秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

林健太郎

2144/池田信夫のブログ017-三輪寿壮。

 2/10のブログマガジンで全部を読めることになっているが、2/05の池田ブログが三輪寿壮に言及している。直接にというよりも、池田が素材とするつぎの書の中身にかかわってだ。
 鯨岡仁・安倍晋三と社会主義-アベノミクスは日本に何をもたらしたか(朝日新書、2020)。
 三輪寿壮という人物名にも記憶があるし、安倍内閣の経済政策の性格にも関心がある。
 そこでさっそく上掲書を見てみると、目的の一つは「アベノミクスのルーツが『社会主義』であるという仮説を補助線」としてその「形成過程をあきらかにする」ことだとされている。
 この「ルーツ」に安倍晋三の母方の祖父・岸信介と三輪寿壮の二人がかかわる。
 かつての東京帝国大学法学部で、岸信介・三輪寿壮・蝋山政道・我妻栄・三木清・平岡梓(三島由紀夫の父)らは同学年だった。
 三輪寿壮について、池田がたぶんこの書に依拠してすでに書いていること以外のことを記しておこう。
 三輪寿壮、1894~1956。
 真っ先に書いてしまえば、反共産主義の「社会主義」者または「社会民主主義」・「民主社会主義」者だ。
 従って、日本共産党的「左翼」から見ると<保守反動>となる。一方、日本会議的?<宗教右翼>または<いわゆる保守>によると、<左翼>というレッテルが貼られるかもしれない。「右派」社会党の国会議員であっても、「社会党」=「社会主義政党」という見方からすると「左翼」視されてもやむを得ないのかもしれない。
 但し、私は「左翼」=「容共」の意味で用いてきているので、その意味ではこの人は決して「左翼」ではない。
 この人物の名を知ったのはたぶん、すでにこの欄で言及したことがある、以下による。
 石原萠記・戦後日本知識人の発言軌跡(自由社、1999)。
 この石原萠記(1924-2017。自由社・社長)という人物自体がもっと知られてよいかもしれない。
 この石原が上の書の最終章で<生き甲斐を与えてくれた人びと-忘れ難き学者・文化人に学ぶ>を列挙して、それぞれについて長短あれ文章を書いていることは、すでにこの欄で紹介した(№2002/2019.07.11)。
 そこで記したように、石原がまず第一に挙げているのが、三輪寿壮だ。
 ----
 石原の叙述によって、三輪の公式的な面では分からない、三輪寿壮やこの人と石原の関係を紹介しよう。
 ・1954-55年頃、「三輪寿壮先生のすすめ」もあり、山梨県(石原の郷里)で「右派社会党」を再建して、この地で衆議院議員選挙に立つべく活動していた。
 日記1954.12.30-「午前中、三輪先生宅で、山梨、長野県連の実情を報告。山梨県連再建のため、衆議院に立候補の準備をしろといわれる」。p.906、p.1157。
 ・しかし、別に他の人から勧誘を受け、「国際的視野」をもつことも(将来の政治家のためにも)必要だと考え、1955年から「国際自由文化会議」と関係をもち、1956年に<日本文化フォーラム>を発足させ、事務局長となった(「フォーラム」の語は林健太郎の案による)。以降、<日本文化会議>結成にもかかわり、雑誌『自由』を出版する<自由社>の社長となる。p.907以下。
 ・三輪寿壮は「河上丈太郎、河野密氏らとともに、日労三羽烏といわれた」英才で、「革新政治運動」に生涯を捧げ、法曹界でも「東京第二弁護士会の会長」を勤めた。知己は幅広く「高潔な人格の故に信頼関係は強く深い誠実な方」だった。p.1156。
 ・中国から帰国の敗戦後に、公私にわたり「先生にご迷惑をかけた」。
 妹(和子)は三輪寿壮が「亡くなられるまで、先生の秘書をつとめていた」。 同上。
 ・「私ども夫婦の仲人」をしていただいた。長男(寿記)の「名付け親」として「寿」の字をいただいた。p.1158。
 ・一度だけ、意にそむいた。1952年4月に岸信介を中心に<日本再建連盟>ができたとき、手伝いをせよと言われたが、断った。
 とりあえずは以上だが、他にもあるかもしれない。
 上の石原萠記著は巻末に、<月刊『自由』創刊35周年記念-石原萠記氏を励ます会>(1993年10月29日。石原69歳のとき)の代表世話人・世話人の多数の名前と「挨拶」等の言葉を掲載している。
 その諸氏名だけでも「歴史」的記録かもしれないが、その直前に、石原萠記自身の文章で、支援・協力に感謝する旨が、つぎの人々を明記して語られている。こちらの方を、ここでは紹介しておこう。上の著発行の1999年時点のことだ。三輪父子だけは冒頭に挙げた。外国人名を除く。p.1238。
 ○故人-三輪寿壮。高柳賢三、尾高朝雄、木村健康、平林たい子、蝋山政道、中村菊男、竹山道雄、藤井丙午、瓦林潔、河上丈太郎、小島利雄、江田三郎、松前重義、直井武夫、伊藤英治、木川田一隆、福沢一郎、大平善悟、福田恆存、高橋正雄、大来佐武郎、村松剛、村上健、二宮信親、松井政吉、佐野猛、瀬尾忠博。
 ○「各方面で御活躍中」-三輪正弘。平岩外四、那須翔、荒木浩、山本勝、塙章次、木野文海、内藤勲、青木勲、関嘉彦、林健太郎、松前達郎、小渕恵三、堤清二、大橋博、江副行昭、遠山景久、河上民雄、田中健五、江田五月、中嶋嶺雄、加瀬英明、堅山利文、宇佐美英信、笹森清、高木剛、野口敞也、大池文雄、元木昌彦、赤塚一、古川俊隆、里縞政彦、重光武雄、中江利忠、渕上貫之、宮崎吉政、内村昌樹、久保田司。
 ----
 安倍晋三(・同内閣)は、「社会主義」的または「社会民主主義」的もしくは「民主社会主義」的経済政策・金融政策・労働政策-<瑞穂の国の資本主義>-で「左派」からの大きな・現実政策上の非難・攻撃を回避しつつ、<改憲>姿勢をともかくも維持することで「宗教右翼」・「いわゆる保守」からの「右派」からの攻撃も封じて、長く政権を維持してきたのかもしれない。
 もともと「経済政策」の持ち合わせが何もない精神論・観念論だけの「宗教右翼」・「いわゆる保守」は、年金・社会保障・労働問題等あるいは諸種の産業にかかわる具体的な政策形成とその執行に文句を言うことが全くかほとんどできない。
 まだ立憲民主党らの方が「政策」に通じているだろうが、もともと経済政策に(たぶん)「決め手」はないので、野党がそろってこの分野で与党・安倍内閣に対峙することもできない。
 残る一つは、<改憲>か<(安倍による)改憲阻止>か、の不毛な対立
 ここでの「改憲」は自民党が現在に掲げている内容のもので、ゆえに賛成・反対は不毛だ。
 残るもう一つは、<何としても安倍支持(安倍防衛)>か<何でも安倍反対>か、の不毛な対立。これは、スキャンダル軽視・無視か、スキャンダル重視・一本か、と言ってよいかもしれない。

2089/日本文化会議編・日本は国家か(1969)。

 日本文化会議、1968年6月~1994年3月。
 この団体・組織は石原萠記が事務局にいた<日本文化フォーラム>とは別のものだ。
 つぎの著に、結成時のいきさつが書かれている。
 石原萠記・戦後日本知識人の発言軌跡(自由社、1999)。p.916~。
 設立趣意書の「草案」は村松剛が起草し、「やや厳しいものを廃して」(これは石原の語ではない)新しくまとめたのは福田恆存だった、という。p.921。
 設立準備の「常に話し合いの中心」にいたのは、福田恆存と石原萠記だった。p.921による。
 この二人以外に、ときには欠席した者もいたが、つぎのような人々が趣意書や予算について会合をもった、という。同頁。
 竹山道雄、木村健康、平林たい子、林健太郎、武藤光朗、中村菊男、村松剛、高坂正堯、若泉敬、鈴木重信、岩佐凱実、木川田一隆、藤井丙午、中山素平、鹿内信隆、今里弘記、小坂徳三郎、下村亮一。
 日本文化会議編・日本は国家か(読売新聞社、1969)。
 この書物の内容を、ほぼ目次の構成を参照して、下に紹介する。()内の所属等は、この書のp.11をそのまま記載。
 **
 1969年4月12日-13日、日本経営研究所会議室(千代田区平河町)。
 第一議題/『権力なき国家』の幻想。
  問題提起/高坂正堯(京都大学・国際政治学)。
  討論司会/江藤淳(評論家)。
  討論参加者/高坂のほか、山崎正和(評論家)、武藤光朗(中央大学・経済哲学)、三島由紀夫(作家)。
 第二議題/市民と国家。
  問題提起/田中美知太郎(京都大学・哲学)。
  討論司会/大谷恵教(早稲田大学・政治学)。
  討論参加者/田中のほか、佐伯彰一(東京大学・米文学)、林健太郎(東京大学・西洋史)。
 第三議題/国家は有用か。
  問題提起/坂本二郎(一橋大学・経済学)。
  討論司会/西義之(東京大学・独文学)。
  討論参加者/坂本のほか、加藤寛(慶応大学・経済学)、若泉敬(京都産業大学・国際政治学)。
 総合討論/日本は国家か。
  討論司会/泉靖一(東京大学・文化人類学)。
  討論参加者/以上掲記の会員たちのほか、会田雄次(京都大学・西洋史)、酒枝義旗(元早稲田大学・経済学)、鈴木重信(神奈川県教育センター顧問)、野田一夫(立教大学・経営学)、林房雄(作家)、吉田富三(癌研究所所長)。
 **
 1969年春。「大学紛争(騒擾)」の真只中だったのではないか。
 三島由紀夫が第一議題にだけ出席して発言し、その発言をめぐる「議論」も掲載されている。これまた、知的に<面白い>。
 翌1970年11月に、三島由紀夫は自決。
 さて。
 日本文化会議は、1994年に解散。
 日本会議(事務局長・椛島有三)の設立は、1997年。
 日本文化会議の設立は、1968年。
 日本青年協議会の設立は、1969年。上と関係はなかっただろう。
 日本青年協議会・機関誌は月刊『祖国と青年』
 江崎道朗は、この雑誌の編集長をしていたことがあった。
 また、江崎は、1997年~少なくとも2006年、「日本会議事務総局に勤務、政策研究を担当」。これは、2006年刊の椛島有三との共著による。
 また、この2006年刊の小著での江崎の肩書は「日本会議専任研究員」(表紙裏)。江崎道朗は近年に自ら、「国民運動」をしていた、と書いていたことがある。
 いろいろと考えさせられることがある。
 「右翼」団体が、「保守」という美名を簒奪した。
 「保守」と自称しているからには月刊正論(産経新聞社)もまず第一に<反共産主義>だろう、と誤った判断をしてしまった。これも、「言葉」・「概念」のトリックだった。

2002/石原萠記・戦後日本知識人の発言軌跡(自由社、1999)②。

 A/石原萠記・戦後日本知識人の発言軌跡(自由社、1999)。
 B/石原萠記・続・戦後日本知識人の発言軌跡(自由社、2009)。
 石原萠記、1924-2017。前者は75歳の年、後者は85歳の年の出版。
 この項①で紹介した1972年4月に東京で開催された「国際セミナー/変貌する社会と社会主義」(後援者・日本文化フォーラム(会長・高柳賢三、事務局長・石原萌記))は最終日に①「会議ステートメント」と②「各分科会の総会報告(要旨のみ)」を発表して終了した。
 これらは、いずれ、そのままこの欄に書き写して別に記録しておきたい。両者で、本文2頁余-Aのp.1129-1131。
 既述のように、この東京での会合でRichard Lownthal (独)およびGilles Martinet (仏)と行った以下の題の報告と副報告(またはコメント)が、のちにL・コワコフスキら編の著書の一部となった。
 Richard Lowenthal <独>「先進民主主義諸国での将来の社会主義」。
 Gilles Martinet.<仏>「社会主義の理論とイデオロギー」。
 L・コワコフスキ=S. Hampshire 編・社会主義思想-再評価(New York、1974)。
 Leszek Kolakowski & Stuart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(New York, 1974).
 この「東京国際セミナー」については、今回冒頭掲記のでも、つぎのように「記録」されている。B、p.285。タイトルはここでは<変貌する社会における社会主義>となっている。
 これによると、「このセミナーは、フジTVが毎夜放送したほか、NHK教育TV、各マスコミが大きく話題視した。各国メンバーは終了後、東京で歌舞伎などを観劇し、関西へ行き、大学・経済人と交流した。」
 正確な期日等は、1972年4月10日~14日、大手町・日経ホール。
 日本経済新聞社が「後援」している。
 外国からの参加者の中に、Aでは「アラン・ブロック(オクスフォード大副総長)」、Bでは「アロン・バロック(オクスフォード大総長)」と記載されている人がいる。
 この人物は、のちにつぎの書物を出版したのと同一人だろう。
 Allan Bullock〔アラン・ブロック〕=鈴木主悦訳・対比列伝/ヒトラーとスターリン(全三巻-草思社、2003/原書1993年)。
 ****
 石原萠記は、どういう人物だったのか。
 75歳の年の上のAには、第11章<生き甲斐を与えてくれた人びと-忘れ難き学者・文化人に学ぶ->と題して、外国人を含む20人以上の人との身近な交流と人物評(・感謝)をつづっている。たんに知っているとか、尊敬しているとかではない、人間的な<接触・交流>のあったことが分かる。p.1155~p.1216(以下の没年記載もこれによる)。
 対象人物は、以下のとおり。肩書き・所属等を簡単に記述することはできないし、原書でもそうしていないが、何もないと分かりづらいかもしれないので、あえて秋月が記した。
 (01)三輪寿壮(日本社会党)、~1956。
 (02)高柳賢三(英米法、成蹊大学総長、憲法調査会会長、日本文化フォーラム会長)、~1967。
 (03)平林たい子(作家)、~1972。
 (04)河上丈太郎(日本社会党右派)。
 (05)中村菊男(政治学、慶応大学、民主社会主義)。
 (06)張俊河<韓国>。
 (07)松前重義(東海大学総長、日本社会党)、~1991。
 (08)江田三郎(日本社会党右派、社会市民連合)、~1977。
 (09)竹山道雄(哲学者、「自由主義」)、~1984。
 (10)福沢一郎(画家)、~1992。
 (11)小島利雄(弁護士)。
 (12)安倍能成(哲学者、学習院総長)。小泉信三(哲学者、慶応大学)。
 (13)中谷宇吉郎(自然科学)。尾高朝雄(法学、日本文化フォーラム初回会合招聘文執筆者・同副会長予定)、~1956。
 (14)福田恆存(評論家)、~1994。村松剛(評論家)。
 (15)木川田一隆(東京電力、経済同友会)。平岩外四(経団連)。
 (16)関嘉彦(東京都立大、民社党国会議員)。
 (17)高橋正雄(日本社会党右派)、~1995。
 (18)金俊燁<韓国>。
 (19)モクタール・ルービス<インドネシア>。
 (20)ハーバート・パッシン<アメリカ、国際文化自由会議>
 (21)E・サイデンステッカー<アメリカ>
 (22)林健太郎(西洋史、東京大学総長)。
 (23)遠山景久(ラジオ日本)。
 (24)松井政吉(日本社会党右派)、~1993。
 以上。

1259/「危険な思想家」発想がなお残る今日の知的世界。

 ・前回言及の竹山道雄の文章は、朝日新聞が日本の継続性肯定の<明治100年>か敗戦による新たな<戦後20年か>という対立があるとして両側の諸論者の文章を掲載したものの一つで、前者の論者は平川祐弘によると竹山道雄・林健太郎・江藤淳・林房雄、後者のそれは野間宏・遠山繁樹・小田実・加藤周一、のそれぞれ4名だ。作家・野間宏は少なくとも戦後の一時期は日本共産党員だった者、日本史学者・遠山茂樹は日本共産党だったと推測される者、あとの後者の二人は非日本共産党「左翼」だろう。そして、平川の言に俟つまでもなく、朝日新聞は後者の立場を支持することをを少なくとも示唆した特集だったと思われる。
 ところで、平川祐弘によると、同じ1965年に山田宗睦が「危険な思想家」というタイトルのカッパ・ブックスを出していて、上の前者の4名は山田のいう「危険な思想家」だったらしい。平川によればほかに安倍能成が明記されているが、三島由紀夫や石原慎太郎もまた当然に?「危険な思想家」だったようだ。平川によると、この山田の著に朝日新聞が「飛びつい」て、上に言及の特集になったらしい。
 この論争に立ち入るつもりはないが、上の両派?のいずれの立場が日本国家と日本国民にとって本当は「危険な」ものだったかは、今日ではほとんど明らかだと思われる。
 だが、60-80年代くらいまでかなり広く<保守・反動>という言葉でレッテリ貼りされた考え方・歴史の見方を今日でもやはり「危険」と感じている者は今日でも少なくないし、憲法学界では前回に言及した某憲法学者も含めて圧倒的多数派を占めているという印象がある。
 「危険な」の反対は「安全な」だが、いわゆる<進歩>派あるいは「左翼」こそが、憲法学界では「安全な」立場・立ち位置なのだ。したがって、学界や各大学・各学部の多数派=「安全な」立場に属していることが、就職・昇格やその他の人間関係上<有利>であると感覚的に判断する者は、深く考えることなく、無自覚に「左翼」になってしまう憲法学者も出てくることになる(別に憲法分野に限りはしないが)。あるいはまた、<右・左>、<保守・左翼>のいずれかの立場を鮮明にしない方が「安全」だと感じる大学や学部にいる間は<温和しく>しているが、「左翼」性を明確にしても「安全」だと感じる大学・学部に移れば、例えば平気で「九条(2項)を考える会」に属して報告をしたり、特定秘密保護法や集団的自衛権容認に反対する声明に堂々と名を連ねたりすることになる。
 ・憲法学界を例にしての以上のことが決して的外れではないことは、月刊WiLL1月号(ワック)冒頭の座談会で、政治学の中西輝政が語っていることでも明らかだろう。<保守派>であることは大学院生がどこかの大学に就職する(採用される)ために不利だったことは指導教師だった高坂正堯の言葉を紹介しながら中西輝政がすでに述べていた(この欄でも触れた)。
 上の座談会の中で中西輝政は、「いまでも特殊な知識人の世界」では「朝日的であること」が「知的権威そのもの」だ、「朝日に対する信仰」は「いまでもテレビ界の報道関係では、NHKも含め…根強く残っていて、一般の社会と大きくズレている」と述べたりしつつ(p.37)、つぎのようにも語っている。
 「学会ではいままでずっと地雷原を歩いているようなものでした(笑)」。大学では「最も大変な時期は、校門をくぐった瞬間から一瞬たりとも警戒心を解くことができ」なかった。メディアで「靖国参拝に賛成」と言ったら「授業を暴力で潰しに来かねない状況で、教員たちも露骨に反発して私一人、全く孤立無援」だった。大学の校門を出た方が安全で、「むしろ大学に入ると『学問の自由』は保障されてい」なかった。
 学生の反応はともかくとしても、「教員仲間」から「そもそも中西さんの言動に問題がある」として「取り合ってもらえなかった」(以上、p.40)という、学部または教員たちの雰囲気に関する発言の方が重要だし、興味深い。
 もっとも、具体的にいかなる時期のどの大学(京都大学?)のことを述べているのかは明確ではない。余計ながら、中西輝政が退職した大学・学部には佐伯啓思も同僚としていたはずだ。
 上の最後の些細な点は別として、「学問の自由」といいながら、人文・社会系の大学に所属する研究者たちは、テーマ設定や研究内容について、本当に自分の頭で「自由」に考え、結論を出しているのだろうか、という疑問をあらためてもたざるをえない。それは「靖国参拝」や「慰安婦」についての彼らの意見や認識についても言える。それぞれの学界・学会の<空気>を読みながら、「黒い羊」と目されないように、多数派に属するように、あるいは「安全」であるように、取捨選択しているのではあるまいか。無意識にそのように行動させるシステムができ上がっているとすれば、もはや大学でも「学問」でも「自由な」研究者でもないだろう。ややテーマがそれたかもしれない。

0990/<保守派>論客を出自・元来の専門分野から見ると…。

 〇西尾幹二・西尾幹二のブログ論壇(総和社、2010)という本は、その構成・編集の仕方が分かりにくい。渡辺望という目慣れない人の「はじめに」が延々と27頁も続くが、この本の趣旨・成り立ち等を西尾に代わって書いているわけではない。冒頭に、いわば<西尾幹二論>があるのだ。最後の方に唐突に「ブログ管理人/長谷川真美」による西尾幹二のブログの「歴史」が語られたりする。残りは西尾幹二のブログ(インターネット日記)の内容だとは推測されるところだが、ブログ内容に対する読者または知名人の感想等が挿入されていたり、西尾自身の出版直前のコメント等が挿入されていたりするので、いつの時点の文章のなのかもすこぶる分かりにくい。

 それでも、内容自体は興味深いテーマを扱っているので、読む人は読むだろうが、それにしても読者には不親切だ。関係する文章を時系列に関係なく、本文と解説等に分けることもなくごったにしてホッチキスで止めたような感じ。こんな本も珍しい。売れるとすれば、西尾幹二の名前によるところがほとんどではないか。

 〇上の渡辺望「はじめに」は、西部邁についてこう書いている。

 「福田恆存、江藤淳、竹山道雄、林健太郎、渡部昇一」らが「保守派」の論壇に存在していたが、「保守」という言葉を「現代日本に定着させた」のは西部邁の「論壇的功績」で、西部邁の1980年代の登場以降、「保守」という言葉を多くの人が使うようになった(p.19-20)。

 この西部邁論について大きな関心はないし、論評できる能力もない。興味を惹いたのは、そこで挙げられている「保守派」の論客の<出自>あるいは<(元来の)専門分野>だ。

 西部邁は経済学(・思想・歴史)だが、上の5人のうち林健太郎は歴史学・西洋史(とくにドイツ)で、あとの4人はいずれも<文学>畑だ。正確に確認しないが、渡部昇一は英語・英文学、そして西尾幹二もまた独語・独文学(・ドイツ思想・ドイツ哲学)という具合だ。

 福田恆存は英文学科卒、竹山道雄は独文学科卒、江藤淳は文学科英米文学専攻卒。

 このような<文学畑>または<文学部出身者(この場合は「歴史学」も含まれる)>によって<保守派>の論壇が形成されてきた、ということは、日本の<保守論壇>に独特の雰囲気・発想をもたらしているようにも見える。そしてそれは、必ずしもよいものばかりではないように見える。

 経済学部出身の西部邁、佐伯啓思、法学部(但し政治学系)出身の中西輝政あたりはむしろ少数派で、上記のような<文学畑>がなおも多数を占めているのではないか。櫻井よしこはハワイ大学で「歴史」を専攻したはずで、日本の大学でいうと文学部出身になる。

 どのような独特さをもたらしているかについて多少は書きたいこともあるが、ややこしいので別の機会にしよう。いつか言及した三島由紀夫と福田恆存の対談の中にも法学部出身者と文学部英文学科出身者の違いを感じさせる部分があった。

 <保守派>とはいえない屋山太郎は政治・行政に口を出しているので法学部出身かと思っていたら、文学部出身。経済についても法制についても<ドしろうと>なわけで、信頼できないことを書いている理由の一端も理解できる。政府の審議会委員をしていて見聞きして経験したことくらいで、政治・行政を「分かって」いると思っているとすれば、とんでもない勘違いだ。この人はまだ、民主党を1年半前に支持した不明を恥じる言葉を書いていない。

 〇先日の夜と翌朝にかけて、竹田恒泰・日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか(PHP新書、2011)を全読了。2/26~27に月刊WiLL4月号(ワック)の中のいくつかをすでに読了。

0336/西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007.07)を一部読む。

 西尾幹二の上掲書の「学者とイデオロギー」以下、最後の30頁余のみを読了。
 ・2004年の執筆文だが、西洋史学者の「八割はマルクス主義史学者」だ(p.298)。日本史学者も今でも似たようなものだろう。高校での日本史必修論もあるようだが、誰が書く教科書を誰がどのように教えるかが問題だ。「マルクス主義史学者」の執筆する教科書を使うなら、必修化は却って危険。
 ・「薄められたマルクス主義」という言葉は面白い。
 ・「左翼」又は「マルクス主義者」を「怖がる学者たち」というのも合点がゆく。論理展開を厳密には(私がここでは)しないが、加藤陽子とは何者なのだろう。
 「歴史学会」だけでなく、「インテリの世界が大体」、「左翼」又は「マルクス主義者」を怖がっている(p.294)。きっとそうだろう。
 ・「左翼」又は「マルクス主義」イメージを薄めるための、石井進(故人)らは、「オトリ」だった(p.292)。なるほど。学界もマスコミ(出版社)も、いろいろ考えるものだ。
 ・林健太郎の晩年(と死)の様子が興味深い。このような人を師または知人に持ちたかったものだ。
 とりあえず。

0194/林健太郎・清水幾太郎と小泉信三・林達夫-いいろいろな生き方。

 林健太郎氏、清水幾太郎氏の本の一部を読んで感じるのは、人の「思想」の変化・遍歴だ。
 林健太郎は1913年生れ(50年に37歳)で、旧制一高時代にマルクス主義に「心酔」し、かつ講座派(日本共産党系)のそれだったが、戦後に労農派(とくに向坂逸郎)と接近して日本社会党左派の支持者になったものの、専門(西洋史学)のためか平均人よりも東欧等の共産主義や「冷戦」の実態を知ってマルクス主義から離れ、「平和問題談話会」への勧誘すら受けず、所謂「進歩的知識人」ではない保守派としてその後を生きた。
 清水幾太郎は1907年生れ(50年に43歳)でやはりマルクス主義の影響を受け、それに立つ専門(社会学)の論文を書いたが、戦前にすでにマルクス主義から離れて読売の論説委員として敗戦を迎えたのち、非マルクス主義の立場で「平和問題談話会」等を舞台とする平和運動家として活躍したが、60年安保の「敗北」のあと、これを総括・反省して、林と同じく保守派「知識人」となった。経緯は異なるが最初と最後は同様といえるのは興味深い。
 かかる変化につき、日本共産党は「転向」、「変節」、「裏切り」等の言葉を用意しており、上の両氏は違うようだが、とくに一旦入党し自らの意思で離党する者に対する罵声として使ってきた。
 だが、一般論として、10歳代後半から20歳代半ばくらいまでに形成された一個の人間の「思想」が変化しても何ら不思議ではない。固持すべきとのいかなる倫理的要請もありえない。問題は変化の内容・結果だ。
 ここで立場が分かれるのだろうが、共産主義又はマルクス主義から脱して別の考え方に至ることはむしろ当然であり、称賛されるべきで、何ら恥ずかしいことではない。離党した筆坂秀世が新潮新書を刊行したとき日本共産党・不破哲三は「ここまで落ちることができるのか」と題する批判文を書いたが、「落ちる」という表現自体に、自分たちは「高み」にいる「正しい」者たちだという傲慢さが溢れている。
 林・清水両氏に話を戻すと、清水は1948-60年の十数年「平和運動家」として一般市民・学生を誤った方向に「煽動」する文章を書き講演をした、ジャーナリスティックなアジテーターだったはずだ(同氏のこの期間に関する叙述は歯切れが悪い)。
 従って、同じく元マルクス主義シンパで後で変わったと言っても、日本の社会と歴史に対する責任は林よりも清水幾太郎の方がはるかに大きいと言うべきだ。
 戦後の際どい時期に正しく共産主義又はソ連の誤りと恐ろしさを指摘していた「知識人」もいた。例えば、小泉信三・共産主義批判の常識(初出1949)、林達夫・共産主義的人間(初出1951)だ。彼らこそは、改めて尊敬されるべきと思われる。

0135/「平和問題談話会」メンバー等の全面講和・中立・米軍駐留反対論。

 西尾幹二・わたしの昭和史2(新潮社、1998)によれば、実証的根拠・資料は定かでないものの、1949-50年頃「北朝鮮や中国の共産体制を自国のモデルと看做し、讃美してやまない人が知識人の8、9割を占め、国民の過半数に近かった」(p.139)。
 かかる雰囲気の中で、1948年12月に全面講和・中立・軍事基地反対等を主張・提唱する「知識人」たちの「平和問題談話会」も結成された(結成年月は、林健太郎・昭和史と私(文春文庫、2002)p.208による)。
 歴史的に見て当時のこれらの論が誤っており、実際に採られた「単独講和・米国との同盟」論等が適切だったことは明らかだ。全面講和論等の流れは60年安保改定をめぐる国論の分裂の一方を形成することにもなった。全員が本当に親共産主義だったかは別として、「平和問題談話会」の主張の錯誤は明白で、これに参加した「知識人」の責任は「60年安保闘争」への影響も含めてきわめて大きい。
 但し、メンバーの正式な氏名がはっきりしない。西尾・上掲書によれば、35人のうちまずは、安倍能成有沢広巳大内兵衛川島武宜久野収武田清子田中耕太郎都留重人鶴見和子中野好夫羽仁五郎丸山眞男宮原誠一蝋山政道和辻哲郎の15人が判る(p.184-5)。
 さらに同書には、鵜飼信成桑原武夫南博宮城音弥杉捷夫清水幾太郎辻清明奈良本辰也野田又夫松田道雄矢内原忠雄、の11人が記されている(p.253)。
 大学の仕事が忙しくてこの会には参加しなかったようだが、立花隆が尊敬する、だが吉田茂は当時「曲学阿世」と批判した南原繁も、全面講和・中立・反基地論者だった。
 こうした「知識人」は、しかし、なぜ当時全面講和論などを主張したのか。これは十分に研究の対象・課題になりうる。
 西尾幹二少年は新制中学3年だった1950年8月1日の日記にこう書いた―「わが国としては一日も早く講和を結び、独立国になったうえで、はっきりした態度をとるべきだ。それなのになお、全面講和説を唱えているものがある。これは講和はいつまでもしなくてよいと言っている様なものだ」(p.233-4)。
 上記談話会発足後の1950年07月に朝鮮戦争が勃発したのだが、直後に発行の文藝春秋8月号で加瀬俊一はこう書いていたという。
 共産勢力を阻止できるのは実力のみで自由主義諸国の結束以外に平和維持の方法はなく英国労働党も中立政策を危険視している、この期に及んで全面講和を論議するのは「時間の浪費に過ぎない。…南朝鮮が共産軍の侵入によって動乱の巷と化している…この危機に当って、なお空論に拘泥する余裕はない」、全面講和論は「放火によって大火災が起こりつつある時、全市の消防車が集まるまでは消火してはならぬというようなもの」だ(p.225)。
 この朝鮮戦争開始までに1946.03にチャーチルの「鉄のカーテン」演説、1948.06にスターリンによる「ベルリン封鎖」、1949.04にNATO調印、1949.05と同年10月に西独・東独の成立、1949.10に中華人民共和国成立、50.02に中ソ友好同盟条約調等、すでに東西「冷戦」は始まっていた。
 国連軍(米軍)が参戦しても50.08.18には韓国政府は釜山まで後退したが、日本国民は、とりわけ上記の如き「知識人」たちは、日本も共産主義勢力(北朝鮮軍)によって占拠・占領される危険を全く感じなかったのだろうか。上の加瀬の指摘は完璧に適切だ。
 海を隔てた隣国で東西の「代理」戦争=殺戮し合い・国土の破壊し合いが継続していたときに「全面講和・中立」等と主張するのは、15歳の西尾幹二少年が感じていたように、永遠に講和条約を締結しない、つまりは独立=主権回復をしないという主張に等しく、また客観的には東側(ソ連・中国・北朝鮮等)を利するものだったことは明瞭のように見える。
 「知識人の8、9割」の中には本気で韓国・米軍の敗北=北朝鮮・中国軍の勝利と日本の社会主義国化を望んだ者もいたかもしれない(当時の共産党員やそのシンパならこの可能性は高い)。また、どの程度「本気」だったかは別として、多くの「知識人」が漠然とした「社会主義幻想」に支配されていたようにも思える。そしてまた、朝鮮戦争の現実や日本が攻撃・侵略される現実的危険を直視せず、又は直視できず、かつ北朝鮮・中国等を「平和主義」の国と錯覚しつつ、すでに施行されていた新憲法の「平和主義」の理念・理想に依って口先だけで唱えた者もいたかもしれない。いずれにせよ、当時の多くの「知識人」たちの感受性・思考方法は理解が困難だ。
 毛沢東や金日成の政権奪取の経緯もスターリンの「粛清」も知らず、フルシチョフによるスターリン批判や「ハンガリー動乱」は後年のことだったとすれば、ある程度はやむをえなかったのかもしれない。
 しかし、それにしても「一級の知識人」のはずの者たちが、少なくとも今から見れば空想的・観念的と断言しうる主張をしていたのは不思議だ。
 一口でいうと「社会主義幻想」ということになるかもしれないが、その根源・背景を更に突き詰めると、一つは、戦前からの日本共産党等のマルクス主義理論影響だろう。
 いま一つは、皮肉にも日本占領期の<当初に>GHQがとった、読売用語にいう「昭和戦争」中の日本(政治家・軍)は全面的に悪かった・誤っていたという日本人の「洗脳」教育政策と社会主義・共産主義的傾向を危険視しなかった政策だろう、と思われる。
 1949-51年頃、客観的には日本は危険な状況にあった。「大袈裟にいえば歴史の命運がかかっていた」(西尾・前掲書p.252)。単独(正確には「多数」)講和の選択は適切であり、新憲法により「戦力」保持が禁止されていたとあっては米軍の駐留(安保条約)もやむを得なかった。逆の主張をした「知識人」たちは、南原繁も含めて、本当は「知性」が全く欠けていた、と思われる。
 林健太郎・昭和史と私(文春文庫、2002)によって、「平和問題談話会」のメンバーとしてさらに、高木八尺田中美知太郎、の2名が判る(p.208)。
 また、この「談話会」の全員が単独(多数)講和に反対したわけではなく、最初の参加者のうち和辻哲郎蝋山政道田中美知太郎は賛成した、という(p.220)。
 それにしてもこの会への参加者を中心とする「知識人」たちの影響力は大きく、社会党や総評の活動を理論的にも支えたようだが、林によればこの会の発足と「全面講和」等の政治運動への傾斜には清水幾太郎が中心的に働き、かつ安倍能成都留重人という専門・個性の異なる2人が協力したことが大きかった、という(p.215、p.218-9)。
 上で「知識人」の多くが全面講和・中立・反基地論を支持した背景らしきものを2点記したが、林の上の本を読むと、第三に、社会主義国、とりわけソ連による日本人に対する積極的な「反米」・「親ソ連(親社会主義)」工作があったことも挙げてよいようだ。
 かりに日本に「革命」が起こらなくとも、「反米」・「親ソ連」勢力が有力に存在することはソ連の安全・安泰にもつながることだった。1950.01のコミンフォルムによる野坂参三批判等によってスターリンのソ連共産党と日本共産党の関係は良好でなく、むしろ社会党員や同党関係知識人の中にはソ連による何らかの「工作」(と客観的にはいえるもの)を受けた者もいるのではないか。別の本で、後に委員長となった某社会党有力国会議員は「エージェント」だった旨を読んだ(信憑性不確実なのでここではその名は書かないが)。
 全面講和・中立・反基地論の背景の第四としてあえて挙げることはしないでおくが、林健太郎の上の本p.222は「アメリカが日本弱体化のために課した憲法が独特の観念的平和主義を生」んだことにも言及している。そして、安倍能成は「共産党嫌い」だったが「日本がいったん非武装を宣した以上それを破るのは罪悪だという観念論の頑固な信奉者でもあった」とも書く(p.218-9)。
 東欧や中国の行方が明確でないままソ連も含めて「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」するとの1947年施行の日本国憲法前文の「理想」は、すでに日本人の精神の中にかなり浸透していたのだ。
 また、林は、日本共産党とは異なる労農派マルクス主義(・日本社会党左派)も存在したため、反政府運動は容易に反米=親ソ運動となり、日本の与野党対立を「容易にイデオロギー闘争に転化させる独特の政治風土」を作り出した、という。
 この指摘は、その後長年にわたる自・社対決が(後年の社会党がどの程度本気で社会主義国化を目指したかは疑わしく、個人的には「労働貴族」・国会議員になることを最終の「出世」と考える如き姿勢に近かったとも思えるが、タテマエとしては)不毛なイデオロギー対立となって与野党の現実的・建設的な議論・対立にならなかった原因に関するものとして首肯できる。
 日本政治の不幸は、英国やドイツと違い(社・共のいずれであれ)マルクス主義・共産主義の影響を受けた勢力が強力に残存したことだった。だからこそ、与党=自民党が西欧なら社会民主主義政党が主張するような政策をも実施したのだ、と考えられる。
 清水幾太郎の名が出てきたとあっては、同・わが人生の断片・下(文春文庫、1985、初出1975)の講和条約あたりに目に通さざるをえない。
 同書によれば、「平和問題談話会」の母体となったのは1948.07のユネスコ本部による8名の社会科学者の声明の影響をうけてできた「ユネスコの会」で、この会のメンバーのおそらく全員の名が記載されている(p.87-88)。が、その数は50人で、「談話会」の35人より多い。
 既述の他に渡辺慧が明確に後者のメンバーだったことが判るが(p.101。これで計29人)、尾高朝男阿部知二のほか(p.108参照)、1950年の09.16夜に「丸山眞男、鵜飼信成の両君と…京都へ出発」し翌09.17に「恒藤恭、末川博の両長老に会って…依頼し」とあることからすると(p.113)、恒藤恭末川博も加えてよいだろう。とすると、これで計33名になる(もっとも、既述のとおり、メンバーの中には「単独講和」に賛成した者もいた)。
 要を得ない文章だが、こうした今でも結構著名な人々がかつて全面講和・中立論を説いた(そして多くが60年安保改定に反対したと見られる)。この人たちの「教え」を受けた弟子・孫弟子たちが現在も多数、諸「学界」にいることを忘れてはなるまい。

 【↓ブログ・ランキング、応援して下さい。下の2つをクリックお願いいたします!】。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー