「一九七〇年にかけては、ひょっとすると、僕も、ペンを捨てて武士の道に帰らなければならないかもしれません。/
 東京の話題といふと大学問題ばかりで、ほかのことは何一つありません。たのしい時代は永遠にすぎさりました。しかし、たのしくない時代も、亦、それなりにたのしいものですね。」
 三島由紀夫全集第38巻443-4頁(新潮社、2004)、1969年2月2日/D・キーンへの書簡より。
 ---
 椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
 この本を手にして捲ってみて、すぐに気づくのは、活字の文字が大きいことだ。
 小学校高学年生の教科書よりも、大きな字ではないか。
 たまたま手近にあった、外形がほとんど同じ(たぶんB5版)のつぎの二つと、一頁あたりの行数、縦の文字数を比べてみた。
 各著の中でとくに大きくも細かくもない、つまり各著では標準の行数・縦文字数だと思われる、(頁数印刷の)100頁めのところで計算してみる。
 ①椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
  横14行、縦36字。14×36=504文字(一頁に印刷可能)。
 ②母利美和・井伊直弼/幕末維新の個性6(吉川弘文館、2006.05)。
  横16行、縦45字。16×45=720文字(一頁に印刷可能)。
 ③西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007.07)。
  横18行、縦43字。18×43=774文字(一頁に印刷可能)。
 やはり、違いは歴然としている。
 ①椛島著は、②母利著の5/7以下、③西尾著の2/3以下しか、文字数がない(つまり活字が大きい)。
 したがって最終頁は、①p.219、②p.244、③p.315、なのだが、①椛島著は③西尾著と同じ組み方をすると、計140頁くらいにしかならないと思われる。
 ①椛島著は、②母利著と同じ組み方をしても、計153頁くらいだ。
 要するに、一見はふつうの書物のようにも感じるが、実際は、長さだけでいうと、140~150頁の本だ。
 つぎに、体裁的にも異様に感じるのは、<主要参考資料一覧>としてp.212以下にある、「主要参考資料」の数の多さだ。
 数えてみると、A<日本人著作関係>が85(冊)、B<外国人著作関係>が34で、うち全て英語の原書が11(冊)、C<論文関係ほか>が、14(件)。
 もともとこの一覧を含めて219頁の本で、上記のように、実際には140-150頁の本だと見てよい。
 この長さの本にしては、この「参考資料」の件数は、つまり合計133(冊+件)は、異様に多すぎるのではないだろうか。
 しかも、「主要」なものに限っている、とされる!。   
 「主要」なものだけで、極論すれば、一頁あたり一冊の専門?書または一件の専門?論文が使われている。
 常識的には、こんなことはありえない。これほど多数の「主要」参考文献を用いれば、書物自体の長さ、大きさがもっとはるかに長く大きいものになつているだろう。
 また、本文の内容を読んでも、これだけ多数の文献を駆使した、かつ綿密な、密度の濃いものになっているとも感じられない。
 したがっておそらく、<主要参考資料一覧>というのは、この書物を書くために実際に(基礎的であれ直接にであれ)用いたものではなく、多くは、著者・椛島有三が「気に入っている」または読者に「推薦したい」書物等の<一覧>なのだと思われる。
 繰り返すが、もともとでも219頁の本に、計133冊・件という「参考資料」の数は多すぎる。しかもそのうち、単行本和書85、同翻訳書23、洋書11、という数字なのだ。
 これらをよほどうまく「参考」にして吸収したうえで、かつ要領よくまとめないと、219頁(実際は140-150頁)の書物にはならない。それだけの吸収と概括が本文にあるようには、日本史・戦前史の素人である私には思えない。なお、個別の章等のあとには、「参考文献」の提示はない。まとめて最後に、<一覧>が示されている。
 さて、<保守>論者の諸文献を少しは読んで、かつ所持もしている秋月瑛二の目から見ると、この<主要参考資料>の掲載の仕方・内容は、あくまで主観的にだが、きわめて異様だ。
 つづく。