前回のつづき。江藤淳責任編集・憲法制定経過〔占領史録第3巻〕(講談社、1982)の江藤淳「解説」の要点紹介。
 ・1946.02.01に毎日新聞が憲法問題調査委員会「試案」を公表したが、これはじつは「乙案」に近い、宮沢俊義個人の「私案」(宮沢試案)に他ならなかった。このスクープの経緯、宮沢の関与の有無は明らかでない。いずれにせよ、この「試案」はGHQを「いたく刺戟し」、のちのマッカーサー試案起草のきっかけになった。
 ・01.30の政府・閣議に松本私案・甲案・乙案の三案が提出され、02.02の松本委員会は主として「甲案」を審議し、論議の内容は02.04閣議で紹介された。だが、政府は、これを正式決定せず、GHQの督促を受けて02.08に、松本私案をもとに宮沢が作成し、さらに松本丞治が加筆した「憲法改正要綱」(甲案と同じか類似)を提出した。
 この「憲法改正要綱」の「一般的説明」は、「根本精神は憲法をより民主的とし完全に…ポツダム宣言第十項の目的を達し得るものとせんとすることに在り」と書いた。所謂松本四原則の範囲内のもので、かつその原則はポツダム宣言第十項と矛盾しないとの前提に立つものだった。宮沢俊義は、1946.02.08の時点では、この立場にあり、<八・一五革命>を想定してなどはいなかった
 ・02.13の吉田茂・ホイットニー会談で「憲法改正要綱」は「全面的に拒否され」、代わりに、吉田外相・松本国務相は「マッカーサー草案」を手交された。このときホイットニーは、日本政府案では「天皇の身体の保障」をできない旨述べた。「決定的」な「脅迫」だったとするアメリカの学者もいる。
 ・「マッカーサー草案」の邦訳と一部修正を経ての03.06の日本政府「憲法改正草案要綱」公表までの経緯、宮沢・政府・GHQの関係は定かでない。但し、宮沢に「マッカーサー草案」を見る機会があったことは間違いない。
 また、のちの1968年の小林直樹(当時東京大学法学部教授(憲法))の本には、宮沢は03.06政府案の発表前に雑誌「改造」に「平和国家」として「丸裸になって出直すべき」旨を書き、その「非武装思想」は当時としては「珍しかった」のだが、宮沢が「何かの事情でマッカーサー草案のことを知った上」で「書かれたのかどうか」伺っておきたい、と書かれているが、宮沢自身は「記憶が頗る怪しい」が、現九条(当時は八条)の存在を知っていた以上、「無関係と見ることはむずかしいでしょう」と答えた。
 以下は、江藤淳の判断が混じる。この宮沢発言は「その儘には受け取り難い」。雑誌「改造」の宮沢論文とは同誌3月号の「憲法改正について」を指すだろうが、この論文内容を見てみると、「無関係と見ることはむずかしいでしょう」どころか、「ほとんどそのまま」マッカーサー草案の「趣旨を代弁している」。
 これに該当する宮沢論文の一部は次のとおり〔秋月が選択〕。
 「軍に関する規定」そのまま存置の意見もあり得るが、「日本を真の平和国家として再建して行こうという理想に徹すれば、現在の軍の解消を以て単に一時的な現象とせず、日本は永久に全く軍備をもたぬ国家―それのみが真の平和国家である―として立って行くのだという大方針を確立する覚悟が必要」だ、「日本は丸裸かになって出直すべき秋〔とき〕である」。
 ・江藤淳は続ける。「直ちに、次の二つの問題」を提起できる。第一は宮沢がマ草案を披見した時期。「改造」3月号発行が03.06以前で、宮沢が閣僚の一人からマ草案を示されたのが02月の下旬だったとすれば、400字×25枚ほどの上記論文を、宮沢はいつ執筆できたのか。02.13前後「何かの事情」でマ草案を入手しており、それに依って論文執筆したと考えざるをえない。
 第二は、宮沢にマ草案を披見させた人物は誰か。政府案とも松本四原則とも矛盾する「完全非武装平和国家」論を宮沢が書いたきっかけとなったからには、「当時の閣僚の一人」又は日本人であっても「政府関係者」ではないだろう。宮沢俊義の<「コペルニクス」的転向>を示す論文が書かれたのは、宮沢がマ草案を「仔細に検討する機会を与えられ」、同案がポツタダム宣言を逸脱し米国「初期対日方針」に準拠していることを「あらかじめ熟知していたから」だと考えざるをえない。
 その人物はどのような背景の誰か、毎日新聞の上記スクープとの関係、は謎のままだ。しかし、<「コペルニクス」的転向>は<八・一五革命説>の提唱(「世界文化」5月号)以前から開始されていたことは明らかだ。
 宮沢俊義には、一方で松本四原則を擁護しつつ、一方でマ草案の「援護射撃」を準備するという「屈折した薄明の一時期」があったのかも。この時期、この東京帝大教授の「脳裡に、いかなる想念が渦巻いて」いたのだろうか(以上、p.395-402)。
 
<さらに、続ける。>