秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

村落への戦争

2909/R.Pipes1990年著—第16章⑯。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第七節/軍事行動作戦の評価。
 (01) 村落に対するボルシェヴィキの軍事行動作戦の結果を査定するならば、村落が勝者だったと宣しなければならないだろう。
 ボルシェヴィキは若干の政治的目標を達成したが、農民層を分裂させること、農民から意味ある量の穀物を奪いとることのいずれにも、失敗した。
 政治的成果ですら、すぐに消えた。赤軍部隊が1919年に白軍の脅威に備えて召喚されたとき、村落は再び元の状態に戻ったからだ。
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 (02) 食料の調達も、体制側をほとんど満足させなかった。
 共産党側の文献は、実力による手段で獲得した食料の量に関して、珍しく口が重い。だが、それらが提示する証拠資料によると、きわめて少なかった。
 1918年の収穫期(8月半ばから11月初めまで)のあいだ、赤軍に助けられた食料派遣隊と貧民委員会は、12の州から、穀物の余剰3500万pud あるいは57万トンを調達した、と言われている(脚注1)
 1918年の収穫は30億pud あるいは4900万トンだったので(注123)、努力と残忍さの全てをもってしても—機関砲を撃つ兵団、戦闘、首を吊っての死刑判決付きの人質—、収穫のわずか100分の1しか得られなかったことになる。
 当局は、田園地帯を襲撃する政策の失敗を認めた。1919年1月に、現物課税(prodovol’stvennaia razverstka あるいはprodrazverstka)を導入したときには。この現物税導入によって、余剰分全ての没収は、農民が引き渡すべき量を明記する厳格な規範に変更された。
 この量は、生産者の配送能力とは無関係に、国家の需要に応じて決められた。
 政府は配送を確保するために、地区と下部地区に割当て量を課し、ついで負担分を村落や農村共同体に配分する、中国・モンゴル制度に変更した。
 後者は、すでに帝制時代にそうだったように、義務に応じる集団責任制(krugovaia poruka)で拘束されていた。
 少なくとも何らかの順序を導入するこの制度は、もともとは穀物と飼料に適用されたが、のちには事実上全ての食料を含むよう拡張された。
 引き渡すよう強いられた物品について、農民は金銭を受け取ったが、それでは何も買えなかった。レーニンは1920年に、訪れているBertrand Russel に対して、くすり笑いをしながら、政府がいかにしてmuzhik に穀物の対価として無価値の紙幣を受け取らせているかを叙述した(脚注2)(注124)。
 だが、こうしたことがあっても、レーニンは、穀物の自由取引を認めるよりも全員を餓死させると言ったことがあったものの、ほとんど2年後の1921年春には、確固たる現実に屈服し、非を認めて、穀物独占を放棄しなければならなかった。
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 (脚注1) LS, XVIII, p.158n. しかし、レーニン(PSS, XXXVII, p.419)は、体制は6700pud を獲得した、と主張した。
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 (脚注2) Bertrand Russell, Unpopular Essays(New York, 1950), p.73-p.111.「私が[レーニンに]農業の社会主義について質問したとき、彼はほくそ笑みつつ、いかにして貧農を富農に対して煽動したかを説明した。『そして、彼らはすぐに最も近くの樹木に首を吊らせた。—ハ、ハ、ハ』。虐殺された者たちを考えての彼の高笑いは、私の血を冷たくさせた。」
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 (03) ボルシェヴィキ体制はまた、村落で階級戦争を巻き起こすこともできなかった。
 少数派の「富裕な」農民と同じく少数派の「貧困な」農民は「中層」農民の広い海に溺れ、三層の農民は仲間で殺し合う戦争をするのを拒んだ。
 ある歴史家の言葉によれば、「クラクは村落の側に立ち、村落はクラクの側に立った」(注125)。
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 (04) 二ヶ月のうちに、ボルシェヴィキは誤りに気づいた。
 レーニンとTsiurupa は、1918年8月17日に、中層農民を説得し、彼らを貧農と一緒に富農に対抗して統合させる積極的努力を命じる特別の指令を発した(注126)。
 レーニンはその後に繰り返して、体制は中層農民の敵ではない、と主張した(注127)。
 しかし、このような言葉だけの譲歩は、ほとんど意味がなかった。中層農民は食料をもっており、したがってボルシェヴィキの食料奪取政策の主要な犠牲者だったのだから。
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 (05) 農民たちは、ボルシェヴィキの農業政策によって、完全に混乱させられた。
 彼らは、「革命」とは国家に対する全ての義務から自分たちを解放する、voia あるいはアナーキーを意味すると理解していた。
 農民たちがこう言うのが聞かれた。「彼らは、全ての土地を引き渡すと約束した。税金を徴収するとは、軍隊に徴兵するとは言わなかった。そして今は何を…?」(注128)。
 実際に、共産主義国家に対する農民の義務は、帝制時代よりもはるかに苛酷だった。すなわち、共産党員研究者たちの計算によると少なくとも二倍重かった。義務には税だけではなく、強制労働、および木材を伐採して運搬するなどの、きわめて負担になるその他の義務があったのだから(注129)。
 農民たちが称した<sutsilism>は都市の煽動者たちが彼らに課そうとしたものだったが、この語彙は農民たちにはさっぱり分からなかった。そして、彼らはつねに、外国語を馴染みのある言語に再翻訳して、類似の環境のもとでそれを行なうように反応した。
 農民たちは与えられたものを疑い始めたが、それでも保持するつもりでいた。自分たちは必要不可欠であり、そのゆえに、侵され得ない者たちなのだ。
 そのうちに、「常識」が彼らに告げた。余剰の穀物を自由市場で処分することができないかぎり、余剰を生産しても何の利益にもならない、と。
 この意識こそが、食料生産が着実に減りつづけ、1921年に飢饉が発生する大きな原因になることになる。
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 (06) ボルシェヴィキは、村落に彼らが指揮するソヴェトの網の目を持ち込むことで最後には村落に浸透した、という功績を主張することができた。
 しかし、これは、ある程度は幻想だった。
 1920年代初めに行なわれた研究は、村落は共産党のソヴェトを無視したことを明らかにした。
 その頃までに、権威は、家族の長によって運営される村落共同体の組織へと移っていた。まるで村落には革命はなかったかのごとくに。
 村落ソヴェトは、それらの決定への同意を共同体から獲得しなければならなかった。それらには自分たちの予算すらなかった。
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 (07) こうした事実に照らして見ると、村落に対する軍事行動作戦は完全な成功であるばかりか、歴史的重要性において十月のクーを凌駕する、とレーニンが主張したのは、驚くべきことだ。
 彼は1918年12月に、「以前の革命では社会主義を目指す作業に対する大きな障害だった」問題を、この一年間で解決した、と豪語した。
 こうも言った。ボルシェヴィキは革命の初期の段階で、地主に対する貧農、中農、富農の闘いに加わった。
 これらの同盟は、村落「ブルジョアジー」を無傷なままに残した。
 この状況が永続するのを認めれば、革命は中途で止まり、後退するのは必至だろう。
 このような危険は、「プロレタリアート」が貧農を覚醒させ、貧農とともに村落ブルジョアジーを攻撃することによって、回避される。
 かくして、ロシア革命は、西側のブルジョア民主主義革命を超えて進化し、都市と村落のプロレタリアートの合同の基盤を生み出し、ロシアに集団農業を導入する基礎を築いた。
 レーニンは、つぎのように勝ち誇った。
 「こうしたことが革命の意義だ。そして、今年の夏と秋に村落ロシアの人里離れた箇所のほとんどで起きたことだ。
 このことは、昨年の十月革命ほどには騒がれず、明瞭には語れれず、誰もの注目を受けているのではない。しかし、比較できないほど大きい、深い重要性がある。」(注131)
 これはもちろん、狂気じみた誇張だった。
 レーニンが誇った村落のボルシェヴィキ化は、ようやく10年後に、スターリンによって達成されることになる。
 しかし、その他の多くの面でそうであるように、スターリンの路線は、レーニンによってあらかじめすでに、概略が描かれていた。
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 第七節、終わり。第16章全体も終わり。つぎの章は皇帝家族の殺害
 

2908/R.Pipes1990年著—第16章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第六節/“貧民委員会”②。
 (09) ボルシェヴィキは、怯むことなく、軍事作戦行動を進めた。
 数千人のボルシェヴィキ党員とボルシェヴィキ同調者が、煽動し、組織し、そして村落ソヴェトの抵抗を抑えるために、田園地帯に送られた。
 この手段がどのように機能したかを、つぎの出来事が示している。
 「1918年7月26日に開催された、 volost’ および村落ソヴェトのSaransk 地区大会の議事概要から。
 決定された。貧民委員会の機能は、volost’ および村落ソヴェトに委ねられるものとする。
 票決後に、Kaplev 同志(副議長)は、共産党・ボルシェヴィキ地方委員会の名で大会に対して、大会出席者の明らかに多数派は、誤解によって中央の権威に反対する票決を行なった、と伝えた。
 この理由で、この問題に関する布令と指示を基礎にして、党は地方組織に、代表者たちを派遣するだろう。この代表者たちは民衆に対して、貧民委員会の意義を説明し、(政府の)布令に適合してこれを組織するに至るだろう。」(注110)
 このようなやり方で、党官僚たちは、貧民委員会の設立を拒否する農民の投票を無効化した。
 このような強引な方法を用いて、ボルシェヴィキは1918年12月までに、12万3000のkombedy(貧民委員会)を組織した。この数は、2村落ごとに1つを僅かに上回っていた(注111)。
 これらの組織が現実に機能したか、あるいはそもそも存在したのか、を語るのは不可能だ。ある者は、多くの場合は紙の上でのみ存在した、と疑っている。
 多くの場合、貧民委員会の議長は、党員であるか、自らを「同調者」だと称する者だった(注112)。
 後者は、外部者、主として都市部の<apparatchiki>の言いなりに行動した。この頃には、共産党の中に農民はほとんどいなかったからだ。中央ロシアの12州についての統計調査は、村落地域には共産党員が1585人しかいなかったことを、示している(注113)。
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 (10) ボルシェヴィキは、貧民委員会を過渡的な制度だと見ていた。それをソヴェトへと改変させるのが、レーニンの意図だった。
 1918年11月に、彼はこう宣告した。
 「貧民委員会をソヴェトと融合させる。我々は、貧民委員会がソヴェトになるように、準備するだろう。」(注114)
 ジノヴィエフはその翌日に、この問題に関してソヴェト大会に向けて書き送った。
 彼は、こう述べた。村落のソヴェトを都市のソヴェトに似ているものに、すなわち「社会主義の建設」の機関になるように再形成するのが、貧民委員会の任務だ。
 このためには、中央執行委員会が決定する規則にもとづく、国土全般にわたる村落ソヴェトの「再選挙」が必要だった(注115)。
 この規則は、12月2日に発表された。
 そこでは、村落ソヴェトは「社会主義革命」が田園地帯に到達する前に選出されているがゆえに、「クラク」によって支配され続けている、と述べられた。
 今や必要になったのは、村落ソヴェトを都市ソヴェトと「完全に調和する」ようにさせることだった。
 村落およびvolost’ レベルでの全国土的再選挙は、貧民委員会の監督のもとで行なうこととされていた。
 新しい村落ソヴェトが適切な「階級的」性格をもつのを確保するため、州の都市ソヴェトの執行部は、選挙を監督し、必要な場合には、望ましくない者を排除することになる(脚注1)
 クラクおよびその他の投機者や搾取者は、選挙権がないものとされた。
 国家の全ての権力はソヴェトに帰属するとの1918年憲法の条項を無視して、布令は、新たに選出された村落ソヴェトの「主要な任務」は「ソヴェトの権威のうちの対応する上級機関の全ての決定を実現すること」にある、と明言した。「ソヴェトの権威」とはすなわち、中央政府のことだ。
 村落ソヴェト自体の権威—帝制ロシア時代の<zemstva>のそれをモデルにした—は、各々の地域の「文化的、経済的水準」を高めることに限定されるとされた。統計資料を収集する、地方の工業を推進する、政府が穀物を獲得するのを助ける、といった手段によって。
 言い換えると、村落ソヴェトは、第一に官僚による決定の連絡者に、第二に民衆の生活条件の改善に責任をもつ機関に、改変されることになった。
 こうした使命が達成されるとすぐに、貧民委員会は解体されるともされた(脚注2)
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 (脚注1) これは、帝制時代の知事に付与された権限に似ている。この権限によって、「信頼性」という帝制の規準を満たすことのできない、選挙されたzemstvo の役人を排除することができた。
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 (脚注2) E. H. Carr(The Bolshevik Revolution, II, London, 1952, p.159)がこう述べるのは、したがって、誤りだ。貧民委員会は最初から過渡的な組織として意図されていたのだから、解散命令は貧民委員会の失敗を証明した、と。
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 (11) 1918-19年に実施されたvolost’ と村落のソヴェトの再選挙は、以前にボルシェヴィキが都市部で形成したやり方を、ほとんど踏襲していた(注117)。
 全ての執行部の職は、共産党員、「同調者」、「非党員」(partyless)に予め割当てられていた。
 農民が自分たちの候補者を頑なに選出し、さらに再選出したので、政府は望んだ結果が得られるように、方法を修正した。
 ほとんどの地域で、投票は公開で行われ(注118)、脅迫的な効果をもった。指示されたとおりに投票しない農民は、「クラク」との烙印を捺される危険があったからだ。
 共産党以外の政党は、参画が許されなかった。これは、「ソヴェトの権威の基盤に立つ」政党や党派だけが候補者を擁立することができる、と定める条項によって保障されていた。
 1918年憲法はソヴェトの選挙に参加できる政党については何も言及していない、との異議は、すげなく却下された(注119)。
 多くの地域で、共産党の細胞は、立候補した者全員の承認を強く主張した。
 こうした事前の警戒にもかかわらず、「クラク」その他の望ましくない者が、依然として執行的職を獲得することがあった。これはしばしば起きたと思われるのだが、そのような場合、共産党は、選挙を無効と宣言し、再選挙を命じる、という彼らが好んだ技巧に頼った。
 これは、望ましい結果が得られるまで、必要な回数だけ行なわれることがあった。
 あるソヴィエトの歴史家は、三回または四回あるいはそれ以上の「選挙」が連続して行なわれることは異例でなかった、と述べている(注120)。
 それでもなお、農民たちは「クラク」を選出しつづけた。「クラク」、すなわち非ボルシェヴィキや反ボルシェヴィキ。
 かくして、Samara 州では1919年に、新しいvolost’ ソヴェト構成員の40パーセントを下回らない数の者が「クラク」であことがあった(注121)。
 共産党はこのような不服従を終わらせるために、1919年12月27日、ペテログラード地域の党組織に対して、「承認された」候補者たちの単一名簿に村落ソヴェトを服従させることを指示する命令を発した(注122)。
 やがて他の地域へも拡大されたこの方法が実施されることによって、自治機関としての村落ソヴェトは終焉を迎えた。
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 第六節、終わり。

2906/R.Pipes1990年著—第16章⑭。

 Richard Pipes, Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16勝・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第六節/“貧民委員会“①。
 (01) 既述のとおり、この貧民委員会が意図していたのは、敵の陣営内部で「第五列」〔潜在破壊者〕として機能することで、赤軍と調達派遣隊を助けるだろうと考えられた。
 レーニンは、最も窮乏した村落住民の経済的不満に乗っかって活動することで、彼らを富者に対抗して結集させ、そして、衝突させて、ボルシェヴィキの村落への政治的な侵入を可能にしようとした。
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 (02) レーニンの期待は、二つの理由で、失望に変わった。
 ロシアの村落の現実の構造は、彼が出発点に置いたものとは何ら似ていなかった。つまり、農民の四分の三は「貧民」だとする彼の認識は、全くの幻想だった。
 「土地のないプロレタリアート」という村落の貧民の中核部分は、中央ロシアでは村落人口の多くて4パーセントだった。残りの96パーセントは、「富者」が入り混じった「中層農民」だった。
 かくしてボルシェヴィキには、村落で階級を扇動する現実的な社会基盤が欠けていた。
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 (03) さらに悪いことに、その4パーセントですら、協力しようとしなかった。
 当局によりまたは外部地域の農民から威嚇された場合に、農民たちは仲間内で言い争うことも多かったが、彼らは団結を固めた。
 このような場合、富農、中農、貧農は、一つの家族になった。
 あるエスエルの言葉によると、こうだ。
 「食料派遣隊が村落に現われても、もちろん、食料を獲得しなかった。
 何を遂行するのか?
 彼らは、クラクから君たちの言う土地なき農民までからなる、統合前線を作り、都市部の村落に対する、見せかけだけの闘争を行なった。」(注106)
 無謀にも仲間の農民たちに反抗する情報屋になった農民は、体制側が約束した報償を得ることを期待していたのだが、社会的な死の、さらには肉体的な死すらの、証明書に自ら署名することになった。食料派遣隊が撤退した瞬間、そのような情報屋は、かりに殺されなくとも、地域共同体から追放された。
 このような状況では、「貧農」を「富農」に対する「容赦なき」階級戦争に駆り立てるという考えは、全く非現実的だった。
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 (04) レーニンはこうした事実を知らなかったか、政治的配慮を優先して無視することを選んだかのいずれかだった。
 Sverdlov が5月に認めたように、ボルシェヴィキ政府は田園地帯では弱く、「内戦を煽る」ことでのみその地方に徐々に浸透することができた。
 もともと都市部で発生したソヴェトは、農民のあいだでは人気がなかった。村落集会という、自治の伝統的な形態を模倣したものにすぎなかったからだ。
 1918年の夏、ほとんどの村落地域にはソヴェトがなかった。存在する地域では、エスエルの支持者である、率直な農民または村落知識人の指導のもとで、表面的にだけ機能していた。
 レーニンは、このような状態を変えようと決意した。
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 (05) 貧民委員会の表向きの目的は、食料派遣隊や赤軍部隊が隠蔵された穀物を発見するのを援助することだった。
 しかし、本当の使命は、信頼できる都市部の共産党員の指揮を受け、政府の諸指令に厳格に忠実に行動する、新しい村落ソヴェトの核として役立つことだった。
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 (06) Ispolkom(全国ソヴェトの執行委員会〔形式上はソヴナルコム=政府の上位機関—試訳者〕)は、5月20日に、この貧民委員会、あるいは<kombedy>の設立について討議し、6月11日、ロシア全土でのこれの設置を布令した(注107)。
 この議題がIspolkom の討議に付されたとき、メンシェヴィキと左翼エスエルからの激しい批判があった(注108)。これを、多数派のボルシェヴィキが抑えた。
 政府は、村落の貧民の「組織と食料供給に関する布令」を発した。この布令は、全てのvolost’ と大村落(selo)での、現存するソヴェトと並びかつソヴェトの監督を受ける、貧民委員会の設置について定めた。この委員会は地方農民と新しい移住者によって構成されるが、後者からは、「悪名高いクラク、富者」、穀物その他の産物の余剰を保有する家族の長、商業および工業用の施設の所有者、労働者を雇用する者、は排除された。
 委員会の任務は、赤軍部隊と調達派遣隊が隠蔵食料の場所を突き止め、それを没収するのを助けることだった。
 これらの協調を確保するため、kombedy 〔貧民委員会〕構成員には、6月15日まで無償で、その日以降は形だけの代償で、没収された隠蔵物の一部が分け前として約束された。
 komedy の一員であることの魅力をさらに高めるために、貧民委員会には、「村落ブルジョアジー」からその備品や在庫を没収し、自分たちのあいだで分ける権限が与えられた。
 こうして、村落の住民の一部は、他人を非難し、他人から奪い取るよう奨励された。
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 (07) 適用がある者にとっての結果は確実に膨大だとされていたけれども、布令の定めは曖昧だった。
 「悪名高いクラクと富者」とはいったい誰か?、それらは、余剰の穀物をもつ他の農民とどのようにして区別されるのか?
 どのような意味で、地方政府の任が与えられ、食料分配の責任をもつ地方ソヴェトに、貧民委員会は従属するのか?
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 (08) のちに判明したように、工業労働者が調達派遣隊に加入したがらなかったのと同様に、貧農は貧民委員会に入会する気がなかった。
 強い圧力をかけられたにもかかわらず、布令が発せられた三ヶ月あとの1918年9月の時点で、6村落のうち1つだけが、貧民委員会の成立を報告した。
 多くの州、とくにモスクワ、Pskov、Samara、Sinbirsk—大きな農業地域—には、一つもなかった(注109)。
 政府は貧民委員会設立のために巨額の金銭を計上しつづけたが、成功しなかった。
 村落ソヴェトが存在しないところでは、指令は、無視された。
 存在するところでは、ソヴェトは通常は貧民委員会を余計なものだと宣告し、代わりに、ソヴェト自身の「食料調達委員会」を設置した。このことで、政府の企図の目的全体が、挫折した。
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 ②へとつづく。

2905/R.Pipes1990年著—第16章⑬。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第五節/食料調達派遣隊が抵抗に遭遇・大量の農民反乱③。
 (10) 調達派遣隊の残忍な行動があったにもかかわらず、僅かばかりの食料しか諸都市には供給されなかった。彼らがどうにかして調達した少量の食料は、隊員たちによって消費された。
 食料派遣隊が組織されて二ヶ月後の1918年7月24日、レーニンはスターリンに対して、食料はまだペテログラードにもモスクワにも届いていない、と伝えた(注96)。
 考えられ得る最も残忍な政策が大失敗を喫して、レーニンは、激怒の感情に陥った。
 収穫の時期が近づき、村落「前線」へ派遣された者たちが失敗を継続していたとき、レーニンはボルシェヴィキの司令官たちの優柔不断さを難詰し、さらに苛酷な復讐を行なうことを命令した。
 8月10日、彼はTsiurupa に電報でこう伝えた。
 「1. Saratov にはパンがあり、我々がそれを徴集することができないのは、酷い、気狂いじみた醜聞だ。…
 2. 布令案。全てのパン生産地区に、<富者>の中から25-30人の人質を取る。この人質たちは、<全ての>余剰の収集と配送について、<生命>でもって答える。」(注97)
 Tsiurupa は、こう答えた。「現実の力があって初めて、人質を取ることができる。そんな力は存在するのか? 疑わしい。」
 レーニンは、こう返答した。「私は人質を『取る』ことではなく、『指名する』ことを提案している」(注98)。
 これは、人質取りを行なうことに、最も早く言及したものだった。そして、4週間のちに、「赤色テロル」のもとで、大規模に実行されることになる。
 レーニンがこの野蛮な政策に真剣だったことは、農民反乱が進行中のPenza 州に対する彼の指示から、明白になる。
 「5つの地区での蜂起を弾圧するあいだ、全ての穀物の余剰を所有者から奪うために、全ての努力を傾注し、全ての措置を採用せよ。そうして、蜂起の弾圧と同時にこの目的を達成せよ。
 この目的達成のために、全ての地区で人質を指名(人身拘束をするのではなく指名)せよ。氏名を明確にして、クラク、富者、搾取者の中から。そして、この者たちに、指定された施設または穀物集積地点への徴集と配送について、および例外なく全ての穀物の余剰の当局への引渡しについて、責任を負わせるものとする。
 人質たちは、この引渡し物の正確で迅速な提供について、自分たちの生命でもって答えることができる。…」(注99)
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 (11) 1918年8月6日、レーニンは、「ブルジョアジー」の「反革命」部分に対する「容赦なき大量テロル」および飢えを「武器」として用いる「裏切り者の容赦なき根絶」に関する布令を発した。
 余剰の穀物の奪取に抵抗する全ての者は、「運び屋」を含めて、革命審判所へと送致するものとされた。また、かりに武装したままで逮捕されれば、その場所で射殺されるものとされた(注100)。
 レーニンは、憤怒の感情に魅せられたごとく、「クラク」からはその余剰穀物のみならず、翌年の収穫のために必要な穀物〔種〕も剥奪せよ、と命令した(注101)。
 彼のこの時期の演説や文書による指示は、農民の抵抗に対する怒りによって理性的に思考する力をなくしている、ということを示している。
 このことは、1918年8月の工業労働者に対する訴えによっても明確だ。その中で彼は、つぎのように、「最後の、決定的闘争」に立ち上がることを呼びかけた。
 「クラクは狂って、ソヴィエトの権威を嫌悪し、数十万の労働者を窒息させ、切り刻もうとしている。…
 クラクが無数の労働者を切り裂くか、労働者たちが、勤労者の権力に反抗する、民衆の中の不正な少数派の蜂起を容赦なく粉砕するか、のいずれかだ。
 ここには、中間の立場はあり得ない。…
 クラクは、最も野獣的で、最も粗暴で、最も苛酷な搾取者だ。…
 この吸血鬼たちは、戦争中に民衆の欠乏に乗っかって富を固めてきた。こいつらは、幾千万も蓄えてきた。…
 この蜘蛛野郎たちは、戦争で困窮した農民と飢えた労働者を犠牲にして太ってきた。
 この寄生虫は、勤労者の血を吸っており、都市や工場の労働者が飢えるほどに豊かになってきた。
 この吸血鬼たちは、地主の土地をその手に集めたし、集め続けている。そして、貧しい農民を繰り返して隷従させている。
 これらクラクに対する容赦なき戦争に決起せよ! クラクに死を!」(脚注)
 ある歴史家が適切に観察したように、「これはおそらく、近代国家の指導者が、民衆をジェノサイド〔集団虐殺〕と社会的に同義のものへと掻き立てた、最初の例だった」(注102)。
 攻撃的行動を自衛活動と偽装するのは、レーニンに特徴的なことだった。この場合には、「クラク」が肉体的に労働者階級を殲滅するという、完全に空想上の脅威に対する自己防衛だ。
 この問題に関するレーニンの狂信的考えには、際限がなかった。
 1919年12月に、彼はこう言った。「我々」は—この代名詞はこれ以上明確化されていないが、彼自身やその仲間たちを含んでいそうにない—、穀物の自由取引を許容すれば「すぐに死に絶えるだろう」(注103)。
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 (脚注) Lenin, PSS, XXXVII, p.39-41. ロベスピエールのつぎの言葉を参照せよ。「富農が執拗に民衆の血を吸いつづけるならば、我々は民衆自体を彼らに引き渡そう。裏切り者、陰謀者、不当利得者に対して正義を実行するのにあまりに多数の障壁があるならば、民衆に彼らを処断させよう。」Ralph Korngold, Robespierre and the Forth Estate(New York, 1941), p.251.
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 (12) 農民の抵抗に対処するため、ソヴナルコム〔人民委員会議〕は8月19日に、戦争人民委員のトロツキーに、民間人派遣隊を含めて、関係する全ての部隊に関する責任を委ねた。このときまでは、これらの部隊は供給人民委員部に従属していた(注104)。
 Tsiurupa はその翌日、食料徴発活動を軍事化する指令を発した。
 食料派遣隊は、州と軍事当局の司令下に置かれ、軍事紀律に服した。
 各派遣部隊は最少で75人の隊員と2または3の機関砲を有するものとされた。
 これらは、近傍の騎兵部隊との連絡を維持し、農民の抵抗の強さに応じて必要とあれば、複数の部隊は一つに合同されるべく編成変えするものとされた。
 正規の赤軍部隊に対してと同じく、これらの各部隊には政治委員が任命された。貧民委員会(the Committees of the Poor)を組織することは、この政治委員の責任だった。
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 第五節、終わり。

2904/R.Pipes1990年著—第16章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第五節/食料調達派遣隊が抵抗に遭遇・大量の農民反乱②。
 (06) 1918年の後半に村落地域で起きた出来事については、つぎの当時の新聞紙の記事が代表的に示している。
 「調達派遣隊がOrel 州のGorodishchenskaia volost’ に着いたとき、女性たちは、引き渡すことをしないで、穀物を水の中に投げ込み、予期せぬ訪問者が去ったあとで、掬い上げた。
 同じ州のLavrov Volost’ では、農民たちが『赤色派遣隊』を武装解除した。
 Orel 州では、徴発が最も広い規模で実施された。
 通常の戦争のためのごとくに、準備がなされた。
 『ある地区では、パンの徴発のあいだ、個人の全自動車、乗用馬、馬車が動員された』。
 Nikolskaia Volost’ とその近傍では、通常の戦闘が起きる。両者の側に死傷者が出る。
 派遣隊は、Orel に弾薬と機関砲を送るよう電信で要請した。…
 Saratov 州から、『村落は警戒し始め、戦闘の用意をしている』との報告が入る。
 Volskii 地区のいくつかの村落は、三又鋤で赤軍兵団に抵抗し、兵団を解散させた。
 Tver 州では、『食料探索のために村落に送られたパルチザン派遣隊は、至るところで抵抗に遭遇した。多くの場所からこうした遭遇に関する報告が来ている。徴発から穀物を守るために、農民たちは森の中に隠れ、穀物を地中に埋めている。』
 Simbirsk 州のKorsun の市場では、穀物を徴発しようとしている赤軍と闘うために農民たちがやって来た。一人の赤軍兵士が殺害され、数人が負傷した。」(注89)
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 (07) 1919年1月、Izvestia は、Kostroma 州の一村落で蜂起している『白衛クラク』に関する政府による調査の報告を掲載した。これは、村落「ブルジョアジー」に対する攻撃が現実にどのようなものであったかを示している。
 この調査は、村落の〔ソヴェト〕執行委員会の議長が農民の請願者たちをいつも殴ったこと、ときには杖で叩いたことを、明らかにしていた。
 犠牲者たちの中には、靴を剥ぎ取られ、雪の中で座らされる者もいた。
 いわゆる食料徴発は、現実にはふつうの強盗だった。その過程で、農民たちは、コサック式鞭で懲らしめられた。
 ある村落に接近すると、食料派遣隊は農民を脅かすために機関砲を撃つ。
 そして、闘争が始まることになる。
 「農民たちは、打撃から身を守るために5枚かそれ以上のシャツを着なければならなかった。だが、笞には鉄線が入っているので、それは大して役立たない。鞭打ちのあと、シャツが肌にくっつき、乾いた。それで、その部分を温水に浸してほどく必要があった。」
 派遣隊員は兵士たちに、「ソヴィエトの権威を忘れないようにさせるために」、手にする何でも持って殴打するよう命じた」(注90)。
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 (08) 政府がその軍事行動作戦を進ませるにつれて、田園地帯での反乱は大きくなった。
 これは、ロシアの歴史上、先例のないことだった。Razin の反乱やPugachev の反乱のような従前の蜂起は、地域的な事件で、東部や南東部の国境地域に限定されていたからだ。
 ロシアの中心地域では、今のような反乱はかつて一切起きなかった。
 1918年の夏に勃発したボルシェヴィキに対する農村の抵抗は、地域的な範囲と関与した人数のいずれについても、かつて発生した最大の農民反乱をはるかに上回るものだった(脚注1)
 しかしながら、その経緯は、依然として不完全にしか知られていない。ソヴィエトの文書類を所管する当局が重要な書類の公開を拒否しており、また、西側の研究者たちにこの主題についての不可解な関心のなさがあるがゆえにだ(脚注2)
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 (脚注1) ある学生は、この問題に関して、関与者の数と与えられた脅威から見て、内部的前線での対農民のボルシェヴィキの戦争の大きさは、前線での白軍との内戦をはるかに凌駕した、という説得的な主張を行なっている。Vladimir Brovkin, 「内部戦線について—ボルシェヴィキと緑党」.
スラヴ研究の前進のためのアメリカ協会の第20回全国大会で発表された論文。1988年11月、p.1.
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 (脚注2) 労働者と農民のいずれによるのであれ、「騒擾」に関する情報は検閲され、公表する新聞紙はしばしば罰金刑を受け、停刊させられたりした。1919年の初めまでに、全てのこのような情報は軍部の検閲によって排除された。軍部の検閲は、発行がまだ許容されていた一握りの非ボルシェヴィキ新聞から定期的に削除した。DN, No. 2(1919年3月21日), p.1.
 この主題に関する唯一の学問的論文集は、Mikhail Frenkin, Tragediia krest’ianskikh vosstanii v Rossi 1918-1921 gg.(Jerusalem, 1988)だ。1918-19年の蜂起は、この書物の第四章、p.73-p.111で扱われている。
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 チェカの報告によると、1918年に245件の村落「蜂起」(vosstaniia)があり、これらにより875人のボルシェヴィキと1821人の反乱者の生命が奪われた。
 加えて、2431人の反乱者が、処刑された(注91)。
 しかし、こうした数字は、被害者数の一部だけを、おそらくはチェカ自身の人員によって犠牲になった者たちの数だけを反映できるだろう。
 共産党員の歴史研究者の最近の成果は、こう述べる。1918年の7月と9月の間だけの不完全な数字資料から判断すると、22の州で、およそ1万5000人のソヴィエト「支持者」(storonniki)が殺された。この語が意味するのは、赤軍兵士、調達派遣隊員、共産党の役人たちだ(注92)。
 Chelyabinsk の共産党のある歴史書は、機関銃の周りでポーズをとる300人の赤軍分隊の一枚の写真を掲載している。
 説明書きによると、一人の生存者を除く全隊員が、「クラクの蜂起」によって殺戮された(注93)。
 他の地方や州でも、両者の側に同様の被害が発生したに違いないのは、明らかだろう(注94)。
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 (09) 1918-19年の反共産党農民蜂起は、経緯が概略すら知られていないのだが、最後には鎮圧された。
 農民反乱者たちは多くの点で政府の武力に優っていたけれども、射撃力の不足、とりわけ組織化のなさ、という点で劣っていた。それぞれの蜂起は自然発生的で、かつ局所的だったのだ(注95)。
 エスエルは、村落では支配的役割を果たしていたが、農民たちを組織するのを拒んだ。ほとんど確実に、白軍の手中に入って行動することの恐れからだった。
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 ③へつづく。

2903/R.Pipes1990年著—第16章⑪。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919(1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第五節/食料調達派遣隊が抵抗に遭遇・大量の農民反乱①。
 (01) 前年の冬以来、ときには赤衛隊に組み入れられた武装部隊が、食料を求めて村落を襲撃してきていた。
 彼らは通常は、農民たちの激しい抵抗に遭った。農民たちを強力にしていたのは、武器をもって前線から故郷に帰還した兵士たちだった。ふつうは手ぶらで戻っていたのだが(注75)。
 レーニンは1918年1月に、各々10-15人の労働者がおり、厄介な農民を射殺する権限をもつ「数千の食料調達派遣隊」の結成を提案していた。だがこれは、支持を得られなかった(注76)。
 ボルシェヴィキが村落へのテロル行使部隊の体系的組織化へと進んだのは、ようやく1918年春になってからだった。
 最初の措置は、レーニンの署名付きで5月21日に発せられた、ペテログラードの労働者に対する訴えだった(注77)。
 その他の訴えや指示が、これにつづいた。
 実力を用いて食料を奪い取るという考えは、明らかに<armee revolutionnaire>を範としていた。これは、フランスの公安委員会がその最初の措置として 1793年6月に作ったもので、生産物の隠蔵を禁止する法令が伴なっていた。
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 (02) ロシアの労働者はこのような手段を好まなかった。
 彼らは、<burzhui>または地主に対して動員されることがあり得た。地主と労働者のあいだには超え難い文化的な懸隔があった。
 しかし、彼らの多くが生まれて、親戚がなお住んでいる村落に対しては、そうでなかった。
 彼らは、農民たちには階級的悪意を何ら感じなかった。レーニンやその支持者たちが責任があるとした、比較的に良い暮らしの農民に対してすら。
 ペテログラードの労働者たちにかなりの支持を得ていた左翼エスエルは、労働者と農民の間に階級的憎悪を焚きつけるボルシェヴィキの措置に、異議を唱えた。
 左翼エスエルの中央委員会は実際に、その党員たちに、食料派遣隊に応募するのを禁止した。
 ジノヴィエフは、志願者たちを寛容に誘いはしたが、5月の布令を実施するときには、相当の困難に陥った。
 彼は5月24日に、派遣隊は食料を求めて2日以内に出発すると発表したが、ほとんど誰も集まってこなかった。
 労働者全権委員団で組織されたペテログラードの工場委員会の集会は、この手段に反対する決議を採択した(注78)。
 ジノヴィエフは5日後に訴えを繰り返し、食料派遣隊を「ブルジョアジー」の脅威と結びつけた。
 「我々は、彼らがパンの匂いを忘れないように、一日当たり16分の1ポンドを与えるべきだ。
 だが、我々が麦藁粉を食べなければならないとしたら、それをまず最初にブルジョアジーに与えるべきだ。」(注79)
 労働者たちは動かず、ボルシェヴィキ知識人には全く欠けている常識的感覚をもって、穀物の取引を自由化することで食料不足を解決することを主張した。
 しかしながら、そのうちに、ジノヴィエフは脅威と報奨を結びつけて、何とか若干の食料派遣隊を組織することができた。その第一号の400人の兵団は、6月に田園地帯へと出発した(注80)。
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 (03) 食料派遣隊は、失望させた。
 善意の労働者たちはとどまったので、入隊した者たちの多数は、略奪するために村落へ行く都市のごろつきだった。
 このような結果への不満を、レーニンはすぐに受け取った(注81)。
 最初の調達派遣隊が村落に姿を現した後にすぐに、彼は、工業界の労働者に対して、つぎの挨拶文を送った。
 「私は、Vyksa の同志労働者たちが、本当の革命家として機関銃をもって、食料を求める大きな運動に着手するという立派な計画を実行することを、期待する。
 すなわち、飢えている全員を飢餓から救うという共通の任務のために、かつ自分たち自身のためだけではなく、Tsiurupa に完全に同意して、指示に従って活動する、えり抜きの、信頼できる、略奪しはしない者たちが派遣隊に配置されることを、望んでいる。」(注82)
 農民の不満から判断すると、つぎのことがふつうの現象だった。つまり、都市部から来た武装兵団は、盗んだ生産物の上に乗り込み、徴発した密造酒で酔っ払っている(注83)。
 厳しい制裁を受ける怖れがあったにもかかわらず、このような振舞いは継続したので、最後に政府は、食料派遣隊の隊員に、20ポンドまでの食料を個人のために使うことを、許さなければならなかった。これには、最大限2ポンドのバター、10ポンドのパン、5ポンドの肉が追加して含まれていた(注84)。
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 (04) しかし、制裁による威嚇も、自分のための使用の容認も、機能しなかった。そして、やがて体制は、新しく設立する赤軍に目を向けなければならなかった。
 ソヴィエト・ロシアに強制的軍役を導入する、1918年5月29日の布令が、食料派遣隊の設立と同時だったことは、決して偶然ではない。
 5月26日に案が作成され、翌日に中央委員会によって承認されたレーニンによる指令があった。これは、新しく構成された赤軍の最も早い任務はロシアの農民に対する戦争を繰り広げることであることを、示した。
 「1. 戦争人民委員部は、軍事的供給人民委員部へと改変される。—すなわち、戦争人民委員部の活動の十分の九は、軍が食料を求めることに適合させることに集中すること、および三ヶ月間この戦争を指揮することだ。
 2. 同じ期間、全国土に戒厳令を敷く。
 3. 軍を動員する。健全な分隊を選抜する。少なくとも一定の同じ地域の19歳の者たちを、収穫物を獲得し食料と燃料を集める体系的作戦に就かせる。
 4. 紀律の欠如に対して、死刑を導入する。/…
 9. 調達派遣隊全体について、集団的責任制、および10回の略奪事件ごとの処刑の威嚇を、導入する。」(注85)
 赤軍全体が農民層との闘いに割当てられるのを妨げたのは、チェコ人の反乱だけだった。
 そうであっても、赤軍は、この軍事作戦についてかなりの役割を果たした。
 赤軍が形成されていたとき、トロツキーは、次の二、三ヶ月のその任務は、「飢餓と闘う」ことだろう、と表明した(注86)。これは、「農民と闘う」ということの微妙な表現だった。
 この軍事作戦には褒章は発行されなかったけれども、<muzhik>に対する戦争は、赤軍にとって最初の戦闘体験を与えた。
 最終的には、全国家的な食料調達の闘いで、7万5000人の常備軍〔赤軍〕兵士が、5万人の武装民間人に加わった(注87)。
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 (05) 農民は、力には力で対抗した。
 当時の新聞紙は、政府と農民のあいだの戦闘に関する記事で充ちている。
 村落を行進する軍人および民間人部隊の司令官たちは、「クラクの蜂起」を定期的に報告した。しかし、証拠資料が明確にしているのは、彼らが
遭遇した抵抗は、「富農」のみならず村落農民全体を含む農民層の、自分たちの財産についての自発的な防衛活動だった、ということだ。
 「慎重に検討すればするほど、いわゆるクラクの反乱は、ほとんどつねに一般農民の蜂起だったように思われる。そこにはいかなる階級の区別も見出され得ない。」(注88)
 農民層は都市部での必要物の少なさを気にしておらず、「階級分化」について何も知らなかった。
 農民たちが見たのは、都市部からの武装部隊だった。その構成員は、しばしば、皮ジャケットか何かの軍服かを着た元の農民で、自分たちの穀物を奪うためにやって来ていた。
 彼ら農民たちは、農奴制のもとですら自分たちの収穫物を引き渡すことを強いられなかった。そして今も、そうするつもりがなかった。
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 ②へとつづく。

2899/R.Pipes1990年著—第16章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓④。
 (16) ボルシェヴィキの中には、このような方法を支持する者もいた。
 国家計画委員会の長のRykov は、強制的な穀物配送と、村落協同組合や私的企業との協力を結び付けることを主張した(注46)。
 別の者たちは、政府が市場価格に近い価格(最低で1pud 60ルーブル)で購入し、国民に割引して販売することを提案した。
 しかし、これら全ては、政治的理由で、却下された。
 メンシェヴィキの<Socialist Coulier>が説明することになるように(注48)、穀物の国家独占は、共産主義者独裁が生き残るには必要不可欠だった。ボルシェヴィキは大量の村落労働者を統制外に置いていたので、穀物生産を支配することに頼らざるを得なかった。
 実際に、この資料によると、1921年の初めまでにボルシェヴィキは、農民を国家の被用者にするというOsinsky の提案について、討議していた。この国家被用者は、あらかじめ当局が決めた土地に種を播き、余剰の全てを国家に引き渡す、という条件のもとでのみ土地の耕作が認められることになる。
 但し、この提案は、Kronstadt 暴乱の発生と新経済政策の採用によって、棚上げされざるを得なかった。
 かりに穀物の取引が自由になっていれば、農民はすぐに富を蓄積し、より大きい経済的自立性を獲得し、かつ深刻な「反革命」の脅威を示していただろう。
 このような危険性を含む措置は、体制が疑いなくロシアを征圧したあとでのみ採られることができた。
 レーニンの政府は、国家権力を保持するために必要であるならば。数百万分人の生命を犠牲にする飢饉に、国を委ねる心づもりでいた。
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 (17) 政治的現実はこうであったので、ボルシェヴィキが1918年の前半に食糧事情を改善しようと執った全ての経済的措置は、役に立たなかった。
 ボルシェヴィキは布令を発しつづけた。食料の収集と配送の過程を修正するか、食料「投機者」を威嚇するかのいずれかだった。
 ボルシェヴィキは執拗に、食料「投機者」を、食料不足の結果ではない、最も過酷な制裁を課すべき原因だと見なした。
 このような布令の中で最も見当違いだったのは、レーニンが1917年12月末に草案を作成した布令だった。レーニンは、こう書いた。
 「食料供給の危機的状況、投機を原因とする飢饉の危険、資本家や官僚層の妨害行為、広く覆う混沌が必要とするのは、悪魔と闘う革命的な非常措置だ。」
 しかし、この「措置」は食料不足とは何の関係もなかった。そうではなく、ロシアの銀行の国有化とロシア政府の国内および国外債務の不履行の宣言を内容としていた(脚注)
 Alexander Tsiurupa によれば、供給人民委員部の1300人の職員のストライキはボルシェヴィキ独裁に抗議するもので、仕事を知らない官僚たちと交替させされたために、状況をいっそう悪化させた(注49)。
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 (脚注) Dekrety, I, p.227-8. これの最後に発せられた版では、財政措置についてのレーニンの怪しい理由づけは、割愛された(p.230).その馬鹿々々さをレーニンですら知ったように見える。
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 (18) ボルシェヴィキは穀物の国家独占を放棄するつもりがなく、当時のプレスが予見していた飢饉を防止するための措置をいっさい何も執らなかった。
 国内の危機に直面した帝制時代のように、官僚機構の改造や手続の変更に頼った。
 これらは彼らが本当に関心をもつ問題に直面した際に採用したものではなかったので、飢餓は彼らの関心対象に含まれないとの結論から脱するのは困難だった。
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 (19) 2月13日、トロツキーが、供給非常委員会の長に任命された。
 彼の任務は、「供給独裁者」として、革命的な非常措置によって都市への食料の流路を整えることだった。この場合に「革命的」とは、婉曲に軍事力の行使を意味していた(注50)。
 しかし、彼が戦時大臣に任命されていたとき、ほとんど責任を負わなかった。供給非常委員会で彼が何かをしたとの記録は、残っていない。
 体制は、国じゅうに、飢えているペテログラードとモスクワを助けよとの訴えを発しつづけた(注51)。国内および外国の「ブルジョアジー」が食料不足の責任があるとする激しい非難で彩られた訴えだった。
 1918年2月、政府は、「運び屋」に対する死刑を命じた(注52)。
 3月25日には、交換の助けで村落地域から食料を引き出そうと試みた。
 政府は、200万トンの穀物と交換に消費用品を購入するために、11億6000万ルーブル—ソヴィエトの出版業の産額の二週間分—を計上した(注53)。
 しかし、この計画が想定する消費用品を見つけることができなかったので、この企ては失敗した。
 4月、現実主義に多少は似た考えから引き出して。政府は、余剰がある地域から穀物を運ぶ新しい鉄道線路を建設する計画を立てた(注54)。
 だが、1メートルの線路も敷かれなかった。かりに敷設されていても、何の違いにもならなかっただろう。
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 (20) 1918年5月の初めまでに、ボルシェヴィキは食料不足の解消のためにもう何もすることができなかった。都市部や工業地域での供給の状況は、警告を発する段階にまで達していたからだ。
 最も多い配給を受けていた労働者たちが飢えてきている、と報告する電報が、クレムリンにどっと届いた(注55)。
 ペテログラードで、1月には自由市場で5ルーブルだった一塊の1ポンド・パンは、今では6〜12ルーブルを要した(注56)。
 何かがなされる必要があった。
 専門家は主張し、工業労働者が要求したのは、穀物の取引を市場の力の自由な働きに委ねることだったが、これは政治的理由で、受け入れ難かった。したがって、別の解決方策を見出す必要があった。
 解決策は、軍事力を用いて村落を侵略し、征圧することだった。
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 第三節、終わり。第四節「村落への軍事作戦の開始・1918年5月」へ。

2898/R.Pipes1990年著—第16章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓③。
 (13) 1918年前半の村落地域の写真を当時のプレスが掲載しているが、それは救いようのない恐怖だ。
 Riazanskaia zhizn’ の3月初めの記事は、Riazan の食料不足はとくに酷かったので、代表的だとは言えないかもしれない。しかし、ロシアの村落がボルシェヴィキによる支配のもとで急速に劣悪化し、原始的アナーキーへ突入したことを示している。
 この地方の農民たちは、政府の酒類店舗から強奪し、長らく泥酔の状態にあった。
 彼らは老人や少女たちに助けられて、酒を飲んで大騒ぎをしつつ、闘い合った。
 静かにさせておくため、子どもたちにはウォッカが無理に与えられた。
 没収あるいはインフレによって貯蓄を失うのを怖れて、通常はブラックジャックで夢中になって賭けをした。ふつうの1人のmuzhik が一晩で1000ルーブルを失うのは、珍しくなかった。
 「老人は、最後の審判の絵を買う。
 農民たちは、心の奥深くで、『世界の終わり』は近い、と信じた。…
 そして、地獄が来る前に、地上に存在し、努力して最近に築かれたもの全てが、破壊されつつある。
 彼らは全ての物を粉砕したので、騒音が地区じゅうに鳴り響く。」(注42)
 食料事情がとくに絶望的な地帯では、農民は「飢餓騒乱」を展開し、視野に入る全ての物を破壊した。
 Novgorod 地方の一地区でのそのような騒乱のあとで、地方の共産党当局は、1万2000人の住民に対して、450万ルーブルの「寄付」を命じた。農民たちはまるで、征服された植民地の原住民であるかのごとくに(注43)。
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 (14) 飢餓は危険をもたらした。しかし、ボルシェヴィキの立場から見ると、積極的な面もあった。
 第一に、食料取引に関する国家独占は。食料供給のためには有害だったとしても、体制が配給制度を保持し続けるのを可能にした。配給制度は、都市住民を統制し、体制支持者を有利に扱うのに役立った。
 第二に、飢餓は住民の意気を沈滞させ、抵抗する意思を奪った。
 飢餓の心理学というものは、よく知られていない。だが、ロシアの観察者たちは、飢餓は民衆を権威ある当局により従う気持ちにさせる、と記した。
 あるボルシェヴィキはこう観察した。
 「飢餓は、創造性の貧しい同伴者だ。
 盲目的破壊性、陰鬱な恐怖、屈服したい気分、連れて行き組織してくれる誰かに運命を委ねたい気持ち、これらを飢餓は掻き立てる。」(注44)
 飢えている者たちは、かりに闘うことができも、食料を求めてお互いに競い合うことに活力を費やした。
 このような政治的無関心は、政治的抑圧以上に、従属性を高めるのに役立つ。
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 (15) ボルシェヴィキは、飢餓がもたらす政治的利益に気づいていた。このことは、唯一の実現可能な方法で飢餓から救うことを彼らは拒んだことで、証明されている。その方法とは、のちにロシアを支配する自信を得た1921年に採用することになる方法、すなわち穀物の自由市場の再導入だ。
 この措置が実施されるとすぐに、生産は増大し、戦争前の高さを回復した。
 これが実施されるだろうというのは、後知恵でのみ分かるのではない。
 1918年5月、穀物専門家のS. D. Rozenkrants はジノヴィエフに対して、食料不足は「投機」によってではなく生産する動機の欠如によって起きている、と説明した。
 穀物の国家独占のもとでは、農民は、自分たち自身の直近の必要以上に穀物を栽培する動機をもたなかった。
 余剰の耕作地に根菜類(じゃがいも、にんじん、ビート)を植えて自由市場に出すことで、それは当局も認めたことだったが、農民はそれらの処理に関してかつて知っていた以上の金銭を稼いだ。
 このようにすれば自由市場で根菜類1pud当たり100ルーブルを得られた。1desiastina の耕作地で5万〜6万ルーブルを稼いだ。
 馬鹿げた固定価格で国家に没収させるだけのために、いったい誰が穀物に手を煩わせるだろうか?
 Rozenkrants は、もし政府がより事業経営的感覚をもつ政策を採用すれば、食料問題は二ヶ月で解決するだろう、と自信をもって表明した(注45)。
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 ④につづく。

2894/R.Pipes1990年著—第16章⑤。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓①。
 (01) 革命の経済的社会的推移は、こうして、ボルシェヴィキが最初から直面していた諸問題を悪化させた。
 ボルシェヴィキはすでに圧倒的に「プチ・ブルジョア」である国で「プロレタリアートの独裁」を宣言したのみならず、彼らの政策をいっそうその方向に向けた。
 政府は1918年の初夏に村落を攻撃する決定を下した背景には、以上のことがあった。
 この決定がなされた正確な事情は知られていないが、利用可能な情報は十分で、その先例と内容について概述することは不可能でない。
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 (02) 十月のクーの場合もそうだったように、ボルシェヴィキは、村落地帯への攻撃を開始するに際して、偽りの目標を掲げて行動した。
 彼らの本当の目的は、農民層を支配することによって十月のクーを完了させることだった。
 しかし、これは知られるスローガンにはならなかっただろうから、ボルシェヴィキは農民層に対する実力行使を伴なう運動(campaign)を、飢えている都市部のために「クラク」〔富農〕から徴発する、という表向きの目的でもって、実行した。
 もちろん、食料不足はきわめて現実的な問題だった。しかし、後述するように、村落地帯から供給を引き出す、容易で効果的な方法があった。
 ボルシェヴィキ内部の議論では、権限ある機関は率直に、食料徴発は副次的な仕事だ、と認めていた。
 こうして、ボルシェヴィキの秘密報告書は、全ての村落に貧民委員会を設置することを命じる布令に言及して、採られるべき措置を、つぎのように説明した。
 「村落の貧民委員会の組織化に関する7月11日の布令は、組織化の性格を明確にし、それに供給するという役割を与えた。
 しかし、その本当の目的は、<純粋に政治的>だ。
 村落での階層化を実現すること、この層に積極的な政治生活を送らせること。この層はプロレタリア社会主義革命に適合しそれを実現するする能力をもつ。また、村落ソヴェトの支配権を握って、ソヴィエトの社会主義建設に反対する機関に変えている、そのようなクラクや豊かな農民の経済的社会的影響力から自由にすることで中間的勤労農民をこの途へと導くことすらできる。」(注30)
 言い換えると、都市部のための食料の摘出(「供給という役割」)は、社会的憎悪に火をつけてボルシェヴィキを村落に送り込む、という政治的活動を覆い隠す偽装(camouflage)だった。
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 (03) 革命前のロシアでは、市場に届く大量の食料は、大規模の私的な土地と富裕な農民の農場のいずれかから来ていた。いずれも、労働者を雇用していた。
 中間のおよび貧しい農民は、生産する食料のほとんど全てを自分たちで消費した。
 全ての貴族の土地や農民が私的所有物として保持した土地の多くが没収され、村落共同体に配分された。これは政府が雇用労働を禁止したことで(広範囲で無視されたとしても)いっそう進められた。そして、村落共同体への土地配分は、非農業国民への食料の主要な供給源を奪い去った。
 田園地帯のロシアが自己充足的な前資本主義時代に移行するに伴ない、非農業国民は飢餓に直面した。
 このことだけで、ボルシェヴィキのクーの後で起きた過酷な食料不足に寄与した(脚注1)
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 (脚注1) かつて私的に所有された農業用地の約三分の一—耕作されている土地面積の3.2パーセント—は主として「技術的」文化に用いられた大規模不動産だったが、国家が運営する集団農場のために奪い取られた。それらは、理論的には、都市部での食料不足を緩和するのを助けることができただろう。しかし、その在庫は地方の農民によって奪われていたので、できたとしても、ほとんど助けにならなかった。
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 (04) このような逆境にあっても、農民は都市住民に食糧を供給できていたかもしれない。主な理由がどのように見えようとも、ボルシェヴィキが、農民から余剰を手放すという気持ちを奪わなかったならば。
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 (05) 臨時政府が採択してボルシェヴィキが維持した数少ない措置の一つは、1917年3月25日の法律(law)だった。これは、穀物取引の国家独占を定めていた。
 この法律の条項によると、生産者が個人的な需要を充足し、種として備えたあとで残った全ての穀物は国家に帰属し、固定の価格で国家機関に売却されなければならなかった。
 引き渡されなかった余剰の穀物は、半額で徴発された。
 臨時政府はこうして収穫の14.5パーセントを獲得した。だが、そうであっても、臨時政府に権力があるあいだは、穀物取引は従前どおりに行なわれた。
 しかし、ボルシェヴィキは、この規則をいっそう無慈悲に実施し、穀物やその産物を消費者に販売する行為全てを、厳格な制裁に服すべき「投機」として扱った。
 ボルシェヴィキ支配の最初の数ヶ月、チェカはその活動のほとんどを、「運び屋」農民(meshochmiki)を追及し、彼らの商品を没収することに費やした。チェカはときには、行商する農民を投獄し、処刑すらした。
 妨害されなければ、農民たちは続行し、数百万人に食糧を与えた。
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 (06) ボルシェヴィキ政府は、農民が余剰の穀物を、インフレによっていっそう馬鹿げたものになっている価格で政府機関に売却するよう、強く要求した。
 1918年8月に公定価格は、ライ麦1pud(16.3キログラム)当たり(地域によって異なり)14〜18ルーブルと設定された。一方、自由市場では、1pud 当たりモスクワで290ルーブル、ペテログラードで420ルーブルで売れていた(脚注2)
 1919年1月に統制下に入った肉やジャガイモのようなその他の食品についても、公定価格と自由市場の価格には同様の乖離があった。
 農民たちは、このような価格政策に対して、穀物を隠蔵するか、耕作地の面積を少なくすることで抵抗した。
 穀物の収穫量が低下したのは、しごく当然のことだった(注32)。
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 (脚注2) Kabanov, Krest’ianskoe khoziaistvo, p.159. 生産物に対してこのような非現実的な価額を受け取った農民たちは、毎日少なくなっている工業製品(マッチ、釘、灯油等)を自由市場の価格で購入しなければならなかった。
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 ②へとつづく。

2892/R.Pipes1990年著—第16章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき、
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 第二節/農民が1917-18年に得たもの·失ったもの②。
 (08) しかし、この少ない数字ですら、配分からの利益を過大評価していた。
農民が1917-18年に得た土地のかなりの部分(3分の2)は、彼らは以前から賃借りしていたからだ。
 したがって、土地の「社会化」は、地代の支払いを免除したほどには、利用できる耕作可能地を増加させなかった(注17)。
 一年で7億ルーブルと推算されている地代支払いの免除に加えて、共産党体制によって、農民土地銀行への債務も農民たちは取消された。それで得た利益は、140万ルーブルに昇った(注18)。
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 (09) 農民たちは土地への新しい権利を懐疑的に見ていた。新政府はいずれ集団制を導入するつもりだ、と聞いていたからだ。1918年4月に発せられた土地の社会化に関する布令は、村落共同体への土地の移行は「暫定的」または「一時的」(vremennoe)だと述べていた。
 農民たちはいつまで所持し続けることができるかと懸念し、まるで翌年の収穫が終わるまでのように行動することに決めた。
 そのゆえに、村落共同体が獲得した土地を一括するのではなく、別々に維持した。新しい土地の引き渡しが要求されても、彼ら自身の古くからの割当土地を保持できるようにするためだった(脚注1)
 その結果として、嘆かわれもした細片農業(strip farming, cherespolositsa)は増大した。
 多くの農民たちが、新しい割当土地に行くために、15、30、そして60キロメーターも、移動しなければならなった。その距離があまりに大きすぎれば、彼らは単直にその割当土地を放棄した。
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 (脚注1) 1918年10月から1920年11月までTambov 地方の村落に住んだある知識人によると、農民たちは、皇帝によって与えられたのではないがゆえに、獲得した土地が本当に彼らのものであるかを疑っていた。A. L. Okni nskii, Dva goda sredi krest’ian(Riga, 1936), p.27. 得た土地を分け与えることが強要された場合、貧しい農民に割当てられた土地がそれに使われた。
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 (10) ロシアの農民が革命に由来して得た経済的利益について、述べた。
 彼らは、決して自由ではなかった。
 歴史家たちは、農業革命が農民にもたらした代価を、通常は無視する。それは相当に大きかったと言えるにもかかわらず。
 この代価には、二つの性格があった。第一は、インフレによる貯えの喪失。第二は、農民に(村落共同体のではなく)私的所有権があるとして所持していた土地の喪失。
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 (11) ロシアの農民層は、革命以前に、相当の貯えを蓄積してきた。そのいくぶんかを家で所持し、残りを国立貯蓄銀行(sberegatel’nye kassy)に預けた。
 こうした貯蓄は、農民が高騰する食糧価格から利益を得た幸運な戦時と革命の第一年のあいだに、相当に大きくなった。
 十月のクーのときに農民の貯蓄がいかほどだったかを正確に計算することは不可能だ。
 だが、伝えられる推算を補完するものとしての公式の資料から、若干の考えが生じる。
 1914年の初めに、国立貯蓄銀行は、15億5000万ルーブルを預かっていた(注21)。
 1914年7月と1917年十月の間に、50億ルーブルを追加した、と推計され、かつ、これのうち60-75パーセントは村落の預金者に由来すると考えられている(注22)。
 十月のクーの時点で、農民は、貯蓄銀行におよそ50億ルーブルを預けていたと推計し得る。これに、家庭で所持していた金銭が加えられなければならない。
 ボルシェヴィキは、民間銀行を国有化する布令の対象から貯蓄銀行を除外した。そのために理論上は、農民その他の小預金者は、自分たちの金銭を出し入れすることができた。
 しかし、ほどなくして、インフレが預金を無価値にした。まるで完全な没収があったごとくに。
 前の章で述べたように、ボルシェヴィキは、貨幣の価値を下げることを意図的にかつ体系的に進めた。彼らが支配した最初の5年間で、ルーブルの購買力は、100万分の1に下落した。このことで、紙幣はただの色が付いた紙になった。
 この結果として、ロシアの農民たちは、地主の土地を無料で受け取った以上にはるかに、犠牲を払った。
 農民たちは、使用することが認められた2100万<desiatiny>の代わりに、銀行預金だけで推計で50億ルーブルを失った(脚注2)
 現金を家の中に隠したり、地中に埋めたりして加えて70-80億を持っていた、との当時の推計を受け入れるとしても、1エーカーの耕作可能地(0.4 desiatiny)という平均的な割当土地の代わりに、農民たちは、1918年以前の64.4ルーブルを支払っていた。
 革命前、この土地の平均的価格は、64.4ルーブルだっただろう(脚注3)
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 (脚注2) 戦前のルーブルは金0.87グラムの価値があったので、この貯蓄で3900トンの金塊を購入できただろう。
 (脚注3) 1906年〜1915年に土地銀行が地主から購入した資産には、平均して、1 desiatina 当たり161ルーブルを要した。P. I. Liashchenko, Istoriia narodnogo khoziaistva SSSR, II, 3rd ed.(Leningrad, 1952), p.270. 農民家庭内の貯蓄の推計は、つぎによる。NZh, No. 56/271(1918年3月31日), p.2.
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 (12) 農民たちが新しい割当土地を得るためには、もうひとつの態様の犠牲を払わなければならなかった。
 ロシアでの私的に所有された土地について語るとき、土地布令が没収と配分の対象として指定した地主(landlord,pomeshchiki)、帝室、商人の土地を思い浮かべがちだ。
 しかし、革命前のロシアでの私的な農業用地(耕作地、森林、牧草地)の多く(三分の一以上)は、農民層の財産だった。それらは個人によって、またはより通常は団体によって、所持されていた。
 実際に、革命の直前には、農民とコサックたちが「地主」とほとんど同じ広さの土地を保有していた。
 1915年1月のヨーロッパ・ロシアでの土地(耕作地、森林地、牧場)である9770万<desiatiny>のうち、3900万、あるいは39.5パーセントは地主(貴族、官僚、将校)が、3400万(34.8パーセント)は農民とコサックたちが所持していた(注23)。
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 ③へとつづく。

2891/R.Pipes1990年著—第16章②。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第16章・村落への戦争>の試訳のつづき。
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 第二節/農民が1917-18年に得たもの·失ったもの①。
 (01) ボルシェヴィキによる村落への攻撃の成功と失敗を理解するためには、ロシアの村落経済への革命の影響を考えることが必要だ。
 以前に記述したように、ボルシェヴィキは1917年十月に、自らの農業綱領は傍に置いて、土地の国有化に集中した。それは農民層にもっと人気があったエスエルの土地綱領を支持していたからでもあった。エスエルの土地綱領は、補償なしでの土地の収用、小農民の帰属資産を除く、私的に所持された全ての土地の村落共同体への配分、を訴えていた。
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 (02) 中央ロシアの農民たちが土地布令を歓迎したことに、争いはない。それは、彼らの古くからの夢だった「黒の分配」を実現するものだった。
 私的な所持物が取り去られそうだったがゆえに迷っていた農民たちですら、避け難いこととして従った。
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 (03) しかし、このような基本的に煽動的で戦術的な措置がロシア農民の経済的地位を有意義に改善したのか、あるいは国全体の利益になったのかは、全く別の問題だ。
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 (04) 動かない客体である土地は、もちろん、たまたま存在している場所でのみ分配され得る。
 革命前のロシアでは、土地布令によれば収用の対象となる大量の私的な(非村落共同体の)土地は中央の大ロシア地域にではなく、帝国の周縁部に位置していた。前者はボルシェヴィキが支配しており、人口過剰の影響を最も受けていた。後者はBaltic 地域、西部地方、ウクライナ、北コーカサスで、これら全てが1917年十月以降はボルシェヴィキの支配から外れていた。
 その結果として、ボルシェヴィキ支配地域で分配可能な土地がある部分は、農民の期待を充足するには相当に不足していた。
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 (05) しかし、この地域でも、農民は奪取した土地を外部者(inogorodnye)にも近隣の村落共同体出身の農民にも分け与えることを拒んだので、公正な土地の配分を行なうのは困難だった。
 以下は、土地の配分が実際にどのように行なわれたかを示す、当時の文章だ。
 「農業問題は、単純な方法で解決することができる。
 地主が持つ土地の全体は、村落共同体の財産になる。
 全ての村落共同体は、従前の地主から土地を受け取る。そして、かりにある共同体には多すぎ、近隣の共同体には不足しているとしても、いかなる外部者にも、一片なりとも譲り渡さない。…
 (余剰の)土地があれば、別の村落共同体出身の農民の手に移るのでないかぎり、元の地主に譲る方をむしろ選ぶ。
 農民たちは、地主はその土地を使用するかぎりはなおも何がしかを稼ぐことができ、必要となれば土地を手放すだろう、と言う。」(注09)
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 (06) ロシアの農民層が1917-18年に耕作可能な土地をどの程度獲得したのかを決定するのは、容易でない。見積りの幅は広く、小さくて2000万から大きくて1億5000万<desiatiny>〔土地面積の単位—試訳者〕に及ぶ(注10)。
 大きな障害は、「土地」(zemlia)という言葉の曖昧な使用方法にある。
 革命後に行なわれた種々の統計調査で採用されているように、「土地」はきわめて異なる物を指し示している。耕作可能な土地(pashnia)というのが最も有益な使用方法だが、しかし、牧草地、森林、経済的価値のない土地(荒野、沼地、ツンドラ)も指し示していることがある。
 1億5000万<desiatiny>という狂信的な数字に辿り着くことができる、というのは、「土地」という意味のない項目の中に以上のような雑多な対象を一まとめにすることにすぎない。
 この1億5000万という数字は1936年に初めてスターリンによって採用され、長らく、共産主義の文献上は拘束的だった。革命の結果としてロシアの農民が獲得した、と主張されている(注11)。
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 (07) 信頼できる統計資料は、はるかに穏便な結果を示している。
 1919-20年に農業人民委員部が編集した数字が示しているのは、農民たちは全部で2115万<desiatiny>(2327万ヘクタール)を受け取った、ということだ(注12)。
 この土地は、きわめて不公平に分配された。
 ロシアの村落共同体の53パーセントは、革命によっていかなる土地も獲得しなかった(注13)。
 これはほとんど、村落数(54%)に対応している。同じ資料元によると、これらの村落は土地の再配分の結果について、「不幸だ」と感じた、と言ったという(注14)。
 村落のうち残る47パーセントは、きわめて不平等な分け前で、耕作可能な土地を獲得した。
 数字が存在する34の地方のうち、6地方の村落共同体は、一人当たり10分の1<desiatiny>以下しか受け取らなかった。
 12地方の村落共同体は、10分の1から4分の1を得た。
 9地方では、4分の1から2分の1を得た。
 4地方の農民たちは、2分の1から1<desiatina>を得た。
 残る3地方でのみ、農民たちは一人当たり1から2を得た(注15)。
 全国的には、農民一人当たりの平均的な耕作可能土地の共同体への配分は、革命前は1.87であったところ、2.26<desiatiny>へと上がった(注16)。
 これは、成人(edok)一人当たりの耕作可能土地が0.4<desiatina>または23.7パーセント増加したことを示しているだろう。
 最初に1921年に引用されたこの数字は、最近の研究で確認されてきている。
 その中で最も権威のある研究は、いくぶんか曖昧に、平均的な農民が受け取ったのは0.4<desiatina>を「超えなかった」、おおよそ1エーカーだった、と述べている(脚注)。この数字は、黒の大分配から農民が期待したよりもはるかに少なかった。
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 (脚注) V. R. Gerasimiuk, ISSSR, No. 1(1965), p.100. V. P. Danilov, Pereraspredelenie zemel’nogo fonda Rossii(Moscow, 1979), p.283-7 〔引用元省略—試訳者〕は、革命の結果として農民の所持分は増加した、と言う。しかし、この数字からは、集団農場やその他のソヴィエト農場が取得した土地を控除しなければならない。19世紀後半の急進的知識人は、農民たちは黒の大分配によって5から15 desiatiny を得られると望んでいる、という農民の声を収集した。V. L. Debagorii-Mokrievich, Vospominaniia(St. Petersburg, 1906), p.137.および、G. I. Uspenskii, Sobranie Sochinenii, V(Moscow, 1956), p.130.
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 第二節・②へとつづく。
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