当然のことが当然のように行われ、当然のことが語られている。
欺瞞と偽善に満ちた報道、発言や声明類に接することが多いだけに、久しぶりに清々しい気分になった。
日本共産党・志位和夫は「侵略戦争を肯定、美化する立場に自らを置くことを、世界に宣言することにほかならない。第二次世界大戦後の国際秩序に対する挑戦であり、断じて許すわけにはいかない」とコメントしたらしい。①誰が先の戦争を「侵略」戦争だったと決めたのか、②万が一そうだったとして戦没者を慰霊することが、なぜそれを「肯定、美化する」ことになるのか、③いわゆるA級戦犯が合祀されていることを問題にしているとすれば、そのいわゆるA級戦犯とはいったい誰が決めたのか、いわゆるA級戦犯合祀が問題ならばB級戦犯、C級戦犯であればよいのか、④「第二次世界大戦後の国際秩序に対する挑戦」とは最近中国政府・中国共産党幹部が日本についてよく使う表現で(かつての仲間ではないかと米国をゆさぶる発言でもある)、日本共産党の親中国信情を示している、⑤戦没者への尊崇・慰霊行為が「戦後の国際秩序に対する挑戦」とは、何を血迷っているのだろう。神道式の参拝だが、もともと「死者」の追悼なるものに重きを置かない唯物論者に、「死者への尊崇」とか「慰霊」とかの意味が理解できるはずがない。日本の「カミ」ではなく、インタ-ナショナルな?<共産主義>を崇拝し続ければよいだろう。
社民党・福島瑞穂は「アジアの国々との関係を極めて悪化させる。国益に明確に反している。強く抗議したい」とコメントしたらしい。NHKもさっそく中国・韓国政府の反応を丁寧に報道していたが、「アジアの国々」というのは大ウソ。タイ、カンボジア、マレ-シア、インド等々、西部のトルコまで含めなくとも、アジア諸国の中で内政干渉的または信仰の自由侵害的にいちゃもんをつけているのは中国、韓国(・北朝鮮)といういわゆる「特定アジア諸国」だけ。ウソをついてはいけない。あるいはひょっとして、福島にとっては、アジアとは中国・韓国(・北朝鮮)と日本だけから成り立っているのだうろか。
ところで、特定秘密保護法に反対した大学教授たち、ジャ-ナリスト、映画人等々の多くは、例えばかつての有事立法反対運動にも参画していた人々で、先の戦争は「侵略戦争」で、日本は「悪いことをした」と、信じ込み、思い込んでいる人たちだろう。そして、かつての「悪」を繰り返させるな、<戦争をしたい保守・反動勢力>が「軍靴の音」を響かせつつあるので、戦後<平和主義>を守るためにも、保守・反動の先頭にいる安倍晋三(・自民党)をできるだけ早く首相の座から下ろさなければならない、と考えているのだろう。
このような<基本設定・初期設定>自体が間違っている。
先の戦争は民主主義対ファシズムの戦争で、日本は後者の側に立って「侵略戦争」をした、という歴史の認識は、戦後・とくに占領下において勝者の側・とくに米国(・GHQ)が報道規制・特定の報道の「奨励」、あるいは間接的に日本人教師が行う学校教育等を通じて日本人に事実上「押しつけた」ものであり、正しい「歴史」認識または把握であったかは大いに問題になる。ソ連や米国の戦時中の資料がまだすべて公開されていないので、今後により詳細な事実・真実が明らかになっていく可能性があるだろう。
先の戦争はソ連共産党・コミンテルンと米国内にいたコミュニストたち(コミンテルンのスパイを含む)により影響を受けたル-ズベルト大統領がまともに国内を支配できていなかった(分裂していた)中国よりも日本を攻撃して潰しておくことがそれぞれ(ソ連・アメリカ)の国益に合致していると判断しての<日本攻撃・日本いじめ>だった可能性は十分にある。ソ連は日本敗戦後の日本での「共産革命」(コミュニスト・共産党中心の政権樹立。それが民主主義(ブルジョア)革命か社会主義革命かの理論的問題よりもコミュニストに権力を奪取させることが重要だった)を画策していたに違いない。
毛沢東の中国共産党の拡大と1949年の政権奪取(中国人民共和国の成立)を予想できなかったアメリカにも大きな判断ミスがあった。こともあろうに日本よりもスタ-リンの「共産」ソ連と一時期は手を結んだのだから大きな歴史的誤りを冒したことは間違いない。ようやく対ソ連措置の必要を感じて、ソ連参戦の前にアメリカ主導で日本を敗戦させたかったのだと思うが、それは原爆製造とその「実験」成功によって対ソ連で戦後も優位に立つことが前提でなければならなかった(吉永小百合のように日本の二都市への原爆投下は終戦を遅らせた日本政府に第一次的責任があるかのごとき文章を書いている者もあるが、間違っている)。
先の戦争について連合国側に全面的に「正義」があったなどと日本人まで考えてしまうのは-戦後の「洗脳」教育のためにやむをえないところはあるが-じつに尾かなことだ。
大学教授、ジャ-ナリスト、映画人といえば、平均的な日本国民よりは少しは「賢い」のではなかろうか。そうだとすれば、自らの歴史の把握の仕方の基本設定・初期設定自体を疑ってみる必要がある。少なくとも、異なる考え方も十分に成り立つ、という程度のことは「賢い」人ならば理解できるはずだと思われる(但し、例えば50歳以上の日本共産党員または強い日本共産党シンパは、気の毒ながら今からではもう遅いかもしれない)。
先の戦争についての(付随的に南京「大虐殺」問題、「百人斬り競争」問題、朝鮮「植民地支配」諸問題等々についての)理解が、今日まで、首相の靖国参拝問題を含む諸問題についての国内の議論の基本的な対立を生んできた、と考えられる。靖国参拝問題は戦後の「中国共産党王朝」成立以来一貫して問題されてきたわけではなく1980代になってからなのだが、しかし、日本や韓国(・北朝鮮)がかつての日本の「戦争責任」、という<歴史カ-ト゜>を使っているので、先の戦争についての正しい理解はやはり不可欠になる。
繰り返すが、民主主義対ファシズム(・軍国主義)という単純二項対立、暗黒だった戦前と<平和と民主主義>国に再生した戦後という単純二項対立等による理解や思考は間違っている。戦前はいわれるほどに暗黒ではなかったし、戦後はいわれるほどに立派な国歌・社会になったわけではない。むしろ、<腐った個人主義>や日本の伝統無視の<政教分離>等々による弊害ははなはだしい、ともいえる。例えば、親の「個人尊重」のゆえの「子殺し」も少なからず見られ、珍しいことではなくなった。こうした各論に今後もつぶやいていこう。