秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

松竹伸幸

2705/池田信夫のブログ033—日本共産党・松竹伸幸②。

 池田信夫ブログマガジン2024年1月22日号から。同じ一節から、さらに感想等を記す。
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  池田はこう書く。
 「私は上田耕一郎とは一度、話したことがあるが、宮本のスターリニズムとはまったく違う気さくな人だった」。
 上耕と話したことがある、ということが書きたかったことかもしれない。しかし、一度話したくらいで、ある一人の日本共産党員が「スターリニズム」でない「気さく」な人だったと論定することは不可能だろう。たしかに、上田耕一郎が相対的に「自由に」語っていた印象は、私にもある。
 しかし、共産党員というものは、非党員・「大衆」に対して<演技>を平気でするものだと思う。直接には気さくに、愛想よく接しながら、党員たちだけの内輪の会合では、その非党員について辛辣な批評をし、ときには罵倒するくらいのことを平気でしているかもしれない。共産党員というのは、真面目であればあるほど、「内」と「外」を使い分ける、ある意味では<スパイ>のような二重人格者ではないか。
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  松竹伸幸は、近年では日本共産党中央とは一致していないらしき主張をしていたから、とっくに党員でなくなっていた、と私は何となく推測していた。だから、最近までまだ党員だったと知って驚いた。
 しかも、党中央による「除名」決定を不服として「再審査請求」とやらをしているらしい。
 ということは、自分の除名は不当だ、自分をまだ日本共産党員のままでいさせろ、と主張していることになるだろう。
 松竹さん、そんなに「日本共産党員」でいたいのかね
 批判しているような党中央をもつ政党など、喜んで辞めてやる、ということにならないのか、不思議でしようがない
 松竹伸幸の近年の行動は、<最後に一花咲かしたい>という程度のものでないか。その影響を受けて、朝日新聞社説が松竹への実質的支持と日本共産党への注文を書いたというのだから(私は読んでいない)、茶番劇であっても、ある程度の波風を立てるものだ(池田信夫までもが取り上げた)。 
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 ネット情報等によると、松竹伸幸は2000年の第22党大会前後に日本共産党中央委員会職員として政策委員会外交部長(2004年)等の要職にあり、2001年7月には参議院議員選挙に日本共産党の候補として立候補した(落選)。そして、2005-6年までは、中央委員会の事務局職員だったらしい。
 ということは、おそらく間違いなく、この人物は2000年の志位和夫・幹部会委員長による指導体制の発足を少なくとも容認し、その中で少なくとも5年程度は生活してきた
 にもかかわらず、種々のことがあったのだろうが、その後の彼の活動を党中央が問題視し始めるや、志位和夫の党内出自や経歴を批判し始めたのだとすれば、その心情は決して高潔なものではない(委員長公選制の主張など、この党にとっては奇抜な論点だ)。秋月は松竹伸幸という人物をほとんど「信用」していない。
 なお、松竹伸幸がまだ正統な?党員だった時代に出版した書物に、以下がある。いずれも、志位和夫・幹部会委員長の時期に出版されている。
 松竹伸幸・ルールある経済社会へ(新日本出版社、2004)
 松竹伸幸・レーニン最後の模索—社会主義と市場経済(大月書店、2009。これは、レーニンの1921年のネップ政策を擁護・称讃するもので、日本共産党・不破哲三の<市場経済を通じて社会主義へ>論に沿うものだった)。
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  池田信夫の叙述に戻ると、その小論の表題(「共産党が選ぶことのできた『もう一つの道』」にすらしているが、池田は、日本共産党が取り得た「もう一つの」可能性として、「党内闘争で上田兄弟が勝っていたら『社公民』に近い立場になり、野党を大同団結させて政権をになう社民勢力ができたかもしれない」と考えているようだ。
 しかし、池田の言う「今さら言ってもしょうがないないが」という以上に、そんな可能性がわずかにでもあっただろうか。
 日本共産党はコミンテルン日本支部として出発した、そのかぎりで「社民」主義と決別して発足した政党だ。それを維持して、日本社会党は、ある時は是々非々であっても、異質で対抗する政党だと自己認識してきた。
 したがって、「上田兄弟」路線の勝利→「社民」勢力の大同団結のためには、以下が必要だっただろう。すなわち、戦後すみやかに、または遅くとも1961年党大会=宮本体制発足までに、それまでの、「マルクス=レーニン主義」に立つ日本共産党と(かりに名前だけは維持するとしても)実質的に異なる政党になったと宣言しておくこと。
 宮本顕治には、過去の自分史からして、そんなことはできなかった。そしてまた、1970年に宮本委員長のもとで書記局長になり、1982年に宮本議長のもとで委員長となった不破哲三も、そんな可能性を(本心では)想定していた、とは思えない。不破は、宮本顕治によってこそ選抜されたのだ。
 「社民」主義への転換の最も良い機会は、1991年末のソヴィエト連邦解体だったかもしれない。欧州の「共産党」は雪崩を打ったようにソ連解体に対応し、大雑把に言うが、解党するか、「レーニン主義」政党ではなくなった。
 しかし、日本共産党は、<ソ連は社会主義国家ではなかった>と再定義して、その基本的立場を変えなかった。宮本顕治の力の弱化からしても、「社民」主義への転換の絶好のチャンスだったかもしれないが、1994年党大会までに実権をほぼ握ったかに見える不破哲三は、その「道」を選ばなかった。
 「上田兄弟」の(本音での)主義・路線なるものは、幻想であるか、または彼らの自己批判までにかぎって存在したもののように見える。
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  日本共産党が<社民主義>政党に転換または変質する可能性は、かなり読まれたらしいつぎの書物でも論及され、かつその可能性が肯定(または推奨)されているようだ。論評・感想を予定しつつ、まだこの欄でこの点に触れていない。
 中北浩爾・日本共産党(中公新書、2022)
 その可能性は、ないだろう。そのためには、1922年以降の全ての党の歴史を否定し、当然ながら「科学的社会主義」のもとで「社会主義・共産主義」の社会を目ざす、とする現在の党綱領を廃棄しなければならない。
 そんなことをこの党はできない。そして、ずるずると弱体化・劣化していく道を歩んでいくだろう。当然ながら、レーニンが1902年の「何をなすべきか」が示した<前衛>党組織・意識、1921年ロシア党大会で導入した<分派禁止>原則を、日本共産党が今になって、根本的なところで否定できるはずはない。
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2704/池田信夫のブログ032—日本共産党・松竹伸幸。

  池田信夫が「左翼」として批判的に論及してきたのは圧倒的に、のちの国民民主党と分岐した立憲民主党だった。日本共産党にはほとんど言及してこなかったように見える。
 その池田が珍しく共産党に言及している。
 池田信夫ブログマガジン2024年1月22日号—「共産党が選ぶことのできた『もう一つの道』」
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 田村智子の「スターリン的」体質うんぬんはさて措く。「レーニン主義」の共産党・組織原理をこの党が維持していることは間違いないだろう。
 池田信夫のこの小文章に触れたくなったのは、つぎによる。
 松竹伸行の書物に影響を受けつつ書いたようでもある(戦後・宮本顕治以降の)日本共産党の、とくに指導部・幹部の「歴史」のイメージは、私のそれとは相当に異なる。
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  松竹伸幸の最近の話題の?書物は、私は読む気がない。
 だから、池田の文章を読んでの推測になるが、松竹伸幸は自らと直接に対峙した日本共産党の最高幹部だった志位和夫に焦点を当てて、同党幹部批判をしているのではないだろうか。
 池田自身の文章たる性格がどの程度あるのか分からない。但し、こんなことが書かれている。
 <宮本顕治は権力を手放さなかった。
 宮本が議長退任後に上田兄弟(不破哲三・上田耕一郎)は党内人事で「リベラル派」を起用しようとしたが、宮本は「阻止し」、「東大細胞の新左翼勢力を追放した志位(和夫)を35歳で書記局長に抜擢した」。
 「志位はスターリンに対するベリアのような役割を果たして党内の反宮本派を粛清し、その功績で2000年に46歳で委員長になり、不破は議長に退いた。
 この人事も宮本が主導した」。
 上田兄弟の路線は最終的に挫折した。>
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  秋月は熱心な日本共産党ウォッチャーでないし、共産党(に関する)評論家ではない。
 しかし、上の叙述は「上田兄弟の路線」なるものを重視しすぎているだろう。
 決定的には、不破哲三の位置づけが小さすぎる、という印象が強い。
 私のイメージでは、1991年12月末のソ連解体から1994年7月の党第20 回大会までのあいだに、「ソ連」の見方に関する激しい論議とともに、宮本と不破の間での激烈な対立があった。
 そして、「ソ連」は社会主義国家でなかったと新しく定義されるとともに、党内人事でも、不破哲三が宮本に対して最終的にも勝利した。
 少しく、年表的に追ってみよう。
 1994年党大会のとき、宮本は満85歳。不破哲三は、満64歳。
 1990年の第19回党大会の時点で、不破哲三は幹部会委員長。宮本は、中央委員会議長。なお、この大会後、志位和夫が書記局長になった。
 宮本顕治は1994年党大会後も中央委員会議長だったが、1997年の第21回党大会で退き、なお維持した「名誉議長」職も2000年の第22回党大会で失った。
 この2000年、不破哲三が中央委員会議長となり、幹部会委員長に志位和夫が選ばれた。
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 松竹伸幸の影響を受けてか、池田信夫は、1990年に志位和夫を書記局長に「抜擢」したのは宮本であり、その後実力をつけて、不破哲三とは無関係に?、2000年の志位・委員長と不破・議長への就任があった、と叙述しているようだ。
 志位の書記局長職には幹部会委員長だった不破の同意・了解が少なくともあっただろう。
 また、不破70歳、宮本92歳、志位46歳のときの不破から志位への幹部会委員長職の委譲?は、もはや宮本はほとんど関係なく、不破の判断または二人の合意でもって行われたように推測される
 志位和夫が委員長になるまでは、不破が委員長だった。そして、委員長交代後も不破哲三が党内に影響を持ち続けたことは、不破はその後も中央委員会委員であることはもちろん、幹部会かつ常任幹部会の委員の一人だったことでも明らかだろう(党の社会科学研究所所長という要職?にもあった)。
 秋月は志位に対して凡庸だという印象しかもっていなかったので、幹部会の中でずっと不破哲三が「にらみ」を効かしている、と感じていたものだ。
 以上からして、宮本が「東大細胞の新左翼勢力を追放した志位(和夫)を35歳で書記局長に抜擢した」、志位は「党内の反宮本派を粛清し、その功績で2000年に46歳で委員長になり、不破は議長に退いた。この人事も宮本が主導した」という叙述は、かなり奇妙だ。
 1994年以降、宮本顕治にいかほどの「実権」があったのだろうか。この時期にそもそも、「反宮本派」はいかほどいたのだろうか。宮本に<人事を主導する>力があったのか。
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  ひょっとすると、松竹伸幸は、<志位和夫憎し>のあまり、「党史」を正しく叙述していない、あるいは正しく記憶していない、のではないか。
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2630/日本共産党と4月統一地方選挙・松竹伸幸。

  日本共産党中央委員会常任幹部会は、2023年4月10日に声明を発して、同年4月の統一地方選挙の前半戦の同党の選挙結果について、こう明言した。
 道府県議選では「前回選挙で獲得した99議席から22議席を後退させる結果となりました」。また、新たに4県が「議席空白となりました」。
 政令市議選では、「前回選挙で獲得した115議席から22議席を後退させる結果となりました」。
 同じく日本共産党中央委員会常任幹部会は、2023年4月24日に声明を発して、後半戦の同党の選挙結果について、こう明言した。
 「4年前の選挙と比べると、東京区議選挙で13議席減、一般市議選挙で55議席減、町村議選挙で23議席減となり、合計91議席の後退となりました。議席占有率は前回の8.08%から7.28%に後退しました」。
 明らかであるのは、そのスピードの緩急は別として、地方レベルでも見られる、日本共産党の力の衰退傾向だ。 
 すでに明らかにされているように。党員数、機関紙購読者数も顕著な減少傾向を示している。この傾向は緩やかであれ、今後一貫して続くだろう。
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  「日本共産党の65年」、「日本共産党の70年」、「日本共産党の80年」を同党中央委員会名義で出版してきた日本共産党だから、間隔が空いてもさすがに2022年には「日本共産党の100年」を出版するのだろう、「最長の歴史もつ政党」を誇るのだろうと予想していたが、ついに発行されなかった(2023年4月末現在)。
 全体として、活動能力が落ちていることは間違いない。100年史を執筆することのできる人材が枯渇しているのだろうか。あるいは、党の100年の歴史の「総括」的叙述をし始めると、基本的部分ですら中央委員会または同常任幹部会内部で「理論闘争」が起きて、収拾がつかなくなるのだろうか。
 ともあれ、1970年代に日本共産党とその基本「思想」に共感し、同党の描く将来を夢見て入党し、2020年代に70歳前後になり、人生の「晩年」を迎えて、約50年間の<日本共産党員>たる地位を放棄すると決断したらしき松竹伸幸(1955年生、2023年「除名」)も含めて、一度きりの人生の20歳代から70歳前後まで、つまり人生の活動期間のほとんどを<日本共産党員>として過ごしてきた者たちの現在の心情を想像すると、憐憫の情に耐えない。じつに気の毒だ。そのような人々の人生は、一回かぎりの人生は、いったい何だったのか。
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  松竹伸幸がまだ共産党員だったとは知らなかったが、この人の近時の主張の内容、朝日新聞社説等による擁護論の内容等に興味はない。つぎのようにだけ付言する。
 <分派の禁止>、党中央と異なる見解の「党外」での公表の禁止は、1921年3月のロシア共産党10回大会で明確に採用され、世界の各「共産党」も採用した共産主義政党の根本的な組織原理であり、「体質」だ。これが変更されることは「共産党」と謳うかぎり、あり得ない(だからこそ、レーニン主義的組織原理を維持する「共産党」は今や世界にきわめて希少な存在になっている)。
 松竹伸幸は自分の言動がどのような結果をもたらすかを、かつての日本共産党中央委員会要職者という経歴からしても、熟知していたはずだ。
 最後に<華々しく散ろう>と考えたのかもしれないが、「茶番劇」にすぎないだろう。見解・政策方向の違いに原因があるのではなく、要するに、<日本共産党には未来がない>と、人生の最終盤に入ってようやく明確に悟った、というだけのことではないか。
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1862/松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済-(大月書店、2009)。

 「日本共産党の大ウソ・大ペテン」の連載?にそろそろ区切りを付けて終わっておかなければならない。
 大ウソ・大ペテンとして取り上げてきたのは、大きく、つぎの二つだった。
 第一。1994年党大会の直前まで、ソ連は「社会主義」国家だった(「現存」社会主義国という言い方もあった)と党の文献上も語ってきたにもかかわらず、さらには中国共産党がソ連を「社会帝国主義」国家だとして社会主義陣営ではないと主張していたときにいや「社会主義」国家で、ソ連を含む<社会主義の復元力>を信じる、等と主張していたにもかかわらず、1991年夏にソ連共産党が消滅し、同年1991年12月にソ連が解体したことについて、1994年党大会以降は、日本共産党は、ソ連はスターリンによって社会主義への途から踏み外した(ソ連はそれ以降社会主義国ではなかった)、そうしたソ連の大国主義・覇権主義、スターリン等と日本共産党は「正しく」闘ってきた、とのうのうと主張するという、大ウソ・大ペテン。
 第二。レーニンはネップ政策導入の時期に、<市場経済を通じて社会主義へ>という「普遍的」路線を明らかなものとして確立した(それをスターリンが継承しないで転落した)、という大ウソ・大ペテン。
 この第二について、不破哲三が画期的なものとして取り上げるレーニンの論文では、上のことは全く明らかではない、読み方がおかしいのではないか、というのが秋月に最後に残されている記述だ。
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 その前に、つぎの書物に言及する。日本共産党の幹部以外では、-レーニン幻想をなお抱き、レーニンとスターリンを切り離してレーニンだけは擁護しようとする論者は多いが-ネップ期における<市場経済を通じて社会主義へ>の路線確立なるものを評価し擁護しているとみられる、稀有の文献だ。
 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済-(大月書店、2009)。
 幹部というほどではない時期のもののようだが、この人物はかつて日本共産党(中央委員会?)政策委員会の長(・責任者)だったことをのちに知った。
 この本の「あとがき」はなかなか面白いので、紹介したくなって、今回の投稿になった。一行ごとにここでは改行する。
 社会主義について種々の否定的な要素が指摘されるが、としつつ、松竹はこう記す。
 「けれども、社会主義というものは、ほんらい、ソ連や中国などとは違うのではないかという思いは、〔1970年代の半ば以降〕少なくない若者が共通して感じていた。
 マルクスやエンゲルスが語る社会主義とは、『自由の王国』であり、国家権力は『死滅する』過程にあり、そこでは人びとはそれなりに充足し、余暇を楽しんでいるはずだったのだから」。//
 レーニンについても「行き過ぎや誤りはあっただろうが、社会主義らしさを感じさせる成果を挙げたことは、率直に評価すべきだと感じてきた」。
 例えば、第一次大戦からの離脱、周辺諸国の領土返還、労働時間等の規制。
 「だから、いつか社会主義が輝きを取り戻す時代が来るのではないか、いやそうしなければならないと、私は心から思ってきたのである。それはいまも変わらない」。
 「それまで社会主義の立場にたっていた研究者の動向」は残念だ。
 「いまこそ、研究者は、社会主義の可能性を大胆に提示すべき時ではないのだろうか」。
 この本では「素人なりに取り組んだ」。/「社会主義の再生を心から願う」。
 以上、紹介・要約。
 2009年に、1955年生まれの54歳になる人物が、このようなことを書いていた。
 なかなか興味深く、面白いだろう。
 いったん社会主義(・共産主義)の虜になった、または<囚われてしまった>者の発想というのは、社会主義(・共産主義)をめぐる現実も理論動向も、もはや冷静には見ることができなくなるのだろう。
 何と言っても、「マルクスやエンゲルスが語る社会主義とは、『自由の王国』であり、国家権力は『死滅する』過程にあり、…そこでは人びとはそれなりに充足し、……はずだったのだから」とか、「社会主義というものは、ほんらい、…」とかのように、「はずだ」、「ほんらいは」とかを持ち出すと何とでも言えるだろう。
 「本来」、こうなる「はずだ」というのは、いったいどういう意識なのだろうか。何ゆえにそんな規範論あるいは理念論が「現実に」なるという信念を持ち得るのだろうか、不思議だ。社会主義(・共産主義)というユートピアの到来を信じる強い「思い込み」があるのだろう。
 松竹伸幸、現在は、かもがわ書房の編集責任らしい。「文学部」出身ではなかった。

1652/松竹伸幸-2004年・日本共産党政策委員会外交部長。

 一昨日(7/15)夕方に、つぎの著に言及した。
 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済(大月書店、2009)。
 見慣れない人物名だったので、推測もしたが、間違っていた点があった。
 松竹には、以下の本もある。
 松竹伸幸・ルールある経済社会へ(新日本出版社、2004)。
 そして、この書での松竹伸幸の「肩書」は、日本共産党中央委員会政策委員会外交部長。この時点で、「外交政策」の党内部での責任者のようで、専従の立派な幹部職員だ。
 もちろん、党員だとの推測は誤っていない。
 但し、松竹伸幸は現在、かもがわ書房(京都市)の編集長だと分かった。党の専従幹部職員ではなくなっている。党籍があるかどうかは不明。
 しかし、この出版社の名前からして「左翼」系だとは分かる。
 ともあれ、党籍があるかどうかとは関係がなく(共産党専従職員に年齢による定年制のようなものがあるかどうかは知らない)、レーニンが「市場経済を通じて社会主義へ」という途を示したなどと書いている者は不破哲三ら幹部しかいないので、いずれにせよ、日本共産党員またはほとんどそれに近いことは明白だ。
 何しろ、ロシア革命・レーニンを擁護しているとみられる溪内謙(ロシア史)や藤田勇(社会主義法)といった学者・研究者ですら、レーニンによる「市場経済を通じて社会主義へ」の明確化などとは書いていない。
 溪内謙・上からの革命-スターリン主義の源流(岩波書店、2004)。
 藤田勇編・権威的秩序と国家(東京大学出版会、1987)。
 そうした中で、レーニンのもの以外の細かい文献を示すことなく、基本的に日本共産党の中央、つまり不破哲三や志位和夫と同じ趣旨の本を出す「気概」・「根性」があるのだから、形式的な組織帰属の有無は実質的には関係がないだろう。但し、不破哲三らが書いていないことも書くという「自由」は一定範囲内でもっているようだ。
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 松竹伸幸・ルールある経済社会へ(新日本出版社、2004)。
 この本が最初の方で述べていることには、疑問がある。
 この書物は1961年以降の日本共産党の基本方針を大賛美しているが(党員で、それを明らかにした本を書くのだから当然だろう)、その「民主主義革命」先行論の理解は、かなり怪しい。幹部職員でもこの程度かと思わせるところがある。以下、これに触れる。
 「民主連合政府」による大企業に対する「民主的規制」という2004年党綱領の立場に立つ。p.12。「民主」、「民主的」、「民主主義」がいっぱい出てくるので、独特の用語法に慣れないと日本共産党関係文献は読めない。
 さて、この著が言うには、1960年代初めに党が「社会主義をかかげるのではなく民主主義革命を打ち出した」という「先駆性、勇気」に「驚きを禁じ得ない」。p.22。
 こんなことを書かれて、「驚きを禁じ得ない」。
 なるほど、つい最近にフランスやイタリアの共産党に言及したのだったが、それらは「ユーロ・コミュニズム」とか称して議会制度重視ではあったものの、すでにブルジョア革命=市民革命は終わっているとして、つぎの「革命」は社会主義革命だと考えていただろうことを容易に推定できる。輝かしい「フランス革命」はとっくに18世紀後半に完了していたのだ。
 これらに対して、日本共産党は先ずは「民主主義革命」を選択するという「先駆性、勇気」があったと、松竹は書く。
 バカではないか。
 1961年綱領を作り上げるまでの宮本顕治や不破哲三が<偉かった>のではない。
 もともと日本共産党の歴史観は<講座派マルクス主義>と言われたもので、明治維新を<絶対主義天皇制国家>への画期と捉えていたから、ブルジョア革命=市民革命=「民主主義革命」はまだ完遂されていないのだ。
 労農派マルクス主義の立場にたてば、つぎの目標は「社会主義革命」なのかもしれない。
 しかし、日本共産党の発生史的・歴史的沿革からして、先ずは民主主義>革命という路線を選択せざるを得ない。これは1960年頃の日本共産党の幹部たちの判断を超えたものだ(宮本顕治の獄中~年を完全無視しないかぎりは)。
 杉原泰雄(一橋大学・憲法)のように戦後改革を<外見的市民革命>と理解すれば、つぎの革命は<社会主義的>なそれになるだろう。
 しかし、日本共産党は、そのような性格づけを戦後改革についてしていない。
 戦前・戦中にコミンテルン等から送られた<テーゼ>類には触れない。そして私の推論で書くのだが、コミンテルンとその支部・日本共産党は日本天皇制をロシア・ツァーリ体制と類似のものと見て、ロシアでの二月・十月の「革命」のようなものを日本で連続させることを意図していた。
 もともと二月・十月というのは間隔が短かすぎて、その間に<下部構造>がいったいどれだけ変質したのか?と素朴には思うが、ロシアでの<成功>体験からして、日本でも、A・パルヴゥス→L・トロツキーの「永続革命論」と同じではなくとも、<天皇制打倒>と<私有財産否定>の民主主義的変革と社会主義的変革とを連続して一気に遂行しようというのが、日本共産党の根本戦略だったのではないかと推論している(いずれきちんと資料を読みたい)。
 そうではなくとも(<一気に>ではなくとも)、明治維新が<ブルジョア(市民・民主主義)革命>でないかぎりは、そしてマルクスの社会発展史観に教条的に従えば、つぎは「民主主義革命」にならざるを得ない。
 1961年綱領が<先ずは民主主義>の旨を書いているのは、それだけのことだ。
 これに「先駆性、勇気」を見出すというのは、よほど宮本顕治・不破哲三を<崇拝>するものだろう。
 とはいえ、これは2004年の著。その後にほんの少しは変化したのかについては、松竹伸幸の著をもっと読む必要がある。

1648/松竹伸幸・レーニン最後の模索(2009)。

 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済(大月書店、2009)。
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 あらためて、日本共産党の現在の綱領(2004年1月17日/第23回党大会で改定)から。
 ①「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、一九一七年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。」
 ②「最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。」
 ③「今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、…となろうとしていることである。」
 ④「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。」
 ロシア革命とレーニンを肯定的に評価し、かつ「市場経済を通じて社会主義へ」という基本方針を掲げていることが明らかだ。
 かつ、ここでの「市場経済を通じて社会主義へ」という路線は、不破哲三、志位和夫によると、レーニンが、1921年3月党大会における「ネップ」導入決定後、1921年10月の「モスクワ県党会議」での報告で、「社会主義建設の大方向を打ち立てた」のものとして明確にした、という。関係する文献には、この欄で何度か触れた。
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 1991年のソ連解体後もまた、ロシア革命・「社会主義」やレーニンの意味を決して否定しておらず、(スターリン以降はともあれ)これらを明確に擁護する学者・研究者もいる。すでに記した。
 溪内謙、藤田勇、笹倉秀夫
 しかし、レーニンによる「ネップ」期での<市場経済を通じて社会主義へ>という路線の明確化(「社会主義」建設の一般論としても)、という把握を明確に述べている文献は、日本では、ほとんど日本共産党の幹部ものに限られる。
 不破哲三、志位和夫、聴濤弘。
 外国(欧米)文献で、こんなバカなことを記しているのは、見たことがない。
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 日本ではほかに、「松竹伸幸」(「1955-、日本平和学会員」とされる)のつぎの文献が、不破哲三らの上の考え方を支持する。
 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済(大月書店、2009)。
 この問題をきちんと論じようとすれば、相当に関係文献を読んで検討しなければならないはずだ。
 しかし、2009年刊行の本でありながら、そのような形跡はない。注記はない。参考文献の一覧・後掲もない(統計資料についてだけ、なぜかある)。
 本文中に表に出てきているのは、レーニン全集からのレーニンの文章と、E・H・カー等のおそらくは10に満たない、この人物の主張の障害にならない文献だけだ。
 そもそもが、ロシア10月「革命」の「革命」性、あるいは、資本主義からの離脱という「社会主義革命」性自体を否定する文献が(日本も含めて)少なくない。
 そのような文献は、いっさい無視している。
 今回は予告として書いておくのだが、日本共産党綱領を踏まえつつ、不破哲三、志位和夫の「基本路線」から逸脱しないように、その基本的歴史理解を「敷衍」しているのが、上の本だろう。
 言うまでもなく、この「松竹伸幸」は(筆名の可能性がある)、日本共産党の党員だ、と明確に推察できる。
 日本共産党の幹部以外に、同党と同じ主張をする、同じ歴史理解をする「学者・研究者」もいる、ということを示すために執筆された、と推定される。
 そしてまた、社会一般、学界一般(ロシア・ソ連史、共産主義史・社会思想史等)に対してというよりも、上のことを日本共産党の一般党員に示すためにこそ、つまり不破哲三・志位和夫の「レーニン理解」に一般党員が(むろん何らかの分野の学者党員を含む)疑問を抱かないようにするためにこそ、執筆され、刊行されたのではないか、と想像される。
 一時期の間、見失っていたが、再発見した。
 リチャード・パイプスの関係時期およぴ「ネップ」関連部分は、すでに試訳を掲載した。
 L・コワコフスキの著にも、数頁の言及はある。
 その他、ネップに関する論及のある欧米文献は(粗密は様々だが)、100までいかないとしても、数十は瞥見している。
 じっくりと、この立派な?松竹伸幸著と比べて、この松竹著を批判的に分析いていきたい。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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