秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

武田徹

1836/2018年8月-秋月瑛二の想念②。

 一 「知識」や「思考」の作業やそれを発表する作業もまた、<食って生きて>いくことと無関係ではありえない。綺麗事や理念のために「知的」営為が行われてきたとは全く限らない。
 こう前回に書いた。ではこのブログ欄はどうなのかが問題になる。やはり昨年に何度かつぎのように書いていた。
 大海の深底に棲息する小さな貝の一呼吸が生じさせる海水の微少な揺れのようなものだ。
 全ての個人・組織(・団体)から「自由」であり、「自由」とは孤立している、孤独だ、いうことでもある。
 というわけで、かりに「知的」営為だとしても(少なくとも、単にうまい、きれい、かっこいいとだけ何かに反応しているのではない)、私の場合は<食って生きて>いくことと何の関係もない。生業・職業ではないし、何らかの経済的利益を生む副業でもない。誰かに命じられて書き込んで「小遣い銭」をもらっているわけでもない。
 しばしば何のためにこの欄を、と思ってきて、途中で止めようと思って放置したこともあった。せいぜい読書メモとしてでも残していこうかと思って1800回以上の投稿になったのだが、このブログ・サイトというのは自分が感じまたは考えたことを時期とともに記録し、検索可能なほどにうまく整理してくれる便利なトゥールだと徐々に明確に意識したからだろう。
 このような<自分のための>という生物の個体固有のエゴイズム以外に、この「知的」営為の根源はないだろう。
 ときに閲覧者数が数ヶ月にわたってゼロであれば(数字だけはおおよそ分かるが、かなり早くから-日本国憲法「無効」論者から「どアホ!」と貼り付けられてから-、コメント・トラックバックを遮断している)止めようかと思ったりする。それでもしかし、つまり読者ゼロでも、上の便利な機能は生きているので、やはり残して、気がむけば何かを表現しようとし思っている。
 最近はこういう秋月瑛二のような発信者も多いかもしれない。
 しかし、新聞・雑誌に活字になる文章やテレビ等で発言される言葉には「知的」作業そのものだったり、その結果だったりするものの方が多いだろう(政治・社会に直接の関係がなくとも)。
 二 そのような「知識」や「思考」の作業あるいは「知的」営為は、いかなる<情念>あるいは<衝動・駆動>にもとづいてなされているのだろうか。近年は従前よりも、こうしたことに関心を持つ。
 だいぶ前にJ・J・ルソーの<人間不平等起源論>を邦訳書で読み終えて、この人には、自分を評価しない(=冷遇した)ジュネーブ知識人界(・社交界?)への意趣返し、それへの反発・鬱憤があるのではないか、とふと感じたことがあった。
 ついでに思い出すと(この欄で既述)、読んだ邦訳書の訳者か解説者だった「東京大学名誉教授」は、その本の末尾に、「自然に帰れ!」と書いたらしいルソーに着目して、ルソーは自然保護・環境保護運動の始祖かもしれない旨を記していた。「アホ」が極まる(たぶんフランス文学者)。
 戻ると、「知的」文章書き等のエネルギーの多くは、①金か②名誉だろう。
 別の分類をすると、A・自分が帰属する組織(新聞社等)の仕事としてか、またはB・フリーの執筆者として(対価を得て)、「知的」文章書き等をしているのだろう。
 後者には、いわゆる評論家類、「~名誉教授」肩書者、現役大学教授や大手研究所主任等だが本来の仕事とは別に新聞や雑誌等に寄稿している者も含む。
 これらA・Bのいずれの場合でも、①金の出所にはなる(義務的仕事の一部か又は原稿料としてか)。
 また、Aの場合でも、自分が帰属する(何らかの傾向のある)組織の中で目立って社会的にはかりに別としても組織内で「出世」することは、つまるところは金または自分の生活条件を快適にする(良くする)ことにつながるだろう。組織・会社の一員としての文章であっても、<名誉・顕名→金>なのだ。
 Bの場合には、<名誉・顕名→金>という関係にあることは明確だろう。
 そして名誉又は顕名、要するに<名前を売って目立つ>ためには同業他者と比べて自分を<差別化>しなければならない。あるいは<角をつける>必要がある。
 そのような観点から、敢えて人によれば奇矯な、あるいは珍しい主張を文章化する者もいるかもしれない。
 但し、この場合、a文筆が完全に「職業・生業」であるフリーの人と、b別に大学・研究所等に所属していて決まった報酬等を得ているが、随時に新聞・雑誌等に「知的」作業またはその結果を発表している人とでは、分けて考える必要がおそらくあるだろう。
 食って生きる-そのための財貨を得る、ということのために、a文筆が完全に「職業・生業」の人にとっては、原稿等発表の場を得るか、それがどう評価されるかは直接に「生活」にかかわる。なお、おそらく節税対策だろう、この中に含まれる人であっても「-研究所」とかの自分を代表とする法人を作っている場合もある。
 櫻井よしこ、江崎道朗。武田徹、中島岳志の名前が浮かんできた。
 四人ともに、それぞれに、上に書いたことに沿って論じることもできる。
 それぞれについて、書きたいことは異なる。しかし、書き始めると数回はかかるだろう。

0620/再び八木秀次の文章について。天に向かって唾を吐くとはこのような…。

 一 小林よしのり責任編集わしズム(小学館)28号(2008秋号)に、八木秀次が連載風随筆欄で「作法も品格もない皇室報道が跋扈している」と題して書いている(p.178-)。
 八木によると、①「保守系論壇誌は、この10年間ほど」、「北朝鮮、中国、朝日新聞、NHK、左翼市民団体などを激烈な言葉で批判し、部数を伸ばしてきた」が、「読者もそろそろ飽き始め、部数が落ちてきた」。②「そこで新たな批判・攻撃の対象として登場してきたのが皇室である」。
 ①の「伸ばしてきた」・「落ちてきた」は実証的根拠がないので説得力が十分ではない。また、後半に「読者」が「飽き始め」た、とあるが、何を根拠にこう推測しているのか?
 より問題だと感じるのは、②。すなわち、「そこで」と簡単に繋げうるほどに、部数が「落ちてきた」ことと最近の皇室「報道」との間に関係があるのか?
 根拠のない推測にすぎないのではないか。

 二 八木秀次の上の文章全体の問題又は<異様さ>は、上に記した点よりもむしろ、その80%以上、全3頁弱、計ほぼ10段のうち8段が、西尾幹二の皇室関係評論への攻撃に向けられていることにある。
 この欄の9/21で八木の竹田恒泰との対談本に言及して、「八木秀次は西尾幹二の主張内容を、批判しやすいように歪めているところがある」と批判的にコメントしたこととは関係はないだろうが、上の今回の文章では西尾幹二の言い分をかなり詳細に紹介又は引用したうえで批判している。
 それはよいとしても、やはりこれだけ続けて西尾幹二批判を継続するのは、本来は<保守派>どうしの間柄なのだとすれば、異様に感じるし、みっともない(とこの欄で書いているのも以下も含めて執拗かもしれないが、影響力は活字になっている八木の文章とはまるで違うし、書いておきたいことなので書いておく)。「左翼」の中の多少とも<戦略>を意識している者たちは大喜びしているだろう。
 三 また、再言になるのだが、そもそも八木秀次に西尾幹二を批判する資格はあるのか? わしズムの上の文章は「最近の皇室報道や評論は慎みや作法・品格を失い、明らかに言論の矩を越えている。『傲慢の罪』を犯しているのはどちらの方なのか」で終わっている。これが、西尾幹二に対して、少なくとも西尾幹二を主たる対象にして述べられていることは明らかだ。
 だが、これまた再述になるが、執拗にも再確認しておく。月刊諸君!(文藝春秋)という「保守系論壇誌」の今年7月号が企画した<皇室>関係報道・評論に「参加」して、次のように明言したのはいったい誰なのか??
 「問題は深刻である。遠からぬ将来に祭祀をしない天皇、いや少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后が誕生するという、皇室の本質に関わる問題が浮上しているのである。皇室典範には『皇嗣に、……又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、……皇位継承順序を変えることができる』(第三条)との規定がある。祭祀をしないというのは『重大な事故』に当たるだろう」。
 八木秀次自身ではないか。
 少しは新しいことを記しておけば、現皇太子が将来は(=天皇になれば)「祭祀をしない」と公言し明言されないかぎりは、皇太子殿下が皇位を継承したあとでなければ、将来の天皇(現皇太子)が「祭祀をしない」かどうかは分からない筈なのだ。にもかかわらず、八木は現時点において、皇室典範第三条を適用しての「皇位継承順序」の変更を主張している、少なくともその可能性に言及している。将来の天皇(現皇太子殿下)が「祭祀をしない」だろうということを、八木は現時点においてどうやって認定するつもりなのか? 八木の言っていることには、基本的な、論理的問題点もある。
 そしてまた、上のようなことを書くということは、「慎みや作法・品格を失った」皇室関係評論にあたらないのだろうか。
 月刊正論(産経新聞社)誌上に連載随筆欄を持ちながら、まるで自分が「保守系論壇誌」とは無関係の第三者であるかのごとき書き方であることも含めて、やはり八木秀次は信用できない。
 <保守の純度>が落ちていると西尾幹二によって論評されている産経新聞は相変わらず武田徹を本誌(新聞)上で起用し、相変わらず月刊正論では八木秀次を使うのだろうか。もともと全面的に100%支持できる論客も新聞もないと考えているので、八木のような存在にも産経新聞の現状にもとくに驚きはしないが。

0593/産経新聞9/13の山田慎二「週末に読む」は低レベル。

 産経新聞9/13の山田慎二「週末に読む」は、相当にレベルが低い。
 某書(草野厚という底の浅そうな政治学者の本)を援用して「疑似政権交代の限界」を指摘し、< 国民への大政奉還>が求められる、と主張する。
 もともと全体的に村上正邦・平野貞夫・筆坂秀世(元共産党幹部)の鼎談本・自民党はなぜ潰れないのか(2007?、幻冬舎新書)を肯定的に紹介・言及しているのも奇妙に感じるが、基本的に問題なのはつぎの点だ。
 第一に、これまでの自民党(と一部の小政党)内における総裁の交代、従って首相(内閣総理大臣)の交代を「疑似政権交代」と理解して疑っていないが、重要なことを看過している。
 執筆者は「先進国」で本来の「政権交代」がないのは日本だけで、特定政党の「権力独占」は「北朝鮮や中国のような国家しかない」と書く。
 この人は日本の政治状況の歴史の、他の「先進国」との違いをまるで判っていない。
 すなわち、日本において、1990年代初めまでは、日本の野党(少なくとも第一党)は日本社会党という社会主義(・共産主義)を(全体がどの程度本気だったかどうかは別として、あるいは少なくとも一部の勢力は)目指していた政党だった。この政党は、日米安保に反対し、1960年頃には「アメリカ帝国主義は日中両国人民共同の敵」だと北京で委員長(書記長?)が声明したような政党だった。
 このような安全保障政策の野党(第一党)に「政権」を任せることができなかったからこそ、この点では聡明だった日本国民は日本社会党への「政権交代」を許さず、結果的には同じ自民党の(を中心とする)長期政権が続いたのだ(但し、日本社会党に1/3以上の議席を与えてきたのは大きな過誤だった)。
 「世界の先進国」を見ると、戦後早くから、「左翼」又は「革新」であっても、反共産主義・反コミュニズムを明確にした、かつ自国の軍備を当然視する<健全な>野党が存在したのだ。だからこそ、そうした諸国では「疑似」ではない「政権交代」もあったのだ(アメリカ、イギリス、フランス、ドイツを念頭に置いている)。
 山田慎二の上記の文章はこの点をまるで判っていないようだ。
 第二に、上記の鼎談本での発言から<国民への大政奉還>が必要との旨を最後に述べている。
 「一票」を投じることは「大政」の「奉還」を意味せず、有権者(「主権者」とも厳密には異なる)国民の選挙権行使にすぎない。それに何より、「国民」という概念のこのナイーブな使い方は、「国民目線」とか「国民が主人公」とかのアホらしい(無内容の、又は国民大衆に「迎合」した)言葉・語句と同列のものだろう。
 産経新聞にこんな文章が載るのだから、他は推して知るべし、と言うべきか。
 山田慎二なる者が産経新聞の(論説委員等の)記者だったら、こんな内容のつまらない文章を書かないでほしい。
 山田慎二なる者が武田徹山崎行太郎のような頼まれ原稿執筆者なのだとしたら、産経新聞はこんな者に原稿を依頼しないでほしい(武田徹山崎行太郎については言うまでもない。既述)。
 
せっかくの講読代がもったいない。
 イヤなら読むなと言うかもしれないが、読んでみないとわからない文章・記事もあるのだ(今回取り上げて山田慎二なる氏名をたぶん記憶したので、次回からは読まないように用心しよう)。
 なお、八木秀次批判のつづきを止めてしまったわけではない。

0485/佐伯啓思・学問の力(NTT出版、2006)におけるフーコーと桜井哲夫・武田徹。

 「昭和の日」はただ何となく過ごしてしまった。平成も20年めになるが、自分はやはり<昭和(戦後生まれ)世代>だとの自覚しかもてないだろう。
 フーコーに関して書いたあと、たまたまp.30余までで読みかけだった佐伯啓思・学問の力(NTT出版、2006)の続きを見ていると、フーコーが出てきたので驚いた。
 佐伯著も参考にして前回書いたことを多少は修正する必要はあるだろうが、それでも基本的には的外れのことを書いていない、と感じた。
 佐伯の上の本は、学問の<専門化>によってその「力」が落ちていること、知識人と「専門家」の違い、後者が前者ぶることの(滑稽さを含む)危険性等を述べたあと、この<専門主義>とともに、今日の(日本の)学問<態度>の特徴は<ポスト・モダン>からも出ている、とする。
 そして<ポスト・モダン>について、初めて知ることの多い知見を得たが、要約的な紹介も避ける。知っている人物名が出てくる箇所を中心に、以下に思い切った要約しておく。
 ・中沢新一は「われわれは芸人だ」と言った(p.38)。<ポスト・モダン>は表面的には「思想」又は「大きな物語」を否定・放棄し、「真理」もないものとし、「知の芸能化」・「知のパフォーマンス」化を進める。そこでの評価基準は「真理」との近さ等ではなく<面白い-つまらない>というものになる。
 ・<ポスト・モダン>も、しかし「隠された思想」をもつが、その自覚がないために「不健全で変則的」な「思想」になっている。彼らが肯定的に評価するのは「解放」・「平等」・「多様性」・「自由」・「個人」批判するのは「規律」・「道徳」・「国家」(p.40)。
 ・<ポスト・モダニスト>は前近代・近代・近代以降と近代を基軸に歴史を捉える、「近代に満足できない近代主義者」。そして、「歴史の進歩」を無条件に信じるのが「左翼」だとすれば、<ポスト・モダン>は「基本的には左翼思想」だ(p.40-41)。
 ・従って、90年代には「わりと平板な左翼へと回帰していった」。柄谷行人しかり、浅田彰しかり。また、デリダ主義者・高橋哲哉は「きわめてオーソドックスな左翼進歩主義」を唱えている(p.41)。
 こうした<ポスト・モダン>との関連で、佐伯はとくにフーコーに言及している。これまた大胆に要約すると、以下のとおり。
 ・ミシェル・フーコーは<ポスト・モダン>の代表とも言われるが、70年代には構造主義者(本質的に「近代」的)として日本に紹介された。その後のフーコーはまず、「構造主義からポスト構造主義、つまりポスト・モダンへと橋渡しをした思想家」になった。だが、彼も「大きな物語」を捨て切れなかった(p.44-47)。
 ・後期のフーコーは「言説作用」もすでに他者を支配したいという「権力」だとした。しかし、これでは言語を用いざるをえない人間は「どこにも抜け道がなくなって」しまう。また、最晩年のフーコーは「古代ギリシャ」に戻り「身体的な動きや技法」に生きる意味を見出そうとした。しかし、これでは「思想としてのポスト・モダンは論理的に行き詰まる」(p.50)。
 ・フーコーの「偉大さ」は、「ポスト・モダンを突き詰めると、そもそも思想的営為は成り立たないということを、身をもって証明したことにある」。「ほとんどの社会学者」はそうは言わず、フーコーによって「何か新しい思想が始まった」と考えている。しかし、「何が始まったのか、よく分からない、むしろ何かが終わった」のだ。
 以上。以下は、私なりのコメント・感想だ。
 ①前回に言及していないが(そして桜井哲夫の本やフーコーの邦訳本で確認しないで書くが)、フーコーの「権力」概念は独特で(佐伯は「言説」作用を採り上げているが)、学校・企業はもちろんあらゆる社会的<しくみ>・<制度>、あらゆる人間「関係」の中にも「権力」関係を見出す。概念は自由に使ってもよいのだが、しかし、「権力」=悪という前提がおかれているとすると、これでは人間は自殺するか、(同性愛でも何でもよいが)刹那的享楽を生きがいにして(表明的にのみ「自由に」)生きるしかなくなるのではないか、との感想めいたものをもった。佐伯啓思は、上記のとおり、これでは「どこにも抜け道がなくなって」しまうと明記して同旨のことを述べてくれている。
 なお、佐伯がフーコーを「偉大」と形容する箇所があるが、これは諧謔・皮肉あるいは反語だろう。文字通りの意味だとしても、佐伯がフーコーを<尊敬>・<尊重>しているわけではないことは明らかだ。
 ②佐伯のいう「ほとんどの社会学者」の一人と思われる桜井哲夫は、フーコーの「分析用具」を「改変」して日本の現実や歴史の「分析」や「書き換え」る「知的努力」の意味を説いているが、上の佐伯による評価からしても、こうした「知的努力」の傾注は徒労に終わり、桜井の人生も無駄になるに違いない。日本の現実や歴史に関する「大きな物語」が構成される筈はなく、せいぜい断片的な、かつ<面白おかしい>指摘ができる程度だろう。
 ③前回に、フーコーは<つねに新しい>というだけでは、そこから生じる可能性が人間・社会・歴史にとって<よい>ものであることを保障しない、と批判したのだったが、<ポスト・モダン>に関する佐伯の説明・分析によると、(些か単純化して書くが)この主義者は、<よい-悪い>という価値観を否定し<面白い-つまらない>という基準を採用するのだから、桜井が<新しい>ものはすべて積極的に肯定されるというニュアンスで書いているのも、なるほど、と思った。彼および彼らにとって、人間・社会・歴史にとって<よい>か否かなどは関心の対象ではない、あるいは、そんな当否はそもそも分からない、のだ。<新奇な>もの(とくに従前の一般的理解・社会通念を否定・破壊するもの)はそれだけで有意味性をもつのだ、と考えられていると思われる。したがって、そもそもの前提が異なる批判の仕方を前回はしたことになりそうだ。
 ④前回も今回も、産経新聞に少なくとも二度、奇妙な内容の論稿を載せていた武田徹を思い出していた(佐伯著には残念ながら今のところ武田徹の名前はないが)。「フーコーの言説を引用できる」として肯定的に評価するかの如き発言を載せる本もあったからだ。だが、こうして異なる二人の本(の一部)を通じてフーコーの概略を知ってみると、(武田がフーコーにのみ影響を受けているわけでは全くないにしても)武田徹もやはり<奇矯な>・「左翼」の、新奇・珍奇な指摘・主張をすることで自己満足するような<ポスト・モダン>のジャーナリストだろう、と納得できる気がした。佐伯は、<ポスト・モダン>は「隠された思想」を公言できないために「技術主義」(IT革命等の情報技術の展開に<ポスト・モダン>の意味を求める)へと逃げ込んでいる旨の指摘も行っているが(p.42)、武田徹には、この「技術主義」の匂いも十分にある。いずれにせよ、変わら(れ)ないとすれば、可哀想なことだ。

0478/朝日新聞・若宮啓文の駄文、産経新聞・武田徹の「サヨク」・反日文。

 (2008年)4月の何日かは特定できないが、朝日新聞紙上で若宮啓文が「風考計」コラムを再開させて、何やら書いている(日付を特定できないのは、切り抜きのコピーでそこには日付が含まれていないため)。
 社説2つ分(従って一日の社説欄)以上の字数を使っていると思うが、「アジアの頼れる受け皿に/地図に見る日本」との大文字のあるこの文章で、若宮啓文はいったい何が言いたいのだろう。趣旨不明のこんな文を月に一つ二つだけ(?)書いて多額の収入が得られるのなら、結構なご身分だ。
 真面目に印象を書いているが、本当に趣旨がつかめない。アジアの地図を逆に見ると日本が「ふた」のようだが、改めて正しく見ると「アジアを支える」「お皿」のようだ、というのがタイトルの由来?らしい。だが、そもそも<アジアの受け皿>とは何の意味か? いちおうは何やら書いてはいるが、言葉又は観念の遊びの文章の羅列だ。
 むしろ、かつて「アジア支配に野望を燃やした」、「台湾や朝鮮を植民地とし」などと簡単に書いているのが若宮らしいし、何となく、日本が「四方に後遺症を抱えた国」であるために現在の周辺諸国との間の懸案もうまく解決できない(つまり今日の諸問題の責任は日本にある)のだ、と言いたいようにも読める。
 「やれやれ…である」、「悩ましき外交である」等とだけ書いて、具体的かつ現実的な解決方途を展開しているわけではない。こんな駄文を頻繁に読まされる朝日新聞の読者は気の毒だ。
 唖然とするのは、産経新聞4/24の「ジャーナリスト」武田徹のコラム(「複眼鏡」)も同様だ。但し、こちらは若宮コラムと違って、趣旨は比較的によく解る。問題は、この、<哲学的新左翼>で<フーコーの言説を引用できる>らしい武田徹の書く内容だ。
 重要ポイントの全文を引用したいし、すべきかもしれないが、二点を要約させていただくと、次のとおりだ。
 1.<「チベット問題の遠因は、実は日本にあるという説」がある。それによると、日清戦争での日本勝利→清国での「国民国家的統一を目指せ」との「ナショナリズム」発生→蒋介石・中華民国や毛沢東・共産中国への継承→「チベット同化政策」という連関があり、最後のものは結局(日本が火をつけた)「ナショナリズムの産物」だ。>
 これは風が吹けば…の類の妄言だろう。そもそも「説がある」とだけ書いて誰の説かも明らかにしていないが、その説に武田は同調的だ。
 疑問はただちに、いくつも出てくる。すなわち、「国民国家的統一」の範囲・対象に民族・宗教・文化等の異なるチベットを何故含めなければならないのか? あったのは「統一」ではなく、<膨張>であり<侵略>ではなかったのか?  かりに日清戦争で日本が敗北していたら、現在のチベットは中国の一部になっていなかったのか? 現在もネパールで<間接侵略>をしているが、ベトナムやインドと戦争を実際にしたりして領土拡張志向を示したのは、日清戦争とは無関係に、1949年に政権を奪取した中国共産党の方針そのものではないか?。
 2.<「今でも親日家の多い台湾は、日本の植民地経営が珍しくうまくいっていた」と評価されることがあるが、それは、「『精神の征服』まで果たされた結果だったのかもしれない」。
 まさに<そこまで言うか>という感想が生じる内容だ。「植民地」(という概念自体に疑問をもつが便宜的に使う)の経営がうまくいかなかったとすればそれはそれで批判し、うまくいけば「精神の征服」まで果たした、とこれまた自虐的に日本を批判しているのだ。台湾の人々はこの文章を読んでどう感じるだろうか。李登輝元総統は、日本に「精神の征服」をされた代表的人物なのだろう、武田から見ると。
 以上のようなことを書きつつ、最後に武田はこういう。-「チベット問題は…だろう。だが、その一方で、翻って自分の『国』がどのように作られてきたか、周辺諸国にどのように働きかけてきたか、この機会にそれを省みることにも意味がある」。
 武田徹は中国(「共産中国」)に対する批判を一切しない。逆に、チベット問題の遠因は日本にあるとの「説」に実質的に同調し、「この機会に」自国=日本の行動を「省みる」ことに意味がある、と主張している。
 このような、何かに「精神の征服」をされたとしか思われない内容は、上に偶々取り上げた若宮啓文のコラムとも通底する所があるようであり、朝日新聞に掲載されていたら、奇妙に思わないかもしれない。
 だが、なぜ、こんな<親中国的・反日的・自虐的>な内容の文章が産経新聞に載っているのだろうか。産経は「この機会に」じっくりと「省みて」=反省していただきたい。
 なお、武田徹のコラムに言及したものとして、以下も参照。→ http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/370928/ 

0443/読書メモ2008年3/30(日)-その2。

 先週のいつだったか、西尾幹二・日本人は何に躓いていたのか(青春出版社、2004)の第五章・社会(p.232-266)、実質的には「ジェンダー・フリー」主義・同教育批判、だけを読んだ。
 「ジェンダー・フリー」教育のおぞましさ・異様さ、そして<男女共同参画社会>推進政策の狡猾さ、は既に知っていることなので驚きはしない(最初に知ったときは驚愕した)。
 西尾幹二は、しかし、いくつか記憶に残る言葉・文章を記している。
 ・「過激なフリーセックスは、レーニンの指導する共産主義社会で実際に行われて、既に失敗だったと結論が出て、スターリンが是正した歴史が残っています…」(p.241)。
 こんなことは知らなかった。
 ・「フランクフルト学派とか、ポストモダンとかいう思想」は、欧州では「たいてい」、「大都会の片隅の深夜の酒場にたむろするタイプの一群の特定な思想の持ち主たち」に支持されている「思想」だ(p.243)。
 なるほど。きっと反論する人がいるだろうが、イメージは湧く。
 ・(上と基本的に同旨を含む)「男女は平等」だが「別個の違う存在」なのに「意図的に混在させ、区別なしに扱うのは反自然な思想」でないか。かかる考え方は「いわゆるフランクフルト学派や、ポストモダン、とりわけ自ら同性愛者であるような思想家、ミシェル・フーコーのような人たちによって推進されました」(p.256)。
 そういえば、思い出したが、評論家?の武田徹はミシェル・フーコーの
「言説を引用」することがある、と石井英之が称賛するが如く書いていた。
 ・中川八洋の『これがジェンダーフリーの正体だ』との本によると、上野千鶴子は、名詞の性の違い(女性名詞・中性名詞・男性名詞)を示す「文法用語」にすぎなかった「ジェンダー」(性差)を「フェミニスト運動の都合にあわせて」作った(引用されている上野の原文では「…を主張するために生まれました」)と「告白」している。
 セックスとジェンダーの違いは、なんて勉強?したのはいったい何だったのだ、と言いたくなる。
 ・上野千鶴子を教員として招いたのは、「東大の判断がおかしい」。昔は別だが「今はそもそも東大というのは左翼の集団です…」(p.265-6)。
 (なお、西尾が上野千鶴子を「左翼フェミニスト」と形容していた記憶があるが、再発見できなかった。)
 東京大学という最高?学府に<左翼的な>教員・研究者が<多い>印象があるのは確かだ。東京大学所属だから目立つ面はあるのだが、-「左翼」という語の定義に立ち入らないが-憲法学の樋口陽一(前)、長谷部恭男蟻川恒正は<左翼>又は少なくとも<左翼的>だろう。さらに遡れば、小林直樹芦部信喜だって…。靖国問題(ちくま新書)を書いた高橋哲哉も東京大学(教養学部?)だ。もっと古くは、GHQに協力して一時期は<左翼的>だった横田喜三郎(のち、最高裁長官)は法学部で国際法担当、<進歩的知識人>の御大・丸山真男は法学部の政治学(政治思想史)担当、といった具合。過去および現在に、他にも気のつく人物は多い。東京大学出身の上級官僚や法曹は、こういう人たちの「教育」を受けて生まれてくる(きた)のだ…。
 この最後のテーマ(東京大学と「左翼」、そして一般社会)は別の機会にも言及する。

0363/呉智英は他人に「バッカじゃなかろか」と言えるか。

 呉智英という評論家が日本国憲法九条擁護派(改正反対派)だということを知って唖然とし、一文を二度に分けて認(したた)めたことがことがあった。
 その呉智英が、産経新聞12/22付の小さなコラムで、つぎのような「妙な」ことを書いている。
 「宮本〔顕治〕の死後、保守系の論壇誌は、彼の関わった戦前のスパイ嫌疑者査問致死事件を一斉に書き立て、その『非人間性』を非難した。バッカじゃなかろか」。戦前に非合法だった共産党が「革命軍の中に潜入した敵のスパイを摘発殺害して何の不思議があろう」。「近頃、保守派までが革新派と同じようにブリッコ化・幼児化していないか」。等々。
 第一に、宮本顕治逝去後、「保守系の論壇誌」が宮本の関わった「戦前のスパイ嫌疑者査問致死事件を一斉に書き立て」た、というのは事実なのかどうか。そして、「その『非人間性』を非難した」というのも事実なのかどうか。
 短いコラムなので実証的根拠・資料を示せなくても当然かもしれないが、上の二つは、私には事実とは思えない。
 そもそも「保守系の論壇誌」とはいったいどれどれのことか。正論(産経)、諸君!(文藝春秋)、ヴォイス(PHP)あたりは入るのだろうか。こんな詮索は別としても、私が全てを読んだわけではないが、上のような事実の印象はない。宮本に関する記事の中に「戦前のスパイ嫌疑者査問致死事件」への言及があっても、それは当然のことだろう。しかし、そのことは、「一斉に書き立て」て、「その『非人間性』を非難した」ということを全く意味してはいない。
 なお、記憶のかぎりでは、産経新聞は、宮本を「マニュアル人間」だったとする、ユニークな見方を示していた。
 呉智英は、実在しない亡霊に向かって吠えたてているのではないか。
 第二に、「スパイ嫌疑者査問致死」は「敵のスパイ」の「摘発殺害」で、戦前では「何の不思議があろう」というが、かかる議論・主張を日本共産党自体、宮本顕治自身が何らしてこなかったことを、呉智英はどう評価しているのか。この問題については、彼は一言も述べていない。
 上の「何の不思議があろう」という見方は当然にありうるだろう(但し、すでに言い古されたことで、新鮮では全くない)。だが、日本共産党も宮本顕治も、懸命になって、「殺人」ではない(監禁・傷害致死ですらない偶発的事故だ)、と強く、一貫して主張してきている(いた)のだ。袴田里見(元副委員長)は、このような主張を維持するための犠牲になって除名されたのだ。
 呉智英は「現在の価値観から過去を裁断してはならないとは、保守派…の口癖」だとし、「その通りだ」とも言っている。呉智英の立場からだと、上のような日本共産党の主張こそが、「現在の価値観から」のもので、当時(戦前)の共産党・革命をめぐる状況・環境を前提としていない、ということになるのではないか。そして、(かりに上記の事実があったとしても)「保守派」とともに日本共産党もまた「バッカじゃなかろか」と批判しなければいけないのではないか。
 (ひょっとして日本共産党の上のごとき主張を知らないのだとすれば、この人に「評論家」の資格は全くない。)
 呉智英の論は、上の如く、重要又は基礎的な事実誤認がある可能性があり、かりに事実誤認がなかったとしても、批判の対象に日本共産党を加えていないという重大な欠陥をもつものだ。
 この人はそもそも「保守派」なのか「革新派」なのか。産経新聞に登場しているからといって「保守派」であるとは限らないということを、某評論家=武田徹の登場によって鮮明に知った。
 そんな右・左もどうでもよい。せめて、事実をきちんと認識したうえで、かつ単純化・一般化しすぎないで(「一斉に書き立て」などという表現は一定の主観混じりの単純化によって目が曇っていることの証左ではないか)、さらに論理性の一貫した内容の文章を書いてもらいたい。
 「幼児化」(あるいは痴呆的老人化?)しているのは、呉智英その人ではないのか。「バッカじゃなかろか」との言葉を簡単に使っていることにも、感情過多・論理性衰弱が窺えるように思われるのだが…。

0352/武田徹と斎藤貴男。

 11/01に武田徹の産経上の小文に論及したが、4/07のエントリーで浅羽通明・右翼と左翼(幻冬舎新書)に触れ、その中で、<「哲学的新左翼」論者として高橋哲哉斉藤貴男森達也武田徹といった「新しい左翼ジャーナリスト」の名が記されているのは、情報として十分に参考になる>と自ら書いていたのにのちに気づいた。むろん浅羽の認識・評価の適切さの問題はあるが、かりに一部からにせよ、武田徹とは<「哲学的新左翼」論者>と位置づけられている人物なのだ。
 斎藤貴男はやはり11/01に言及した石井政之編・文筆生活の現場(中公新書ラクレ、2004)に登場している。一読したが、その<教条的左翼>の言いぐさ・論調に辟易した。
 その斉藤貴男は、共著で、あなたは戦争で死ねますか(NHK出版)というのを出しているらしい。
 そして、月刊・正論12月号(産経新聞社)p.344(清洲橋三郎・執筆)はこの一頁をまるまる、上の本の中での斉藤貴男批判または斉藤への皮肉にあてている。逐一紹介しないが、それによると、斎藤貴男の主張・論理はやはり異常だ。
 清洲橋三郎はこう結ぶ-「〔日本国家への〕ルサンチマン〔怨み〕をバネにここまでやってきた斎藤氏は、このまま紋切り型の反権力、反体制ジャーナリストとして突っ走っていくのだろう。…」。
 日本(国家)に怨みを持つのは勝手だが、旧ソ連(今のロシアでも?)、中国、北朝鮮において、<反権力、反体制ジャーナリストが生活していけると斎藤は考えているのだろうか。
 日本においてだからこそ、<反権力、反体制ジャーナリスト
も食ってゆけているのではないのか。斎藤貴男に限らないが、日本(国家)を悪し様に罵ることを<商売>にしてこそ日本で自由に棲息していけている、というパラドックスをどう感じているのだろう。
 親を罵りつつ、その親の掌の上で、護られながら、狂い踊っているだけではないのか?
 斎藤の文章を丁寧に見ているわけではないので、いちおう上は疑問形にしておく。斎藤貴男のルポ改憲潮流(岩波新書)とやらは所持しているが当面は読まない。読まなくとも内容が透けてみえるような気がするから。
 追記-アクセス数は11/25(日曜)に17万を超えた。

0342/武田徹を使う産経新聞の将来を憂う。

 低レベルの、質の悪い文章を読んでしまった。
 産経新聞10/31夕刊に掲載された、武田徹(1958~)の、随筆もどきの、(小)論文とはとてもいえない、<複眼鏡>欄、「「市民」という言葉―安易な使用・自らの不遇招く」だ。
 「「市民」という言葉」は彼の記した原題で、あとは編集部で加えたのだろうか。おかげで、表向きは<立派そうな>コラムらしく見えてはいるが…。
 一 そもそも論旨・結論(主張したいこと)はいったい何か。自然人(市民)と国民、あるいは理想主義と現実主義の使い分けを日本国憲法草案はどう考え、戦後日本はどう受け入れたののかを「改めて検討してみる価値があるのではないか」、ということのようだ。
 せっかくの狭くはない紙面を使って、…との問題を「改めて検討してみる価値があるのではないか」、で終わらせることで原稿料を貰える(稼げる)とは、ラクな商売だ(いくら稼いだのかは知らないが)。
 そんな課題設定、問題提起をするヒマがあるくらいなら、自分の考えを正面から試論でもいいから述べ、主張したらどうか。こんな問題もあると思うよ、とだけ書いて「ジャーナリスト」と名乗れるのだろうか
 二 上記の問題設定(「改めて検討してみる価値があるのではないか」)に至る論述も論理関係が曖昧なところがあり、そもそもの事実認識または評価にも奇妙なところがある。アト・ランダムに書いておこう。
 1 ベアーテ・シロタの講演への言及で始めて、再び言及して原稿を終えている。いちいち典拠を確認しないが、ベアーテ・シロタは法学部出身でもないタイピスト(?)だが日本語能力のおかげでGHQ草案作りに<愛用>された、かつ親コミュニズムでソ連憲法の条文の字面だけを見て、その「家族」または「男女対等」に関する条項に憧れ、日本国憲法草案(の原案)の一部を書いた人物だ(現二四条等につながった)。
 武田はいう。彼女は「日本女性の地位確立の道を切り開いた」、と。どう評価しようと自由だが、日本国憲法の制定過程に詳しく、かつその内容に批判的な人々にとっては、ベアーテ・シロタとはマルクス主義的・「左翼的」人物で戦後日本に悪影響を与えたとの評価を受けている人物なのだ。
 武田徹は、上のことを知っていて、敢えて書いているのだろうか。だとすれば、そのようなフェミニストと同様の評価を「産経」に書くとは勇気があるし、そのようなことを書かせる産経の編集部の無知加減か又は「勇気」に驚く。
 武田が上のことを知らないとすれば、あまりに無知で、勉強不足だ。
 2 日本国憲法に「国民」を権利享有主体とする条項と「何ぴと」にも権利(人権)を認める条項があるのは、ほとんど自明の、常識的なことだ。
 だからどうだと武田はいいたいのだろうか。<使い分け>を問題にしつつ、具体的に自らの見解・主張を述べている論点はない。外国人の雇用問題について何やら述べているが、結局は、<ある程度の痛み分けをしつつ相互に納得できる解決策を…>と書くにとどまる。こんな程度なら誰でも(私でも)書ける。
 そもそもが、外国人の問題を、憲法一四条・平等原則レベルの問題として論じようとする感覚自体がおかしいと言うべきだろう。
 確認しないし、詳細な知識はないが、いったいどこの国の憲法が、自国民と自国籍を有しない者(外国人)をすべての点について<平等に>取扱うなどと宣言して(規定して)いるだろうか。そんな馬鹿な<国家>はないはずだ。
 武田はいったんまるで平等保障の対象に外国人を含める方が<進歩的>であるかのごとき書き方をしているが、その「いったん」の出発点自体に奇妙さがある。この人は、朝日新聞的<地球市民>感覚に染まっているのだろうか。
 かりに万が一上のような憲法条項があったとしても<合理的な区別>まで平等原則は禁止するものではないから、やはり外国人の権利の有無の問題は残り(選挙権問題も当然に含む)、よくても法律レベル、「立法政策」の問題になるのだ(「よくても」と書いたのは、外国人の選挙権付与は違憲で、法律レベルでも付与できない、との主張もありうるし、現にあるからだ)。
 3 武田は「市民」という言葉の問題性に言及しているが、そんなことはあえて書くまでもない。読まされるまでもない。この人は、佐伯啓思・「市民」とは誰か-戦後民主主義を問いなおす(PHP新書、1997)という本を、-専門書ではなく容易に入手できるものだが-読んだことがあるのだろうか。
 「「市民」という言葉」を問題にしようとして、上の佐伯著を知らない、読んでいないとすれば、あまりに無知で、勉強不足だろう。武田が書いていることくらいのことは、すでに多数の人が指摘している。また、武田は言及していないが、<左翼>団体(運動)が「市民」団体(運動)と朝日新聞等によって称されてきている、という奇妙さもすでに周知のことなのではないか。
 4 それにしても、<市民・自然人-国民>の対置と<理想主義-現実主義>の対置をまるで対応しているかのごとく(つまり市民・自然人→理想主義、国民→現実主義)書いているのは、いつたいどういう感覚のゆえだろうか。こうした対応関係がなぜ成り立つのか。<思い込み>で物事を叙述してほしくないものだ。
 5 武田はまた書く。「…抽象的なシンボルを多用した安倍政権」後の「福田政権は、今度こそ生活の実質に根を下ろした政策を打ち出して欲しいと願う」、とも。
 こんな程度のことしか書けない人物が「ジャーナリスト」と名乗って、産経新聞に登場しているのだ。いよいよ世も末かと思いたくなる。
 まさかと思うが、「毎月最終水曜日」掲載の「複眼鏡」の執筆者は当面、武田徹ってことはないだろうなぁ。読売と産経のどちらの定期購読を「切ろう」かと考えているところだが、10/31のような文章の武田の文を毎月見るのはご遠慮したいものだ。産経新聞編集局(文化部?)は武田徹のごときを使うべきではない。 
 三 石井政之編・文筆生活の現場(中公新書ラクレ、2004)に武田は登場しているが、武田は2003年に東京大学某センターの「特任教授」となり「ジャーナリスト養成講座」を担当しているらしい(p.46)。この程度の内容の文章しか書けない人物が「ジャーナリスト」を「養成」しているのだから、昨今の「ジャーナリスト」のレベルの高さ?が分かるような気がする。
 ついでに。上の中公新書ラクレで編者の石井政之は、「武田さんは、哲学者ミシェル・フーコーの言説を引用しており、私は無学を恥じた」と書いている(p.45)。石井は相変わらずの舶来・洋物思想(というだけで「優れて」いると思う)崇拝者なのだろうか。
 「ミシェル・フーコーの言説を引用」できなくて、何故、「無学を恥じ」る必要があるのか。同じことを、吉田松陰、福沢諭吉、徳富蘇峰等々の日本人についても、石井は語るのだろうか。
 なお、中川八洋・保守主義の思想(PHP、2004)によると、フーコーはサルトルやマルクーゼ等とともに「日本を害する人間憎悪・伝統否定・自由破壊の思想家たち」の一人とされている(同書p.385)。

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