秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

毛主義

2169/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節⑥-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき、最終回。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義⑥。
 (51)1957年2月、毛沢東は、「人民間の矛盾について」と題する講演を行った。これは、毛が理論家だと評価される根拠になっているもう一つの主要な文章だ。
 この中で彼は、こう宣言する。我々は慎重に、人民内部での矛盾と人民とその敵の間の矛盾を区別しなければならない。
 後者は独裁によって、前者は民主集中制によって、解消される。
 「人民」の間に自由と民主主義が広がっても、「この自由は指導者の付いた自由であり、この民主主義は中央集権化した指導のもとでの民主主義であって、アナーキーではない。<中略>
 自由と民主主義を要求する者たちは、民主主義を手段ではなく目的だと見なす。
 民主主義はときには目的のように思われるが、実際には一つの手段にすぎない。
 マルクス主義が我々に教えるのは、民主主義は上部構造の一部であって、政治の範疇に属する、ということだ。
 ということはすなわち、結論的分析では、民主主義は経済的基盤に奉仕する。
 同じことは、自由についても言える」(<哲学に関する四考>, p.84-p.86)。
 このことから抽出される主要な実践的結論は、人民内部の矛盾は教育と行政的手法の巧みな連係で処理されなければならず、他方で人民と敵の間の矛盾は独裁によって、つまり実力(force)によって解消されなければならない、ということだ。
 しかしながら、毛沢東が別の箇所で示唆するように、人民内部の「非敵対的」矛盾は、正しくない考えをもつその構成員が自分の誤りを受け入れるのを拒むならば、いつか敵対的矛盾に転化するかもしれない。
 このことが最も分かるのは、毛のつぎのような党員たちに対する警告だ。すなわち、党員たちが速やかに真実を承認するならば、その彼らは容赦されるだろう、しかしそうしなければ、その彼らは階級敵だと宣告され、そのようなものとして処置されるだろう。
 人民内部の見解の対立に関して毛は、正しさと過ちを区別するための6つの標識を列挙する(同上、p.119-120)。
 人民を対立させるのではなく団結させるならば、そうした見解や行動は正しい。
 社会主義の建築に有益であり、有害でなければ、同様。
 人民の民主主義的独裁制を強固にし、弱体化させないならば、同様。
 民主集中制を強化するのを助けるならば、同様。
 共産党の指導的役割を支援するのを助けるならば、同様。
 国際的な社会主義者の団結と世界の平和愛好人民の団結にとつて有益であるならば、同様。//
 (52)民主主義、自由、中央集権制および党の指導的役割に関するこれら全ての言辞には、レーニン=スターリン主義正統派と矛盾するところは何もない。
 しかしながら、実際には差異があるように見える。
 この差異は、こうだ。中国では「大衆」が支配しているとの多数の西側毛沢東熱狂者たちが想像するような意味でではない。そうではなく、中国の党はソヴィエトの指導者たちよりも多く、命じるためのイデオロギー操作の方法を知っていたがゆえに、政府は協議にもとづくという雰囲気をより醸し出している、という意味でだ。
 これは、権威が疑われない革命の父が長期間にわたって存在し続けたことや、中国が圧倒的に農村社会だったことによった。後者は、農民指導者は彼らの領主でもなければならないとマルクスが言ったことを確認している。
 古い文化を代表する階級が実際に破壊され、また情報の流通路がソヴィエト同盟以上にすら厳格に規制されている状況では(毛沢東が述べた「正しい思想の中央集権化」だ)、中央政府の権力を侵犯することなく、地方的な政治や生産に関する多数の問題は正規の政府機構によってではなく地方の諸委員会によって解決することができる。//
 (53)「平等主義」は、たしかに毛イデオロギーの最も重要な特徴の一つだ。
 既述のように、平等主義の基礎は、賃金の差異を排除する方針や全員が一定の量の身体労働をしなければならないという原理にある(指導者と主要なイデオロギストたちは、この要求対象から除外されたと見えるけれども)。
 しかしながら、このことは、政治的な意味での平等に向かういかなる趨勢を示すものではなかった。
 今日では、情報を入手できることは基本的な資産であり、統治に関与するための<必須条件(sine qua non)>だ。
 そして、中国の民衆はこの点で、ソヴィエト同盟の民衆と比べてすら、大切なものを剥奪されている。
 中国では、全てが秘密だ。
 実際には、いかなる統計も公的には利用できない。
 党中央委員会や国家行政機関の諸会議は、しばしば完全に秘密裡に行われる。
 「大衆」が経済を統制するという考えは、上層部以外の誰も経済計画がどうなっているかすら知らない国では、西側にいる毛主義者たちの、最も途方もないお伽噺(fantasy)の一つだ。
 市民が公的情報源から収集することのできる外国に関する情報は最小限度のもので、市民の文化的孤立は完全だった。
 中国共産主義に対する最も熱狂的な観察者の一人であるエドガー・スノウは、1970年に訪中した後で、公衆が入手できる書物は教科書と毛沢東の本だけだ、と報告した。
 中国の市民たちはグループを組んで劇場に行くことができた(個人用チケットは実際に販売されなかった)。また、外部の世界についてほとんど何も教えてくれない新聞を読むことができた。
 他方で、スノウが注目したように、彼らには西側の読者は慣れ親しんでいる殺人、ドラッグ、性的倒錯に関する物語は与えられなかった。//
 (54)宗教生活は、実際には破壊された。
 宗教的礼拝に用いる物品の販売は、公式に禁止された。
 中国人は、一般選挙や警察機構から独立した公的な訴追部署のような、ソヴィエト同盟には残っていた民主主義的表装の多数の要素を、なしで済ませた。ソヴィエトの公的訴追部署は実際には、「正義」と抑圧の両方の執行者だったのだが。
 直接的な実力による強制の程度は、知られていない。
 強制収容所の収容者数について、粗い推測をする者すら存在しない。
 (ソヴィエト同盟ではより多く知られている。これはスターリンの死以降の一定の緩和の効果だ。)
 専門家たちが議論をすることが困難であるのは、中国の人口は大まかに4~5億人と見積もられているという事実からも明らかだ。//
 (55)中国以外に対する毛主義のイデオロギー的影響には、主に二つの起源がある。
 第一に、ソヴィエト同盟との分裂以降、中国の指導者は世界を「社会主義」国と「資本主義」国ではなく、貧しい国と豊かな国に分けた。
 ソヴィエト同盟は、上の前者の一つと位置づけられ、さらには毛沢東によると、ブルジョアが復活しているのが見られる。
 林彪は、「農村地帯による都市部の包囲」に関する赤色中国の古いスローガンを国際的規模で適用しようとした。
 中国の例はたしかに、第三世界諸国にとって明らかに魅力のあるものだ。
 共産主義の成果はっきりしている。すなわち、共産主義は中国を外国の影響力から解放し、多大な対価を払いつつ、技術的および社会的な近代化の途上へと中国を乗せた。
 社会生活全領域の国有化は、他の全体主義諸国でのように、人類を、とくに後進農業国家を汚染した主要な疫病のいくつかを廃棄するか、または軽減させた。疫病とはつまり、失業、地域的な飢餓や大規模な貧困状態。
 中国型の共産主義の模倣が実際に成功するか否かは、例えばアフリカ諸国でのその問題は、本書の射程を超えるものだ。//
 (56)毛主義の、とくに1960年代の、イデオロギー的影響力の第二の淵源は、ある程度の西側の知識人や学生たちが中国共産主義を表装とするユートピア的お伽噺を受容した、ということだ。
 毛主義はその当時に、人間の全ての問題を普遍的に解決するものとして自らを描こうと努めた。
 多様な左翼的なセクトと人々は、毛主義は産業社会の厄害を完全に治癒するものだと、そしてアメリカ合衆国と西ヨーロッパは毛主義の諸原理にもとづいて革命を起こすべきだし、起こすことができると、真面目に信じたように見える。
 ソヴィエト・ロシアのイデオロギー的権威が崩れ落ちていたとき、ユートピア切望者たちは、エキゾティックな東洋に注目した。それはじつに容易に分かるが、中国の事情に完全に無知だったことが理由だ。
 完全な世界と崇高で全包括的な革命を追い求める者たちにとって、中国は、新しい天の配剤のメッカとなり、革命的戦いの最後の大きな望みとなった。-中国がソヴィエトの「平和共存」という定式を拒絶していなかったとすれば、こうではなかった。
 多数の毛沢東主義グループは、中国が大きく革命的信仰心を捨てて政治的対抗者というより「正常な」形態に変化したとき、ひどく失望した。そして、毛主義がヨーロッパまたは北アメリカで現実的な勢力となるのを望むことを明確にやめた。
 西側諸国での毛主義は、既存の諸共産党の地位に顕著な影響を何ら与えなかった、というのは実際のことだ。すなわち、毛主義は何らかの帰結として共産党の分裂を引き起こさず、小さな細片グループがもつ特性にとどまった。
 また、東ヨーロッパでも、アルバニアの特殊な例を除いては、記すに値するほどの成果を生まなかった。
 その結果として、中国は戦術を変換し、イギリス、アメリカ合衆国、ポーランドやコンゴと等価値の独立した救済策だとして毛主義を提示するのをやめて、ロシア帝国主義の仮面を剥ぐことや同盟を追求することに集中した。同盟の追及、あるいは何としてでも、ソヴィエトの膨張を阻止するという共通の利益にもとづいて、影響力を拡大することに。
 実際に、これははるかに見込みがある方向だ、と思える。毛主義のイデオロギーの問題ではなく、露骨に政治的な問題だけれども。
 マルクス主義の用語法はこの政策の追求のためにまだ用いられているが、それは本質的ではなく、装飾的なものだ。//
 (57)マルクス主義の歴史という観点からすると、毛主義イデオロギーが注目に値するのは、毛沢東が何かを「発展させた」のが理由ではなく、かつて歴史的に影響をもつものになったどの教理よりも無限定の融通性をもつことを例証したことが理由だ。
 一方で、マルクス主義は、ロシア帝国主義の道具になった。
 他方で、マルクス主義は、技術的経済的後進性を市場の通常の働き以外の別の手段によって克服しようとする、大国の上部構造にあるイデオロギー的固定物だった(多くの場合は、後進諸国が市場を利用するのは不可能だ)。
 マルクス主義は、強くて高度な軍事国家の推進力となり、近代化という根本教条のために臣民たちを動員すべく、その力とイデオロギー的操作装置が用いられた。
 これまで述べてきたように、たしかに、伝統的マルクス主義には重要な要素があり、それは全体主義的統治の確立を正当化するのに役立った。
 しかし、一つのことだけは、疑い得ない。つまり、マルクスが理解した共産主義は、高度に発展した工業社会の理想であって、工業化の基礎を生み出すために農民を組織する方法ではなかった。
 だが、マルクス主義の痕跡と農民ユートピアや東洋専制体制とを混ぜ合わせたイデオロギーを手段として、その目標は達成することができることが判明した。-このイデオロギーは、<すばらしくこの上ない>マルクス主義だと宣明し、ある程度は有効に作動する混合物だ。//
 (58)中国共産主義への西側称賛者が困惑しているというのは、ほとんど信じ難い。
 アメリカの軍国主義を強く非難する言葉を見出すことのできない知識人たちは、つぎのような社会について狂喜の状態に入っている。子どもたちの軍事教練が第三年から始まり、全ての男子市民は4年または5年の軍事労役を義務づけられる、そのような社会についてだ。
 ヒッピーたちは、休日なしの厳しい労働紀律を導入して、薬物使用は言うまでも性的道徳に関する清教徒的規範を維持する国家に惹かれている。
 ある範囲のキリスト教者の文筆家ですら、そうした制度を高く評価している。中国での宗教は、仮借なく踏みにじられたけれども。
 (毛沢東は後生を信じたように見えるのは、ここではほとんど重要でない。
 1965年、彼はエドガー・スノウに二度、「すぐに神に会うだろう」と述べた(Snow, 同上, p.89, p.219-220)。
 毛は同じことを、1966年の演説で語った(Schram, p.270)。そして、1959年にもまた(同上, p.154)、マルクスと将来に逢うことをユーモラスに語った。)//
 (59)中華人民共和国は、明らかに現代世界のきわめて重要な要素だ。とりわけ、ソヴィエト膨張主義の抑止という観点からして。
 しかしながら、この問題は、マルクス主義の歴史とはほとんど関係がない。
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 第6節、従って第13章はこれで終わり。

2166/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節⑤。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義⑤。
 (40)調和のとれた共産主義的社会秩序に対する毛沢東の不信は、明らかに、伝統的なマルクス主義ユートピア像と一致していない。
 しかし、毛沢東はさらに、異なる未来像を考察するまでしていた。すなわち、全てが変化して長期的には全てが死滅するので、共産主義は永遠のものではなく、人類自体もそうではない。
 「資本主義は社会主義となり、社会主義は共産主義となる。そして、共産主義社会は、さらに変革されるだろう。共産主義社会にもまた、始まりと終わりがある。
 猿はヒトに変わった。そして人類が発生した。
 最終的には、全人類が消滅するだろう。別の何かに変わるかもしれない。地球それ自体もまた、存在することをやめるだろう」(Schram, p.110)。
 「将来に、動物は発展し続けるだろう。
 人間だけが二つの手をもつ資格がある、とは思わない。
 馬、雌牛、羊は進化することができないのか? <中略>
 水にもまた、歴史がある。
 もっと前には、水素も酸素も存在しなかった」(Schram, p.220-1)。//
 (41)毛は同じように、中国の共産主義の未来が保証されているとは考えなかった。
 ある世代がいつか、資本主義を復活させるときが来る。
 しかし、そうであっても、その後世の者たちがもう一度、資本主義を打倒するだろう。//
 (42)正統マルクス主義から本質的に離反しているもう一つは、農民崇拝(cult)が共産主義の主柱としてあることだ。ヨーロッパ共産主義ではこれに対して、農民は革命闘争の補助勢力にすぎないし、そうでなければ、蔑視された。
 毛沢東は、1969年の第9回党大会で、人民軍が都市を制圧するのは、さもなくば蒋介石が都市部を維持し続けただろうから、「よい事」だった、しかし、そのことで党内の腐敗が生じたので、「悪いこと」だった、と述べた。//
 (43)肉体労働の崇敬を含む農民と田園生活の崇拝によって、毛主義の特質の多くを説明することができる。
 マルクス主義の伝統は身体労働を必要悪と見なし、技術の進歩によってその必要悪から徐々に解放されるだろうと考えた。
 しかし、毛沢東の考えで、身体労働にはそれ自体の崇高さがあり、他のもので代替できない教育的価値がある。
 学生や生徒が時間の半分を肉体労働に捧げるという考えは、経済的必要によるというよりも、それと同じ程度以上に、人格を形成するための影響力によるものだった。
 「労働を通じての教育」は普遍的な価値をもち、毛主義の平等主義の考えと密接に関係している。
 マルクスは、肉体労働と精神労働の差異はいずれは消滅する、もっぱら頭を使って働く一群の人々と筋肉だけを使って働く人々がいるべきではない、と考えた。
 「完全な人間」というマルクスの理想の中国版は、知識人には樹木を伐採させたり溝を掘らせ、大学教授たちはほとんど読み書きのできない労働者の隊列の中から集められなければならない、というものだった。
 なぜなら、毛沢東が明瞭に述べたことだが、無学の農民ですら知識人たちよりも経済問題をよく理解している。//
 (44)しかし、毛沢東理論はさらに進んでいる。
 学者、文筆家、芸術家が農村の労働や特別の施設(つまり強制収容所)での教育的労働へと放逐されなければならないのみならず、知的な作業は容易に道徳的頽廃に変わり得ることや、人民が多数の書物を読みすぎるのを是非とも阻止しなければならないことを、認識しなければならない。
 この考え方は、毛の演説や会話の中で多様なかたちをとって頻繁に出てくる。
 毛沢東は一般に、人民は知れば知るほど悪くなる、と考えていたように見える。
 彼は成都(Chengtu)での1958年3月の党大会で、歴史をとおして見て、ほとんど知識のない若者の方が教養ある者たちよりも良かった、と述べた。
 孔子、イエス、ブッダ、マルクス、孫文(孫逸仙, Sun Yat-sen)は、彼らの思想を形成し始めたときにはまだきわめて若くて、多くのことを知っていなかった。
 ゴールキ(Gorky)は2年間だけ学校に行き、フランクリンは街頭で新聞を売った。
 ペニシリンの発明者は、洗濯屋で働いていた。
 1959年の毛の演説によると、漢の武帝の時代に、首相のChe Fa-chih は、無学だったが詩を作った。しかしながら、彼自身は無学(illiteracy)と闘うのに反対しなかった、と毛は付け加えている。
 1964年2月の別の演説で述べたのはこうだった。明王朝には二人しか良い皇帝はいなかったが、二人ともに無学だった。そして、知識人たちが国を乗っ取ったときに、国は荒廃し、破滅した。
 「書物を多すぎるほど読むのは、有害だ。
 我々は、マルクスの本を読むべきだが、多すぎるほど読んではいけない。
 十冊かそれくらい(a dozen or so)読むので十分だろう。
 あまりに多く読みすぎると、我々の反対物へと向かい、本の虫、教条主義者、そして修正主義者になる可能性がある」(Schram, p.210)。
 「梁王朝の武帝は、初期の時代には相当に良かったが、のちに多数の書物を読んだ。そして、もはや十分には仕事ができなかつた。
 彼は、T'ai Ch'eng で、飢えて死んだ」(同上、p.211)。//
 (45)こうした歴史的考察から得られる道徳は明瞭だ。すなわち。知識人は農村へと労働ををすべく送られなければならず、大学や学校で教育する時間は削減されなければならない(毛沢東はしばしば、知識人は全段階の教育を受けるのが長すぎると述べた)。そして、入学は政治的な規準に従わなければならない。
 最後の点は、党内部で激しい論争があった問題だったし、現在でもそうだ。
 「保守派」は、少なくとも一定の最小限度の学問的規準が入学や学位の授与には適用れさるべきだと主張した。一方、「急進派」は、社会的出自と政治的意識以外のものは何も考慮されるべきではない、と考えた。
 後者は明らかに、毛沢東の考えと一致する方向にある。毛は1958年に、満足感をもって二度、中国人はどんな好む絵でも描くことができる白紙のようなものだ、と述べた。
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 (46)知識、専門家主義および特権階級によって創造された文化全体に対する深い不信感は、明らかに、中国共産主義の農民起源性を示している。
 この不信感はどの程度にマルクスの教理、レーニン主義を含むヨーロッパ・マルクス主義の伝統と矛盾しているかを論証する必要はない。ロシア革命の最初には、教育に対する類似の憎悪の兆しがあったのだけれども。
 教育を受けたエリート(élite)と大衆の間の深い溝が以前はロシア以上に深かったように見える中国では、無学の者は当然に学者たちに優先するという考えは、下からの革命がもつ完璧に自然な結果であるように見える。
 しかしながら、ロシアでは、教育や専門家主義に対する敵意は、決して党の基本的政策方針の特徴ではなかった。
 党はもちろん、古い知識人層を一掃し、人文学研究、芸術および文学を、政治的なプロパガンダの道具に変え始めた。
 しかし、同時に党は、専門家尊重を宣言し、高い程度の専門化にもとづく教育制度を発展させた。
 ロシアの技術、軍事および経済の近代化は、かりに国家イデオロギーがそれ自体のために無知を称揚して多数の本を読みすぎないよう警告していたとすれば、全く不可能だっただろう。
 しかしながら、毛沢東は、中国はソヴィエトのやり方では近代化しないし、そうできないだろうことを自明の前提としていたように見える。
 毛はしばしば、他国の「盲目的」模倣に反対して警告した。
 「我々が外国から模倣する全ては、厳格に採用された。だが、それは大敗北に終わった。白軍の領域での党組織はその強さの100パーセントと革命的基盤を失い、赤軍はその強さの90パーセントを失った。そして、革命の勝利は長年の間、遅れた」(Schram, p.87)。
 別の場合について、ソヴィエト範型の模倣は致命的影響を及ぼす、と毛は観察していた。彼自身が3年間、卵と鶏のスープを飲食できなかったが、それは、あるソヴィエトの雑誌がそれらは人の健康に悪いと書いていたからだった。//
 (47)こうして、毛主義はエリート(élite)文化に対する農民の伝統的な憎悪(これは例えば16世紀の改革の歴史によくあった特質だった)を表現するのみならず、中国人の伝統的な外国恐怖症、そして外国や白人出自のもの全てに対する不信をも、示していた。白人たちは一般に、帝国主義的浸食を支持していた。
 中国のソヴィエト同盟との関係は、こうした一般的態度を強化したものにすぎなかった。//
 (48)同一の理由で、中国人は工業化の新しい方法を探し求めた。
 これは「大躍進」の大失敗で終わったのだったが、その背後にあったイデオロギーは放棄されなかった。
 毛沢東とその支持者たちは、社会主義の建設は「上部構造」で、つまり「新しい人間」の創出でもって始まらなければならない、と考えた。
 この考えは、イデオロギーと政治は蓄積率に関するかぎりは最優先されるべきだ、社会主義は技術的進歩や福利の問題ではなく、諸制度と人間諸関係の集団化の問題であり、その集団化から、理想的な共産主義諸制度を技術的に未熟な条件のもとでも生み出すことができる、というものだった。
 しかしながら、これらのためには、旧来の社会的連関や不平等の原因となる条件の廃棄が必要だ。そのゆえに、とくに国有化に抵抗する家族的紐帯を破壊しようとする中国共産党の熱情は、私的な動機づけや物質的誘導(「経済主義」)に反対する運動とともに、強いものだった。
 もちろん、熟練技術や行う仕事の種類を理由として、報酬はある程度は区別されていた。しかし、ソヴィエト同盟と比べれば、その差は少なかったように見える。
 毛沢東が考えていたのは、人民が適切に教育されれば彼らは特別の誘導がなくとも懸命に労働するだろう、「個人主義」と自分自身の満足を目指す願望はブルジョア的心性の有害な残存物であって排除されなければならない、ということだった。
 毛主義は、全体主義ユートピアの典型的な例だ。そこでは、全てが個人の善とは反対の意味での「一般的な善」に隷従しなければならない。「一般的な善」が個人の善を除外してどのように明確になるのかは明瞭ではないけれども。
 毛沢東の哲学は、「個人の善」という観念を用いなかった。「個人の善」はソヴィエト・イデオロギーでは重要な役割を果たし、かつあらゆる形態でのヒューマニズム的用語法を避けもした。
 毛沢東は、「人間の自然的権利」という観念を明示的に非難した(Schram, p.35)。すなわち、社会は敵対的階級によって構成されているのであり、共同体もそれら階級の間の相互理解も存在し得ない。また、階級から独立したいかなる文化形態も存在しない。
 「赤い小語録」は、こう語る(p.15)。「我々は、敵が反対するものは何でも全て支持し、敵が支持するものは何でも全て反対しなければならない」。-これはおそらく、ヨーロッパのマルクス主義者ならば書かなかった文章だろう。
 過去、伝統的文化、そして階級間の溝を埋める可能性のある全てのものと、完璧に決裂しなければならない。//
 (49)毛自身が繰り返した声明によれば、毛主義は、特殊中国的な条件にマルクス主義を「適用したもの」だ。
 すでに行った分析から分かるだろうように、毛主義は、レーニンによる権力奪取の技術の用い方として、より正確に叙述されている。マルクス主義のスローガンは、マルクス主義とは疎遠であるか矛盾するかする思想や目的を偽装するものとして役立った。
 もちろん、「実践の優先」は、マルクス主義に根ざす原理だ。しかし、読書は有害だ、無学の者は教養ある者よりも当然に賢いという推論を、マルクス主義の語彙でもって防御することは、じつに困難だろう。
 最も革命的な階級であるプロレタリアートにとっての農民の補充性という考えは、マルクス主義の伝統全体と、明らかに合致していない。
 同じことは、階級の対立は絶えず発生せざるを得ない、そのゆえに定期的な革命でもって解消されなければならない、という意味での「永続的革命」という考えについても言える。
 精神労働と肉体労働の「対立」を廃棄するという考え方は、マルクス主義的だ。しかし、身体労働を最も高貴な人間の仕事として崇敬することは、マルクスのユートピアの醜怪な解釈だ。
 農民が労働の分割によって腐敗していない「完全な人間」の至高の代表者だという考えは、ときには前世紀のロシアの人民主義者(populists)の間に見ることができる。しかし、これまた、マルクス主義の伝統と全く矛盾するものだ。
 平等という一般的原理は、マルクス主義的だ。しかし、知識人たちを米の田畑に追い払うという政策にこの平等原理が具体化されるとマルクスは考えた、と想定するのは困難だ。
 いくぶんか時代錯誤的に比較するならば、我々はマルクス主義の教理の観点から、毛沢東主義は原始共産制の類型の一つだ、と見なしてよい。その原始共産制は、マルクスが述べたように、私的所有制を克服するものではないのみならず、私的所有制にすら到達していない。//
 (50)一定の限られた意味では、中国共産主義はソヴィエトのそれよりも平等主義的だ。
 しかしながら、それはより全体主義的でないのが理由ではなく、より全体主義的だからだ。
 賃金や給料に差が少ないのは、より平等主義的だ。
 階位を示す軍の徽章のような階層性の表徴は廃止され、体制は一般にはソヴィエト同盟よりも「人民主義」的だ。
 民衆を統制下におき続けるためにより重要な役割を果たしているのは、地域または労働場所ごとに組織された諸制度だ。そして、職業的な警察の役割は、それに応じて小さい。
 普遍的なスパイ活動と相互告発のシステムは、多様な種類の地方委員会をつうじて作動しているように思われるし、市民の義務だと公然と見なされている。
 他方で、ボルシェヴィキがかつて得た以上の民衆の支持を毛沢東が獲得しているのは、本当だ。よって、ボルシェヴィキがそうだつた以上に、毛沢東の力は信頼されている。
 このことは、外部に向かって発言せよと人々に何度も指令した(スターリンも場合によってはこれを採用した)ことよりも、文化革命の間に既存の党機構を打倒すべく若者たちを煽動するというリスクを冒したことに見られる。
 しかし他方で、混沌の全期間をつうじて、彼が権力と実力行使の装置を握りつづけたことは明瞭だ。これら装置によって、助言に従う者たちが過剰になるのを抑制することができた。
 毛は何度も、「民主集中制」という福音を繰り返した。そして、彼のこれに関する解釈がレーニンのそれとどのように違っていたのかは、明瞭でない。
 プロレタリアートは党をつうじて国家を統治し、党の諸活動は紀律にもとづき、少数者は多数者に服従し、そして全党は中央指導層に従う。
 民主集中制は「まず何よりも、<中略>正しい考えの中央集権化だ」(Schram, p.163)と毛沢東が説くとき、そこに疑いなくあるのは、ある考えが正しい(correct)か否かを決定するのは党だ、ということだ。
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 ⑥へとつづく。

2161/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節②-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義②。
 (10)数年後の1942年、毛沢東は支持者たちに宛てて「芸術と文学」に関する文章を書き送った。
 その主要な点は、芸術と文学は社会諸階級に奉仕するもので、全ての芸術が階級によって決定されるのであり、革命家たちは革命の惹起と大衆に奉仕する芸術の様式を実践しなければならない、ということ、また、芸術家と文筆家は大衆の闘争を助けるべく自分たちを精神的に改造しなければならない、ということだった。
 芸術は芸術的に善であるだけではなく、政治的に正しくなければならない。
 「人民大衆を危険にさらす全ての暗黒勢力は暴露されなければならず、大衆の革命的闘争は称賛されなければならない。-これは、全ての革命的芸術家と文筆家の根本的任務だ」(Anne Freemantle 編<毛沢東・著作選集>、1962年, p.260-1)。
 文筆家はいわゆる人間愛の道へと迷い込まないよう警告された。敵対する諸階級に分裂する社会に、そのようなものは存在し得ないからだ。-「人間愛」は、所有階級が発案したスローガンだ。//
 (11)以上が、毛沢東の哲学の要点だ。
 看取できるだろうように、レーニン=スターリン主義のマルクス主義がいう若干の常識を幼稚に繰り返したものだ。
 しかしながら、毛の独創性は、レーニンの戦術的訓示を修正したことにある。
 これは、そして中国共産党の農民指向は、毛と中国共産党の勝利の最も重要な理由だった。
 「プロレタリアートの指導的役割」は、イデオロギー的スローガンとして力を持ったままだったが、革命の過程のあいだずっと、そのスローガンは、農民ゲリラを組織する共産党の指導的役割を意味するにすぎなかった。
 毛沢東は、ロシアとは異なって中国では、革命は地方から都市へと到来する、と強調した。彼は貧農は自然の革命的勢力だと考え、そして-マルクスやレーニンとは反対に-、貧困の程度に比例して社会各層は革命的になる、と明確に言明した。
 彼が堅く信じたのは、農民の革命的潜在能力だった。中国のプロレタリアートはきわめて少数であることだけが理由ではなく、その原理こそが理由だった。
 「農村による都市の包囲」というスローガンは、さかのぼる1930年頃の党指導者、李立三(Li Li-san)のそれと反対だった。
 コミンテルンの指令に従順な当時の「正統な」革命家たちは、ロシアに従った戦略を推進した。その戦略は、工業中心大都市の労働者によるストライキと反乱に重点を置くもので、農民の戦いは補助的だと見なしていた。
 しかしながら、有効だと判明したのは毛の戦術で、のちに彼は、中国革命はスターリンの助言に逆らって勝利した、と強調した。
 1930年代と1940年代のソヴィエトの中国共産党に対する物質的援助は、名目的なものにすぎなかったように見える。
 おそらく-何の直接的証拠もない憶測にすぎないが-、スターリンは、かりに共産党が中国で勝利したとしてもソヴィエト同盟に従属させて5億万の民衆を維持することを長期的には望めない、と認識し、そのゆえに全く合理的に、中国が弱く分裂していて、軍閥による騒乱が支配していることの方を選んだのだろう。
 しかしながら、中国共産党は全ての公式声明でソヴィエト同盟への忠誠さを発表し続けた。1949年にスターリンは、新しい共産党の勝利を歓迎して、手強い隣国を衛星国にすべく最大限に努力せざるを得なかった。//
 (12)中国・ソヴィエト間の対立はイデオロギー上の異なる考えによるのでは全くなく、中国共産党の自主性と、想定されるだろうように、中国革命はロシア帝国主義の利益とは矛盾するものだった、ということによる。
 毛沢東は1940年の「新民主主義について」の論考で、中国革命は「本質的に」農民の要求にもとづく農民革命であり、農民に権力を与えるだろう、と書いた。
 同時に彼は、農民、労働者、中低階層や愛国的ブルジョアジーから成る、日本に対する統一戦線の必要性を強調した。
 彼は、新しい民主主義の文化は、プロレタリアートの、つまりは共産党の指導のもとで発展する、と宣言した。
 要するに、毛の当時の基本政策は、「第一段階の」レーニン主義と類似していた。すなわち、共産党が指導する、プロレタリアートと農民の革命的独裁。
 彼は1949年6月の「人民民主主義独裁について」の演説で、同じことを繰り返した。土地が社会化され、階級が消滅し、「普遍的な兄弟愛」が確保される、そのような「次の段階」について、もっと強く述べたけれども。
 (13)共産党が勝利した後の数年間は、波風の立たない中国・ソヴィエトの友好関係の時期だったように見えた。中国の指導者たちは、兄に対して特段の敬意を払った。しかし、のちに明らかになるように、そのまさに最初の国家間交渉に際して、深刻な軋轢がすでに発生していた。
 当時は、明確に区別される毛主義の教理について語るのは困難だった。
 毛沢東自身がいくつかの場合に指摘せざるを得なかったように、中国には経済の組織化の経験がなく、ゆえにソヴィエト・モデルを模倣した。
 ようやくのちに、このモデルは若干の重要な点で、すでに中国革命に潜んではいたが明確なかたちでは表現されていなかったイデオロギーとは矛盾するものであることが、明らかになるに至った。//
 (14)中国は1949年以降に、いくつかの発展段階を高速で通過した。その各段階には伴ったのは、毛主義の結晶化(crystallization)に向かってのさらなる進展だった。
 1950年代、中国はソヴィエトの進化の過程を、より早い速度でもう一度辿っているように見えた。
 大規模保有の土地は、必要な農民のために分割された。
 私企業は数年間の限定の範囲内で許容されたが、1952年に強い統制のもとに置かれ、1956年に完全に国有化された。
 農業は1955年から集団化された。最初は協同組合の手段によってだったが、すみやかに公的所有の「高度に発展した」形態によることになった。但し、農民たちはまだ、私的区画(plot)を保持することが許された。
 このときに中国共産党は、ロシアに従って、重工業の絶対的優先の考えを維持した。
 第一次経済計画(1953-57年)は、厳格に中央志向の計画を導入し、農業地帯の犠牲のうえに工業化に向かう強い刺激を与えることを意図していた。
 これは、ソヴィエト共産主義のいくつかの特質を採用するものだった。すなわち、官僚制の拡張、都市と地方の間の亀裂の深化、およびきわめて抑圧的な労働法制。
 不可避的に、農民による小規模の土地保有の国では厳格な中央計画は不可能なことだ、ということが明瞭になった。
 しかしながら、そのあとの行政手法の変化は計画の多様な形態の脱中央集権化に限定されておらず、新しい共産党のイデオロギーを表現していた。そのイデオロギーでは、生産目標の達成と近代化は二次的なもので、現実のまたは想定される農業地域の生活の美徳を具現化する、そういう「新しいタイプの人間」を養成することが主に強調された。//
 (15)しばらくの間は、この段階ではある程度は文化的専制が緩和されるようにすら見えた。
 こうした幻想と結びついていたのは、1956年5月に-すなわちソヴィエト同盟第20回大会の後で-党が開始して毛自身が称賛した短期間の「百花」(hundred flowers)運動だった。
 芸術家と学者たちは、自分の考えを自由に交換するよう励まされた。
 全ての流派の思想と芸術様式が、お互いに競い合うものとされた。
 自然科学はとくに、「階級性」がないものと宣言され、他の分野での進歩は、拘束をうけない議論の結果だとされた。
 「百花」運動の教理は、東ヨーロッパの知識人たちに、熱狂をもたらした。彼らは自分たちの国で、脱スターリニズム化の興奮の中にいたのだ。
 多くの人々が短い時期の間、社会主義ブロックの最も遅れた国が経済および技術の観点からしてリベラルな文化政策をもつ英雄国になった、と考えた。
 しかしながら、この幻想は、ほとんど数週間しか続かなかった。中国の知識人があからさまな言葉で大胆に体制を批判したとき、党はただちに、抑圧と威嚇という通常の政策へと転換した。
 こうした事態全体の内部史は、明瞭でない。
 中国のプレスの若干の記事や党総書記の鄧小平(Teng Hsiao-ping)による1957年9月の党中央委員会むけ演説からすると、「百花」のスローガンは、「反党分子」を簡単に解体するために彼らを表面におびき出す策略だった。    
 (鄧小平は、大衆をおじけづかせる例として、雑草が成長するのを待った、と宣告した。
 「百花」知識人たちは根こそぎ引き抜かれて、中国の土壌を肥沃にするために使われたのだろう。)
 しかしながら、共産主義イデオロギーは中国知識人の間に自由な議論を保障することができると、毛沢東は少しの間は本当に考えたのかもしれない。
 かりにそうだったとしても、彼の幻想は、ほとんどただちに、明瞭に払い散らされた。//
 (16)ソヴィエトの範型に倣って工業化するのに中国が失敗したことによっておそらくは、次の段階の政治的およびイデオロギー的変化が惹起される、または予見されることとなった。その変化を、世界の人々は、当惑しつつ観察することになる。
 1958年初頭、毛沢東指導下の党は、5年以内に生産の奇跡を起こすものとする「大躍進」政策を発表した。
 工業生産および農業生産の目標はそれぞれ6倍、2.5倍とされた。これは、スターリンの第一次五カ年計画をすら顔色なからしめるものだった。
 しかしながら、この狂信的目標は、ソヴィエトの方式によってではなく、人民大衆に創造的な熱狂を掻き立てることによって、達成された。それがもとづく原理は、大衆は精神を傾注する何事をも行うことができるのであり、ブルジョアジーが考案した「客観的」障害に妨げられてはならない、というものだった。
 経済の全部門が例外なく劇的な拡張を遂げ、完全な共産主義社会がまさに近づいて来ていた。
 ソヴィエトのコルホーズに倣って組織された農場は、100パーセント集団的基盤をもつ共同体に置き換えられた。
 私的区画は廃止され、可能なところでは共同体的な食事と住居が導入された。
 プレスは、結婚した夫婦が一定の間隔で出席する特別の儀式や、そのあとの当然として次の世代を生むという愛国的義務を履行する特権について、報道した。
 「大躍進」の有名な特質の一つは、小さい村落の多数の溶鉱炉での鉄の精錬だった。//
 (17)少しの間、党指導者たちは統計上の楽園に住んでいた(のちに承認されたように、偽りだった)。しかしやがて、西側の経済学者と中国にいたソヴィエトの助言者が予見したとおりに、プロジェクト全体が大失敗だったことが判明した。
 「大躍進」は、高い蓄積率を原因として、生活水準を厄災的に下落させる結果となった。
 その政策は甚大な浪費をもたらした。そして、余分だと判って自分たちの分野に帰らなければならない、農村部からの労働者で、都市は満ち溢れた。
 1959年から1962年までは、後退と悲惨の時代だった。それは「大躍進」政策の失敗だけではなく、収穫減が災難的だったことやソヴィエト同盟との経済関係の事実上の断絶によってもいた。
 ソヴィエトの技術者たちは突然に帰国し、多数の大プロジェクトは不意に停止状態になった。//
 (18)「大躍進」はつぎのような新しい毛沢東の方針の展開を反映していた。すなわち、農民大衆はイデオロギーの力で何でもすることができる。「個人主義」や「経済主義」(換言すると、生産への物質的な動機づけ)は存在してはならない。熱意は「ブルジョア」の知識や技術に取って換わることができる。
 毛主義イデオロギーはこのときに、より明確なかたちを取り始めた。
 それは、毛沢東の公的声明によって、またより明瞭には、のちに「文化革命」騒ぎの際に暴露された諸発言で、定式化されていた。
 それらのうちある程度の内容は、優れた中国学者のStuart Schram によって英語で公刊された(<生身の毛沢東>、1974年。以下、'Schram' と引用する)。
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 ③へとつづく。

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