がまだ生きており、その毛が「急進派」グループを支持したどころか、事実上はそれを創出した、ということにあった。その結果として、「急進派」構成員たちは、対抗派よりもイデオロギー的にはよい環境にいた。//
 (29)しかしながら、「急進派」は、全ての点についての有利さを活用しなかった。
 1959-62年の後退の結果として、毛沢東は、党指導者たちの中に強い反対派がいることを認めざるを得なかった。そして、彼の力は相当に限定されていたように思われる。
 実際に、ある範囲の者たちは、毛沢東は1964年以降は現実的な権威たる力を行使していなかった、と考えている。
 しかし、中国の政治の秘密深さのために、このような推測は全て、不確実なものになっている。//
 (30)主要な「保守派」は劉少奇(Liu Shao-ch'i)だった。この人物は、1958年末に毛沢東から国家主席を継承し、1965-66年の「文化革命」で資本主義の魔王だとして告発され、非難された。
 彼は共産主義教育の著作の執筆者で、この書物は別の二冊の小冊子とともに、1939年以降は党の必読文献だった。
 その四半世紀後、このマルクス=レーニン=スターリン=毛主義の誤謬なき発現者は、突如として、儒教(Confucianism)と資本主義に毒された人物に変わった。
 批判者たちの主人によると、劉に対する孔子の有害な影響は主につぎの二つ点に見られる。
 劉少奇は、仮借なき階級闘争ではなく、共産主義的自己完成という理想を強調した。また、共産主義の未来は調和と合致だと叙述した。にもかかわらず、毛沢東の教えによれば、緊張と対立は永遠の自然法則だ。//
 (31)1965年末に党内部で勃発して中国を内戦の縁にまで追い込んだ権力闘争は、かくして、対立する派閥間のみならず、共産主義の見方の間の闘いでもあった。
 「文化革命」は一般には 毛沢東が書いて1965年11月に上海で出版した論文によっで開始された、と考えられている。その論文は、北京副市長の呉晗(Wu Han)が作った戯曲を、毛沢東による彭德怀(P'eng Te-huai)の国防大臣罷免を歴史の寓話を装って攻撃するものだと非難した。
 この論文でもって文化、芸術および教育への「ブルジョア的」影響に反対し、国家の革命的純粋さを回復して資本主義の復活を阻止する、そのような「文化革命」を呼びかける運動が、解き放たれた。
 もちろん「保守派」はこの目標に共鳴したけれども、確立されている秩序や自分たちの地位が攪乱されないように、その目標を解釈しようとした。
 しかしながら、「急進派」は何とか、党書記で北京市長の彭程(P'eng Cheng )の解任と主要な新聞の統制を確保し、獲得した。//
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 ④へとつづく。

2161/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節②-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義②。
 (10)数年後の1942年、毛沢東は支持者たちに宛てて「芸術と文学」に関する文章を書き送った。
 その主要な点は、芸術と文学は社会諸階級に奉仕するもので、全ての芸術が階級によって決定されるのであり、革命家たちは革命の惹起と大衆に奉仕する芸術の様式を実践しなければならない、ということ、また、芸術家と文筆家は大衆の闘争を助けるべく自分たちを精神的に改造しなければならない、ということだった。
 芸術は芸術的に善であるだけではなく、政治的に正しくなければならない。
 「人民大衆を危険にさらす全ての暗黒勢力は暴露されなければならず、大衆の革命的闘争は称賛されなければならない。-これは、全ての革命的芸術家と文筆家の根本的任務だ」(Anne Freemantle 編<毛沢東・著作選集>、1962年, p.260-1)。
 文筆家はいわゆる人間愛の道へと迷い込まないよう警告された。敵対する諸階級に分裂する社会に、そのようなものは存在し得ないからだ。-「人間愛」は、所有階級が発案したスローガンだ。//
 (11)以上が、毛沢東の哲学の要点だ。
 看取できるだろうように、レーニン=スターリン主義のマルクス主義がいう若干の常識を幼稚に繰り返したものだ。
 しかしながら、毛の独創性は、レーニンの戦術的訓示を修正したことにある。
 これは、そして中国共産党の農民指向は、毛と中国共産党の勝利の最も重要な理由だった。
 「プロレタリアートの指導的役割」は、イデオロギー的スローガンとして力を持ったままだったが、革命の過程のあいだずっと、そのスローガンは、農民ゲリラを組織する共産党の指導的役割を意味するにすぎなかった。
 毛沢東は、ロシアとは異なって中国では、革命は地方から都市へと到来する、と強調した。彼は貧農は自然の革命的勢力だと考え、そして-マルクスやレーニンとは反対に-、貧困の程度に比例して社会各層は革命的になる、と明確に言明した。
 彼が堅く信じたのは、農民の革命的潜在能力だった。中国のプロレタリアートはきわめて少数であることだけが理由ではなく、その原理こそが理由だった。
 「農村による都市の包囲」というスローガンは、さかのぼる1930年頃の党指導者、李立三(Li Li-san)のそれと反対だった。
 コミンテルンの指令に従順な当時の「正統な」革命家たちは、ロシアに従った戦略を推進した。その戦略は、工業中心大都市の労働者によるストライキと反乱に重点を置くもので、農民の戦いは補助的だと見なしていた。
 しかしながら、有効だと判明したのは毛の戦術で、のちに彼は、中国革命はスターリンの助言に逆らって勝利した、と強調した。
 1930年代と1940年代のソヴィエトの中国共産党に対する物質的援助は、名目的なものにすぎなかったように見える。
 おそらく-何の直接的証拠もない憶測にすぎないが-、スターリンは、かりに共産党が中国で勝利したとしてもソヴィエト同盟に従属させて5億万の民衆を維持することを長期的には望めない、と認識し、そのゆえに全く合理的に、中国が弱く分裂していて、軍閥による騒乱が支配していることの方を選んだのだろう。
 しかしながら、中国共産党は全ての公式声明でソヴィエト同盟への忠誠さを発表し続けた。1949年にスターリンは、新しい共産党の勝利を歓迎して、手強い隣国を衛星国にすべく最大限に努力せざるを得なかった。//
 (12)中国・ソヴィエト間の対立はイデオロギー上の異なる考えによるのでは全くなく、中国共産党の自主性と、想定されるだろうように、中国革命はロシア帝国主義の利益とは矛盾するものだった、ということによる。
 毛沢東は1940年の「新民主主義について」の論考で、中国革命は「本質的に」農民の要求にもとづく農民革命であり、農民に権力を与えるだろう、と書いた。
 同時に彼は、農民、労働者、中低階層や愛国的ブルジョアジーから成る、日本に対する統一戦線の必要性を強調した。
 彼は、新しい民主主義の文化は、プロレタリアートの、つまりは共産党の指導のもとで発展する、と宣言した。
 要するに、毛の当時の基本政策は、「第一段階の」レーニン主義と類似していた。すなわち、共産党が指導する、プロレタリアートと農民の革命的独裁。
 彼は1949年6月の「人民民主主義独裁について」の演説で、同じことを繰り返した。土地が社会化され、階級が消滅し、「普遍的な兄弟愛」が確保される、そのような「次の段階」について、もっと強く述べたけれども。
 (13)共産党が勝利した後の数年間は、波風の立たない中国・ソヴィエトの友好関係の時期だったように見えた。中国の指導者たちは、兄に対して特段の敬意を払った。しかし、のちに明らかになるように、そのまさに最初の国家間交渉に際して、深刻な軋轢がすでに発生していた。
 当時は、明確に区別される毛主義の教理について語るのは困難だった。
 毛沢東自身がいくつかの場合に指摘せざるを得なかったように、中国には経済の組織化の経験がなく、ゆえにソヴィエト・モデルを模倣した。
 ようやくのちに、このモデルは若干の重要な点で、すでに中国革命に潜んではいたが明確なかたちでは表現されていなかったイデオロギーとは矛盾するものであることが、明らかになるに至った。//
 (14)中国は1949年以降に、いくつかの発展段階を高速で通過した。その各段階には伴ったのは、毛主義の結晶化(crystallization)に向かってのさらなる進展だった。
 1950年代、中国はソヴィエトの進化の過程を、より早い速度でもう一度辿っているように見えた。
 大規模保有の土地は、必要な農民のために分割された。
 私企業は数年間の限定の範囲内で許容されたが、1952年に強い統制のもとに置かれ、1956年に完全に国有化された。
 農業は1955年から集団化された。最初は協同組合の手段によってだったが、すみやかに公的所有の「高度に発展した」形態によることになった。但し、農民たちはまだ、私的区画(plot)を保持することが許された。
 このときに中国共産党は、ロシアに従って、重工業の絶対的優先の考えを維持した。
 第一次経済計画(1953-57年)は、厳格に中央志向の計画を導入し、農業地帯の犠牲のうえに工業化に向かう強い刺激を与えることを意図していた。
 これは、ソヴィエト共産主義のいくつかの特質を採用するものだった。すなわち、官僚制の拡張、都市と地方の間の亀裂の深化、およびきわめて抑圧的な労働法制。
 不可避的に、農民による小規模の土地保有の国では厳格な中央計画は不可能なことだ、ということが明瞭になった。
 しかしながら、そのあとの行政手法の変化は計画の多様な形態の脱中央集権化に限定されておらず、新しい共産党のイデオロギーを表現していた。そのイデオロギーでは、生産目標の達成と近代化は二次的なもので、現実のまたは想定される農業地域の生活の美徳を具現化する、そういう「新しいタイプの人間」を養成することが主に強調された。//
 (15)しばらくの間は、この段階ではある程度は文化的専制が緩和されるようにすら見えた。
 こうした幻想と結びついていたのは、1956年5月に-すなわちソヴィエト同盟第20回大会の後で-党が開始して毛自身が称賛した短期間の「百花」(hundred flowers)運動だった。
 芸術家と学者たちは、自分の考えを自由に交換するよう励まされた。
 全ての流派の思想と芸術様式が、お互いに競い合うものとされた。
 自然科学はとくに、「階級性」がないものと宣言され、他の分野での進歩は、拘束をうけない議論の結果だとされた。
 「百花」運動の教理は、東ヨーロッパの知識人たちに、熱狂をもたらした。彼らは自分たちの国で、脱スターリニズム化の興奮の中にいたのだ。
 多くの人々が短い時期の間、社会主義ブロックの最も遅れた国が経済および技術の観点からしてリベラルな文化政策をもつ英雄国になった、と考えた。
 しかしながら、この幻想は、ほとんど数週間しか続かなかった。中国の知識人があからさまな言葉で大胆に体制を批判したとき、党はただちに、抑圧と威嚇という通常の政策へと転換した。
 こうした事態全体の内部史は、明瞭でない。
 中国のプレスの若干の記事や党総書記の鄧小平(Teng Hsiao-ping)による1957年9月の党中央委員会むけ演説からすると、「百花」のスローガンは、「反党分子」を簡単に解体するために彼らを表面におびき出す策略だった。    
 (鄧小平は、大衆をおじけづかせる例として、雑草が成長するのを待った、と宣告した。
 「百花」知識人たちは根こそぎ引き抜かれて、中国の土壌を肥沃にするために使われたのだろう。)
 しかしながら、共産主義イデオロギーは中国知識人の間に自由な議論を保障することができると、毛沢東は少しの間は本当に考えたのかもしれない。
 かりにそうだったとしても、彼の幻想は、ほとんどただちに、明瞭に払い散らされた。//
 (16)ソヴィエトの範型に倣って工業化するのに中国が失敗したことによっておそらくは、次の段階の政治的およびイデオロギー的変化が惹起される、または予見されることとなった。その変化を、世界の人々は、当惑しつつ観察することになる。
 1958年初頭、毛沢東指導下の党は、5年以内に生産の奇跡を起こすものとする「大躍進」政策を発表した。
 工業生産および農業生産の目標はそれぞれ6倍、2.5倍とされた。これは、スターリンの第一次五カ年計画をすら顔色なからしめるものだった。
 しかしながら、この狂信的目標は、ソヴィエトの方式によってではなく、人民大衆に創造的な熱狂を掻き立てることによって、達成された。それがもとづく原理は、大衆は精神を傾注する何事をも行うことができるのであり、ブルジョアジーが考案した「客観的」障害に妨げられてはならない、というものだった。
 経済の全部門が例外なく劇的な拡張を遂げ、完全な共産主義社会がまさに近づいて来ていた。
 ソヴィエトのコルホーズに倣って組織された農場は、100パーセント集団的基盤をもつ共同体に置き換えられた。
 私的区画は廃止され、可能なところでは共同体的な食事と住居が導入された。
 プレスは、結婚した夫婦が一定の間隔で出席する特別の儀式や、そのあとの当然として次の世代を生むという愛国的義務を履行する特権について、報道した。
 「大躍進」の有名な特質の一つは、小さい村落の多数の溶鉱炉での鉄の精錬だった。//
 (17)少しの間、党指導者たちは統計上の楽園に住んでいた(のちに承認されたように、偽りだった)。しかしやがて、西側の経済学者と中国にいたソヴィエトの助言者が予見したとおりに、プロジェクト全体が大失敗だったことが判明した。
 「大躍進」は、高い蓄積率を原因として、生活水準を厄災的に下落させる結果となった。
 その政策は甚大な浪費をもたらした。そして、余分だと判って自分たちの分野に帰らなければならない、農村部からの労働者で、都市は満ち溢れた。
 1959年から1962年までは、後退と悲惨の時代だった。それは「大躍進」政策の失敗だけではなく、収穫減が災難的だったことやソヴィエト同盟との経済関係の事実上の断絶によってもいた。
 ソヴィエトの技術者たちは突然に帰国し、多数の大プロジェクトは不意に停止状態になった。//
 (18)「大躍進」はつぎのような新しい毛沢東の方針の展開を反映していた。すなわち、農民大衆はイデオロギーの力で何でもすることができる。「個人主義」や「経済主義」(換言すると、生産への物質的な動機づけ)は存在してはならない。熱意は「ブルジョア」の知識や技術に取って換わることができる。
 毛主義イデオロギーはこのときに、より明確なかたちを取り始めた。
 それは、毛沢東の公的声明によって、またより明瞭には、のちに「文化革命」騒ぎの際に暴露された諸発言で、定式化されていた。
 それらのうちある程度の内容は、優れた中国学者のStuart Schram によって英語で公刊された(<生身の毛沢東>、1974年。以下、'Schram' と引用する)。
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 ③へとつづく。

2160/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節①-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。分冊版、p.494~p.499。
 第13章・スターリンの死以降のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義①。
 (1)中国革命は、争う余地なく、20世紀の歴史の最も重要な事件の一つだった。
 毛主義(Maoism)として知られるその教理は、従って、その知的な価値とは無関係に、今日の思想闘争の主要な要素になっている。
 ヨーロッパ標準で測れば、毛主義のイデオロギー文書、とくに毛自身が書いた理論的著作は、実際には原始的で不格好で、ときには子どもじみている。
 これと比べると、スターリンですら、力強い理論家だという印象を与える。
 しかしながら、このような判断は、用心して行う必要がある。
 この書の執筆者のように中国語を知らず、中国の歴史と文化について僅かでかつ表面的な知識だけしか持っていない者は、疑いなく、中国思想に習熟した読者は理解することができる文章の意味、多様な連関と示唆するところを、完全に把握することはできない。
 この点で、我々は専門家の見解に依拠しなければならない。しかしそれでも、つねに同意するのではないけれども。
 この書物の他の箇所以上に、以下の論述は二次的情報にもとづく。
 しかしながら、理論的、哲学的主張をもつにもかかわらず、毛主義は先ずはそして最も多くは実際的な訓示だ、と最初に述べておいてよいだろう。そのことが何らかの態様で、中国の状況にはきわめて有効であることが判明したのだ。//
 (2)今日に毛主義と、あるいは中国で「毛沢東思想」と称されるものは、数十年前に起源のあるイデオロギー大系だ。
 ロシア共産主義に対する意味での中国共産主義の特徴のいくつかは、1920年代遅くにはすでに見えていた。
 しかしながら、とくに毛沢東のユートピア的見方を含むそのイデオロギーが明瞭な様相をとり始めたのは、ようやく1949年の中国共産党の勝利のあとでだった。そして、1950年代遅くまたはその後でのみ、若干のきわめて重要な側面が進展した。//
 毛主義は、その最終形態では急進的な農民ユートピアだ。そこでは、マルクス主義の言葉遣いが顕著に多くあるが、その支配的な価値はマルクス主義とは完全に疎遠だと見られる。 
 このユートピアはヨーロッパの経験と思想にほとんど依拠していないのは、何ら驚くべきことではない。
 毛沢東は、すでに新国家の長になっていたときにモスクワを2度訪問した以外には、中国を離れなかった。
 そのとき彼は自分で、どの外国語もほとんど知らず、マルクスに関する知識もおそらく相当に限られている、と明瞭に語った。
 例えば、正統マルクス主義者だと主張する一方で、彼には、物事には全て善と悪という二つの側面がある、と語る習癖があった。
 マルクスはこのような弁証法形態をプチブル的馬鹿さとして嘲弄したことを知っていたとすれば、彼はおそらく、こう言わなかっただろう。
 また例えば、マルクスが「アジア的生産様式」に言及したのを知っていたならば、彼はおそらく、これを論じただろう。しかるに、彼の著作はこれに何ら論及していない。
 毛沢東の二つの論考-「実践について」と「矛盾について」-が簡明に明らかにしているのは、彼がスターリンとレーニンの著作で何を読んだか、であり、加えて、そのときどきの必要に応じたいくつかの政治的結論だ。
 穏やかに言えば、これらの文章から何らかの理論的に重要なことを感知するには、多大の善意が必要だ。//
 (3)しかしながら、以上は本質的な点ではない。
 中国共産主義の重要性は、その教条の知的な水準によるのではない。
 毛沢東は、きわめて偉大ではなくとも、偉大な人物の一人だ。20世紀の、人間たる多数大衆の操作者だった。そして、彼が目的達成のために用いたイデオロギーは、中国のみならず第三世界の他部分を含めて、その有効性のゆえに意味をもっている。//
 (4)中国の共産主義は、1912年の帝国崩壊とともに始まった革命的事件を継承したものであり、数十年前、とくに1850ー64年の太平天国の乱〔Taiping rebellion 〕(歴史上最も血なまぐさい内戦の一つ)まで遡る展開の結果だ。
 毛沢東は、革命の第二期の主要な構築者であった。その時期には、ロシアと同様に、共産主義の支援のもとではレーニンが「ブルジョア民主主義」と称しただろうもの以外には生まれなかった。すなわち、大規模土地の農民への配分、中国の帝国主義諸国からの解放、そして封建諸制度の廃棄。//
 (5)毛沢東(1893~1976)は、湖南(Hunan)地方の裕福な農民の息子だった。
 村の学校に通い、中国の文字伝統の主要部分を学び、中学校へ進学するだけの性質を得た。
 早くに孫文(Sun Yat-sen, 孫逸仙)の革命共和党、のちの国民党に加入した。
 しばらく共和党軍で戦ったのち、1917年に勉強を再開した。こうした期間、彼は詩も書いた。
 のちに彼は、北京の大学図書館で働いた。このときの彼は、ナショナリストかつ社会主義の知識をもつ民主主義者で、マルクス主義者ではなかった。//
 (6)国民党の目標は、日本、ロシアおよびイギリス帝国主義から中国を解放し、立憲主義共和国を設立し、経済改革によって農民の運命を改善することだった。
 1919年の新たな暴動のあとで、最初の毛沢東グループが北京で結成された。そして、1921年6月、コミンテルン工作員の助けで、毛沢東を含む十数人のメンバーたちは、中国共産党を創設した。
 コミンテルンの指令に従って、党は最初は国民党と緊密に連携し、中国の萌芽的プロレタリアートの支持を獲得しようとした(1926年に、都市労働者は民衆200人当たり1人だった)。
 1927年に蒋介石が共産党員を殺戮したあと、蜂起し、国民党の左派脱退者と<同盟(entente)>しようとして何度も失敗したのちに、共産党は方針を変更し、前指導者の陳独秀(Chen Tu-hsiu)に「右翼日和見主義者」の烙印を捺した。
 殺されながらも、党は、労働者に影響を及ぼす努力を集中し続けた。しかし、毛沢東は、農民へと方向転換して、農民軍を組織することを主張した。
 しかしながら、党内の両グループはともに、反帝国主義と反封建主義を強調した。
 そこには、特段に共産主義的な見解の兆しはほとんどなかった。
 毛沢東は、生まれ故郷の湖南地域で、武装農民運動を組織し始めた。そしてその地域で、農民軍勢力は大土地所有者から没収し、伝統的諸制度を廃絶させ、学校と協同組合を設立した。//
 (7)つづく20年間、毛沢東は、都市部から離れた田園地帯に住んだ。
 やがて彼は、農民ゲリラ行動の傑出した組織者になるのみならず、中国共産党の揺るぎなき指導者になった。世界で唯一の、その地位をモスクワによる認証によらない指導者になったのだ。
 注目すべき勝利と劇的な敗北が多々あった時期である20年の間、彼は、国民党と侵攻者日本に対して、前者が後者と戦っている時期を除き、極端に困難な条件のもとで闘った。
 共産党は占拠した地域に将来の国家の基盤を組織した。だが、自分たちの革命の性格は「ブルジョア民主主義的」だと強調し、また農民や労働者だけではなく中低層や「ナショナル」なブルジョアジー、つまり帝国主義者たちと同盟しない者たちを含む、「人民戦線」を呼びかけつづけた。
 党は、1949年の勝利後の最初の数年間は、この基本線を採用し続けた。//
 (8)1937年、ゲリラ戦闘が継続している間、毛沢東は、延安(Yenan)の党軍事学校で、二つの哲学的講義を行った。それらは現在、中国の民衆が得られる哲学教育のほとんど全体を構成している。
 「実践について」の講義で、彼はこう述べる。人間の知識は生産的実践と社会矛盾から湧き出てくる。階級社会では、全ての思想形態は例外なく階級によって決定される。実践は、真実を測る尺度だ。
 理論は実践にもとづいており、その隷従物だ。
 人間は、感覚で事物を感知し、見ることのできない事物の本質を理解することのできる観念を形成する。
 対象を認識するためには、それに対処する実践的行動を起こさなければならない。すなわち、我々は食べることによって梨の味を知る。また、階級闘争に参加することによってのみ、社会を理解する。
 中国人は、「表面的かつ知覚的知識」にもとづいて帝国主義との闘いを開始した。ようやくのちになって、帝国主義の内部矛盾に関する理性的な知識を得る段階に到達し、かくして有効にそれと闘うことができている。
 「マルクス主義は、理論の重要性を厳格に強調する。それは、理論が行動を誘導することができるからだ」(<哲学に関する四考>、1966年、p.14)。
 マルクス主義者は、自分たちの知識を変化する条件に適合させなければならない。そうでなければ、右翼日和見主義に陥るだろう。
 一方で、発展の段階が思考を上回り、現実についての想像力を間違ってしまえば、エセ左翼の言葉商人の生け贄になるだろう。//
 (9)「矛盾について」の講義は、レーニンとエンゲルスからの引用の助けを借りて、「反対物の統合の法則」を説明しようとするものだ。
 「形而上学」は、「事物を、分離した、静態的で一面的なものだと見る」(同上、p.25)、そして運動または変化を外部から与えられた何かだと見なす。
 しかしながら、マルクス主義は、全ての客体は内部矛盾を内包する、それは機械的な動きも含めた全ての変化の原因だ、と断定する。
 外部的原因は変化の「条件」であるにすぎず、内部的矛盾こそがその「根拠」だ。
 「それぞれのかつ全ての差異はすでに矛盾を内包しており、差異それ自体が矛盾だ」(p.33)。
 異なる現実の領域には、それらに特徴的な矛盾があり、それらは、異なる科学分野の主な事項だ。
 我々はつねに、「全体」を感知するためにも、全ての矛盾にある個別の特質を観察しなければならない。
 ある事物は、その反対物に転化する。例えば、国民党は最初は革命的だったが、やがて反動的になった。
 世界は矛盾に充ちているが、あるものは他のものよりも重要だ。そしていかなる条件のもとでも、我々は主要な矛盾を、それから発生するその他の二次的な矛盾と見分けなければならない。-例えば、資本主義社会では、ブルジョアジーとプロレタリアートの間の矛盾。
 我々は、矛盾を解明して克服する方途を理解しなければならない。
 かくして、「マルクス主義について我々が学習する始まりのときには、マルクス主義に関する我々の無知や学習の希薄さは、マルクス主義に関する知識と矛盾している状態にある。
 しかし、学習に精励すれば、無知を知識へと、希薄な知識を実質的な知識へと転化させることができる」(p.57-p.58)。
 事物は、反対物に転化する。土地所有者は剥奪され、貧者に変わる。一方、土地なき農民は土地所有者になる。
 戦争は平和に道を譲るが、平和は再び戦争に譲る。
 「生がなければ、死もないだろう。死がなければ、生もないだろう。
 『上から』がなければ『下から』はなく、…『上から』もなく、…。
 容易さがなければ、困難さはないだろう。
 困難さがなければ、容易さはないだろう」(p.61)。
 区別は敵対する階級間のような、真反対の矛盾の間に行われなければならない。正しい党方針と間違った党方針のような、真反対ではない矛盾の間にではない。
 後者は、誤りを訂正することで解消することができる。だが、それが行われなければ、真反対の矛盾に転化する可能性がある。//
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 ②へとつづく。

2141/J・グレイの解剖学(2015)③-ホブスボームら02。

 Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)
 試訳をつづける。この書には、第一版も新版も、邦訳書はない見られる。一文ごとに改行。一段落ごとに、原書にはない数字番号を付ける。
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 第6部/第32章・二人のマルクス主義予言者-Eagleton とHobsbawm②。
 (7)Eagleton は、マルクスの展望が決して実現され得ないことを嘆く。-これは、彼が見るように、人間の弱さを悲劇的に示唆するものだ。
 しかし、非人間的であるとは、理想そのものだ。
 種の少数者のみならず、多数者もまた、マルクスやレーニンが想定した世界から排除されている。
 共産主義の理想が実現される社会は、人間がかつて生きてきたどの時代よりも悪いだろう。
 ボルシェヴィキは、ふつうの生活に対する憎悪に駆られて、神話や宗教のない世界を欲した。そこでは、人間が自分たち自身を理解して実現する個々の共同体は忘れ去られる。
 幸福なことに、そのような世界は最も強力で永続する人間の需要に反して作動するのであり、そのゆえに、不可能なのだ。
 (8)ソヴィエト国家が克服しなければならない障害-ツァーリ体制の遺産、外国の干渉、内戦-を繰り返し訴える在来の学問上の知識によるのとは反対に、最初から最後までソヴィエトの生活に明確な抑圧は、原理的に共産主義思想そのものから流れ出てきた。その思想によるなら、社会の残余と異なるいずれのグループも、いずれは破壊されなければならないのだ。
 興味深いことに、Eagleton はこのことを否定しない。
 多くの者と同様に、彼は、抑圧はまるでスターリンのもとでのみ苛酷になったかのごとく書いている。これはナンセンスだ。
 しかし、彼の主要な主張は、こうだ。西側諸国では達成されていない社会的団結の一類型を生むのを可能にするがゆえに、ソヴィエトの抑圧は、それを行うだけの価値があった。 彼は、ソヴィエト同盟は「西側諸国ならば別の土地の原住民を殺戮しているときにのみ掻き集めることができると思える、そのような市民間の連帯を促進した」、と我々に語る。
 もしも-Eagleton が認めるように-それが恐怖に依存しているならば、その団結にはいかほどの価値があるのか、という疑問は、別に措くことにしよう。
 もっと根本的な疑問は、彼が書く連帯はかつて存在したのかどうか、だ。
 Eagleton は一度でも、以前のソヴィエト・ブロックを訪れたのか?
 かりにそうであれば、彼はふつうの民衆たちとの接触を何とかして避けたのだろう。
 (9)そこに旅行して公式会合やホテルのバー以外の所に行く冒険心のある者に対して誰もが言っただろうように、ソヴィエト・ブロックの社会はその作動に関して完全にホッブズ的だった。
 そこにある通常の人間の状態は、連帯ではない。原子化された孤立だ。
 自由な住居、医療および教育といった装置が広がっていたのは本当だ。しかし、特権と遍在する腐敗のネットワークを通じてのみこれらのものを利用することができた。
 失業(これは違法だった)に苦しむことはなかったけれども、労働民衆は、絶えず遂行される全員に対する全員の闘争に敗れた。
 独立した労働組合または政治組織に類似したものはなかったので、彼らは、自分たちの労働条件を制御したり、社会での自分たちの地位を改善することができなかった。
 (10)共産主義の崩壊の結果として、ふつうの市民の中では、西側により援助されたショック療法によるインフレで台無しとなった年金生活者だけがおそらく、生活条件が疑いなく悪化した。
 市場での交換に支配されて、共産主義は実際には、通常は<レッセ・フェール>資本主義を想起させる略奪文化に似たものをもつにすぎなかった。
 Eagleton は、こうした事実に注意を向けない。世界についての彼の見方は、事実にもとづいて形成されていないからだ。
 彼は、「資本主義は世界のある範囲の部門に莫大な富をもたらしたという意味で、資本主義はある時代の間には機能する」ことを承認する。但し、それは、「スターリンや毛沢東がそうしたのと同じく多大な人的コストを払ってなされた」のであって、「今や地球全体をすっかり破壊してしまおうとしている」という主張へと進むためにすぎない。
 現今の資本主義の過剰はスターリニズムや毛主義が冒した犯罪と同等のものだ、という見解は、気が狂っている(crazy)。
 現在の西側資本主義は多くの欠陥をもち、それらのいくつかはおそらく致命的だ。
 しかし、自分たち自身の市民を大量に殺戮したシステムと同一の範疇でもって位置づけることはできない。そのシステムは、現代での、たぶん歴史全体での、最悪の生態学上の大災難について責任があった。
 (11)Eagleton の粗野な誇張語法は、彼が悲劇の精神を称賛するときに何を意味させたいのかを我々に語ってくれる。
 正しいものが小さくともなお邪悪なものと一時的な妥協を行うことを必要とするときに、悲劇は出現する。
 これは、チャーチル(Churchill)がスターリニズム・ロシアとの同盟をどのように理解したかを示すものだ。
 ナツィズムを破壊しなければ、ヨーロッパまたは世界で文明は生き延びることができない。だが、その文明という目的の確保は、野蛮に染まった体制に戦力を加えることを意味した。
 本当に悲劇的な対立は、論理のオッカムの剃刀(Occam's razor)によく似た禁止に適合しているがゆえに、認知することができる。すなわち、悲劇は、必要以上に複雑にされてはならないのだ。
 悲劇は、生活を楽しくかつ面白いものにする方策ではない。
 悲劇は、諸悪の間で選択を余儀なくされるという場に直面したときに生じる。そしてそれは、不可能な目的を追求して残忍非道な手段が用いられるときに生じる道徳的恐怖と、明瞭に区別されなければならない。後者は、恐ろしい犯罪が主として、犯罪を冒した者たちの生活の意味を確保するために行われているという悲劇の語を悪用するものだ。
 自殺爆弾攻撃はその例だ。また、ソヴィエト共産主義もそうだ。
 (12)Eagleton が我々に望んでいるのは、共産主義の人的対価を、共産主義が達成しようとした理想とのバランスで考察することだ。
 彼は正当に、大きな善は大きな犠牲を必要とする、と主張する。この必要性はときには、合理的な解消方法のない諸価値の対立を含む。
 しかし、彼のこのような思考が支離滅裂であることは、つぎのように彼が問うときに明白になる。-「現代科学と人間の自由(liberty)の価値を、種族社会の霊的な善とどうやって比較検討(weigh)するのか?」。
 民主主義を、ホロコーストと同じ尺度に置けば、いったいどうなるのか?
 種族的生活-どんな霊的善も可能だ-は現代の生活条件とはうまくは両立しないかもしれない。しかし、民主主義はホロコーストという犠牲を払ってのみ達成することができるという思考のために、どのような根拠が成り立ち得るのか?
 Eagleton は単直に言って、邪悪と不必要な悲劇を区別することができない。後者は、馬鹿げて不快な夢想を追求する際に招来される。そして彼は、最悪の種類の道徳的ナンセンスの中へと滑り込んでいる。
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 ホブスボームら03へとつづく。

1719/T・ジャット(2008)によるL・コワコフスキ③。

 トニー・ジャット・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011。河野真太郎ほか訳)、第8章・さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産(訳分担・伊澤高志)の紹介のつづき。
 前回と比べて一貫しないが、今回は原注の邦訳も紹介する。原注の執筆者は、もちろん トニー・ジャット(Tony Judt)。
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 『主要潮流』の第三巻は、多くの読者が「マルクス主義」と考えるだろうもの、つまり1917年以降のソヴィエト共産主義と西欧マルクス主義思想の歴史を扱った部分だが、それはぶっきらぼうに「崩壊<The Breakdown>」と題されている。
 スターリンからトロツキーに至るソヴィエト・マルクス主義にはこのセクションの半分しか当てられておらず、残りはほかの国々の20世紀の思想家に割り当てられている。
 そのうちいく人か、とくにアントニオ・グラムシジェルジ・ルカーチは、20世紀思想を学ぶ者にとっては興味の対象であり続けている。
 また、ほかの者たち、例えばエルンスト・ブロッホカール・コルシュ(ルカーチの同時代のドイツ人)は、もっと好古趣味的な関心の対象だ。
 さらにほかの者たち、とりわけリュシアン・ゴルドマンハーバート・マルクーゼは、コワコフスキが彼らをほんの数ページで片付けてしまった70年代中葉よりも、現在ではさらに、興味深い存在ではなくなっている。//
 この本の最後は、「スターリンの死以後のマルクス主義の展開」で、そこでは、コワコフスキはまず彼自身の「修正主義者としての」過去を簡単に振り返り、ついでほとんど間断ない侮蔑的な調子で、その時代のつかのまの流行を記録し始める。
 それは、サルトルの『弁証法的理性批判』と、そのはなはだしく愚かしい「不必要な新造語」から、毛沢東の「田舎農民のマルクス主義」と、その西洋の無責任な崇拝者たちに至るものだ。
 このセクションを読む者は、この著作の第三巻にもともと付されていた序文で、あらかじめ警告を与えられている。
 そこで著者は、この最終章で扱われる題材に関しては「敷衍してもう一巻書くこともできた」ということを認めつつ、「この主題はそれほど長大にして扱うほどの本質的価値のあるものとは思えなかった」と結論づけている。
 おそらくここで記しておくべきは、『主要潮流』の最初の二巻はフランスで出版されているが、このコワコフスキの代表作の第三巻にして最終巻は、いまだにフランスでは出版されていない、ということだ。//
 コワコフスキによるマルクス主義の学説に関する歴史記述の驚くべき幅の広さを、短い書評で示すことは、まったく不可能だ。
 それがほかの著作にとって代わられることも、ないだろう。
 いったい誰が、これほど詳細に、これほど洗練された分析によって、この領域に再び足を踏み入れるだけの知識を得ることが、あるいはそれを望むことが、あるだろうか。
 『マルクス主義の主要潮流』は、社会主義の歴史ではない。
 著者は、政治的文脈や社会組織については、わずかに触れるにすぎない。
 この本は、正面切って思想を語るもので、かつて有力だった理論と理論家の一族の盛衰を語る教養小説で、その最後の生き残りの子供のひとりが、懐疑的で、かつての迷いが解けた老年時代に語った物語なのだ。//
 コワコフスキのテーゼは1200頁にわたって示されているが、率直で、曖昧なところはない<*straightfoward & unanbiguous>。
 彼の見解ではマルクス主義は真剣に考えられるべきものだが、それは、階級闘争に関するその主張のためではない(それらはときには正しいものだったが、決して目新しいものではなかった)。
 また、資本主義の不可避の崩壊や、プロレタリア-ト主導の社会主義への移行を約束したからでもない(それは予測としては完全に外れた)。
 そうではなく、マルクス主義が独創的なロマン主義的幻想と断固とした歴史的決定論(*historical determinism>の、他にはない、そして真にオリジナルな混合物<*blend>を提示したからだ。//
 このように理解されたマルクス主義の魅力は、明白なものだ。
 マルクス主義は、世界がどのように動いているかを説明してくれた。
 つまり、資本主義と社会的階級関係に関する経済学的分析だ。
 それはまた、世界がどのように動くべきかを示してくれた。
 つまり、人間の諸関係の倫理学で、マルクスの若く理想主義的な思索によって示された(また、ジェルジ・ルカーチによるマルクス解釈によって示されていて、コワコフスキはルカーチ自身の妥協的キャリアを軽蔑しているにもかかわらず、その解釈にほぼ同意している(注06))。
 さらにマルクス主義は、マルクス(とエンゲルス)の著作からロシアでの後継者たちが引き出した歴史的因果関係に関する一連の主張によって、物事は将来的にはそのように動くだろうと信じるに足る、議論の余地のない根拠を与えてくれた。
 経済に関する記述、道徳に関する規範、政治に関する予言、これらの組み合わせは、強烈に魅惑的なもので、また便利なものでもあった。
 コワコフスキが述べているように、マルクスは今でも読む価値がある。
 ただし、ほかの者たちが自ら生じせしめた政治システムを正当化するためにマルクスを引き合いに出すときに、彼の理論がかくも変幻自在であるのはなぜか、ということを、私たちが理解する助けになる、そのかぎりで、読む価値がある(注07)。//
 マルクス主義とコミュニズムの関係とは、マルクスがスターリン(とレーニン)の手にかかって歪曲されてしまうことから「守る<*save>」ために、三世代にわたる西欧マルクス主義者たちが果敢にも最小限に抑えようとしてきたものだが、それについて、コワコフスキは歯に衣を着せぬものがある<*explicit>。
 なるほどマルクスは、ヴィクトリア王朝期のロンドンで生きた、ドイツ人著述家だった(注08)。
 彼はいかなる理解可能な意味でも20世紀のロシアや中国の歴史に関して責任などあるなどとは考えられないし、それゆえ数十年の長きにわたってマルクス主義純粋主義者たち<*Marxist purists>が、その創始者の真の意図を確証しようとしたり、マルクスとエンゲルスが自分たちの名のもとに将来なされる罪について何を考えていたかを確かめようとしたり努めてきたことは、無駄だし、余計なことだ。
 とはいえ、神聖なるテキストの真実に立ち返ることを繰り返し強調することは、コワコフスキがとくに注意を払っている、マルクス主義のセクト的側面を示すものではある。//
 それにもかかわらず、教義<*doctrine>としてのマルクス主義は、それが生み出した政治的運動とシステムの歴史から切り離せるものではない。
 事実、マルクスとエンゲルスの論法には、決定論という核がある。
 それは、以下のような主張だ。
 「つまるところ」、人間には決定的な支配などできぬ理由によって、物事はそうあるべき姿になるのだ、と。
 このような断言は、古いヘーゲルを「逆さま」にすることや、歴史の核心に物質的原因(階級闘争、資本主義の発展の法則)を議論の余地のないかたちで挿入すること、それらに対するマルクスの欲望<*desire>から生じたものだ。
 このような都合のよい認識論的背景に、プレハーノフやレーニン、その追随者たちは、歴史的「因果関係」の理論体系と、それを実践するための政治機構を、もたせかけようとした。//
 そのうえ、若きマルクスのもう一つの直観、すなわちプロレタリア-トは自分たちの解放が全人類の解放を告げるものとなる、被搾取階級という特別な役割のために、歴史の最終目的に対して特権的な洞察力を有している、という直観は、最終的にコミュニストがもたらした結果と深く結びつくもので、それは、プロレタリア-トの利害がそれを体現すると主張する独裁的政党に従属することによるものだった。
 マルクス主義による分析とコミュニズムの独裁とを結ぶこのような論理的連関の強固さは、レーニンがフィンランド駅〔1917年7月、弾圧から逃れたレーニンが降り立ったペテログラード(現サンクトペテルブルク)の駅〕近くのどこかに逃れるずっと以前から、コミュニズムのもたらす帰結を予測しそれに警告を発していた、ミハイル・バクーニンからローザ・ルクセンブルクにいたる多くの観察者や批判者の存在から、判断できるだろう。
 もちろん、マルクス主義は、違う方向へ進んだかもしれない。
 あるいは、どこへも向かわずに消え去ったかもしれない。
 しかし、「レーニンのマルクス主義は、唯一の可能性ではなかっただろうが、きわめてもっともらしく響くものだった」(注09)。//
 なるほど、マルクスもその後継者も、産業プロレタリア-トによる資本主義の打倒を説く教義が大部分が農村の立ち遅れた社会で力を得るなどとは、意図も予想もしていなかっただろう。
 しかし、コワコフスキにとっては、このようなパラドクスは信念の体系としてのマルクス主義の力を強調するものにすぎない。
 もしもレーニンとその信奉者たちが自分たちの成功を不可避的な必然だ<*ineluctable necessity>と主張しなければ(そして遡及的に理論上の正当化を行わなければ)、その主意主義的<*voluntaristic>努力は、決して成功しなかっただろう。
 また、何百万もの外部の崇拝者たちにとって、あれほど説得力のある模範にもならなかっただろう。
 ドイツ政府が秘密車両でレーニンをロシアに送り届けたことで可能になったご都合主義的な政変<*opportunistic coup>を「不可避の」革命に転じるためには、戦術的な才能だけでなく、イデオロギー的信念の広範囲にわたる実践が、必要だった。
 コワコフスキは、まったく正しい。
 政治的マルクス主義は、なににも増して、世俗化した宗教<*secular religion>だったのだ。//
 (原邦訳書・原著、一行空白)
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 (注06)他の場所でコワコフスキは、ルカーチ--彼はベーラ・クンによる1919年のハンガリー・ソヴィエト共和国の文化委員を短期間務めており、スターリンの命令により、彼がそれまでに記した興味深い言葉の全てを捨て去った--について、「暴君のために知性を用いた」偉大な才能だと記した。結論として、「彼の著作が思考を刺激することはなく、彼の故国ハンガリーにおいてさえ、『過去の産物』とみなされている」。
 "Communism as a Cultural Formation", Survey 29, no.2 (Summer 1985); reprinted in My Own Correct Views on Everything as "Communism as a Cultural Force", p.81参照。
 (注07)"What Is Left of Socialism", first published as "Po co nam projecie sprawieldliworci spolecznej ?" in Gazeta Wyborcza, May 6-8, 1995; republished in My Own Correct Views on Everything.
 (注08)『主要潮流』で、マルクスは彼の精神的風景を支配しているドイツ哲学の世界に、確固たる地位を与えられている。社会理論家としてのマルクスは、ほとんど顧みられない。マルクスの経済学への貢献--労働価値説であれ、先進資本主義下での利益率低下の予言であれ--は、そっけなく片付けられている。マルクス自身が経済に関する彼の研究成果に満足していなかったことを考慮すれば(それが『資本論』が完成しなかった理由の一つだ)、これはありがたいことと考えるべきだろう。
 というのも、マルクス主義経済学の予言的な力は、少なくともジョゼフ・A・シュムペーターの Capitalism, Socialism, and Democracy (New York, London: Harper and Brothers, 1942)〔『資本主義・社会主義・民主主義(新装版)』中山伊知郎・東畑精一訳、東洋経済新報社、1996年〕以来、左翼にとってすら長いあいだ顧慮されてこなかった。
 それから20年後、ポール・サミュエルソンが恩着せがましくも、カール・マルクスはせいぜいで「マイナーなポスト・リカード主義者」だと認めたのだ。
 彼の弟子のいく人かにとってさえ、マルクス主義経済学は最初に登場してからの数年の歴史によって、実際的価値のないものとなってしまった。
 エンゲルスの友人でもあったエドゥアルト・ベルンシュタインは、Evolutionary Socialism (first published in 1899)で、資本主義的競争のはらむ矛盾が労働者の置かれた状態の悪化と革命によってしか解決できない危機を必ずもたらすことになるという予言を、決定的に解体した。
 この主題に関する英語での議論でいまだに最良のものは、Carl E. Schorske, German Social Democracy, 1905-1917: The Development of the Great Schism (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1955 )だ。
 (注09)Kolakowski, "The Devil in History", Encounter, January 1981; reprinted in My Own Correct Views on Everything.          
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 以上、原邦訳書の本文p.185の途中まで。原注の訳は、同p. 243-4。
 コワコフスキの英訳書の各巻の表題(副題)は順番にThe Founders(創始者たち)、The Golden Age(黄金時代)、The Breakdown(崩壊)だと言及されている。ついでに記しておくと、ドイツ語訳書の各巻の表題(副題)は、順番に、Entstehung(生成・成立)、Entwickelung(発展・展開)、Zerfall(崩壊)で、前二者は必ずしも英語訳とは合致していない(コワコフスキの原書はポーランド語だとされている)。

1535/「左翼」の君へ⑤-L・コワコフスキの手紙(1974年)。

 L・コワコフスキの名をタイトルに使うドイツ語版の書物に、とりあえずだが、以下の二つがある。
 ①Ossip K. Flechtheim, Von Marx bis Kolakowski -Sozialismus oder Untergang in der Barbarei ? (1978). <マルクスからコワコフスキまで-社会主義かそれとも野蛮な没落か ?>
 ②Bogdan Piwowarczyk, Leszek Kolakowski -Zeuge der Gegenwart (2000). <レシェク・コワコフスキ-現代の証人>
 後者の②によると(p.192)、L・コワコフスキは1978年に、当時の西ドイツの雑誌か新聞だと思われるが(Zeit-Gespraeche)、「マルクス主義は民衆のアヘン(das Opnium des Volkes )だ」と題する論考かインタビュー記事を載せている。これはマルクスの著名な、「宗教はアヘンだ(科学的な社会主義とは違う)」との言明を意識したものに違いない。
 この欄の4/21付・№1511に紹介した下斗米伸夫の言葉はこうだった。再掲。
 1980年代前半の「当時の日本では、少なくとも知的世界の中では、現代ソ連論は学問の対象というよりも、まだ政治的立場の表明のような扱いしか受けておらず、戦後や同時代のソ連について議論をするのはやや勇気の要ることでもあった」。/自分も「1970年代末にある論壇誌でチェコ介入についてのソ連外交論を書いたが、学界の重鎮から、それとなくお叱りを受けた」。
 L・コワコフスキの『マルクス主義の主要な潮流』の刊行は1970年代の後半(1976、1978年)。なお、ドイツ語版は1977-79年に三巻に分けて刊行されているようだ。
 L・コワコフスキの1978年頃の言葉や書物と、その当時の日本の政治学界や私も実感していたはずの日本の「雰囲気」との間の、この懸隔の大きさを、2010年代、ロシア革命から100年後に日本で過ごしている秋月は、どう理解すればよいのだろうか。
 マルクス-レーニン-スターリン(-フランクフルト学派・毛沢東等)をきちんと「マルクス主義」の範疇で系統立てる、L・コワコフスキの『マルクス主義の主要な潮流』には、まだ日本語へ翻訳書すら存在していない。
 とりわけ、「レーニンとスターリン」を硬く結びつけていること、レーニンに何らかの「幻想」を全く示していないことが、日本の学者・研究者ないし学界や出版業者・諸メディアには<きわめて危険>なのだろうと推測される。
 試訳・前回のつづき。
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 では労働者については ? 二つの対立する見方がある。
 ある(偽のマルクーゼ派の)者は、こいつらはブルジョアジーから賄賂を受け取っていて、もう何も期待できない、と言う。
 今や学生が最も抑圧されていて、社会の最も革命的な階級だ。
 別の(レーニン主義者の)者は、労働者は虚偽の意識をもち、資本家が与える間違った新聞を読んでいるので彼らの疎外を理解できない、と言う。
 我々革命家たちだけが、頭に正しいプロレタリアートの意識を蓄え込んでいる。
 我々は労働者が考えるべきものを知っており、実際に、知らないままでも考えている。
 したがって、我々は権力を奪取する資格がある。
 (しかしこれは、科学的に証明されているように、まさに人民を欺くためにある馬鹿げた選挙遊びを通じてではない)。//
 革命的な笑談だと、不満を言っているだろう。
 そのとおり、革命的笑談だ。しかし、こう言うだけでは十分じゃない。
 これは社会を転覆できる笑談ではないが、大学を壊すことはできる。
 これは心配するに値する上演劇だ(いくつかのドイツの大学は、すでに政党の学校のように見える)。//
 私信でずっと前に議論した一般論的問題に戻ろう。
 まさしく私が『…だが、ベトナム戦争はあった』と書いて叙述した運動を、君は擁護する。
 じつに、そのとおりで、上品に行っている。だが、疑いなく、多くの違うこともある。
 伝統あるドイツの大学には、いくつかの我慢ならない特徴がある。
 イタリアやフランスの大学には、それらに固有の別の特徴がある。
 どの社会にも、どの大学にも、異議申し立てを正当化できるたくさんの物事がある。
 そして、これが私の言いたい重要な点だ。まともで十分に正当化できる不満が全くない世界には、いかなる政治運動も存在しない。
 権力を目指して相互に非難し合っている政党を見れば、彼らの主張や攻撃には十分に選ばれたかつ根拠のあるものがあることに、君はいつも気づくだろう、だがそれらの全てを理由あるものと受け取りはしない。
 誰も、すっかり間違ってはいない。共産党に加入する者はすっかり間違っている(wrong)のではない、と君が言うのは、もちろん正当(right)だ。
 ワイマール共和国でのナチの宣伝物をもう一度見れば、きわめて多数、十分に正当化できるものがあることに君は気づくだろう。
 ナチの宣伝はこう主張した。ベルサイユ条約は恥だ、そうだった。
 民主主義は腐敗している、そうだった。
 ナチは特権階級を、金権政治を、銀行家の政治を、付随的には、人々の現実の必要には関係がなく、汚いユダヤ人の新聞に役立つとして、偽りの自由を攻撃した。
 しかし、このことは、『よろしい、彼らはとても上品に振る舞ってはおらず、考えのいくつかは愚劣にすぎないけれど、彼らは多くの点で間違ってはいない。だから、条件つきで支持しよう』と言う、十分な根拠にはならない。
 少なくとも、多くの人がそう言うのを拒んだ。
 実際、ナチが既存の体制を攻撃したことに多くの長所がなかったなら、彼らは勝利しなかっただろうし、広げた旗を突撃隊(SA)の上に掲げて行進する<赤い戦線(Rotfront)>の党員たちのごとき現象は存在しなかっただろう。
 このことこそが、つぎのようにはできなかったことの理由だ。
 新左翼の運動は同じ行動様式を真似ており、同じ(例えば、全ての『形式的な』自由や全ての民主主義諸制度にかかわる点や寛容および学問上の価値に関する)イデオロギーの一部を真似ていると、私は思った。そう思ったときに、『だが、ベトナム戦争はあった』と観察することでは強く感銘をうけることはできなかった。//
 我々は彼らが見えるように蒙を啓くのを助けるべきだ、と君は言う。
 この助言を、僅かの限定をつけて、受け入れる。
 全能で全方向を見渡していると思っている人々について君が語る際に、これを適用するのはむつかしい。
 議論をする用意がある人との議論を拒んだことは、私にはない。
 困惑してしまうのは、議論する用意のない人が中にいることで、その理由は全く精確に、私には欠けている、彼らの全能性(omniscience)にあるのだった。
 本当に、私は20歳のときにほとんど完全に知識をもっていたが(omniscient)(まだ完全にではなかった)、君が知るように、みんな年を取るにつれて馬鹿になるものだ。
 28歳のときにはもっと全能ではなかったし、今やますますそうでない。
 完全な確実性や、世界の全ての厄災や惨害に対する即時の全地球的な解決方法を探している、そのような人々に満足してもらうことはできない。
 またさらに、その他の人々に接近して、カルバン派ではなくイェズス会派の体系にできる限りは従うべきだ、と私は考える。
 すなわち、誰も完全にはかつまた絶望的には堕落していない、誰もが、歪んでいようと乏しかろうと、いくつかは長所をもっていていくつかは善良な態度を示している、ということを我々は予め想定しておくべきだ。
 これはまたよく言われる、言うは行うよりも易しということだが、我々二人とも、このソクラテス的弁証法の完璧な理解者だとは私は思っていない。//
 <〔原文、初めての一行の空白〕>
 君の…との提案は…。
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 ⑥につづく。

1533/「左翼」の君へ④-L・コワコフスキの手紙(1974年)。

 レシェク・コワコフスキの書物で邦訳があるのは、すでに挙げた、小森潔=古田耕作訳・責任と歴史-知識人とマルクス主義(勁草書房、1967)の他に、以下がある。
 繰り返しになるが、この人を最も有名にしたとされる、1200頁を優に超える大著、Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (仏語1976、英語1978〔マルクス主義の主要な潮流〕) には邦訳書がない。
 L・コワコフスキ〔野村美紀子訳〕・悪魔との対話(筑摩書房、1986)。
 L・コワコフスキ〔沼野充義=芝田文乃訳〕・ライオニア国物語(国書刊行会、1995)。
 L・コワコフスキ〔藤田祐訳〕・哲学は何を問うてきたか(みすず書房、2014)。
 また、レシェク・コラコフスキー「ソ連はどう確立されたか」1991.01(満63歳のとき)、もある。つぎに所収。
 和田春樹・下斗米伸夫・NHK取材班・社会主義の20世紀第4巻/ソ連(日本放送出版協会、1991.01)のp.250-p.266。
 試訳・前回のつづき。
 Leszek Kolakowski, My Correct Views on Everything(1974、満47歳の年), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012). p.115-p.140.
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 実際のところ、反共産主義とは何だ。君は、表明できないか ?
 確かに、我々はこんなふうに信じる人々を知っている。
 共産主義の危険以外に、西側世界には深刻な問題はない。
 ここで生じている全ての社会的紛議は、共産主義者の陰謀だと説明できる。
 邪悪な共産主義の力さえ介入しなければ、この世は楽園だろうに。
 共産主義運動を弾圧するならば、最もおぞましい軍事独裁でも支持するに値する。
 君は、こんな意味では反共産主義者ではない。そうだろう ?
 私もだ。しかし、君が現実にあるソヴィエト(または中国)の体制は人間の心がかつて生み出した最も完璧な社会だと強く信じないと、あるいは、共産主義の歴史に関する純粋に学者の仕事のたった一つでも虚偽を含めないで書けば〔真実を書けば〕、君は反共産主義者だと称されるだろう。
 そして、これらの間には、きわめて多数の別の可能性がある。
 『反共』という言葉、この左翼の専門用語中のお化けが便利なのは、全てを同じ袋の中にきっちりと詰め込んで、言葉の意味を決して説明しないことだ。
 同じことは、『リベラル』という言葉にもいえる。
 誰が『リベラル』か ? 
 国家は労働者と使用者との間の『自由契約』に介入するのを止めるべきだと主張したおそらく19世紀の自由取引者は、労働組合はこの自由契約原理に反しているとは主張しないのだろうか ?
 君はこの意味では自分を『リベラル』ではないと思うか ?
 それは、君の信用にはとても大きい。
 しかし、書かれていない革命的辞典では、かりに一般論として君が隷従よりも自由が良いと思えば、君は『リベラル』だ。
 (私は社会主義国家で人民が享受している純粋で完全な自由のことを言っているのではなく、ブルジョアジーが労働者大衆を欺すために考案した惨めな形式的自由のことを意味させている)。
 そして、『リベラル』という言葉でもって、あれこれの物事を混合させてしまう仕事が容易にできる。
 そう。リベラルの幻想をきっぱり拒否すると、大きな声で宣言しよう。しかし、それで正確に何を言いたいかは、決して説明しないでおこう。//
 この進歩的な語彙へと進むべきか ?
 強調したい言葉が、もう一つだけあった。
 君は健全な意味では使わない。『ファシスト』または『ファシズム』だ。
 この言葉は、相当に広く適用できる、独創的な発見物だ。
 ときにファシストは私が同意できない人間だが、私の無知のせいで議論することができない。だから、蹴り倒してみたいほどだ。
 経験からすると、ファシストはつぎのような信条を抱くことに気づく(例示だよ)。
 1) 汚れる前に、自分を洗っておく。
 2) アメリカの出版の自由は一支配党による全出版物の所有よりも望ましい。
 3) 人々は共産主義者であれ反共産主義者であれ、見解を理由として投獄されるべきではない。
 4) 白と黒のいずれであれ人種の規準を大学入学に使うのは、奨められない。
 5) 誰に適用するのであれ、拷問は非難されるべきだ。
 (大まかに言えば、『ファシスト』は『リベラル』と同じだ。)
 ファシストは定義上は、たまたま共産主義国家の刑務所に入った人間だ。
 1968年のチェコスロヴァキアからの逃亡者は、ときどきドイツで、『ファシズムは通さない』とのプラカードを持っている、きわめて進歩的でかつ絶対に革命的な左翼と遭遇した。//
 そして君は、新左翼を戯画化して愉快がっていると、私を責める。
 こんな滑稽画はどうなるのだろうかと不思議だ。 
 もっと言うと、君が苛立つのは(でもこれは君のペンが燃え広げさせた数点の一つだ)、理解できる。
 ドイツのラジオ局がインタビューの際の、私の二ないし三の一般的な文章を君は引用する(のちにドイツ語から英訳されて雑誌<邂逅(Encounter)>で出版された)。
 その文章で私はアメリカやドイツで知った新左翼運動への嫌悪感を表明した。しかし、-これが重要だ-私が念頭に置いた運動を明言しなかった。
 私はそうではなく、曖昧に『ある人々』とか言ったのだ。
 私は君が仲間だった時期の1960-63年の<新左翼雑誌>をとくに除外しなかった、あるいは私の発言は暗黙のうちに君を含んでいさえした、ということをこの言葉は意味する。
 ここに君は引っ掛かった。
 私は1960-63年の<新左翼雑誌>をとくに除外することはしなかった。そして、率直に明らかにするが、ドイツの記者に話しているとき、その雑誌のことを心に浮かべることすらしなかった。
 『ある新左翼の者たち』等々と言うのは、例えば、『あるイギリスの学者は飲んだくれだ』と言うようなものだ。
 君はこんな(あまり利口でないのは認める)発言が、多くのイギリスの学者を攻撃することになると思うか ? もしもそうなら、いったいどの人を ?
 私には気楽なことに、新左翼に関してこんなことをたまたま公言しても、私の社会主義者の友人たちはどういうわけか、かりに明示的に除外されていなくとも含められているとは思わない。//
 しかし、もう遅らせることはできない。
 私はここに、1971年のドイツ・ラジオへのインタビー発言で左翼の反啓蒙主義について語っていたとき、エドワード・トムソン氏が関与していた1960-63年の<新左翼雑誌>については何も考えていなかった、と厳粛に宣言する。
 これで全てよろしいか ?//
 エドワード、君は正当だ。我々、東ヨーロッパ出身の者には、民主主義社会が直面する社会問題の重大性を低く見てしまう傾向がある。それを理由に非難されるかもしれない。
 しかし、我々の歴史のいかなる小さな事実をも正確に記憶しておくことができなかったり、粗野な方言で話していても、その代わりに、我々が東でいかにして解放されたのかを教えてくれる人々のことを、我々は真面目に考えている。そうしていないことを理由として非難されるいわれはない。
 我々は、人類の病気に対する厳格に科学的な解消法をもつとする人たちを真面目に受け取ることはできない。この解消法なるものは、この30年間に5月1日の祝祭日で聞いた、または政党の宣伝小冊子で読んだ数語の繰り返しで成り立っている。
 (私は進歩的急進派の態度について語っている。保守の側の東方問題に関する態度は異なっていて、簡単に要約すればこうだ。『これは我々の国にはおぞましいだろう。だが、この部族にはそれで十分だ』。)//
 私がポーランドを1968年末に去ったとき(少なくとも6年間はどの西側諸国にも行かなかった)、過激派学生運動、多様な左翼集団または政党についてはいくぶん曖昧な考えしか持っていなかった。
 見たり読んだりして、ほとんどの(全ての、ではない)場合は、痛ましさと胸がむかつくような感じを覚えた。
 デモ行進により粉々に割れたウィンドウをいくつか見ても、涙を零さなかった。
 あの年寄り、消費者資本主義は、生き延びるだろう。
 若者のむしろ自然な無知も、衝撃ではなかった。
 印象的だったのは、いかなる左翼運動からも以前には感じなかった種類の、精神的な頽廃だ。
 若者たちが大学を『再建』し、畏るべき野蛮な怪物的ファシストの抑圧から自分たちを解放しようとしているのを見た。
 多様な要求一覧表は、世界中の学園できわめて似たようなものだった。
 既得権益層(Establishment)のファシストの豚たちは、我々が革命を起こしている間に試験に合格するのを願っている。試験なしで我々全員にAの成績を与えさせよう。
 とても奇妙なことに、反ファシストの闘士が、ポスターを運んだりビラを配ったりまたは事務室を破壊したりしないで、数学、社会学、法律といった分野で成績表や資格証明書を得ようとしていた。
 ときには、彼らは望んだどおりにかち得た。
 既得権益あるファシストの豚たちは、試験なしで成績を与えた。
 もっとしばしば、重要でないとしていくつかの教育科目を揃って廃止する要求がなされた。例えば、外国語。(ファシストは、我々世界的革命活動家に言語を学習するという無駄な時間を費やさせたいのだ。なぜか ? 我々が世界革命を起こすのを妨害したいからだ。)
 ある所では、進歩的な哲学者たちがストライキに遭った。彼らの参考文献一覧には、チェ・ゲバラやマオ〔毛沢東〕のような重要で偉大な哲学者ではなく、プラトン、デカルトその他のブルジョア的愚劣者が載っていたからだ。
 別の所では、進歩的な数学者が、数学の社会的任務に関する課程を学部は組織すべきだ、そして、(これが重要だ)どの学生も望むときに何回でもこの課程に出席でき、各回のいずれも出席したと信用される、という提案を採用した。
 これが意味しているのは、正確には何もしなくても数学の学位(diploma)を誰でも得ることができる、ということだ。
 さらに別の所では、世界革命の聖なる殉教者が、反動的な学者紛いの者たちによってではなく、彼ら自身が選んだ他の学生によってのみ試験されるべきだ、と要求した。
 教授たちも(もちろん、学生たちによって)その政治観に従って任命されるべきだ、学生たちも同じ規準によって入学が認められるべきだ、とされた。
 合衆国の若干の事例では、被抑圧勤労大衆の前衛が、図書館(偽物の知識をもつ既得権益層には重要ではない)に火を放った。
 書く必要はないだろう。聞いているだろうように、カリフォルニアの大学キャンパス(campus)とナチの強制収容キャンプ(camp)での生活に違いは何もない。
 もちろん、全員がマルクス主義者だ。これが何を意味するかというと、マルクスまたはレーニンが書いた三つか四つの文、とくに『哲学者は様々に世界を解釈した。しかし、重要なのは、それを変革することだ』との文を知っている、ということだ。
 (マルクスがこの文で言いたかったことは、彼らには明白だ。すなわち、学んでも無意味だ。)//
 私はこの表を数頁分しか携帯できないが、十分だろう。
 やり方はつねに、同じ。偉大な社会主義革命は、何よりも、我々の政治的見解に見合った特権、地位および権力を我々に与え、知識や論理的能力といった反動的な学問上の価値を破壊することで成り立つ。
 (しかし、ファシストの豚たちは我々に、金、金、金をくれるべきだ。)// 
 では労働者については ? 二つの対立する見方がある。
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 ⑤につづく。

1528/「左翼」の君へ②-L・コワコフスキの手紙/1974。


 Leszek Kolakowski, My Correct Views on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012). p.115-p.140.
 前回のつづき。
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 もちろん、そうではない〔類似性はない〕。『野獣』、『ヘンな年寄り』に満ちた、消費者資本主義だ(君の言葉だ)。
 どこを見ても、我々の血は沸き立つ。
 こちらで余裕をもって再び熱烈な道徳家でおれるかもしれないし、また我々は-君も-資本主義制度は改良をやめることができないそれ自身の『論理(logic)』をもつことを論証できる。
 君は言うのだろう、国家による健康サービスは民間の事業の存在によって困窮化しており、教育における平等は人々が民間産業によって訓練されるために損なわれている、等々。
 改革は失敗に終わる運命にある、とは君は言わない。ただ、改革が資本主義を破壊させないかぎりは資本主義は壊れない、と説明はする。それは確かに真実(true)だ。
 また君は、『もう一つの選択肢である社会主義の論理への平和革命による移行』を提唱する。
 君が言いたいことをこれが完全に明確にすると、確実に考える。
 私は逆に、完全に不明確だと考える。再び言うが、工場の完全な国家所有が一度認められると君の言うユートピアへとつながる道の上での小さな技術的問題しか残らない、と君が想像力を働かせないかぎりは。
 しかし、立証責任(onus probandi)は、社会主義社会を描く新しい青写真の制作者はこの(『歴史家にとっては』重要でない)50年の経験を放擲できる、と主張する人たちの側にある。
 (ロシアでは、『例外的な事情』というのがあった。なかったか ? だが、西側ヨーロッパに関しては例外的なものは何もない。)//
 この些細な50年(今や57年)を新しい選択可能な社会について解釈するという君のやり方は、1917年と1920年代初めの間およびスターリングラードと1946年の間の『最も人間的な顔をした共産主義』を折々に語ることでも明らかだ。
 前の第一の場合、君は『人間の顔』という言葉で何を言いたいのか ?
 警察と軍隊によって全ての経済を支配しようという企てだった。大衆の飢餓をもたらし、無数の犠牲者が出て、数百の農民反乱があった、そうしてみんな、血の海に溺れた(レーニンがのちに認めたように〔1921年10月<革命4周年>演説-試訳者〕、正確にそれを予見していた多数のメンシェヴィキやエスエル〔社会主義革命党〕の党員たちを殺したり、投獄したりしたあとで起こった、全体的な経済の災害だった)。
 それとも、七つの非ロシア人諸国の武装侵略のことを言っているのか ?
 その諸国は独立政府を形成した。あるものは社会主義的、あとは非社会主義的だ(ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャン、ウクライナ、リトアニア、ラトヴィア、エストニア。神はこれら全ての国の民族が生きる場所を知っている)。
 あるいは、ロシアの歴史上唯一つ民主主義的に選挙された議会を、それが一言も発しない前に、兵士によって解散させたこと〔1918年1月の憲法制定会議の解散-試訳者〕を言っているのか ?
 社会主義的政党も含む全ての政党への暴力的な弾圧、非ボルシェヴィキ出版の禁止、そして何よりも、望むがままに殺戮、拷問、投獄をして、党とその警察の絶対的権力へと法を置き換えたことか ?
 そして、1942-46年の最も人間的な顔とは何か ?
 君はソヴィエト同盟の八つの全民族の、80万の犠牲者を生んだ国外追放のことを言っているのか ?(八つではなく七つと言おう。一つはスターリングラードのほんの少し前に追放されたから。)
 君は同盟軍から受け取った数十万人のソヴィエトの捕虜を集中強制収容所に送り込んだことを言っているのか ?
 言葉の背後にある現実について何かを考えているならば、バルチック諸国のいわゆる『集産化(collectivization)』のことを言っているのか ?//
 君が書いていることを説明できる、三つの可能性がある。
 第一。こうした事実に関しての単純な無知。歴史家だという君の職業を考えると、信じ難い。
 第二。『人間の顔』という言葉を、私が把握できないトムソン主義者の意味で使っている。
 第三。正統派と批判派〔「修正主義」派-試訳者〕のいずれであれ、たいていの共産主義者のように、共産主義制度では党の指導者たちが殺されないかぎり全ては正当だ(right)、と信じている。
 新しい選択肢のある社会主義の論理を共産主義者たち自身と、およびとくに党の指導者たちと共有できないと悟ったとき、これこそが実際に、共産主義者が『批判的』になる標準的な方法なのだ。
 フルシチョフが1956年の(重要性を私は全く理解できない)演説でただ一人名前を出した被害者は pur sang のスターリニストだったと気づいているか ?
 彼らのたいていは(ポツィシェフのように)、自分が犯罪の犠牲者になる前に無数の犯罪を冒した罪人だった。
 共産主義者が殺戮されるのを見て突然に恐怖を催したたくさんの元共産党員(名前を挙げないけど、許せ)が、回想録や批判的分析書を書いた。その恐怖に君は気づいたか ?
 彼らはつねに、『だが、そのような人々は共産主義者だった』と言って、犠牲者についての無知を釈明している!
 (ついでに言うと、これは自虐的な防御だ。何故かというと、非共産主義者を殺戮することには何も過ち(wrong)はないことを意味する。
 このことは、共産主義者と非共産主義者を区別する権限をもつ国家機関があり、その国家機関は銃砲を持つ同じ支配者でのみありうる、ということを示唆する。
 したがって、被殺戮者は、その定義によって非共産主義者であり、そして全ての物事はみんな正当(right)なのだ。)//
 よし。トムソン君、私は本当に、このような思考方法を君の責任にするつもりはない。
 でも、評価に際して君が二重の規準を使っていることに、気づかざるをえない。
 そして『二重の規準』と言うとき、新しい諸問題を見渡す『新しい社会』には経験がないのを正当化してしまいたいことを意味させてはいない。
 類似の状況に対して、政治的規準と道徳的規準とを交替に使い分けている、と言いたいのだ。
 政治的な情勢いかんによって、ある場合には熱心な道徳家で、別の場合には現実政治家だったり世界歴史に関する哲学者だったりするようなことをしてはいけない。//
 我々が理解し合うべきだとすると、君に明確にしたいのは、まさにこのことだ。
 ブラジルでの拷問について語ったラテン・アメリカの革命家との会話内容を(憶えていることから)君に書いてみよう。
 『拷問は過ち(wrong)か ?』と尋ねた。『何が言いたいのだ ?』と彼は言った。
 全て正当だ(right)と言うのか ? 拷問を正当化しているのか ?
 私は言った、『逆だ。ただ、拷問は道徳的に受容できない奇怪物だと考えるかどうかを尋ねている』。彼は答えた、『もちろんだ』。
 『キューバでの拷問もそうか ?』と私は質した。
 彼は回答した、『うん。それは別のことだ。
 キューバは、アメリカ帝国主義の脅威のもとにつねにある小さな国家だ。
 彼らは、残念だけど、自己防衛のために全ての手段を使わなければならない』。
 私は言った、『そうか。貴方は、二つとも取ることはできない。
 私も同じだが、拷問は道徳的な理由で忌まわしくかつ受容できないと貴方は考えるのなら、定義上、いかなる事情があってもそうだ。
 しかし、拷問が受忍されうる事情があるのだとすれば、貴方は拷問をする体制を非難できない。拷問それ自体には本質的に過ち(wrong)であるものは全くないと仮定しているのだから。
 ブラジルについてと全く同様にキューバの拷問を非難するか、それとも、人々に対する拷問を理由としてブラジルの警察当局を非難するのをやめるか、どちらかだ。
 実際、貴方は政治的な理由では拷問を非難できない。それはたいていの場合は完全に有効で、欲しいものをもたらすからだ。
 道徳的な理由でのみ貴方は非難できる。そしてそうだとすれば、不可避的に、どこでも、バチスタのキューバでもカストロのキューバでも、北ベトナムでも南ベトナムでも、全く同じだ』。//
 これは、私が君に明快にしたい、陳腐だけど重要な点だ。
 アメリカ合衆国にある大小あれ何らかの不公正について聞くときには心臓が失血して死にそうになり、一方では、新しい選択肢ある社会のより酷い恐怖について聞かされると突然に賢い歴史修辞学者か冷静な合理主義者になる、そういう人々がいる。
 私はたんに、そういう人と一緒になるのを拒否している。//
 これは、東ヨーロッパ出身の者が西側の新左翼に対して抱く、自然発生的なかつほとんど一般的な不信感の理由の、唯一ではないが、一つだ。
 奇妙にも一致して、この恩知らずの人々の大半は、西欧または合衆国にいったん定住すると、革命家だと思われる。
 偏狭な経験主義者や利己主義者は、彼らのほんの僅か数十年のちっぽけな個人的体験から推論して(君が正当にも観察するように、これは論理的には受容できない)、その中に、光輝く社会主義の未来に対する懐疑を抱いていることの口実を見出す。その未来というのは、最良のマルクス・レーニン主義の基礎の上に、西側諸国の新左翼というイデオロギストが精巧に作り上げたものだ。//
 ある程度はもっと詳しく書きたい話題は、これだ。
 事実をそのままに受け取ることや、一般理論から演繹することで現存社会に関する知識を得ていないことでは、我々は異なっていない、と思う。
 今度はインド出身のマオ〔毛沢東〕主義者との会話を、再び引用しよう。
 彼は言った、『中国の文化革命は、貧農(peasants)の富農(kulaks)に対する階級闘争だった』。
 私は尋ねた、『どのようにして、それを知るのか ?』
 彼は答えた、『マルクス・レーニン主義理論からだ』。
 私はコメントした、『そう。予想していたことだ』。
 (彼は理解できなかった。君には分かる。)
 しかし、これでは十分ではない。というのは、君に分かるように、適当に漠然としたイデオロギーはどれもつねに、その重要な構成要素を放棄しなくとも全ての事実を吸収(absorb)する(古いものを捨て去る(discard)、との意味だ)ことができるからだ。
 そして、厄介なことは、たいていの人々は熱心なイデオロギストではないということだ。
 誰もかつて資本主義も社会主義も見たことがなく、彼らが理論的に解釈することのできない一揃いの小さな諸事実だけを見てきたと信じているかのごときやり方で、彼らの浅薄な気持ちは作動している。
 ある諸国の人々は他諸国の人々よりも良い状態にある、ある諸国での生産、配分、サービスは他諸国よりもかなり効率的だ、こちらの人々は公民権や人権そして自由を享有しており、あちらではそうでない、と彼らは単純に気づいている。
 (君がそうするように、西側ヨーロッパに当てはめる言葉を使うには、ここで『自由』と引用符を付けるべきだろう。
 それが絶対的に義務的な左翼の叙述方法だと、私は悟っている。
 じつに、何が『自由』か。この言葉は十分に、一方の側には大きな笑いを充満させる。
 そして我々、ユーモアのセンスの欠けた人間は、笑いはしない。)//
 君が極楽に住み、我々は地獄にいると君に信じさせようとしているのではない。
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 ③につづく。

1525/L・コワコフスキ『マルクス主義-』1976年の構成②。

 トニー・ジャット(Tony Judt)の以下は、L・コワコフスキーの『マルクス主義の主要潮流』について一章を設けている(第二部/第8章)。この部分は、「称賛の価値ある」Norton社による一巻本での再発行の決定を契機に2006年9月のNew York Review of Booksに掲載したものを再収載しているようだ。
 Tony Judt, Reappraisal -Refrections on the Fogotten Twentieth Century (2008). - Part Two, Chapter VIII -Goodby to all that ? Leszek Kolakowski and the Marxist Legacy.
 =トニー・ジャット(河野真太郎ほか訳)・失われた二〇世紀/上(NTT出版, 2011)/第二部/第8章「さらば古きものよ ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産」。
 また、同じくトニー・ジャットは、つぎの著の一部(第5部/第18章)で L・コワコフスキーの逝去のあとで哀惜感溢れる文章でコラコフスキーの仕事と人物を振り返っている。これは、2009年9月にやはりNew York Review of Booksに掲載したものが初出だ。
 Tony Judt, When the Facts Change -Essays 1995-2010 (2015). -Part 5, Chapter 18 -Leszek Kolakowski (1927-2009).
 後者は、トニー・ジャットのいわば遺稿集で、彼はコワコフスキの死の翌年、上を書いてほぼ1年後の2010年8月に、62歳で亡くなった(1948-2010)。
 以下は構成内容の紹介のつづき。一部について、節名も記した。
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第三部・破滅。
 第1章・ソヴェト・マルクス主義の初期段階、スターリニズムの開始。
  第1節・社会主義とは何か ?。
  第2節・スターリニズムの諸段階。
  第3節・スターリンの初期と権力への到達。
  第4節・一国社会主義。
  第5節・ブハーリンとネップのイデオロギー、1920年代の経済論争。
 第2章・1920年代のソヴェト・マルクス主義の理論的諸論争。
  第1節・知的および政治的風土。
  第2節・哲学者としてのブハーリン。
  第3節・哲学論争:デボーリン対機械論者。
 第3章・ソヴェト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
  
第1節・大粛清のイデオロギー上の意義。
  第2節・スターリンによるマルクス主義の編纂。
  第3節・コミンテルンと国際共産主義のイデオロギー上の変形。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化
 第5章・トロツキー。
 
第6章・アントニオ・グラムシ(A. Gramsci): 共産主義修正主義。
 第7章・ジョルジ・ルカーチ(Gyorgy Luka'cs):ドグマ提供の理性。
 第8章・カール・コルシュ(K. Korsch)。
 第9章・ リュシアン・ゴルトマン(Lucien Goldmann)。
 第10章・フランクフルト学派と『批判理論』。
  第1節・歴史的および伝記的なノート。
  第2節・批判理論の原理。
  第3節・消極的弁証法。
  第4節・実存主義的『真正主義』批判。
  第5節・『啓蒙主義』批判。
  第6節・エーリヒ・フロム(Erich Fromm)。
  第7節・批判理論(続き)、ユルゲン・ハーバマス(Juergen Habermas)。
  第8節・結語。
 第11章・ハーバート・マルクーゼ(H. Marcuse):新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
 第12章・エルンスト・ブロッホ(Ernst Bloch):未来派的直感としてのマルクス主義。
  第13章・スターリン死後のマルクス主義の発展。
  第1節・『脱スターリニズム』。
  第2節・東ヨーロッパでの修正主義。
  第3節・ユーゴスラビア修正主義。
  第4節・フランスにおける修正主義と正統派。
  第5節・マルクス主義と『新左翼』。
  第6節・毛沢東の農民マルクス主義。
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 以上。

1406/ブレジンスキー: Out of Control(1993)の一部を読む①。

  ズビグニュー・ブレジンスキー(鈴木主悦訳)・アウト・オブ・コントロール(草思社、1994)の「はじめに」と「第一部・組織化された狂気の政治」p.5-p.57。
 第一部は「第一章・大量死(メガデス)の世紀」、「第二章・全体主義のメタ神話」、「第三章・強制的なユートピア」から成り立つ。
 原書は、Zbigniew Brzezinski, Out of Control - Global Turmoil on the Eve of the 21st Century(Charles Scribner's Sons, 1993)
 一 ブレジンスキーにはすでに次の著もあり、「20世紀における共産主義の誕生と終焉」を語っていた。
 Zbigniew Brzezinski, The Grand Failure - The Birth and Death of Communism in the Twentieth Century (Macmillan Publishing, 1989)=ブレジンスキー(伊藤憲一訳)・大いなる失敗-20世紀における共産主義の誕生と終焉(飛鳥新社、1989)
 二 とりあえず上記の部分のみについてだが、すでに考えさせる、または刺激的な叙述に溢れている。
 この人は冒頭(表紙裏)に「ジミー・カーターに捧げる」と書いているようにアメリカの民主党系の学者だ。リチャード・パイプス(1923生)よりも5歳だけ若く(1928年生)、パイプスが共和党系であるのと異なる。但し、この二人ともポーランド生まれの、民族的にはポーランド人だ、と見られる(アメリカに帰化)。
 フーバーとF・ルーズヴェルトの違いを知ると、共産主義についての見方に共和党と民主党には大きな差違があるようにも思える。しかし、ポーランド生まれであることが関係しているのかどうか、ブレジンスキーは(も)<反共産主義>を鮮明にしている。これが、やや驚きでもある第一点だ。
 「はじめに」の最後の段落の文章を、やや長いが引用してみよう。邦訳書p.15-16。
 「20世紀は妄想の政治とおぞましい殺人の世紀でもあった。過去に例をない規模で狂気が制度化され、まるで大量生産を思わせる組織的なやり方で人間が殺された。人類を幸福にするはずの科学の可能性と、実際に歯止めがかけられなくなった政治の邪悪さは、おそろしいほどに対照的である。人類の歴史を振り返っても、殺人がこれほどあちこちで起こり、多くの人命が失われたことはなかった。不合理な目的のために、特定の人間を絶滅させるべく、これほど集中的にかつ持続的な努力が傾けられたこともなかった。/
 たしかに、…。中世には、…。…。しかし、このほかの暴力が激化した例を見ても、それらは基本的には突発事件だった--激しい暴力のために多くの血が流されたが、それは持続しなかったのである。大量虐殺、とりわけ非戦闘員のそれは、…、念入りな計画にもとづく一貫した方針にそって行なわれたわけではなかった。20世紀という時代が政治史に悲惨な足跡を残したとすれば、まさに念入りな計画にもとづく一貫した方針によって大量虐殺が行なわれたことなのである。」
 「20世紀の大量殺人」、「組織化された狂気の時代」の「大量殺戮」によってブレジンスキーは何を意味させているか。彼はその原因を①戦争・局地戦争・内戦、②全体主義>共産主義、③宗教・民族問題に分けて論じているようだが、ほとんどは<共産主義>によるものについてだ。
 ブレジンスキーによれば、①による(「実際の戦闘」による、民間人も含む)死者数は8700万人(広島を含む)。③によるものは、「300-400万人」。そして、②+③の「イデオロギーや宗教上の理由」により「意図的に殺された」人間は「8000万人を超える」(p.28)。
 合計の約1億7000万人は、仏・伊・英の三国の人口数の合計にほぼ等しく、アメリカの人口の3分の2以上(p.28)。
 ブレジンスキーは、20世紀を「大量死(Megadeath)」の時代、と称する(p.17)。Mega とは、10の6乗の数。
 ②の「『強制的なユートピア』をつくろうという全体主義的な試み」によるものについての叙述はかなり詳しい。以下は、抜粋引用的な紹介。
 「道徳的観点からすると、戦争の犠牲者の数さえ見劣りするかもしれないその数字こそ、20世紀を大量死の世紀と正当に位置づける根拠となる」。その数こそが「主義に名を借りた憎悪や感情のせいで、計画的に死に追いやられた無防備な人びとの数」だ(p.20)。
 この「政治的な動機による大量殺人」の原因は、つぎの4人の人間だった。
 すなわち、ヒトラー、レーニン、スターリン、毛沢東。
 「推定」数字だが、「重要なのは規模であって、正確な数字ではない」(p.18))
 ヒトラーによって、約1700万人。レーニンによって、「およそ600万人から800万人」。
 スターリンによって、「控えめに見積もっても、2000万人以上が、おそらくは2500万人が殺された」(p.21)。中国の指導部は「秘密」にしているが、推計では、毛沢東の「文化大革命」により、「100万人から200万人が殺された」(p.26)。
 その他、「東欧、北朝鮮、ヴェトナム、キューバ」で、「少なくとも300万人」。カンボジアでその3分の1、つまり約100万人。
 「共産主義は人類が歴史上最も大きな犠牲を払って失敗した試みだった」(p.27)。
 スターリン時代の戦争捕虜の処遇についての「恐るべき記録」にも、言及がある(p.22以下)。
 <以下、続ける。>

1380/共産主義に関する討論のテーマ-R・パイプスによる。

 Richard Pipes, Communism - A History (Random House, 2003) の巻末に、共産主義に関する討論テーマ (Discussion Guide) が掲載されている。読者が大学生や高校生であることを想定してのことだろうか。
 興味深いので、16個の質問事項(討論テーマ)をそのまま訳しておきたい。
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 01 共産主義の基礎にある古代の理想は何か ?
 02 マルクスは社会主義思想にいかなる寄与をしたか ? その理論は本当に、彼が主張するように「科学的」か ? 彼の予言は実現されたか ?
 03 社会主義「修正主義」とは何か ?
 04 レーニンはマルクスの正しい後継者だったか、それとも、レーニンはマルクス理論を修正したのか、かりにそうならば、どのようにして ?
 05 1917年10月にペトログラードで起きたのは、革命か、それともクー・デタか ? なぜ、権力掌握後に共産主義体制はあれほど早く独裁的に(autocratic)になったのか ? スターリンは、レーニンの門弟だと正しく主張していたのか ?
 06 なぜ、レーニンは革命を世界に広げることを主張したのか ? 彼とその後継者たちはどの程度成功したか ? コミンテルンのプログラムはいかなるものだったか ? なぜ、そしてどのように、ドイツの共産主義者は1932年にヒトラーの政権奪取に寄与したのか ?
 07 「ノーメンクラトゥーラ」とは何か、そしてそれはどのようにして共産主義体制の安定性と最後の失敗の両方に寄与したのか ?
 08 スターリンの大テロルの原因と過程を討論しなさい。トロツキーが共産主義国家では「服従しない者は食うべからず」と書いたとき、彼は何を言いたかったのか ?
 09 とくに1930年代に西側諸国で支持者を獲得した共産主義の成功を、あなたはどう説明するか ?
 10 冷戦の原因は何だったか ? それは不可避だったか ?
 11 なぜ、ソ連は解体したか ? 少数派のナショナリズムはその解体にいかなる役割を果たしたか ? 
 12 第三世界での共産主義運動に共通しているのは何か ? なぜ、モスクワは、西側の旧植民地だった国で勝利することが重要だと考えたのか ?
 13 中国・ソヴィエトの分裂の原因は何だったか ? どのようにして、マルクス主義者は毛沢東共産主義者だったか ? 
 14 なぜ、チリのアジェンデ共産主義体制は転覆させられたのか ?
 15 カンボジアやメンギストゥ〔秋月注-エチオピア〕のような体制がマルクスやエンゲルスの理論と同一視されうるとすれば、それは、もしあるならば、いかなる意味でか ?
 16 「社会主義者は勝利するかもしれないが、社会主義は決してしない」との言明は、何を意味するのか ? なぜ、本の著者の見解によれば、共産主義はつねにかつどこでも失敗する運命にあるのか ?     
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 上のRichard Pipes の書物(ハードカバー版は2001年刊)は、 リチャード・パイプス(飯嶋貴子訳)・共産主義が見た夢(ランダムハウス講談社、2007)として邦訳されている。
 但し、訳者(1967~)の責任ではないだろうが、巻末の上記の Discussion Guide は訳されておらず、役に立つと思われる<さらなる読書のための助言>という、著者による関連諸文献の紹介と簡単な説明(p.166-9)も訳されていない。注も索引も邦訳書では割愛されている。
 また、この種の邦訳書にはよく見られる、訳者または別の専門家による<著者(リチャード・パイプス)の紹介>や<解題・解説>もまったく存在しない。
 200頁に充たないコンサイスな書物だが、あるいはそうだからこそ、<共産主義の歴史>を概観するうえで(「共産主義が見た夢」という邦題は直接的でない)、日本人にとっても-日本共産党を理解するためにも-十分に参考になると思われるのに(上の討論テーマはすべて本文で言及されているようだ)、残念なことだ。

1330/日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ06。


 前回につづける。
 3. 第三に、さざ波通信36号が一部を引用している、不破哲三・講座/日本共産党の綱領路線(1984、新日本出版社)から。この著全体が1983.08の日本共産党全国地区委員長講習会での「講義」を整理して雑誌・前衛に載せたものをさらに「大幅に加筆」したものとされている。
 以下は、「第三章・国際情勢をどうとらえるか」の中の「大国主義問題での二つの誤った見方-『社会主義無謬論』と『完全変質論』-」という中タイトルの部分(p.111-)。
 ・日本共産党は「二つの誤った見方-『社会主義無謬論』と『完全変質論』とをしりぞけている」。/前者は「社会主義は民族自決権の侵犯などといった根本的な誤りをおかすはずはないという立場」。「まさに今日では、大国主義者とその追従者の現実に背を向けた観念論的イデオロギー以外のなにものでもありません」。<改行、以下中略>
 ・「誤った見方のもう一つは、あれこれの社会主義大国がそうした重大な誤りをおかしているということを根拠に、『この国はもはや社会主義国ではなくなった』とか、『その存在は世界史のうえでいかなる積極的な役割も果たさなくなった』とかみなす、いわゆる『社会主義完全変質論』です。//
 「…1966年の日中共産党会談で、わが党代表団と毛沢東その他中国側との論争の最大の焦点の一つは、この点にありました。//
 中国側は、ソ連のあれこれの誤りを社会主義国の党と政府が誤りをおかしているといった段階の問題ではなく、ソ連が経済的には国家独占資本主義、政治的にはファシズム独裁の国になり、アメリカ帝国主義と同列の帝国主義国に変質してしまったことのあらわれだという評価を前面におしだし、これを理由にアメリカのベトナム侵略戦争に反対する国際統一戦線の方針につよく反対しました。<改行>
 これにたいして、わが党代表団は、ソ連の大国主義、干渉主義やアメリカ帝国主義美化論は断固として批判するが、だからといって、その誤りを理由に、ソ連は社会主義国でなくなったとする見方はとりませんでした。//
 そのときの論争は、『日中両党会談始末記』(1980年、新日本出版社刊)に詳しく紹介されていますが、この論争の決着はすでに明確だといってよいでしょう。//
 中国自身、完全変質論を事実上捨ててしまい、現在では、ソ連の大国主義を批判するが、社会主義国でないとはいわなくなっていますから。」(p.115)<改行>
 ・「私たちはまた、中国にたいしても、…批判をくわえましたが、…、そのことを理由に中国が社会主義国でなくなったとか、もう誤りただす力がなくなったとかの見方はとりませんでした。」<以下、中略>
 ・「社会主義の復元力についての私たちのこの展望は、…最近の中国の動向によって実証されました。……復元力のあらわれ方は、まだ複雑で過渡的な状況にありますが、この過程の全体が『社会主義完全変質論』の誤りの事実による証明となっていることは、まちがいないところです。」<改行、以下省略>
 以上、紹介おわり。// は原文では改行ではない。
 <つづく>

0811/「レーニンから毛まで」。<容共>か<反共=反コミュニズム>かが基本的対立軸。

 産経新聞社の別冊正論あたりに近いだろうか、ドイツの新聞社 Die Zeit〔時代〕 が季刊で「Die Zeit /歴史」という本又は雑誌を発行していて、今年秋号で第18号になったようだ。
 その2009-03号のタイトルは<危機の予言者-カール・マルクス>。内容を紹介するつもりはないし、その能力もない。
 目次を瞥見して興味を惹いたのは、Iring Fetscher(イリング・フェッチャー)という人物が「父の名前において-レーニンから毛まで-マルクスのイデーから生まれたもの」という文章(論文)を書いていて、マルクス-レーニン-毛沢東を一つの系統として捉えていることだ。毛(沢東)の名前が挙がるなら、実質的には「金日成まで」続いていると理解して何ら差し支えないだろう。
 毛沢東と金日成のあと、中国と北朝鮮において、体制の基本的思想において断絶はあったのか。むろん、<市場経済>を一部で導入した中国のように、政策的に重要な変更はある。だが、毛沢東や金日成の後継者たちが両国を支配していることにほとんど誰も異論を挟まないだろう。
 だとすれば、イリング・フェッチャーの言葉を借りれば、<マルクス・レーニンから毛沢東・金日成まで、そして現在の中国・北朝鮮の指導者たちまで>という系列を語ることが可能だ。
 日本共産党のように、マルクスとレーニンまでは「正しく」、スターリンから誤って<真の社会主義>ではなくなった(少なくとも目指す国でなくなった)、などという<寝言>を、ドイツ人を含む欧米人は誰も(一部のマルクス主義者を除き「ほとんど」が正確だろうか)語ってはいないだろう。
 現時点ではまだ政権与党であるドイツ社会民主党も戦後に早々と<反共=反コミュニズム>を明確にし、そのゆえにこそ、政権を担え、首相も出せる<現実的・建設的な>政党になった。
 <反共=反コミュニズム>は、欧米では、諸国民や知識人たちの(ほとんど)<常識>であるに違いない。
 日本ではどうか。<反共=反コミュニズム>は一部の<保守・反動>・<右翼>の心情で、共産主義=コミュニズムに対しても<優しく><リベラルな>のが(つまりは<容共>が)<進歩的>な感性の人間だとの、根拠のない思い込みになお多くの国民が陥っているように見える。はなはだしいのはマスメディアに従事する輩たちであり、大学の人文・社会系の学者たちだ。
 「レーニンから毛まで」と簡単に断言することのできない、曖昧な知識人・マスコミ人士の何と多いことか。
 グローバル化というなら、こういう<反共=反コミュニズム>においても日本は<国際標準>に合わせるべきだ。そこに達していない日本は、欧米に比べて<グロテスクに異様だ>と感じなければならない。
 もともと外国所産の思想に対する<反共=反コミュニズム>を掲げることに反対するために(つまり<容共>のために)、日本に固有・独自の歴史・文化を持ち出す持ち出すことはできない。上のことは何でも欧米の真似をせよ、という主張をしているのではない。
 民主党は全体としては又は多数派は<共産主義・社会主義志向ではない>という了解と安心があったからこそ、有権者の多くは同党に票を投じたのだろう。たしかに、米帝は日中人民共通の敵だと北京で声明した委員長がいたり、日米安保廃棄を唱えつづけてきたかつての日本社会党とは異なるようだ。
 だが、この政党に<旧社会党>一派がいることは周知のことだし、新総理大臣・鳩山がはたしてどこまで<反共=反コミュニズム>意識の持ち主であるかは疑わしい。むしろ<容共>に傾きうるのではないか、という危惧がある。
 こんな曖昧な政党に政治を委ねなければならないとは、憂鬱な事態だ。
 ドイツでは同盟(CDU/CSU)と自由民主党(FDP)の<保守・中道>連立政権が生まれそうだとされているが、かりにドイツで社会民主党(SPD)ほぼ単独の政権ができても、日本の新政権よりはマシなのではないか。ドイツ社会民主党の<反共=反コミュニズム>ははっきりしており、米国等との北大西洋条約機構(NATO)からの離脱を主張するはずもないからだ(もっとも、独社民党はドイツ国内の米軍の核兵器の撤去を要求しているらしい。ということは、現時点で、ドイツには明確に米軍の核兵器がある、ということ、そしてそのことが広く知られている、ということだ)。
 一部であっても<隠れマルクス主義者>や<容共>の者が民主党内で力を持つとすれば、日本は由々しき状況になるだろう。
 かくのごとく、中国・北朝鮮の現況を前提とすると、日本での思想・政治の最も基本的な対立軸は、なお<容共>か<反共=反コミュニズム>だ、と考えている。
 多くのマスコミ人士や学者たちは、<民主主義(の徹底・充実)>か<古い(愛国的・保守的)思考(の存続)>かの対立だと捉えているように見える。こういう対立軸の設定は、<民主主義かファシズム(軍国主義)か>という、戦後昭和<進歩的文化人>、丸山真男らも描いた、戦後当初の思考枠組みをそのままなお引き摺る、じつはアンシャン・レジームの発想だ。
 決して万全の、理想的なイデオロギーでも何でもない(実現すべき実体的価値を何ら示さない)<民主主義>(国民の「皆様」が主人公!)の実現・充実・徹底、という「青い鳥」を<夢想>して、大多数の国民(・マスコミ人士・学者)はこれからも生きていくのだろうか。むろん、その先頭に朝日新聞や岩波書店や某大学等々の学者たちがいる。どこかが大きく間違っている。

0467/共産主義との闘い-人間が人間らしく生きるために。

 「なぜ1917年に出現した現代共産主義は、ほとんど瞬時に血なまぐさい独裁制をうちたて、ついで犯罪的な体制に変貌することになったのだろうか。…この犯罪が共産主義勢力によって、平凡で当たり前の施策と認識され実践されてきたことをどう説明できるのだろうか」。
 これはクルトワ等共産主義黒書コミンテルン・アジア篇(恵雅堂出版、2006)p.334の文章だ。「犯罪」はむろん粛清=大量殺戮を含む。
 この本はフランス人によるだけにフランス革命後のロベスピエール等によるギロチン等による死刑とテロルの大量さとの関連性にも言及しているのが興味深いが、この文章の「現代共産主義」は殆どソ連のみを意味する。だが、「現代共産主義」は欧州では無力になったとしても、東アジアではまだ「生きている」。アジア的・儒教的とか形容が追加されることもある、中国・北朝鮮(・ベトナム)だ。中国との「闘い」に勝てるかどうかが、これらの国を「共産主義」から解放できるかどうかが、大袈裟かつ大雑把な言い方だが、日本の将来を分ける。下手をすると(チベットのように<侵略>されて)中華人民共和国日本州になっている、あるいは日中軍事同盟の下で事実上の中国傀儡政権が東京に成立しているかもしれない。そうした事態へと推移していく可能性が全くないとはいえないことを意識して、そうならないように国と全国民が「闘う」意思を持続させる必要がある、と強く感じている。むろん「闘い」は武力に限らず、言論・外交等々によるものを含む。
 といって、現在の北朝鮮・中国情勢に関して日本「国家」が採るべき方策の具体的かつ詳細な案が自分にあるわけではない。だが、中国・北朝鮮対応は共産主義との闘いという大きな歴史的流れの中で捉えられるべきだし、将来振り返ってそのように位置づけられるはずのものだ、と考えている。
 近現代日本史も「共産主義」との関係を軸にして整理し直すことができるし、そうなされるべきだろう。共産主義がロシアにおいて実体化されなかったら、日本共産党(国際共産党日本支部)は設立されず、治安維持法も制定されなかった。コミンテルンはなく、その指導にもとづく中国共産党の対日本政策もなく、支那は毛沢東に支配されることもなかった。米ルーズベルト政権への共産主義の影響もなく、アメリカが支那諸政府よりも日本を警戒するという「倒錯」は生じなかった。悪魔の思想=コミュニズムがなかったら、一億の人間が無慈悲に殺戮される又は非人間的に死亡することはなかったとともに、今のような東アジアの状態もなかった。

0250/可哀想な日本共産党員のブログから二点。

 日本共産党員のブログや、コメントに対する応答を読んでいると、いちいちどのブログかを特定しないが、なかなか面白いものが含まれていることがある。若干の例を挙げて、コメントする。月日も特定しないが、比較的近日中のものだ。
 第一に、同党の実質的な初代「教祖」と言える宮本顕治の経歴、とくにスパイ・リンチ事件についての知識が不十分な日本共産党員がいる。例えば、某党員ブログはこう書く。
 「宮本顕治が逮捕されるきっかけになった事件についていってると思うんですが、宮本は「殺人」ではなく治安維持法違反で有罪になっているわけで、「殺人罪」では有罪になっていません。」(賢治→顕治に訂正しておいた)
 1933年12月のスパイ・リンチ死亡事件については、立花隆(日本共産党の研究)や当該「査問」の参加者の一人・袴田里見(昨日の同志宮本顕治へ)などの研究書や「実録」ものがある。
 日本共産党員として正しい知識と教養を身に付けるためには、そして、自己の立場に自信があるならば、同党関係文献や新聞・中総決定だけではなく、こうした本も広く読んだらいかがだろうか。
 上の本で確認しないまま書くが(それでも上の引用文よりは正確な筈だ)、宮本顕治はなるほど殺人罪で起訴され有罪判決を受けたわけではないが、治安維持法違反のみで起訴され有罪となったわけでもない。つまり、小畑某か大泉某が「査問」途中で逃亡しようとした際に拘束し実力を行使している間に死亡した件につき、過失致死か傷害致死(たぶん後者)という一般刑法犯を冒した者としても宮本は起訴され有罪判決を受けた。
 宮本顕治は治安維持法違反者としてのみ服役していたわけではない。一般刑法上の犯罪者でもあったのだ。この程度の知識も、一般の日本共産党員にはない、つまり、赤旗(新聞)等々によって誤魔化されている(正確な知識を与えられていない)ということに、改めて驚く。
 ちなみに、1.立花隆の本には、戦後すみやかに解放されえたのは「政治犯」のみで「一般刑法犯」は対象外だったが、法務省のミスで宮本顕治も<釈放>された旨書かれてあったと記憶する。
 2.ひょっとしてお知りにならない日本共産党員もいらっしゃるかもしれないので書いておくが、副委員長・袴田里見までをも除名しなければならなかったのは、まさに袴田里見が前衛(だったと思う)に連載してのちに本にしたものの一部がスパイ・リンチ事件を扱っていて、その内容が宮本顕治による殺人(柔道的首締め。未必の故意)と解釈されるおそれがあったことがきっかけだった。
 日本共産党は宮本顕治を守るため、戦前からの長い宮本の同志・当時副委員長だった袴田里見まで犠牲にしたのだ。
 第二に、某ブログ上のコメントとその反論に次のようなものがあった。一部のみ抜粋する。
 コメント-「スターリン、毛沢東、金日成、ホーチミン、ポルポトみんな一杯人殺してるよ。/共産主義者の殺人は綺麗で正義の殺人なのかな。
 反論-1.「長時間過密労働・過労死・過労自殺…資本主義の国・わが国日本でも資本が労働者を抑圧する行為がやられてますよね。
 2.「「社会主義」「共産主義」「共産党」の看板掲げているからといって、彼らのやってる事がすべて「社会主義」「共産主義」「共産党」というわけではありませんよ。わが国の政権党・自由民主党だって党名は「自由民主」でも、やってる事は大企業を応援し、庶民を増税で苦しめるなど「自由民主」とはほど遠いですからね。
 反論の1.はあまりにもひどい。「資本」の「労働者抑圧」の例である?「長時間過密労働・過労死・過労自殺によって、社会主義国(旧も含む)又は共産主義による自国民の大量殺戮が<相殺>されるわけがないではないか。前者に対応するのは、現・旧社会主義国における、労働環境・労働条件の悪さ等々による工場労働者等の死亡の多さだ。
 反論の2.についてはまず、些細なことだが、最後の文の、<大企業の応援や庶民を納税で苦しめる>のは「自由民主」に反する、との主張は全く論理的ではない。「自由」を実体的価値・「民主」を手続的価値とかりに理解するとしても、いやこのように理解しなくとも、上のことが「自由・民主」と矛盾するわけでは全くない。自由主義と民主主義の範囲内で上のような政策も十分に成り立つ(もっとも上のような簡単・単純な政策の叙述自体に同意しているわけではない)。
 「自由・民主」の意味について、(日本共産党も何か関係する宣言を出している筈だが、自党の理解も含めて)もう少し考えていただいた方がよい。
 上に引用しなかったが、イギリス労働党と北朝鮮労働党を「労働党」という名前だけで同類視しない筈との名?文章があった。だが、コメント者が問題にしているのは、いくつかの人名で代表される、マルクス主義又はマルクス・レーニン主義(=日本共産党における「科学的社会主義」)を採用し、社会主義社会・共産主義社会への展望を綱領で(どんなに短い文章でも)示している政党、という意味だろう。
 従って、「「社会主義」「共産主義」「共産党」の看板掲げているからといって、彼らのやってる事がすべて「社会主義」「共産主義」「共産党」というわけではありませんよ」という答え方では答え・反論になっていない。
 むしろ、「すべて…というわけではありません」という表現は、<一部>は<真の>
「社会主義」「共産主義」「共産党」である可能性又は余地を認めるもので、100%の反論に全くなっていない。
 私が日本共産党員としての正答を教えてあげる義理は全くないのだが、同党の立場にかりに立てば、こう言うべきだろう。
 「スターリン、毛沢東、金日成、ホーチミン、ポルポト
」、この人たち(又はこの人たちが指導した国家)は真の「社会主義」者(「社会主義」国家)ではなく、この人たちが指導した共産党は誤った「共産党」だった。従って、正しい路線を歩んでいる日本共産党と同一視するな。
 こう書いておいて、ベトナムのホーチミンについては自信がないことに気づいたが、この人以外については、<日本共産党の主張をよく勉強している>党員ならば、上のように答えるだろう。ソ連について、レーニンまでは正しく、スターリンから誤った、大量虐殺の責任も主として又は大部分はレーニンではなくスターリンにある、と主張しているのが日本共産党だからだ。
 むろん、私はさらに、上の「正答」に反論することもできる。誤っていたスターリンの指導を受け、それを支持していた日本の政党こそが、戦前およびスターリン死亡までの戦後の日本共産党ではなかったのか、ということはすでに書いた。
 他にも、もともとレーニン→マルクスと遡る源流そのものに<血生臭さ>は胚胎していたのであり、表面的には今のところ<平和的>・<紳士的>でも、日本共産党も本質的にはマルクス・レーニン主義のDNAは引き継いでいる筈ではないのか、との疑問を出しておくことも可能だろう。
 思わぬ長文になったが、最後にいくつか。
 とくに上の後者の回答者党員の知的レベルの低さは何とかしないと、ブログ上で、日本共産党は(ますます)恥を掻くことになるのではないか。
 また、同回答者の他の文章にもかなり目を通してみたが、要するに、日々の赤旗(新聞)や選挙パンフに書かれてあることをなぞっているにすぎない。語彙・概念に独自なものはなく、すべて共産党用語だ。歴史や基礎理論の勉強の足りない党員が、赤旗や選挙パンフの文章を多少は順序を変えて反復しているに過ぎない。
 ついでに。いつぞや共産主義(→日本共産党)は「宗教的」ではなく「宗教」そのもの、と書いたことがあった。党員の精神衛生のためには、日々、教典にもとづく教祖の具体的教えが書かれた文章を読み、「正しい」ものとして学習し、それに基づいて、場合によっては信者を増やすべく布教をする必要があるのだろう。
 日本共産党のようなとくにイデオロギー性の強い政党については、入党というのは教祖又は宗教への全面帰依を意味する。入党するということは<思想・信条の自由>・<信仰の自由>を丸ごと放棄することと同義だ。
 そのようにして「自由」を喪失した者は、自分の言葉・概念・論理で語る能力もまた(ごく一部の幹部候補生以外は)失っていく。そのような人たちが、ネット上でもけっこう多数うごめいていることを知ると、本当に可哀想だ、気の毒だ、と私は心から感じざるをえない。
 日本共産党に未来はないのに…。

0193/日本に思想のゆえに殺してよいとの思想はあったか。

 「反革命」と認定した者をかりに実力抵抗がなくとも殺戮して当然とする考え方、要するに革命の「敵」はその思想のゆえに殺しても構わないという考え方はフランス革命期にあったと見てよく、論議はなおありうるのだろうが、ロシア革命にも継承された。
 レーニンらは、フランス革命以降19世紀の欧州の歴史をよく知っていたに違いない。フランスの革命家たちがルイ16世や王妃マリー・アントワネット等の一族を断頭台で処刑死させたように、レーニン・ロシア共産党はロマノフ朝を終焉せしめ、ニコライ2世の一族全員を殺戮した。
 かかる共産党の「思想」はその後も引き継がれた。そうでないと、スターリンの粛清等、毛沢東・文化大革命による大量殺戮、金日成・金正日の粛清・思想犯の収容所送致等を説明できない。金日成は南朝鮮系・中国系等の有力な共産党員を粛清して独裁に至った。
 フランスのことを考え、思いは社会主義国に巡り、そして日本に帰ってくる。日本に体制側・権力側の敵はその思想のゆえに殺しても構わないという考え方はあったのだろうか。あったとして、どの程度現実に実施されたのだろうか。
 日本史の詳細に立ち入る知識も余裕もないが、特定の宗教のゆえに実力で弾圧された例はあるようだ(一向一揆、石山寺、島原の乱)。だが、これらは純粋に宗教のみが理由だったかは疑問だし実力による抵抗を示したから殺戮を含む弾圧を招いたとも言えるだろう。
 素人の歴史談義を続ければ、徳川家康は秀吉の血を絶やしたかっただろうが、淀君らが家康に恭順の意を示していれば、大阪の陣による秀頼・淀君の死はなかったのではないか。
 最大の問題は明治維新とその前後の時期だが、「思想」のゆえに殺された者たちはいたようだ。新選組は一方の「思想」の側の殺人部隊だった。しかし、その数はフランス革命期ほどに大量でなかった筈だし、暴力の行使に対抗する暴力の場合もあったはずだ。
 何よりも、旧体制の頭領・徳川慶喜は新体制側に恭順の意を示したために殺されず生命を全うした。旧幕側の勝海舟もそうだった。函館まで行き武装抵抗した榎本武揚も、投獄されたのちには新政府の要職まで務めた。
 日本共産党結成後の大正末に死刑付きの治安維持法ができたのは、ロシア革命成功によるロマノフ王朝一族等殺害の現実を目のあたりにした当時の日本の体制側の深刻な恐怖感によるものだっただろうが、この法律によって実際に死刑にされた者はいない
 断片的かつ粗雑な思考で結論づけるつもりはないが、わが国には「敵」はその思想のゆえに抵抗がなくとも殺しても構わないという考え方はなかったか弱かったのではないか。それは日本人の生命観であり「やさしさ」でもあって「敵との闘争」がより頻繁で深刻だった欧州諸民族と比べて、誇ってもよいのではないか。

-0018 /2008年北京五輪へ行って、お腹を毀したくない。

 読売6面の小さな記事によると、2004年以降の2年間余、中国での外国メディア記者の拘束の件数38、人数85、取材妨害は15ケ国メディアに対して72件、うち記者等への暴行10件、写真やノートの没収21件。中国の実態の一端だ。かかる状況に文句をつけると「内政干渉」、「中国の自由・民主主義を他国と同列に論じられない」とか言うのだろう。日米・欧州的基本価値を共有しない異質な「社会主義国」だのに、一衣帯水とか漢字文化に目眩ましされて、チャイナスクール卒外務省お歴々の中には「東アジア共同体」構想をめざす人もいるらしい。
 せめて中国共産党の支配が終わり毛沢東以降歴代の党書記の全ての「罪」が明らかになり、かつ北朝鮮「金」王朝が終焉してからにしてほしいものだ。ECはすべて自由主義国でかつドイツの社民党もNATOを承認しドイツへの米軍駐留を肯定するという(日本の社会党、現社会民主党と正反対の)現実的対応をとる国々で構成されている。そのような基盤は現在、東アジアにはまるでない。
 誰かがどこかに書いていたが、ドイツナチスは1936年のベルリン五輪の9年後に滅び、1980年のモスクワ五輪の9年後にベルリンの壁がなくなり、11年後にソ連が崩壊した。とすると、2008年北京五輪から9~11年後の2017~19年には大きな世界史的事件が東アジアで起きるかも。その前後の日本を巻き込んだ大暴発又は大混乱はいやだが。
 毛沢東の矛盾論・実践論をなるほどと感心しつつ読んだのは1970年頃だった。矛盾・対立には根本的なものから些細なものまであるので見極めが肝心ということはたぶん書いてあったと思う。
 優先順位の選択といってもよいが、国際政治でも国内政治でもこの見極めが大切で、日本と人類にとっての最大の矛盾・対立はコミュニズムとの間にある、コミュニズムの国と勢力に絶対に屈してはならない、が私見だ。ルーズベルト又はアメリカはコミュニズムへの認識が甘すぎた時期があったようだ。毛沢東・共産党が中国の覇権を握る可能性を真剣に予測し得ていたら、戦争中の日本への対応も違ったのでないか。ソ連と中国で計1億人以上が殺戮されたともいわれる。権力把握者から「嫌いな」主張者と感じられたとの理由だけでも。「政治犯収容所」と容赦ない殺人を伴うコミュニズムの「おそろしさ」を-日本共産党とも決して無縁でない-、昔風の「反共」で済ませず、深刻に考えておく必要がある。
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