林健太郎氏、清水幾太郎氏の本の一部を読んで感じるのは、人の「思想」の変化・遍歴だ。
林健太郎は1913年生れ(50年に37歳)で、旧制一高時代にマルクス主義に「心酔」し、かつ講座派(日本共産党系)のそれだったが、戦後に労農派(とくに向坂逸郎)と接近して日本社会党左派の支持者になったものの、専門(西洋史学)のためか平均人よりも東欧等の共産主義や「冷戦」の実態を知ってマルクス主義から離れ、「平和問題談話会」への勧誘すら受けず、所謂「進歩的知識人」ではない保守派としてその後を生きた。
清水幾太郎は1907年生れ(50年に43歳)でやはりマルクス主義の影響を受け、それに立つ専門(社会学)の論文を書いたが、戦前にすでにマルクス主義から離れて読売の論説委員として敗戦を迎えたのち、非マルクス主義の立場で「平和問題談話会」等を舞台とする平和運動家として活躍したが、60年安保の「敗北」のあと、これを総括・反省して、林と同じく保守派「知識人」となった。経緯は異なるが最初と最後は同様といえるのは興味深い。
かかる変化につき、日本共産党は「転向」、「変節」、「裏切り」等の言葉を用意しており、上の両氏は違うようだが、とくに一旦入党し自らの意思で離党する者に対する罵声として使ってきた。
だが、一般論として、10歳代後半から20歳代半ばくらいまでに形成された一個の人間の「思想」が変化しても何ら不思議ではない。固持すべきとのいかなる倫理的要請もありえない。問題は変化の内容・結果だ。
ここで立場が分かれるのだろうが、共産主義又はマルクス主義から脱して別の考え方に至ることはむしろ当然であり、称賛されるべきで、何ら恥ずかしいことではない。離党した筆坂秀世が新潮新書を刊行したとき日本共産党・不破哲三は「ここまで落ちることができるのか」と題する批判文を書いたが、「落ちる」という表現自体に、自分たちは「高み」にいる「正しい」者たちだという傲慢さが溢れている。
林・清水両氏に話を戻すと、清水は1948-60年の十数年「平和運動家」として一般市民・学生を誤った方向に「煽動」する文章を書き講演をした、ジャーナリスティックなアジテーターだったはずだ(同氏のこの期間に関する叙述は歯切れが悪い)。
従って、同じく元マルクス主義シンパで後で変わったと言っても、日本の社会と歴史に対する責任は林よりも清水幾太郎の方がはるかに大きいと言うべきだ。
戦後の際どい時期に正しく共産主義又はソ連の誤りと恐ろしさを指摘していた「知識人」もいた。例えば、小泉信三・共産主義批判の常識(初出1949)、林達夫・共産主義的人間(初出1951)だ。彼らこそは、改めて尊敬されるべきと思われる。
林健太郎は1913年生れ(50年に37歳)で、旧制一高時代にマルクス主義に「心酔」し、かつ講座派(日本共産党系)のそれだったが、戦後に労農派(とくに向坂逸郎)と接近して日本社会党左派の支持者になったものの、専門(西洋史学)のためか平均人よりも東欧等の共産主義や「冷戦」の実態を知ってマルクス主義から離れ、「平和問題談話会」への勧誘すら受けず、所謂「進歩的知識人」ではない保守派としてその後を生きた。
清水幾太郎は1907年生れ(50年に43歳)でやはりマルクス主義の影響を受け、それに立つ専門(社会学)の論文を書いたが、戦前にすでにマルクス主義から離れて読売の論説委員として敗戦を迎えたのち、非マルクス主義の立場で「平和問題談話会」等を舞台とする平和運動家として活躍したが、60年安保の「敗北」のあと、これを総括・反省して、林と同じく保守派「知識人」となった。経緯は異なるが最初と最後は同様といえるのは興味深い。
かかる変化につき、日本共産党は「転向」、「変節」、「裏切り」等の言葉を用意しており、上の両氏は違うようだが、とくに一旦入党し自らの意思で離党する者に対する罵声として使ってきた。
だが、一般論として、10歳代後半から20歳代半ばくらいまでに形成された一個の人間の「思想」が変化しても何ら不思議ではない。固持すべきとのいかなる倫理的要請もありえない。問題は変化の内容・結果だ。
ここで立場が分かれるのだろうが、共産主義又はマルクス主義から脱して別の考え方に至ることはむしろ当然であり、称賛されるべきで、何ら恥ずかしいことではない。離党した筆坂秀世が新潮新書を刊行したとき日本共産党・不破哲三は「ここまで落ちることができるのか」と題する批判文を書いたが、「落ちる」という表現自体に、自分たちは「高み」にいる「正しい」者たちだという傲慢さが溢れている。
林・清水両氏に話を戻すと、清水は1948-60年の十数年「平和運動家」として一般市民・学生を誤った方向に「煽動」する文章を書き講演をした、ジャーナリスティックなアジテーターだったはずだ(同氏のこの期間に関する叙述は歯切れが悪い)。
従って、同じく元マルクス主義シンパで後で変わったと言っても、日本の社会と歴史に対する責任は林よりも清水幾太郎の方がはるかに大きいと言うべきだ。
戦後の際どい時期に正しく共産主義又はソ連の誤りと恐ろしさを指摘していた「知識人」もいた。例えば、小泉信三・共産主義批判の常識(初出1949)、林達夫・共産主義的人間(初出1951)だ。彼らこそは、改めて尊敬されるべきと思われる。