秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

柴田翔

2489/西尾幹二批判049—根本的間違い(4-3)。

 六 3 00 <反共よりもむしろ反米を>という、政治状況または国際情勢についての西尾幹二の「根本的間違い」の原因・背景を述べてきている。
 この人の、より本質的な部分には論及していない。先走りはするが、この人にとって、「反米」でも「親米」でも、本質的にはどうでもよかったのではないか。
 --------
 01 とは言え、叙述の流れというものがある。
 既述の誤りの指摘の追記でもあるが、西尾幹二の政治状況・国際情勢にかかる認識の間違いは、つぎの文章でも明瞭だ。
 2005年/月刊諸君!2月号、p.222。
 「米ソの対立が激化していた時代はある意味で安定し、日本の国家権力は堅実で、戦前からの伝統的な生活意識も社会の中に守られつづけました。
 おかしくなったのは、西側諸国で革命の恐怖が去って、余裕が生じたからで、さらに一段とおかしくなったのは西側が最終的に勝利を収め、反共ではもう国家目標を維持できなくなって以来です。
 日本が壊れ始めたのは冷戦の終結以降です。」
 西尾が1999年『国民の歴史』で、私たちは「共産主義体制と張り合っていた時代を、なつかしく思い出すときが来るかもしれない」、「否定すべきいかなる対象さえもはや持たない」と書いた線上に、上の文章もある。そして、現在まで、この基本的認識・主張は継続しているようだ。
 これは、グローバリズムからナショナリズムへという、〈日本会議〉公認の、日本の「保守」(の主流派:多数派)を覆った考え方でもあった。
 --------
 02 その点はここではもう論及しないこととして、上の文章には若干の基本的な疑問がある。
 第一に、西尾のいう「冷戦の終結」以前の日本の「国家目標」は「反共」だったのか?
 「全面講和」ではなく単独(または多数)講和を選択してアメリカ・西欧陣営に入った(1951年)こと自体が「反共」だった、とは言える。継続的な「国家目標」性はうたがわしいとしても。
 かりにそうだとしても、関連して第二に、つぎの認識は適確か?
 「米ソの対立が激化していた時代はある意味で安定し、日本の国家権力は堅実で、戦前からの伝統的な生活意識も社会の中に守られつづけました」。
 「反共」という国家目標のもとで、日本は「ある意味で安定し」、「国家権力は堅実」だったのか。
 秋月瑛二は、全くそう思わない。
 例えば、ベトナム戦争があり沖縄の基地から米軍機は飛び立っていった。カンボジアに中国に援助された数年間の「共産主義」的支配があった(ポル・ポト、赤いクメール)。後年に明らかになったが、1977年に「めぐみ」ちゃんは北朝鮮の国家的「人さらい」の犠牲者となった(他にも多数いる)。国内では社会党・共産党が「統一」して推す候補が京都に続いて東京や大阪でも知事になった(横浜市でも。その他省略)。また、日本共産党も国会での議席を増やして<70年代の遅くないうちに民主連合政府を!>とか呼号していた。田中角栄元首相の収賄事件もあった。ソ連空軍兵士が函館空港に着陸して亡命したのは、1976年だった。ソ連軍機による「大韓航空機撃墜事件」が日本近海で起きたのは、1983年だった。小中学校での<学級崩壊>は1980年頃には語られ始めていた。以上は、例。
 いったいどこに、日本は「ある意味で安定し」ていたとする根拠があるのか。
 じつは西尾幹二の「主観的」状況は「安定」していたのかもしれない。西尾は2000年にこう言っている。
 1970年の<三島事件>の後、私は「三島について論じることをやめ、政治論からも離れました。そして、 ニーチェとショーペンハウアーの研究に打ち込むことになります」。
 三島没後30周年記念講演、西尾・日本の根本問題(新潮社(編集担当は冨澤祥郎)、2003)、p.285。
 根拠文献をいちいち記さないが、以下も参照。
 1966年、ニーチェ『悲劇の誕生』翻訳書(中央公論社)。
 1969年、「文芸評論」を書き始める。
 1977年、ニーチェの(よく言って前半期だけの「評伝文学」の)『ニーチェ』(第一部・第二部)刊行。北朝鮮による「拉致」が始まった年。
 1979年、上記書により文学博士号(審査委員の一人は、同学年で当時は東京大学助教授だった柴田翔)。
 1987年、ニーチェ『この人を見よ』・『偶像の黄昏』・『反キリスト』翻訳書(白水社)。
 --------
 03 1990年近くまでこんな調子だと、文芸評論や、政治評論家ではない「文芸評論家」としての遊覧視察旅行にもとづくソ連関係本や「古巣」の感覚に依拠したドイツ関係本の刊行をしていても、日本の政治状況や国際情勢、日米関係に強い関心が向かわなかったとしても、やむをえないだろう。
 主観的・心理的・精神的に、西尾幹二個人は1989-91年以降よりも「安定」していたのだ。
 --------
 04 「安定」したままでなく、状況が変化した(と西尾は感じた)のは、1996.12/1997.01の〈新しい歴史教科書をつくる会〉発足と会長就任だっただろう。それまでよりも「著名人」となり、社会・政治に関する発言も求められるようになった。
 そして、橋本龍太郎(1996-98)、小渕恵三(1998-2000)、森喜郎(2000)の各首相時代には特段の政治的発言をしていないようだが(自社さ連立での村山富市首相と同内閣(1994-96)・戦後50年談話についても同じ)、小泉純一郎内閣が誕生して(2001年)以降、突如として?<政治評論家>をも兼ねるようになる。小泉を「狂人」、「左翼ファシスト」と称し、いわゆる郵政解散選挙では反対(元)自民党候補を応援するという「政治的実践活動」まで行なった
 政治状況、国際情勢の把握も必要だから、大急ぎで、付け焼き刃的に?「勉強」したのだろう。ニーチェやドイツに関する素養、観念的「自由の悲劇」論では足りない。
 そして、今回の冒頭で言及したのは、1999年と2005年の文章だ(「つくる会」設立後、分裂前)。
 --------
 05 さて、日本の政治状況、国際的状況を把握しようとした際、容易に参照し得たのは、〈日本会議〉史観だっただろう。つまり、グローバリズムからナショナリズムへ、「反共」だけでなく「日本」重視と「反米」がむしろ重要だ、という時代感覚だ。
 その際に、どの程度強くかは不明だが、西尾幹二が潜在的に意識したのは、ニーチェが生きた時代、そして従来の価値観はもはや通じず、「新しい」価値・哲学等が必要だ、というニーチェの基本的主張だったと思われる。
 西尾幹二は、自分をある程度は、ニーチェに擬(なぞら)えていたのだ。
 ニーチェの一部しか知らないままで、ニーチェを「ドイツ文学」的にではなく、構造的・歴史的・「哲学」的に理解することのないままで。
 誰でも、あるいは多くのとくに政治活動家や政治評論家たちは、自分の生きている時代は将来にとってきわめて重要な、分岐点にある時代だ、と思いたがるものだ。
 ニーチェにもおそらく、そういう意識・感覚があっただろう。
 西尾幹二にとっても、1989-1991年の前と後は、質的に異ならなければならなかった。「新しい」時代なのだ、「反共」だけを唱えてはいけないのだ。
 2010年に、こう書いた。
 1990年頃の「冷戦の終焉」までの「日本の保守の概念」は日本の「歴史や伝統に根差したものではなく、『共産主義の防波堤』にすぎなかった」
 月刊正論2010年10月号「左翼ファシズムに奪われた日本」、p.45。
 --------
 06 これで、政治・国際情勢に関する西尾幹二の「根本的間違い」の原因・背景の叙述を終える。今回書いたのが、その第三点だ。
 その他、西尾幹二に関して指摘ておきたいことは、ニーチェに関係することも含めて、「山ほど」ある。
 ——

1212/東京大学文学部社会学科はなぜ上野千鶴子を東京大学教授にしたのか。

 日本の大学の人事において、とくに歴史学や社会学を含む「社会系」については、その人物の「思想」・「イデオロギー」(それらによる所属団体、それらについての指導教授の「傾向」)がかなりの影響をもっているかを、この欄で何度か触れたことがある。マイナスになることもあれば、「左翼」/マルクス主義者・親マルクス主義者/日本共産党員であることがむしろプラスに働いて、これらを大学または学界における「処世の手段」として利用している者も少なくないのではないか、等をかつて記したことがある。   2007.07.06「大学の歴史・社会系ではまだ共産主義系が多数派!?」   2009.02.06「<処世の手段>としての『左翼』/マルクス主義者/日本共産党員」。   2010.10.02「『共産党ではないが左翼』の社会・人文系学者たちの多さ」、など。

 長らく失念していたが、上野千鶴子の東京大学への招聘について、西尾幹二らが当時の東京大学文学部長と社会学科長に対して「公開質問状」を出していたことを思い出した。
 ネット上で、全文かどうかは不明だが見つけたので、再掲して紹介しておくことにする。なお、この質問状は西尾=八木・新・国民の油断(PHP、2005)に全文・経緯が掲載されているようだ。所持しているが、確認作業を節約させていただく。

 ----

 「『上野千鶴子』問題については、東京大学の社会的責任を問う必要があると考えます。

 『女遊び』は、上野千鶴子氏が東京大学文学部教授会に迎え入れられる前、平安女学院短期大学教員の名で出された本で、東京大学の資格審査の際の参考文献に当然なっていたはずですから、同書と同書著者を受け入れた社会的責任が、東京大学文学部長と社会学科主任教授とにあると思います。もちろん、それに先立ち、文学部教授会全体にも社会的責任があります。

 憲法で『表現の自由』と『学問の自由』は保障されていますが、表現の『評価』は無差別ではありません。社会的影響力の大きい機関は『評価』に対し、当然、社会的責任を有しています。

 『女遊び』がどのような文献であるかは本書中で紹介したとおりで、必要なら古書でなお入手でき、再調査が可能でしょう。関係各位はご調査のうえ、判断や評価が適切であったか否かを、いまあらためてマスコミにおいて公表してほしい。

 もちろん機関としての判断決定の見直しは、いかに失敗であるとはいえ、もう時機を失しているでしょう。けれども、文学部所属の教授たち、ことに社会学科所属の関係者が上野千鶴子氏の『評価』の見直しを、己の学問的良心に照らして再度ここで行うことは可能です。私たちのこの提案に対し、開き直って彼女を礼賛するか、賛同して彼女を批判するか、いずれも自由ですが、沈黙するのは社会的無責任の表明と見なします。開き直って礼賛する人の論法は見物で、いまから楽しみにしています。

 なお、『女遊び』は学術的著作ではないので、審査対象からは外していたという見え透いた逃げ口上は慎んでいただきたい。業績の少ない若い学者の資格審査においては一般著作も参考にすべきで、それを怠ったとすれば、かえって問題です。

 まして『女遊び』は、上野氏のその後の反社会的思想と日本社会に及ぼしている悪魔的役割と切り離せない関係にあるだけに、見逃したという言い方は弁解としても成り立たないと思います。

 平成16年12月8日
  西尾幹二・八木秀次」

 ----

 上野千鶴子は京都大学文学部・同大学院出身で上記の京都市内の女子短大や京都精華大学の教員だったが、突然に?東京大学文学部の助教授になった。
 上野の著「女遊び」とやらは読んだこともないが、上野のたった一つの学問的研究書と言えそうなのは同・家父長制と資本制-マルクス主義フェミニズムの地平-(岩波書店、1990)だろう。ここに見られるように、上野はたんなる「フェミニスト」またはフェミニズムの研究者ではない。「マルクス主義フェミニズムの地平」を目指して、ベルリンの壁崩壊・ソ連解体の頃以前に研究した文章をまとめて、1990年に、あの「岩波」から出版したのだった。<容日本共産党>の人物であることにもこの欄で言及したことがある。現在では東京大学を定年退官して優雅な「おひとりさまの老後」を過ごしているのだろうか。

 ところで、上の質問状からは不明だが、質問を受けた2004年度の東京大学文学部長ではなく、上野を採用することを決定した時点(1992年度と思われる)での東京大学文学部長は柴田翔であったと見られる。柴田翔とは、大学院学生だったとみられる1964年の芥川賞を「されどわれらが日々」で受けた人物。

 興味深いことに、西尾幹二と柴田翔(本名)はともに1935年の早生まれで(これは大江健三郎も同じ)、ともに東京大学独文学科で学んだ「学友」にあたる。そして、上野千鶴子問題を離れてさらに次のように思うのだ。

 失礼かもしれないが、西尾幹二は東京電気通信大学という理系の大学のドイツ語・ドイツ文学の教員だったのに対して、柴田翔は東京大学文学部教員として東京大学に残り、文学部長にまでなった。
 これまでの仕事・業績の全体を見ると、ドイツ関係に限ってすら、圧倒的に西尾幹二が柴田翔を凌駕しているのではないか。西尾幹二には「個人全集」すらある。柴田翔は芥川賞のおかげで世間的には著名かもしれないが、いったいいかほどのものを学界に残したのだろう。彼らの20歳代においても、東京電気通信大学と東京大学とでイメージされるような力量の差はなかったのではないかと思われる。しかるに、なぜ、柴田翔は東京大学に残り、その専任教員になれたのか。あくまで推測にはなるが、<思想傾向>がまったく無関係だったとは思われない。

 日本の大学というのは、「大学の自治」・「学問の自由」といった美名に隠れてはいるが、じつはかなり異様で奇妙な世界ではないかと感じている。  *後記(訂正)ー西尾幹二は1935年の「早生まれ」ではなく、同年7月生まれ。なお、大江はいわゆる<一浪>をしているので、結果として西尾と同年の入学のはずだ。

ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー